117『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の成立(1185~1192)
こうして平家を滅ぼした源頼朝は、同じ1185年(文治元年)、全国各地に守護と地頭を置く。これをもって、鎌倉幕府の成立とする説が現在最有力であるものの、彼が朝廷から征夷大将軍に任じられた1192年をもってそれに充てる説も根強い。
ちなみに、幕府の立場で書かれた「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、こうある。
「文治元年十一月、廿八日丁未(ていみ)、諸国平均に守護、地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米段別五升、を宛て課すべきの由」との内容が述べられる。「段別五升」というのは、私は農家出身なので、その相場観を目に浮かべると、かなり多くの取り分だと言えるのではないだろうか。この策を頼朝に進言したのは、因幡前司(いなばのぜんじ)であった大江広元(おおえひろもと)である。この年の旧暦11月、彼は主君に対し「此の次を以て、諸国に御沙汰を交え、国衙(こくが)、荘園毎に、守護、地頭を補せられば、強(あなが)ち怖る々所有るべからず。早く申し請はしめ給うふべし。」(『吾妻鏡』)
こうした云々を述べてから、国毎に守護を、荘園・公領毎に地頭を、武家政治の礎とすることを提案し、これが頼朝の採用するところとなったのである。
この年にはまた、鴨長明(かものちょうめい)が「また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る」と述懐した、かの「元暦の大地震」が起きたことでも知られる。ちなみに、この時の地震の規模は、今日の地震学で「マグニチュード7.4」(小出裕章「原発のない世界へ」筑摩書房、2011)であったと推定されているようだ。
そして迎えた1190年(建久元年)旧暦十一月、今度は力をつけた源頼朝が従う御家人たちとともに上洛した際、朝廷・後白河院は源氏に武力をもって「海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事」を命じたことになっている。
「京畿、諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進めしむべき事。
仰す、海陸の盗賊、○里(むらざと)放火、法律罪を設け、格殺悪を懲す。しかるにこのごろかん○濫なお繁く、厳禁に拘わらず。(中略)自今己後、たしかに前右近衛大将(うこのえたいしょう)源朝臣ならびに京畿、諸国の所部の官司らに仰せて、くだんの輩を搦めせしめよ。そもそも度々使庁に仰せらるるといえども、有司怠慢して糾弾に心なし。もしなお懈緩(けかん)せば、処するに科責をもってせよ。もしまた殊功あらば、状に随って抽賞せよ。」(『三代制府』)
なお、ここに「前右近衛大将」とあるのは、頼朝は直ぐに右大将を返上したことから、その後は「前右近衛大将」の呼び名がなされる。また、「そもそも度々使庁に仰せらるるといえども」とあって、当時の朝廷は「検非違使庁」(けびいしちょう)は頼りにならぬと見ていたことがわかる。 この新制は、頼朝を全国の軍事部門の長として認める意味をも込めてある。
(続く)
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