杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

寅年関西初詣&遊学

2022-02-01 16:30:22 | 歴史

 2022年も2月に入ってしまいましたが、改めて、本年もよろしくお願いいたします。

 昨年末からいくつかの執筆業務に追われ、慌ただしい年明けでした。12年ぶりに迎えたわが干支かつ記念すべき還暦の年ですから、初詣だけはちゃんとしておこうと、1月9~10日に寅の寺で名高い奈良信貴山の朝護孫子寺、大阪の十日戎今宮神社、1月21~22日には京都妙心寺、相国寺、松尾大社を巡りました。朝護孫子寺の初おみくじで「凶」を引くなど御利益は期待できそうにありませんが、観光客が少ない真冬の古都散歩で、久しぶりに静かで心穏やかな時間を過ごすことができました。ということで本年最初の投稿は、1月の関西初詣&遊学の備忘録です。しばしお付き合いくださいませ。

 

1月9日 大阪くらしの今昔館「茶室起こし絵図」展

 前回のブログ記事で昨年11月に朝鮮通信使地域連絡協議会総会で大阪入りしたことに触れましたが、この時、空き時間に鑑賞し、とてもユニークで見応えがあった展覧会。後日、駿河茶禅の会で報告し、興味を示した友人を伴って再鑑賞しました。

 展示されたのは、江戸幕府の大工頭を務めた中井家に伝わる重要文化財「大工頭中井家関係資料(5195点)」のうち、建築指図・絵図645点の中の一部。起こし絵図というのはご覧のとおり、厚紙に書いた設計図を組み立てたもので、基本的に現存する建物を平面と立体で表現し、建築に関する詳細な情報を保存管理します。建築分野に昏い自分にとっては初めて見るものでした。

 中井家初代藤右衛門正清(1565~1619)は関ヶ原直後から伏見城、二条城、駿府城、名古屋城、日光東照宮の作事を担当し、茶人の古田織部や小堀遠州とも親しかった人物。二代正侶(1600~1631)は大阪城の拡張工事や仙洞御所の造営を手掛け、三代正知(1631~1715)・四代正豊(1692~1735)の時代に茶室起こし絵図の製作を始めたようです。

 会場では国宝「待庵」をはじめ、表千家座敷「残月亭」、裏千家茶室「又隠」、大徳寺龍光院「密庵」、大徳寺孤篷庵「忘筌」、鹿苑寺(金閣)茶室「夕佳亭」、高台寺茶室「傘亭」「時雨亭」等など、茶道を聞きかじったばかりの私でも知っている名だたる茶室の起こし絵図がズラリ。

 数寄屋造りの茶室や書院は、細部に亘って亭主のこだわりや工夫が施され、とても複雑な造りになっていますから、プロがきちんと計測・記録した上で立体的に理解できるようにし、しかも折りたためばどこにでも持ち運びできるという絵図は亭主や施主からも重宝されたことでしょう。起こし絵図のパーツを作るのも一つの技術のようです。火事や自然災害の多い日本で、伝統的な木造建造物が災禍を乗り越え、復元され続けてきたのは、こういう職人技術の下支えがあったんだなあと胸が熱くなりました。

 

1月10日 信貴山朝護孫子寺

 信貴山は河内と大和を結ぶ要衝にあり、山麓にある朝護孫子寺(こちら)は、聖徳太子が物部守屋討伐の際、寅年の寅の日、寅の刻にこの地で毘沙門天王から必勝の秘法を授かったという縁起を持ちます。といっても自分は今まで阪神タイガースファンの聖地だという認識しかなかったのですが(苦笑)、とにかく今年の初詣にふさわしいと思い、同じ寅年の友人と共に参拝しました。

 

 境内はとても広く、本堂に着くまでにたくさんの塔頭や神社が点在する神さま仏さまのテーマパークのよう。神仏習合時代の名残がそこかしこに感じられました。

 毘沙門天王を祀る本堂では「戒壇めぐり」を体験。約900年の昔、覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が毘沙門天王より授かった「如意宝珠」を本堂の地下に祀っており、宝珠を納める錠前に触れると心願成就のご利益があるそうですが、なにしろ地下は真っ暗闇の迷路。ダイアログ・イン・ザ・ダークのお寺版というのか、視力を失った人はこういう世界で生きているのか!という畏怖の念をまざまざと感じました。錠前は無事触れることができましたが、それよりもほんの数分の回廊めぐりが永遠に続くような不思議な体験でした。

