杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

「Tabi tabi」創刊~港が生まれた日

2017-03-20 21:09:31 | 歴史

 3月17日に静岡新聞社から新しい旅の情報誌『Tabi tabi』が創刊されました。すでにお手に取ってご覧になった方もいらっしゃると思いますが、出版不況といわれる昨今、オール広告のフリーペーパーでもなく、クーポン付きのガイド本でもなく、プロの編集者とライターとデザイナーとカメラマンががっつりスクラムを組んで制作し、営業スタッフがまっとうに広告を集め、書店に売り込んで発売にこぎつけた雑誌。地元で踏ん張るクリエイターたちが力を発揮できる媒体を…と切望していた身としては、待ちに待った創刊でした。

 創刊号のテーマは「今日は、渚へ。」海岸線が延べ500㎞もある静岡県の海辺にスポットを当てた“読ませる旅ものがたり”が凝縮されています。佐野真弓さん、永野香里さん、鈴木ソナタさん、増渕礼子さん、山口雅子さん・・・ライター陣はほぼ同世代で、それぞれに静岡のこの業界で踏ん張ってきた“同志”たち。各ライターの特性を知り尽くした編集リーダー田邊詩野さんのキャスティングが奏功し、各コーナーをキラキラ輝かせています。匿名での請負業務が多い地方のクリエイターにとっては、全頁、署名記事にしてくれた静岡新聞社の“英断”にも心から感謝です。


 さて私は、キラキラとした海辺の美観満載のメインスキームから外れた、巻末の「しずおか今昔物語」という歴史コーナーを担当させていただきました。他のページのことは完成本を見るまで知らず、書店で初めて手に取ったときは、自分のコーナーのあまりにも異質な印象にビビッてしまいました。内容が硬質だし文章もとっつきにくいのは他ページと比べても顕か。全体の足を引っ張っているんじゃないかと冷や汗をかきましたが、私の原稿にGOサインを出してくれた詩野さんの“英断”には感謝の言葉もありません。

 『杯が満ちるまで』の担当でもあった詩野さんは、当時、容赦のないダメ出しで鬼編集者ぶり(失礼!)を発揮されましたが、今回はほぼノーチェック。面倒な写真収集もほとんど一手に引き受けてくださいました。調査と執筆には半年ぐらいかけましたが、ほとんどストレスを感じることなく校了でき、待ちに待った創刊の日。仕事帰りに書店に立ち寄ってパッと開いて絶句して冷や汗かいて(笑)、それでも少し時間が経つと、こんな硬い記事にもページを割いてもらえたことにジワジワ感激がこみ上げてきました。

 ちょうど主宰する駿河茶禅の会で、会員から寄せられた「MY禅語」を編集しており、自分は何にしようかと書棚を探して見つけたのが、菜根譚のこの言葉でした。


「文章做到極處、無有他奇、只是恰好」

(ぶんしょうは、きょくしょになしいたれば、ほかのきあることなく、ただこれ、かっこうのみ)

「人品做到極處、無有他異、只是本然」

(じんぴんは、きょくしょになしいたれば、ほかのいあることなく、ただこれ、ほんぜんのみ)

 文章というものは、最高の域に達すると、特別に珍しい技法があるものではなく、ただぴったり合った表現をするだけである。人格も、最高の域に達すると、特別に変わった点があるものではなく、ただ自然のままだけである。(岩波文庫「菜根譚」今井宇三郎訳注より)

 

 自分の文章が硬いだとか、他の人と比べてどうだ・・・なんてことにこだわっているうちは、良き書き手にはなれないなあと自戒の念。求められたテーマに、すんなり合う表現で、読み手にもすんなり読める・・・これを目標に、これからも頑張っていきたいと思います。

 

 

 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたのは清水港の歴史。明治39513日、日本郵船神奈川丸が清水港に入港し、静岡茶を積載して北米に向け出港した日を「港が生まれた日」として、この日を迎えるまでの清水の人々の物語を駆け足で紹介しました。紙面の都合で、その後の清水港の変遷については割愛しましたが、せっかく調べたので少し付け足してみると―

 お茶輸出第1船が出港した翌明治40年、清水港は第二種重要港湾に指定され、同時期、静岡と清水港を結ぶ軽便鉄道が完成。馬車や大八車で細々運ばれてきた茶が鉄道輸送に切り替わりました。

 港の周辺には“殖産興業”を追い風に新しい工場が次々と誕生。巴川の河口に近い向島には「東海セメント」が創業。清水町の望月万太郎が明治20年個人で起業し、30年に天野久右衛門らが引き継いで、本格的なポルトランドセメントの製造販売を手掛けます。原料の石灰石は榛原郡萩間村女神産、粘土は不二見村南矢部の有度山中から採掘されたものだそうです。

 明治45年には「清江下駄」が創業。江尻町の三嶋屋下駄店を営む2代目井上半蔵が、北海道産の木材を小樽港から運び、日本楽器ピアノ部長河合小市が発明した機械を導入して下駄を作ったんだそうです。ピアノ製造技術を応用した当時の先端技術を駆使したいわばベンチャービジネスで、開業間もなく年間300万足、一日平均1万足と日本一の生産量を上げ、販路は朝鮮半島、台湾、樺太、満州にまで及んだそうです。

 三嶋屋はもともと明治の初め、初代半蔵が創業した下駄問屋で、下駄の生地に漆で模様や絵付けをする女性用塗下駄を日本で初めて作りました。考案者は静岡の漆職人だったそうですが、当時、引き受け手のなかったこの新製品を半ば人助けのつもりで引き受け、東京で売り出したところ大成功。2代目半蔵は安倍川上流の杉材を原料にした生地作りを静岡監獄の囚人労働でまかない、静岡から27人の塗師を転住させ、日産2500足の下駄づくりを実現させました。

