goo blog サービス終了のお知らせ 

まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

理解不能な他者に寄り添うとは

2014-06-26 12:50:48 | 幸せの倫理学
先日 「異化による理解」 について書きましたが、

そうは言っても自分とまったく異なる他者を理解するのは難しいことです。

ましてや理解不能な他者に寄り添うなんてそうそうできることではありません。

ですが、最近ネットで話題になっているこの話は、

まさに理解不能な他者に寄り添うとはどういうことかを示してくれているような気がします。

理解不能な他者はこの人↓です。

フリーライターの工藤孝浩さん。

この方は東横インが好きなのだそうです。

(ああ、もうすでに理解不能。)

御自分のHPで 「なぜ僕は東横インが好きなのか」 について説明してくれていますが、

いくら読んでもまったく意味不明です。

1ミクロンも共感することができません。

ところが。

この方の伴侶となった方の、この意味不明の趣味に対する寄り添い方が尋常ではありません。

その人自身は彼の東横イン愛にまったく共鳴できていないんですが、

理解不能なまま丸ごと包み込み、深い愛を捧げています (愛とは時間である)。

その壮大な軌跡がこちら↓です。

「愛する人に東横インをプレゼントしよう」

よく作ったなあ、こんなもん。

理解不能な他者に寄り添うことの難しさと尊さを思い知らされます。

ちなみにこの記事はネット上で大ブレイクし、

その後、やっぱんつさんは東横インから感謝状をもらったそうです。

たぶん感謝状なんかもらってもちっとも嬉しくなかったんだろうなあ、やっぱんつさん自身は。


P.S.

やっぱんつさんのHPの他の記事も面白いです。

「サラ・ジェシカパーカーになりたい」

「無邪気になりたい大人の遠足-1」 「2」

Q.先生の最も幸せを感じることって何ですか?

2014-06-20 23:43:23 | 幸せの倫理学
このブログのなかの 「幸せの倫理学」 というカテゴリーでは、
私にとっての幸せな事柄についていろいろと書き散らかしてきました。
そこから派生した 「飲んで幸せ・食べて幸せ」 のカテゴリーには飲食関連の幸せな話が満載です。
ですので、私が何に幸せを感じるかに関してはそれらを読んでいただければと思いますが、
そのなかで最も幸せを感じることは何なんでしょうか?
そもそも①自らの欲求・欲望をコントロールして②満足しやすい感受性を育てておく
というのが私の基本的な幸福観なわけですから、
日常のちょっとしたことにも幸せを感じることができるようになってしまっています。
したがって、ふだんから 「最も幸せ」 な状態を追い求めたりしないようにしていますし、
何が 「最も幸せ」 なのか意識することすらありません。
ですので、今回もこのような質問をもらってちょっととまどってしまいました。
虚を衝かれるとはこういうことです。
まあ、せっかく質問をいただいたのでちょっと考えてみることにしましょう。

私も幸福に関しては快楽主義の立場に立って解釈していますので、
身近なところで得られる快楽というのは幸福の重要な要素だと思います。
「幸せの倫理学」 よりも 「飲んで幸せ・食べて幸せ」 のカテゴリーのほうが、
あとから派生したにもかかわらず、記事数が多くなってしまっているということからも、
美味しいお酒を飲んだり、美味しい食べ物を食べることが、
私にとってとても大切であるということがわかるかと思います。
これには環境も大きく影響しているのではないでしょうか。
うちの母は、衣食住のうち着るものと住むところというのは形として残るけれど、
食べ物は食べたその日になくなってしまって後に残ることがない、
だからこそ食にお金をかけるというのは一番贅沢なことなんだ、とよく言っていました。
見栄っ張りな人は豪華な家に住み、綺麗な服を着たがるけれど、
人に見られることのない日々の食事にお金をかけようとしない、
そうではなく日々口にするものこそ身体を作るものなんだから大切にするべきだと教え込まれました。
たしかお酒を飲むことを教えてくれたのも (まだ小学校だったときに!) 母だったと思いますが、
その母の影響を受けたのか、飲食というのは私にとってとても大事なものです。

先日紹介した 『友だち幻想』 では幸福の要素として、
自己充実と他者との交流 (交流そのものの歓び、他者からの承認) が挙げられていました。
これらはいずれも精神的な快楽ですね。
まず自己充実 (=自己実現) に関して言うと私は、
文章を書いたり、人に何かを説明したりということによって大きな幸せを得られるタイプのようです。
ですから、このブログを書いているとき私は無上の幸せを感じています。
書くのに比べて話すのはそれほど得意ではありませんが、
講義をしているときもそれに近い快楽を感じるときがあります。
それに比べて論文を書いているときというのは、もちろん若干の幸福を感じるときもあるのですが、
幸福というよりは苦しさや義務感のほうが先に立つことのほうが普通です。
ただし、めったにあることではありませんが、ブログや講義と同様、論文に関しても、
書き終わった後に他者から評価してもらえることが本当にたまにあって、
そういう他者からの承認はこの上ない幸せと言えるでしょう。

しかし、精神的快楽に関して言うと、やはり他者との交流そのものの歓びというのが、
一番大きいのではないでしょうか。
愛する人、信頼する人々と共に過ごし語り合う時間というのは、
何ものにも代えがたい幸せをもたらしてくれます。
そのなかには自己充実と他者からの承認も同時に含まれているように思います。
みんなもそうじゃないですか?
愛する人と一緒に過ごす時間というのは何よりも一番幸せですよね。

ちょっと自己充実 (=自己実現) に話を戻しますが、私の強みの第1位は 「着想」 です。
アイディアを思いつくというのが私の一番の強みなのです。
そう考えると、ブログや講義や論文というのは私の強みを活かせるので幸せになれるのです。
(逆に言うと論文はアイディアだけでは書けないので幸福の純度が低いのかもしれません)
そして、アイディアを思いつくためには、いろいろな刺激が必要です。
そのためにふだんからたくさん本を読んでいるわけですし、いろいろな情報に接しているわけです。
しかし、そういうアイディアって活字情報ばかりでなく、
実際に面と向かって人と話しているときに浮かんでくることが多いです。
人と話していると、特に複数の人と話していると思いもよらぬほうに話が展開し、
そこにいる誰もが予想もしていなかったアイディアがひらめくなんてことがあります。
これは私にとっては本当に幸せなことで、そこでは交流そのものの歓びと、
自分の強みを活かすという自己充実とが同時に経験されているわけです。
このようにいろいろな幸福が同時に経験されると、
それらの幸福は増幅され最大化されるのではないでしょうか。

と、ここまで考えてきた上で御質問の 「Q.先生の最も幸せを感じることって何ですか?」 に戻ると、
今まで挙げたような幸福をすべて同時に叶えられるようなことがあれば、
それが私にとっての最も幸福なことであるように思えてきました。
そうした場がひとつだけ思い当たるのです。
というわけで今回の質問には次のようにお答えすることにいたしましょう。

A.てつがくカフェ@ふくしまの2次会 (=懇親会) にいるときが一番幸せです。

美味しい飲み物と食べ物、愛し信頼し承認しあえる人々との交流、
私の話を聞いてくれる人々、アイディアを刺激する知的な会話…。
もちろん、てつカフェ自体 (=1次会) も幸せな空間ではあるのですが、
やはり、ファシリテーターや書記係や世話人としていろいろ気を遣わなければなりませんし、
コーヒーはありますが、基本的には精神的快楽のみです。
それに比べて2次会は一切の気苦労から解き放たれて、
アルコールも入り、ただひたすら自分の幸せだけを追求していればいいのです。
なんて幸せな時間なのでしょう
以前に御紹介した 『幸福の習慣』 という本では、「ウェル・ビーイング (=幸福・人生の満足)」 とは、

①仕事に情熱を持って取り組んでいる (仕事の幸福)
②よい人間関係を築いている (人間関係の幸福)
③経済的に安定している (経済的な幸福)
④心身共に健康で活き活きしている (身体的な幸福)
⑤地域社会に貢献している (地域社会の幸福)

これら5つの要素が一体となっている状態だと書いてありました。
てつがくカフェをやっているときというのは、この中の①②⑤が満たされた状態です。
2次会になるとお酒と食べ物が加わって④身体的幸福も満たされることになります。
(あれだけ飲むと健康に悪いという話もありますが、あれだけ飲めるのは健康だからでしょう
経済的な幸福以外はすべて満たされているわけです。
どうやら、てつカフェ2次会は私が最も幸せでいられる場所だったようです。
なんとタイムリーなことに明日は第24回てつがくカフェ@ふくしまです。
最高に幸せな私の姿を見たい人は是非てつカフェ参加後、2次会にも出てみてください。

Q.研究室前のポスターって?

