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杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

京都をもっと知るための仏教史

2017-02-23 18:40:43 | 仏教

 若い女優さんが仕事を放り出して出家したというニュース。浮き沈みの激しい世界に身を置く人にとっては、宗教が心の支えになることもあるだろう…と我が身に置き換え、ちょっぴり同情の念を感じてしまいました。

 自分が仏教に興味を持ったきっかけは、ミッションスクールの中学高校に通っていたころ、図書館で見つけた仏教本。毎朝の礼拝で読んでいた聖書の教えとの違いが「面白い」と感じ、やがて、日本の宗教へと関心が広がり、京都の大学に進学。20~30代は幸い仕事に恵まれ、宗教本を紐解く時間はほとんどありませんでしたが、40歳を超えたころから浮き沈みの辛さを感じ始め、再び京都へ通うようになりました。といっても特定の宗教にハマったわけではなく、歴史を知ること自体がストレス発散になったのです。現実逃避かもしれないけど(苦笑)。

 

 2月18日、JR静岡駅前の宝泰寺サールナートホールで開催された京都学講座では、花園大学文化遺産学科教授の師茂樹先生が神道と仏教の関係性をわかりやすく説いてくださいました。改めて学んでみると京という都を成立させていた宗教のキホン、ちゃんと理解していないと、ホントの京都は楽しめないと痛感しました。師先生のお話をキーワードをもとに整理復習してみたいと思います。

 

「神仏習合」「神身離脱」

 映画『沈黙』で印象的だったのは、主人公の宣教師が、奉行のイノウエ(イッセー尾形)や、日本の仏教徒になった先輩宣教師(リーアム・ニーソン)に、転宗を勧められるシーンでした。ストーリー展開は別にして、仏教の教えというのはディベート向きだと感心したのです。過去ブログ(こちら)でも触れたとおり、日本固有の神道が外来宗教である仏教とどのように融合したのかは、日本人の宗教観を理解する上で大事なポイント。師先生も「仏教は説明能力が高い。キリスト教が入ったときもGODを大自在天に置き換えて仏教の世界観に取り込んだ」と太鼓判を押しました。

 6世紀に伝来した当初、仏教は大陸からやってきた新種の神のひとつとされましたが、説明上手な仏教が「日本の神々は仏教の六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の最上位に属す」と持ち上げ、それでも輪廻転生は免れないため、天変地異や疫病がおこると「神が仏法による救済を願って苦しんでおられる」と説く。でも神は自分で読経も写経も出来ないし仏像を彫ることもできない。人間に代行してもらうしかない。それで、山岳修験者たちが中心になって、神が住まう山奥にお寺が建立されるようになったということです。お寺の正式名に山号(〇〇山△△寺)があるのはその名残り。ちなみに日本で一番数の多い八幡神の称号「八幡大菩薩」は、「菩薩」が仏道修行中の身分を指すことから、❝神様ただいま修行中❞ってこと。これぞ神仏習合の典型ですね。

 



「清水寺」「鞍馬寺」「広隆寺」「延暦寺」

 この4つは平安京が出来る前に創建された古寺ベスト4です。清水寺は778年、奈良興福寺系の子島寺(高取町)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)が、夢のお告げで現在地の音羽山で建立。当時この一帯には渡来人が多く住んでいたそうです。鞍馬寺は770年、唐招提寺でおなじみ鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)がやっぱり夢のお告げで鞍馬山に建立。この2つは南都(奈良)の僧が作ったんですね。

 広隆寺は603年に秦一族の秦河勝が聖徳太子から仏像を譲り受けて建立したといわれます(一説には622年の聖徳太子没年に供養のために建立されたという)。秦氏は歴史教科書でも習ったとおり、秦(中国)から朝鮮半島を経由して渡来した漢民族系の帰化人といわれ、今の太秦・嵐山あたりに住み着いて、養蚕、機織、酒造、治水など産業インフラを担った一族。酒造神・松尾大社は桂川の治水拠点として秦氏が建立したのです。

 延暦寺は788年に最澄が比叡山に建立。大津の坂本はもともと最澄の生まれ故郷で、唐に渡って修行して実家に戻ってきたって感じかな。広隆寺と延暦寺は同じ渡来系といえるわけですが、比叡山延暦寺の存在が際立ったのは、南都仏教からの❝独立❞を果たしたからです。

 当時、仏僧は国家資格であり「戒壇」という儀式が必要で、戒壇院は日本に3か所(奈良東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)しかありませんでした。天台宗を開いた最澄は独自に僧を育成するしくみを作ったものの、南都仏教派から猛反発を受け、最澄没後7日目に嵯峨天皇からお許しを得たとか。でもこれによって延暦寺はその後の日本仏教の総合研修大学みたいなポジションとなり、10~13世紀にかけ、良忍(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)等などお馴染みの宗祖を輩出しました。彼らはみ~んな延暦寺で修行したんですね。すごい!

  延暦寺戒壇院

 

 

「東寺」「神護寺」「禅林寺(永観堂)」「勧修寺」「仁和寺」「醍醐寺」

 平安時代になって仏教は国家公認となり、官寺=国立のお寺として作られたのが東寺。定額寺=天皇や権力者個人が私的に建てた寺が和気清麻呂の神護寺、清和天皇の禅林寺、醍醐天皇の勧修寺でした。その後個人から一族の寺へと定額寺を発展させたのが仁和寺、醍醐寺など。お寺を好き勝手に建てられないのは、当時、僧侶の人数や配置を国で決めていたため。今の医師免許と似ていますね。当時最高の学問を身に着け、心身の治療や癒しが出来るお坊さんって、お医者さんみたいな存在だったわけです。ちなみに京都ってたびたび戦火に見舞われていますが、創建当時とまったく同じ場所で現存しているのは東寺と神泉苑だけなんですって。

 

