○○73『自然と人間の歴史・日本篇』貨幣の鋳造と流通

2018-05-31 20:55:16 | Weblog

73『自然と人間の歴史・日本篇』貨幣の鋳造と流通

 国家単位での貨幣の流通は、文明社会の成熟度を計る一つの目安となる。大和(倭)朝廷による「和銅和同開珎(わどうかいほう(ちん)という銭貨の鋳造について、『続日本記』には、こうある。
 「和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父郡(むさしのくにちちぶぐん)、和銅(にぎあかがね)を献ず。詔して曰く、「(中略)東方武蔵国に自然作成(おのずからになれ)る和銅出在りと奏而献焉(もうしてたてまつれり)」。(中略)故、改慶雲五年を改めて、和銅元年として御世年号と定め賜ふ。(中略)二月甲戌(きのえいぬ)、始めて催鋳銭司を置く。」(『続日本記』の聖武天皇2月の条)。また「五月壬寅(みずのえとら)、始めて銀銭を行ふ」(同5月の条)。さらに「八月己巳(つちのとみ)、始めて銅銭を行ふ」(同8月の条)とある。
 実は、これより前の682年(天武大王12年)、富本銭(ふほんせん)なる貨幣がつくられている。とはいえ、こちらは世の中にどのように出回ったかにつき説が分かれているのを踏まえると、通貨流通面では708年(慶雲5年・和銅元年)の和同開珎(わどうかいほう(ちん)をもって本格的な貨幣の鋳造とみてよいのではなかろうか。
 以来、958年(天徳2年)までの間に、大和朝廷が鋳造し発行した貨幣は12種類にわたることから、総称して「皇朝十二銭」(こうちょうじゅうにせん)と呼ぶ。
 具体的には、(1)和同開珎(わどうかいほう(ちん)、(2)萬年通宝(まんねんつうほう)、(3)神功開宝(じんごうかいほう)、(4)隆平永宝(りゅうへいえいほう)、(5)富壽神宝(ふじゅしんぽう)、(6)承和昌宝(しょうわしょうほう)、(7)長年大宝(ちょうねんたいほう)、(8)饒益神宝(にょうやくしんぽう)、(9)貞観永宝(じょうがんえいほう)、(10)寛平大宝(かんぴょうたいほう)、(11)延喜通宝 (えんぎつうほう)、(12)乾元大宝 (けんげんたいほう)をいう。
 これらのうち和同開珎は、武蔵の秩父郡で作られた。銀銭と銅銭の2種類であった。これは、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を手本にしたもの。それは、「日本最古の法定貨幣なのだ」と言われる。ところが、この和同開珎という貨幣、使い道が定まらなかった。なお、銀銭の方は、翌709年(和銅2年)に廃止を余儀なくされる。その2年後の711年(和銅4年)、貨幣の流通促進に向けた試みの一つ、『蓄銭叙位令』についての記述には、こうある。
 「和銅四年冬十月甲子,詔して日く、夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する所以なり当今百姓なほ習俗に迷ひて、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して位を授けん。其れ従六位以下蓄銭一十貫以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。(中略)其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け。」(『続日本記』)
 蓄銭の「多少に応じて位階を授けよ」の下りは、その前に記される「僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し」の事情から来る。当時はまだ、稲や布などが銭貨として世の中に出回っていたために、「当今百姓なほ習俗に迷ひて、未だ其の理を解せず」という状況なのであった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○117『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立(1185~1192)

2018-05-30 08:57:53 | Weblog

117『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立(1185~1192)

 こうして平家を滅ぼした源頼朝は、同じ1185年(文治元年)、全国各地に守護と地頭を置く。これをもって、鎌倉幕府の成立とする説が現在最有力であるものの、彼が朝廷から征夷大将軍に任じられた1192年をもってそれに充てる説も根強い。
 ちなみに、幕府の立場で書かれた「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、こうある。
 「文治元年十一月、廿八日丁未(ていみ)、諸国平均に守護、地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米段別五升、を宛て課すべきの由」との内容が述べられる。「段別五升」というのは、私は農家出身なので、その相場観を目に浮かべると、かなり多くの取り分だと言えるのではないだろうか。この策を頼朝に進言したのは、因幡前司(いなばのぜんじ)であった大江広元(おおえひろもと)である。この年の旧暦11月、彼は主君に対し「此の次を以て、諸国に御沙汰を交え、国衙(こくが)、荘園毎に、守護、地頭を補せられば、強(あなが)ち怖る々所有るべからず。早く申し請はしめ給うふべし。」(『吾妻鏡』)
 こうした云々を述べてから、国毎に守護を、荘園・公領毎に地頭を、武家政治の礎とすることを提案し、これが頼朝の採用するところとなったのである。
 この年にはまた、鴨長明(かものちょうめい)が「また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る」と述懐した、かの「元暦の大地震」が起きたことでも知られる。ちなみに、この時の地震の規模は、今日の地震学で「マグニチュード7.4」(小出裕章「原発のない世界へ」筑摩書房、2011)であったと推定されているようだ。
 そして迎えた1190年(建久元年)旧暦十一月、今度は力をつけた源頼朝が従う御家人たちとともに上洛した際、朝廷・後白河院は源氏に武力をもって「海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事」を命じたことになっている。
 「京畿、諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事。
 仰す、海陸の盗賊、○里(むらざと)放火、法律罪を設け、格殺悪を懲す。しかるにこのごろかん○濫なお繁く、厳禁に拘わらず。(中略)自今己後、たしかに前右近衛大将(うこのえたいしょう)源朝臣ならびに京畿、諸国の所部の官司らに仰せて、くだんの輩を搦めせしめよ。そもそも度々使庁に仰せらるるといえども、有司怠慢して糾弾に心なし。もしなお懈緩(けかん)せば、処するに科責をもってせよ。もしまた殊功あらば、状に随って抽賞せよ。」(『三代制府』)
 なお、ここに「前右近衛大将」とあるのは、頼朝は直ぐに右大将を返上したことから、その後は「前右近衛大将」の呼び名がなされる。また、「そもそも度々使庁に仰せらるるといえども」とあって、当時の朝廷は「検非違使庁」(けびいしちょう)は頼りにならぬと見ていたことがわかる。 この新制は、頼朝を全国の軍事部門の長として認める意味をも込めてある。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

