インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

12月2日…骸骨に、枯れた白い花。

2007-12-02 19:10:33 | 思想・宗教
ウシュマルの祭壇の飾り(写真)。
カリブの海賊はこれをヒントに、旗のシンボルとしたらしい。

マヤ文字辞典によると、 
○斬首;戦争捕虜の首をはねる行為は、メソアメリカ地域では神の怒りをなだめる意味があった。流された血が土に栄養を与え、肥沃にすると考えられたのだ。

○血;マヤの宗教観によると、生命の源泉は血であった。水の流れとともに、血液の流れは宇宙の流れ、つまり精神世界と物質世界の調和を象徴するもので、神に近づくための重要な手段だった。
 マヤ文明の特異な側面をひとつ挙げるなら、それは戦争で得た捕虜から血を流させる儀式を頻繁に行っていたことである。ほかの儀式では、シャーマンや王が同じことをして自分の体に施していた。流された血の一滴一滴が神々と大地に栄養を与え、トウモロコシの大豊作を促すと信じられていた。

 これを小説の題材にし、登場人物トナ(女酋長)に語らせるなら、

トナは目を閉じ、天を仰いだ。
「私の父が教えてくれたこと。それは大地への賛歌だったわ。大地はすべての生き物を同じように育てる。大地は乳を出し、生き物にふくませる。大地の血は水となって流れ、大地の髪は草木となってなびく。人間は大地と酒を酌み交わし、会話をし、供え物のやり取りをする。大地が黄色いダリアをたくさん咲かせ、魚や鹿、ウサギを差し出せば、人間は石像やピラミッドを造り、生贄を捧げて大地に感謝する。みんなもそれを受け継いでいるし、それはもはや変えられない、定められた決まりなの」

 と、でもなるかな(→ 批判の嵐)

 いずれにせよ、世の中、綺麗事では生きて行かれない。

 自分は、安泰で、幸せに生きていこうとしても、向こうから噛み付いてくる場合もある。

 これも登場人物イシュ(闇の神の神官)に語らせるなら、

 酔いながらイシュは叫んだ。
「お前ら神官は用なしだ! 役立たずだ! 神官があんな商売の神に従ってどうする。ケツアルコアトルは神官の腹を肥らせ、信仰をなくしている。商売人の神官に騙されるな。本物の神官は断食することから始まる。おまえら軍人も用なしだ。軍人は飢えた獣、狩りをするジャガーだ。飼い慣らされてどうする。羽毛ある蛇を追い出せ。軍人に平和は必要ない。本物の軍人は断食することから始まる。戦えと命令するのは何だ。噛み付けと命令するのは何だ。飢えだ、闇の神の声だ。ケツアルコアトルは闇の神を壺の中に閉じ込めている。ジャガーを犬に変え、飼い慣らそうとしている。お前らは犬になりたいのか? だが肥った犬はジャガーの獲物だ。ケツアルコアトルの教えは間違えている。ケツアルコアトルの世など幻の世界だ。軍神を閉じ込めた、快適な檻の中だ。ジャガーを捕らえてどんどん監獄に入れる。だが死こそが現実だ。現実の世界はジャングルだ。食うか食われるかだ。羽毛ある蛇など信奉していれば皆、食われるだけだ。この国が他所の部族に食われるだけだ。物など作る必要はない。他所の部族から掠奪すればいい……」

 と、でもなるか。(→ 書いた人のこころが疑われる)

 インディオ部族も色々あるが、平和な部族はたまらんぜ。 
 
 マヤ文明も最初は穏健だったが、後年は中央メキシコのトルテカ族の影響を受けて残酷味を帯びたようだ。骸骨ばかりでは、ロマンがない。

 そう、人生は白い花よ!

