178『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の資本家(大商人の成長、三井など)
幕府草創期から歳が重なるにつれ、商業や金融業はしだいに発展の度合いをつよめつつあった。幕府による「公金(江戸)為替」においては、大坂城御金蔵を幕府財政に送金するための手段で、御用両替商が介在する。これを三井の例でいうと、井原西鶴の『日本永代蔵』にこう紹介されている。
「商ひの道はある物、三井九郎右衛門(正しくは三井八郎右衛門・引用者)といふ男、手金の光むかし小判の駿河町と云所に、面九間の四十間に棟高く長屋作りして、新棚を出し、万(よろず)現銀売にかけねなしと相定め、四十余人利発手代を追まはし、一人一色の役目、たとえば金襴類一人、日野郡内絹類一人、羽二重一人、紗綾類一人、麻袴類一人、紅類一人、麻袴類一人、毛織類一人、此のごとく手わけをして天鵞絨一寸四方、緞子毛貫袋になる程、緋繻子、鑓印長、竜門の袖覆輪かたかたにても物の自由に売り渡しぬ。
殊更俄目見えの熨火目、いそぎの羽織などは其使をまたせ数十人の手前細工人立ちならび、即座に仕立てこれを渡しぬ。
さによって家栄え毎日金子百五十両づつならしに商売しげるとなり。世の重宝是ぞかし。此の亭主を見るに、目鼻手足あって、外の人にかはった所のなく、家職にかはってかしこし。大商人の手本なるべし。」(「日本永代蔵」)
ここにある三井の店の繁盛ぶりは有名であったが、その飛躍的発展を導いたのが、三井八郎兵衛高利による、例えば「万現銀売にかけねなしと相定め」と紹介するような、奇抜な商法なのであった。西鶴が、これを駆使している三井流商売の有り様を、「大商人の手本なるべし」と最大級に持ち上げ、事細かに述べていて、なかなかに興味深い。
その高利は、1622年(元和8年)、松阪の酒屋であり質屋である店の8人兄弟の末子として生まれた。1652年(承応2年)、屋敷地を本家とは別に購入して独立し、金融業と商業を手掛ける。金融業では、大名やその家中に対する貸付にとどまらず、農村に対する抵当をとっての貸付にも手を染めた。商いでは、米の売買を行う。
52歳からの高利は、江戸と京都への呉服の出店を決意する。1673年(延宝元年)に店を開いた時、掲げた暖簾の名前は、「越後屋八郎右衛門」であった。高利は、店前売という新しい販売を始めた。その取引は、現金売りであり、薄利多売をめざすものとなる。商売繁盛のため、京都の仕入店も拡張されていく。
1683年(元和3年)頃、その三井が江戸市中に配った木製の引札(現代で言う広告ちらし)には、こう書かれていた。
「駿河町(するがちょう)越後屋八郎右衛門申上げ候。今度私工夫を以て、呉服物何に依らず、格別下直(げじき)に売出し申し候間、私店え御出で御買下さるべく候。尤(もっと)も手前割合勘定を以て売出し候上は、一銭にても、空直(そらね)申上げず候間、御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候。勿論代物は、即座に御払下さるべく候。一銭にても延金(のべきん)には仕らず候。以上」(「稿本三井家史料」)
この文中に「空直(そらね)」とあるのは、相場よりずっと高くつけてある値段なので、「御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候」、つまり値引きはしないとこう公約した。続いて「一銭にても延金(のべきん)には仕らず候」とあることから、代金は現金で行い、後日の代金決済にはしないことも宣言した。
1687年(貞享4年)になると、三井は江戸の従来の呉服店の向かい側に綿店を新設した。関東一円で綿や木綿、それに絹織物を買い集め、これまだ薄利多売で活発な商いを行う。1691年(元禄4年)になると、大坂に呉服店を開店した。