2018-05-30 08:36:07 | Weblog

57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

 現代エジプト学において「アマルナ文書」というのは、1887年にテーベの北方約500キロメートルの地点(エジプト中部のナイル川東岸)テル・エル・アマルナで出土した粘土板のことだ。これには、楔形(くさびがた)文字で、文字が記されているとのこと。
 これらを調べていく過程で、紀元前14世紀にメソポタミアなどの西南アジア諸国からエジプトに向け送られた公式の外交文書であることがわかった。それらの宛先は、アメンヘテプ3世(紀元前1398~同1361)、それにアメンヘテプ4世(アクナトン)であって、その総数は約360通を数える。
 当時の複雑化しつつあったオリエントの国際情勢を知る上で、欠かせない史料となっているおり、注目されたのがこれらがアマルナから出土したという事実であろう。
 それというのも、アメンヘテプ4世が新都アマルナを築いた動機は、はっきりしている。それは、因習とアメン宗団がはびこるテーベを離れ、彼らに束縛されない王の権力を打ち立てることにあった。そのためには、アメン神から離れ、アテン神(太陽神の一種としての)を携え、遷都するのが必要だと。
 そして、行動は起こされた。その時は紀元前1363年頃のことであっとされ、宮廷はさぞかし混乱を来したことであろう。
 こうした内容のうち宗教改革については、現在の歴史学において評価が分かれているように感じられる。その一説には、こうある。
 「彼以前の王室の宗教にも日輪崇拝が頭をもたげていたし、ヒクソス以来アジアの日輪崇拝はエジプトによく知られていた。特にミタンニ人の太陽崇拝はエジプト王室に入った女性たちによって広められていた可能性がある。
 しかし、彼の日輪(アテン)を唯一の神とする信仰は、他のどの古代宗教よりもヘブライ人の一神教(ユダヤ教)に近いばかりでなく、世界主義的傾向においては、民族主義的なユダヤ教をこえてキリスト教に近づいている。
 また、その排他的、政治的性格は古代末期の国家宗教、即ち、4世紀以後のローマ帝国のキリスト教や3世紀以後のサーサーン朝のゾロアスター教を先駆している。これは一宗教的天才が、全オリエントの接触・交流の時代(後期青銅器時代)を背景として創造したものであった。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史ー」慶応義塾大学通信教育教材、1972)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️136『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍への道

2018-05-30 07:59:42 | Weblog

136『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍への道

 いったい「十字軍」とは何であったのだろうか。その名のとおり、宗教に絡んだ戦争であったことは確かだといえるものの、そんな目的だけであったのかどうかは、今日でも判然としていない。
 10世紀も終末へと向かう頃、ヨーロッパのキリスト教勢力は、西アジアのイスラーム教圏からの政治的・宗教的圧力にさらされていた。その契機としては、いろいろあった。 まずは、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世の要請があった。当時の東ローマ帝国は、イスラム勢力のセルジューク朝の侵攻にさらされていた。とはいえ、キリスト教の聖地でもエルサレムは637年にイスラーム勢力の支配下に入って久しい。それからもキリスト教徒の巡礼は認められていたので、それは支援要請の口実にすぎなかったとも考えられる。
 1095年には、クレルモンの宗教会議が開催される。そこでの、ローマ教皇(法王)ウルバン(ウルバヌス)2世がキリスト教徒に向かって行った演説の内容は、大層なものであった。彼は、十字軍を起こす理由を次のように説き及ぶ。
 「世界はアジア、アフリカ、ヨーロッパと大きさのちがう三つの部分に分かれている。そのなかで、敵(回教徒)の祖先伝承の地アジアは、他の二つの部分をあわせたほどの大きさがある。だがわれらの信仰はこのアジアにおこり、さかえたのだ。聖ペテロと聖パウロを除けば、使徒らはみなこの地に葬られた。だがいまでは、この地に残ったキリスト教徒は、敵に貢物をおさめながらも、自由回復の願いを胸にひめて、やっとの想いで生きながらえている。
 世界の第二の部分のアフリカも、200年以上にわたって敵の武力に支配されてきた。アフリカはかつてキリスト教精神の最も輝かしい場所だっただけに、この屈従はわれわれにとって大きな脅威だといってよい。
 ところで第三に、世界の残りの部分であるヨーロッパがある。このヨーロッパさえも、キリスト教徒が住んでいるのはごく一部分だけだ。最果(いやはて)の島々に棲(す)み、鯨(くじら)のように、凍(い)てつく太洋で生業(なりわい)をたてる野蛮人どもを、キリスト教徒などとはいえないからだ。
 れわれのこの小さい、世界の一部分は、猛々(たけだけ)しいトルコ人やサラセン人におしつぶされようとしている。彼らはもう300年間もスペインやバレアル諸島を占領しつづけ、そのうえ残る部分をくいつくそうとしているのだ。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史3中世ヨーロッパ」中公文庫、1974から転載)
 これにあるように、ローマ教皇は、当時盛んだった巡礼の目的地、聖地でもあるエルサレムが、イスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことを重大視し、これに対しての「聖地回復」を呼びかけるのであった。要するに、ただの侵略ではないと言い放つのである。あわせて、彼にとってはローマ皇帝との叙任権を巡る争いを有利に導くことと、互いに破門し合って東西に分離したギリシア正教会(東方教会)との再統合に意欲を燃やしていたのかもしれない。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️137『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍がたどった道

