○○117『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立(1185~1192)

2018-05-30 08:57:53 | Weblog

117『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立(1185~1192)

 こうして平家を滅ぼした源頼朝は、同じ1185年(文治元年)、全国各地に守護と地頭を置く。これをもって、鎌倉幕府の成立とする説が現在最有力であるものの、彼が朝廷から征夷大将軍に任じられた1192年をもってそれに充てる説も根強い。
 ちなみに、幕府の立場で書かれた「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、こうある。
 「文治元年十一月、廿八日丁未(ていみ)、諸国平均に守護、地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米段別五升、を宛て課すべきの由」との内容が述べられる。「段別五升」というのは、私は農家出身なので、その相場観を目に浮かべると、かなり多くの取り分だと言えるのではないだろうか。この策を頼朝に進言したのは、因幡前司(いなばのぜんじ)であった大江広元(おおえひろもと)である。この年の旧暦11月、彼は主君に対し「此の次を以て、諸国に御沙汰を交え、国衙(こくが)、荘園毎に、守護、地頭を補せられば、強(あなが)ち怖る々所有るべからず。早く申し請はしめ給うふべし。」(『吾妻鏡』)
 こうした云々を述べてから、国毎に守護を、荘園・公領毎に地頭を、武家政治の礎とすることを提案し、これが頼朝の採用するところとなったのである。
 この年にはまた、鴨長明(かものちょうめい)が「また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る」と述懐した、かの「元暦の大地震」が起きたことでも知られる。ちなみに、この時の地震の規模は、今日の地震学で「マグニチュード7.4」(小出裕章「原発のない世界へ」筑摩書房、2011)であったと推定されているようだ。
 そして迎えた1190年(建久元年)旧暦十一月、今度は力をつけた源頼朝が従う御家人たちとともに上洛した際、朝廷・後白河院は源氏に武力をもって「海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事」を命じたことになっている。
 「京畿、諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事。
 仰す、海陸の盗賊、○里(むらざと)放火、法律罪を設け、格殺悪を懲す。しかるにこのごろかん○濫なお繁く、厳禁に拘わらず。(中略)自今己後、たしかに前右近衛大将(うこのえたいしょう)源朝臣ならびに京畿、諸国の所部の官司らに仰せて、くだんの輩を搦めせしめよ。そもそも度々使庁に仰せらるるといえども、有司怠慢して糾弾に心なし。もしなお懈緩(けかん)せば、処するに科責をもってせよ。もしまた殊功あらば、状に随って抽賞せよ。」(『三代制府』)
 なお、ここに「前右近衛大将」とあるのは、頼朝は直ぐに右大将を返上したことから、その後は「前右近衛大将」の呼び名がなされる。また、「そもそも度々使庁に仰せらるるといえども」とあって、当時の朝廷は「検非違使庁」(けびいしちょう)は頼りにならぬと見ていたことがわかる。 この新制は、頼朝を全国の軍事部門の長として認める意味をも込めてある。

(続く)

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♦️57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

2018-05-30 08:36:07 | Weblog

57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

 現代エジプト学において「アマルナ文書」というのは、1887年にテーベの北方約500キロメートルの地点(エジプト中部のナイル川東岸)テル・エル・アマルナで出土した粘土板のことだ。これには、楔形(くさびがた)文字で、文字が記されているとのこと。
 これらを調べていく過程で、紀元前14世紀にメソポタミアなどの西南アジア諸国からエジプトに向け送られた公式の外交文書であることがわかった。それらの宛先は、アメンヘテプ3世(紀元前1398~同1361)、それにアメンヘテプ4世(アクナトン)であって、その総数は約360通を数える。
 当時の複雑化しつつあったオリエントの国際情勢を知る上で、欠かせない史料となっているおり、注目されたのがこれらがアマルナから出土したという事実であろう。
 それというのも、アメンヘテプ4世が新都アマルナを築いた動機は、はっきりしている。それは、因習とアメン宗団がはびこるテーベを離れ、彼らに束縛されない王の権力を打ち立てることにあった。そのためには、アメン神から離れ、アテン神(太陽神の一種としての)を携え、遷都するのが必要だと。
 そして、行動は起こされた。その時は紀元前1363年頃のことであっとされ、宮廷はさぞかし混乱を来したことであろう。
 こうした内容のうち宗教改革については、現在の歴史学において評価が分かれているように感じられる。その一説には、こうある。
 「彼以前の王室の宗教にも日輪崇拝が頭をもたげていたし、ヒクソス以来アジアの日輪崇拝はエジプトによく知られていた。特にミタンニ人の太陽崇拝はエジプト王室に入った女性たちによって広められていた可能性がある。
 しかし、彼の日輪(アテン)を唯一の神とする信仰は、他のどの古代宗教よりもヘブライ人の一神教(ユダヤ教)に近いばかりでなく、世界主義的傾向においては、民族主義的なユダヤ教をこえてキリスト教に近づいている。
 また、その排他的、政治的性格は古代末期の国家宗教、即ち、4世紀以後のローマ帝国のキリスト教や3世紀以後のサーサーン朝のゾロアスター教を先駆している。これは一宗教的天才が、全オリエントの接触・交流の時代(後期青銅器時代)を背景として創造したものであった。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史ー」慶応義塾大学通信教育教材、1972)