2014-06-18 18:04:26 | 幸せの倫理学
引き続き 「倫理学概説」 の授業でいただいた質問です。
ワークシートにはこんなふうに書かれていました。

「Q.先生の研究室の前に貼ってあるポスターにはどんな意味があるのかなと思いました。
   今日の幸福観を見て、功利主義的な考えなのかなと思いました。」

みんなもう思考が自由です。
幸福について考えてくださいとお願いしてるのに、研究室のポスターですか。
いいと思います。
たしかに私も 「自由に書いてください」 と指示していましたしね。
2行目に書いてあることは、1行目に連関して書いてあったのか、
それとも1行目とは独立して、自分の幸福観は功利主義的考えに近いなと思ったということなのか、
ちょっとどちらとも判別つきませんでした。
3行目からはまったく別の話題に飛んでいましたし。
ここでは1行目と関連させて、あのポスターには功利主義的な含意があるんですか、
という意味と解釈して話を進めていくことにします。
まずは私の研究室前のポスターをご覧いただきましょう。



これです。
このドアに貼ってあるやつです。
ポスターだけ写してみるとこうなります。



アンパンマンやらドラえもんやらウルトラマンなどが勢揃いしているド派手なポスターです。
右下の部分にはこんなふうに書かれています。

「Make-A-Wish of Japan
 難病のこどもたちの夢をかなえるために活動しています。
 メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパンは、1992年、
 難病のこどもたちの夢をかなえることを唯一の目的として生まれた非営利のボランティア団体です。
 しかし、その活動はもとより、その名前すら、未だ多くの方に知られているわけではありません。
 わたしたち人間にとって、夢は元気の素、
 とくに、難病とたたかっているこどもたちにとっては、生きる力そのものです。
 ぜひこの機会に、みなさまのお力をこどもたちのためにお貸しください。
 誰にでも、できることは必ずあります。」

一番下にはこんなメッセージが。

「ぼくたちは、夢をかなえるために生まれた。」

NPO 「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 のポスターですね。
このポスター、いつから貼ってあるんだったかなあ?
もう相当前のものです。
妻がまだ外資系広告代理店に勤めていた頃、その代理店がこの運動に協賛し、
ポスター制作を含めた広告宣伝を引き受けることになって作られたものです。
たしか代理店もノーギャラだし、やなせたかしさんや円谷プロ等も無償でキャラクター提供して、
このポスターが作られたと聞いたような気がします。
私は妻からどこかに貼ってくれないと頼まれて、
ちょうどドアの目隠し用のポスターを探していたところだったので、
デザイン的にはあまり気に入っていませんでしたが、
「ぼくたちは、夢をかなえるために生まれた」 というメッセージに共感して貼ることにし、
そのまんま今日に至っているというわけです。

「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 というくらいですから、
大本の 「メイク・ア・ウィッシュ」 という世界組織があって (出自はアメリカ)、
それはウィキペディアにも載っています。
ウィキペディアには、この組織の発端となったクリスという少年の話が紹介されていますが、
それを読んだだけで涙もろい私なんかはウルウルと来てしまいます。
その後も15万人以上の難病の子どもたちの夢をかなえてきているとのことです。

このポスターが研究室前に貼ってあることの意味は上述したことくらいで、
特に私が 「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」 の熱心なサポーターであるわけでも、
それに関連して何かボランティアや寄付をしているというわけでもありません。
これを見て気になった人がHPにアクセスしてみたり、
実際に何か自分にできることをしたりしてくれているとうれしいですが、
そういう話を耳にしたことがあるわけでもありません。
何かもっといいポスターが見つかったら即貼り替えてしまうかもしれませんが、
ずっと前からそう思ってけっきょくそれっきりですので、当分の間はきっとこのままでしょう。

「メイク・ア・ウィッシュ」 という組織が功利主義的な考えを持っていることはたしかでしょう。
しかも、難病を抱えている子どもたちに治療費等の支援をして病気を治してもらうというのではなく、
たとえ病気が治らなくても生きているうちに夢をかなえるお手伝いをするというのは、
なかなか思いつかないことですが、子どもたちの幸せを促進する直接的な活動のように思います。
私は自由主義的な人間ですのでとてもじゃないけど自分でこういう活動を起こすことができませんが、
こういう人たちが他人の幸福を促進するために活動してくれている世界というのは、
とてもいい世界だと思います。
原発被災で苦しんでいる人たちに政治家が 「最後は金目でしょ」 なんて吐き捨てる世界より、
はるかに美しく尊い世界だと思います。
子どもたちのヒーローは弱い者を守るために戦い、みんなに幸せを与えてくれますが、
世の大人たちは、子どもたちをはじめとして弱い者を守るために立ち上がり、
みんなが幸福になれるような社会を築いていくことができるのか、
今まさにその瀬戸際に立たされているように思います。
研究室に戻ってくるたびにそんなことを考えさせてくれるポスターなのでした。
(ウソです。今までそんなこと考えたこともありませんでした。
 質問をいただいてからそう思っただけです。)


P.S.
ちなみにポスターの上にかかっている飾り物にはこんな意味があります。

相馬そば処ふくしまや 「呑気十ヶ条」

2014-05-28 15:04:28 | 幸せの倫理学
「間乃次郎庵」 なきあと、相馬ランチで訪れるようになったのは、
先日ご紹介した 「ばりお食堂」 と 「そば処 ふくしまや」 でした。
「ふくしまや」 にはすでに去年から行くようになっていたのですが、
Facebook に書いただけでブログネタにはしていなかったので改めてご報告しておきます。

「ふくしまや」 は相馬駅のすぐ真ん前にあります。
私が相馬に来るようになった12年前はここは旅館でした。
建物はいかにも古くからある旅館って感じです。



その旅館の亭主が何年か前にそこをそのまま蕎麦屋に改造したのだそうです。



こちらでは私はたいてい 「ふくしまや頑固そば」 というメニューを注文します。
フツーの蕎麦もあるのですが、十割蕎麦が毎日10食限定で出されているので、
それを大盛りで頼むのです。



たいへん美味しいです。
春のこの季節ですので新蕎麦というわけにはいきませんが、
味も香りも喉ごしも十分堪能することができます。

さて、店内はお客さんがいらっしゃったので写真撮影はしませんでしたが、
やはり旅館の1階部分 (玄関口のあたり) をそのまま店舗に改造した造りになっています。
先日初めてこちらでお手洗いをお借りしました。
おそらくお手洗いも旅館時代のものなのでしょう。
そうとう奥の方まで歩いていかないと行き着けない感じでした。
そのお手洗いに 「呑気十ヶ条」 という額が掲げられていたのです。
よく居酒屋とか飲食店のトイレに 「健康十訓」 とか
「親父の小言」 の額がかけてあったりしませんか?(こんなようなやつです。)
そういうのってちょっと説教臭くって、
飲んでるときに読まされるとウゼェなあと思うことが多かったんですが、
この 「呑気十ヶ条」 は私のモットーとも重なるところが多くて、
反発を覚えずに読むことができました。
こちら↓です。



