○178『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の資本家(大商人の成長、三井など)

2020-09-30 21:03:04 | Weblog
178『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の資本家(大商人の成長、三井など)

 幕府草創期から歳が重なるにつれ、商業や金融業はしだいに発展の度合いをつよめつつあった。幕府による「公金(江戸)為替」においては、大坂城御金蔵を幕府財政に送金するための手段で、御用両替商が介在する。これを三井の例でいうと、井原西鶴の『日本永代蔵』にこう紹介されている。


 「商ひの道はある物、三井九郎右衛門(正しくは三井八郎右衛門・引用者)といふ男、手金の光むかし小判の駿河町と云所に、面九間の四十間に棟高く長屋作りして、新棚を出し、万(よろず)現銀売にかけねなしと相定め、四十余人利発手代を追まはし、一人一色の役目、たとえば金襴類一人、日野郡内絹類一人、羽二重一人、紗綾類一人、麻袴類一人、紅類一人、麻袴類一人、毛織類一人、此のごとく手わけをして天鵞絨一寸四方、緞子毛貫袋になる程、緋繻子、鑓印長、竜門の袖覆輪かたかたにても物の自由に売り渡しぬ。

 殊更俄目見えの熨火目、いそぎの羽織などは其使をまたせ数十人の手前細工人立ちならび、即座に仕立てこれを渡しぬ。

 さによって家栄え毎日金子百五十両づつならしに商売しげるとなり。世の重宝是ぞかし。此の亭主を見るに、目鼻手足あって、外の人にかはった所のなく、家職にかはってかしこし。大商人の手本なるべし。」(「日本永代蔵」)

 ここにある三井の店の繁盛ぶりは有名であったが、その飛躍的発展を導いたのが、三井八郎兵衛高利による、例えば「万現銀売にかけねなしと相定め」と紹介するような、奇抜な商法なのであった。西鶴が、これを駆使している三井流商売の有り様を、「大商人の手本なるべし」と最大級に持ち上げ、事細かに述べていて、なかなかに興味深い。

 その高利は、1622年(元和8年)、松阪の酒屋であり質屋である店の8人兄弟の末子として生まれた。1652年(承応2年)、屋敷地を本家とは別に購入して独立し、金融業と商業を手掛ける。金融業では、大名やその家中に対する貸付にとどまらず、農村に対する抵当をとっての貸付にも手を染めた。商いでは、米の売買を行う。

 52歳からの高利は、江戸と京都への呉服の出店を決意する。1673年(延宝元年)に店を開いた時、掲げた暖簾の名前は、「越後屋八郎右衛門」であった。高利は、店前売という新しい販売を始めた。その取引は、現金売りであり、薄利多売をめざすものとなる。商売繁盛のため、京都の仕入店も拡張されていく。

 1683年(元和3年)頃、その三井が江戸市中に配った木製の引札(現代で言う広告ちらし)には、こう書かれていた。

 「駿河町(するがちょう)越後屋八郎右衛門申上げ候。今度私工夫を以て、呉服物何に依らず、格別下直(げじき)に売出し申し候間、私店え御出で御買下さるべく候。尤(もっと)も手前割合勘定を以て売出し候上は、一銭にても、空直(そらね)申上げず候間、御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候。勿論代物は、即座に御払下さるべく候。一銭にても延金(のべきん)には仕らず候。以上」(「稿本三井家史料」)

 この文中に「空直(そらね)」とあるのは、相場よりずっと高くつけてある値段なので、「御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候」、つまり値引きはしないとこう公約した。続いて「一銭にても延金(のべきん)には仕らず候」とあることから、代金は現金で行い、後日の代金決済にはしないことも宣言した。

 1687年(貞享4年)になると、三井は江戸の従来の呉服店の向かい側に綿店を新設した。関東一円で綿や木綿、それに絹織物を買い集め、これまだ薄利多売で活発な商いを行う。1691年(元禄4年)になると、大坂に呉服店を開店した。

 1683年(天和3年)、江戸の呉服店の隣に、三井の江戸両替店を開く。1686年(貞享3年)には、高利は家族を引き連れ、松阪から京都に住まいを移した。1689年(元禄2年)、彼は江戸の本両替仲間への加入が認められる。これは、大坂でいえば十人両替に当たるもので、これで特別の格式の両替商に就任したことになる。彼は、その勢いに乗って京都、そして大坂へと商売の拠点を拡充していくことになる。

 1691年(元禄4年)の彼は、大坂高麗橋一丁目に、江戸両替店の出店としての、大坂両替店を開設するに至り、ここに中継地としての京都を挟んで、東西に両替商としての商売の体制が整ったことになる。

 この両替屋の商売の相手先は、主に幕府の勘定方と諸藩であった。武士階級からは、公金為替を請け負うようになっている。これは、天下の台所である大坂から消費地であり、政治の中枢である江戸への送金を頼まれるものだ。
 大坂の両替店では、幕府から依頼された送金用の金銭、つまり幕府の大坂での公金を渡されると、江戸に取引のある問屋商人に貸し付ける。その際には、複数の手形に分割して貸し付けるのだ。両替商は、その商人からは「確かに受け取りました」という支払い用の為替手形を受け取る。この支払用の手形は、「下為替」(したかわせ)と呼ばれる。
 両替商は、それを江戸に送って、江戸では、彼らと取引のある江戸の商人から代金を取り立て、その現金をもって大坂の両替商に代わって幕府に納付するのである。これだと、江戸から大坂への商品代金の送金と、大坂から江戸へ向かっての公金輸送とが、うまい具合に相殺されることになっている。

 ところで、井原西鶴は、1642年(寛永19年)に、大坂の中流町人の家に生まれた。1688年(貞享5年、元禄元年)に著した『日本永代蔵』にて、町人の心意気する持論を展開した。その「巻一 初午(はつむま)は乗て来る仕合(しあはせ)」には、こうある。

 「天道言(ものいは)ずして、国土に恵みふかし。人は実あつて、偽(いつは)りおほし。其心ンは本(もと)虚にして、物に応じて跡なし。是(これ)、善悪の中に立(たつ)て、すぐなる今の御ン代を、ゆたかにわたるは、人の人たるがゆへに、常の人にはあらず。一生一大事、身を過(すぐ)るの業(わざ)、士農工商の外(ほか)、出家、神職にかぎらず。始末大明神の御詫宣にまかせ、金銀を溜(たむ)べし。是、二親の外に、命の親なり。人間、長くみれば、朝(あした)をしらず、短くおもへば、夕(ゆふべ)におどろく。
 されば天地は万物の逆旅(げきりよ)。光陰は百代(はくたい)の過客、浮世は夢といふ。時の間(ま)の煙、死すれば何ぞ、金銀、瓦石(ぐはせき)にはおとれり。黄泉の用には立(たち)がたし。然りといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。」

 おりしも、1683年(天和3年)には、三井高利が駿河町で「現銀掛け値なし」の商法を始めていた。それは、時代は商人文化が咲き出した頃のことである。そこで、物語の主人公はいよいよ根本道場に立ち入り、次のように言ってのける。

 「ひそかに思ふに、世に有程の願ひ、何によらず、銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有。それより外はなかりき。是にましたる宝船の有べきや。見ぬ嶋の鬼の持(もち)し隠れ笠、かくれ簔も、暴雨(にはかあめ)の役に立(たゝ)ねば、手遠きねがひを捨(すて)て、近道に、それぞれの家職をはげむべし。福徳は、其身の堅固に有。朝夕、油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。是、和国の風俗なり。」 

 ここに言われているのは、生・老・病・死・苦以外のことは全部、何とでもなる、つまりうまくいくと言うのである。これは、武家支配の時代で農・工とともに下位に置かれていた商人としては、随分と思い切った発言だと言わねばならない。
 これの時代背景としては、西鶴が生まれた年より6年前の1636年(寛永13年)、幕府は中国から輸入していた永楽通宝(永楽銭)に代わるものとして、寛永通宝の鋳造が始まったことがある。この寛永通宝の流通が始められたことによって、金・銀貨を本位貨幣、銭を補助貨幣とする貨幣制度が確立していったのである。

 さて、この本には、巻五の第五「三匁五分 曙の金」において、津山の蔵合屋(ぞうごうや)という豪商のことが出てくる。蔵合屋は、津山の二階町に9つもの蔵を持っていた豪商ということになっている。同家の元は院庄で代々酒造業を営んでいたのが、森長政による城造りの際に津山市街に移ってきたらしい。いつの頃からか、藩から与えられた、津山城下町の町方の行政を担う役である。大年寄と、各町内に置かれた町年寄とある中で、大年寄の方は全部で5人のうち2人は見習いであって、蔵合家の蔵合孫左右衛門は藩政初期の大年寄の筆頭、三十人扶持を与えられたことがわかっている。

(続く)

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○198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(~享保期)

2020-09-29 22:59:23 | Weblog
198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(~享保期)

 元禄期の政治の爛熟から、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の治世、幕府は態勢を挽回しようと試みていく。そのはしりは、6代将軍になってからの「正徳の治」として展開していく。

 まずもっての課題としては、この頃すでに幕府財政が苦しさを増しつつあった。そこで財政を再建するための一手として、新井は貨幣改鋳を画策するに至る。その彼は、その前の元禄期の貨幣政策を振り返り、自身の日記「折りたく柴の記」の中で、こういう。

 「今、重秀(荻原重秀・引用者)が議り申す所は、『御料すべて四百万石、歳々に納めらるる所の金は凡七十六万両余、此内、長崎の運上というもの六万両、酒運上というもの六千両、これら近江守(荻原重秀)申し行ひし所也。此内、夏冬御給金の料三十万料余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。

 此外に内裏を造りまいらせらるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後、取用ひらるべき国財はあらず。いはんや、当時の急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外、内裏造りまゐらせらるべき所の料なり。

 しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内、二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金弐両を徴れしところ凡そ四十万両の内、十六万両をもて其の用に充てられ、其の余分をば城北の御所造らるべき料に残し置かれし所なり。

 「これより外に、国用に充らるるべからず」といふなり。前代の御時、歳ごとに其出るところの入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるるに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。

 そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又銀貨を改造られしかど、なほ歳用にたらざれば、去年の春、対馬守重富がはからひにて、当十大銭を鋳出さるる事をも申行ひ給ひき 此大銭に事は近江守もよからぬ事の由申せし也 「今に至て此急を救はるべき事、金銭の製を改造せたるるの外、其他あるべからず」と申す。(中略)

 当時国財の急なる事に至ても、近江守が申す所心得られず。其の故は彼の申す所による時は、今歳の国用に充つべきものわずかに三十七万は、即是去々年の税課なり。されば今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくなりとも、去年納められし所の金七十六万両と、今ある所の金三十万両とをあはせて、総計一百十余万両のあるべし。また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其の価を給らざれば、其の事弁ぜずといふにもあらず。

 其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或ひは其の全価をも給り、或ひは其の半価をも給りて、来年に及びて其の価をことごとく償はれんに、其の事弁じ得ずといふ事なかるべし」(新井白石「折りたく柴の記」)

 この中にも荻原重秀の名前が出てくるのは、白石から見て前代将軍、徳川綱吉の時代、幕府の中枢とされる老中たちには容易に把握できないほどに、財務の大方の実権は、重秀一人が請け負っていたのであるらしい。
 はたまた、この引用中段に「そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば」とあるように、幕府の財政は元禄期を入ってから急激な悪化を呈していた。
 また、その直ぐ後の文中に「国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる」とあるのは、1695年9月14日(元禄8年8月7日)に出された金銀改鋳に関する触書(ふれがき)のことであって、それにはこうあった。

 「一、金銀極印古く成候に付、可ニ吹直一旨被レ仰ニ出之一、且又近年山より出候金銀も多無レ之、世間の金銀も次第に減じ可レ申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被ニ仰付一候事。
一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被レ成候にては無レ之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可レ出レ之候、至ニ其時一可ニ申渡一候事。」
 同時に、元禄金銀も、慶長金銀と等価に通用させるよう通達が出る。
 「一、今度金銀吹直し被ニ仰付一、吹直り候金銀、段々世間へ可ニ相渡一之間、在来金銀と同事に相心得、古金銀と入交、遣方・請取・渡・両替共に無レ滞用ひ可レ申、上納金銀も右可為ニ同事一。」

 これを噛み砕いては、後の記録文書に、こうあるところだ。

 「近年山より出る金銀も多からねば、通行の金銀もようやくに減ずべし。よて宝貨の品格を改め、世に多からしめんがため、こたび仰せ出さるる所なり。改鋳によて、世人所蔵の宝貨収公せらるるにはあらず。官府にある所をまず改鋳せられし上にて、世上に出さるべし。」(「徳川実記」1695.9.26(元禄8.8.19))

 こちらにあるのは、「近年山より出る金銀も多からねば、通行の金銀もようやくに減ずべし。よて宝貨の品格を改め、世に多からしめんがため、こたび仰せ出さるる所なり」というのだから、新貨幣の質の低下か伴うことを隠してはいない。