2018-05-29 20:50:42 | Weblog

137『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍がたどった道

 そこで東に向かって進軍したのが、世に「十字軍」と呼ばれるものにして、つごう7回にわたる執拗極まる軍事行動なのであった。もっとも、一説には、8回と算える場合もある。その場合は、1218年に行われたものをもって5回目としているようだ。
 これに参加した人びとの共通する動機は何であったか。それは、ひとまず宗教的情熱がかかわっていたことに間違いなかろう。しかし、それだけではなかった。呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆と、実に多様な人間たちであった。彼らのそれぞれは、違った思惑をもって参加したことがわかっている。
 1回目の十字軍は聖地の回復に成功し、その地にエルサレム王国を建設する。この地は、キリスト教徒にとっても、聖地にほかならない。これだけの予想外の獲得があったのだから、ともあれ大成功といえる。とはいえ、コンスタンティノープルに到着した十字軍に対してアレクシオス1世は臣従の礼をとることを要求する。おまけに、きみらが回復する領土はすべて東ローマ帝国に組み入れると命じたことから、十字軍はうまく利用されたともいえよう。かれらは反発したものの、東ローマ帝国の協力は必要だったので渋々その要求に屈した形であった。
 この勝利の報が届いたヨーロッパの人びとは、さぞかし拍手喝さいしたであろう。ローマ教皇の権威は絶大なものとなり、12~13世紀のローマ教皇の最盛期を出現させる原動力ともなっていく。獲得した新しい土地には、西からの入植者が相次ぐ。しかし、まもなくイェルサレムはイスラーム側に奪回される。そのため、2回目と3回眼の遠征が行われる。またもや、よりあわせとしかいうほかのない大軍団が西へと押し寄せていく。
 そして迎えた13世紀初めの第4回十字軍だが、これには商業的な目的からコンスタンティノープルの攻撃が含まれるにいたる。これを占領し、本来の目的から大きく外れ、経済的目的が強くなっていく。それ以後の十字軍の足取りだが、一時を除いていずれも聖地回復に失敗する。それにつれて、教皇権のだんだんな衰退にもつながっていくのだが。やがてビザンツ軍は戦線をだんだんに離脱していく。これにより、十字軍は単独で戦わざるをえなくなっていく。
 最後の7回目の十字軍にもなると、果たせるかな、軍律などというものの半ばは失われつつあった。そして迎えた1291年には、十字軍の拠点アッコンが陥落したことで、約200年間にわたる「十字軍時代」に幕が降りる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️138『自然と人間の歴史・世界篇』10~11世紀のイベリア半島(ポルトガルの独立など)

2018-05-29 09:21:34 | Weblog

138『自然と人間の歴史・世界篇』10~11世紀のイベリア半島(ポルトガルの独立など)

 10世紀の初頭、イベリア半島のアストリアにレオン王国が生まれる。サラセン人のこの半島への侵入の際、その西北端に逃げ込んだ西ゴート人たちが王政を立て、レオンに都した。
 11世紀のはじめ、レオン王国の東側の同国の辺境領であった地に、カスティラ王国が独立する。
 それからすこし後には、ポルトガルがほぼ同じ経緯をたどって独立をはたした。
 それらの北方、ピレネー山脈の麓の中央山地にいたバスク人は、10世紀初頭にナヴァラ王国をつくる。さらにその一部は東方に分かれ、11世紀前半には同国の南に接する形でエブロ川沿いにアラゴン王国をつくるのであった。
 それに加えて、ピレネー山脈の東方に位置するバルセロナでは、カール大帝(カロリンガ王朝)のスペイン辺境領があったところ、そこは13世紀末まで、フランス王の領有するところとなっていた。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️56『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(旧約聖書の「出エジプト記」)

2018-05-29 08:19:06 | Weblog

56『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(旧約聖書の「出エジプト記」)

 たまには覗いてみる「旧約聖書」には、「出エジプト記」という下りがある。この部分は、いわゆる伝承に多くを依存するのだが、そこでの主人公はモーセと呼ばれる。彼は、神との間でなかなかの体験をし、それをイスラエルの民に説いて聞かせ、神の意に従う行動をさせる役割を担う。
 そもそもの話はどのあたりにあったのだろうか。そこで巷の歴史書を少し紐解くとしよう。すでに紀元前14世紀頃、パレスティナ(パレスチナ)あたりには、ヤコブ一族(イスラエル)の民が、ヨルダン川を越えて侵入していた。先住のカナン人を制圧し、沢山の部族国家を形成していた。
 ところが、その別派の人々はこの地に止まらず、より豊かな土地を求めてエジプトへと向かうのであった。そして到達した彼の地では、しばらくそれなりの生活をしていたのであろうが、詳しいことはわからない。
 そこで「出エジプト記」を読み進めていくと、イスラエルの人々はファラオの抑圧を受けて、国外に脱出をしようと思い詰めるようになる。異民族ということから、いじめなどもあったらしい。彼等の指導者モーセは、ファラオに対し、ユダヤの民を連れてカナンの地に戻るのを承諾してもらう。そして、ついに行動を起こす。
その時期については諸説あるも、ここではひとまずラメセス2世(在位は紀元前1304年頃~同1237年頃)の統治下のことであったとしておこう。妻子を含めたユダヤの民の総数は、伝承ではかなりの人数であったらしい。
 しかし、彼らが紅海へと出て、まさに対岸に渡ろうとしていた時、翻意したファラオの軍隊が渡航を阻止するため追ってくるではないか。「このままでは囚われの身となってしまう」ということであったろうか、モーセ(モーゼ)らは意を決して前進あるのみの行動に出るや、なんと海がまっぷたつに割れて海に道ができるのであった。その海は、エジプトの軍隊をのみこんでしまう。
 その後の彼らは、シナイ半島を放浪の末、やがてパレスティナの故郷にたどりつき、懐かしき同朋たちに合流することができたのだという。
 この聖書伝承上の「出エジプト記」のもつ歴史上の意義につき、歴史学者の富村傳氏の著作には、こうある。
 「物語の中では、モーゼは、しいたげられたイスラエル人を救う偉大な予言者であり、ファラオは、悪の張本人ということになっている。しかし、エジプト人の側からすれば、何のことわりもなく異民族が国内に入り込み、はびこるだけでも迷惑であった上に、さらに彼らの中からモーゼのような指導者があらわれ、随意気ままに国内を歩きまわって、扇動的な行動をとったとすれば、ファラオならずとも腹にすえかねたであろう。何らかの抑圧手段がせられて当然である。」(富村傳「文明のあけぼの」講談社現代新書、1973)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○19『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(人骨から見えるもの)