見にくいといけないのでいちおう書き取っておきましょう。

「呑気十ヶ条
 一、 行きあたりばったりに進む
 一、 気軽、身軽、腰軽
 一、 本気にならない
 一、 いつも人任せ、金任せ、運任せ
 一、 忘れたことは思い出さない
 一、 今日出来ることも明日にする
 一、 悪口すら誉め言葉
 一、 将来設計はその時設計
 一、 百歳になっても心は二〇歳 (はたち)
 一、 死ぬことを疑っている」

うーん、とってもいいです。
いちいち脱力してしまいます。
このやる気のなさステキだなあ。
こういう人に私はなりたい (えっ? もうとっくになってるって?)。
いろんな額があったろうに、よりによってこれをチョイスしたセンスに脱帽です。
イチ押しメニューが 「頑固そば」 なんて銘打ってるので、
店主は 「親父の小言」 系の人かと勝手に想像していたんですが、
こういうのを選ぶ人なら仲良くなれるかもしれません。
来年訪れたときは話しかけてみようかと思います。

『きいろいゾウ』 小説&映画

2014-05-20 18:23:38 | 幸せの倫理学
『きいろいゾウ』 という小説を読み、その後DVDも見ました。



まず小説のほうですが、ちょっと読むのに苦労しました。
この小説は去年、看護学校の学生さんに勧められました。
キリンに乗った私の絵を描いてくれた学生さんです。
せっかくご紹介いただいたのでさっそく買って読み始めてみたんですが、
ちょっと世界観が合わないというか、最初のうちなんだか意味わかんなくて、
なかなか読み進めることができませんでした。
主人公の女性が犬やクモや木と話すことができるんですよ。
全体的にファンタジーという感じではないにも関わらず、自然と会話しちゃうんですよ。
舞台も自然に囲まれた田舎だし、ちょっと自然ギライの私には向かない感じの本でした。
なので最初の数10ページを読んだところで止まってしまって、
ベッドサイドテーブルに置いたまま別の本を読み始めちゃったりしてました。
そのまま数ヶ月放置したところで、新しく読む本もなくなり久しぶりに手にしてみて、
ちょうど大地君との絡みが活発になってきたあたりから一気に読み進めることができました。

読み終わってみて、うーん、まあ大絶賛というほどではありませんでしたが、
なかなか興味深く読んだというか、こういう世界が好きな女性は多いんだろうなあと、
自分とは異質な世界を垣間見せていただいた感じでした。
主人公の夫婦がいるんですが、お互いにあまり言語化せず、心の読み合いというか、
それぞれ感じ取るところはありつつもそれを直接ぶつけ合わないんですね。
いや、日々の生活の中でけっこう言葉は交わしているのですが、肝心なことは話さないんです。
それでちょっとしたすれ違いとか、けっこう大きな溝が発生したりするのですが、
言語コミュニケーション優位の私としては、そこがけっこうまどろっこしく感じました。
しかしながら、非言語コミュニケーションのほうが得意な人たちもいるわけですから、
これはこれでありなんだと思います。
実際ふたりはものすごく強い絆で結ばれているわけですし。
そして思い返してみると大地君とのエピソード、アレチさん夫妻のエピソード、足利さんのエピソード、
つよしよわしのエピソード、夏目夫妻とのエピソード等、どれも巧みに効いていて心に残るものでした。

というわけで小説を読み終わった勢いでDVDも借りて見たんですよ。



主人公の夫婦を宮あおいと向井理が演じていて、
その他のキャスティングもよかったですし、
映像的にはいい感じに原作世界を再現しているように思いました。
ただストーリー的にはまったく納得いきませんでした。
なんでこういう脚本にしてしまったんでしょう。
尺的にすべてを映像化できないのはわかっていますが、
どうしてこういう取捨選択になってしまったのかまったく理解できませんでした。
この小説のなかで大地君をめぐるエピソードはいろんな意味で要だったのだと思うのですが、
それがものすごーく薄められてしまっていたのが大きな敗因ではないかと思います。
ツマ、ムコ、大地、洋子の4角関係も深められていませんでしたし、
つよしよわしのエピソードは完全に削除だし、
何より肝心な 『きいろいゾウ』 の絵本をめぐるムコと大地のやりとりもあっさり流されていました。
夫婦のすれ違いを克服するにも最も重要なエピソードだったと思うのですが、
なんでそれがああいう扱いになってしまったのでしょうか。
また小説ではエンディングに位置づけられていたアレチさんの幽霊エピソードも完全カットでした。
あれをカットするにしても、だったらそれに代わるピソードを配置すべきだったのではないでしょうか。

ただでさえ小説優位派で、原作読んだあとで映画を見るのに反対の私にとって、
この映画は本当にダメでした。
では小説読む前に映画を見ていればもう少し満足できたでしょうか?
うーん、どうもそうは思えません。
映画だけ見た人ってあれで意味わかったんでしょうか?
なんだか、なかなか読み進められなかった小説の最初のほうだけを映像化して、
延々と130分見させられたという印象が否めません。
原作の面白いところが全部カットされて、ダルな不思議ちゃんの部分だけ残した感じです。
まあ私は原作と比べながらどうブログに書こうか考えながら見ていたので、
なんとか最後まで付いていくことができましたが、これを映画だけ見るのはツライんじゃないかなあ?
というわけで 『きいろいゾウ』 に関しては小説のみの一点押しとさせていただきます。

P.S.
小説のほうでは最後まで謎のまま残されていた (と思う) ツマは日記を読んでるのか問題。
映画ではあっさりと読んでいるほうの結論に落ち着いていましたが、
原作の解釈として本当にあれでよかったんでしょうか?
これに関しては小説と映画、両方見た方にご意見をおうかがいしたいところです。

おっぺけですけどいいでそべつに

2014-05-14 16:28:50 | 幸せの倫理学
震災直後くらいまで、松本ぷりっつの 「うちの3姉妹」 というブログが、

私の心の支えだったときがありました。

松本ぷりっつという漫画家さんが自分のお子さんたちの日々の言動を描いたブログで、

マンガ化やアニメ化もされたようなのでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

3姉妹の言動がぶっ飛んでてむちゃくちゃ笑えるというのもありますし、

子どものいない私としては子どもの実態がわかるという意味で勉強にもなっていました。

ところが、2011年の4月にそのブログは更新終了してしまいました。

閉鎖はしていないのでまだ見ることはできますが、今は更新されていません。

その代わりに、松本ぷりっつの公式ブログ、

「おっぺけですけどいいでそべつに」 が新たに開設されました。

以前に比べて更新のペースが少し落ちているのと、

3姉妹の話のほかに松本家のペットたち、犬や猫たちの話も描かれるようになっています。

動物ギライの私としてはペットの話はどうでもいいのですが、

3姉妹のエピソードは、みんなだいぶ成長したために若干インパクトは衰えてきているものの、

あいかわらず温かい笑いを提供してくれます。

おヒマな方はぜひ覗いてみてください。

今日は私のお薦めエピソードをいくつかご紹介しておきましょう。


「遊園地いってきた」

「おいろけムン」

「子どもの例え」

「セクシーなカレンダー」

「猫のポーズ」

「判決」

「料理酒」

「タイヤ」

「江戸博物館」

「えびぞり会社 (1)」

「えびぞり会社 (2)」


つい最近になってやっと 『天空の城ラピュタ』 を見た私としては、

ちょいちょいはさまれるムスカネタがツボだったのと、

なんといっても大作 「えびぞり会社」 が絶品でした。

松本家の3姉妹、いまだ健在のようです。


P.S.