 
○魂;魂の概念が「白い花」という詩的な文字で表現されている例も幾つか見つかっている。この場合、死の瞬間は「白い花が枯れた」とか「白い花が終わった」と表現されている。その表現の意味するところには世界樹の図像にひそんでいた。世界樹の枝の先にある鈴型のものを注意深く見ると、それが様式化された白い花で、そこから爬虫類の頭が生えているのがわかる。
 人の魂は、「大いなる父」が世界樹を創造したときに創られ、魂はその樹から咲いた花なのである。


●追記
 さらに、このブログを壊すために、
 いかれた登場人物デーモス(テスカトリポカ王)に語らせよう。

 (主人公ケツアルコアトルの前で)
 イシュに代わり、デーモスが太鼓に合わせて喚き始めた。
「その通りだ! ヌマスギはこう語ったぞ! 文明の世では、お前たちとは理解し和えないと。お前たちは同類だけが集まって大きな卵の殻を作っているのだと。ヌマスギはこう言っているぞ! お前たちが死ぬのは当然だ、死んで私の肥やしになるのだと。所詮、肉体など大自然からの借り物である器、それを明け渡せと。死ぬのは最悪の出来事か? 死ぬことによって、人間といったちっぽけな殻を抜け出せる。想像を絶する大きな世界に触れることが出来る。それは生きているうちに少しだけ触れることができる。神の肉である、キノコを齧ってみるのだ!」



6月2日 …マヤ・アステカの神話 3

2007-06-02 14:14:17 | 思想・宗教
 第2章 人間と動物の関係

 先日、半ジャガー人を話題にしたが、(神様コメント、サンキュウ!)

 ニコルソンも動物について取り上げていた。

「スペイン人到来以前のインディアンが、以下に注意深く生き物の特徴を観察し、それらに象徴的な意味を持たせることに長じていたかに留意すべきである・・・」

 蛇(あるいは大蛇)→ マヤの神話の中で、「時間」と関係がある。

 ケツアル鳥→ 大蛇と対照的で、人間を「時間の絆から解き放つ」ことができる。

 ハゲタカ→ 大蛇と死闘しているところが描かれている。

 ワシ→ 「日中の太陽」の側に立ち、ジャガーとオセロット(アメリカの虎)に対置される。

 (マヤの象徴法では、ジャガーの日は黒曜石の日で、天と地が抱き合う日)

 オセロット→ 「冥界の夜の旅をする星」の側に立つ。

 ミミズクと犬→ 「死」と「埋葬」に関係がある。

 カタツムリとカメ→ 「冬至」と「夏至」をあらわす(のろまだから)。


(感想)
 言葉というか、ある観念が、動物に置き換えられている。
 
 たぶん、古代アメリカ人がワシが羽ばたくのを見たとき、
  「おお、○○が、△△で、××だ!」
 と理解し、
 
 ヘビが這っているのを見て、
  「あっ、△○が、□□だ~」
 と納得していたのであろう。

 それが何なのか…、

 学者たちは解釈しようとしているのだ(微笑)。


 
  

5月26日 …「マヤ・アステカの思想」2

2007-05-26 03:17:33 | 思想・宗教
第八章 ケツアルコアトル神話

ケツアルコアトルは、古代アメリカにおいて、歴史上実在した王様。
いつ存在したかは説によって分かれる。トルテ時代など(999年追われたとか)。

有名な風の神。慈悲深い文明神。平和な農耕神。金星。
ケツアル=鳥(コスタリカの国鳥ケツアール!)
コアトル=蛇(さらに、コ=蛇、アトル=水らしい)の合成語。

「彼は風の神であると同時に、神の使いで道を清めるものでもあった。また、人間の存在を可能にしたトウモロコシを発見した。彼の心臓は自分が火を点けたかがり火で燃やされ、そこから立ち上がって金星となった…」

ニコルソンによると、
「鳥=水=蛇の象徴の分析・・・・・捕らえることが大変難しいケツアル鳥は、自分自身の鳥と関連を持つ。
ケツアルコアトルはしばしばハチドリと一緒に描かれる。ハチドリは肉体の骨組みから開放され、喜びの蜜をくれる全ての花々に照らして空に光り輝く、人間の魂を意味したのである。

しかしながら、鳥は一つの相でしかない。なぜなら、人間の魂は骨組みを、物質を持たなければならないからで、それは蛇の鱗として象徴される。

水の神々、女性らしさを示す神々との繋がりは恒常的である。大地の怪物と関係を持つ・・・・・・ケツアル鳥は、物質の中に降り、有機体の本性的な全運動の一部となるために、蛇と合体しなければならない。

いいかえれば、精神は物質に生命を吹き込むために、その中へ入らなければならないのである」

ここで「大地の女神コアトリクエ」と関連付けられる。
(緑の大地も、最初は月のように殺伐としていたのか)