 塔頭の千手院では、ちょうど1月10日まで護摩焚き祈祷をしていたので、護摩木に「感謝」の文字を添えて焚いていただきました。昔なら「心願成就」等など願い事を強くお祈りしたものですが、年相応に力が抜けてきたのか、〈今、生かされていることに感謝〉というのが一番しっくりくるようです。これもコロナ禍の心理的影響なのかな・・・。

 

1月21日 花園大学歴史博物館公開講座「五山文学の宝蔵を開く」/「両足院ーいま開かれる秘蔵資料」展

 前回記事で紹介した花園大学歴史博物館の「両足院ーいま開かれる秘蔵資料」を鑑賞し、関連する公開講座「五山文学の宝蔵を開く」を受講しました。両足院所蔵物を長年調査されてきた京都国立博物館名誉館員の赤尾栄慶先生が、調査の経緯や内容、そして歴史文書の保管・承継の意義について、国立博物館研究員の立場から貴重なお話をしてくださいました。

 五山文学とは、日本の中世(鎌倉~室町)に京都・鎌倉の五山禅僧が親しんだ漢文学で、主に七言詩や五言詩の型式で作られました。両足院は室町時代に五山文学の中心となり、多くの書画を所蔵。科学的調査は21世紀に入ってから本格的に始まり、赤尾先生は2004年から2006年にかけて国の科学研究費補助事業となった『五山禅宗寺院に伝わる典籍の総合的な調査研究ー建仁寺両足院所蔵本を中心に』で指揮を執られました。その後、再び補助採択を経て、2011年までに第1函から181函(1函@60冊)までの書目を調査しました。

 この中には、前回記事のとおり、片山真理子さんが紹介された以酊庵関連の資料(こちらを参照)のほか、余象斗本(1592年刊)の三国志伝1~8、19~20巻があります。現存する同本は英国ケンブリッジ大学が6~7巻、独ヴェルテンベルグ州立図書館が9~10巻、オックスフォード大学が11~12巻、大英博物館が19~20巻を所蔵しているとのこと。両足院のコレクションがいかにスゴイかが解りますね!

 赤尾先生のお話でひときわ心に残ったのは、「1250年前の古事記・日本書紀以来、一度も途切れずに国の歴史を記した書物が残っている、しかも1250年前の書物がそのまま今でも読めるという国は日本だけ」という言葉。文献保護の在り方についても「和紙に墨で書かれた書物は、湿気や火気さえ気をつければ半永久的に残る。事実、日本人はちゃんと残してきた。デジタル化がベストだとは思わない」と強調されていました。このコメントは、起こし絵図を伝え残した中井家の職人達の心意気にもつながるような気がしました。

 それにしてもこの日、花園駅で降りたら横なぐりの雪でビックリ。慌てて駅のコンビニでビニール傘を買い、せっかくなら雪化粧を拝もうと妙心寺退蔵院まで足を運びました。赤尾先生も「初弘法の日にこんな大雪が降ったのは初めてじゃないですか」とビックリしておられましたが、白雪の古寺って本当に絵になりますね。

 

1月22日 松尾大社/相国寺承天閣美術館ー継承される五山文学展/京都国立博物館「寅づくしー干支を愛でる」展

 翌日は朝、松尾大社をお詣りしました。コロナ前は年に1度はお詣りに来ていましたが、ここ2年ご無沙汰でした。さすがに22日ともなると初詣の人はほとんどおらず、静かな社殿を独り占めできました。

 門前の京漬物「もり」で松尾大社限定の酒粕漬けを購入したら、重さ3㎏はある聖護院かぶらをサービスしてくれました。これを持って帰るのか・・・!と一瞬ビビりましたが、頑張って静岡まで背負って帰って、漬物の素で即席千枚漬けにしてみたら、これが驚くほど美味で、さすが大根の質が違うんだなあと感心しました。

 いったん京都駅まで戻ってコインロッカーにかぶらとビニール傘を預け、相国寺承天閣美術館へ。両足院展につながる『禅寺の学問ー継承される五山文学』展(こちら)を鑑賞しました。初公開の「對島以酊眺望之図」や、宗義成と朝鮮国使が交わした朱印状など、朝鮮通信使を学ぶ者にとって貴重な史料も並び、改めて、中世~近世の禅僧が日本の外交の一翼を担っていた最先端インテリジェンスだったのだと実感しました。