あとオマケで4コマ漫画 『うちはおっぺけ~3姉妹といっしょ』 も貼っておきます。

期間限定公開のようなのでそのうち見られなくなってしまうと思いますが…。

「ソチオリンピック編」

「東京に大雪編」

「春到来 花粉症編」

東京の桜

2014-04-06 12:27:14 | 幸せの倫理学
今週末は歯の定期検診で東京に来ています。

本来なら今ごろが桜の季節のはずですが、先週末に東京は満開との情報を得ていましたので、

1週間も経ってしまっていてはもう手遅れだろうとあきらめていましたが、

ソメイヨシノは葉桜になってしまっているとはいえ、まだまだ桜を楽しむことができました。

歯医者さんのある四谷あたりの外濠公園はこんな感じです。





四谷駅のそばには枝垂れ桜も咲いていて、それは満開でした。



東京の家の窓の外には八重桜が見えます (もちろん借景)。



こちらはまだ大部分は蕾ですが、少しずつ開花が始まっています。



翌日はお散歩に出かけました。

市ヶ谷駅の架線橋からは外濠の桜が見渡せ、多くの人が写真を撮っていました。



これぐらい離れていれば葉桜かどうかなんてわかりません。

十分キレイでした。

そのまま靖国神社のなかを通り抜けて千鳥ヶ淵へ。

靖国神社もそうでしたが、千鳥ヶ淵もものすごい人です。



こちらの桜はさすがにもうピークを過ぎている感じです。



ただやはり枝垂れ桜はちょうどいい感じで満開でした。



例年、上京するタイミングと桜のタイミングがうまく合わず見逃すことが多いのですが、

今年は東京の名残の桜を楽しむことができました。

さて、福島の桜はいつごろ咲いてくれるのでしょうか?

まさかこの週末に見頃を迎えたりしていないといいのですが…。

腹筋崩壊! 学校でまじめに勉強してる子はいないのか?

2014-01-30 19:05:15 | 幸せの倫理学
今日は (今日も) 追い込まれてるので、笑えるネタのご紹介のみで。

どれも学校がらみのものでテストの珍回答やら落書きなどです。

教員養成に携わっている者としては爆笑している場合ではないのかもしれませんが、

可笑しいものは可笑しいんだからしょうがありません。


「腹筋崩壊! 思わず吹き出してしまうテストの珍回答まとめ」

「【そうとも言える】 バツとも言えないテストの秀逸な珍回答10選 (画像)」

「才能を感じてしまう教科書の落書き10選」


みんなのユーモアのセンスはわかりました。

でも少しはまじめに勉強もしましょう!

○に近い△を生きる

2013-12-28 15:24:37 | 幸せの倫理学

鎌田實著 『○に近い△を生きる』 を読みました。
もともとうちのゼミ生がマインドマップで紹介してくれた本です。
タイトルだけでやられました。
先日ご紹介した 「創造的問題解決の倫理学」
別名 「オルターナティブ倫理学」 とコンセプトが同じです。
副題には 「『正論』 や 『正解』 にだまされるな」 とありますが、
本のなかでは 「別解」 とか 「別解力」 という語が多用されていました。
「別解」 というのはまさに 「オルターナティブ」 の訳語としてピッタリだと思います。
ちょっと 「はじめに」 から引用してみましょう。

「○と×の発想法は堅苦しくて不自由でおもしろみがない。
 ○と×の間にある無数の△= 「別解」 に、
 限りない自由や魅力を感じる。
 ○に近い△の生き方は、柔らかな生き方だ。
 (中略)
 『正解』 や 『正論』 にこだわらなくなると、考え方が自由になることを、
 若い人に気づいてほしい。
 『正解』 に囚われないと、多様な価値観がわかってくるようになる。
 他の人の生き方に共感したり、拍手を送ることもできるようになる。
 相手を汚い言葉でののしるヘイト・スピーチは、下品だと気づくだろう。
 唯一の 『正解』 を信じる生き方は、時代遅れで窮屈だ。
 生きるということは、たくさんの△の中で、
 『別解』 を探していくということ。
 ○に近い△を生きるということは、
 『別解力』 をつけるということだ。」

著者の鎌田實氏は現在は長野県の諏訪中央病院の名誉院長です。
この病院は氏の赴任当時、大赤字を抱えていました。
しかも病院のある茅野市は脳卒中の発生がひじょうに多い地域だったそうです。
そのなかで鎌田氏は、脳卒中患者の救命率を高めるという医療の 「正解」 ではなく、
脳卒中にならずにすむような健康づくり運動という 「別解」 に取り組みました。
さらには訪問看護やデイケアのシステムを日本で初めて立ち上げるなど、
それまでの 「正論」 では誰も思いつかなかったような 「別解」 を追求し、
鎌田氏が院長に就任してからはずっと黒字を続けているそうです。
長野県も今では日本一の長寿県となり、しかも医療費は最低、
かつ健康寿命 (介護を受けずに自立して生活を営める期間) が男女とも1位だそうです。
救命医療や高度医療を推進するという医療における○ではなく、
○とは異なる△を追求していった結果、○を超える成果を生み出してしまっているのです。
そのような実績に裏打ちされた提言ですので、たいへん興味深いです。

本書が扱っているのは医療問題ばかりでなく、
政治の問題や経済の問題など多岐にわたっています。
特に著者は、「人間が生きていく上で一番重要なことは、働く場があることと愛する人がいること」
と捉えていて、「この両方を規制緩和が粉々にしてしまった」 と、
非正規雇用のため結婚することもできない日本の若者たちの将来を真剣に憂えています。
新自由主義というグローバルな正解ではなく、
「ウェットな資本主義」、「あったかな資本主義」 を作っていくという別解については、
本書のなかではまだ具体的な提案には至っていませんが、
鎌田氏に倣って私たちが、想像力と創造力を働かせて別解を求めていく必要があるでしょう。
最後に東日本大震災ならびに原発事故後すぐに被災地入りした経験を踏まえて、
福島の未来に向けた著者のメッセージを引用しておきましょう。

「今も、被災地福島に通い続けている。見えない放射能を心配するお母さん達の不安を考えると、心が痛む。
 低線量被ばくと健康と命については、科学者の意見が真っ二つに分かれている。
 100ミリシーベルトまでは心配ない、という科学者と1ミリシーベルトでも体によくない、という科学者がいる。ぼくはどちらかというと後者である。
 しかし、福島から離れられないお母さん達にとって、子供を守るためには、絶対的な正解ではなくても○に近い△を選んで生きていくしかない。
 100万人に1人といわれている小児甲状腺がんが診断された。福島県で約21万6000人の検診が終わった時点で、18人の小児甲状腺がんが診断された。さらに、25人の甲状腺がんの疑いのある子供がいる。簡単に大丈夫と言える状況ではない。
 絶対的な 『正解』 がない中で、この国の未来を背負っていく子供達をどう守っていくのか。
 ヒステリックな批判のし合いではなく、子供達のための 『別解』 を考えていかざるを得ない。甲状腺検診の質とスピードを高める必要がある。」

とても読みやすく、かつ面白い本でした。
この人の別の本もそのうち読んでみたいと思います。
ゼミ生に紹介されなければたぶん一生読むことはなかったでしょう。
ゼミ生に感謝。

【2ch】 抱腹絶倒厳選おもしろコピペ集

2013-11-18 07:08:18 | 幸せの倫理学
【2ch】 NAVERまとめサイトから、「抱腹絶倒厳選おもしろコピペ集」 です。
その中から私が笑えたものだけ拾ってみました。
もちろん今週の土曜日に学会発表が迫ってきての、完全なる逃避行動です。


【世界でいちばん大事なもの】
地元の小さい遊園地で、遊具の順番待ちの列に並びながら、
幼稚園に上がりたてぐらいの女の子とその父親。

父 「パパもママもねぇ、香奈が世界で一番大事なんだよ」
娘 「そうなのー?」
父 「そうだよ。パパとママにとって香奈より大事なものはないんだよ」
娘 「ふーん、ありがとー、香奈もパパとママ大好き」
父 「ありがとう。じゃ、香奈の一番大事なものもパパとママかな」
娘 「ううん、ネギトロかなー」



【コロスケ】
よく行くファミマで主人と2人で買い物をしていたら、主人が小声で
「柔らかいナリ! 柔らかいナリッ!」 と必死でコロスケのマネをしていた。
「はぁ? 何が柔らかいの?」 と聞くのに 「柔らかいナリ!」 と何度もしつこいので、
「だから! 何が柔らかいのか聞いてるのに!!」 と大声を出してしまった。
コンビニが一瞬にして静まりかえり焦る私に半ベソで主人は 「柔らかいナリ。」 と商品を手渡した。
良く見ると 「やわらか いなり寿司」 と書いてあった…。



