毎春、松崎晴雄さんを迎えてのしずおか地酒サロンを、今年も4月4日に開催しました。今回は「杜氏の流派と継承」がテーマ。私が敬愛する磯自慢の杜氏・多田信男さん、喜久醉の蔵元杜氏・青島孝さん、若竹の杜氏・日比野哲さんという現役レジェンド&フロンティアの杜氏さんたちも来てくれました。
まずは松崎さんのお話をじっくりお読みくださいませ。
しずおか地酒サロン 「松崎晴雄さんの日本酒トレンド解説~酒造り職人レジェンドVSフロンティア~杜氏の流派を見つめ直して」
みなさまこんばんは。例年、この時期は静岡県清酒鑑評会の審査に呼ばれておりましたが、今年はスペインとドイツで商談会があり、審査会はパスさせていただきました。新旧代表する名杜氏さんを前に私なんぞがお話しするのはおこがましいのですが、酒の仕事に携わって30年ほどとなり、見てきた杜氏さんの姿や最近の造り手の変化、酒造り全体の最近の動向などをお話できればと思っています。
そもそもこの話を鈴木さんからうかがったのは、静岡県が、杜氏の流派が多い県だったという理由もあります。
ちょうど25年ぐらい前、全国新酒鑑評会で静岡県が一躍脚光を浴びたとき、5流派ぐらいが技を競い合っていたと思います。これは全国的にも非常に珍しいことで、確か南部、越後、能登、志太、広島の5流派。「花の舞」「士魂」が確か広島でしたね。静岡県が地理的にも東西の交差点という位置だったのが大きかったと思います。
ちょうど吟醸酒がブームになっていた頃で、吟醸酒を造って金賞を獲れる杜氏という職人の存在が注目を集めました。今では当たり前の蔵元杜氏や地元採用の社員杜氏というのは稀な例で、平均年齢60歳半ばの伝統的な杜氏集団が活躍しており、後継者不足の問題も少しずつ持ち上がってきていました。
大手の月桂冠などは6つの蔵を持っており、それぞれ別々の流派の杜氏を雇用していました。南部、秋田、越前、丹波、但馬、広島と各地から杜氏を招聘し、技術を競い合わせていたのです。当時、全国には25流派ほどあり、杜氏組合活動も活発でした。中には組合員数名という小さな流派もありましたが、ちゃんとした組合活動を行っていました。その頃、全国には2000以上の酒蔵があり、酒造りに従事する職人は、杜氏・蔵人も含め、全国で総勢7000~8000名いたと思われます。
伝統的な杜氏は、地元でチームを編成して酒蔵に雇用されます。大手ですと1チーム10人以上、小さいところでも4~5名で造りに来るというのが一般的です。そして彼ら使命は、蔵の意向に沿って酒を造るということでした。野球にたとえると、フロントのオーナー(蔵元)から現場を任される監督が杜氏で、実際に現場でチームを指揮するわけです。蔵にはさまざまな事情があり、蔵が求める酒質があります。これをいかに汲み取っていい酒を造るかが杜氏の使命だったと言えます。
さらに昔の江戸や明治の時代、杜氏に求められたのは高いアルコールをちゃんと出すということでした。昔の造りでは、途中で酒にならずに腐ってしまうケースも少なくなかったため、健全に発酵させ、17~18度ぐらいのアルコールを出す、腐敗しないタフな酒に仕上げるというのが第一義でした。この、しっかりとしたアルコールの酒を造るという使命は、明治~大正~戦前~戦後まで連綿と続きました。
今、杜氏が置かれた状況を見ますと、日本酒が多品種化し、吟醸酒や純米酒ほか、もともと地元の趣向性に合った酒など多様化するアイテムにどう適応していくかが、杜氏に求められているように思われます。
愛飲家が集まる酒の会などでは、よく「杜氏は自分の造りたい酒を造っているんじゃないか」という声をききます。当然、杜氏さんご自身の中には、自分が理想とする酒、得意とする造り方があると思いますが、まずは、蔵の意向に沿って、自分の技術を活かすか。毎年、米の状態も違いますし、蔵が変われば新しい環境に慣れなければならない。対応力や応用力が求められるのも杜氏の技量です。
今、実際に酒造りの流派というのは見えづらくなっています。30年ほど前ですと、流派の違いというのはかなり鮮明でした。
たとえば米の蒸し方、麹の造り方、酒母のたて方・・・いわゆる原料処理の工程(発酵過程の前段階)で、かなり杜氏の流派に特徴がありました。