 遊学の締めくくりは京都国立博物館の『寅づくしー干支を愛でる』展(こちら)。同館が所蔵する様々な虎の姿を時代別に鑑賞しました。生きた虎を見たことがない日本人がどのように想像を膨らませて表現してきたか、見比べてみるとその人なり、その時代なりの価値観が見えてきて面白い。今ならば地球外生物を空想して漫画や映画で表現するような感じでしょうか。

 展示の一角に、朝鮮通信使画員の李義養が描いた両足院所蔵「嗥虎図」を見つけ、嬉しくなりました。朝鮮国の絵描きさんはホンモノの虎を見たことあるのかな。2月13日まで開催していますので、機会がある方はぜひご覧になってみてください。 

 


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チイチイ餅と食い別れ

2021-07-16 20:46:41 | 歴史

 久しぶりの投稿です。お休み期間も過去記事に多くのアクセスをいただき感謝いたします。ブログを書き始めて15年になりますが、時間が経っても必要とされる人に届く記事を書きたいと願ってきたので、心から嬉しく思います。

 誰かに必要とされる記事を書き続ける―その自信とモチベーションを持ち続けるのに、私の場合、外を走り回って人に会い、場の空気を感じ、たくさんの刺激を脳に与えることが必須で、コロナ禍の行動制約は、自覚する以上にダメージとなっていました。ある特定の記事に酷い中傷コメントを連発されたことも、じわじわとボディブローのように気持ちを萎えさせた一因でした。

 まだまだ制約の多い毎日ですが、外に出る仕事が少しずつ戻ってきて、それに伴う新たな調査や資料読みが刺激をもたらし始めています。これから少しずつ更新頻度を上げていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 

 先日、某メディアから、このブログで2012年7月に書いた『風流と慰霊のはざまで~安倍川花火の今昔』という記事(こちら)について問合せがありました。文中の〈花火は徳川時代、泰平の世にあっても武家の伝統として砲術・火術の秘法を守ろうと譜代の若者たちが継承してきたもの〉という節の根拠は何かという問合せ。これを書いたときは安倍川花火大会公式HPの記事(こちら)を参照しただけで、自分で江戸時代の花火史を調べたわけではなかったので、少々気まずい思いをし、やはり個人ブログといえども歴史を取り上げるときは二次資料ではなく、可能な限り一次資料を当たり、エビデンスを示さねばと痛感しました。

 

 現在、取り組んでいるのは昔から関心を寄せていた葬礼にまつわる考察。静岡県民俗学会誌第23号に掲載されていた松田香世子先生の『食い別れの餅』という論文に惹かれ、松田先生が参考にされた新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』、新谷先生が参考にされた柳田国男の『食物と心臓』へと読み進めるうちに、御飯・餅・酒など米を原料にしたもの、あるいは米そのものが、死者と生者をつなぐ重要なものだったと解り、知的興奮を得ています。

 

 私が生まれた清水には、お盆とお彼岸に〈チイチイ餅〉を供える風習があります。松田先生の『食い別れの餅』によると、もともとはお葬式に出された餅で、出棺前後に死者と生者が最後に共食して縁を絶つ “食い別れ” の儀式で食べていたそうです。

 同様に、裾野では出棺のときに庭で餅つきをし、由比では〈チューチュー餅〉という塩餡の餅を配り、福田ではお葬式の朝に餅つきをし、参会者の食事に出していたそう。

 浅羽ではお葬式から3日後の精進落とし(=ミッカノモチ)として夜なべして餅をつき、親類や寺などに配り、四十九日にも餅をついて49個に切り分けて配ったそう。

 チイチイ餅は、四十九日のときも寺へ持参し、仏さまにお供えします。つまり仏さまとの食い別れをも意味するといいます。菓子店のしおりによると、チイチイ餅の名前の由来はネズミのかたちに似ているから、だそうですが、松田先生は 〈キチュウ(忌中)〉が語源ではないかと考察されます。

 志太榛原地区にもチイチイ餅によく似た〈ハト〉〈サンコチ〉という正月餅があり、〈サンコチ〉は女性の陰部!を指す隠語だそう。五穀豊穣や子孫繁栄を願って供えられたのでしょうか。〈ハト〉は山梨の〈ホウトウ〉、東北の〈ハットウ〉、長野の〈オハット〉等々、全国に似たような名前の郷土料理があり、松田先生は「いずれも手で握るカタチが基本」と考察されています。チイチイ餅はお汁粉に入れるチギリダンゴのように、小麦粉を水で溶いて手で固めてちぎる素朴な餅、というわけです。

