杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

アメリカ西部モーターハウス旅行11~戦争の爪痕

2012-09-10 11:18:39 | 旅行記

 8月5日にネバダ州ラスベガスからスタートした今回の旅は、ユタ州、アリゾナ州を経て、19日、ニューメキシコ州アルバカーキで終わりを迎えました。
 
 
 
 
 
 最終日の18日は米空軍カートランド基地のあるアルバカーキで最後のお買い物。元米兵ショーンのおかげで、基地内のRVパークに格安で泊まり、翌19日は基地に隣接するアルバカーキ空港から朝5時50分発の国内線でヒューストンに飛び、そこから成田へ帰るという予定です。
 
 
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 アルバカーキでの最後の夜は、地元のブルワリーパブ『LA Cumbre』で地元R&Bバンドの生演奏を聴きながら、しこたまビールを呑みました(前回の記事で紹介した、サンタフェ・サケを造っているジェフは、このブルワリーからビール酵母をもらって日本酒を造っているそう)。
 
 
 
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ビールと音楽をこよなく愛する平野さんは、パワフルな黒人女性シンガーの熱唱を真正面で至福の表情で聴き入っていました。そもそも平野さんの希望で実現した旅だったので、彼女の幸せそうな姿に、ホッと胸をなでおろしました。
 
 
 
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妹夫婦はカウンターで偶然知り合った地元カップルと、インディアンジュエリーの話で盛り上がっていました。私は彼らの愉しそうな表情をつまみにビールに舌鼓を打ちながら、心の内では、この旅で初めて知った戦争の爪痕について想い起していました。出発する前、上川陽子さんとレギュラー放送しているラジオ番組の収録で、原爆や終戦について語ってきたばかりだったからです(こちらを参照)。

 

 

 

 

 

 

 

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 モニュメントバレーのビジターセンターを訪ねたとき、第二次世界大戦のときにナバホ族が「コードトーカー」として徴用され、彼らの功績で戦勝に至ったという展示がありました。・・・恥ずかしながらナバホのコードトーカーについてはこのとき初めて知りました。

 

 

 

 

 

 

 

 コードトーカーとは文字通り、暗号を操る人のこと。米軍は解読の難しいネイティブインディアンたちの部族語を暗号に用いたんですね。第一次世界大戦ではチョクトー族やコマンチ族の出身者がコードトーカーとして従軍し、第二次世界大戦ではナバホ族約400名がサイパン島、グアム島、硫黄島、沖縄に従軍したそうです。硫黄島の戦いでは、「摺鉢山の占領」を、「大きな口の七面鳥、羊の目は治療された」というナバホ語に翻訳されて司令部に報告されました。Imgp0565

 

 ナバホ語が話せても、コードトーカーとしての特殊訓練を受けていないと暗号は解読できないようで、第一次世界大戦時にヒトラーがこれに目を付け、第二次大戦時に多くの人類学者をアメリカへ派遣して言語習得させようとしましたが、ついに実現できず。ヒトラーの動きを察知した米軍は、ヨーロッパ戦線を避けて、太平洋戦争のみにコードトーカーを派遣させたそうです。

 

 

 ナバホのコードドーカーの存在は1968年に機密解除になって初めて世に知られるようになりました。彼らの功績で太平洋戦争が早期に終結し、多くの米兵の命が救われたとして、1982年にレーガン大統領から表彰され、8月14日をコードトーカーの日(National Code Talkers Day)と定められることに。2000年にはナバホ族コードトーカーに議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)が授与されています。

 

 

 8月は、日本人にとっては原爆が落とされ、敗戦が決まった特別な月だとラジオで話したばかりでしたが、ナバホの人々にとっても特別な月だったのか、と思うと、譬えようもない複雑な気持ちになります。

 

 

 

 サンタフェ滞在中に訪ねたニューメキシコ・ヒストリー・ミュージアムでもナバホコードについての印象的な展示がありましたが、その隣には、かのマンハッタン計画で知られるロス・アラモスの展示が・・・。「そうか、ロス・アラモスってニューメキシコ州だったんだ!」と今さらながら、ハッとさせられました。

 

 余談ですが、ニューメキシコ・ヒストリー・ミュージアムの日本語パンフレットには、制作者名に、『静岡県立大学国際関係学部サンタフェGPゼミ(藤巻研究室内)』とありました。平成22年度文部科学省大学教育推進プログラム「静岡県立大学国際関係学部フィールドワーク型初年次教育の構築」に採択されて制作したようです。こんなところで故郷の大学の名前に出会えてビックリ!(こちらを参照)。

 

 

 

 

 1943年に、マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたロス・アラモス国立研究所。現在でも核兵器開発やテロ対策など合衆国の軍事・機密研究の中核で、同時に生命科学、ナノテクノロジー、コンピュータ科学、情報通信、環境、レーザー、材料工学、加速器科学、高エネルギー物理、中性子科学、核不拡散、安全保障など、様々な先端科学技術について広範な研究を行う総合研究所でもあります。場所はサンタフェから車で45分ぐらいのところです。

 

 

 設立当時、初代所長ロバート・オッペンハイマー以下、21名ものノーベル賞受賞者を擁して勧められたマンハッタン計画。この計画で開発・製造された原爆が、広島に投下された「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」です。

 

 

 展示フロアは、真っ白な壁に、当局によって検閲を受けたロス・アラモスの住人たちの手紙の文字が刻印された、スタイリッシュでアーティスティックなフロアでした。日本人が観るとどうにも違和感を禁じえないのですが、こういう展示をよしとするのが、アメリカ人の感覚なんだと理解するしかありません。手紙の内容からは、機密保持のために徹底的に行動監視された地元住民や科学者たちの苦しい胸の内が読み取れます。

 実際、68人の科学者が日本への原爆投下に反対して大統領に請願書を送ったり、反原爆を唱えたオッペンハイマー所長は戦後、水爆開発推進派と対立し、赤狩りにあって失脚したとか・・・。ロス・アラモス研究所はその後、政府所有の大学運営組織=GOCO形式(Government Owned Contractor Operated)となり、カリフォルニア大学が60年以上に亘り管理・運営を行ってきた後、2006年6月からはカリフォルニア大学、ニューメキシコ大学、ニューメキシコ州立大学はじめ複数の企業による、産学官連合組織Los Alamos National Security(LANS)に移行しています。

 

 

 私たちが最終日に泊まったアルバカーキのカートランド空軍基地も、米軍の中でも核兵器の戦術を担当する重要な基地だとか。戦闘機がバンバン飛び交うような実戦基地ではなく、無機質な建物がところどころに並ぶ倉庫街のような雰囲気でしたが、ここで核戦争が想定される日が来るかもしれないと思うと、ちょっぴり背筋が涼しくなりました。

 

 

 

 「あれ、日本でも話題になっているでしょ?」とショーンが指さしてくれた先にあったのは、オスプレイでした。戦闘機のメカニックだったショーンに言わせると、何かと取り沙汰されているオスプレイの事故のリスクは、一般の軍用機事故のリスクと変わりない、とのこと。私には予想もつかない世界の話ですが、大事な身内である彼の言葉を信じる立場としては、導入を声高に反対する勢力には何らかの政治的意図があるのかもしれない・・・などと思ってしまいます。

 

 

 いずれにしても、この旅の締めくくりに見学したのがホンモノのオスプレイだったというのがどうにも強烈で、今でも余韻として残っていて、この旅行記の〆もこんな話題になってしまいました。

 

 

 長々とおつきあいくださったみなさま、ありがとうございました。