136『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍への道
いったい「十字軍」とは何であったのだろうか。その名のとおり、宗教に絡んだ戦争であったことは確かだといえるものの、そんな目的だけであったのかどうかは、今日でも判然としていない。
10世紀も終末へと向かう頃、ヨーロッパのキリスト教勢力は、西アジアのイスラーム教圏からの政治的・宗教的圧力にさらされていた。その契機としては、いろいろあった。 まずは、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世の要請があった。当時の東ローマ帝国は、イスラム勢力のセルジューク朝の侵攻にさらされていた。とはいえ、キリスト教の聖地でもエルサレムは637年にイスラーム勢力の支配下に入って久しい。それからもキリスト教徒の巡礼は認められていたので、それは支援要請の口実にすぎなかったとも考えられる。
1095年には、クレルモンの宗教会議が開催される。そこでの、ローマ教皇(法王)ウルバン(ウルバヌス)2世がキリスト教徒に向かって行った演説の内容は、大層なものであった。彼は、十字軍を起こす理由を次のように説き及ぶ。
「世界はアジア、アフリカ、ヨーロッパと大きさのちがう三つの部分に分かれている。そのなかで、敵(回教徒)の祖先伝承の地アジアは、他の二つの部分をあわせたほどの大きさがある。だがわれらの信仰はこのアジアにおこり、さかえたのだ。聖ペテロと聖パウロを除けば、使徒らはみなこの地に葬られた。だがいまでは、この地に残ったキリスト教徒は、敵に貢物をおさめながらも、自由回復の願いを胸にひめて、やっとの想いで生きながらえている。
世界の第二の部分のアフリカも、200年以上にわたって敵の武力に支配されてきた。アフリカはかつてキリスト教精神の最も輝かしい場所だっただけに、この屈従はわれわれにとって大きな脅威だといってよい。
ところで第三に、世界の残りの部分であるヨーロッパがある。このヨーロッパさえも、キリスト教徒が住んでいるのはごく一部分だけだ。最果(いやはて)の島々に棲(す)み、鯨(くじら)のように、凍(い)てつく太洋で生業(なりわい)をたてる野蛮人どもを、キリスト教徒などとはいえないからだ。
れわれのこの小さい、世界の一部分は、猛々(たけだけ)しいトルコ人やサラセン人におしつぶされようとしている。彼らはもう300年間もスペインやバレアル諸島を占領しつづけ、そのうえ残る部分をくいつくそうとしているのだ。」(堀米庸三責任編集「世界の歴史3中世ヨーロッパ」中公文庫、1974から転載)
これにあるように、ローマ教皇は、当時盛んだった巡礼の目的地、聖地でもあるエルサレムが、イスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことを重大視し、これに対しての「聖地回復」を呼びかけるのであった。要するに、ただの侵略ではないと言い放つのである。あわせて、彼にとってはローマ皇帝との叙任権を巡る争いを有利に導くことと、互いに破門し合って東西に分離したギリシア正教会(東方教会)との再統合に意欲を燃やしていたのかもしれない。
(続く)
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