 あわせて、この措置により、それまでもうけで得た慶長小判を大量に貯め込んで(退蔵して)いた両替商などの大商人としては、それらの小判を幕府に差し出すことにより、例えばその2万両分が新貨幣としての小判2万両プラスアルファに代わるも、その過程において相当分の価値低下が避けられないわけであって、彼らは幕府の命令で交換に応じなければならないことを、さぞかし残念に思ったことだろう。

 
 そもそも慶長小判の1両は、金四匁(4もんめ、15グラム)と定めてあった。この「1両」というのは貨幣単位、匁というのが重量単位のことだ。これに対して新しくつくられた元禄小判の1両は、8分の3(3/8)匁の金しか含んでいない。幕府としては、これを慶長小判と同等の1両として社会に流通させたい、しかも穏便な形でそうならねばならない。そこで、個々の流通に改鋳(「悪鋳」というべきか)したことを世間に安易に分からないような体裁、すなわち銅や真鍮(しんちゅう)を金に混ぜるという、ある種のごまかし」(「目くらまし」というべきか)をとる。この場合は、貨幣の価値が下がるのであるから、その分物価が上がっておかしくないし、事実、1694年(元禄7年)に米1石の値段が銀70匁であったのが、1702年(元禄15年)には銀100匁に上昇したのであった。
 貨幣改鋳は、それからも繰り替えされていく。当の幕府としては、その都度、貨幣改鋳の出自分を収入に繰り入れることで意の破綻を糊塗(こと)なり、先伸ばしにすることが可能とみていたのであろうか。 というのも、財政の悪化の原因は、「地震や水害の復旧、ことに宝永元年の関東大洪水や宝永三年の富士山噴火被災地の復興、それに江戸城中の賄い費をはじめ生活消費出の増大、加えるに貨幣改鋳などによるインフレの昂進にあったが、なによりも年貢高の低下に大きな要因があった」(本間清利『関東郡代』埼玉新聞社、1977)とされている。これにもあるように、1704年(宝永元年)から1706年(宝永3年)にかけては災害続きでもあり、財政聞きの原因はなかなかに複合的な様になっていたことが窺えるのである。
 ついでに言えば、新井の論では、貨幣の値打を下げるような貨幣の改鋳は「悪い改鋳」として非難されるべきものだ。それでは、どうやっていくべきだとしたのだろうか。1714年(正徳4年)に彼が主導した貨幣改鋳によると、鋳造された正徳小判なるものに含まれる金量は、慶長小判に比べほぼ同重量なのであった。ところが、この改鋳ははかばかしい成果を上げられなかった、といって良い。というのも、今度は正徳小判を手にした人は貨幣退蔵を行ったため、社会に出回る貨幣がかえって不足して、経済活動をかえって停滞に向かわせてしまうという、困った事態をもたらしたのであった。

(続く)

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○200の4『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期~中期の貨幣観

2020-09-29 10:37:34 | Weblog
200の4『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期~中期の貨幣観


 まずは、当時、「貨幣経済の発展」がどのくらいであったのかを振り返ろう。儒学者の荻生徂徠は、こんな意見書を書き送っている。その彼は、享保年間(1716~1736)の長きにわたり、将軍吉宗の諮問役を承っていた。

 「其上昔は在々に殊の外銭払底にて、一切の物を銭にては不買、皆米麦にて買たる事、某田舎にて覚たること也。近年の様子を聞合するに、元禄の比より田舎へも銭行渡て、銭にて物を買事になりたり。
 当時は旅宿の境界なる故、金無てはならぬ故、米をうりて金にして、商人より物を買ひて日々を送ることなれば、商人主と成って、武家は客也。故に諸色の直段武家の心ままにならぬこと也。  
 武家皆知行所に住する時は、不売米に事すむ故、商人米を欲しがることなれば、武家主となりて、商人客也。されば諸色の直段は、武家の心ままに成る事也。是れ皆古聖人の広大甚深なる智恵より出たる万古不易(ばんこふえき)の掟也。
 右の如くして米を至極に高直にする時は、御城下の町人皆雑穀を食する様に成べし。」(荻生徂徠「政談」享保年間(1716~1736に成立))

 これによると、「近年の様子を聞合するに、元禄の比より田舎へも銭行渡て、銭にて物を買事になりたり」というのであるから、かつての「武家皆知行所に住する時」のようにはいかない、つまるところ、「旅宿の境界なる故、金無てはならぬ故、米をうりて金にして、商人より物を買ひて日々を送ることなれば」という、市場まかせの不自由な話に成り変わっていた。

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 その上で、当代の碩学(せきがく)の一人と言ってよいだろう、次なる新井白石の著書「貨幣議」の一節を、少しながら紐解いてみよう。

 「其故は、当時天下の財用通じ行はれ難く候て、万物の価高くなり来り候事、天下の商賈(しょうこ)その言(げん)を金銀の品下り候に仮り候て,其利を競争ひ候により候へども、真実は,世に通じ行はれ候金銀の数、そのむかしよりは倍々し候て、多くなり来り候故にて候。

 然れども、凡(およ)そ天地の間に生じ出候ほどの物、其品貴きものは必ず其数少く、其数少く候故に其価も高く、其品賤しき物は必ず其数多く其、数多く候故に其価もやすく候事、相定りたる事に候へば、当時の金銀、其品下り其価軽くなり候故に、これを以て換(かえ)候所の万物の価も重くなり候と申候はんも、又、当時の金銀其数多く、其価軽くなり候故
に、これを以て換候所の万物の価も重くなり候と申し候はんも、その申す所はかはり候へども、其理におゐては、かはるべからずとも申すべく候へども、異朝歴代の間,論じ候事共をあわ併せ考候に、古の善く国を治め候人は、物の貴賤と価の軽重を観候事候て,其政を施し行はれ候き。」

 つまるところ、この前段の「真実は,世に通じ行はれ候金銀の数、そのむかしよりは倍々し候て、多くなり来り候故にて候。」というのが、白石の貨幣観の「味噌」の部分なのだろう。

 おりしも、江戸や大坂では、米価をはじめとした物価は上昇が止まずにいたという。ついては、その理由を究明することが物価安定対策の始まりとなるのは、いうを待たない。それを白石は、真実は貨幣の流通量が増しているので物価が上がり、貨幣の価値の価値が下がっていると考えるべきだと説く。

 これからすると、物価を安定に導き、武家や町中の重苦しい生活不安を和らげるには、通貨面からはその品位の高いものに鋳なおす、そのことにより、通貨流通量を縮小させることが適当と考えたのではないかと。
 その後の幕府の政策転換と、その効果なりについては、それまでの通貨発行の責任者である荻原重秀(おぎわらしげひで)は罷免され、「正徳改鋳」により、品位の勝る貨幣に戻すことが行われた。

 そのことが大きく影響し、「金銀在高は正徳四年(1714)から元文元年(1736)までにはほぼ三分の二に縮小した」(鬼頭宏「生活を支えた経済システム」、網野善彦他編集「日本の歴史、全26巻中の第19、「文明としての江戸システム」講談社、2002に所収」)という。

 そのことが大きく働いたのだろうか、「米価は白石の理論どおり下落した。ところがこの間に、大坂米価は百四十九匁(もんめ)から四十九匁へと、元禄改鋳以前の水準を割り込むほとに急落してしまうのである」(前掲書)と。
 

(続く)

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○192の5『自然と人間の歴史・日本篇』生類憐みの令(1687~1707)

2020-09-28 22:01:08 | Weblog
192の5『自然と人間の歴史・日本篇』生類憐みの令(1687~1707)

 
 日本史の中でも、最近、その評価が某か変わってきている歴史話が少なからずあるという、次に紹介する法令は、その中の一つで、かなり変わっている。
 第一には、幕府法令から紹介しよう。「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」という一本だけの法令があったのではなく、似通った体裁の令がたびたび出された。

 (1)番目の法令には、「捨牛馬の禁令(すてぎゅうばのきんれい)」の通称が付いている。

 「生類あハれみの儀に付、最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。向後、相背に於ては、急度曲事仰せ付けらるべく候条、御料は御代官、私領は地頭より前方仰せ出され候趣、弥堅相守り候様、念を入れ申し付くべき者也。
 貞享四年(1687年)卯四月日」

 これに「最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。」とあることからは、多くの人が、「なんでこんなに大袈裟にいうのか」の感を禁じ得なかったのではないだろうか。


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 (2)としては、この法令の対象とは、犬ばかりでなかったことがわかる。しかも、「捨子これ有り候はば」云々が最初に論じられている。


 「覚
一、捨子これ有り候はば早速届けるに及ばず、其所の者いたはり置き、直に養 ひ候歟、又は望の者これ有り候はば遣はすべく候。急度付届けるに及ばざる 事。
一、鳥類畜類、人の疵付け候様成る儀は、只今迄の通り相届けるべく候。其外 ともぐひ、又はおのれと痛煩ひ候計にては届けるに及ばず、随分養育致し、 主これ有り候はば返し申すべき事。
一、無主犬、頃日は食物給させ申さず候様に相聞え候。畢竟食物給させ候得は、 其人の犬の様に罷成(まかりな)り、以後迄も六ケ敷事(むつかしきこと)と存じ、いたはり申さず候と相聞、不届に候。向後左様にこれ無き様に相心得べき事。
一、飼置き候犬死に候得は、支配方え届け候様に相聞え候。別条無きに於ては、 向後左様の届無用に仕るべく候事。
一、犬計りにかぎらず、惣て生類人々慈悲の心を元といたし、あはれみ候儀、 肝要に候事。
    以上
   貞享四年(1687年)卯四月」(「正宝事録」)

 ここまでいうと、およそ「生きとし生けるもの」のかなりが、この禁令の保護範囲に入ることになるのではなかろうか。

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 (3)としては、「前々より仰せ出され候ところ」を、いささか「無理押し」の感じが漂うではないか。

 「生類憐憫の儀、前々より仰せ出され候ところ、下々にて左様これなく、頃日疵付き侯犬共度々これあり、不届きの至に侯。向後、疵付き候手負犬、手筋極り候て、脇より露見致し候はゞ、一町の越度たるべし。并びに辻番人の内、隠し置き、あらわるゝにおいては、相組中越度(あいくみちゅうおちど)たるべき事。
 (元禄七年(1694年))戊五月廿三日」(「御当家令条」)

 これに「辻番人」とあるのは、辻斬り防止のため、1629年(寛永6年)に設けられた役職にて、大名や旗本が自分の武家屋敷の辻(十字路)におき、見張りを行わせた。

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 第二には、この法令に関して、どのような政策なり措置が行われたのだろうか。

 その1としては、この時代、犬を中心とした数々の生き物を慈しむ旨の法令が乱発された。これが引き金となり、侍屋敷、市中でも飼っている犬の世話が煩わしくなり、飼うのをやめ野には放つことが相次いで起こる。すると、あちらこちらで、飼い主を持たない捨て犬が増加するのであった。
 そうした犬たちを放置することは、彼らを飢えにさらすことにもなっていく。人間の生活環境を荒らすとともに、ひいては狂犬病の発生源ともなりかねない。そこで、そうした犬を収容し、保護飼育するための施設を、地方の大名たちに申しつけ、彼らの費用で、江戸市中、中野をはじめ、四谷、大木戸の外、喜多見といった場所にも作らせ、そこそこの場所に収用する。
 そうして増大する野犬を囲うのであるから、当然、1日に一度くらいは餌も与える話なのであって、さもなくば彼らは生き続けなくなるだろう。
 そんな犬小屋を連ねた、実態は犬長屋の中でも中野の御犬囲は、四谷の犬屋敷取り壊しに伴い次々に拡張されていく。そうこうするうちに、同敷地内は5つの御囲に区切られ「壱之御囲」が3万4538坪、「弐之御囲」、「参之御囲」、「四之御囲」がそれぞれ5万坪、「五之御囲」が5万7178坪もの広大なものであったというのだが。
 そういえば、現在の東京都中野区、JR中野駅近くの区役所の敷地内に、数体の犬の像があるという。この像は、江戸時代、この場所に犬の保護施設、「御犬囲(中野犬屋敷)」があったことにを記念したもの。

 次に移ろう。それでは、上記の特段の規模であったという、江戸の中野に建てられた、雇い主に恵まれない犬のための「犬小屋」の建設は、どうようにして建てられたのだろうか。以下では、を幕府に命じられた津山藩の事情をしばし振り返ってみよう。しかして、上記の事柄にあわせてみれば、こうある。

 「1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。

(追って、追加予定)


☆☆☆

 第三には、江戸やその周辺、地方においては、どのような状況であったのだろうか。幾つかの報告が寄せられている。

(4)

 「元禄六年一〇月条、江戸の有様戦々兢々たり。」(「鸚鵡籠中記」)


☆☆☆


(5)

 「頃日、江戸千住海道に犬を二疋磔置く。札に此の犬、公方の威を仮り諸人を悩すに仍って此の如く行う者也。又は浅草の辺に狗の首を切り、台にのせ置く。御僉議として黄二十枚かかる。」(「鸚鵡籠中記」)


☆☆☆


(6)

 「犬に人のおぢおそるる事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置いて、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもまごりつきて、人をおそれず、道中に横たはりに臥して(中略)もし手足をそこぬる事あれはば、外科をかけて養生治療をくはふる。」(「御当代記」)




(続く)


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○139『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達、総論、農業、座、市、移動販売)