2018-05-28 09:13:23 | Weblog

19『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(人骨から見えるもの)

 2016年6月30日、沖縄県立埋蔵文化財センターや国立科学博物館などのチームが、沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から、十数体の旧石器時代の人骨の調査結果を発表した。同遺跡は、遺跡は新石垣空港敷地内にあり、2008年に初めて2万年以上前の旧石器時代とおぼしき骨が見つかり、2012年から発掘調査が継続されてきた。7月に調査が終わるのを前に研究者らを対象に見学会を開き、発掘作業の全体像が明らかになった。
 旧石器時代の全身骨格の出土は、沖縄本島・八重瀬町の港川フィッシャー遺跡での出土以来2例目となる。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土したとのこと。見つかった人骨の中には、ほぼ全身の人骨を含め、体の部位の位置関係を保ったままのもの、つまりほぼ全身の骨格をそろえた1体分が見つかったというのだ。この全身骨格の人骨は、約2万4000〜2万年前(放射性炭素年代)の地層にあった岩陰の奥で見つかったとされる。これが事実なら、これまでの縄文時代という時代区分の前にあった、旧石器時代の人間のあり方を明らかにしていく手掛かりになるのではないか。なお、暮らしに使われる石器などの道具はなく、洞穴が墓だった可能性も考えられている。
 とはいうものの、縄文期の黎明期全体を列島の後期旧石器時代(この列島では約4万年から1万2000年前と見られる)として一色塗りすることには、異論もある。というのも、西洋流に「農耕・牧畜」を新石器時代の定義として狭くとるなら、縄文時代というのは新石器時代に達していない。ところが、その縄文時代の後期においては、弓矢で放つ鏃を削り出すような、旧石器時代にはなかったやや込み入った石器も一部使用されていたことが、最近の発掘で徐々に明らかになってきた。もともと縄文期というのは、土器の紋様の独特さにちなんだ時代区分であった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○6の2『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器の有り様)

2018-05-28 09:12:09 | Weblog

6の2『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器の有り様)

 ここにこの列島での石器の最初の使用が、最大12万年も遡るというのは、どのように受け取れば良いのだろうか。それから時代は移って、ヨーロッパで「アイスマン」たちが猟に精出すことで命をつないでいた頃、この列島では石器時代が続いていた。おりしも地球の温暖化の影響は、日本列島にも進んでいき、約1万2000年前くらいからの海面の上昇により、海岸線はどんどん陸地の奥へと入っていく。そのため、関東平野のような平地では、今日の埼玉県の西部と南部はもとより、秩父の低地にまで海が押し寄せてきた、現代の地理学では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)、そして埼玉県の奥まで進した海のことを「奥東京湾」と呼ばれている。
 大いなる気候の変化は、伊豆半島にも押し寄せたであろう。手掛かりとしては、黒曜石の利用がある。列島の後期旧石器時代前半期の約4万前から約2万8000年前にかけて各地で利用されるようになっていた。
 主たる産地の一つは、伊豆諸島・神津島(こうずしま)にあったという。南関東と中部地方南部では、伊豆諸島・神津島産の黒曜を使っていた。ちなみに、地図を広げると相当の距離があって、渡海のためには航海術を必要としたことだろう。黒曜石は、主として火山活動で生成される。そのため、産地は主に本州の山岳部にある。朝日新聞の「黒曜石を運んだ海の道、人類史の謎が眠る海」の特集記事には、こうある。
 「垂れ込めた雨雲の下、伊豆諸島・神津島(こうづしま)から小さな島影が見えた。
 太古の昔、神津島とつながっていた無人の岩礁群。恩馳島(おんばせしま)と呼ばれるこの岩礁の島に、人類史の謎が横たわっている。
 恩馳島は、考古学の世界で黒曜石の産出地として知られてきた。
 旧石器時代、黒曜石は最先端のハイテク素材だった。ガラス質の黒曜石は、うまく割ると石刃(せきじん)になる。加工すれば鏃(やじり)になる。当時、獲物を狩るための道具は命綱だった。良質な黒曜石を求め、人々はどんな遠征もいとわなかった。
 主な山地は中部日本と北海道、九州。調べると、黒曜石を運んだ距離は時に数百キロに及ぶことがわかった。本州で恩馳島の黒曜石が次々見つかったことは、さらに驚くべき発見だった。旧石器人が海を行き来し、恩馳の黒曜石を本州に運んだということになるからだ。その年代はどんどんさかのぼり、とうとう3万8千年前の遺跡からも出土した。
 「はい、船で往復した例としては、世界最古です」
 国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介さん(46)が淡々と説明する。
 海部さんによると、およそ5万前にアフリカを出たホモ・サピエンス(現生人類)が原罪のインドネシアから豪州へ海を渡ったのは4万7千年前。このときは「渡った」ことしかわかっていない。「行き来した」と「渡った」は全く違う。行き来には航海術がいる。」(2015年7月25日付けの朝日新聞「be」欄)
さらに、人骨と土器、そして石英製石器が同時に発掘されたという話も載っており、それにはこうある。
 「沖縄県立博物館・美術館は昨年12月、サキタリ洞で少なくとも9000年以上前の成人の人骨を発見したと発表した。成人1体の頭部など上半身と、大腿骨や骨盤などがあおむけの姿勢で見つかった。(中略)
 昨年2月に9000年前の土器が上から5層目で発見された。今回はさらに約1メートル掘り進んだ7層目での発見。詳しい分析は今後進められるが、9000年前から大幅に遡る可能性がある。これまでは愛媛県や長野県でみつかった9000~8000年前の埋葬人骨が最古級だった。
 同博物館・美術館は遺物の年代決定に放射性炭素年代測定法による誤差を補正する国際的なものさし「IntCal(イントカル)13」を昨年から採用、従来の発表年代を一部修正しているが、サキタリ洞での調査では文字通り歴史を画す発見が相次いでいる。
 12年に1万4000年前の人骨と石英製石器がそろって出土した。骨と道具が同時に出土した例としては国内最古になる。昨年2月には約2万3000~2万年前の人骨、国内最古の「貝器」、9000年前の沖縄最古の土器などを発見したことを発表、今回の埋葬人骨と続いた。
 サキタリ洞での発見に注目が集まるのは、年代の古さとともに、日本人の起源を巡る研究にも影響があるからだ。というのも、日本人のルーツを考える上で欠かすことができない「港川人」が発見された港川フィッシャー(割れ目)遺跡(八重瀬町)と、サキタリ洞とは約1.5キロの至近距離だからである。
 旧石器時代の人骨は国内でほとんど発見されていない。本土は火山灰に覆われた酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されにくいためで、日本最古の人骨は那覇市山下町で見つかった「山下洞穴人」。同博物館・美術館によると、約3万6000年前で、港川人は約2万2000年前と見られている。本土で確実な旧石器人の骨は静岡県浜北市(現浜松市)で出土した「浜北人」(約2万年前)だけとされている。沖縄はサンゴ礁が隆起した石灰岩地帯が多く、風化から免れた。」(日本経済新聞2015年1月27日付け)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○16『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(概要)