「顕密諸宗」

 平安末期~鎌倉時代以降、顕密諸宗といわれる南都六宗(オープンな宗派)&天台・真言八宗(密教派)が発展します。各宗寺院は「寺に土地を寄進すれば免税になるぞ」と呼びかけ、全国に荘園を拡大。なんでも今の新潟県は大半が東大寺の荘園だったそう。興福寺や延暦寺などは荘園が強力な経済基盤となって独自に武力を有し、幕府に対抗できるまでになりました。ちなみに源義経が頼朝の追手から逃れられたのもお寺がバックアップしてくれたから。弁慶のように僧兵が頭巾をかぶって顔を隠すのは「オレたちは神仏の使いだぞ」って威厳を示すためだそう。

 

「五山官寺」

 室町時代になると禅宗が興隆し、五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺/南禅寺)が顕密諸宗に並び立つ存在となります。戦国時代には本願寺教団・法華宗(日蓮宗)が力を持ち、応仁の乱や天文法華の乱(延暦寺と日蓮宗の宗教戦争)で京都が焼け野原になった後は、豊臣秀吉が今の京都の景観を創り上げました。復興工事で地面から大量に出土した石がお地蔵様に見立てられ、京都では地蔵盆が盛んになったとか。

 

「徳川幕府の教団再編」

 江戸時代、徳川政権は寺院の力を封じ込めるため、仏教の諸制度を確立させます。檀家制度、葬式の華美化、年忌法要、寺社参詣の大衆化、寺院御用書林=仏教専門書の出版事業など、現代仏教の基礎は徳川が創り上げたもの。檀家制度は戸籍の基となり、葬式や法要などの決まり事を細かく制定することでコミュニティの統制化をはかりました。

 

「神仏分離・廃仏毀釈、初詣ブーム」

 明治維新は前政権(徳川)を全否定することから始まりました。明治新政府が目指したのは神道の国教化。寺院は廃合となり、僧侶や修験者は還俗させられ、全国に廃仏毀釈の嵐が巻き起こりました。南都仏教の雄であった興福寺は僧侶全員が還俗させられ、五重塔が25円で売り飛ばされたというのは有名な話。その後再興したものの、寺にあるべき壁や塀がない。今の奈良公園のオープンな姿は、興福寺からしてみたら屈辱的なんだそうです。

 しかし神道の国教化は思うように進みません。神官は布教・宣教活動に不慣れだったため、説法慣れした僧侶の力を頼ることになり、結局、神道国教化は頓挫。修験道や陰陽道といった伝統的習俗は廃れていきましたが、仏教側も宗派別に大学を設立するなど新時代への適応をはかったのでした。

 

 ところで現代人が宗教を最も身近に感じる日と言えばお正月の初詣。これって実は明治中期に鉄道会社が仕掛けてメジャーになった習慣です。東海道線が開通したことによって川崎大師がアクセス至便となり、それまでの「恵方詣り」「21日の初大師」と差別化するため、「初詣」という言葉を創り出したんだそうです。京成や国鉄成田線が開通すると成田山新勝寺も人気初詣スポットとなり、鉄道会社が正月の参詣客を引っ張り込むため、あれこれサービス合戦を始めたとか。恵方巻やバレンタインデーもしかり、日本人は仕掛けに乗っかって、ちゃっかり習慣にしちゃう天才ですね(苦笑)。

 

 仏教が、神道と上手に融合し、廃仏毀釈の憂き目に遭っても生き残ったのは、得体の知れないパワーを洗脳するような宗教とは違い、ちゃんと「説明」できるロジックを持っていたからだろうと思います。仏教史をたどると、荘園で経済力を蓄えたり権力者にすり寄ったりして小賢しいと感じることもありますが、人間の行動原理にある意味忠実で、清濁併せ呑む懐の深さ(=したたかさ)も。泥の中でも花を咲かせる蓮の強靭さを見習いたいと思います。


一休さんを読み解くキーワード

2015-11-17 22:17:09 | 仏教

 11月15日(日)、東京恵比寿の日仏会館で、フランス国立極東学院東京支部主催のシンポジウム【一休とは何か~この妖怪に再び取り組む】が開かれました。白隠研究の大家・芳澤勝弘先生(花園大学国際禅学研究所教授)が一休さんを“妖怪”と称し、その一筋縄ではいかない生き様に切り込まれると聞いて、楽しみに馳せ参じました。

 今、テレビのゴールデンタイムでお坊さん出演のバラエティ番組やトレンディドラマ?が放送されるなど、ちょっとした仏教ブームだそうですが、日本の歴代のお坊さんで、一般庶民から“○○さん”と親しく呼ばれるのは、一休さん、白隠さん、良寛さんの3人くらい。中でも一休さんの知名度はダントツですね。私なんかリアルタイムでアニメの一休さんにかじりついていた世代ですから、大人になって一休さんのこの肖像画を観たときは、呆気にとられてしまいました。聞けば晩年は酒に溺れたり若い女性にのめりこんだ破戒坊主。・・・なのに日本でイチバン有名なお坊さん。確かにつかみどころのない“妖怪”かもしれませんね。

 

 今回のシンポジウムは、ヨーロッパで唯一といってよい一休研究の専門家・ディディエ・ダヴァン先生(フランス国立極東学院東京支部長)が企画され、東京五島美術館で開催中の一休展(こちらを監修された芳澤先生のご尽力で実現した、おそらく史上初めて、一休宗純を本格的に取り上げたシンポジウムだそうです。現在、好評発売中の別冊太陽「一休―虚と実に生きる」に寄稿された研究者が次々に登壇し、10時から18時までみっちり、かなり密度の濃い研究発表をされました。素人にはとてもついていけない専門家レベルの内容でしたが、アニメの一休さんが、この肖像画の一休さんになるまで、どんな人生を送られたのか、それが日本の禅宗史の中でどんな意味を持つのか、ほんのさわりの一部分だけでも触れることのできた刺激的な時間でした。