2020-09-27 09:56:41 | Weblog
139『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達、総論、農業、座、市、移動販売)


 室町時代に入ってからの政治状況では、全般に「14世紀末から15世紀にかけて、諸国の守護はほぼ特定の大名に固定してくる。」(網野善彦「日本の歴史・下」岩波新書)。
 このことは、「この時代(鎌倉時代)から南北朝時代、室町時代を通じて荘園は武家によってしだいに併呑せられ、貴族は実勢力の小さい一小階級として残存したにすぎなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。
 この間に武家相互のあいだにしばしば戦争が行われ、さまざまな場所で弱小なものが強大なものによってしだいに併呑されていく過程で、地方の権力が確立されてゆき、中央の幕府権力は名目だけのものとなっていったことが窺える。

 それでは、室町の幕府を初めとした諸権力を支える下部構造、経済はどのようであったのだろうか。

 農業面では、鎌倉期の二毛作が普及していく。さらに室町時代に入ると、三毛作で米、麦、そばの栽培開始があり、次に紹介するのは、摂津国尼崎で、稲、ソバ、麦の三毛作が行われていたことを示す史料となっている。

 「阿麻沙只村(あまさきむら)に宿して日本を詠ふ。
 日本の農家は、秋に田を耕して大小麦を種き、明年初夏に大小麦を刈りて苗種を種き、秋初に稲を刈りて木麦(ソバ)を種き、冬初に木麦を刈りて大小麦を種き、一田に一年三たび種く。
 乃(すなわ)ち川塞がれば則(すなわ)ち田となし、川決すれば則ち田となす。
 水村山かくに火えん斜なり。役なく人閑かにて異事多。耕地一年三たび穀を刈る。若(も)し仁義(じんぎ)を知らばまた誇るに堪えん。」(宗希けい「老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)」、この書物を書いた宗は、朝鮮回礼使として1420年に来日し、足利義持に謁見して、朝鮮に戻り、道中見聞きしたことを記した。)。

 そのおりには、従来からの肥料に代わって下肥の使用が開始された。灌漑も、戦国大名たちの地方制覇に従って、ますます組織的に行われるようになっていく。稲の品種改良として、早稲、中稲、晩稲の栽培が見られる。
 一部には、外来米の普及もあったらしい。どの栽培がさらに発展していく。殊に冬作に、豆作が普及していく。食料以外も、生糸や「からむし」と呼ばれる衣服の原料、染料そして荏胡麻(えごま)といったところか。

☆☆☆

 これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。 

 これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。
 畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。

 やがて室町期になると、座が本格的な発展の時期を迎える。その代表例としては、祇園社の綿座、北野社の酒麹座、大山離宮八幡宮の油座などが名を馳せる。

 そんな中でも、台頭著しい、新たな動きがあった。1397年に世に出た「座の特権」を記した文書に、「離宮八幡宮文書」があり、それには、こうある。

 「石清水八幡宮大山崎神人(いわしみずはちまんぐうおおやまざきじにん)等、公事(くじ)并びに土倉役の事、免除せらるる所なり。
 将又(はたまた)摂州道祖小路(さいこうじ)・天王寺・木村・住吉・遠里小野(おりおの、現在の大阪市住吉区、大阪府堺市)并びに江州(ごうしゅう、近江国、現在の滋賀県辺り)の小秋散在(こあきさんざい)土民等、悉(ほしいまま)に荏胡麻(えごま)を売買せしむと云々。
 向後(きょうご)は彼の油器を破却すべきの由、仰せ下さるる所なり。仍(よ)って下知(げち)件(くだん)の如し。 応永四年(139年7)五月廿六日
 沙弥(しゃみ、管領、斯波義将(しばよしまさ))(花押)」(「離宮八幡宮文書」)

 
 この史料によると、これに挙げられている新興の油商人たちが、独自の行動をとり、鎌倉時代からの取り決めなりをもってしては、もはや各地の油商人に対する統制がきかなくなってしまっていることがわかるだろう。

 これからいうと、公家や寺社を本所(ほんじょ)と仰いで、彼らに労役や年貢(一種の営業税か(座役))を納入し、庇護を求め、商売の向きは独占的な特権を手にすることでの仕入れ、販売を行うことで収益拡大を目指した。

 大山崎油座(もしくは、荏胡麻油座ともいう、石清水八幡宮を本所とする)、酒麹座(北野神社を本所と仰ぐ)、綿座(祇園社を本所に戴く)といった、より大規模な座が繁盛の時を迎える。

 これらの民間の座に、公家を本所とする座、寺社の経営する座を加えると、あわせて数十もの座のあったことが史料にみうけられる。同様に奈良の地でも、寺社を中心にその展開が見られる。
 この組合は、はじめは商工業者の活動を促進する方向に展開したが、商品経済の発達につれ、やがてその閉鎖的なあり方が桎梏(しっこく)と化していく。やがて公家や寺社の統制力が失われてくると、かような性格を持つ座に加わらない新興商人たちの台頭を食い止めることができなくなってゆく。

 高梁正彦氏も、こう説明しておられる。

 「生糸は公家、寺社、武家などの支配者階級の要求によって生産され流通した。遠隔地から年貢米の京上が困難な時は生糸が代わって大都市へ納入された。十四世紀末には京都に綾座、錦座などが成立している。○(からむし)は当時の庶民から支配者階級までの日常衣服の原料である。全国的に生産されていたが、特に越後産が優れていた。京都、奈良
には十五世紀に白布座、布座が成立して商品経済化が進んだ。

 荏胡麻は灯油の原料で、前述の通り、離宮八幡宮の神人らが取り扱ったことで有名であるが、奈良では興福寺の大乗院を本所とする符坂油座があって、吉野地方生産の原料を独占して大和国中での油の専売権を強めていった。染料には茜、藍、紫などがある。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育課程教材、1968)


 この時代には、流通もさらに発展した。定期市として六齋市が立つようになっていく。鎌倉期の月に三度の市開催であったのが室町の世になると六度の開催に増えたわけだ。京都では、「淀の朝市」や「三条・七条の米市」が繁盛した。地方での市はこの時代、さらに発展していった。さらに、鎌倉期に続いて、小売業の増加も見られた。例えば、鎌倉期からの「桂女(かつらめ)」による売り歩きについては、次のように言われる。

 「戦国期に入る頃から、桂女は「勝浦女」「勝浦」と書かれるようになる。摂津の石山本願寺の証如のもとには、天文五年(1536)以降、連年、都市の始めに「佳例の鮒」「鰹一編・樽一荷」を持参して、「勝浦女」が訪れ、証如から毎年の祝儀・小袖などを与えられた(『証如上人日記』)。

 桂女はときには七月にも姿を見せ、小袖や鮎鮨を持参しており、そこには、かつての鵜飼の女性、鮎売の女商人の面影をうかがうことができるが、注目すべきは、天文五年正月一〇日に来た桂女が「和睦珍重」としてさきの鰹を持参しており、天文一二年(一五四三)には、「誕生の儀につき」として、昆布を持ってきている点である。」(「網野善彦著作集」第十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)

(続く)

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○136『自然と人間の歴史・日本人』建武新政(1333~1334)

2020-09-26 23:08:33 | Weblog
136『自然と人間の歴史・日本人』建武新政(1333~1334)


 鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。


 概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。


 まずは、「梅松論」を取り上げよう。この論は、その年の「御新政」の有り様を、こう伝える。


 「去程に京都には君伯耆より還幸なりしかば、御迎へに参られける卿相雲客、行粧花をなせり。今度忠功を致しける正成・長年以下供奉する武士その数知らず。宝祚は、二条の内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年(1333)の今は天下一統に成しことこそ珍しけれ。
 君の御聖断は延喜・天暦の昔に立帰りて、武家安寧に比屋(=軒並)謳歌し、いつしか諸国に国司守護を定め、卿相雲客各々その位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。
 武家楠(=正成)・伯耆守(=名和長年)・赤松(=則村)以下、山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし。
 御聖断の趣五幾七道八番に分けられ、卿相を以て頭人として新決所と号して新たに造らる。是は先代引付(ひきつけ)(=記録や資料の管理・作成)の沙汰のたつ所なり。
 大議(=重要なこと)においては記録所において裁許あり。また侍所と号して土佐守兼光・太田大夫判官親光・富部大舎人頭・三河守師直(=高師直)らを衆中して御出有りて聞こし召し、昔のごとく武者所を置かる。
 新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を結番(けちばん)(=交代勤務)せらる。古の興廃を改めて、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」とて新なる勅裁漸く聞えけり。


 大将軍(足利尊氏)の叡慮不双にして御昇進は申すに及ばず、武蔵・相摸その他数国の守を以て、頼朝卿の例に任せて御受領有り。
  次に関東へは同年の冬、成良(なりなが)親王征夷将軍として御下向なり。下御所左馬頭殿(足利直義)供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩大略励し奉りて下向す。鎌倉は去夏の乱に地払ひしかども、大守(直義)御座有りければ、庶民安堵の思ひをなしけり。
  爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・決断所を置かるゝといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申し断る間、綸言朝に変じ暮に改まりしほどに諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
  或は先代滅亡の時に遁げ来たる輩、また高時の一族に被官の外は、寛宥の義を以て死罪の科を宥らる。また天下一統の掟を以て安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯を召さるゝ輩、恨みを含む。
  時分公家に口ずさみあり、「尊氏なし」といふ詞を好み使ひける。抑も累代叡慮を以て関東を亡されし事は、武家を立らるまじき御為なり。然るに直義朝臣大守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩これに帰服して京都へは応ぜざりしかば、
 「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年(1333)も暮れにけり。」(「梅松論」の18、「建武の新政」)




  もう一つ、今度は、建武新政でどんな政策がなされ、その働きはどのようであったのだろうか、こんな話が伝わる。


 「建武式目の条々
鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事。
 就中、鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し、武家に於ては尤も吉土と謂ふべき哉、居所の興廃は政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。但し諸人若し遷移を欲せば、衆人を情に随ふべし。
一、政道の事。
 右、時を量り制を設くるに、和漢の間、何法を用ひらるべきや。先ず武家全 盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済 々たり、故実を訪はんにおいては、何の不足あるべきか。古典に日く、徳こ れ嘉政、政は民を安んずるにあり、と云々。早く万人の愁を休むるの儀、速 やかに御沙汰あるべきか。其の最要粗左に註す。
一、倹約を行わる可き事。
一、群飲佚遊を制せらる可き事。
一、狼籍を鎮めらるべき事。
一、私宅の点定を止めらる可き事。
一、京中の空地は本主に返さる可き事。
一、無尽銭・土倉を興行せらる可き事。
 或いは莫大の課役を充て召され、或いは打人を制せられざるの間、すでに断 絶せしむるか。貴賎の急用たちまちに闕如せしめ、貧乏の活計いよいよ治術 を失う。いそぎ興行の儀あらば諸人安堵の基たるべきか。
一、諸国の守護人は殊に政務の器用を択ばる可き事。
当時の如くんば、軍忠を募りて守護職に補せらるか。恩賞に行わるべくんば 庄国を充て給うべきか。守護職は上古の吏務なり、国中の治否は只この職に よる。尤も器用を補せらるれば撫民の儀たるべきか。
一、権貴并に女性・禅律僧の口入を止めらる可き事。
一、公人の緩怠を誡めらるべし。ならびに精選あるべき事。
一、固く賄貨を止めらる可き事。
一、殿中は内外に付きて諸方の進物を返さるべき事。
一、近習の者を撰ばるべき事。
一、礼節を専らにすべき事。
一、廉義の名誉あらば、殊に優賞せらるべき事。
一、貧弱の輩の訴訟を聞こしめさるべき事。
一、寺社の訴訟は事によって用捨ある可き事。
一、御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事。
 以前十七箇条、大概斯の如し。(中略)方今諸国の干戈いまだ止まず、尤も跼蹐あるべきか。古人日く、安きに居てなお危きを思うと。いま危きに居て蓋し危きを思うべきか。恐るべきはこの時なり、慎むべきは近日なり。遠くは延喜天暦両聖の徳化、近くは義時泰時父子の行状を以て近代の師となし、殊には万人帰仰の政道を施さるれば、四海安全の基たるべきか…
 建武三年十一月七日     真恵
   (人衆  前民部卿以下8名略)是円」(「建武式目」)

☆☆☆


 これに、次のような「恩賞の不公平」の声が加わる。


 「元弘三年八月三日より、軍勢恩賞の沙汰有るべきとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定らる、之に依り諸国の軍勢軍忠の支証を立、申状を捧げて、恩賞を望む輩名何千万人と云数を知ず、其中に実に忠有者は功を憑で諛ず、更に忠無者は媚を奥竈に求め上聞を掠ける間、数月の間に纔に廿余人の恩賞を申沙汰せられらりけれ共、事正路に非ずとて軈て召返されにけり、さらば上卿を改よとて、万里小路中納言藤房卿と上卿に成され、申状を附渡さる、藤房之を請取否を正し、浅深を分ち、各申与んとし給ひける処に、内奏秘計に依て、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に忠なき輩も五箇所十箇所の所領を給りける間、藤房諌め言を納かねて、病と称して奉行を辞せらる。(中略)
 相模入道の一跡の徳宗領をば内裏の供御料所に置れぬ、舎弟四郎左近大夫入道の跡をば兵部卿親王へ進たせらる、大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる、此外相州の一族の一跡、関東家風の輩の所領をば、指る事も無き郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司女官僧に至まで、一跡二跡を合て、内奏より申給ければ、今は六十六ケ国の中に立錐の地も軍勢に行べき闕所は無りけり、かゝりけれ ば、光経卿も心計は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給ひけれども、叶はで年月をぞ送られける。(中略)
 或は内奏より訴人勅許を蒙れば、決断所にて論人に理を付られ、又決断所にて本主安堵を賜れば、内奏より其他を別人の恩賞に行はる、此の如く互いに錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々動乱更に休時なし」(「太平記」)