もちろん今でも南部流や能登流でポイントになる部分があろうかと思いますが、ここ10~20年ぐらいで、どちらかというと、酵母の違いや、全国に普及した山田錦中心の吟醸造りマニュアル等が、杜氏の流派を超えてスタンダードになりつつある。新しい酵母や酒米を使った技術の共有化が、地域や杜氏組合の中で研究されることによって、昔ながらの本来の流派というものが、あまり表に出てこなくなってきたように思います。突き詰めて言えば、どんな米を使い、どんな酒を造るかが、新たな杜氏の流派になったのです。
(日本最大の杜氏集団である)南部流が生まれた東北は、飯米の産地で、酒造好適米はあまり入ってこない地域でした。トヨニシキ、ササニシキといった一般米を酒造りに活かすというのが南部杜氏の使命で、この土台のもとでに各蔵の特徴を活かした酒造りが発達したのです。
毎年、南部杜氏自醸酒鑑評会が、全国鑑評会の前に行われ、毎年300点ぐらいが出品されます。会場では酒蔵別に全国北から順番に並んでおり、順に試飲していくと、同じ南部杜氏の酒でも地域ごとの特徴というのをまず感じます。東北には東北らしさ、北陸には北陸、関西なら関西、静岡なら静岡酵母の特徴を感じるような酒になっている。造りの原料処理の違いが主流だった杜氏の流派の特徴が、今の酒造りの動向やマニュアル化によって変化し、昔ほど差を感じなくなったというのが正直なところです。
現状では、全国に1300ほどある酒蔵で、冬の間だけ酒造りに入る従来の杜氏さんから、蔵元自身が兼任したり社員が造るようになり、その割合は半々ぐらいになっていると思われます。杜氏が来ている蔵でも、昔のように杜氏が地元でチームを編成して来るのではなく、杜氏だけ来て、後は地元の社員がカバーするというスタイル。純粋に杜氏の流派だけで造っている酒蔵は、正確なところはわかりませんが、おそらく3分の1~4分の1ぐらいでしょうか。東北など杜氏出身地に近いところには、かろうじて残っていますが、都市部ではかなり自社杜氏化が進んでいるようです。
では従来型の杜氏と、今の若い杜氏との大きな違いは何でしょうか。私はやはり、造りの根本といいますか、生活の根本の違いにあるように思います。
従来の杜氏さんというのは、専業農家の方が多く、冬の間、農業が出来ない時期に酒造りに入るというスタイル。夏場は米を作り、冬は酒を造る。一年中なんらかの形で米にたずさわっており、米に対する愛着といいますか、米の知識や米を大切にする思いが大きい。農業は自然相手の生業ですから、酒に対しても、予期せぬ状況に対応する能力があります。意識しているか否か別にし、経験や勘、センスといったものがベースにあると思います。
一方、今の若手は大学で醸造学を学んだり研究機関で研修を受けた理論派が多く、蔵元杜氏では経営者らしく、酒の販売や企画力といった営業的なセンスを持ち合わせている人も多い。酒に対するベースがやはり違います。どちらがいい・わるいではなく、そういうベースの違いが酒質に表現されてくるように思います。
ここ10~20年で増えてきたそういう若手は、どちらかといえば自己実現といいますか、自分のスタイルやメッセージ性を酒に投影し、同世代の人たちに飲んでもらおうというモチベーションを持っている。昔ながらの、蔵の意向に沿って、地域性や経験智をベースに造るという杜氏とは違う取り組み方です。
最近、華やかでインパクトのある酒が増えてきたというのは、新型酵母や新型好適米が増えただけでなく、新しい造り手たちが、自分たちで新しい酒を発信するんだという意識がベースにあるように思います。その意味では根本の違いが非常に大きい。蔵元杜氏の酒は、ときにハッとさせられる酒もあれば、うん?という酒もありますが、若い造り手の酒は総じて、山廃にしても吟醸にしても、そつなく、器用に造る平均点以上の酒が多いと思います。
今後、若い造り手たちがどのように経験を積んでいくのか。(喜久醉の)青島さんのように米作りから取り組む蔵元杜氏もいますし、あと10~20年して今の若手がどんな酒を造るようになるのか、楽しみではあります。
最後に、私自身が今まで出会った印象的な杜氏さんをご紹介したいと思います。
大学在学中、東京八王子の「桑乃都」という小さな酒蔵の直営居酒屋でアルバイトをしており、体験的に酒造りに行かせてもらったことがあります。