2018-05-28 09:11:01 | Weblog

16『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(概要)

 現段階ではまだ、まるで雲を掴むような話なのかも知れないが、この日本列島に人類がいかにして住むようになったのかを考えたい。当時は「倭」も「日本」も存在しなかったであろうから、たんに「渡来人」とでも呼ぶしかあるまいが。ここでも、考古学上の発見を手掛かりにして大方の話を進めるしかあるまい。
 そこで今縄文期までにこの列島にやってきた人々を「縄文人」というのだとすれば、彼等は「いつ」、「どこから」、「どのようにして」やって来たのであろうか。ここでは、斎藤成也氏の説明から、まず「いつから」が述べられている一節を紹介する。
 「5~6万年前ごろ、当時ニューギニアとオーストラリアがつながっていたサフール大陸に、南方の東ユーラシア人が進出した。その後、その子孫集団は大きな遺伝的浮動により特殊化し、サフール人を形成していった。一方、南北アメリカ大陸へも、以前から小規模な移住は繰り返されていた可能性はあるが、15000年前頃ごろに、大規模な移住がシベリアからベーリング陸橋を通ってあり、それらの子孫集団が南北アメリカ人を形成していった。日本列島にも、旧石器をたずさえた人々の拡散の波が何回かあった。」(斎藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005)
 「現在日本列島には、1万4500カ所の旧石器時代の遺跡が所在するが、そのほとんどは現世人類が出現した4万年前以降の後期旧石器時代(4万~1万5000年前)に属す。かつては現世人類以前の人類のものとされた前期・中期旧石器時代の遺跡が100カ所以上記録されていたが、2000年に発覚した旧石器捏造事件により、その大部分が学術資料としての価値を失った。
 それでも岩手県金取(かなどり)遺跡や長野県竹佐中原(たけさなかはら)遺跡等のいくつかの遺跡は、中期旧石器時代後半(6万~5万年前)か中期・後期旧石器時代移行期(5万~4万年前)に位置すると目されており、列島最古の人類文化と考えられる。これらの遺跡は、これまでは現生人類以前の旧人によるものと見なされてきたが、最近の中国南部・東南アジア等の化石人骨の新証拠により、早期ホモ・サピエンスの可能性も排除できなくなっている。しかしながら、列島に本格的な人類文化が出現するのは、現生人類が登場する後期旧石器時代初頭からとなる。」(佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」:岩波講座「日本歴史第1巻原始・古代1」岩波書店、2013に所収)
 とはいえ、論者によっては、ここでいわれる人々、ここでは「旧石器人」と呼ぼう、が日本列島に住み始めた年代にもっと新しい年をあてている。一説には、約3万5000年前、遺跡から見つかっている彼らの骨の信頼性についても、その骨がほとんど見つかっていないことと、したがって、彼らがどのような骨格、体の特徴をもつ人びとだったのか明らかになっていないと言われる。いわば、「ないものねだりはできない」ことから、その評価はいまだに定まっていないというのが、現在までの研究で精々予見できることなのであろうか。
 次には、旧石器人たちは、どこから、どのようにして、この列島にやって来たかである。一般には、日本列島に向けて旧石器をたずさえた人々の拡散の波が何回かあったことが言われる(例えば、「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005)。そう考えると、日本列島は四方を海に囲まれていた。ついては、これへのルートは、幾つかがあったのではないだろうか。まずは、朝鮮半島から対馬(つしま)を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリン(かつては「樺太島」と呼んでいた)を経由する「北海道ルート」があったと考えられている(朝日新聞、2016年2月10日付けなど)。
 それから渡来の時期としては、それぞれ3万8千年前頃、3万年前頃、2万5千年前頃のことであったのではないかという。これらは一応、国立科学博物館の人類史研究グループから得られた、現時点での日本の代表的見解となっているという。とはいえ、類書を紐解くと他にも、中国の上海のあたりからの「東シナ海を渡るルート」、カムチャッカ半島から千島列島を経由しての「千島ルート」、日本海(韓国では、「トンヘ」と呼ぶ)を挟んだ大陸の沿海州から列島に至る「日本海ルート」も考えられている(斎藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005など)
 全体的には判然としていない。最古の日本列島への渡来時期についても、4万年前頃にまで遡るという推測も出されていることから、いずれも、いまだ流動的な見解であるのを免れない。なにしろこれらは、この列島にやってきた人々がまだ旧石器使用、文字通りの狩猟採集ばかりに力を費やしていた時代のことなのである。これら一連の問いについても、それへの回答の示唆を与えるような科学上の大発見が、最近の考古学、生物学の研究から相次いでいる。
 それでは、この列島に最初にやってきた人々は、どんな暮らしをしていたのだろうか。そんな観点からは、最も古い年代の石器使用はどのくらい遡るのだろうか。参考でに、日本経済新聞に、「島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正」なる記事が載っており、こうある。
 「島根県出雲市の砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は7日までに、出土した石器36点について見解を再修正し、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた報告書にまとめた。
 2009年の発表では、12万7千年前ごろにできた地層と、約11万年前の三瓶木次火山灰でできた地層に挟まれた地層から石器が出土したとして、石器の年代は約12万年前の国内最古と発表した。
 その後、火山灰の地層は三瓶木次層でなく、約7万年前の三瓶雲南層と判明。翌年、石器の年代を7万~12万年前と幅を持たせて修正した。岩手県遠野市の金取遺跡でも5万~9万年前の石器が出土していたことから、砂原遺跡の石器も最古から最古級と見解を変更した。
 松藤教授によると、石器を含む地層の成分を詳しく調べたところ、層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることが分かり、約11万年前と判明、石器を含む層は11万~12万年前と結論付けた。
 松藤教授は「考古学の研究であまり試みられなかった地質学の手法も組み合わせて、年代を特定できた。遺跡調査の手法を飛躍的に高める先例になるのではないか」としている。」(2013年6月7日付け日本経済新聞)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○15『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(陸から海などへ)