☆☆☆


 さらに、建武政権に対する庶民の批判には、次に紹介するように、厳しいものがある。


 「東寺御領若狭国太良御荘の百姓など謹みて言上す。
 早く前例に因准せられ、根本の御例に任せ、御哀憐(ごあいりん)を垂れられ、御免の御成敗を蒙らんと欲する条々の愁状右、明王聖主(めいおうせいしゅ)の御代み罷り成る。
 随って諸国の所務は旧里に帰し、天下の土民百姓など、皆もって貴きの思いをなすの条、その隠もなき者なり。(中略)
 去る正安年中より以来、地頭職においては関東御領(鎌倉幕府のこと・引用者)に罷(まか)り成り、非法横法を帳行せらると云々。(中略)
 関東御滅亡の今は、当寺の御領に罷り成り、百姓など喜悦(きえつ)の思いを成すの処、御所務(荘園運営のための年貢徴収など)かって以て御内(得宗家である北条氏本家の家来であるところの御内人のこと・引用者)御領(みうちごりょう)の例に違(たが)わず。
 剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる。当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって、子細を勒して言上す。
 建武元年五月日」(「東寺百合文書」)



 これに「剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる」とあるのは、「当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって」、今すぐやめてもらいたいのだと抗議している。


☆☆☆


 そういう、大いなる政情不安が垂れ込める中、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)の看板が立てられる、それには、こうある。


 「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)。


 器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏(しゃく)持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。


 前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。 


 犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。


 花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家(源頼朝)ノ掟(おきて)ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウ(だらしないさま・引用者)ニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)に生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(「建武年間記」・「二条河原落書」国立公文書館内閣文庫)

 かいつまんでは、これの前段に見える象徴的な出来事なのが、「器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所」というのが、「能力を判断しないで採用する雑訴決断所」であった。

 ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
 美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。


 1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。


 この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。


 ところで、備前、備中、美作の武士の中の一部には、論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝える。


 「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。


 奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。


 この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。


 美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)


 新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。


 そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。


 足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。


 だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。


 征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。
 後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。


(続く)


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○214『自然と人間の歴史・日本篇』田沼政治(1767~1786)

2020-09-26 22:37:48 | Weblog
214『自然と人間の歴史・日本篇』田沼政治(1767~1786)

 18世紀の中頃から後半にかけての時期は、幕政上、田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治と、その次の寛政の改革により知られる。まずは田沼で、1786年(天明6年)までのおよそ20年もの間、 幕府老中(ろうじゅう)として幕政を主導した。その子の意知(おきとも)も若年寄(わかどしより)へ昇り、親子でそろい踏みの出世をしたことで、幕政の上では珍しいケースだといえる。

 田沼は、1751年(宝暦元年)に10代将軍家治の側衆(そばしゅう)になったのを皮切りに、1767年(明和4年)には御側御用人にすすみ、その2年後には老中に取り立てられる。その特徴は典型的な経済官僚であり、幕府の財政強化に辣腕を発揮した。その1は、年貢の増収である。耕作面積を拡大するために、いろんな事業を興す。印旛沼(現在の茨城県)の水田開発事業もその一つであった。

 これについてのそもそもは、1666年(寛文6年)に幕府でも印旛沼(いんばぬま)や手賀沼(てがぬま)の新田開発を目的として、利根川を開削し布川・布佐の狭窄部を締め切り利根川を付け替える工事を行った。しかし、その3年後には再び旧流路に戻されとしまう。

 1783年(天明4年)になると、幕府自ら印旛沼の水と合わせて検見川に排水し新田をつくる計画をつくる。手賀沼の部分の工事は、1785年(天明6年)に完成する。これで、先につくられていた手賀沼新田は復興の兆しがみられたものの、再び洪水により水害に襲われたことと、田沼意次が失脚したため完成を見ないまま中止されてしまう。

 一方、北に向かっては、『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見に耳を傾け、蝦夷地(北海道)の直轄による開拓を計画し、幕府による北方探査団を派遣するなど行った者の、実現に漕ぎ着けるまでには至らなかった。

☆☆☆

 その2としては、事業のための資金を商業資本や高利貸資本に求める政策をとっていく。しかし、かえって幕政は贈賄がはびこり、政治の腐敗が進んでいくことになる。

 しかして、田沼意次の権勢がいかほどのものであり、彼による政治がいかに賄賂政治の温床をつくっていたかを伝えるものに、『甲子夜話』(かつしやわ)があり、それにはこうある。

 「先年田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屡彼の第に住たり。予は大勝手を申込て主人に逢しが、その間大底三十余席も敷べき処なりき。他の老職の座敷は大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の座敷は両側に居並び、夫にても人数余るゆへ、後は又其の中間にいく筋にも並び、夫にても人余り、又其の下に横に居並び、其の余は座敷の外通りに幾人も並び居ることなりき。

 その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其の人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては主人は余程客と離れて座し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るるゆへ、ようようと主人出座の所、二三尺許りを明て客着座するゆへ、主人出て逢ときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不札とも云べきありさまなり。(中略)

 予は大勝手の外は知らず、中勝手・親類勝手・表座敷等、定めて其の体は同じかるべし。当年の権勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲の如くなりき。」(『甲子夜話』:肥前平戸藩主松浦静山による随筆)


 そうしたいわくつきの田沼だが、幕府内で、殖産興業や株仲間の育成などで功績が某か認められていたに違いあるまい。国家もまた、利益を上げなければならないと。
 なお、ここに株仲間(かぶなかま)というのは、大どころの江戸においては十組問屋、大坂では二十四組問屋があった。
 ついては、先代までの政策が一皮剥けることで、運上金や冥加金をとりたてて幕府の財源となし、積極的に保護・公認していく。成員権としての株は、相続や抵当の対象ともなる、ただし、仲間の同意がなければ、それを売却することはかなわない。
 だが、これらで幕府にそうとの利益が転がり込んでいるとしても、これに見られるような賄賂などの横行が事実なら、幕府内で不信感なりが増してくるのは避けられなかったに違いあるまい。
 そればかりではない、この時期には、諸藩においても、領国から米やその他の作物を大坂の蔵屋敷に運んで、天下の台所たる大坂の市場で換金する傾向が顕著になってくる。

 そうした諸藩の大坂蔵屋敷の数は、1747年(延享4年)時点で、九州、四国及び中国を中心に103にのぼっていたという。こうした商品経済の発展状況に着目したのであろうか、かれらは競うようにして仲間を公認する。
 これにより問屋などの商人の便宜を幕府が「お墨付き」として与える見返りに、これまた地方版の運上金や冥加金(みょうがきん)の取立てで財政収入の増加をはかっていく。

 この時代にはまた、新たなかたちの座を設立する動きが強まる。株仲間とは異なり、幕府直営にて銅座、鉄座、真鍮座(しんちゅうざ)、それに朝鮮人参座といった、幕府直営の座や会所を次々に設置する。
 これを平たくいえば、幕府による製造・販売を独占する、今で云う専売制であり、幕府としてこれらから上がる利益を独占したいとの思惑からの政策であったろう。
 わけても銅座については、銅の専売制によって独占的な売買利益を獲得するばかりでなく、輸出用銅の安定的確保をはかるという意味合いも込められていた。


☆☆☆

 その3としては、貿易での新政策がとられる。すなわち、田沼の外交政策は、今日で言うところの「改革開放」にあった。そのとっかかりは、1715年(正徳5年)に6代将軍とその参謀の新井白石が、国際貿易額を制限するために制定した海舶互市新例を緩和するなど鎖国政策を緩める。

 長崎貿易を緩め、俵物などの商品作物を奨励しつつ、海外の物産や新技術の輸入を図る。めずらしいところでは、8代将軍吉宗の治世時に漢文書籍の輸入を許可した事績に習ってか、『解体新書』の出版を奨励したりしている。果ては、ロシアとの交易も模索していたようだが、企画の域を出ないうちに失脚の時を迎えた。

 さらに、田沼期には貨幣政策においても新たな方向がみてとれる。これについては、幕府財政の補填をしたい、通貨需要の増大にも応えたいということであった。その際には、輸出需要の旺盛であった銅に代わって、銀を用いることを考えた。

 具体的には、田沼とその部下である勘定「明和二朱銀」(南鐐二朱銀)として発行した。それには、これの8枚を小判1両に兌換できるという意味の表記があった。材質を「元文銀」(1736年(元文元年)から通用開始された丁銀の一種で秤量貨幣銀貨)と比べると、元文銀だと60匁(もんめ)が金貨1両の値打ちなのが、この明和二朱銀になると8枚重ねて金貨1両に相当するのを約すものとしてつくられた。

 これだと、改鋳を通して「出目」と呼ばれる多額の貨幣発行益(シニョレッジ)を得ることができ、通貨需要増大に応えることができる、さらに金貨との間で融通性のある銀貨(「金貨単位計数貨幣」といわれる)が社会に流通することで、通貨単位が1本に系列化できることにも繋がるというメリットがあった。


 それら以外にも、この時代には、彼の権威を頼んでか、ロシアとの交易をも視野に入れた、「蝦夷地開発」の構想にも繋がっていく、少なくともその可能性を帯びるにいたる。
 
 「紅毛書にて考るに、「ヲロシア」の日本交易を好むは、数十年以前よりの趣向と見ゆる故、いか様なる事をしても、交易すべきの心有りと思はるるなり。

 此の如きの次第故、かたがた以て奉行を置て支配これ無くては、禁制しがたき事故、此の幸便を以て日本の富栄へん事を求るに、兎角蝦夷の出産物も吟味するにしくはなし。蝦夷地の金・銀・銅を以て、我国の薬種共の他国用に相成るべき程にこれ有り、これ依り年々異国渡りの銅をはぶき、抜荷禁制の御法令行者ならば、数十年の内国家の豊なる事掌を指す如くならんかし。惣て国を治るの第一は、是我国の力を厚くするにあり。国の力を厚くするには、とかく外国の宝を我国に入るを第一といふべし。(中略)

 扨(さて)開発さて日本の力を増には蝦夷の金山をひらき、並びに其の出産物の多くするにしくはなし。蝦夷の金山を開く事、昔より山師共の云ふらす所成が、入用と出高と相当せず、これ依りすたれ有る所なり。然に先に云ふ所の「ヲロシア」と交易の事おこらば、この力を以て開銀・銅に限らず一切の産物、皆我国の力を助くべし。
 右交易の場所あながち蝦夷にも限るまじ。長崎をはじめすべて要害よき湊に引き請て宜(よろしき)事なり。右に申す通り日本の力を増す蝦夷にしくなし。」(工藤平助「赤蝦夷風説考」)(以下、略)」(「ロシア貿易の進言」)」

 この案件は、田沼の関心を引き、「蝦夷地」開発についての調査が開始されるまでになっていたのだが、10代将軍の家治が死ぬと田沼が失脚、それを受け計画は瓦解してしまう。

 
(続く)

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○140『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(流通・金融)(問丸、土倉、撰銭令)

2020-09-26 21:39:53 | Weblog
140『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(流通・金融)(問丸、土倉、撰銭令)

 流通面では、既に鎌倉期から交通業者や倉庫業者、卸売り(大方は委託販売としてのもの)は「問丸(といまる)」と呼ばれる業者が畿内を中心に現れていた。南北朝を経て室町時代中期になる頃には、この問丸の中から自身の勘定で手広く受け入れから販売までを行う「問屋」への移行が始まっている。運送の業態も、海上廻船、陸上は馬借・車借りという具合に双方向で発展していった。

 室町期の金融では、室町時代になると、従前からの宋銭に加え、明から大量に輸入された明銭(永楽銭など)のウェイトが高くなっていく。この期には、鎌倉時代後期から土倉(どそう)なる商売人が現れる。彼らは、土蔵(どぞう)とよばれる倉庫をもつ高利貸業者である。
 土倉はまた、酒屋とともに高利貸業を兼ねることがしばしばであった。彼らは、動産や不動産を担保物件に金銭を貸し付ける。その分、鎌倉時代に金融業者の代名詞であった借上は南北朝時代になってほぼ同一の業務を行う土倉が登場したことで、室町時代にはかなりが業界から淘汰され、土倉の呼称で一般化されていく。また一部には、庶民の相互扶助的な「頼母子講(たのもしこう)」や「無尽(むじん)」などが組織されていった。