【これが起源である】
なんかぁ
むかしぃ
バイクにぃ電飾つけてあそんでてぇ
そんでみんなやってるからぁ
車とかもあるしぃ
船でやってみたらぁ
イカあつまってきたんすよねぇ



【最期の望み】
俺には90のじいさんがいる。
先月癌で入院し、闘病中だったが昨日あることを言われた。
「死ぬ前に…クリームパンが食べたい…」
俺はすぐにコンビニへ走り、クリームパンを買って戻ってきた。
それをじいさんに食べさせると、一口食べたとたんに死んでしまった。
何よりも安らかな顔だった。
「死ぬ前に食べれて幸せだろう…」 と思い、
かじりかけのクリームパンを見てみると、クリームにとどいていなかった



【恐怖体験】
ホラー映画を見てたんだが、あまりにも恐すぎて、
本当に怨霊が出てきそうだったのでテレビの音を下げようとリモコンを押したら画面に

「 オ ン リ ョ ウ 」

ぎゃぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!!!!



【番号案内】
104のダイヤルで、電話番号を調べてもらうときに
「どういう漢字の人ですか?」 と聞かれ、
「おもしろくて明るい感じの人です」 と答えて、
電話局のお姉さんを1分間笑わせてしまった。



【なぞなぞ】
先生 「毎月定額料払えば使い放題なものはなーんだ?」

たかしくん 「正社員」



【TUTAYA】
Q) ツタヤのホラーコーナーに、題名とか何も書いてない、
黒いパッケージのビデオが置いてあったんだけど、誰か観た人いる?
このビデオの存在知ってる?
すごく内容が気になります。

A) それは仕切り用のダミーです。



【あだ名】
中学の頃、大村君が苗字音読みでダイソンって呼ばれてて、
それが元で梅村君はバイソン、若村君はジャクソン、
下村君はアンダーソンとみんなかっこいいあだ名がついたのに、
津村君だけあだ名がバスロマンだったのはイジメに近いし、
今思うとバスロマンはツムラじゃなくてアース製薬。



【オレオレ詐欺】
この前出かけてるときに、俺から家に電話があったらしい。
そうです、オレオレ詐欺です。

相手 「仕事でトラブっちゃって・・・」
母 「あんた仕事してたの!?」
相手 「・・・うん」



【これも起源である】
サルを完全に破壊する実験って知ってる?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。

餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。



のちのパチンコである



【プロポーズ】
俺は、いつ彼女にプロポーズするか悩んでいた・・・
同棲して3年。なかなかチャンスがこない。。。
そんな時、思いもよらないことからプロポーズのチャンスがやってきた。
暇だったので彼女と2人でしりとりをしていた。
何周りもしていたため、「け」 という言葉で1~2分詰まっていた・・・

俺  「け・・・け?」
彼女 「早く~。『け』 なんかいっぱいあるでしょ」
俺  「け、結婚しよう!」
彼女 「うんこ (即答)」



【バス停にて】
俺の恥ずかしい話なんですが…、
つい先日の事でバス停でバスを待っていたら一台の車が停まって、窓が開き
「駅に行くんですか? 駅に行くなら送ってあげますよ!」
という男性が現れ、急いでいた事もあり
「あ、ありがとうございます!」
とボクと後ろの2人が車に乗りました。

なんていい人なんだと感動していたら、
ボクの横に座った二人と運転の男性がやけにフレンドリー。
「いやぁ、助かったよ」 とか 「久しぶりだねー」 とか。

そう、彼は俺に対して言ったわけではなく、
後ろの2人の 「知り合い」 に声を掛けていたのです。
もう穴があったら入りたいとはこの事で、
「ところでこの方は誰?」 という雰囲気に満たされ、
もう死にたい気持ちでいっぱいでした。

福大祭講演会 「まさおさまの幸福の倫理学」 終了!

2013-11-05 17:35:38 | 幸せの倫理学

11月3日、福大祭の最中に講演会をやらせていただきました。
題して 「まさおさまの幸福の倫理学」。
福大祭実行委員会からの御指名、御指定を受けての登壇です。
例によって前日ギリギリに福大祭の喧噪のなかで資料を作っておりました。
あいかわらずパワーポイントもなんもなし。
写真ではマインドマップを1枚手にしながら写っていますが、
これ1枚とあと感想用紙を1枚配付しただけで90分話しきりました。
感想用紙には講演前に書いてもらう1番の問いと、
講演会後に振り返ってもらう2番の問いが書かれています。
1番の問いはこんなふうにしてみました。

「幸福とは何だと思いますか。1人1人違うものなのか、人間として共通の幸福があるのか、
 外からやってくるものなのか、自分でつかみ取るものなのか、あなたはどう考えますか。
 どんな時にあなたは幸せを感じますか。御自分の考えをお書きください。」

これは皆さんの興味 ・関心を喚起するための問いです。
ただ座って受動的に話を聞いてもらうだけでなく、
あらかじめ自分で主体的に考えてもらうことによって、
講演を聞く前に皆さんのアンテナを立てておいてもらったわけです。
しかし、書いていただいた内容を読んでみると、
もうその問いについて考えただけで十分元が取れてるんじゃないか、
という人も数多くいらっしゃいました。
わざわざ私が話なんかしなくとも、みんなちゃんと幸福とは何かわかっていらっしゃるのですよね。
そのうち余裕があったらこの1番の答えについても、ちょっと分析して報告してみたいと思います。

私が配付したマインドマップはこんな感じです。


(画像をクリックすると拡大されます。)

このブログのことや 「てつがくカフェ@ふくしま」 の宣伝をしたあと、
有名なソクラテスの言葉 「人間にとって重要なのはただ生きることではなくよく生きることである」
から出発して、「よく生きる」 の2種類の解釈から倫理学の二大潮流が発していることを説明し、
カントによる幸福の定義を提示した上で、
そこから導き出される4パターンの 「幸せになる方法」 について説明していきます。

①欲求・欲望が満たされるのを期待する
  ①-1 他人や運に頼る
  ①-2 自分が努力する
②自分の状態にみずから満足する
  ②-1 欲求・欲望をコントロールする
  ②-2 幸せの感受性を高める

その後は 「受け止め方の問題」 に話を移し、非暴力コミュニケーションの教えも取り入れつつ、
お得意の 「本能の壊れた動物」 の話から 「ありがたい話」 を簡単にしていきます。
そうやって自分が幸福になるにはどうしたらいいかの話を一通り終えてから、
最後に自分の幸せを人に分け与えてあげる 「ノーブレス・オブリージュ」 の話をしてフィニッシュです。
質問時間を5分くらい残して講演は切り上げましたが、質問なんて出ないだろうと思っていたところ、
けっこう4名くらいの方からそれぞれとてもいい質問が出されて、
質疑応答の時間も含めて私としてはたいへん楽しく話させていただきました。

感想用紙は49枚回収できました。
講演会の途中で中座される方もけっこういらっしゃったので、
(福大祭をやってる最中ですから、90分も拘束されるのは皆さん困るでしょう)
聴衆は全部で50人以上はいたのではないでしょうか。
いつものように感想用紙の2番では満足度を5点満点で採点してもらった上で、
印象に残ったことや学びが深まったことなどを書いていただきました。
集計したところ満足度は4.62。
おそらく最後まで聞いてくださった方だけの数値でしょうからちょっと高めに出ていると思いますが、
そこそこいい評価をいただけたのではないでしょうか。
皆さんの感想をいくつか紹介していきましょう。