 

 

 ここでは各先生方の発表の中から、私なりに面白く感じた一休さんを読み解くキーワードを3つ挙げたいと思います。

 

瞎驢と滅法

 臨済宗の祖師・臨済義玄は、亡くなるとき、“自分の精神を絶やしてはならぬ”と言い、それを聞いた弟子の三聖和尚が「安心してください、自分が継ぎます!」と言って師匠お得意の“一喝”を真似た。それを見た臨済は「お前のような瞎驢(かつろ=盲目のロバ)によってわが法は滅却した」と歎いて亡くなったそうです。無能呼ばわりされた三聖をかばうため(=臨済宗の法系を守るため)、後世の人々は「いやいやこれは、師匠が本当は弟子を認め、叱咤激励した言葉だ」とポジティブ解釈したのですが、一休さんは「自分こそ瞎驢だ!滅法だ!」と宣言。自分の師匠からもらった印可(悟りを得た証明書)を破り捨ててしまいました。

 素人ながら、禅とは、原理原則を示した聖典があって、師匠がそれを代々受け継いで、弟子に順を追って習得させ、お墨付きや資格証明を与える・・・という宗教ではないんじゃないかと思います。己の内にある仏性を己の力で磨き上げていく自律の宗教だろうと。一休さんはその本質をとらえ、形式的な嗣法を否定したのではないでしょうか。今、私はお手伝いしている福祉NPOの広報業務にプラスになればと「介護ヘルパー初任者研修」を受講中なんですが、介護の世界はずばり資格がモノを言う世界。初任者研修は130時間必須とか、介護福祉士は受験資格が実務3年以上とか、介護に限らず、現代社会の職能評価の大半は、資格の有無や実務経験数によって判断されます。でも、介護の現場でほんとうにモノを言うのは、形式的なマニュアルでははかりしれない“人間力”。ましてや、人の心を支える宗教家たる者の資質は、人間力そのものがすべてではないか・・・なんて考えてしまいます。

 一休さんは、「立派な衣を着て禅を説く諸君は、みな名利(名誉と利益)のため。私は子孫たちが大燈国師の法をも滅却することを求める」と言ったそうです。大燈国師とは大徳寺を興した日本の禅宗随一の名僧。その教えを形式的に受け継いで名利を得るのはナンセンス。どんなに尊い教えでもいったんリセットしてゼロから興せ(=滅宗興宗せよ)。「殺仏殺祖(=釈迦や達磨の教えもリセットせよ)」というほどの強烈な思想を持っていた臨済義玄の精神に、一休さんは殉じていたようです。祖師の精神を“滅却”するなんて、キリスト教やイスラム教ではあり得ない話。このことを、パリのテロ事件の翌日にフランス人研究者主催のシンポジウムで教えられたことに、私自身、強烈な印象を受けました。

 

 

ら苴(らしょ)

 ら苴(ら=くさかんむりに石3つ)とは、「小汚い、不風流、がさつ、野暮、奔放」という意味。瀟洒の反対語とされています。もとは「川僧ら苴、浙僧瀟洒(=四川の山僧は小汚くがさつ。都に近い浙江あたりの僧はこざっぱりして洗練されている)」という言葉から来ているそう。私の好きな映画『ロード・オブ・ザ・リング』や『ホビット』の登場人物に喩えるなら、ドワーフとエルフの対比に近いかな。分かる人にしか分からないと思うけど(苦笑)。

 でも一休さんは「ら苴」がお気に入りで、自作詩集『狂雲集』には「ら苴とはわが一休門派の宿業。女色に加え勇色(男色)も耽る」「ら苴の生涯は酒好き、色好き、唄も好き」なんて詩も残しています。それでもって、髭面でボサボサ頭の肖像まで描かせたのですから、まさに“確信犯的ら苴”です。「不風流を意味する“ら苴”こそ、一休にとっての風流。印可をありがたがって華やかな高座に昇るエリート僧に対する強烈なアンチテーゼ」と芳澤先生。滅宗興宗の精神に通じるようですね。

 ちなみに会場から、一休さんの破戒ぶりは後小松天皇のご落胤という出自が影響しているのでは?という質問がありましたが、この当時、皇族や公家の関係者が出家する例は珍しくなく、一休さんだけが特別な存在というわけではなかったようです。

 

 

一休派

 一休さんは印可を徹底拒否した人ですから、弟子たちにも「自分の後継者はいない、自分の禅を背負う者は自分以外にいない」と言い切っていました。晩年、高齢で病に伏せった一休さんに弟子たちが必死に「誰かを後継者に指名してくれないと先生の教えが絶えてしまいます!」と詰め寄り、根負けした一休さんが没倫という弟子の名を上げ、皆が喜び勇んで没倫にそれを伝えると「馬鹿なことを言うな、先生の長年の言動をみていれば、ウソをついたかモウロクしたか、そのふりをしているかだ、この愚か者めが!」と一喝。で、一休さんが亡くなった後、途方に暮れた人々は、一休の墓が建てられた酬恩庵に年1回集まって、何か困り事があったら皆で話し合って解決しようということにした。一休遠忌に酬恩庵評議を行なうこの結衆スタイルが、なんと、明治33年まで開かれていたと記録に残っているそうです。僧衆と俗衆が協働で僧坊や寺庵の運営を支え、地域コミュニティの中で地に足のついた宗教活動を行なったんですね。

 発表者の矢内一磨先生(堺市博物館学芸員)は「彼らは大徳寺塔頭の真珠庵に“本部”を置き、一貫して黒衣のまま、大徳寺歴代に出世することなく、大徳寺を護り続けた。そこには語録や印可とはまったく隔絶した禅文化を見ることができる。これも法燈の存続に他ならない」と述べられました。一休さんには後継者がいなかったと言われていますが、一休派のこのやり方はきわめて進歩的で、一休さんの系譜らしいと思いました。