 撰銭令(せんせんれい、えりぜにれい)の最初は、1485年(文明17年)に周防国(すおうのくに)の守護大内氏によって出された撰銭令だと言われる。その中から、幾つか紹介しよう。

 「禁制
一、銭を撰ぶこと
 段銭のことは,往古の例たる上は、撰(えら)ぶべき事,勿論たりといえども、地下の仁宥免の儀として、百文に、永楽・宣徳の間廿文あて加えて収納すべき也。
一、利銭並びに売買のこと
 上下大小をいとわず、永楽・宣徳においては,撰ぶべからず。さかい銭と洪武銭・打ち平め、この三色をば撰ぶべし。但し、かくのごとく相定めらるるとて、永楽・宣徳ばかりを用うべからず。百文の内に、永楽・宣徳を卅文加えて使うべし。」  

 「永正二年(1505)条
定む 撰銭の事
 右、度々御せいはゐにまかせて、京銭、うちひらめ等、これをせんし、其外のとたう銭、ゑいらく、こうふ、せんとく、われ銭 但し、われとをざる銭以下、とりあわせて、百文に三十二銭 けりやう三ぶんこれあるべし。向後後取わたすべし。若いはんの族あらは、注進に随い、罪科に処さるべきの由、仰せ下され候ところ也。仍て下知件の如し。」(蜷川文庫古文書)

 「一、商売の輩以下撰銭の事。 明応九、十
  近年恣に撰銭の段、太だ然るべからず。所詮、日本新鋳の料足においては、堅くこれを撰るべし。根本渡唐銭、永楽、洪武、宣徳等に至っては、向後これを取り渡すべし。但し自余の銭の如く相交うべし。若し違背の族あらば、速かに厳科に処せらるべし。」(「建武以来追加」)


 要するに、撰銭をさかい銭・洪武銭・打ち平めに限定する。永楽銭・宣徳銭の撰銭を禁止する。それから、大内氏へ納入する段銭への混入率を民間流通よりも低く抑制した。これにより領内での円滑な貨幣流通を確保すしつつ、大内氏による良銭の確保をはかったものだといえる。


 室町幕府が成立してからは、1500年(明応9年)から1566年(永禄9年)までの間に9回もの撰銭令を出している。この頃には、唐銭、宋銭、元銭、明銭(永楽銭など)、私鋳銭などのさまざまな品質の貨幣が流通していた。
 取引のそれぞれの場面、段階で「撰銭」が行われると、商業取引の円滑化の障害になる。そのため、中国の明の永楽銭その他の貨幣を幕府公認の流通通貨とに指定し、こちらを世の中に広く流通させようとした。 
 それでも粗悪貨幣の乱用は後を絶たずに、この政策はその後時代が下る程に、煩雑さを増していったものと見える。やがて戦国大名達が割拠する時代となるに及んで、織田信長の撰銭令(1569年)に見られるように、悪貨の流入防止ばかりでなく、増大する貨幣需要に応えるため貨幣流通量の増加をも視野に入れる、そのためには主要な両銭の基準を定め、貨幣の交換比率を定めることにつながっていく。

(続く)

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○154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

2020-09-26 21:33:10 | Weblog
154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

 ここに「掟」というのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農村部における「農民の結合体」である惣(そう)において、彼らが世俗集団として生きぬくための約束事にほかならない、例えば、こうある。

 「延徳元年(1489年)条
  定 今堀地下掟  
一(5条)、惣ヨリ屋敷請候テ、村人ニテ無キ物置クベカラザル事。
一(7条)、他所ノ人ヲ地下ニ請人候ハテ置クベカラザル事。
一(8条)、惣ノ地私ノ地トサイメ相論ハ金ニテスマスヘシ。 
一(12条)、犬カウヘカラス事。
一(15条)、二月六月サルカクノ六ヲ壱貫ツゝ、惣銭ヲ出スベキモノナリ。
一(16条)、家売タル人ノ方ヨリ、百文ニハ三文ツゝ、壱貫文ニハ三十文ツゝ、惣ヘダ スベキ者也。此旨ニ背ク村人ハ座ヲヌクベキナリ。
一(17条)、家売タル代、カクシタル人ヲハ、罰状ヲスヘシ。 
一、堀ヨリ東ヲバ、屋敷ニスベカラズ者也。」(「今掘日吉神社文書(いまぼりひえじんじゃもんじょ)」、なお今掘は、現在の滋賀県八日市市)

 これにあるのは、惣」が当該村落の自治組織として、振る舞うには、きれいごとだけてはすまされない、なぜなら、彼らは有形無形の共同財産を持ち、時には外の権力と闘うことも覚悟しなければならない。
 だからこそ、惣の掟という法律を定め違反者には追放や罰金を科し、自分たちの組織の力を保持しようとする。 身内に甘いようでは、相手につけ入る隙をあたえてしまうと考えたのだろう。


 ついては、同神社発の、もう一つの文を紹介しよう。

 「一、寄合ふれ二度に出でざる人は五十文咎(とが)たるべきものなり。
一、森林木なへ切木は、五百文宛(づつ)の咎たるべきものなり。
一、木柴並びにくわの木は百文宛の咎たるべきものなり。
一、初なりかきは、一つたるべきものなり。
衆議によって定むる所、件(くだん)のごとし。
文安五年(1448年)十一月十四日、これを始む。」(「今掘日吉神社文書」)

 こちらの方には、惣の運営については、寄合がもたれ、そこでの議論で事を決め、「衆議」をもって進めていく。しかして、これに従わない者は、「咎」に問われることになっているではないか。


 あわせて、この時期には、幾つかの村に跨がる形が現れるのであって、その中には、例えば、「桂川用水今井の事」がある、こちらは、現在の京都市の南西部の桂川(かつらがわ)の西、そこに広がる丘陵地帯の西岡地域には、中小の荘園があって、灌漑用水の確保を巡り争いが起こりかねない状況であった。

 そこで、このように関係するところの「西岡十一郷」のうち三つが荘園の枠を越えて、以下の如く、結合して事にあたる事を申し合わせ、盟約した。
 ちなみに、上久世荘は東寺領、河嶋荘は三条、西園寺、それに山科三軒家の所領、さらに寺戸荘は仁和寺領と領主を異にしている。
 
 「契約 桂川用水今井の事  右契約の旨趣は、この要水こ事につき、自然煩、違乱出来の時は、久世、河嶋、寺戸もっともこの流水を受ける上は、彼の三毛ケ郷一身同心せしめ、合体の思いを成し、面々私曲なくその沙汰あるべし。
 もし同心の儀に背く郷においては、要水を打ち止むべし。この契約の旨にらいつわり申し候はば、(中略)」
暦応□年七月(「革島文書」)
 
 しかして、この史料は、桂川の用水を西岡地域の久世(しぜ)、河嶋(かわしま)、それに寺戸(てらど)に住民が集団で管理するために作成した。


 その後の惣の行く末については、例えば、こうある。

 「このような惣村もやがて衰退の方向に向かっていった。その理由の一つは経済的破綻となって現れていた。
 近隣の惣村との争いに際して多くの出費を要し、また惣の指導者の力の低下、商業資本の新登場など惣内外からの圧力、新たに出現した戦国大名ならの干渉、などがあげられよう。
 管浦荘では戦国時代に入ると戦国大名浅井(あざい)氏の干渉が甚(はなはだ)しくなり、荘民のあるものは浅井氏に従って惣の規則を無視したり、あるいはその被官となるものも出てきた。
 やがて惣の機能を失うこととなった。」(村山光一、○高橋正彦「国史概説1ー古代・中世」慶応義塾大学通信教育教材、1988)




(続く)


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○154『自然と人間の歴史・日本篇』一向宗(鎌倉時代から室町・戦国時代へ)

2020-09-26 09:08:27 | Weblog
154『自然と人間の歴史・日本篇』一向宗(鎌倉時代から室町・戦国時代へ)

 一向宗(いっこうしゅう)は、戦国時代からしばらく政治の面でも勇名を馳せた仏教集団であり、幾つかの流れがある。 
 
 それは、一向俊聖(いっこうしゅんじょう)の宗団、一遍智真の時宗、今でいう浄土真宗の旧称などの総称として用いられる、鎌倉時代の末期に書かれた「野守鏡」や「天狗草紙」に「一向宗」と書かれてあるともいう。その場合の「一向」とは、なんでも、「ひたすら」の意味あいからで、かつ「一向往生を思うの大事」(「玉葉」文治元年)にも見える表現とか。

 それらの中でも、親鸞を開祖とする浄土宗本願寺派が蓮如(れんにょ)の時代、伸長が著しかった。彼は、「御文」という漢字かな混じりの消息の形式を用いて、庶民に「阿弥陀仏への帰依を説いていく。その中、「猟漁(りょう、すなどり)(3)」の項目には、こうある。

 「まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。 
 このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明三年十二月十八日」
 
 これを、かの親鸞の次の言葉に比べると、いかに分かりやすい、噛み砕いた説得の「調べ」であるかが、納得できるだろう。
 
 「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」(親鸞「教行信証」の「総序」より)
 
 なお、現代訳は、「わたしなりに考えてみると、思いはかることの難しい阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願は、渡ることの難しい迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」

 すなわち、これにあるのは、西方かなたの「阿弥陀如来」に対して、ひたすらに願いをこめる、仏の教えにひたすらに、帰命(きみょう)、帰依(きえ)するうちには、その仏は、「ことごとくお助けになるのだ」と。
 
 なお、余談ながら、この親鸞の言葉は、仏教を開いた釈尊の無神論とは異なる、中国、朝鮮などへとつながる流れながら、永遠存在を求めて止まない人間の「業」なり「宿命」を是とする仏教の一分派たる「大乗仏教派」の精神を正面から捉えているものとして、現代にいたる日本仏教の精髄を伝えているように思われる。


 それはさておき、このような「御文」の下りを、「寄合」と称する問徒の集会を組織し、その場で指導の者が人々に読み聞かせる、あるいは「南無阿弥陀仏」を唱和したりするうちには、信仰心はいやがうえにも高まっていく。教団は、主に、農民や零細な商工業者の間に広めていき、地域としては、北陸、東海、近畿を中心に勢力を拡大していく。
 そのうちに、世俗の権力とも向き合っていく。というのも、特段、暮らし向きの厳しい中では、いかにすればその不幸から抜け出すことができるかに、話が及んでいくのは自然な流れであったのでは、ないだろうか。

(続く) 
 
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○153『自然と人間の歴史・日本篇』能と連歌と足利学校

2020-09-25 22:13:50 | Weblog
153『自然と人間の歴史・日本篇』能と連歌と足利学校

 
 「能」というのは、現代において一般の場で観賞する機会は、かなり限られているのではないたろうか。元の呼び名は「猿楽」、それに「田楽」といい、さらに遡ること、中国の王公貴族あたりがその源流なのではないだろうか。
 しかして、その特色とは、次のように。かなりの特異性をもって語られている。

 「諸道諸事におうて幽玄なるをもて上果とせり。ことさら当芸において、幽玄の風体(ふうてい)第一とせり。(中略)

 そもそも幽玄の堺(さかひ)とは、まことにはいかなる所にてあるべきやらん。(中略)

 ただ美しく柔和(にゅうわ)なる体(てい)、幽玄の本体なり。(中略)

 言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ、一切ことごとく物まねは変るとも、美しく見ゆる一(ひと)かかりをもつ事、幽玄の種(たね)と知るべし」(世阿弥元清(ぜあみもときよ)「花鏡(かきょう)」、1424)

 さても、「言葉の幽玄ならんためには、歌道を習(なら)ひ、姿の幽玄ならんためには、尋常なる為立(したて)の風体をならひ」との脚色が施されている。そのためには、相応の人と舞台がしつらえてなければ、何事もうまくいかない話のようだ。

 これを編み出したのは、観阿弥・世阿弥の親子であって、当時民間の演芸であった猿楽と田楽からヒントを得たのだという。
 その際は、「支配階級から民衆にいたるあらゆる階層に享受されるところの民族的な文化にまで高めることに成功したのであった」(家永三郎「日本文化史(第二版)」岩波新書、1982)というから、もしそれを意識しての新芸術誕生なら、その時代、世界にも誇れる話なのではないだろうか。

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 ついで、連歌を取り上げよう。元は、上句と下句とを問答の形にて、隣り合う二人でよみ出すものであった。具体的には、和歌が5・7・5・7・7の計31文字でその時々の思いを表現するのをベースにして、連歌は複数人で行わうものであり、一人目が5・7・5、次の歌い手が7・7と句をつないでいく。いうなれば、雅の世界でいう、和歌の変形なのでであった。

 それが、14世紀頃から、より多くの人がよみ連ねていくのに変わっていく。平安時代の院政期から、公家の間で行われていたものが、そこから徐々に武士や商人などに広まっていく。前者を「堂上連歌」といい、後者を「地下連歌(ちげれんが)」と言い慣わす。

 そんな連歌の集大成として、現代に伝わるのが、「新撰莵玖波集(しんせんつくぼしゅう)」なのであって、次なる解説が付いている。

 「それ連歌はやまとうたの一体として、そのかみよりつたはりて人の世にさかりなり。(中略)