2018-05-28 09:09:55 | Weblog

15『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(陸から海などへ)


 こうして陸地をつくったら、次は何をつくるのかといえば、あらまし次のようであったという。
 「次生海、次生川、次生山、次生木祖句句廼馳、次生草祖草野姫、亦名野槌、既而伊奘諾尊伊奘冉尊、共議曰、吾已生大八洲國及山川草木、何不生天下之主者歟、於是、共生日神、號大日貴、【大日貴、此云於保比能武智、音力丁反、一書云、天照大神、一書云、天照大日尊】此子光華明彩、照徹於六合之内、故二神喜曰、吾息雖多、未有若此靈異之兒、不宜久留此國 自當早送于天 而授以天上之事 是時 天地相去未遠 故以天柱 擧於天上也、次生月神【一書云月弓尊、月夜見尊、月讀尊】其光彩亞日、可以配日而治、故亦送之于天、次生蛭兒、雖已三歳、脚猶不立、故載之於天磐樟船、而順風放棄、次生素戔嗚尊【一書云、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊】此神、有勇悍以安忍、且常以哭泣爲行、故令國内人民、多以夭折、復使青山變枯、故其父母二神、勅素戔嗚尊、汝甚無道、不可以君臨宇宙、固當遠適之於根國矣、遂逐之」(『日本書紀』卷第一第五段)
 この引用分の「読み下し文」は、こうなっている。
 「次に海を生む。 次に川を生む。 次に山を生む。 次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。 次に草(かや)の祖(おや)草野姫(かやのひめ)亦の名は野槌(のづち)を生む。 既にして伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)共に議りて曰く、「吾(あれ)已(すで)に大八洲國(おおやしまのくに)及び山川草木を生む。何ぞ天下(あめのした)の主(きみ)たる者を生まざらん」
 是に於て共に日の神を生む。 大日貴(おほひるめのむち)と號す。【大日貴、此を於(お)保(ほ)比(ひ)(る)(め)能(の)武(む)智(ち)と云う。の音は力丁の反し。一書に天照大神(あまてらすおおみかみ)と云う。一書に天照大日尊(あまてらすおおひるめのむちのみこと)と云う】 此の子(みこ)光華明彩(ひかりうるわ)しく、六合(くに)の内に照(て)り徹(とお)る。
 故、二神(ふたはしらのかみ)喜びて曰く、「吾(あ)が息(こ)多しと雖(いえど)も、未だ若此(かく)靈(くしび)に異(あや)しき兒(こ)は有らず。久しく此の國に留めるべからず。自(おのず)から當(まさ)に早(すみやか)に天に送りて、授(さず)くるに天上(あめ)の事以ちてすべし」。 是の時、天地(あめつち)相い去ること未だ遠からず。 故、天柱(あめのみはしら)を以ちて、天上(あめ)に擧ぐ也
 次に月の神を生む。【一書に云う、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つきよみのみこと)、月讀尊(つきよみのみこと)】 其の光彩(ひかうるわ)しきこと日に亞(つ)ぐ。 以ちて日に配(なら)べて治(しら)すべし。 故、亦た天に送る。 次に蛭兒(ひるこ)を生む。 已(すで)に三歳(みとせ)になると雖も、脚(あし)猶(な)お立たず。 故、天磐樟船(あめのいわくすふね)に載せて風の順(まにま)に放ち棄(う)てき。 次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生む。(一書に云う、神素戔嗚尊(かむすさのおのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのおのみこと))
 此の神、勇悍(いさみたけ)くして安忍(いぶり)なること有り。 且(また)常(つね)に哭(な)き泣(いさ)ちるを以ちて行(わざ)と爲す。 故、國内(くにのうち)の人民(ひとくさ)を多(さわ)に夭折(し)なしむ。 復た青山を變じ枯しめき。 故、其の父母(かぞ・いろは)の二神(ふたはしらのかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)に勅(ことよさし)く、「汝(なむぢ)甚(はなはだ)無道(あづきな)し。 以ちて宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず。 固(まこと)に當(まさ)に遠く根の國に適(い)ね」。 遂に逐(やら)いき。」
 これにあるように、生まれたのはあくまでも「日の神」であり、その名は「大日霎貴」(おおひるめのむち)だということになっている。ところが、「「一書に云はく」の注意書きがあって、他の伝承に「天照大神」とあったり、「天照大日霎尊」とあったりすることにも触れる。ついては、これらも正しいとするなら、以上はどうやら同一人物のことらしい、というのが、『日本書記』編集者の見解なのだろう。つまり、ここでは、アマテラスは正面から肯定されてもいないし、否定されてもいない。そう読むのが、自然な読み方であり、解釈なのではないだろうか。
 同様の天地創造の物語は、『古事記』に出ているが、それよりも、『日本書紀』の方は、それよりはるかにこみ入った書きぶりとなっている。要は、一神だけの神が天地を創造したのではなく、いろいろに方向からの多数の神々が、あれやこれや、よってたかってこの列島の一つひとつ、細かく言うと、島々に至るまでつくっていったのだとされる。
 もちろん、実際には全体としてはつくり話なのであっても、当時のこれをつくっている、もしくは数々の伝承を再編成し、取りまとめる作業を行っている人々からすれば、いまここにある統一国家の側から見て、都合の良い話ばかりを集めることでは良くないとの抑制力、冷静な判断が働かねばならない。そこで、大方のところは真実だと思ったり、みなしたり、あるいは伝承にはこうあると見比べつつ、当時としての先駆け的な取りまとめをした結果がこの紙面に現れているのであって、はじめから決して嘘を述べ、人々を惑わそうようとしているわけではないと考えられるのである。 