1683年(天和3年)、江戸の呉服店の隣に、三井の江戸両替店を開く。1686年(貞享3年)には、高利は家族を引き連れ、松阪から京都に住まいを移した。1689年(元禄2年)、彼は江戸の本両替仲間への加入が認められる。これは、大坂でいえば十人両替に当たるもので、これで特別の格式の両替商に就任したことになる。彼は、その勢いに乗って京都、そして大坂へと商売の拠点を拡充していくことになる。
1691年(元禄4年)の彼は、大坂高麗橋一丁目に、江戸両替店の出店としての、大坂両替店を開設するに至り、ここに中継地としての京都を挟んで、東西に両替商としての商売の体制が整ったことになる。
この両替屋の商売の相手先は、主に幕府の勘定方と諸藩であった。武士階級からは、公金為替を請け負うようになっている。これは、天下の台所である大坂から消費地であり、政治の中枢である江戸への送金を頼まれるものだ。
大坂の両替店では、幕府から依頼された送金用の金銭、つまり幕府の大坂での公金を渡されると、江戸に取引のある問屋商人に貸し付ける。その際には、複数の手形に分割して貸し付けるのだ。両替商は、その商人からは「確かに受け取りました」という支払い用の為替手形を受け取る。この支払用の手形は、「下為替」(したかわせ)と呼ばれる。
両替商は、それを江戸に送って、江戸では、彼らと取引のある江戸の商人から代金を取り立て、その現金をもって大坂の両替商に代わって幕府に納付するのである。これだと、江戸から大坂への商品代金の送金と、大坂から江戸へ向かっての公金輸送とが、うまい具合に相殺されることになっている。
ところで、井原西鶴は、1642年(寛永19年)に、大坂の中流町人の家に生まれた。1688年(貞享5年、元禄元年)に著した『日本永代蔵』にて、町人の心意気する持論を展開した。その「巻一 初午(はつむま)は乗て来る仕合(しあはせ)」には、こうある。
「天道言(ものいは)ずして、国土に恵みふかし。人は実あつて、偽(いつは)りおほし。其心ンは本(もと)虚にして、物に応じて跡なし。是(これ)、善悪の中に立(たつ)て、すぐなる今の御ン代を、ゆたかにわたるは、人の人たるがゆへに、常の人にはあらず。一生一大事、身を過(すぐ)るの業(わざ)、士農工商の外(ほか)、出家、神職にかぎらず。始末大明神の御詫宣にまかせ、金銀を溜(たむ)べし。是、二親の外に、命の親なり。人間、長くみれば、朝(あした)をしらず、短くおもへば、夕(ゆふべ)におどろく。
されば天地は万物の逆旅(げきりよ)。光陰は百代(はくたい)の過客、浮世は夢といふ。時の間(ま)の煙、死すれば何ぞ、金銀、瓦石(ぐはせき)にはおとれり。黄泉の用には立(たち)がたし。然りといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。」
おりしも、1683年(天和3年)には、三井高利が駿河町で「現銀掛け値なし」の商法を始めていた。それは、時代は商人文化が咲き出した頃のことである。そこで、物語の主人公はいよいよ根本道場に立ち入り、次のように言ってのける。
「ひそかに思ふに、世に有程の願ひ、何によらず、銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有。それより外はなかりき。是にましたる宝船の有べきや。見ぬ嶋の鬼の持(もち)し隠れ笠、かくれ簔も、暴雨(にはかあめ)の役に立(たゝ)ねば、手遠きねがひを捨(すて)て、近道に、それぞれの家職をはげむべし。福徳は、其身の堅固に有。朝夕、油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。是、和国の風俗なり。」
ここに言われているのは、生・老・病・死・苦以外のことは全部、何とでもなる、つまりうまくいくと言うのである。これは、武家支配の時代で農・工とともに下位に置かれていた商人としては、随分と思い切った発言だと言わねばならない。
これの時代背景としては、西鶴が生まれた年より6年前の1636年(寛永13年)、幕府は中国から輸入していた永楽通宝(永楽銭)に代わるものとして、寛永通宝の鋳造が始まったことがある。この寛永通宝の流通が始められたことによって、金・銀貨を本位貨幣、銭を補助貨幣とする貨幣制度が確立していったのである。