 

 

 ほか、一休さんが同世代の人々にどんなふうに評価されていたのか、とか、一休さんは京都五山のエリート衆とは一線を画したものの若い頃は五山文学に影響されて詩の修業をしていたこととか、戦後の左派知識人が一休さんを反体制のシンボルにしたことは江戸時代に「とんちばなしの一休さん」のイメージを造ったことと同じで、時代によって一休像が書き換えられる現象についてなど等、多面的な研究成果が発表されました。主な論点は別冊太陽に紹介されていますので、ぜひお手にとってみてください。


臨済寺ZENカルチャー「茶の湯の中の禅」

2015-09-22 13:52:53 | 仏教

 シルバーウィーク期間中、静岡市の駿府城公園では徳川家康公顕彰400年祭「駿府天下泰平まつり」が開催されています。初日19日の夕方、仕事帰りにちょこっとのぞいてみたら、ちょうど朝鮮通信使のイベントをやっていました。せっかくの400年祭、イベント行列やパフォーマンスばかりじゃなく、終戦70年という節目に鑑みて、朝鮮通信使という格好の教材をもとに家康の平和外交について学術的なシンポジウムでもあれば、と期待していたんですが、観光や商業活性化につながるイベント・パフォーマンスの類にしか予算がつかないんでしょうね・・・。イベント会場をスルーして、知り合いの飲食店主が出展しているビール&地酒ブースへ直行。サッポロ生ビールと磯自慢をクイッといただいて、ほろよい気分で帰りました。

 

 先週は国会での安保法案可決を通して、政治への関心がひときわ高まった一週間でした。世論が分かれる問題に政治家が判断を下すときというのは、やはり政治家自身の知性や人格が試されると実感しました。それら資質は若い頃から積み重ねてきた教養―とくに歴史や地理や哲学といった、入試ではあまり重視されない人文系の科目をしっかり学んで得る人間力に相違ない・・・。そういうことも、家康公の人生から読み解くことができると思います。今川人質時代、臨済寺の太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)から得た教養は、治世者となって政治基盤を築く際に大きな影響を与えたといえるでしょう。

 

 

 家康公の政治家としての資質人格を養ったであろう臨済寺で、9月15日、一般向けの教養講座・臨済寺ZENカルチャーが開かれ、静岡文化芸術大学の熊倉功夫学長が【茶の湯の中の禅】と題した講義を行ないました。長年、臨済寺の茶会に参加されている裏千家の望月静雄先生から聴講を勧められ、主催する駿河茶禅の会でもちょうど熊倉先生が訳注した『山上宗二記』を輪読中ということもあり、行って来ました。以下に先生の講義の聞き書きを勝手にまとめます。私の勝手な解釈が入っていますが、ご容赦ください。

 

 茶の湯と禅が出合ったのは室町時代。いわゆる中世です。政治や文化が、宗教なしでは生まれ得なかった時代であり、ヨーロッパでも同じ。この頃の芸術はキリストを題材にした宗教画や彫刻がほとんどでした。これと対照的に、神仏ではなく人間が主役になったのが近世。日本では江戸時代、ヨーロッパではルネサンス時代ということになります。確かに、モナリザのような俗人が肖像画のモチーフになったことで、人間主役の時代に替わった、といえますね。

 時代を戻して神仏主役の中世。能、連歌、水墨画、歌舞伎、茶の湯などを生み出したのは、社会的に身分が低く、差別を受けていた下層階級出身者でした。森鴎外の『山椒大夫』で凶暴な人買い荘園主として知られた山椒大夫は、大夫が語源で、とは人が住まない場所=役立たずの場所=河原を指し、河原の住人の親分、という意味だったそう。歌舞伎役者もかつては「」と蔑まれていたんですよね。

 そんな下層階級者に救いの手を差し伸べたのが、遊行で知られた時宗の一遍上人(1239~1289)でした。貴賎を問わず民衆の中に飛び込んで、誰でも「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われると説いた人。国宝の一遍聖画には乞食や身体障害者もリアルに描かれています。下層出身者である芸能者の多くも、時宗に入信し、「○○阿弥陀仏」という法名をもらいます。「観阿弥」「世阿弥」といった名前がそうですね。時宗の得度を受けた形になれば、出自を問わず、貴人の側に仕えることができるようになるのです。私は以前、臨済寺にほど近い丸山町にある時宗・安西寺のホームページコンテンツ(こちら)を手伝ったことがあり、時宗について調査し、臨済寺ならびに駿河の仏教寺院については、こちらでも考察しています。それにしても、一遍上人なくては日本の芸能は発展しなかったことを改めて教わって、鳥肌が立ちました。

 

 阿弥号を持つ芸能者は、貴人の側に仕える雑務役として同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれるようになります。彼らが力を持ち始めた14~15世紀頃になると、時宗の勢力が衰え、清廉な芸能者にとっては精神的支柱となる別の宗教が必要となりました。注目されたのが禅です。

 禅宗はご存知の通り、6世紀に達磨大師によって始まり、鎌倉時代、日本から栄西と道元が宋に渡り、それぞれ臨済宗と曹洞宗を学んで開きました。臨済宗では宋の渡来僧や日本人僧によって各地に禅道場が開かれ、14の本山が築かれました。このうち政権の精神的支柱となったのが、いわゆる京都五山。無窓疎石(1275~1351)が中国の五山制度を取り入れ、南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)というランク付けを行ないました。このランク付けは京都すべての禅寺ランキングではなく、この6寺の中で室町・足利政権にとって重要かどうかのランク付けだそうです。