「快楽主義と道徳主義の生き方に関心をもった。今自分が置かれている立場がとても幸せな状況である事が分かった。」

「白馬に乗った王子様が現れないと聞いてショックでした。でも今回の講演を聞いて、自分で努力すれば、自ら幸せをつかみ取れるし、外からも幸せがまいこんでくるのかな、と思いました。私はめんどくさがりなのでものすごい努力をして、ものすごい幸福を得るのは難しいと思うので、身近な小さなことから努力して、自分なりの ”幸福” を見つけたいなと思いました。」

「幸せは待つものではなく、自分の努力によってつかみにいくものだと思いました。小さな幸せから大きな幸せまで様々に度合いはあるけれど、求めすぎないことを大切にしていきたいと思いました。」

「ヤクルトスワローズの話おもしろかったです。東京音頭みてて楽しそうだし、やってる側の人たちも楽しくやっているのだと思いました。幸せか不幸せかはものの見方によってかわってくるのだと思いました。」

「面白かったです。やっぱり、ありがたいとか、何度も思い出すことが大事ですね。忘れちゃうので…。感謝できる人でありたいと思います。ありがとうございました。」

「『幸福は感じられた人の勝ち』 という言葉を聞いて、なんでこんな不幸なんだろう…と考えるのをやめて、前向きに生きようと思いました。」

「これまで、自分で幸福を感じるためには、『①-2しかない』 というか、『自分でやるしかないんだ』 と思っていました。社会人になって、どうしても①-2でやることがつらい時があると感じていました。②-1、②-2のような考えにも目をむけていく時期なんだなと思いました。『生物学的に』 という言葉が何度か出てきましたが、つくられた (つくりこまれた) 『文化』 の中で、そういう意識が少なくなってきたように思いました。もっとゆるやかに考えてみようと思います。あとは自分の問題と思って、-0.5です。」(満足度4.5点)

「今日の講演を聞いて、幸せについてあらためて考えさせられました。公演中に出てきた 『言葉のギフト』 という言葉にとても共感しました。やはり幸せというのは、誰かに幸せを与えた時に感じられるのだと思いました。」

「人の幸せ (幸福) は受け止め方の問題であり、幸福感というのは無限大である、ということにとても関心をもちました。そしてことばはある一方で銃弾であり、一方で贈り物であるということで、私自身今までそのように思いながら 『ことば』 を使ったことが無かったので、人のことを幸せにするためにもことばを ”贈り物” として使いたいと思いました。身近にあることを当たり前だと思わず、有り難いことだと感じ、幸せなことだと思えるようになりました。講演ありがとうございました。」

「小野原先生の声がとても聞きやすく良かったです。久々の講義で、とても新鮮で楽しめました。幸せは自分の感受性次第という話が印象に残り、『人が人にしてくれることであたり前のことは何もない』 という話を聞いて、日頃自分は他者に対し 『やってくれてあたり前』 と考えていることの多さにおどろきました。」(卒業して十年生)

「有り難い、当たり前ではないの話の例えで (夫婦間の役割分割の例えで)、2人で決めたルールを破るとカチンとくる。←これは私です。『有り難い』 と思うとか、よくいろいろな本に出てくるので、分かってるつもりなのですが、できない。本当に難しい よくごはんを残すと、『世界には食べれない人がいっぱい…』 とか親に言われましたが、『じゃあこんなに作らないでよ』、『じゃあ、食べれない人にあげればいいじゃん』 っと思ってしまう。小学校時代からあんまり変わってないじゃーんとちょっとスネてしまいそうです。」

「とても興味深い内容で、新しい価値観が身についた気がします。特に幸せになる方法のところの話はすばらしく、②の考え方にはとても同意できるな、と思いました。おもしろい話も多く、聞いてよかったと思います。考え方1つでたくさんのことが変わり、自分の受け止め方もとても変わるのだな、と思いました。世界を明るく考えるためには自分の考えを改めることが必要なのだな、とも思いました。私も今日聞いたことをこれからに活かしていきたいと思います。」

「今日の講演を聞いて、食べ物、住まい、お金に困ることなく暮らしていられることが幸せな事なんだと思うことができました。」

「この講演会には、幸せはどういうものであるのかを論理的に考えたいと思い来たので、その答えが知ることができたので目的を果たせた。他人を喜ばせることは自己満足なわけではなく、自分も幸せにするということを知り、もやもやが晴れた。」

「幸福に値するように生きよというカントの言葉は納得しました。世界が100人の村であったらという本を読むと自分の幸せというものを感じられると思います。しかし現実には感じられないのが残念ですよね。」

「幸福とは幸福感であるということにとても納得しました。質問でいくつかでてきましたが、幸せの感受性を高めるために、欲望・欲求をコントロールして小さくするのは、あきらめるということではないということが分かりました。本日はありがとうございました。」

「幸福について、自分の意識を改めて考え直せた。自分の思っていた幸福感を再認識できた。いろんな方にこの様な講演を聞いて欲しいと思いました。こんな風に学べる場所で勉強が出来るのをうらやましくも思う。」(福大1年生の母)


皆さん、学祭で盛り上がっているなか、しかもいい天気だというのに、
こんな辛気くさい講演会に足を運んでくださり、本当に有り難うございました。
特に最後までお聞きくださったり、質問までしていただいた方々には、
私の講演のために長い時間を割いていただいたことを心より感謝申し上げます。
また、私を講演会に招き、いろいろとご準備してくれた実行委員会の皆さまにも感謝申し上げます。
あの90分間、私は本当に幸せでした。
皆さまもこれからずーっと幸せな日々を過ごされますよう心からお祈り申し上げます。

福大祭講演会 「まさおさまの幸福の倫理学」 開催

2013-11-01 13:06:36 | 幸せの倫理学
告知するの忘れてました。

明日から福島大学では福大祭が開催されますが、

11月3日 (日) に私も講演会を開きます。

題して 「まさおさまの幸福の倫理学」。

中学校高校や、学校の先生相手の研修会等で話をさせていただく機会はありますが、

一般向けの講演会というのは意外と最近やっていないように思います。

(今年は静岡で一度やりましたが、静岡ですからねぇ。)

福島在住の皆さん、学生でなくてもタダで私の話を聞けるチャンスです。

内容的にはこのブログの 「幸せの倫理学」 カテゴリーでダラダラ書いているようなことばかりですが、

まさおさまのエロい生声を聴き、糖質制限ダイエットの成果を目の当たりにすることができるはずです。

福大祭の真っ最中ですので、競技ダンス部のタコス屋さんをはじめとする各種模擬店や、

お化け屋敷やふわふわトランポリンなどもあり、ご家族みんなで楽しむことができるでしょう。

連休の中日、ぜひ福島大学へ足をお運びください。


福大祭講演会
「まさおさまの幸福の倫理学」

講師 : 小野原雅夫

日時 : 11月3日 (日) 14:00~15:30

場所 : M2教室
(福島大学M講義棟1階)

入場無料



P.S.
福大祭のホームページには載っていないようなので、チラシを貼っておきます。


キリンに乗って

2013-10-22 20:48:51 | 幸せの倫理学
せっかく写メ撮っておいたのに、昨日のブログに載せるのを忘れてしまいました。

最終回のワークシートに絵を描いてくれた人がいたのです。

これですっ



上手ですね。

これを描いてくれた人は、例のあの 「キリン好きですか?」 の質問をくれた方でしょうか?

その回答のブログに伊坂幸太郎の 『ポテチ』 の話を書いたのを覚えていてくれたのでしょうか?

自殺しようとしてる女の子に 「今からキリンに乗っていくよ」 と呼びかけるあの話です。

それを絵に描いてくれたのかな?

