21日夜は浅草にある『助六の宿・貞千代』という和風旅館に泊まりました。東京で和風旅館に泊まるのは初めてで、なんだかとても新鮮でした!
宿へ向かう前に、元浅草・阿部川町にある孫三稲荷に立ち寄りました。阿部川町って聞いてピンとくるかと思いますが、静岡の安倍川にちなんだ地名なんですね。まさに江戸に息づく駿府!
黒澤脩先生の解説によると、天正年間(1573~92)、安倍川を渡るときに難儀していた徳川家康の一行を、孫三という男が救って無事渡ることが出来た。その後、家康は孫三に礼をしようと家臣に探させたが、該当する人物が見つからない。調べてみると安倍川のほとりに「孫三」という名の祠があり、稲荷の化身が家康の安倍川越えを助けてくれたものと理解した。
天正18年(1590)、家康の関東入国の際、一緒に移住した駿府の住民が故郷の川の地名と孫三稲荷も移した。以来、家康と浅草住民は孫三稲荷神社を篤く信仰した・・・とのことです。
孫三稲荷の横にある集会所・阿部川会館は、もともと川柳の祖といわれる“柄井川柳”こと柄井八右衛門(1718~1790)が住んでいた場所だそうです。彼は元禄あたりからブームになった前句付という俳諧の点者(歌の選者)で、川柳評の前句付がのちの“川柳”になったとか。
川柳のリズムというのは、キャッチコピーを考える時、よく参考にするので、静岡ゆかりの地名の場所で川柳が生まれた・・・と思うと感慨深いですね・・・。折しも今朝の朝刊にサラリーマン川柳の入賞作品が紹介されていました。毎度のことながら、時代を見事に反映していますねえ。
助六の宿・貞千代の宴会では、静岡市出身の講談師・宝井駿之介さんが高座の合間を縫って駆けつけてくれました。しずおか時の会の主力メンバーに駿之介さんの後援会関係者がいたご縁です。なんとぜいたくな宴会・・・!
講談のあとに味わった料理は、江戸町衆料理。鬼平犯科帳に出てくる「人参・大根・クラゲ・鮭の酢の物」「菜めし」「白玉みぞれ和え」なんてメニューも出てきました。鬼平さんはテレビドラマでしか知らないんですが、当時は武士よりも町人や職人のほうが食べることでは贅沢をしていたらしく、鬼平さんもお忍びで町人の暮らしに溶け込んでグルメを楽しんでいたんだなあと微笑ましくなりました。
江戸情緒をたっぷり楽しんだ翌朝は、江戸のど真ん中・旧江戸城跡である皇居東御苑を散策しました。恥ずかしながら、私、皇居に入るのも近寄るのも初めてで、なんだか妙に高揚してしまいました。
大手門から入ったのですが、第一印象は、駿府城公園東御門&巽櫓に雰囲気が似ているということ。もちろんスケールはこっちのほうがデカいけど、やっぱり駿府城というモデルがあって江戸城が存在したのかなあと実感できました。
お濠の石垣の組み方、ゴロゴロしたまんまの石を無造作に積み上げているようにみえる部分と、きれいに切り出した石を幾何学的に積み上げた部分の対比が面白かった。これは工事を請け負った藩によって工法が異なるためで、強度の点から言ったら、ゴロゴロのほうが優れているんだそうです。以前、建築を学ぶ学生たちが築城実験をやった番組を見たことがあるけど、確かにそういう結果だったと記憶しています。
それにしても、東京のど真ん中とは思えないこの自然・・・。昭和天皇が都市近郊で失われていく雑木林を復元しようとご尽力されたそうで、今上陛下にもその意が継がれ、拡張されたとか。
本丸跡、大奥跡は美しい芝生広場になっていて、周辺にはヒガンザクラ、カンヒザクラ、ギョイコウ、シャガ、マボケ、コブシ、シャクナゲ等など季節の花々が彩りを添えていました。
今月は風邪をこじらせ、ろくにお花見ができなかったんですが、このタイミングでここでこ~んな素敵なお花見ができたなんて・・・。
ここは赤穂事件で名高い「松の大廊下跡」。地方のテーマパークなら、ここに廊下をしつらえて、蝋人形かなんかで刃傷事件のシーンを再現するんでしょうけど、さすが皇居内。小さなサインがポンと置かれているだけです。
天守台は、今は見晴らしの良いビューポイントになっていました。江戸城天守閣は3度建て替えられたそうですが、明暦(1657)の大火で焼失した後は天守台石垣が築き直されただけ。時代劇で出てくる江戸城天守閣、ほとんどがうそっぱちなんだあ・・・がっかり。
まさに都心のオアシス・皇居東御苑、これからの季節、の~んびり散策するのに最適です。しかも入場無料。花の見ごろや野鳥ウォッチングの情報はこちらを参考に。