 一方、五山には入っていない、いわば在野派の代表格が大徳寺。開山は大燈国師です。大燈国師のお師匠さん大応国師はわが静岡の井宮出身で、鎌倉建長寺の住持を務めた人です。で、大燈国師のお弟子さん関山慧玄は京都妙心寺の開山。この3人の法系〈応―燈―関〉が、臨済禅の柱になったのですね。その後、ごちゃごちゃになって勢力を失った臨済禅法系を江戸中期の白隠禅師が再興し、今日のZENを築いた、というわけです。

 

 話がずれましたが、在野の禅堂・大徳寺の歴代住職で筆頭に上がるのが一休禅師でしょう。反骨で変わり者といわれた一休さんですが、エリート五山僧とは違い、貴賎を問わず芸能者に禅を説き、庶民に愛されました。やはり静岡に縁のある連歌師宗長は一休さんの大ファンで、大事な家宝の源氏物語写本を売り払って大徳寺三門を寄進。侘び茶の創始者である村田珠光は一休さんから圜悟禅師(「碧厳録」を著した中国の名僧)の墨蹟をもらい、草庵に墨蹟を飾って茶を点てる茶道の原型を築きました。墨蹟とは「喫茶去」「日々是好日」「看脚下」といったお馴染みの禅語ですね。茶室では墨蹟を高僧その人に見立てて礼を尽し、教えを乞う場として位置づけたのです。珠光が弟子の古市播磨法師に書き記した「心の文」には、「此の道、第一わろき事ハ心のかまんかしやう(我慢我執=己の慢心と執着)也」とあり、茶の湯が単なる喫茶文化ではなく、禅の道そのものであると伝えました。

  

 珠光の孫弟子にあたるのが堺の豪商・武野紹鴎。その弟子が千利休です。紹鴎は大徳寺の大林宗套に禅を学び、利休も大林宗套や、大徳寺歴代管首が住持を勤める堺・南宗寺の笑嶺宗訴や古渓宗陳に参禅。利休宗易という法名をもらいました。

 話はまたまた逸れますが、この南宗寺には、徳川家康公の墓があるそうです。大阪夏の陣の茶臼山の戦いで家康は敵から逃げる際に乗っていた駕籠(かご)ごと後藤又兵衛の槍に突かれて重傷を負い、南宗寺に運ばれて絶命したという伝説が残っていて、その伝説に沿うように建てられたとか。太平洋戦争の後、水戸徳川家家老の末裔・三木啓次郎氏が東照宮跡碑として建立し、墓の裏にある賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の名前も。家康公没後400年の記念事業真っ只中の駿府静岡人からしたら「・・・んな、馬鹿な!」と仰天しちゃいますが、徳川秀忠、家光の両将軍が相次いで同寺を参拝している記録もあり、徳川家にとって特別な場所であることは間違いなさそう。駿河茶禅の会でぜひ一度訪ねて検証してみます!

 

 さて利休はそれまで茶室には中国の高僧の墨蹟を飾っていた伝統を破り、あるとき、一休さんが書いた達磨大師の一行句を飾り、「卒塔婆を飾るようでとても良い」と言われたとか。中国高僧の墨蹟は長文で読みづらいし、客人も読む気になれない。でも分かりやすい一行句、しかも日本人が親しむ一休さんの墨蹟なら、墨蹟そのものを一休さんの卒塔婆に見立て、茶を献上するという気持ちになれるというわけです。

 

 利休は、連歌師宗長が寄進した大徳寺三門(金毛閣)を二階建てに建て増ししました。ここに雪駄履きの利休木像が置かれたことから太閤秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられたと伝えられます。真相はさだかではありませんが、熊倉先生は「利休は生死をかけて禅に向き合っていたのではないか」と説きます。一休の墨蹟を卒塔婆に見立てたり、三門への難癖に反論せず黙って切腹を受け容れた。先生が訳注された【南方録】には、利休の教えとして、

 「家ハもらぬほど 食事ハ飢えぬほどにてたる事也。是仏の教 茶の湯の本意也。水を運び 薪をとり 湯をわかし茶をたてゝ 仏にそなへ 人にもほどこし 吾ものむ。花を立て香をたく みなゝゝ仏祖の行ひのあとを学ぶ也」

 と書かれています。雨露しのげる家と飢えない程度の食事があればよいというのが茶の湯の本意とし、茶はまず仏さまに、次に客人に、最後に自分にも、という教え。「茶は、“吾ものむ”で初めて完成する。すなわち、利他と自利の円満なる姿が仏の教え」と熊倉先生。あっそうなんだ・・・と気づかされました。

 茶の湯の精神=おもてなしの原点とは、ひたすら他者に誠意を尽すことだと考えていたのですが、熊倉先生は「客が亭主の心遣いに気づいて感謝する。双方向の思いによって完成するもの」と指摘されました。・・・確かに、いくら亭主が心を尽しても、客が何も気づかず、感じないままで帰ってしまったのでは、その茶席で過ごした時間は互いに無駄になってしまいますね。そう考えると、ときに、秀吉や家康にも茶を点てたという時間は、利休にしてみれば、まさに生死をかけた時間だったのだ・・・と迫ってきます。

 

 利休の孫で千家3代目の千宗旦は81歳まで長生きし、3人の息子に大名家のパトロンをつけて表千家・裏千家・武者小路千家を興した功労者ですが、30歳から60歳ぐらいまでうつ病をわずらい、まともに人にも会えず、“乞食宗旦”と呼ばれていたそうです。唯一話し相手になっていたのが大徳寺の僧たち。生活苦のため、利休から受け継いだ貴重な茶道具を売り払ってしまい、それでも足りないときは大徳寺の僧が墨蹟を書いて売って助けたとか。これも、茶の湯と禅のかかわりを物語るエピソードですね。

 

