14日(水)夜、久しぶりに静岡県朝鮮通信使研究会に参加しました。講師はおなじみ朝鮮通信使研究家の北村欽哉先生。いつも教科書では学べない斬新で刺激的な歴史観を与えてくださるのですが、今回はサッカーW杯と参院選の直後で、ナショナリズムや為政者の資質を考えるタイミングにふさわしいお話でした。
今回のお話の主人公は足利義満。東大准教授の小島毅さんが書かれた『足利義満―消された日本国王』(光文社新書)をベースに、義満を、600年前に東アジアで日本が日本として生きて行くため、日本の「国のかたち」を明確に構想した政治家として解説していただきました。…想像もしなかった新しい義満像に目からウロコがぼろぼろ落ちました!
皇国史観では、後醍醐天皇に不忠を働いたとして祖父・足利尊氏は国賊扱いされ、義満自身もキンピカ豪邸(金閣寺)をひけらかし、中国・明には「自分が日本国王」だと奢り高ぶった勘違い将軍との評価。実像がよくわからず、イメージだけが一人歩きしていた人物です。私自身も、朝鮮通信使といえば家康以降のことしかよく知らず、金閣寺を建て、漫画「一休さん」に出てくるとぼけた将軍さまのイメージしかない義満が、通信使とどう関わっているのかピンと来ませんでした。
義満が将軍職に就いた1368年というのは、中国に明王朝が建国された年。義満が南北朝を統一した年(1392)にはのちの朝鮮国太祖李成桂が高麗国王に就き、義満が亡くなった1408年5月には、偶然、李成桂も亡くなっています。日本は南北朝争乱がやっと落ち着いた頃、朝鮮国も、高麗王朝末期の王権騒乱が治まり新政権がスタートしたばかり。そこに、明王朝建国という東アジア国際秩序の大変動が起き、日本も朝鮮国も、やっと国内を落ち着かせたと思ったら息つく暇なく外交戦略を練り直さねば・・・という状況でした。
とくに、14世紀中ごろから日本海を挟んで倭寇(日本人の海賊&密貿易者とそれに加担した朝鮮人や中国人)が大暴れをしていて、義満は、明王朝と朝鮮国から「倭寇をなんとかしろ」と強く要求されていました。義満は正確な国際情勢を得るため、積極的に外交活動を展開し、1375年からはほとんど毎年、朝鮮王朝から“通信使”を迎えています。
また彼は、明の洪武帝のリーダーシップ・・・明国内では一世一元(皇帝一代につき年号一つ)を敷き、対日的には前政権(元)が比較的無頓着だった貿易や文化交流を厳しく規制する動きを、ブレーンである僧や遣明使を通して敏感に察し、超大国との付き合い方を冷静に分析・判断します。
“世界の中心に中国があり、周辺国は中国皇帝から王号を与えられ臣下となる”・・・中華思想をベースにしたそんな冊封体制が、当時の“国際常識”でした。日本は聖徳太子以来、一貫して「中国への使節派遣は朝貢ではない」という立場を貫いていましたが、向こうはあくまでも朝貢国あつかい。中国の史書で日本の君主を呼ぶ時は「帝」ではなく「王」です。
義満は、1394年(37歳)のとき将軍職を息子義持に譲り、朝廷の官職である太政大臣に就き、翌95年には早くも辞任して出家してしまいます。そして95年に西園寺家から取得した北山山荘を4年がかりでリニューアルし、自らの政治拠点にして当代一の迎賓館・北山第を造営します。鹿苑寺金閣はこの一角に造られた楼閣で、金箔20㎏を使用したと伝えられますが、今の価値にすると6,000万円程度。迎賓館の建築費用としてみれば、いわれるほど贅沢じゃない気もしますね。
ではなぜ見た目にあんな派手なデザインにしたのか。・・・彼は、あえて明王朝の冊封体制に入ることで国際舞台に堂々と復帰し、外貨を得て国を建てなおすというビジョンを持っていました。今風にいえば、東アジア経済圏への参入というわけです。金閣は迎賓館の目玉として賓客をもてなす格好の舞台だったようです。
1402年からは明の使節が北山第の義満の元へ毎年のようにやってきます。義満は明から『日本国王 源道義』と呼ばれます。そのことが、のちのち、「天皇を差し置いて自ら日本国王を名乗った不埒者」という義満批判につながったのですが、当時の外交の常識として、「国王」の称号は超大国明が国際秩序を守るため周辺国の代表権を持つ者に与えた、今でいえば総理大臣兼国連全権大使的な役職だったのでは、と想像します。あるいは、日本が生き残るために義満にしてみれば、洪武帝の後ろ盾を利用したぐらいの気持ちだったかもしれません。
こういうことをやりやすくするため、彼は征夷大将軍や太政大臣といった既存の地位に固執しないで、出家というフリーハンドの立場を選んだのでしょう。今もいますよね、党や内閣では無官ながら、影で糸ひく大物政治家・・・。
明から洪武銭や永楽銭を日本に流入させた「勘合貿易」によって、京の都には月6回の六斎市(マーケット)が立ち、経済成長を遂げます。奈良や平安時代に造られた貨幣は量が少なすぎて、平氏が中国から宗銭を導入してマーケットの基盤を作り、おかげで鎌倉幕府は潤った。しかし日本国内では太閤秀吉の時代になるまで満足な貨幣を作ることが出来なかったんですね。義満の時代に中国銭が東アジアに大量に流通し、経済が発展したのは、ユーロ経済圏の状況とよく似ていています。
北村先生は「義満は、現代の政党スローガン風にいえば“交流なくして発展なし”を主張し、超大国と渡り合うため、強引ではあるが冷静かつ現実的に外交手腕を発揮した」「義満が中国の冊封体制に組み込まれたといっても、今、超大国アメリカの影響下に甘んじる日本と、どれだけ違うのか」と締めくくります。
今の政治家に「尊敬する歴史上の人物」を訊くと、徳川家康や大久保利通といった名前を上げる人が多く、相変わらず日本史といえば戦国時代や幕末明治維新に人気が集中するんだなと思います。
・・・「足利義満」の名を上げる政治家がいたら、要注目、かもしれませんね!
とにもかくにも、北村先生が推薦してくれた小島毅氏の『足利義満―消された日本国王』(光文社新書)、今、私も夢中で読んでいるところです。