 柳田国男は『食物と心臓』の中で、餅はもともと心臓を模したものという仮説を立てています。信州ではミタマ様という三角形の握り飯をお供えすることから、

食物が人の形體を作るものとすれば、最も重要なる食物が最も大切なる部分を、構成するであらうといふのが古人の推理で、仍つて其の信念を心強くする為に、最初から其の形を目途の方に近づけようとして居たのでは無いか」と。

 

 食い別れの餅であるチイチイ餅が、正月餅のハトやサンコチと形がよく似ているのは、ミタマをまつるという共通の意味があったのですね。しかも穀物の粉を握って作ることに意味があり、ミタマ=いのちを指し示すように心臓や女陰を模して作る。これほどの米の力が、食い別れから忌み明けに必要とされていたのです。

 米の力といえば、餅だけでなく酒も同じ。新谷尚紀先生の『日本人の葬儀』によると、

〇死者の身体をタライの湯で洗う湯灌の役目は、酒を飲んでから行う。これを“湯灌酒”という。

〇墓の穴掘り当番にあたったら、握り飯やおかずや豆腐とともに酒がふるまわれ、握り飯や酒は決して残してはいけない。火葬の場合も焼き場の当番は夜通し酒を飲みながら焼く。

という風習が東北~関東、近畿、四国、九州の一部に残っていたとのこと。葬礼そのものが家から離れ、ほとんどを葬儀業者に委託するようになった今では想像もつかない作業ですが、長い間、日本人は死と直接、接触するときに、酒=米の力をいかに必要としていたかが伝わってきます。

 

 ちょうどこれらの本を読み込んでいたとき、ある若い女性から「稲作って地球環境を悪化させるんですよね」と指摘され、ギョッとしました。稲作は人間が作り出すメタンガスのうち約10%を占める排出源とされ、田んぼから発生したメタンガスは、イネの根や茎を通って大気中に放出され、回収は難しい。まさに現代農業が抱えるジレンマです(水田から発生するメタンを削減させる研究も進んでいますのでこちらを参照してください)。

 柳田国男が生きていたら、このジレンマをどのように考察するでしょうか・・・。

 

 


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尺八&箏曲が伝える物語

2020-02-02 20:11:16 | 歴史

 令和2年も節分立春。年齢を重ね、経験値が溜まると、新たな出来事にいちいち感動することが少なくなって日々がマンネリ化し、月日が経つのも早く感じるといいますが、この年始は感動のセンサーが珍しくよく働いて、時間が少しゆったり感じられました。ブログ更新もスローモードになってしまってますが、今年もどうぞよろしくお付き合いくださいませ。

 

 1月11日、静岡音楽館AOIで『新春 ZEN YAMATO ジョイントコンサート』を鑑賞しました。ZEN YAMATOとは、尺八の善養寺惠介氏&箏・三絃の山登松和氏による古典音楽ユニット。三曲(箏・三絃・尺八)は雅楽がルーツで、三絃といえば口承文学の語り部が伝え、尺八は深編笠姿の虚無僧が托鉢しながら伝えたことでも知られます。

 AOIの会員割引券も期限間近だから、正月らしく邦楽でも聴きに行くかと軽い気持ちで行ったところ、とても興味深い演目ばかりでした。

 

〈尺八古典本曲〉は、禅宗のひとつ・普化宗の虚無僧が修行のために吹いていたものです。尺八本曲の世界では、尺八一管の内に森羅万象を蔵すという思想があるそうで、目を閉じて、霧に覆われた湖に浮かぶ小舟に乗った自分を瞑想するとどこからともなく聞こえる笛の音や、霧が晴れてもなお耳の残る笛の音・・・そんな調べの世界を表現しています。なるほどこれは禅の瞑想トレーニングに有効だと思いました。

  普化宗の始祖・普化は、9世紀に臨済義玄とも交流があったことから臨済宗の一派に考えられるのですが、檀家を持たず、尺八を吹き托鉢することを唯一の修行法にし、一切の仏教法事を営まないという異例の宗派。江戸時代は虚無僧の格好をしていれば諸国を自由に往来できたので、隠密活動にも重用されたんですね。

 今は京都の東山にある普化正宗明暗寺が総本山になっていて、尺八の根本道場もあるそうですが、かつては浜松に普大寺という虚無僧寺がありました。場所は旧七軒町(現・成子町)で、ここは後にヤマハの創業地になったのです。

 ヤマハの創業者山葉寅楠は浜松高等小学校のオルガンを修理したことをきっかけに、飾り職人の河合喜三郎と一緒にオルガンのレプリカを製作。明治維新の改革で廃寺となった普大寺の庫裏を借りて、明治21年に山葉風琴製作所を創業します。寅楠はここが尺八ゆかりの寺の跡だって知っていたんでしょうか・・・いずれにしても、虚無僧が尺八を奏でた寺の跡に、世界的な楽器製造メーカーが起業の一歩を刻んだなんて面白い偶然ですね。

 

 箏曲ではなんといっても菊岡検校の〈笹の露〉。酒の功徳をたたえた歌詞が付いていて、これが、私が研究している酒茶論の内容そのものでした! 