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○14『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(列島の創造伝説)

2018-05-28 09:08:38 | Weblog

14『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(列島の創造伝説)

 人類のすべては、ここから始まった。遠い昔アフリカを出発したホモ・サピエンスの一部が東アジアに入り、やがて日本列島に移動してきてから、大いなる時間が経過した。この列島では、世界四大文明のような大規模かつ組織的な人間活動は起きなかったものの、この列島・新天地でそれぞれの集団としての暮らしを立ててゆかねばならなかった。小規模ながらも社会というものが形成されるようになると、人々の使う言葉も独特のものとして分岐し、あるいは集合を繰り返していくうちに、言語集団なるものがつくられていったことだろう。人々は、小さな共同体内での協業や分業、さらに連合体などで労働・生活の大きな枠組みのつくっていく過程では、さまざまな伝達手段、運輸手段を編みだし、実践しつつ、古代の社会というものを形成していったと考えられる。その過程で、徐々に生まれ、形成されてきたのが、現代の諸外国でも「そういう時代のあったこと」が脈々と伝わっているところの、天地創造、国生み、天孫降臨などの言葉で言い慣わされてきた伝説、物語の数々に他ならない。
 では、この列島での発端の話はどのようであったのだろうか。これについては、大してわかっていない。乾燥地帯でのような洞窟壁画のようなものは、まだまとまって見つかっていないからである。けれども、時代がさらに大きく下って、小さいながらも諸国家が並立するようになっていくにつれ、人々の共通の意識として用いられるべくして、多様な物語が育まれていったものと想像される。
 その中の多くは、今となってはたぐり寄せられない。それにしても、この列島に古代の統一国家が現れる段においては、それらをできるだけ発掘、継承、体系化する必要性が権力を司る側において発生したことだろう。その最たるものとしては、まとめた『訓紀』と称される『古事記』と『日本書記』などにおいて通覧されているところの天地創造、国生み、天孫降臨の類の話なのである、と言って差し支えあるまい。これらはむろん事実ではない、つくり話なのだが、古代の人々の世界観は、今日のわたしたちの大方のそれとは大いに異なっていた。
 ちなみに、『古事記』の大まかな創世記の筋書きは、こうなっている。人間の姿をしたイザナキの神(陽神)とイザナミの神(陰神)とが結ばれて最初の夫婦となる。これが最初である。もちろん、人間の姿をしているものの、『聖書』に出てくるアダムとイブの如き人間だけではない。この夫婦は、淡路島を生み、続いて四国、隠岐島(おきのしま)、九州、壱岐(いき)、対馬、佐渡島(さどがしま)、さらには本州を産んだ。こうしてできた地上すべてを「葦原の中つ国」と呼ぶ。この話は、世界にあまたある、単独の神が自然界を造っている創造主に他ならないという類の話とは、大いに異なる。
 さて、『古事記』は伝承なりの集大成であっても、時の政権による公式見解、すなわち正式な歴史書ではなく、伝承のままで書かれているとしても、編集の外部にいる人間からなんら、もしくは相当に責められる筋合いはなかろう。しかし、その直ぐあとにまとめられた『日本書記』は、相当に扱いが異なる。何しろ、この国(統一国家)の「これが正しい歴史だ」といってはばからないものだからである。だから、ある程度の検証なり、平たく言えば上から下からの疑問なり批判にも耐えるものでなければならない。ついては、書きぶりを見ると、本文に続いて幾つもの「一書曰く」と銘打った叙述が頻繁に出て来て、関連してこういう情報もありますよ、ここは補強させてもらいます等々、時には本文を凌駕するほどの量の注釈がなされる。その『日本書記』の「神代」の項には、まるで見てきたかのように、日本列島の形成からの天地創造の歴史が、『古事記』より濃密な形でこう記される。
 「伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰「底下、豈無國歟」廼以天之瓊瓊、玉也、此云努矛、指下而探之、是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋、名之曰磤馭慮嶋。二神、於是、降居彼嶋、因欲共爲夫婦産生洲國。便以磤馭慮嶋爲國中之柱柱、此云美簸旨邏而陽神左旋、陰神右旋、分巡國柱、同會一面。時陰神先唱曰「憙哉、遇可美少男焉。」
 少男、此云烏等孤。陽神不悅曰「吾是男子、理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥、宜以改旋。」於是、二神却更相遇、是行也、陽神先唱曰「憙哉、遇可美少女焉。」少女、此云烏等咩。因問陰神曰「汝身、有何成耶。」對曰「吾身有一雌元之處。」陽神曰「吾身亦有雄元之處。思欲以吾身元處合汝身之元處。」於是、陰陽始遘合爲夫婦。
 及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。」(『日本書紀』神代・上)
 これらをつくったとされるのは、『古事記』と同様に、最初の夫婦となって結ばれたイザナキ(伊弉諾尊)の神とイザナミ(伊弉冉尊)の神とであって、かれら二人は、最初に「天浮橋の上に立たし、共に計りて曰(のたま)はく、「底下に、もし国無(む)けむや」とのたまひ、すなわち天之瓊(ぬ、真珠)矛(ほこ)を以(も)ちて、指し探りたまひ、是れに滄溟(あおうなばら、青海原)があった」という。そこで二人は、相談しながら、そして夫婦となり、その営み・交合を繰り返しながら、この国の大地と海などをだんだんにつくっていくのである。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️135『自然と人間の歴史・世界篇』カノッサの屈辱