(続く)

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♦️136『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍への道

2018-05-30 07:59:42 | Weblog

136『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍への道

 いったい「十字軍」とは何であったのだろうか。その名のとおり、宗教に絡んだ戦争であったことは確かだといえるものの、そんな目的だけであったのかどうかは、今日でも判然としていない。
 10世紀も終末へと向かう頃、ヨーロッパのキリスト教勢力は、西アジアのイスラーム教圏からの政治的・宗教的圧力にさらされていた。その契機としては、いろいろあった。 まずは、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世の要請があった。当時の東ローマ帝国は、イスラム勢力のセルジューク朝の侵攻にさらされていた。とはいえ、キリスト教の聖地でもエルサレムは637年にイスラーム勢力の支配下に入って久しい。それからもキリスト教徒の巡礼は認められていたので、それは支援要請の口実にすぎなかったとも考えられる。
 1095年には、クレルモンの宗教会議が開催される。そこでの、ローマ教皇(法王)ウルバン(ウルバヌス)2世がキリスト教徒に向かって行った演説の内容は、大層なものであった。彼は、十字軍を起こす理由を次のように説き及ぶ。
 「世界はアジア、アフリカ、ヨーロッパと大きさのちがう三つの部分に分かれている。そのなかで、敵(回教徒)の祖先伝承の地アジアは、他の二つの部分をあわせたほどの大きさがある。だがわれらの信仰はこのアジアにおこり、さかえたのだ。聖ペテロと聖パウロを除けば、使徒らはみなこの地に葬られた。だがいまでは、この地に残ったキリスト教徒は、敵に貢物をおさめながらも、自由回復の願いを胸にひめて、やっとの想いで生きながらえている。
 世界の第二の部分のアフリカも、200年以上にわたって敵の武力に支配されてきた。アフリカはかつてキリスト教精神の最も輝かしい場所だっただけに、この屈従はわれわれにとって大きな脅威だといってよい。
 ところで第三に、世界の残りの部分であるヨーロッパがある。このヨーロッパさえも、キリスト教徒が住んでいるのはごく一部分だけだ。最果(いやはて)の島々に棲(す)み、鯨(くじら)のように、凍(い)てつく太洋で生業(なりわい)をたてる野蛮人どもを、キリスト教徒などとはいえないからだ。
 れわれのこの小さい、世界の一部分は、猛々(たけだけ)しいトルコ人やサラセン人におしつぶされようとしている。彼らはもう300年間もスペインやバレアル諸島を占領しつづけ、そのうえ残る部分をくいつくそうとしているのだ。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史3中世ヨーロッパ」中公文庫、1974から転載)
 これにあるように、ローマ教皇は、当時盛んだった巡礼の目的地、聖地でもあるエルサレムが、イスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことを重大視し、これに対しての「聖地回復」を呼びかけるのであった。要するに、ただの侵略ではないと言い放つのである。あわせて、彼にとってはローマ皇帝との叙任権を巡る争いを有利に導くことと、互いに破門し合って東西に分離したギリシア正教会(東方教会)との再統合に意欲を燃やしていたのかもしれない。

(続く)

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