 しかはあれど代々をかさねてことにあつめえらばれたる事は 其跡なかりしを、なにがしのおとゞ 外にはまつり事をたすくる契をわすれず、うちには道をもてあそぶ心ざしのあさからざりしゆへにひろくまなび、とをくもとめて、いにしへ今の連歌をあつめて、莵玖波集となづけしめ、おほやけごとになずらふるみことのりを下されしより、此みちいよいよひろまりて、さかりにとゝのほりける。あるは本式新式のむねをろんじ、賦物嫌物の法をさだめしまでも、すべてかしこき心ばへにあらずといふ事なんなかりける。(中略)

 かゝるにいま宗祇をいへる世すて人あり、このみちにたづさひて、やそぢにちかきよわひにもをよべり。

 此たびかれらがちからを合て、もはらえらびとゝのへしむる事は、かの莵玖波を救済等におほせあはせんあとをおもへる者ならし。(中略)

 いまりん命をうけたまはれる事は、ひとへに道にふけるおほん心ざしのいたりなるべし。これまことに、君も臣も身をあはせたるといふにあらずや。時に明応四年六月廿日になんしるしをはりぬる。」(飯尾宗祇ほかの編集「新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)」1495)

 なにしろ、互いの顔がわかるであろう、集団的な席上、その参加者の間につながれ、かつ相呼応のうちに連作されていくものだから、平たくいえば、個々人の作品というのことにはならないのではないか。

 そんな文人の中でも代表的な、室町時代に活躍した連歌師の宗祇(そうぎ)などは、地方の有力な武士や町人、寺社のところに出掛けては、会を催してもらい、その道を彼らに伝えて余りあったのだろう。

 「「河越千句」は、河越城などを築城した太田道灌(おおたどうかん)の主催で行われた連歌会での作品です。文明2(1470)年正月10日から3日かけて行われました。「何人第二」では、宗祇が発句です。
何人第二
🌕遠く見て行けば霞まぬ春野かな、宗祇。🌕明くる梢ののどかなる色、義藤。🌕月薄く嶺に移ろひそ、道真。🌕ほの暗き江に水落つる山、心敬。🌕浪寒く火を焚く村の夕間暮れ、満助。🌕立つや千鳥の微かなる声、中雅。🌕踏む跡の真砂や風に扉くらむ、長畝。🌕身に染む朝の袖の初霜、修茂。✳️適宜校訂を施した」(埼玉新聞、2020年12月2日付けの記事「東国武士に連歌指導、知ってる?埼玉の文学者たち」より引用)


☆☆☆
 それから、足利学校というのは、日本最古級の民間の学校である、創建されたのは、平安時代だというのだが、諸説がある。

 一説には、平安時代の公家、小野篁(たかむら)が、「史跡足利学校」(足利市昌平町)の地に、初めて営んだという。1549年11月5日付け「ザビエル書簡鎌」が、その由来の細かいところを、こう伝えている。

 「聞く所に依れば、当地より都まで300レグワあり。同市に付きては我等に大なる事を語り、戸数は九万を超え、一の大なる大学あり。其内に主なる学部五つを有す。(中略)

 都の大学の外に主なる大学五校あり。其名は高野(Coya)・根来(Nenguru)・比叡山(Feizan)・多武峰(Taninomine)なり。

 此等の大学は都の周囲に在り、各学生3500以上を有せりといふ。甚だ遠き所に坂東(Bandou)と称する他の大学あり。日本の最大且主要なるものにして、此所に入学する学生最も多し。

 坂東は甚だ大なる地方にして太守六人あり。其中一人の主なる者あり。他は皆之に服従せり。主なる太守は都の大主なる日本国王に服従す。此地方及び諸大学の広大なることに付き、我等は種々聞きたる事あれども、之を確めたる上通信せん為、先ず之を見んことを希望す。」(「耶蘇会士日本通信」)




(続く)

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○200の3『自然と人間の歴史・日本篇』享保の分地制限令(1721)と質地禁止令(1722)

2020-09-24 22:50:55 | Weblog
200の3『自然と人間の歴史・日本篇』享保の分地制限令(1721)と質地禁止令(1722)


 まずは、江戸時代に入ってからの、この問題の経緯をかいつまんで顧みよう。1643年には、次のような田畑永代売買禁止令が発布される。

 「一、身上能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者は田畑沽 却せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後田畑売買停止たるべき事。
寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)

 この法令で、田畑を売買することを禁止するまでには、その売買を通じて、農民の中の富裕層に土地が集まり、農民の間で階層分化がやむことなくすすんでいた。


 中でも1641年、大凶作が起きると、困窮した農民が田畑を売り払って没落し、その一部は流民になる事態が起こる。


 そこでこの法令では、田畑を売買した場合には、その売り手も買い手も厳罰に処される。売り手は村を追放され、買い手は買い取った田畑を没収された。

 しかし、そもそも田畑を売買するに至るのは、重い年貢を払えないからではないか。そうであるならば、そうなっていく下地そのものを改めていくべきだろう。しかし、それはならず、したがって以後も、そのような状況が改善されることはなかった。そのため、農民の中には厳罰を覚悟の上で田畑を売買する者が続く。


 こうした状況を前に、寛文期の法令が発布される。

 「一、百姓田畑配分定めの事、高は拾石、反別は壱町歩より内所持のものは割り分くべからず。
 前々より拾石の内田地持つものは、配分御制禁たりとい へども、近来、密々猥りに相分け候由相聞え候。
 自今、拾石、壱町歩の外 に余分を配分すべし、此定より少し残すべからず。

 是より内所持のものは 配分御停止に候間、厄介人之れ有るものは、同所にて耕作の働き仕り、渡 世致させ、又は相応の奉行に差し出すべき事。(以下、略)
 延宝元年」(「徳川禁令考」)

 それでも効果がなかった、と見えて、1721年(享保6年)には、寛文期に続いて、次なる「享保の分地制限令」が出される。

 「一、田畑配分定(さだめ)の事、高拾石、地面壱町
 右の定よりすくなく分け候停止(ちょうじ)たり。尤(もっと)も、分け方に限らず、残り高も此(こ)の定よりすくなく残すべからず。   然ル上は高弐拾石地面二町よりすくなき田地持ちは、子供を始め、諸親類の内え田地配分罷(まか)り成らず候間、養介人(ようかいにん)これ有る者は、在所にて耕作の働きにて渡世(とせい)致させ、或いは相応の奉公人に差し出すべき事。
 (「御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゆうせい)」)

 改善点としては、制限を一層明確にしたこと。分地する方も分地される方も10石一町歩(ちょうぶ)以下になってはならない。そして、石高20石、田畑二町歩以下の者の分地を禁じたことになっている。
 たしかに、「石高20石、田畑二町歩」で線引きし、そこで激流を、塞き止めるというのは、一利あろう(ちなみに、筆者の生家は専業農家であって、その農地は一町八反であったから、この定めの意味するところは、なんとなく(体)でわかる気がする)。しかしながら、波の勢いの方が上回っていたのであろうか。
 
 さらに、それでも効果がなかった、と見えて、1722年(享保7年)、幕府は、今度は田畑の売買禁止にあわせて、田畑の質流れを認めない法令としての「質地禁止令」を発布する。

 それと、公権力を使って田畑を質入れすることを禁じることには、1722年(享保7年)~1723年(享保8年)にかけて、越後(えちご)、羽前(うぜん)一帯で大規模な反対運動(これを「質地騒動」と呼ぶ)が起こり、結局、約1年で廃止されてしまう。

 それからの幕府は、土地の質流れによる農地の小規模化、空洞化を黙認するのであった。そのため、以後は質入れされる田畑が「影に日向に」増えていく。


(続く)


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新○174『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の農民政策(~1673)

2020-09-24 21:53:45 | Weblog
174『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の農民政策(~1673)

 1643年(寛永20年)、幕府は本百姓体制の維持を目指して「田畠永代売買の禁令」を出す。おりしも、前年来の全国的な「寛永飢饉」の最中にあった。そのとき、3代家光将軍を補佐していたのは、「智慧伊豆」の異名を持つ松平信綱(まつだいらのぶつな)に他ならない。

 「一、身上能き百姓は田地を買い取り、弥(いよいよ)宜く成り、身躰(しんだい)成らざる者は田畠こ却(こきゃく)せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後(きょうご)田畠売買停止為るべき事。(寛永)二十年(1643年)未(ひつじ)三月」(御触書寛保集成より)

 ならば、「田畑永代売買禁止令の罰則条項」はどうなっていたかというと、甚だ厳しい掟(おきて)となっていた。
 「田畑永代売買御仕置
一、売主牢舎之上追放。本人死候時ハ子同罪。
一、買主過怠牢。本人死候時ハ子同罪。但買候田畑ハ売主之御代官又ハ地頭江 取上之。
一、証人過怠牢。本人死候時ハ子ニ構なし。 
一、質に取り候者、作り取りにして質に置き候者より年貢役相勤候得ハ、永代 売同前之御仕置、但頼納質といふ。
  右の通り田畑永代売買御停止之旨被仰出候。
   寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)

 これと並んで、同年、「田畑勝手作の禁止令」が出される。

 「一、…本田畑にたばこ作申間敷旨、被仰出候。
 一、田方に木綿作り申す間敷事。
 一、田畑共に、油の用として菜種作り申す間敷事。
    寛永二十年八月廿六日」(「徳川禁令考」)

 こちらは、「郷村御触」23か条の中、本田畑でのたばこ、木綿、菜種の作付けを禁止する令をいい、寛永の飢饉(ききん)による農村の疲弊という状況下で、年貢の確保と本百姓の経営を守るのを目的とする。 
 なお、この条文は。1871年(明治4年)、明治政府の田畑勝手作りの許可により廃止された。
 
 それらにもかかわらず、政策の効果の出具合が薄かったものと見える。そこで幕府は、1673年(寛文13年・延宝元年)になると、幕府は農民の零細化を防止するために、名主は2町歩・20石、百姓は1町歩・10石以上の者の土地分割相続を制限した措置を講じる。

 「一、名主、百姓、田畑持候大積(おおづも)もり、名主(なぬし)(二十)石以上、百姓は(十)石以上、それより内に持に候者は石高猥(みだ)りに分ヶ申間敷(もうすまじき)・・・・・。」(近藤守重『憲教類典』より)

 これとても、封建社会乍らの商品経済が発達していく中、土地の質入れなどによる流動化を止めることはできず、その後も同様の法令などが繰り返されることになっていく。これが解禁になるのは、封建的な土地所有がブルジョア的な土地規制に置き換わる最初となる、明治の土地改正条例公布の前年、1873年(明治5年)のことである。

 1649年(慶安2年)、3将軍徳川家光の時、32か条にわたる農民への「お達し」が下されたことになっている。近年その存在が疑問視されていることもあるが、次のように微に入り細に入り、「これでもか」といわんばかりに農民生活のあれこれを指図している。

 「慶 安 御 觸 書
慶安二丑年二月廿六日
  諸國郷村江被仰出
一 公儀御法度を怠り地頭代官之事をおろかに不存扨又名主組頭をハ眞の親とおもふへき事
(中略)
一 朝おきを致し朝草を苅晝ハ田畑耕作にかゝり晩にハ繩をないたわらをあみ何にてもそれそれの仕事無油斷可仕事
一 酒茶を買のみ申間敷候妻子同前之事
(中略)
一 百姓は衣類之儀布木綿より外ハ帶衣裏ニも仕間敷事
(中略)
一 たは粉のみ申間敷候是ハ食にも不成結句以來煩ニ成ものニ候其上隙もかけ代物も入火の用心も惡候万事ニ損成ものニ候事
(中略)
  附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事

一 親に能々孝行之心深くあるへしおやに孝行之第一は其身無病にて煩候はぬ樣ニ扨又大酒を買のみ喧嘩すき不仕樣に身持を能いたし兄弟中よく兄は弟をあわれみ弟は兄に隨ひたかいにむつましけれは親殊之外悦ものニ候此趣を守り候得ハ佛神之御惠もありて道にも叶作も能出來とりみも多く有之ものニ候何程親に孝行の心有之も手前ふへんに而は成かたく候間なる程身持を能可仕候身上不成候得はひんくの煩も出來心もひかみ又は盗をも仕公儀御法度をも背しはりからめられ籠に入又は死罪はり付なとにかゝり候時は親之身に成ては何程悲しく可有之候。

 其上妻子兄弟一門之ものにもなけきをかけ恥をさらし候間能々身持を致しふへん不仕樣に毎日毎夜心掛申へき事右之如くに物毎入念身持をかせき申へく候身持好成米金雜穀をも持候はば家をもよく作り衣類食物以下に付心之儘なるへし米金雜穀を澤山に持候とて無理に地頭代官よりも取事なく天下泰平之御代なれは脇よりおさへとる者も無之然は子孫迄うとくに暮し無間きゝん之時も妻子下人等をも心安くはこくみ候年貢さへすまし候得は百姓程心易きものは無之よくよく此趣を心かけ子々孫々迄申傳へ能々身持をかせき可申もの也。
慶安二年丑二月廿六日」(「慶安御觸書」は、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の『徳川禁令考』に所収)

