杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

日本の葬のヒストリー&フォークロア①

2022-09-13 20:42:11 | 歴史

『静岡県の終活と葬儀』草稿のつづき。ここからは葬にまつわる日本の民俗史を紐解いていきます。もうすぐお彼岸。ご先祖に手を合わせる機会も多いと思います。日本人が〈弔う〉という行為をどのように育んでいったのか、ざっくり検証してみました。

 

先史時代の埋葬行為

 人は、いつから〈葬〉という行為を始めたのでしょうか。

 世界有数の紛争地帯である北イラクに、約7万年前のネアンデルタール人が眠るシャニダール遺跡があります。米コロンビア大学の発掘調査が行われた1959~1961年当時、この場所では咲かないはずのキンポウゲやタチアオイの花粉が発見され、ネズミなどの齧歯類が運んだ可能性があるものの、「死者を葬る時、花を供えた世界最古の痕跡」と考古学会を湧かせました。

 英ケンブリッジ大学による2014~2019年の再調査では、中年男性の頭蓋骨から腰骨までの骨格がほぼ完全な姿で発掘されました。頭のそばには遺体の場所を示すかのように石が置かれ、あきらかに第三者による埋葬行為が行われたことが判明しました。人類史ではホモ・エレクタス(原人)とクロマニヨン(新人)の間に位置する「旧人」として、猿人に近いイメージを持たれていたネアンデルタール人が、死者を尊び悼むという精神活動を行っていたのです。

 日本列島は、人骨が土中で融解しやすい酸性の土壌であるため、住居跡や土坑、出土品等から類推するしかありませんが、1983年、北海道知内町の湯の里4遺跡で旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土坑が発見され、コハクや石製の小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土しました。土坑の底には赤い土が敷かれており、当時から墓の内部や死者の身体を着色するという風習が存在していたことが分かります。

 狩猟中心の旧石器~縄文時代(約2500年前まで)、日本人の寿命は13~15歳、全人口は10万~30万人程度と推定されます。庶民の埋葬は、腕を曲げ、膝を折って土坑に埋める屈埋型が一般的で、遺体の上に石を置いて埋葬する「抱石葬」もありました。

 弥生時代(紀元前400~後300年)に大陸から稲作の技術が入ると定住型の生活になり、平均寿命は20歳、人口も60万人へと急増しました。この時代の遺跡からも土坑墓が多く見られることから、土葬が一般的と考えられますが、山麓や海岸の洞窟に遺体を安置し、自然に還す「風葬」や「水葬」も行われたようです。

 弥生時代には石柱を立てて埋葬した「支石墓」、遺体を納める「甕棺(かめかん)」、墓の周辺に溝をめぐらす「方形周溝墓」も登場します。稲作をベースとした生活集団が大きくなり、指導的な人物を中心に社会が組織化されると、権威を象徴する古墳が造られ、手厚く葬る「厚葬」が行われるようになったのです。

 そして6世紀の仏教伝来を契機に、火葬の概念が広がります。

 

死者の家を造り、寄り添った古代日本人

 火葬が入ってくる前の古代日本の土葬では、死者を室内または庭に殯(もがり)と呼ばれる喪屋を設けて2~3年安置し、風化させた後、埋葬しました。

  殯の最中には、遊部(あそびべ)と呼ばれる人々が魂を鎮めるため、祈りや踊りを捧げました。五来重氏著『葬と供養』によると、日本人は、人間の霊魂は肉体を持っているときは現世だけに接続し、死をきっかけに前世と来世を含めた3世代に接続できると考えていました。「葬」は死霊になったときの儀礼、「供養」は祖霊の中に帰入したときの儀礼、祖霊として一定期間を経たら神に昇華する、その儀礼が「祭祀」であると。

  死霊になったばかりの霊魂は、現世に思いを遺し、災いや祟りをおこす〈荒ぶる〉〈すさぶ〉存在であるから、遊部の鎮魂が必要であり、「天岩戸開きの天鈿女命の神楽も、天皇家の始祖がお隠れになったときの殯の鎮魂歌舞であり、お神楽とは鎮魂を目的としたものとして、葬制と日本芸能史を関連付けて研究すべし」と五来氏。遊部の人々の一部は殯の風習が廃れた後、奈良大仏の建立を指揮した名僧・行基の聖集団に加わったといわれ、殯で使われていた棺台、花籠、天蓋などは今も葬具として残っています。

 

  仏教宗派の中で唯一、禅宗の葬具にはなぜか鍬(くわ)があり、葬儀のクライマックスで導師が一喝して木製の鍬を投げつけるという摩訶不思議な儀式を行います。

 五来氏によると、古墳時代は鉤(かぎ)形の小枝を「お鍬様」と呼んで使い、古墳の副葬品には鍬のかたちの腕輪も出土しているため、鍬は鎮魂の葬具だったと想像できます。

 鍬のかたちをした鉤状の枝は、民俗学的にみると、山の神を手向(=鎮魂)する目的で峠に祀ったとも考えられます。そもそも、峠(たうげ)とは手向け(たむけ)の場という意味を持ち、祟りをおこしやすい荒々しい霊に対し、鍬形の枝を向けて鎮魂する。この原始的な風習が、禅宗の中に残ったようです。

 死霊への恐懼を解消するためであったとしても、私たちの祖先は死者を忌み避けず、生者と同じように向き合い、風化の時を共にしてきました。その経験は、かたちを変え、後年、通夜振る舞いや葬具の作法に伝承されました。


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