最終回は珍しくスーツを着て授業に行ったので、たぶんキリンに乗っているのは私でしょう。

なんだか幸せそうに笑っています。

こんな人が来てくれたらたぶんみんな自殺を思いとどまることでしょう。

幸せそうに描いてくれてありがとうございました。

これから先、何か辛いことがあって死にたくなるようなことがあったらぜひ連絡ください。

キリンに乗って助けに行くよ。

自分への自信について ―東野圭吾 『夢幻花』 より―

2013-09-30 13:42:57 | 幸せの倫理学

東野圭吾が今年2013年に出版した 『夢幻花』 を読みました。
正直なところ、東野圭吾って多作なのはいいのですがけっこう当たり外れが大きくて、
あまりにこじつけが過ぎるんでないの、と思ってしまうこともないわけではないんですが、
これはとても面白く読むことができました。
本の帯には著者自身の言葉を引いたこんなキャッチコピーが添えられていました。
「『こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない』 と著者自らが語る会心作」。
この売り言葉に偽りはなかったと思います。

小説のタイトルにも現れているこのミステリーの根幹部分がたいへんに面白いのですが、
それには触れることはいたしません。
著者が 「時間をかけ、考えた」 プロットのうちのほんの枝葉の部分なのですが、
我がブログが取り上げているテーマと密接に関わる描写がいくつかありましたので、
その部分だけちらっとご紹介させていただくことにいたします。
今日のところは、自分への自信という問題に関連して。
このところ2回にわたって自分への自信について書いてきましたが (その1その2)、
そのテーマにどんぴしゃなシーンがありましたので引用させていただきます。

所属するバンドがプロへの道を歩み始めようとしていた矢先に謎の自殺を遂げた尚人。
尚人の弟の知基。
尚人と知基のいとこで、水泳でオリンピック出場が有望視されていたにもかかわらず、
あることをきっかけに今は水泳から離れてしまっている梨乃。
尚人と高校時代からのバンド仲間である雅哉。
以下の引用は、雅哉と梨乃と知基の3人の会話ですが、
ほとんど喋っているのは雅哉と梨乃の2人だけです。

(以下、東野圭吾 『夢幻花』 より引用)

「どうしても話しておきたいことがあって。特に梨乃ちゃんに」
「あたしに? どんなこと?」
 雅哉は頭を上げ、充血した目を彼女に向けてきた。
「尚人のことだ。あいつはさ、ずっと悩んでたんだ。昔から。子どもの頃から」
「どんなことを?」
「自分が梨乃ちゃんみたいになれないってことについてだよ」
「あたしみたいに? 何それ、どういうこと?」
 雅哉は虚しさの漂う笑みを浮かべた。
「梨乃ちゃんにはわからないだろうなあ。でも、そういうもんなんだよな。本人はふつうにしているつもり。だけど周りの人間にとっては眩しくてたまらない」
「ちょっと待ってよ。何のことだかさっぱりわからない」
 雅哉は唾を呑み込むように喉を動かした。
「尚人はさ、才能がほしかったんだ。才能に恵まれた人間になりたかったんだ」
「はあ?」 梨乃は眉をひそめた。「何いってるの。尚人ほど才能に恵まれた人間はいなかった。スポーツ万能だったし、学校の成績だって優秀だった。絵だって上手かったし、音楽だってプロを目指せるレベルだった。才能に恵まれないどころか、恵まれすぎてたくらいじゃない」
 だが彼女の話の途中から、雅哉はゆらゆらと頭を振り始めていた。
「だから梨乃ちゃんにはわからないといってるんだ。たしかに尚人はスポーツも得意だった。でもプロになれるレベルだったかな。梨乃ちゃんみたいにオリンピックを目指せるほどだった? 違うだろ。学校の成績が優秀だといっても、所詮限られた範囲でのことだ。尚人は特に数学が得意だったけど、ただ解き方を知ってるだけだって、よくいってた。絵についてもそうだ。白い紙を見つめていると、絵の構想が浮かんでくる。それに合わせて絵筆を動かせば、立派な絵が仕上がる。だけどそうやって完成させた絵は、いつもどこかで見たことのあるものだってことに気づいたんだそうだ。自分はただ絵の知識があって器用なだけだ。他人はうまいと褒めてくれる。しかしそれは感心であって、感動じゃない。人の心を一ミリだって動かせない」
 雅哉は視線を梨乃の顔に戻した。
「やがてこんなふうに思い始めたそうだ。自分には何の才能もない。あるふりをしているだけだって」
 でも、と梨乃は口を開いた。
「そんなの、殆どの人がそうじゃない。才能がある人なんて一握り。あるふりをしてただけだっていうけど、それをできること自体がすごいと思う」
「うん、俺もそう思うよ。尚人だって、ふつうならそう思えたんじゃないかな。だけど、あいつの場合、すぐ近くに梨乃ちゃんがいた」
「あたし?」
「尚人からよく聞かされたよ。梨乃は天才だって。同じプールに入っているのに、彼女の周囲だけ水の質が変わる。特別な水が彼女を推し進めているように見える。自分たちとは別の世界で泳いでいるって」
「そんなことは……」
「ないと思っているのは本人だけだ。尚人だって水泳は得意だったそうだね。県大会にも何度も出たとか。だけどあいつはいってたよ。俺が水泳をやめたって、周囲の誰も気がつかなかったってね」
 梨乃は、はっとして隣の知基を見た。「そうだっけ?」
 知基は辛そうに目を瞬かせた。
「そういわれれば、たしかにそうだ。兄貴は何年も泳いでなかった」
「梨乃を見ていると、自分がひどく小さな人間に思える、ともいってた。何の取り柄もない、つまらない人間としか思えないと」 雅哉はいった。
「そんなこと、あるわけないのに……」
「音楽においてもたぶんそうだろう、と彼は気づいていた。自分には才能なんかないって。よく俺にいってたよ。雅哉は才能があって羨ましいって。だけどじつは、俺だって尚人と同じなんだ。天才なんかじゃない。才能なんてない。平凡で、ありふれた能力しか持ってない。どこにでもいる人間だ。そのくせ、誰よりも輝きたいという夢を持っちまった。なまじ、真似事だけでそこそこうまくいったものだから、余計に欲が出た。本物の天才になりたいと思った。…(中略)…だけど偽物はどこまでいっても偽物。本物にはなれない」
 雅哉は背筋を伸ばし、梨乃ちゃん、と改まった口調で呼びかけた。
「尚人がよくいってたんだ。梨乃は馬鹿だって。せっかく才能があるのに、それを無駄にしている。梨乃は水泳選手として生きていかなきゃいけない。才能を与えられた者の義務だ。それを重荷に思っているとしたら贅沢だ。何の義務も与えられていないことがどれほど虚しいか、梨乃はわかっていない―」 一気に話した後、彼はふうーっと息を吐き、笑いかけてきた。
「雅哉さん……」
「それを伝えたくて来てもらったんだ」
 梨乃は頷き、膝に置いたバッグからハンカチを出した。彼の言葉を、どう受けとめるべきなのか、まだよくわからなかった。しかし心の中が揺さぶられたことは確かだった。
 ハンカチで目頭を押さえた。

(以上、引用終わり)

フツーの人たちから見たら、尚人も雅哉も十分に才能に恵まれた若者です。
それでもむちゃくちゃ悩んでいます。
特に身近にオリンピック出場候補選手がいた尚人は、
梨乃と比較してしまうことによって自分に自信をもつことができずにいます。
尚人から音楽の才能に関して羨ましがられていた雅哉もまた、
誰よりも輝きたいという大それた夢をもってしまったばっかりに、
自分にはありふれた能力しかないと卑下してしまっています。
そして、この引用文中にはありませんでしたが、
梨乃もまた自分に自信を持てずに苦しんでいるのです。
自分を好きになれず、自分に自信を持てないでいる若者たち。
特にそれがこの小説の主題というわけではないのですが、
現代の若者たちの苦悩を上手く描いているように思いました。
自分を見極め、自分を受け容れ、自分のことを認めて好きになってあげられないと、
こんなに才能に溢れた若者たちですら道に迷ってしまいます。
やはり皆さんには自分なりのニッチを早く見つけてもらいたいもんだと思います。

Q.どうすれば自信や自分をしっかり持てるようになりますか?