 江戸時代以降、形式や権威付けによって、茶人は“我慢我執の権化”と揶揄されるようになってしまいました。「日本の芸道は好きもの=数寄もの=風流に執着するものによって発展した。執着しすぎて出家までする武士もいたほど」と熊倉先生。利休の精神から乖離したように見える茶の湯ですが、21世紀の今、形式や権威付けのために学ぼうとする日本人はいないと思う。今こそ初心に戻って、珠光の “我慢我執を捨てよ” と、利休の “仏にそなへ 人にもほどこし、吾ものむ” 精神を見つめなおすときではないでしょうか。

  茶道同様、家康公400年祭のような顕彰イベントも、形式再現で終わるのではなく、顕彰すべき先人の教えや精神を現代に生かす学びの機会にしてほしいと願います。


駿河の仏教宗派

2015-01-22 22:51:57 | 仏教

 私は家族や親戚にお寺の関係者がいるわけでもないのに、なぜか物心着くころからお寺が好きで、このブログでも再三触れているようにお寺さんとは様々なご縁が出来ました。好きなものを好きだ好きだと言い続けていると、不思議なことに次から次へとご縁ができるみたいで、年明け早々、静岡市内の某寺院のホームページを作る仕事をいただきました。目下、酒蔵取材の合間に図書館で資料を読み漁り、今まで知らなかった“駿府の仏教宗派勢力図”みたいなのがわかってワクワクしています。

 

 静岡市内の仏教寺院でダントツに多いのが曹洞宗。次いで臨済宗。いずれも禅宗一派です。今までは漠然と、家康公のお膝元だからなあと思っていましたが、別に徳川家が禅宗オシしてたわけではないようで、大御所時代、家康は仏教全宗派のトップを駿府に集め、「各宗派で寺院や僧を統制するように」と命じたんですね。これが、本山末寺制度の始まり。信長や秀吉が比叡山の僧兵や浄土真宗の一向一揆等に苦労したのを反面教師にして、有力寺院に「大本山」のお墨付きを与え、宗門をコントロールさせた。このピラミッド方式が、今のお寺と檀家さんの関係につながっているわけです。

 

 なんで静岡で禅宗が多いんだろう? いつから禅宗のお寺が増えたんだろう?と調べてみると、面白いことがわかりました。その前に仏教の主要13宗を整理してみると、古い順に、

 

 法相宗(奈良時代) 宗祖/道昭  本山/興福寺、薬師寺  代表寺院/法隆寺

 華厳宗(奈良時代) 宗祖/良弁  本山/東大寺  代表寺院/新薬師寺

 律宗(奈良時代) 宗祖/鑑真  本山/唐招提寺  代表寺院/西大寺

 天台宗(平安時代) 宗祖/最澄  本山/延暦寺  代表寺院/輪王寺、三千院

 真言宗(平安時代) 宗祖/空海  本山/金剛峰寺  代表寺院/智積院、長谷寺

 融通念仏宗(鎌倉時代) 宗祖/良忍  本山/大念仏寺  代表寺院/来迎院

 浄土宗(鎌倉時代) 宗祖/法然  本山/知恩院  代表寺院/増上寺、光明寺

 浄土真宗(鎌倉時代) 宗祖/親鸞  本山/西本願寺、東本願寺  代表寺院/高田専修寺、仏光寺

 臨済宗(鎌倉時代) 宗祖/栄西  本山/妙心寺  代表寺院/南禅寺、相国寺

 曹洞宗(鎌倉時代) 宗祖/道元  本山/永平寺、総持寺  代表寺院/大乗寺、妙厳寺

 日蓮宗(鎌倉時代) 宗祖/日蓮  本山/久遠寺  代表寺院/本門寺

 時宗(鎌倉時代) 宗祖/一遍  本山/清浄光寺  代表寺院/無量光寺

 黄檗宗(江戸時代) 宗祖/隠元  本山/萬福寺  代表寺院/崇福寺

 

 駿河の国というのはもともと天台宗や真言宗の力が強かったようで、今の久能山東照宮の場所にあった久能寺は大小150余りの伽藍を有する天台宗の大寺院。また建穂寺(たきょうじ)は“駿河の高野山”と呼ばれるほどの真言密教の大寺院で、この2寺が駿河の宗教地図を二分していたそうです。

 駿河生まれの名僧といえば、なんといっても静岡の茶祖・聖一国師(1202~1280)。藁科川上流の栃沢出身です。聖一国師は幼い頃、久能寺で天台宗の教えを学びました。さらに井宮出身の大応国師(1235~1308)。幼い頃、建穂寺で真言宗の教えを学んだそうです。このお2人はご承知の通り、その後、臨済宗―日本の禅宗を代表する高僧となりました。江戸期以降の本山末寺制度がなかったこの頃は、いろんな宗派を自由にハシゴ修行できたんですね。

 

 お寺はもともと一つの氏族がスポンサーになり、高僧を招いて開山とし、一族の慰霊や繁栄を祈願する、というパターンで増えてきました。学問的要素の強かった奈良仏教系、現世利益を求め貴族階級に支持された密教系、そして日本独自の発展を遂げた鎌倉仏教のうち、念仏系の浄土宗派は民衆に、坐禅を旨とする禅宗派は武家階級に広まりました。

 今川氏初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。その範国は清水の真珠院(一説には遠江見附の正光寺)に、二代範氏は島田の慶寿寺、三代泰範は藤枝の長慶寺と、代々個別に埋葬されました。今川氏クラスの名家ともなると、一族一寺ではなく、一代一寺の香華院(=菩提を弔う寺院)を築く力があったんですね。

 今川氏は10代、230年に亘って駿河遠江を治め、香華院は10ヶ寺。しかし大半は廃寺となってしまい、現在残っているのは七代氏親が眠る増善寺と、八代氏輝の臨済寺のみ。慈悲尾にある増善寺は法相宗の宗祖道昭が681年に開いたという名刹で、法相宗→真言宗と変遷し、氏親が曹洞宗に改宗させました。彼は幼いときに父義忠を亡くし、家督争いに敗れて焼津の法永長者に匿われた。法永が榛原に創建された曹洞宗石雲院の賢仲和尚に帰依しており、氏親は石雲院の支援を受けて家督を奪取。これがきっかけで曹洞宗が勢力を広げたようです。