 

 酒は量りなしと宣ひし 聖人は上戸にやましましけむ

 三十六の失ありと 諫め給ひし

 仏は下戸にやおはすらん 何はともはれ 八雲立つ

 出雲の神は 八塩折りの 酒に大蛇を平らげ給ふ

 これみな 酒の功徳なれや

 大石避けつる畏みも 帝の酔ひの進むなり

 姫の尊の待ち酒を ささよささとの言の葉を 伝へ伝へて今世の人も

 聞こえをせ ささ きこし召せ ささ

 劉伯倫や李太白 酒を呑まねばただの人

 吉野龍田の花紅葉 酒がなければただの所

 よいよいよいのよいやさ

 

 箏のお稽古経験をお持ちの方や、お座敷文化にお詳しい方ならよくご存知だと思いますが、いずれも縁の無い私にとっては初めて聴く箏曲です。日本の歴史や伝統について、自分が知っていることって本当にほんの一握りで、まだまだ底なし沼のように深いなあと改めて思い知らされました。

 今更ですが、邦楽は、禅の歴史や酒の文化をもしっかり伝承している、これこそ本物のカントリーミュージックだと気づかせてくれた、新年早々幸先の良いコンサートでした。


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『酒飯論』『酒餅論』-上戸と下戸の飽くなきバトル

2019-07-09 13:23:06 | 歴史

 酒茶論に続く『酒 vs 〇〇』の異類合戦物のご紹介です。

 まずは『酒飯論』。作者は不明ですが、禅僧が漢文で書いた酒茶論よりも和文&絵巻物で読みやすく親しみやすく書かれています。図書館でも、こういう本がピンポイントでヒットしました。

 

 酒飯論の中身は4つの段落に分かれていて、第1段は登場人物紹介。お酒大好きの〈造酒正糟屋朝臣長持〉と、ご飯派の〈飯室律師好飯〉というお坊さんの紹介です。2人の名前が取って付けたみたいで笑えますね!

 第2段は上戸代表・長持が語るお酒の効能。李白や白居易の漢詩、源氏物語や伊勢物語に謳われた酒の風流を紹介し、春の曲水、秋の重陽の節句の宴席に酒盃は欠かせないことや、酒宴の余興に管弦乱舞、白拍子、神楽などさまざまな伎芸が行われていたことを強調。「酒は憂いを消す」「酒に酔った上での失敗は許される」「南無阿弥陀仏を唱えれば破戒であっても救われる」と締めています。

 第3段は 下戸代表・律師好飯が説く飲酒の弊害と茶飯の効能。長持は下戸の悪口はあまり言わないのですが、好飯は上戸を容赦なく非難します。まずは、項羽と劉邦の有名な「鴻門の会」や、殷の紂王の「酒池肉林」など酒で身を滅ぼした故事の紹介。「鴻門の会」は軍力では優位に立っていた楚の項羽が漢の劉邦を陣地に迎い入れ、酒の飲み比べをするうちに気が大きくなり、だまし討ちしようとしていた部下を無視し、劉邦をそのまま帰してしまうというお話。「酒池肉林」は紂王が愛妃を喜ばせようと大量のお酒で池をつくり、お肉の塊を林のように束ねるぐらい超贅沢な酒宴を開いたというお話( “肉欲” の意味はないみたいです)。好飯は項羽や紂王まで引っ張り出して酒は国をも滅ぼす元凶だとしたと強調したわけです。酒のせいばかりじゃないでしょ!ってツッコミたくなりますが…。

 さらには酒飲みの愚行として「クダを巻く」「千鳥足でふらつく」「赤ら顔がド黒くなるのは醜い」「口が臭い」「二日酔いで仮病をつかう」と。・・・こりゃ昔も今も変わらない、キツくてイタ~いご指摘ですね(笑)。