ニコルソンは、次のように説明している。

「ケツアルコアトルは五人の月の女神のうちの一人、コアトリクエから生まれた。

コアトリクエの役割は、我々が住んでいる惑星に、霊を押し込めることを指す。

かつて彼女は不毛のまま隠れていた。

しかし太陽が現れて彼女を花嫁として連れ出すと、生命の本能的な力は全て、ケツアルコアトルの中に移った。

それから地球は母となり、神話となった。果実と精力、種子と花、微風と破壊的な台風、愛の抱擁と仲を引き裂く爪、石と水となった。

彼女の中で、彼女の息子を通して、超越的な存在は現実的なものとなり、荒い物質としての存在が飛び回るにいたった。

さらに彼女の配偶者となるに及んで、太陽は新しい未知の力を獲得した。地球とともに、金星ケツアルコアトルとともに、太陽は三位一体の一部を形成し、その中で均衡と調和が達成された。太陽は女性たる地球を孕ませる弾性の力となり、そこから慈悲深く愛情豊かな息子が生まれた」

(感想)
ケツアルコアトルは、キリストに近い気がする。
古代ギリシアの「ディオニュソスVSアポロ」が、「テスカトリポカVSケツアルコアトル」に匹敵するが、古代アメリカで勝利したのはテスカトリポカ(悪魔?)である。
するとどうなるか・・・・・。
スペイン人に占領されたのをどう解釈する?
悪魔退散? インディオ虐待?
とにかく、古代アメリカの占い通り、「トルテカ時代に追い出されたケツアルコアトルが戻ってきた」。
メキシコでキリスト教がすぐに広まったのも、ケツアルコアトルの土壌があったからだと思う。
インディオはキリスト教にも寛容だ。

4月28日 …『マヤ・アステカの神話』を考える

2007-04-28 03:44:03 | 思想・宗教
 またまた堅苦しい本を掲げて恐縮である。

 おかしなブログ主が、勝手な妄想で「インディオの思想」をずらずら書いてしまったら(自己主張)、

 「はぁ?」「おかしいよ~」「バイバイ…」
 
 翌日のアクセス数が激減するものと思われる。
 恐ろしいので(臆病者!)、名のある本?を叩き台にし、コメントを述べる形にした。
 それにしても、何か、インディオ関連書物の解説ブログみたいになってきた(笑)。

 
  マヤ・アステカの神話
  アイリーン・ニコルソン(松田幸雄 訳)
  ¥2600 青土社

 5年前の今頃(GW)、無理して買い、妙な気持ちで読んだ。
 屁理屈が多く、回りくどく、観念的で、◎(やや難)か。
 神話がロマンチックに述べられている。が、物語ではないので、面白みがない。300ページを超えるこの本と付き合うのは、キツイかも。
 沢山の写真(モノクロ)とその解説があり、詩も挿入され、本文無視してそれだけ読む手もある(アホか! ますます面白くないぞ)。

  メキシコに住むジャーナリストの白人女性が、死ぬ一年前(1967年)に書き上げたものらしい。モーツアルトが死ぬ間際に作曲したレクイエムを思わせる。彼女も古代アメリカの神々に憑かれて書いたのであろうか。


 再びざっと読む。
「はぁ?」「おかしいよ~」「バイバイ…」したい箇所もある(が、凄い所も多い)。

 ざっと、速読する(こんな内容だっけ?)

 五年たった今、新鮮に思える。

 訳者あとがきを抽出すると(またか。これが、怠け者の読み方さ…)、
 
 ニコルソンがいうには、
 ①メソアメリカの神話は万華鏡のように輝く変幻極まりない世界を創り出していて、象徴はほんの僅かしかなく集中し、一つ一つが広範なものの見方や宗教理念に奉仕するために作られたかのように簡略化され、巧みに処理されている。そこでの神話は、創造には犠牲が伴うという献身的な愛の精神に基づくものであった。

 ②本書での彼女の主張であるが、ケツアルコアトルに象徴される愛の宗教が、支配民族の血の崇拝儀礼に堕落していった。すなわち、宗教が神官の堕落や間違った薬学の使用、自発的な犠牲から公認の捕虜殺人と化して堕落して、文明を衰退に導いた。特にアステカに厳しく、血の儀式は殉教的なものではないと認めない。