さて、この本には、巻五の第五「三匁五分 曙の金」において、津山の蔵合屋(ぞうごうや)という豪商のことが出てくる。蔵合屋は、津山の二階町に9つもの蔵を持っていた豪商ということになっている。同家の元は院庄で代々酒造業を営んでいたのが、森長政による城造りの際に津山市街に移ってきたらしい。いつの頃からか、藩から与えられた、津山城下町の町方の行政を担う役である。大年寄と、各町内に置かれた町年寄とある中で、大年寄の方は全部で5人のうち2人は見習いであって、蔵合家の蔵合孫左右衛門は藩政初期の大年寄の筆頭、三十人扶持を与えられたことがわかっている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆
幕府草創期から歳が重なるにつれ、商業や金融業はしだいに発展の度合いをつよめつつあった。幕府による「公金(江戸)為替」においては、大坂城御金蔵を幕府財政に送金するための手段で、御用両替商が介在する。これを三井の例でいうと、井原西鶴の『日本永代蔵』にこう紹介されている。
「商ひの道はある物、三井九郎右衛門(正しくは三井八郎右衛門・引用者)といふ男、手金の光むかし小判の駿河町と云所に、面九間の四十間に棟高く長屋作りして、新棚を出し、万(よろず)現銀売にかけねなしと相定め、四十余人利発手代を追まはし、一人一色の役目、たとえば金襴類一人、日野郡内絹類一人、羽二重一人、紗綾類一人、麻袴類一人、紅類一人、麻袴類一人、毛織類一人、此のごとく手わけをして天鵞絨一寸四方、緞子毛貫袋になる程、緋繻子、鑓印長、竜門の袖覆輪かたかたにても物の自由に売り渡しぬ。
殊更俄目見えの熨火目、いそぎの羽織などは其使をまたせ数十人の手前細工人立ちならび、即座に仕立てこれを渡しぬ。
さによって家栄え毎日金子百五十両づつならしに商売しげるとなり。世の重宝是ぞかし。此の亭主を見るに、目鼻手足あって、外の人にかはった所のなく、家職にかはってかしこし。大商人の手本なるべし。」(「日本永代蔵」)
ここにある三井の店の繁盛ぶりは有名であったが、その飛躍的発展を導いたのが、三井八郎兵衛高利による、例えば「万現銀売にかけねなしと相定め」と紹介するような、奇抜な商法なのであった。西鶴が、これを駆使している三井流商売の有り様を、「大商人の手本なるべし」と最大級に持ち上げ、事細かに述べていて、なかなかに興味深い。
その高利は、1622年(元和8年)、松阪の酒屋であり質屋である店の8人兄弟の末子として生まれた。1652年(承応2年)、屋敷地を本家とは別に購入して独立し、金融業と商業を手掛ける。金融業では、大名やその家中に対する貸付にとどまらず、農村に対する抵当をとっての貸付にも手を染めた。商いでは、米の売買を行う。
52歳からの高利は、江戸と京都への呉服の出店を決意する。1673年(延宝元年)に店を開いた時、掲げた暖簾の名前は、「越後屋八郎右衛門」であった。高利は、店前売という新しい販売を始めた。その取引は、現金売りであり、薄利多売をめざすものとなる。商売繁盛のため、京都の仕入店も拡張されていく。
1683年(元和3年)頃、その三井が江戸市中に配った木製の引札(現代で言う広告ちらし)には、こう書かれていた。
「駿河町(するがちょう)越後屋八郎右衛門申上げ候。今度私工夫を以て、呉服物何に依らず、格別下直(げじき)に売出し申し候間、私店え御出で御買下さるべく候。尤(もっと)も手前割合勘定を以て売出し候上は、一銭にても、空直(そらね)申上げず候間、御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候。勿論代物は、即座に御払下さるべく候。一銭にても延金(のべきん)には仕らず候。以上」(「稿本三井家史料」)
この文中に「空直(そらね)」とあるのは、相場よりずっと高くつけてある値段なので、「御直(おね)ぎり遊ばされ候ても、負けは御座なく候」、つまり値引きはしないとこう公約した。続いて「一銭にても延金(のべきん)には仕らず候」とあることから、代金は現金で行い、後日の代金決済にはしないことも宣言した。