 この後、四季折々の赤飯、麦飯、粟もち、ちまき、亥の子餅など飯餅を総動員してそのおいしさや美しさを褒めたたえ、酒盃に対抗して茶器の価値をアピール。「静かに遊ぶ茶の会は酒盛りよりも面白い」「飯は五味の調熟、味は法喜禅悦」と締めくくります。

 

 第4段は中戸の〈中左衛門仲成〉という人物が説く「ほどほどがいいんじゃない?」という主張。上戸の酔態や下戸の口の悪さは「すさまじい」と両者にツッコミを入れた後、「戒律を堅持する人であっても、禁欲主義者より一杯傾ける人の方が勝る」「宴会、遊興、四季折々、食事の席に酒は欠かせないが、ほどほどが肝」と仲裁役らしいコメント。最後に、「気も過ぎたるも、とりくるし、正体なきも、をこかまし、中なる人のこころこそ、なかき友には、よかりけれ」・・・むやみに気を回されるのは嫌味に感じるし、正体ないほど酔いつぶれるのも見苦しい。ほどほどの心遣いがあってこそ長い付き合いができるものだと結論付けます。これを読んだときは、日本人の精神構造って500年前とそんなに変わっていないんだなあと、なんとなく嬉しくなりました。

 

 参考にした漢文学者・三瓶はるみ氏の論文『日中の酒にまつわる論争について-「酒飯論」を中心に』では、上戸の長持は浄土宗、下戸の好飯は法華宗(日蓮宗)、仲成はさまざまな宗派の教えを包含する天台宗の象徴ではないかと解説しています。酒vs飯の背景に宗派バトルがあるとしたら、群雄割拠する戦国時代にこのような争論が誕生したのもなるほど、と思えます。

 前掲した『日本絵画の転換点ー酒飯論絵巻』で、著書の並木誠士氏(美術史家)は、この酒飯論絵巻が平安以来の伝統的なやまと絵の “絵空事” の世界に、庶民のリアルな日常生活描写を採り入れた日本美術史上画期的な作品だと紹介しています。原本不明で元の作者はハッキリせず、粉本(手本となったもの)や模本しか現存していないため、ちゃんとした研究対象にならず知名度も低いようですが、並木氏は美術史の観点から制作期は1520年代、作者はかの狩野派を大成した狩野元信(1476-1559)ではないかと述べています。それはそれでスゴイけど、禅僧蘭叔が1576年に書いた『酒茶論』よりも前に描かれたことになり、そもそも酒茶論と酒飯論のどっちが先なのか、現時点で調べた限りではよくわかりません。

 


 もうひとつ、『酒餅論』を紹介したいと思います。江戸初期の作とみられ、こちらも作者不詳。花見に餅菓子を食べていた人々に怒った〈酒田造酒之丞のみよし〉と、餅の効能を説いて反論した〈大仏鏡の二郎ぬれもち〉に、加勢する者が続々と現れ、〈のみよし軍〉と〈ぬれもち軍〉の合戦になるという奇想天外な争書です。こちらの人物名も、なんとも笑えますよね!


〈のみよし軍〉は先陣に南都諸白、小浜諸白、薩摩泡盛以下諸国の銘酒が陣取り、これに肴の一族、鳥類、精進肴が馳せ参じます。

 対する〈ぬれもち軍〉は、総大将ぬれもち、餡餅が防備を固め、あべ川の砂糖餅、胡麻餅、くわ餅、鯨餅、ぼた餅らが陣取って、これに麺類と干菓子どもが加勢。果物どもはいずれに味方すべきか日和見・・・なんですって。江戸の初~中期は庶民のお菓子といえば餅菓子が主流で、国産砂糖が市中に出回るようになった江戸後~末期に饅頭や羊羹が登場し、本格的な甘党優勢の時代になったそうです。

 両軍入り乱れているところへ、仲裁役の〈飯の判官たねもと〉が割って入り、本汁、二の汁、鯉の刺身を従え、理を諭します。飯の判官は諸食の大将だそうで、両軍逆らえず、和睦。めでたしめでたし。・・・なんだかこっちのほうが絵巻物にふさわしいような気がします(笑)。

 参考にした『酒の肴・抱樽酒話』の著者青木正児氏(中国文学者)は、中国の茶酒論の由来からして、もともと酒の歴史は茶のそれとは比べ物にならないほど古く、茶は南方からやってきたいわば新参者。下戸に飲ませる酒の代用品に過ぎなかったといいます。