 ③スペイン人来航により、記録が破壊され、変形を受けた。そのとき既に宗教は堕落変形の兆候を持っていたので、メソアメリカ神話の正しい理解がなされていない。


 う~ん、血の崇拝儀礼は、支配民族(マゾヒスト)が推し進めただけである、ということは、マヤ文明は、最初から酷いマゾ文明ではなかったのか。

 ざっと読み、はっとしたのは、「第6章 黄金の人間」。
 神々が錬金術(?)で人間を作った、という感じ。
(ボールの中にトウモロコシなどの材料を混ぜ、かき混ぜ、最後に神の血を加えたってイメージかな)

 人間は品物を作るが、自分自身が品物だと思わないもんね。

 読み返し、なんか、ニーチェ『悲劇の誕生』を思い出した。

 ディオニュソス賛歌(インディオ的か!?)した後、こう書いてある。
「…人間はもはや芸術家ではない。人間自体が芸術作品になってしまったのだ。すなわち、全自然の芸術力は、ここに陶酔の戦慄のもとに啓示され、根源的一者(造物主9に最高の歓喜の満足を与えるのである。もっとも高貴な粘土がここで捏ねられ、もっとも高貴な大理石がここで彫刻される。人間だ…」

 ああ、眠い。
 かくしてマゾ文明の思想は、ニーチェの危険思想と繋がるのである…
 
 妄想が膨らみそうなので、今回は失礼!


  <来週に続く>
 

   

  







 

本場のインディオが浸る(??)思想

2007-04-21 14:39:44 | 思想・宗教
ここ三ヶ月以上、まったく踊っていない。

三階に引っ越したため、近隣住民に配慮していることもあるが、一応、平日働いていることもあり、ぐったりして、土日は寝たり、静かに過ごしている。 
文明人であることに疲れ、未開人に憧れているのかもしれない。だが、彼らでさえ狩猟や農耕で疲れ果て、ぐったりしているのかも。  

さて、ジャングルには、スーパーマーケットがない。 
切り身にされパックにされている肉はすべて隠れ動き、人間から逃げ回る(逆に食べてくれと近づいて来る生き物は気味が悪い…)。 
精霊崇拝が徹底されているから、本来ならば、インディオは殺生をしてはいけないはずだが、やはり、たんぱく質や栄養が必要である(トウモロコシや豆類ばかりでは面白くない。肉が食べたい。毛皮も欲しいし、皮も太鼓や鞄に使える。物々交換世界では、交換価値が高い)。
もっとも狩りをする本能があるのかもしれないが。
  
よって、インディオ→ 狩をする→  血を見る→ いけにえ思想、となるのである。 

殺した生き物を神と崇め、感謝の印として人間の仲間を捧げる(人間も生け贄になる義務があるってか…。メチャクチャだ)。 
また先祖代々の言い伝えが「神々は人間の血を要求している」となっている。 

強迫観念に憑かれたインディオたちは、
ピラミッドの頂上の神殿の側で、・・・やっていたのである。  

精霊崇拝していれば、死など怖くはない。 
自分の体など、所詮、大自然からの借り物にしか過ぎない。 
大麻やペヨーテなどの幻覚植物を吸い、太鼓に合わせて踊り、インディオは世界(いや、宇宙)と一体化していた。  

う~ん、はまってしまえば、実に恐ろしい世界かもしれない。 
この集団的狂気、愛情に包まれていたらしいが、相当な残虐だったはず。  

ひどい宗教的洗脳+ひどい麻薬中毒=恐ろしい行為と結果   

どれぐらい異常だったのかインディオ(僕)でさえ良くわからない。 
「自分の指先をちょこっと刃物で切り、血を見て、ニコッとする」、どころではなく、「自分の指先をちょこっと刃物で切り、血を見て、全身を切り刻む」感じだったのか(?)。  
もちろん、インディオの部族は沢山あるから、マゾのレベルにも差はあり、農耕中心の部族(トトナカ族など)は割と平和であったのではないか。 しかし彼らは、トルテカ族やアステカ族といったハイレベルのマゾヒスト集団に、やすやすと制圧されたのであった。   

ちなみに、僕はあまり痛いのは好きではない。