杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

レキジョからの卒業

2009-08-23 12:29:59 | 仏教

 21日(金)は午後から県商工会連合会の会合に出席し、夜は(社)静岡県ニュービジネス協議会西部部会の例会で浜松へ。終了後、新幹線で京都へ。駅前のビジネスホテルに零時前に着いて、翌22日(土)は東アジア仏教史にどっぷり浸かってきました。学生時代、ちゃんと授業に出て勉強してればよかったものを、25年以上も経って同じことしてます(苦笑)。本当に勉強したくなる年齢って、人それぞれかもしれませんね。

 

 

 

Imgp1310  昨日の朝は久しぶりに東寺の仏像群を観に行きました。今までは講堂の立体曼陀羅の世界―とりわけイケメンの帝釈天や梵天ばかりに気を取られていましたが、金堂の薬師如来・日光菩薩・月光菩薩のトリオもいいなぁとしみじみ。1603年に再建された金堂そのものも密教的空間を醸し出しています。天井の高さといい、仏像ぎゅう詰めの講堂とは対照的に三尊をすっきり配置し、御堂全体の光の加減を計算した空間設計につくづく感心します。先人たちの、こういう素晴らしい手仕事に触れるたびに心が洗われます。

 貴重なストレス解消の場だった居酒屋や映画館が、(酒の映画を作り始めたばかりに)そうでなくなってしまった今、古寺や仏像の存在感がますます大きくなっていることに気づき、学生時代は、今どきの“レキジョ”みたいなノリだった自分も、やっぱり確実に歳を取っているんだと痛感します・・・。

 

 

 

 

 東寺を後にして、京都国立博物館で開催中の特別展『シルクロード文字を辿って~ロシア探検隊収集の文物』へ。敦煌や中央アジア各地で発見された古い経典や書簡や官文書など、古文書だけを集めた地味~な?展覧会でしたが、歴史好きのライターにはかなりマニアックに楽しめる内容でした。

 

 

 

 一見、漢字によく似た西夏文字、アルファベットを数珠つなぎにしたような文字を漢字と同じようにタテ書きで左から右へ読むウイグル文字、アルファベットとハングルを足して2で割ったような中央アジア・コータンのカローシュティー文字、コータンの経典に残されたブラーフミー文字(梵語)などなど。アジア大陸には本当にいろんな文字があったんですね。しかも、アルファベット、アラビア語、ロシア語、ハングル、漢字、平仮名など、今、私たちが知っている文字のどれもにちょっとずつ似ていて、文字がまるで微生物のように環境に対応し、変化していった様子がわかります。

 個人的には、大学の卒論で書いたキジル石窟のあるクチャの文書に感激!サンクトペテルブルグのロシア科学アカデミーまで行かなければ見られなかった(素人には見る機会は皆無であろう)クチャの人々の生活文字を、卒論執筆後、25年経て目の当たりにできたわけです。館内には学生らしき若者を何人か見かけ、ホンモノを見て勉強できる彼らの幸運を羨ましく思いました。

 

 

 

 

 午後は、佛教大学四条センターで開講中の高麗美術館提携講座『朝鮮の仏教文化②~考古学から見た朝鮮古代の仏教』を聴講しました。考古学(古墳)を専門とする佛教大学の門田誠一先生が、朝鮮三国時代、百済の首都だった扶余(プヨ)郊外にある陵山里寺址や王興寺址を発掘調査したときの写真資料や出土品の価値について、本邦初公開のものも含め、興味深く解説してくれました。

 

 

Imgp1311  考古学をきちんと勉強したことのない私にとっては、実証をベースに歴史を推理する手法がとても新鮮で、なぞ解きをするみたいでワクワクしました。

 たとえば三国史記で西暦600年以降に創建されたと記される王興寺は、誰が何の目的で建てたのかわからなかったそうですが、2007年10月に舎利容器が出土し、そこに刻まれた文字から、577年2月に百済王の発願で創建されたことが判明。日本書記によると577年11月に百済王から日本へ技術者が派遣され、11年後の588年8月に仏舎利が届いて飛鳥寺の造営が始まり、596年に仏塔が完成したわけで、王興寺と飛鳥寺の関係性にがぜん注目が集まっています。

 

 

 

 さらに興味深いことに、王興寺から出土した遺物の中に、朝鮮半島では産出されない硬玉(硬質翡翠)で造られた勾玉が発見されました。軟玉(軟質翡翠)は朝鮮~中国大陸~台湾などでも広く産出され、台湾の故宮博物館で観たばかりの有名な『翠玉白菜』も典型的な軟玉ですが、硬玉が採れるのは、世界でもメキシコ、ロシア、ミャンマー、日本の新潟・糸魚川流域のみ。特殊な低温高圧な地質のところだけだそうで、糸魚川もフォッサマグナ地帯特有の地質のおかげで産出されるとか。王興寺で出土した硬玉はまちがいなく日本から贈られたものと推定されます。

 

 

 王興寺創建直後の577年に百済から日本へ職人が派遣され、仏教ウェルカム派の蘇我馬子が584年、私邸に仏殿を、585年に仏塔を造ります。仏教NO派の物部守屋が塔や仏殿を焼き討ちすると、蘇我氏と物部氏のガチンコ対立が勃発し、587年、蘇我氏が勝利して崇峻天皇が即位。588年に百済が仏舎利を献上して僧や寺工を派遣して、飛鳥寺の建立が晴れてスタートします。

 ただ、飛鳥寺の伽藍様式(一塔三金堂)は、百済の王興寺(一塔一金堂)と異なり、高句麗の影響も受けているようです。このあたりの時代の、日本と百済と高句麗のこんがらがった関係は、今後の発掘調査などで少しずつほぐし解かれていくでしょう。

 

 

 

 とにかく、朝鮮半島の古代仏教遺跡の調査は始まったばかりだそうで、考古学の進展が歴史を塗り替え、日本と朝鮮半島のつながりや関係性にも新しい視点が注がれるでしょう。古いことを研究しているけど、その成果は現代の価値観を変えるはずだって実感します。

・・・この感覚、レキジョ時代にはなかったなぁ。大学卒業して25年経つけど、年齢相応に自分の歴史観も、多少は進化してるんだろうか(苦笑)。

 

 

 

 

 


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