 蘭叔の酒茶論も、当時勃興してきた茶の湯の勢力と、反発する旧勢力との抗争が背景にあったとし、「酒の妙趣は下戸に言っても分からない。また言って聞かす必要もないのである。酒茶・酒餅の論の為す如きは野暮の骨頂、これらは恐らく中戸の両刀使いが物した愚作であろう」とバッサリ。確かにそのとおりですが、上戸と下戸が言いたいことを言い合って、中戸がバランスを取って治めるという論争を人々が楽しんで読んでいた姿は、けっして愚かだとは思えない。世の中には結論が出ない、白黒ハッキリさせられないことがたくさんあるわけで、人々は身近な酒や飯・餅に置き換え、留飲を下げていたという面もあるんじゃないかな。

 

 酒を題材にした名文・奇文・珍文の探索は、その時代の社会の有様が見えてくる面白い知的冒険だということを今回発見できました。さらに深掘りしていきたいと思っています。

 

 

 


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酒茶論、酒vs茶の可笑しな論争

2019-07-03 09:23:24 | 歴史

 6月11日投稿のブログ記事『広辞苑、重版の旅』で、1955年発行の広辞苑第一版が静岡県立図書館で閲覧できなかったと書きました。その後、やっぱりどうしても気になって、国立国会図書館複写受託センターにアクセスし、広辞苑第一版の「清酒」「杜氏」の説明箇所をコピーして送ってもらいました。

 私は件の記事で、

「清酒」に関しては第二版(1969)で「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。日本酒。↔濁酒」とあり、第三版(1983)、第四版(1991)まで同じ。

 第五版(1998)は「わが国固有の酒。蒸した白米に麹・水・酒酵母を加え、発酵させてもろみを造り、これを濾過して製する。淡黄色で特有の香味がある。すみざけ。澄んだ純良な酒。↔濁酒」とあり、澄んだ純良な酒。というのが追記された。これが直近の第七版まで踏襲されている。

 と紹介し、1998年になって「澄んだ純良な酒」という表現が追加されたのは吟醸酒ブームが影響したのでは?と推察したのですが、第一版(1955)で、

①澄んだ日本酒。純良な酒。すみざけ。↔濁酒。②我が国固有の酒。白米に麹と水、または酒酵母を加えて醗酵させ、これを濾過して濾した淡黄色で、特有の香味ある酒。

 

と、いきなり冒頭に登場していたのです。1998年が初めてではなく、1955年の時点でしっかり表現していたんですね。っていうか、清酒の説明は最初から「澄んだ純良な酒」だったんです! だったらなんで第二版(1969)から第四版(1991)まで削除されたんだろう?・・・まあ、どーでもいいっちゃ、いいんだけど、言葉の選択に何かしらの時代背景や筆者の意図がある?なんて、ついつい深読みしてしまいます(苦笑)。

 

 ところで、前々回記事(6月17日投稿)の『第三の茶・香り緑茶』の末尾に、『酒茶論』という古文が気になっていると書き残しました。今回はその続きです。

 酒飲み(上戸)とお茶好き(下戸)が、酒と茶のどちらが優れているかを論争する『酒茶論』の存在は、以前から知っていましたが、今春、久しぶりにがっつり静岡茶の取材をして「茶どころ静岡の酒飲みならば知っておくべきだろう」と実感し、まずはネットで〈酒茶論〉と検索してみたら、品川にあった長期熟成酒バー・酒茶論ばかりがヒット。酒茶論そのものの解説記事や解説本の紹介はごくわずかでした。

 数少ない情報を辿ってみたら、〈酒飯論〉〈酒餅論〉というのも見つかり、酒vs茶、酒vs飯、酒vs餅という論争が一種の形式化されていました。このような形式の読み物を「異類合戦物」と呼び、室町~江戸時代に人気を集めていたそうで、ほかに〈梅松論〉〈油炭紙論〉などもあるようです。日本人はどちらかといえばディベートを好まないと思っていましたが、こんな知的な論争を楽しんでいたなんて!