2018-05-28 07:30:14 | Weblog

135『自然と人間の歴史・世界篇』カノッサの屈辱

 顧みれば1075年のはじめ、ドイツの王の権力とローマ法王の権力が激突する出来事があった。問題となったのは司教叙任権といって、法王グレゴリーが、当時俗人である国王や諸侯が持っていた聖職者を叙任する権利だった。法王はこれを否認し、法王権の王権に対する優位性をうたった法王教書を発した。
 これに対し、国王ハインリヒは反発した。王権もまた神が直接に創設したのであり、法王権の下には立たないとし、法王の意向を拒む。これを知った法王は、この年の12月、国王の恭順を求める書簡を送る。
 明けての1076年1月、ハインリヒはウォルムスに帝国議会を開く。そしてグレゴリー法王の廃位を決議する。これに怒った法王は、復活祭前の公会議において国王の破門を宣告するとともに、彼の臣下の彼に対する忠誠義務を解除する。
 これで収まらないのが国王の側であり、彼の臣下はどちらにつくかで二つに分裂する。10月になると、諸侯はトリプールに集まる。そしてハインリヒが法王によって1年以内に破門から解除されなければ、その破門の一周年にあたる翌年2月、法王が主催するするアウグスブルクの国会において位を追われるのもやむなし、と決議する。
 これには、それまで強気で通していたハインリヒも、危機感を覚えたのであろう。さきに出した法王罷免の命令を撤回するにいたる。その上で、アウグスブルク国会での裁きに従うことを表明する。それでも、やはり実際どうなるかの不安に駆られたのであろうか、
自ら進んで運命を切り開くべきではないかと考える。つまるところ、国王ハインリヒは、1076年のクリスマスの直前、ライン川中流域のシュバイエルをあとに、アルプスを南に越え、法王のいるところを目指す。
 おりしも、法王は、アウグスブルクの国会にのぞむため、イタリアを北上していたのだが、この報せに急遽予定を変える。ハインリヒ国王の嘆願にもかかわらず、グレゴリー法王は、信認あついトスカナ伯爵夫人マティルドの居城、アペニン山脈北端のカノッサに閉じこもる道を選んだ。
 困ったハインリヒ国王は、カノッサに急行し、法王に許しを乞いたいと願い出て、両者の間を使者が行きかっての後、やっと王の嘆願が法王に受け入れられる。こうしてハインリヒは、ついにカノッサ城の三重の門の第二門の中に入ることゆるされ、無帽、裸足、修道衣をまとって、3日間法王に赦免を乞い続ける。そのかいあってハインリヒ国王は城内に招き入れられる。告解を行い、諸侯との争いを法王の裁定に委ねることを約束し、これを条件に破門を解かれた。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️318『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(労働配分の方法)

2018-05-27 09:06:45 | Weblog

318『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(労働配分の方法)


 マルクスが、友人のクーゲルマンに宛てた手紙には、どんな社会でも共通に取り組まれるべき労働配分についての、次の記述がある。
 「価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についも、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っていると言えます。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。
 社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。」(「マルクス・エンゲルス全集」第32巻454~5ページ)
 この中で言われる、「それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ」ということでは、それらの労働配分をどのように行うのかが肝要となるだろう。そして、その全体を市場の動きを借りて行うのか、目的意識的に市場以外の要素を可能なかぎり取り込みながら行うのかが考えられる。マルクスは、資本主義の次に来る社会での労働配分のあり方については、特段のことは何も語らなかったし、文章に残さなかった。あるいは、新たな社会の運営の一環としての労働配分のあり方について何か腹案を持っていたのかも知れないが、今となってはそのことを知るすべが見あたらない。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️319『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(資本主義の次に来る社会)

2018-05-27 09:03:21 | Weblog

319『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(資本主義の次に来る社会)

 いまから百数十年、カール・マルクス(1818~1883)は未来社会について、こう書いた。
 「資本制的生産様式から生ずる資本制的取得様式は、したがって、資本制的私的所有は、自己の労働にもとづく個人的な私的所有者の第一の否定である。だが、資本制的生産は一の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定の否定は、私的所有を復活せしめはしないが、しかし、まさしく、資本主義時代に達成されたものーすなわち、協業と、土地・および労働そのものによって生産された生産手段の共有ーを基礎とするところの、個人的所有を生み出す。」(カール・マルクス「資本論」)
 これにあるのは、資本主義にとって代わってしばらく経ってからの社会主義社会のことであって、その高次の段階としての共産主義社会ではないというのが、さしあたりの受け取り方でよいのではなかろうか。
 それというのも、物ごとには順序というものがあって、生れてから数十年位での間に一足飛びで「各人がその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」ことのできるような社会にはなれないのではないかと考えられるからだ。この点、ソ連の社会主義は、その発足以来60年やそこらで階級のない、しかもかなり高度な社会主義を意味する「全人民の国家」になったのだと言っていた。
 しかし、ソ連と東欧の体制崩壊の後から考えると、そう呼ぶにはかなり無理があったと言わざるを得ない。実際にあったのは、1970年代からの明らかな国民経済の停滞であったのだから。
 さりながら、これをもって、マルクスの仮説がまちがっていたことにはなるまい。一般に、社会科学者の予言というものは、現在における複雑な事情なりから延長して物事の将来を語るのだと思う。だとすると、ある程度の幅をもたせないと、後世のその段になってその枠(諸仮定を含む)をはみ出してしまう傾向をもっている。
 そのことを考えると、ここでのマルクスはあくまで慎重な言いまわしにとどめることで、彼の仮説の是非(整合性、合理性などからの現時点での評価)についての結論は、さらに未来へ持ち越されたとみてよいのではないか。
 もっとも、次のような議論はありうるし、1990年代はじめにソ連と東欧の社会主義が崩壊してからは、とみに盛んになり、現在に至る。そのためか、一説には、社会主義の実験は失敗したばかりでなく、もう終わった、もはやうまく運営されないことが明らかだとし、これが社会の「定説」ともなっているという。また、この見方からは、現在も社会主義を標榜している中国などは、独裁国家の烙印を押されることにもなっている。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