 氏親の葬儀は戦国時代でも例を見ない大規模な葬儀で、「葬儀記」という記録まで残っているほど。以前、葬送の歴史について調べた内容を思い返し、戦国大名が葬祭の意味合いを大きく変えていったんだろうか…とふと思いました。

 

 臨済寺は氏輝自ら建立し、京都妙心寺から大休和尚を開山に迎えました。大休和尚は後奈良天皇と師弟関係にあったことから、「勅東海最初禅林」のお墨付きをもらい、ともに大岩にあった五代範忠が眠る宝処寺、六代義忠の長保寺、九代義元の天沢寺を吸収合併し、磐石な勢力を築きました。

 ちなみに、臨済寺の28代倉内大閑老師は昭和61年から平成3年まで臨済宗妙心寺派655世管長を、また羽鳥にある曹洞宗洞慶院の丹羽蓮芳老師は昭和60年から平成5年まで永平寺77世貫首を務められました。同時期に禅宗2大宗派のトップを輩出したなんて、聖一国師&大応国師以来、駿府静岡が脈々と繋いだ禅宗法系の底力を感じさせてくれます。

 

 イスラム国の邦人殺害予告のニュースを観るにつけ、宗教を利用する支配者、支配者が求める宗教について考えさせられます。日本でも、家康が天下泰平を築くまで、仏教宗派は戦国武将に呼応するように勢力地図を塗り替えてきました。家康が確立させた本山末寺制度というのは、今の檀家制度の基盤になったと考えると堅苦しく思えますが、寺が同一宗派で組織的に機能し、各地域の末寺が区役所や掛かりつけ医や生涯学習センターのような役割を果たしていたことを考えると、徳川時代は社会の中で宗教がうまく潤滑していた時代だったのではないでしょうか。

 維新後、明治政府は徳川時代の制度をすべてひっくり返すべく廃仏毀釈を進めた。同時に欧米からいろんな宗教や価値観が入ってきたことで、せっかく仏教によっておだやかにまとまっていた日本人の宗教観まで混乱してしまいました。今の日本人が宗教に無頓着でチャンポンだ、なんて揶揄されてしまう遠因もそこにあるような気がします。

 

 ふるさと駿河が培ってきた宗教観について、もっとちゃんと勉強していきたいと思っています。


奈良の初詣巡礼

2015-01-04 20:08:49 | 仏教

 2015年あけましておめでとうございます。今年も【杯が乾くまで】をよろしくお願いいたします。

 

 大晦日から元日にかけ、友人と奈良へ初詣ドライブに行ってきました。急に思い立って計画したので、行き当たりバッタリの珍道中。新年早々ヘビーな体験の連続でした。

 ギリギリまで原稿書きに追われた大晦日、15時ころ、磐田市に家族の菩提寺がある友人を「ららぽーと磐田」でピックアップして、4時間ちょっとで桜井駅前の素泊まりの安宿に。周辺に食堂らしきものはなく、コンビニできつねどん兵衛と緑のたぬきを買い、持参した【國香】と、ららぽーとで買った乾きモノで、紅白を見ながら2014年最後の晩餐。23時過ぎに宿を出発して、JRで一駅の三輪へ。2015年は大神神社で年越しです。

 

 大神神社。祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、 方除(ほうよけ)、治病、造酒、製薬、禁厭(まじない)、交通、航海、縁結びなど世の幸福を導く人間生活の守護神です。 地酒ファンにとっては酒蔵の軒下に吊り下がる酒林(杉玉)発祥の神としてもお馴染みですね。杜氏の高橋活日命(たかはしのいくひのみこと)が祭神の神助(しんじょ)として美酒を醸したことから、医薬の神様や酒造りの神様として広く信仰を集めています。

 私は奈良に来るたびに時間があればお参りしていますが、初詣は初めて。しかも1月1日午前1時から、日本で一番早いお祭り=繞道祭(にょうどうさい)が執り行われるとあって、今年はこれでスタートしよう!とはるばるやってきたわけです。

 繞道祭はご神火を小松明に点し、2人の神職が拝殿内を走り出て、拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれ、先入道・後入道と称する2本の大松明(長さ約3メートル)と、少し小さめの神饌松明の計3本を氏子の若者がかつぎ、神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝するという火祭り。します。ちなみに繞(にょう)とは、「めぐる」という意味だそう(・・・まだまだ知らない漢字があるなあ。反省反省)。松明の炎を見ていると、意味もなく高揚してきちゃいました。

 

 酒林(杉玉)は、大神神社のご神木である杉に霊威が宿ると信じられ、酒屋の看板代わりに杉葉を束ねて店先に吊るす風習が生まれました。杉には滅菌効果があるので醗酵を司る作業場に適していたともいえます。

 元禄期、英一蝶が大徳寺門前の又六という酒屋の前で酩酊している一休さんを描いた「一休禅師酔臥図」という画があり、ここに酒林らしき杉葉の束が描かれています。一休さんが謳った「極楽を いづくのほどと 思ひしに 杉葉立てたる 又六が門」(極楽がどこらあたりだろうかと思っていたが、杉の葉をしるしに立てた、酒屋の又六の門であった)という歌がベースになっているそう。・・・ったく禅の坊さんってしょうがないなあと微笑ましくなってしまいます。大神神社では酒林は売っていませんが、毎月1日にはお清めをうけた杉の葉をばら売りしてくれるので、今冬取材でお世話になる蔵元さんへの手土産にゲットしました。

 

 