 これらのくどくど百姓の生活をがんじがらめにしておきながら、締めくくりのフレーズである「附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事」において、「年貢さへすまし候得ハ百姓程心易きものは無之」、つまり、「年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはなく」と続ける。まさに、百姓とその家族を人間扱いしない、封建社会の冷酷無情さがにじみ出ているのではないか。

 その原型としては、すでに江戸幕府の草創期に既に出されていることに留意されたい。
 その端緒として、 徳川家康の家臣にして参謀役でもあった本田正信が記したとされる『本佐録』に、当時の武士側からの農民観が滲み出ているのではないか。
 「百姓は天下の根本なり。(中略)百姓は財の余らぬやうに、不測になきやうに治むる事道也。」

 ならば、徳川家康その人の農民観を伝えるものに、次に紹介する『昇平夜話』の一節がある。

 「百姓は飢寒に困窮せぬ程に養ふべし。・・・・・東照宮上意に、「郷村の百姓は死なぬ様に、生ぬ様に」と・・・・・」(高野常道の作か?『昇平夜話』、1796年刊)

(続く)

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○175『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山期、江戸初期の対外政策(糸割府制度と朱印船貿易、海舶互市新例)

2020-09-23 20:51:45 | Weblog
175『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山期、江戸初期の対外政策(糸割府制度と朱印船貿易、海舶互市新例)

 顧みて、安土桃山から江戸時代の初期にかけての外国との貿易を始めとする関係は、どのようになっていたのだろうか。まずは、1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで、当時博多に出向いていた豊臣秀吉が出したバテレン追放令には、こうある(再録)。

 「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処。下々として猥義曲事。
一、伴天連其知恵之法を以心さし次第に檀那を持候と被思召候へは、如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可帰国候。其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事。
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、可成其意事。
已上、天正十五年六月十九日 朱印」(『松浦家文書』)

 この中で「きりしたん国」とは、ポルトガルとスペイン。「伴天連」とは、宣教師。「黒船」とあるのは「ポルトガルの船」。「今日より廿日之間に用意仕可帰国候」とある。宣教師たちにとっては過酷な沙汰であったろう。背景には、ポルトガル人が日本人を奴隷として連れ去る噂が流れたり、長崎を領する大村純忠(おおむらすみただ)による教会へに寄進の動きがあったりで、そのため疑心暗鬼となった秀吉が態度を硬化させていったとも観られる。

 ちなみに、これより5年前の1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名複数の名代として、ローマに少年使節団が派遣されていた。日本で布教に努めていたローマ・カトリック巡察使アレッサンドロ・ヴアリニャーノが、財政難に陥っていた日本での布教事業を立て直そうとして提案したものであった。1590年(天正18年)に日本に帰ってきた4人の日本人は聚楽第で秀吉に謁見したのであったが、特段の不利益は受けなかった。
 しかし、これには後日談があり、それから40年ばかり時代が下った1633年(寛永10年)、先頭に立って布教活動をしていた中浦ジュリアン神父は長崎で囚われ、穴吊しの刑で殉教した。なお、4人の仲間のうち一人は「転び」(転向者)となっていて、遠藤周作の小説『沈黙』の主人公、クリストファン・フェレイラとして描かれている。

 このように秀吉の禁令は厳しい内容であったとはいえ、その中では「黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事」として、南蛮船による商売は認めていた。それから十数年が経過した16世紀も末の1592年(文禄元年)、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)が行われることになる。『長崎実録大成』には、こうある。

 「一、文禄之初年より長崎・京都・堺之者御朱印を頂戴して広南、東京、占城(チャンバ)、 柬捕寨(カンボジア)、六昆(リゴール)、太泥(バタニ)、暹羅(シャム)、台湾、呂宋(ルソン)、阿媽港(アマカワ)等に商売として渡海する 事御免之れ有り。
 長崎より五艘、末次平蔵二艘、船本弥平次一艘、荒木宗太郎一艘、糸屋随右衛門一艘、京都より三艘、茶屋四郎次郎一艘、角倉一艘、伏見屋一艘。堺より一艘、伊勢屋一艘」
(『長崎実録大成』、1770年刊)

 ここに「占城」(チャンバ)、「六昆」(リゴール)そして「太泥」(バタニ)とは、マレー半島にあった国や都市をいう。山田長政は、アユタヤの日本人町の首長から「六昆」の太守となった。その山田は、1612年の朱印船で、長崎から台湾を経てシャム(現在のタイのありを占めていた)に渡った、そこのアユタヤ郊外に出来ていた日本人街に住んで、貿易活動を営む。
 やがては、マラッカ海峡の向こうのインドネシアなどにも進出して、東南アジアのかなり広い地域で交易を行っていた。その商売のやり方は、当時進出していたポルトガルやオランダなどの帝国主義的なやり方とは一線を画した、交易を通じて友好関係を築こうとするものであったらしい。

 この貿易だが、徳川家康の幕府開府になっての1604年に、再開される。その後1635年の幕府による鎖国開始の前まで、大名から武士、の商人が船主となって盛んに行われた。
 商人には、中国人や欧州人もいた。商人たちが扱っていた品目の量及び種類については、この貿易が行われていた約11年の間での朱印状下付数は353通あった。
 輸出は、銀、銅、鉄、薬罐、雑貨、扇子、傘、硫黄、樟腦などであった。また輸入は、生糸、鹿皮、羅紗、絹、綿織物、伽羅、砂糖、蘇木などであった。

 要するに、ポルトガル船が長崎に着いたら、糸職人は糸割符仲間の年寄共が「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず」とし、幕府の認める京都、長崎、堺(1631年からは大坂と江戸も入る)の特権商人たちに糸割符仲間を結成させ、その仲間に生糸を一括購入させる、それにあわせてその時々の商品の値段を決めさせた。

 そうすることで、それまで主にポルトガル人商人が独占していた中国産生糸の価格決定権を日本側に取り戻し、日本側に利潤が得られるように取り計らう。当時はまだ国産生糸の生産が少量であったことから、国内での生糸産業を保護する施策でもあったろう。

 1600年(慶長5年)には、オランダ(蘭)船ダ・リーフデ号が豊後水道(ぶんごすいどう)に現れる。これを受けて1603年(慶長8年)、幕府は長崎奉行を設置する。そして、長崎などにおける白糸 (上質の生糸)を貿易するに、糸割符制度(いとわっぷせいど、ポルトガル人仲間では「パンカダ」と呼ばれた)が設けられる。
 というのは、日本国が貿易のうまみに預かろうとした。中国産の生糸の輸入は、それまでポルトガル商人が独占していた。その生糸の価格決定権を日本側に取り戻そうと、1604年(慶長9年)になって、糸職人向けに次の触れを出す。

 「黒船著岸の時、定置年寄共、糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候。糸ノ直相定候上ハ、万望次第に商売致すべき者也。
 慶長九年五月三日、本多上野介(正純)、板倉伊賀守(勝重)
 右の節、御定ノ題糸高(だいいとだか)。京百丸、堺百弐拾丸、長崎百丸。三ケ所合三百弐拾丸、但壱丸五十斤(きん)入。壱斤掛目(かけめ)百六十目。」(「糸割符由由緒書」、1604~1815での「糸割り符仲間」による記録にして、江戸時代末期に編集されたもの)

 この文中には、「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候」とある。これを、「白糸 (上質の生糸) 割符商法」という。これにより、幕府から特別に許しを得た都市、すなわち1604年(慶長9年)には京都、長崎、堺商人が、1631年からは大坂、江戸の商人も加わる形にて、やがては「五箇所商人」の特権商人に「糸割府仲間」を結成する。中国産生糸を一括輸入する仕組みができた。

 なお、この制度のその後については、1655年(明暦元年)に廃止されてしまう、
それが1685年(貞享2年)には復活し幕末までつづく。そうはいっても、その途中での18世紀中頃には、国産生糸の生産量が増加したことで、精彩はすでに失われていた。

 徳川家康はこれらの得失を踏まえつつ、1609年(慶長14年)、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える。そして、商館を平戸(現在の長崎県平戸市)に設置することを許した。いわゆる「オランダ平戸貿易」の開始である。1610年(慶長15年)、徳川秀忠はスペイン国に通商を許し、翌1611年(慶長18年)、広く南蛮人へ向けて通商が許可された。

 さらに、1715年(正徳5年)に出された『海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
 「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
 正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
 これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。

(続く)

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○200『自然と人間の歴史・日本篇』享保の改革 (1716~1745) 

2020-09-23 11:28:14 | Weblog
😗 200『自然と人間の歴史・日本篇』享保の改革 (1716~1745) 

 ここに享保(きょうほ)の改革とは、徳川吉宗が8代将軍に就任した1716年(享保元年)に始まる、一連の改革をいう。ここでは、そのごく大まかな内容を記したい。


 第一のカテゴリーは、より積極的な、年貢などの増徴策をおこなう。その柱としては、新田開発が目玉となっていた。1722年(享保7年)、幕府は日本橋に次の高札を立てる。

 「覚

 一、諸国御料所又は私領と入組候場所(かかる状況のことを「相給」と呼ぶ。)にても、新田に成るべき場所これ有るに 於ては、其所の御代官、地頭并百姓申談じ、何も得心の上新田取立候仕形、 委細絵図書付にしるし、五畿内は京都町奉行所、西国、中国筋は大坂町奉行 所、北国筋、関八州は江戸町奉行所え願出ずべく候。

 願人或は百姓をだまし、 或は金元のものえ巧を以て勧め、金銀等むさぼり取候儀を専一に存じ、偽り を以て申出づものあらば、吟味の上相とがむるにてこれ有るべき事。

 一、惣て御代官申付け候筋の儀に付、納方の益にも相成らず、下々却て難儀致 し候事これ在らば、これを申出ずべし。併し申立べき謂もこれ無く、自分勝 手によろしき儀計願出におゐては、取上これ無き候事。 右の趣、相心得うべき者なり。
 享保七年寅七月廿六日 奉行」  

 同年、幕府直轄領について出した、新田開発を促す法令には、こうある。

 「惣じて自今新田開発有るべき場所は、吟味次第障りこれなきにおいては、開発仰せ付けらるべく候。(中略) しかしながら、私領一円の内に開くべき新田は、公儀より御構いなく候。心得のため此段相通し候。九月(享保七年)」(「御触書寛保(かんぽう)集成」)


 これの後者は、幕府の基本方針を宣言し、従うように促したもの。また、これの前者は、江戸と京都、大坂の三都の商人に対し新田開発を奨励したもので、これにより開拓されたものを「町人請負新田」と呼ぶ。
 かかる新田の恩恵を受けたのは、商人資本であった。彼らは、幕府から小作料の取得を認められた開発地主となり、その財力で紫雲寺潟新田や飯沼新田、鴻池新田(17世紀初め、河内国)などが拓かれていく。


 次には、年貢の収益、すなわち収納法の改変が加わる。こうなるのには、つまるところ、どのような意図が働いたのだろうか。
 その話とは、こうである。それまで幾分低下傾向であった年貢率そのものの引き上げを図るのが施政者側の正攻法なら、収納方法を畝引検見法から有毛検見法(ありげけみほう)に変更して農民たちに課すことは、「巧妙なる収奪」とでも形容できるだろうか。
 前者は、その年の収穫不足に応じた田畑面積を減じた上(これを「畝引(せびき)」という)、残りの面積の所定の年貢率を掛けて、その年の全体の年貢高を算定する。これなどは、農民にも、受け入れ安いところがあったに違いあるまい。

 これに対して後者は、かなり異なる。すなわち、その田畑の任意の一区画の実収高(これを「有毛」と呼ぶ)を調べ、その高に面積を掛けて収穫高を出し、それに同年貢率を掛けて全体の年貢高を決定するものだ。

 そもそも定免法(じょうめんほう)は、過去数年間の収穫高から年平均の出来高を割り出し、これを基準に3年から10年にわたっての免、すなわち一定の年貢率に割り当てる。
 
 これに対して、有毛検見法とは、田畑の等級によらず、その出来高によって年貢を賦課するもので、定免法が実施されなかった幕府直轄領に対して行われる。

 参考までに、「福井県史」の中には、こんな説明がしてある。

 「定免法は二・三・五・七年などと年期を限るか無年期で、それまで一〇年間ぐらいの年貢の平均をとり、豊凶に関係なく納めさせる方法である。しかし幕府や諸藩の定免法には破免条項もあり、幕府は享保十七年(一七三二)に三割以上の被害があった時には、その年に限って検見取を行うことを定めている。
 幕府領では享保七年から全国的に実施されたが、福井藩ではそれ以前から定免法を採用している村もあり、勝山藩では小笠原氏の入部当初の元禄十年(一六九七)から多くの村で定免法が採用され、鯖江藩も十九世紀には大多数の村で採用していた。
 また、丸岡藩や小浜藩等で採用された土免法は、土地の善し悪しを基準にして租率を春のうちに定めるものであり、農民の願いに応じて行われることが多く、二年、三年といった年期を限り、同一額の年貢を納めることが認められたという点など、定免と大差がなかった。丸岡藩では延宝期(一六七三~八一)にすでにかなりの村で行われていた形跡もあり(斎藤新右衛門家文書)、享保期以降はほとんどの村で行われている(南田家文書)。」(「福井県史」通歴史編集3「近世」)