 半蔵は儲けた金で男子工員を遊郭で遊ばせたり、清水の事業家とともに運送会社を設立するなど清水のビジネスリーダーとして活躍。しかし北海道材への先物取引に失敗し、大正121月、突然休業し、解散してしまったとか。それでも彼のベンチャービジネスはほかの地場産業にも大きな影響を与え、従来、手動の座ぐり機で糸を紡いでいた製糸工場には電動機械が導入され、製紙工場でも機械化が進展。港の設備が整うと、生糸、タオル、麻製品など輸出向け商品を作るメーカーが続々誕生し、他県からの移住者も増えました。

 中でも目覚ましい発展を示したのが製茶工場。輸出用の茶を大量生産するには人手で揉んでいたら間に合いません。カビを防ぐための処理も必要。記事でも触れましたが、長年清水港から直輸出できなかったのは地元に優れた製茶工場がなかったためで、清水港から茶の直輸出の道が拓かれてからは、横浜・神戸の外国商館が競って静岡へ本拠を移し、製茶工場の機械化が進みました。製茶機械の発明者で名高いのは埼玉の高林健三。茶の葉を蒸し、焙り、揉捻の3工程の機械化を実現するため12年の歳月を投じたそうです。

 

 ミカンは明治年間、ずっと茶の後塵を拝してきましたが、明治17年にアメリカへ輸出した記録があり、日露戦争後の明治3839年頃からロシア、カナダ、アメリカ向けの輸出が継続的に行われるようになります。ミカン輸出に先鞭をつけたのは興津の青木周作。町議や町長を務め、37年にアメリカに200箱ほど出荷したのを手始めに地元ミカンの輸出に尽力。しかし到着までに鎖や病虫害が発生し、荷揚げを拒否されたり輸入規制にあったりするなど苦労を強いられたようです。

 本格化したのは専門の輸出業者が参入した大正に入ってから。大正2年、清水港からの輸出品目別ランキングで2位にあがります。江尻の望月兄弟商会の兄平吉・弟正治郎はオレンジキングとしてアメリカの新聞にも紹介されました。


 ちょうど運よく、JA静岡経済連の情報誌スマイルで静岡みかんの輸出状況について取材しましたので、補足するとー

 静岡みかんは120 年以上前からカナダを中心に輸出し、クリスマスシーズンの到来を告げる“テーブルオレンジ”として親しまれてきました。もともと明治時代にカナダ西海岸のバンクーバー近郊に移住した日本人が栽培を始めたとされ、現地のオレンジよりも皮が剥きやすいこともあって人気を集め、日本からの輸出も増加したようです。

 日本国内では昭和30年代、米の生産調整(減反)の一環として果物への転作を促す「果樹農業振興法」が成立し、各自治体が稲作農家にみかんへの転作を指導したことで、みかん産地が全国に拡大しました。みかんの収穫量は急増し、ピーク時の昭和50年には年間360万トンと現在の4倍強にもあたる量を生産し、需給バランスが崩れて値崩れを起こします。みかんも生産調整の対象となり、丹精込めて育てたみかんを間引く摘果(てきか)をせざるを得ず、農家にとって辛い時代を迎えます。そんなとき活路となったのが、日本のみかんを長年テーブルオレンジとして親しんできたカナダへの本格的な輸出だったのです。

 国際貿易港清水を有する静岡県でも北米向けのみかん輸出が本格化し、みかん農家の窮地を救う一助となりました。収穫後、カナダの店頭に並ぶまでには約1か月かかるため、青島温州の前身で高い貯蔵性を持ち、青島よりも早い時期に収穫できる「杉山温州」「尾張温州」の2種が主体となりました。 

 カナダと並んで有力な輸出先だったアメリカは農産物の輸入規制が厳しくなり、輸出量は激減しています。一方、急増しているのはニュージーランドと東南アジア(シンガポール、マレーシア、タイ等)。「他の外国産みかんと比較し、果肉が軟らかくジューシーでとても甘味がある」「通年購入できるオレンジと違い、季節限定で希少価値の高い商品」「外見が美しく、剥きやすくて食べやすい」という評価を得ており、従来、売り場を占めていた低価格の中国産かんきつ類に取って替わる勢いを見せています。

 

 

 「港が生まれた日」があまりにも硬い記事なので、少しでも柔らかくなればと、50年前に妹と清水港で遊んだときの写真を詩野さんに見てもらったところ、光栄にも文頭に使っていただきました。撮影場所ははっきり分からないのですが、FBで紹介したら数人から「袖師海岸じゃない?」とのアンサーコメントが。50年後の清水港がこうなって、妹は海の向こうに嫁いで、私がこんな仕事をしているなんて、ホント、不思議なものです。

 


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2 コメント

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清水港 (yukisann)
2017-03-20 23:29:12
大正時代頃、木材の需要が増えて、清水港へ北海道やアメリカからの輸入材が多く入ってきたため、大井川の上流域産の木材で製材業など営んでいた島田の製材業者が次々と清水へ移転したという記事を読んだことがあります。お茶やミカンの箱を作っていたのが島田の製材業だったそうです。
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Unknown (鈴木真弓)
2017-03-21 07:43:46
情報ありがとうございました!雑誌の記事でも少し触れましたが、関東大震災がきっかけで木材需要が高まり、清水港がその拠点となったようですね。大井川流域とのかかわりも今後調べてみたいと思います。
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