2013-09-26 01:53:39 | 幸せの倫理学
一昨日、「Q.先生の好きな言葉は?」 という記事を書かせていただきました。
私はブログと Facebook を連携させているので、ブログ記事を投稿すると、
自動的に Facebook にもリンクが貼られることになります。
その際、Facebook友達に向けて一言書き添えるようにしています。
一昨日の記事ではこんなふうに書き添えてみました。

「今の私しか知らない人には信じてもらえないかもしれませんが、
 私は昔からこんな自分大好きナルシスト人間だったわけではなく、
 若い頃は自己嫌悪と自信喪失の塊のような超ネガティブ人間でした。」

こう書いたところ、Facebook友達の皆さんから大ブーイングを食らってしまいました。

「うそつけ。」
「先生が嘘をつくわけがないので一応信じますが、やっぱり想像できないっすよ!」
「○○さん (=妻) が言ってたからホントだと思うけれど、その転回が信じがたい。」

今の私はそんなに自信家、ナルシストに見えているんでしょうか?
しかし、一昨日の記事に書いた、
「子どもの頃の私はまったくの落ちこぼれで、劣等感の塊でした。
 学力的にも、運動神経的にも、容姿や体格的にも何ひとつ誇れるものはなく、
 自分に対して自信というものをまったく持っていませんでした。」
という記述はまったく嘘偽りのない事実なのです。
そんな子どもだった私が、いつの間にこんな人間になってしまったんでしょうか?
今日の質問には、そのへんの転機の話を披露するとお答えになるのかもしれません。
(一昨日書いたことと大部分は重複してしまいますが…)

まず第1は、自分のダメさ加減にきっちり向き合って、
自分がどうダメなのかを見極め、ダメなところを味わい尽くす必要があります。
子どもの頃って人を測る物差しや基準がひじょうに単純でしたよね。
順番的に言うと、容姿、体型、運動神経、学力の順番かなあ。
低学年であればあるほど、男でも女でも1番モテる子が特定の子に偏っていたように思います。
そして、そういう子と自分を比べて、なんで自分はああなれないんだろうと悩んでいました。
突然自分がそんなふうなカッコいい子になってモテモテになってるところを夢想したり。
少しでも近づけないかと見当外れな努力をしたり。
それらはことごとく失敗してよけいに自分への自信を失ったりしていました。
学力のように努力によって何とか挽回できるものもないわけではありませんが、
私などはなんとか努力して成績を上げて、ギリギリ届く高みの学校に進学し、
そこに入学したらまた底辺に舞い戻るという過ちを小、中、高、大、大学院と、
進学のたびに繰り返し、けっきょく自信回復にはつながらずじまいでした。
容姿や体型や運動神経などはもう如何ともしがたく、
これらを何とかしたい、何とかなってくれないかと望んでいるうちは、
自己嫌悪から抜け出すことはできません。
どうしようもないものに関してはどうしようもないのだと諦めて、
それもまた自分なりの個性だと受け容れるしかありませんが、
ここが1番の難関だと思います。
変えようのないものに関しては与えられたもので勝負するしかないと開き直れるかどうか、
これが何よりも重要な転機だと言えるでしょう。

そして、皆さんも記憶にあると思いますが、子どもの頃は物差しや基準が限られていましたが、
だんだん歳を取るにつれて判断基準も少しずつ増えてきて、
それによりみんなの好みがだんだんとばらけていきます。
面白さ (ユーモア、明るさ?) とか、内面性とか、学校の成績とは異なる知性とか、
あるいは、笑顔とか芸術性や特技 (特に楽器が弾けるとか) なども大事になってきます。
これらは容姿や体型なんかと比べるとはるかに可塑性 (かそせい) が高いです。
つまり、努力や経験によって変わったり高まったりしていく余地が残されています。
こうして世界が広がっていくとともに、自分の勝負できる土俵が見つかる可能性が高まってきます。
それを見つけられれば、自信や自分を持てるようになるでしょう。

とはいえ、この段階ではまだそれを見つけるのは難しいでしょう。
私の場合は、大学時代まではまだこの域には達していませんでした。
社交ダンスというものに出会い、将来はプロダンサーになんていう野望ももっていましたから、
身長が低いこと、脚がO脚なこと、あいかわらず運動神経が鈍いことなど、
自分ではどうしようもないことを何とかテクニックでカバーできないかなどと頑張っていました。
そして、それが上手くいかずに自信を失うということを繰り返していたのです。
同時並行的に哲学の勉強も始めていました。
しかし、こちらもまだまったく芽が出る気配はありませんでした。
文章を書くのは好きでしたが、哲学の修練が全然足りていなかったので、
自分に自信を持てるようなレベルではまったくありませんでした。

ここから先に進むためは自分に有利な土俵作りが必要になってきます。
一昨日書いた、「日本一」 というか 「日本唯一」 の土俵を作ってしまう作戦です。
これが第2段階です。
ビジネスの世界ではこれを 「ニッチ戦略」 と呼んでいます。
ニッチとは 「隙間」 という意味です。
「大企業がターゲットにしないような小さな市場や、
 潜在的にはニーズがあるが、まだビジネスの対象として考えられていないような分野」 のことです。
みんなと同じ土俵で大勢と競い合っていると、誰かには勝てるかもしれませんが、
誰かには負けてしまうこともあるわけで、そうすると安定的な自信につながりません。
誰にもマネできないような自分独自のニッチを見つけられれば百戦連勝 (というか不戦勝) でしょう。
つまり、ご質問のなかにある2つの要素はまさに原因と結果の関係を成しているわけで、
自分をしっかり持つことができれば、自分に自信を持てるようになるという関係だと思います。
つまり、自分をしっかり持つというのは、人と比べて誰にも負けないような自分を探すのではなく、
(そんなものがあればそりゃあ自分に自信を持つことは簡単でしょうが…)
誰にもマネできないような自分にしかできないことを見つけてそれを自分の拠り所とすることであり、
そうすることによって自信を持って、
それを自分のセールスポイントとして売り出していくことができるようになるのだと思います。

私の場合、研究面に関して言うと、この域に達することができたのは、
一昨日書いたように大学院の2年目以降のことでした。
恋愛面で言うと、もう少し早かったかもしれません。
私の好きなタイプの女性というのは、自立していてそれこそ自分というものをしっかり持っていて、
むちゃくちゃ能力が高くバリバリ働き、かつ女性的魅力に溢れているスーパーウーマン・タイプです。
そんな女性がフツーだったら、私のような特に秀でたところもなく、
いつまでたっても社会に出るアテもなく、ずーっと研究ばかりしているようなオタク人間を、
相手にしてくれるはずないように思えます。
しかし、よく考えてみると、そういうバリバリのスーパーウーマン・タイプは、
自分と似たようなバリバリのスーパービジネスマンや、
スーパーキャリア・タイプばかりを本当に求めているでしょうか?
職場で自分とキャリアを争うような相手をパートナーとして欲するでしょうか?
むしろ、パートナーに求めるのは癒やしであったり、
女性が社会に出て活躍することをサポートしてくれることなのではないでしょうか。
自分がそういうニッチを目指すならば (特に努力しなくともすでに自分はそういうニッチでした)、
意外とマッチングの可能性は高いのではないかと思われました。
その予想はみごとに当たりました。
まったくモテない、まったくサエない子ども時代を送っていた私が、
幼い頃から常に学校の人気No.1でそのままキャリアウーマンになってしまったような女性と、
どういう勢いだか付き合うようになり、そのまま結婚することになってしまったのです。
それが可能になったのは、私が容姿や体型や収入や社会的地位などのありきたりな土俵を捨て去り、
当時としてはとってもニッチな男性像を体現した自分を作り上げることに成功していたからでしょう。
というわけで、今回は次のように答えをまとめておきましょう。

A.まずは自分をしっかり見つめ、いいところダメなところを把握して、
  ダメなところ、改善のしようのないところはあっさり受け容れ、そこで戦うのは諦めて、
  自分の得意なところ有利なところを精一杯伸ばし、
  誰にもマネできない自分にしかできないニッチを自分の拠り所としたら、
  それによって自分に自信を持つことができるのではないでしょうか。