 元旦の未明までは思ったほど寒くなく、月や星まで見えて「お天気良くなるじゃん」と友人と喜んでいたのもつかの間、陽が昇ってからは寒気がドッと押し寄せてきました。朝9時ごろ宿を出て、午前中向かったのは大安寺。かつて東大寺や興福寺と並んで南都七大寺の一つに数えられた古刹で、今は厄除け・ガン封じの祈祷寺として知られています。ガン闘病中の友人に勧め、ご祈祷を受けることに。大般若経の転読に私も立会い、功徳のおこぼれに預かることができました。

 

 

 古典芸能に親しむ友人の希望で、次に訪ねたのは當麻寺。ちょうど13時から護摩祈祷が始まるというので、不動尊が祀られる中之坊護摩堂に入れてもらい、般若心経と不動明王慈救呪を読経しました。願い事を書いた護摩木が不動尊の炎に投じられる約1時間、ひたすら繰り返しの読経。般若心経は何度も読んだことがありますが、慈救呪は初めて。「ノーマクサーマンダーバザラダン センダンマカロシャダ ソワタヤ ウンタラターカンマン」というやつです。

 狭い護摩堂の中に我々を含めて10人ほど。1時間強の正座と読経はちとキツく、堂内は次第に炎の熱と煙に覆われ、息苦しくなってきます。煙が天に届くと、天がそれを食し、代わりに人に福を与えるというバラモン教由来の教えなんだとか。お香の渋~いスモーキーフレーバーが全身に染み付いてきます。ご祈祷がひと段落したあと、ビリビリ状態の足を引きずりながら護摩壇の残り火を拝んだら、テレビでしか見たことのない密教系の護摩行を体感した驚きと、痺れるような充足感を感じました。

 

 中之坊には片桐石州が改修した池泉回遊式庭園と石州が建てた茶室「丸窓席」があります。當麻寺といえば曼荼羅で有名な中将姫の印象しかなかったのですが、数多くの文化財を有し、今ではお抹茶体験、曼荼羅の写仏体験、尺八体験なんていうのも出来るそうです。あらためてじっくり訪ねようと思いました。

 

 

 次いで、昨年10月の茶道研究会京都研修で飛び込み参加してくれた奈良在住の同級生にお礼がてら、法隆寺へ。彼女の嫁ぎ先の実家が法隆寺のすぐそばにあり、「元日はさすがに嫁らしいことをしないと」と時間のない彼女にわざわざ法隆寺門前の茶店まで出て来てもらい、年始がわりに磯自慢の新酒を贈りました。

 法隆寺を訪ねるのは20年ぶりぐらい。拝観料が1500円になっていてビックリ!!でしたが、百済観音や夢違観音や玉虫厨子が間近に見られる大宝蔵院には大満足でした。百済観音のお顔、こんなに人間的で慈悲深くお美しかったのかとしみじみ。1500円払う価値は十分です。

 久しぶりに仰ぐ夢殿も、こんなに美しい建造物だったのか・・・と認識を新たにしました。八角円堂という建築スタイル、中国の八方位陰陽説がベースになっているようで、八角をつなげると限りなく円に近づく。円の中心には聖徳太子の化身と言われる秘仏救世観音像。この配置、つくづく宇宙的ですね。

 

 

 16時過ぎ。法隆寺門前の茶店を出て帰路に付こうと思ったら、雪が降り始めていました。名阪国道を東に進むにつれ、次第に雪が激しくなり、伊賀サービスエリアでトイレ休憩をとったはいいけど、サービスエリア出口から数珠繋ぎ状態。2時間動けず、雪はずんずん積もってきます。

 

 友人は過去に伊勢参りのドライブで雪に遭い、ノーマルタイヤで何度もスリップ事故を起こしそうになったそうでトラウマになっていました。彼女を落ち着かせようと「大丈夫、こんなノロノロ運転なら事故ることないって」「あれだけ火の神様を拝んできたんだから安心して」って言いつつ、フロントガラスが凍りつき始め、視界が悪くなって、内心やばいやばいと冷や汗。ハンドルを握り締めたまま硬直してしまったとき、タイミングよく彼女が除湿ボタンを押してくれて一気に視界が開け、「はぁ~一人じゃなくてよかったぁ」と安堵しました。

 道路サイドには立ち往生した車がゾロゾロ。走行をあきらめて雪被り放題の乗用車もありました。前を走るのが軽自動車だと、車体ヨロヨロ、タイヤもズルズルで「もらい事故したくないよぉ」と車2台分ぐらい車間距離を空け、伊賀から亀山までは時速20キロ以下、ほとんどエンジンブレーキだけの牛歩前進でした。伊勢湾岸道路に出たのは23時過ぎ。刈谷サービスエリアで夕食をとったのは午前0時を回っていました。交通情報で名神や新名神は通行止め、名阪国道も下り大阪方面は通行止めと知り、「やっぱり火の神様に守られたんだ」としみじみ…。新東名に入ってから「横風注意」の警告サインを見て、友人と「静岡ってつくづく平和だねえ~」と笑ってしまいました。

 

 睡魔と激闘しつつ、午前3時に無事帰宅しました。下界へ戻るのに11時間・・・それだけ神仏の世界は遥か遠く、貴かったんです(笑)。というか伊賀越えってホントにキツいんだなあと実感。本能寺の変のときの家康公の災難を想起します。

 せっかくありがたいご祈祷を受けたのにシンドイ思いをさせてしまった友人と、難路を乗り切ってくれた愛車アクアに感謝。スモーキーフレーバーがいまだ染み付いたままのダウンコートにも頼れる防寒具として感謝感謝です。

 友人からは「運がよかったと思っちゃダメだよ」と釘を刺されました。ホント、今冬のお天気はつくづく油断できません。スタッドレスやチェーン装備のない人、絶対に無理しないでくださいね!