6日(土)13時から、静岡市中央福祉センターで開かれた人権シンポジウム『障がい者の人権とマスコミ報道~とりはらおう“心の壁”』に参加しました。以前こちらでご紹介した静岡市障害者協会と静岡人権フォーラムの共同企画によるシンポジウムです。
外は絶好の行楽日和で、隣接する駿府公園からは大道芸ワールドカップの賑わいが響いてきます。世間がお祭り騒ぎしているすぐ横で、真剣に人権を考えるって、なかなかクールじゃない、なんて思ってしまいましたが(苦笑)、基調講演をされた静岡福祉大学の山城厚生教授は「来年はぜひ大道芸ワールドカップの会場でやりましょう」とけしかけていました。
山城教授は、音楽活動をしているケアセンター通所者の女性が、ケーブルテレビの取材を受けた際、顔のアップがオンエアされ、一緒に取材を受けた他の通所者はテレビに映され喜んでいたが、彼女は「死ぬしかない」と思い詰めたという話を例に挙げ、障がい者とひと口に言っても様々な人がいて、マスメディアの取材には多くの細かな配慮が必要だと述べます。
また、ある学校でサッカーゴールが転倒して生徒が亡くなったとき、マスメディアが学校側の責任を問い詰め、校長が自殺したという例では、マスメディアが被害者や加害者を必要以上に追及し、追い詰め報道をする怖さを指摘されました。
さらに「日本人は、革命によって自由や人権思想を勝ち取ったフランス人とは違い、いつのまにか与えられたという感覚ではないか」と。これには静岡人権フォーラム代表の金両基先生が、「在日の人々は、さまざまな努力をして自分たちの生活権を勝ち得てきたではないか」と異を唱え、人権を語るって、大学教授といえども配慮が行き届かない難しいものなんだなぁと痛感しました。
実は前夜、酒の席で偶然、在日の方とご一緒し、明日こういうフォーラムへ勉強に行ってくると話したら、その方は「“人権”は難しいよ・・・、僕ら、近寄らないようにしてるんだ」と実感を込めて応えていました。
障がい者や外国人の方々が感じる、万国共通ともいえるものから、日本人のお国柄やメンタリティからくるもの、地域、学歴や職業や家柄からくるものなど、我々が直面する人権差別の問題は実に多様です。今回でいえば、障がい者の人権というタイトルがあるにもかかわらず、在日の方が聞けば、「オレたちのほうが苦労してるんだぞ」って思いになるでしょうし、障がいにも精神、知的、身体的と様々あるので、当事者にしてみれば「一緒くたにしないでほしい」と思うかもしれません。
今回、マスコミ側のトークゲストは誰も来ていませんでした。8月の意見交換会のときは事務局側もマスコミ側の出席者をぜひ呼びたいと話していましたが、実現しなかったようです。マスコミ側も「人権を真正面から考えるのは難しい。僕ら、近寄らないようにしているんだ」と思っているんでしょうか。
でも私はこういうシンポジウムが決して無駄だとは思えません。
グループディスカッションの時間で、同じグループになった介護支援者の方から、車いすで乗れる介護車両のことを「あれは障がい者のためというよりも、介助する側が楽に乗り降りさせるための車」と聞いて驚きました。車いすのままで乗ると、車内天井が近くて少しでもガタガタすると頭をぶつけたりして乗り心地はよくない。車いすから降りて自分の手や足で車に乗り降りすることはリハビリになるし、普通に車のソファーに座って移動できるならそうしたいというのが当事者の本音だと。我々からすれば、「車いすのまま乗り降りできるから便利じゃん」と思うだけで、彼らにとっての乗り心地なんて考えたこともない。
ざっくばらんなディスカッションの中から、相手の立場や考えや感じ方を慮ることの大切さに気づく。・・・立場の違う者同士が同じ空間に集って議論し合うって、多少の摩擦はあっても、それ以上に得るものは大きいと実感します。
マスコミや報道機関に属して高給を得ている者ならば、こういう問題に向き合う勇気や摩擦を恐れない心を持って然るべきと思うのですが、一介のローカルフリーライターの遠吠えに聞こえますかね(苦笑)。
人権は、人権を傷つけられた経験がない人間にとっては改まって意識することはなく、意識せずに他人を傷つけることもあるでしょう。自分にもそういう経験がありました。このテーマのシンポジウムに、マスコミ人が参加しないのは本当に残念ですが、それでもシンポジウムはぜひ1回といわず、続けて行くべきだとアンケートに答えておきました。
主催者ならびに事務局のみなさま、おつかれさまでした。