「桑乃都」では越後杜氏と蔵人総勢5~6人で造っていました。蔵の中で印象的だったのは、そこが、杜氏さんたちの生活の場であるということ。代々続く蔵元の歴史や伝統とは別に、働く人々の生活感というものを醸し出していました。杜氏さんたちが休憩中、コタツに入ってテレビを見ながら談笑している姿は、たとえば一般的な製造業の現場ではあまり見られなかったものでした。
忘れ得ぬ杜氏さんといえば、広島の「賀茂泉」の故・増田幸夫さんです。20数年前にお会いしたのですが、静岡酒とは対照的に、非常に濃醇な純米酒を造る人です。いろいろな話をうかがう中、「なんといっても健全に三段仕込みをするんだ」という言葉が印象的でした。要は、3回に分けて仕込む基本をしっかり守るということ。発酵の中で豊かな旨味を出す純米酒、というものを大切にしておられました。
賀茂泉は吟醸酒、普通酒、低アルコール酒など多品種に造っており、それぞれに個性がありますが、それもこの杜氏さんの功績だろうと思います。
広島杜氏でもうお一人挙げたいのは、今でも現役の名杜氏である、香川の「綾菊」の国重弘明さんです。一つの蔵で一人の杜氏が13年連続全国で金賞という、未だに破られていない記録の持ち主ですね。私がお会いしたのは昭和62年で、その前年まで13年連続受賞でした。
当時、吟醸を唎かせてもらったとき、「どうです?あまりよくないでしょ?」と聞かれ、確かに少し重くてキレが足りないような気もしましたが、吟醸の出来立てはこんな感じだろうし、なんといっても13年連続金賞の名杜氏ですから、最終的にはきれいに仕上げるだろうと思っていました。そんな初対面の私にいきなり、「よくないでしょ?」と聞いてくるとは、まるですべてを達観した仙人のようで、ゾクッとした覚えがあります。
昔ながらの伝統蔵ながら当時からコンピュータを導入し、蔵の中を案内してくれたときも最新の技術をあれこれ紹介してくれました。口調は穏やかでしたが、目つきは非常に鋭い方でしたね。その後、2~3度お会いし、飲んだときは、穏やかで温かい人柄が解りましたが、一般米「オオセト」で連続金賞受賞するなど、酒造りを自分なりに科学的に研究し、つねに向上しようとする努力家でした。
綾菊を訪ねた昭和62年は、4~5日間かけて四国の酒蔵を回りました。綾菊に行く前に立ち寄ったのが、愛媛の「小冨士」という小さな酒蔵でした。当時は珍しい蔵元杜氏の蔵だったのです。甘くて濃い酒が多い四国の中では異色の、淡麗超辛口タイプにこだわっていましたね。
15年ほど前、能登半島で杜氏サミットというのが開かれました。全国の杜氏組合の組合長ほか多くの酒造関係者が集まり、杜氏の将来性を話し合う中で、当然のごとく杜氏の高齢化という問題が持ち上がり、「杜氏の技術保存は杜氏集団として、また個々の杜氏が努めていくものだが、まずは酒造会社が蔵の技術として残す努力をしてもらいたい」という結論だったと記憶しています。
奇しくも今、従来の杜氏が造る酒よりも、蔵元杜氏が造る酒のウエートがどんどん増え、一つの潮流が出来上がっていますが、若い造り手が自己実現として、「自分でこういう酒を造りたい」というのは、蔵の技術保存とは違う意味合いのようにも思います。蔵の持つ本来の酒質や長い間築かれてきた蔵の味というものを踏まえた上で、新しさを発信すべきではないかと。嗜好品ですから「~べきだ」などと表現するのはおかしいかもしれませんが、そんな気もしています。
せっかく日本に一千社以上の酒蔵があり、地域性や歴史があるわけですから、もう一度掘り下げながら、今まで日本酒を飲んだことのない人たちに向けて発信していってほしいと思います。なぜ酒を造るのか、飲み手にも感じてもらえるような酒を造ってほしいと思いますね。
海外でも日本酒のミニ・ブルワリーというのが増えています。いろいろな造り手が、日本から酵母を取り寄せたり、あるいは自然酵母や山廃造りなどに果敢に挑戦する蔵もあります。海外の日本酒製造量は微々たるものですが、今後、日本酒の認知度が広がるにつれ、海外でも酒造りを目指す人が増えてきたとき、技術だけではない、造りへの姿勢や考え方が問われる時代になるように思います。
従来の杜氏さんたちが築き上げてきたものが、10~20年後、残っているかどうかわかりませんが、どんな新しい環境の中でも、伝統や歴史を検証していくことは大切ではないかと思っています。
(文責/鈴木真弓)