 それらのほかにも、幕府は、抜け目のないこととして、三分一銀納法を採用、棉花や菜種などの収益性の高い畑作物に対して、主に畿内や西国の農民に適用されていた。それを1722年(享保7年)、幕府はその三分の一銀納を止めてその分を米での納入にするようにと布達した。

 そのあたりのからくりは、例えば、こう言われる。

 「これは最初から農民の困惑を利用して三分一銀納の部分を競り上げることを目的としており、年貢の増徴をもくろむものであった」(仁木良和「1章幕藩体制の成立」:老川・仁木・渡邉「日本経済史ー太閤検地から戦後復興まで」税務経理協会、2002)。

 これらが事実なら、当時の施政者の念頭にあったのは、封建制を何が何でも盤石にしたい、そのためには百姓たちからは獲れるだけ獲とろうとする冷酷非情さ、そして剛胆さであったという他はない。

 これらの年貢増徴策により、幕府の年貢収入は、1716年から1725年までの年平均で約140万石であったのが、途中飢饉などによる収納減収のより道を経て、1744年(延享元年)に一時的に180万石を記録するほどに増加したという(同論文)。


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 第二のカテゴリーとしては、現在でいうところの「財政再建」の主に歳出に関わる改革なのだろう。まずは、代官所の経費をそれまでの口米(くちまい)で賄うのをやめ、その費用を財政から支出することに改める。


 まだある、1722年(享保7年)から1730年(享保15年)までは、「上米(あげまい)」の制度を運営する。この法令には、諸大名に対して、こうある。

 「御旗本に召し置かれ候御家人、御代々段々相増し候。 御蔵入高も先規よりは多く候得共、御切米御扶持方、其外表立ち候御用筋の渡方に引合候ては、畢竟年々不足の事に候。

 然共只今迄は所々の御城米を廻され、或ひは御城金を以て急を弁ぜられ、彼是漸く御取続の事に候得共、今年に至て御切米等も相渡し難く、御仕置筋の御用も御手支の事に候。 


 それに付、御代々御沙汰候これなき事に候得共、万石以上の面々より八木差上げ候う様に仰付けらるべしと思召し候。左候はては御家人の内数百人も御扶持召放たるべくより外はこれ無く候故、御耻辱をも顧みられず、仰出され候。


 高壱万石に付米百石の積り差上げらるべく候。且又此の間和泉守に仰付られ、随分詮議を遂げ、納り方の品、或ひは新田等取立の儀申付け候様にとの御事に候得共、近年の内に相調へがたくこれ有るべく候条、其の内年々上り米仰付らるるこれ有るべく候。


 これに依り在江戸半年充御免成され候間、緩々休息いたし候様にと仰せ出され候。」(「御触書寛保集成」)



 ここに「万石以上の面々より八木(はちぼく)壱百石積もり差し上げらるべき候。(中略)之に依り、在江戸半年充御免成され候間、緩々(ゆるゆる)休息いたし候様ニ仰せ出され候。」とあるのが、この政策の「味噌」の部分なのだろう。

 つまり石高1万石について米100石の割合で幕府の財政に上納せよ、その代償に参勤交代の際に江戸にいる期間を半年に短縮するものであった。付言すると、これには、参勤交代を緩めると、大名統制の面で色々不都合な事が起きるとの、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)の意見があったのだと伝わる。
 しかして、その後財政事情がやや好転した1730年(享保15年)には、この制度は「めでたく」御用済みとなる。


 次いで、1723年(享保8年)には、『足高の制』が設けられる、その法令には、こうあった。
 
 「享保八年六月、諸役人、役柄に応ぜざる小身の面々、前々より御役料定め置かれ下され候処、知行の高下之れ有る故、今迄定め置かれ候御役料にては、小身の者御奉公続き兼ね申すべく候。

 之れに依て、今度御吟味之れ有り、役柄により其場不相応に小身にて御役勤め候者は、御役勤め候内御足高仰付けられ、御役料増減之れ有り、別紙の通り相極め候。此旨申し渡し可き旨、仰せ出され候。

 但此度の御定の外取り来り候御役料は其侭下し置かれ候。五千石より内は、五千石高に成し下さる可く候。御側衆」(『吹塵録』)


 これはすなわち、「諸役人役柄に応ぜざる小身の面々」、つまり役人の中で与えられた役職を務めるのに禄高が少なくて見合わない者に対し、その「御役料」の足らない分を支給する「足高」を設けたものである。 要は、かかる優秀な人びとに対し、在職中のみ不足の石高を補うことで、人材の実力本位の登用をすすめようとしたのだろう。


 このように、吉宗はじめ幕府は、次々と新政策を打ち出していくのだか、それでも頭を「抱えてしまいかねない「後ろ向き」の話もある。中でも、17世紀中頃からとみに発達してきた貨幣経済は、士族を含め、一方では金銭貸借に関する訴訟を増大されてきていた。

 これについては、当事者間でなんとかならないか、そこで解決が迫られての話であり、1719年(享保8年))に出された「相対済まし令」については、こうある。

 「覚(おぼえ)
 一、近年金銀出入段々多く成り、評定所寄合の節も此儀を専ら取扱い、公事訴訟は末に罷(まかり)成り、評定の本旨を失い候。借金銀、買懸り等の儀は、人々相対 の上の事に候得ば、自今は三奉行所にて済口の取扱い致す間敷候。

 併(しか)し欲心 を以て事を巧み候出入りは、不届き糾明いたし、御仕置申し付くべく候事。

 一、只今迄奉行所にて取上げ、日切に申付け、段々済寄り候金銀の出入も、向 後罷出で間敷き由申し付くべく候事。
享保四亥年十一月」(「御触書寛保集成」)

 ところが、この法令に込められたもう一つの目論みとは、借財に追われる旗本や御家人を救おうというものであり、それなら貸さないという商人などの貸し渋りにも通じていく、そのこともあり、わずか10年後には廃止されてしまう。

 そうはいっても、武士社会の統制は、なし崩し的に緩めていいことにはなっていかなかい、そこで苦肉の策として、1740年(元文5年)に、寺社奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)ら三奉行に命じて、現代でいう刑法及び刑事訴訟法を合併しての、「御事方御定書」並びに「御定書百か条」を編集させた。

 「二十六
 一、公儀諸願其外請負事等に付而賄賂差出候もの并取持いたし候もの 軽追放
 但賄賂請候もの其品相返申出におゐてハ賄賂差出候もの并取持いたし候もの供に村役人に候にはば役儀取上平百姓ニ候ははわ過料可申付事。」(「 徳川禁令考後聚(第二帙)67 」など、上下巻での全条文数は81プラス103イコール184か条)

 これらは、従来からの慣習、判例をもとに成文化したものであり、かの「御成敗式目」からの武家政治の経緯を踏まえ、公権力をもって制定されたものである。

 この中で注目すべきは、いたずらに刑を重くするのではなく、とくに重要な犯罪以外は、連座制や拷問をやめ、また追放刑を減らして罰金刑に変えるなどした。
 とはいえ、主人への犯罪行為は従来通りの厳罰で臨むことにしている。しかして、この法令は、一般には知らされず、三奉行と京都所司代、それに大阪城代までの扱いとされた。


☆☆☆
 さらに加えての第三のカテゴリーとして、、今日でいう、広い意味での物価政策なり、社会福祉政策に通じるものがある。

 この頃の物価政策としては、主に、武家の収入源であるところの米価の維持、並びに庶民の日常生活に欠かせない物質の安定供給を促すことであった。
 それというのも、元禄期からの商品経済の発展の過程で、商人たちによる価格支配力が強まっていく。その分、幕府としては、その膝元たる江戸や、「天下の台所」たる大坂での米価と生活関連物価との関係に神経を尖らせていた。

 はたして、そのような観点のみからであったのか、どうか。それというのも、1723年(享保8年)、米価が最高値から下がり始めた直後、大岡忠相ら町奉行は、老中(ろうじゅう)に物価統制を強めるよう、意見書を提出する。

 ついては、翌年春になって、職人親方を主体とする組合の設立を命じる町触が出される。幕府として、問屋に組合結成・登録をさせることに踏みきる。かかる組合は幕府の公認団体の位置付けであり、その統制力を通じ、職人は町奉行による町人支配の一環として体制側に組み込もうとした訳だ。
 ところが、流通はかなり複雑であり、その作業はなかなか進まなかった。ようやくにして迎えた1726年(享保11年)、なんとか15品目の取扱業者の登録ができたという。とはいえ、商品別の仲間結成には至らず、これをもって「株仲間の公認」といってよいのかどうかは、わからない(なお、この辺りの詳しい経緯なりは、辻達也「徳川吉宗とその時代」NHK出版、1995に詳しい。)

 さらに、この流れの後日談としては、吉宗の次の九代将軍家重の治世になると、同組合から徴収する仲間冥加金(なかまみょうがきん)という間接税が創設されており、ひいては職人から税金を巻き上げるとることになっていく。その次の、いわゆる「田沼時代」には、名実ともの形での株仲間を使って幕府が商人の上に君臨する、いわば彼らの元締めになっていく。


 次には、拡大を続ける、江戸の民生に大きく寄与したものに、小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)による公的医療をかいつまんで紹介しよう。

 しかして、かかる分野での案件の一つとして、名判官とうたわれた大岡忠相(おおおかただすけ)は、市井(しせい)に暮らす町人らの生活が危殆に瀕さぬよう腐心していた。そんな彼は、吉宗がまだ紀州藩主の時に見出され、その後も重用される。

 1722年(享保7年)、目安箱に入っていた町医、小川笙船(16721~1760)の投書を読み、大きな感銘を受けたと伝えられる。投書の内容は、1722年に小石川薬草園内に造られた小石川養生所が町奉行所管となったことに関するものであった。これを南町奉行職にあった大岡が担当するところとなり、貧困病人を中心に収容し治療を行う施設として管理、運営していく。

 ヨーロッパの病院が、教会、僧院から出発したのに比べると、こちらは時の政府の政策として展開したもの。ついては、わが国の病院制度の始まりであり、世界的にもさきがけの部類に入る、この国最初の公立病院ともいわれる。


 この方面での話は、まだあるのだろう。1720年(享保5年)には漢訳洋書輸入の緩和が、1721年(享保6年)には目安箱の設置が相次いで行われる。この二つが社会を明るくする可能性は少なからず、庶民に大いに期待されたであろうことは、想像に難くあるまい。とはいえ、その運用については、実績が規定に基づき記録されているわけではなく、「ちゃんとした」というか、然るべき政策として某かの期間通用したことにはなっていないように感じられる。



 ざっと、およそ以上のような多岐にわたる政策展開なのだが、当事者の一角としての幕閣は、どのような基本認識をもって一般庶民に当たっていたのだろうか。それを窺わせるものに、当代の経世の家の一人、本多利明はこういう。

 「田畑に際限あり、出産の米穀に亦際限あり、年貢租税に亦際限あり、其残りの米穀も亦際限あり、其際限ある米穀を以て、下万民の食用を達するを、士・工・商・僧・遊民、日を追、月を追、増殖するゆへ国用不足となる。
 是に於て是非無くも猾吏を選挙して農民を責め虐るより外の所業なし。終に過租税を取り、課役を掛るに至るなり。
 是に於て農民堪えかね、手余地と名け良田畑としれど亡処と為て、租税の減納を謀るなり(中略)斯なり行く勢ゆへに、出生の子を間引ことは扨置き、餓死人も出来する筈なり。
 斯の如く理道明白なるものを、神尾氏(1737年からしばらく勘定奉行として、辣腕を、ふるう・引用者)が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり、といへり。不忠・不貞いふべき様なし。
 日本へ漫る程の罪人共云べし。此の如きの奸曲成邪事は消失がたきものにて、渠が時の尹たる享保度の御取箇辻を以て、当時の規鑑となるは歎敷に非ずや。故に猶農民の詰りと成り、猶間引子するを恥辱とせず。
 次第に農民減少する故、租税も又減少するなり。租税減少する故、庶子も又貧窮するなり。ここに於て間引子の悪癖萌して次第に迷とせんとす。是又悪騒の萌と成なり。是、治乱・存亡・興廃の因てでる境界なり。」(本多利明「西域物語」)

 あわせて、当世の世間での評価はどうだったのかについては、「良い」ものが少なく、吉宗が彼らの視点でもって「名君」であったのかどうかを見極めるのは、かなり難しいのではないだろうか。ここでは、その中でも辛めのものを拾うと、例えばこうある。

 「「上げ米と、いへ上げ米は、気に入らず、金納ならば、しゞうくろふぞ。

 旗本に、今ぞ淋しさ、まさりけり、御金もとらで、暮すと思へば。
 
 物揃。上のおすきな物、御鷹野と下の難儀。毒にも薬にもならぬもの、さゆと戸田山城守。死でも人の惜まぬ物、鼠取らぬ猫と井上河内守。
 無理で人を困らせる物、生酔と水野和泉守。ふだん責めらるゝ物、無間地獄の罪人と小役人。すたり切ッた物、武士の道と太夫格子。なげきかなしむ物、諸人万人。」(「享保世話」、1722~1725をカバーしての、江戸庶民の世間話を集めたもの、著者と成立年代はともに不明)


(続く)


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