 

 さて、ネットや図書館巡りで文献をいくつか入手し、このひと月あまり、じっくり読み込んでみた内容を、自分自身の頭の整理を兼ねて、ここで紹介したいと思います。

 

 酒と茶(もしくは飯、餅)の争書というのは前述の通りいくつかあります。

①中国敦煌遺跡から出土した文物「茶酒論」。唐代後半頃までに成立した争奇書。茶と酒による論争を水が仲裁するという内容。これがたぶん一番古いと思われます。原点はやはり中国でしたか。

②戦国時代の天正4年(1576 )、岐阜にある臨済宗乙津寺の蘭叔玄秀和尚が書いた「酒茶論」。上戸の忘憂君(ぼうゆうくん)、下戸の滌煩子(できはんし)という2人が中国の古典等を引用し、酒と茶の優劣を論争。最後に中戸の一閑人(いっかんじん)という人物が登場して仲裁します。蘭叔は後に臨済宗総本山妙心寺第五十三世管主となり、織田信長も帰依したという高僧で、岐阜の乙津寺に残った酒茶論原本は太平洋戦争で焼失、妙心寺塔頭養徳院のものは現存。…養徳院は非公開寺院のようですが、なんとか拝見できないかなあ~!

 原文は約2000字の漢文。私の頭で読み下すには時間がかかり過ぎるため、淡交社刊『茶道古典全集第二巻』で見つけた福島俊翁氏による現代語訳をもとに、一部抜粋&意訳してみます。


酒(忘憂君)「お茶の徳、酒の徳のどちらが高いか比べよう」


茶(滌煩子)「無駄だ。茶に勝てるはずがない。第一、酒は仏様が深く戒めただろう」


酒「聖人・賢人とは、殷の高宗が澄んだ酒を聖(ひじり)、濁ったのを賢(さかしびと)といったことが由来するのだ。御飯の後に飲むのを中の酒といい、昔の人は酔いもせず醒めもせずに飲むので中といった。そこから中庸という言葉も生まれた。史記では“酒は百薬の長”といっているではないか」


茶「茶という字は、草と木の間に人と書く。酒は水の鳥(酉)と書くが、鳥より人間の方が貴いのはあきらかだ」


酒「人間が草木の間に置かれているなら狩人・薪取り(一般に身分の低い賤しい者を指す)じゃないか。高貴な身分の人は飲まないんだな?」


茶「茶の道具は金銀珠玉銅銭土石で作り、その価値はいかほどかわからない。好事者は無上の宝とし、もしその一つでも手に入れようものなら、天下の大評判となる。酒の道具は何文にもならないだろう」

 

酒「風流を対価で論ずるな。春は桃李園で宴をし、花に座して月に酔い、夏は竹葉の酒を酌み、秋は林間に紅葉を焚いて酒を温める。冬は雪の中で寒さをさける」


茶「茶は四季などにこだわらない。いかなるときも瞬時を大切にする。陸羽が記した茶経では“その樹は瓜廬(かろ)の如く、葉はクチナシの如く、花は白薔薇の如く、茎は丁香の如く、根は胡桃のようである。その名を茶という”とある」


一閑人「二人とも、言い争いをしても酒の徳、茶の徳を究めることはできないぞ。二つは天下の尤物(ゆうぶつ=優れたもの)。お酒はお酒、お茶はお茶なのだ 」

 

 ・・・最初一読したときは、頭でっかちの屁理屈合戦だなあと笑ってしまいましたが、このディベートを頭の中で創造した蘭叔和尚というのは、さすが、信長が帰依しただけの高僧。どういう意図でこれを書いたのか深読みせずにはいられません。

 ちなみに、中国の茶酒論では、茶と酒の論争を〈水〉が仲裁し、「茶も酒も、水がなければ形容はできない。また米麹も乾いたものは胃腸を害し、茶の葉も乾いたものを喫すれば咽喉を破る。万物は水あってこそ」と丸く収めています。〈水の仲裁〉のほうが、なんとなくしっくり来ますよね。

 

 ほかにー

③酒飯論 室町末期の作。酒茶論より少し後か?作者不明。和文と絵巻物の2種類あり。

④酒餅論 江戸初期の作とみられる。作者不詳。花見に餅菓子を食べていた人々に怒った〈酒田造酒之丞のみよし〉と、餅の効能を説いて反論した〈大仏鏡の二郎ぬれもち〉。双方に加勢する者が現れ、〈のみよし軍〉と〈ぬれもち軍〉の大論争となる。

⑤酒茶問答 江戸末期の作。作者・平安三五園月麿。蘭叔和尚の酒茶論に日本の故事を加えたもの。


 現時点で調べた限り、酒と〇〇を論争した異類合戦物には上記5種類がありました。長くなりましたので、③~⑤についてはまた。


参考文献/群書類従第19 巻「酒茶論」、茶道古典全集(玄宗室編)、「酒茶論とその周辺」渡辺守邦著、「日中の酒にまつわる論争について」三瓶はるみ著

 

 

 


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