1687年(貞享4年)になると、三井は江戸の従来の呉服店の向かい側に綿店を新設した。関東一円で綿や木綿、それに絹織物を買い集め、これまだ薄利多売で活発な商いを行う。1691年(元禄4年)になると、大坂に呉服店を開店した。
1683年(天和3年)、江戸の呉服店の隣に、三井の江戸両替店を開く。1686年(貞享3年)には、高利は家族を引き連れ、松阪から京都に住まいを移した。1689年(元禄2年)、彼は江戸の本両替仲間への加入が認められる。これは、大坂でいえば十人両替に当たるもので、これで特別の格式の両替商に就任したことになる。彼は、その勢いに乗って京都、そして大坂へと商売の拠点を拡充していくことになる。
1691年(元禄4年)の彼は、大坂高麗橋一丁目に、江戸両替店の出店としての、大坂両替店を開設するに至り、ここに中継地としての京都を挟んで、東西に両替商としての商売の体制が整ったことになる。
この両替屋の商売の相手先は、主に幕府の勘定方と諸藩であった。武士階級からは、公金為替を請け負うようになっている。これは、天下の台所である大坂から消費地であり、政治の中枢である江戸への送金を頼まれるものだ。
大坂の両替店では、幕府から依頼された送金用の金銭、つまり幕府の大坂での公金を渡されると、江戸に取引のある問屋商人に貸し付ける。その際には、複数の手形に分割して貸し付けるのだ。両替商は、その商人からは「確かに受け取りました」という支払い用の為替手形を受け取る。この支払用の手形は、「下為替」(したかわせ)と呼ばれる。
両替商は、それを江戸に送って、江戸では、彼らと取引のある江戸の商人から代金を取り立て、その現金をもって大坂の両替商に代わって幕府に納付するのである。これだと、江戸から大坂への商品代金の送金と、大坂から江戸へ向かっての公金輸送とが、うまい具合に相殺されることになっている。
ところで、井原西鶴は、1642年(寛永19年)に、大坂の中流町人の家に生まれた。1688年(貞享5年、元禄元年)に著した『日本永代蔵』にて、町人の心意気する持論を展開した。その「巻一 初午(はつむま)は乗て来る仕合(しあはせ)」には、こうある。
「天道言(ものいは)ずして、国土に恵みふかし。人は実あつて、偽(いつは)りおほし。其心ンは本(もと)虚にして、物に応じて跡なし。是(これ)、善悪の中に立(たつ)て、すぐなる今の御ン代を、ゆたかにわたるは、人の人たるがゆへに、常の人にはあらず。一生一大事、身を過(すぐ)るの業(わざ)、士農工商の外(ほか)、出家、神職にかぎらず。始末大明神の御詫宣にまかせ、金銀を溜(たむ)べし。是、二親の外に、命の親なり。人間、長くみれば、朝(あした)をしらず、短くおもへば、夕(ゆふべ)におどろく。
されば天地は万物の逆旅(げきりよ)。光陰は百代(はくたい)の過客、浮世は夢といふ。時の間(ま)の煙、死すれば何ぞ、金銀、瓦石(ぐはせき)にはおとれり。黄泉の用には立(たち)がたし。然りといへども、残して、子孫のためとはなりぬ。」
おりしも、1683年(天和3年)には、三井高利が駿河町で「現銀掛け値なし」の商法を始めていた。それは、時代は商人文化が咲き出した頃のことである。そこで、物語の主人公はいよいよ根本道場に立ち入り、次のように言ってのける。
「ひそかに思ふに、世に有程の願ひ、何によらず、銀徳にて叶はざる事、天が下に五つ有。それより外はなかりき。是にましたる宝船の有べきや。見ぬ嶋の鬼の持(もち)し隠れ笠、かくれ簔も、暴雨(にはかあめ)の役に立(たゝ)ねば、手遠きねがひを捨(すて)て、近道に、それぞれの家職をはげむべし。福徳は、其身の堅固に有。朝夕、油断する事なかれ。殊更、世の仁義を本(もと)として、神仏をまつるべし。是、和国の風俗なり。」
ここに言われているのは、生・老・病・死・苦以外のことは全部、何とでもなる、つまりうまくいくと言うのである。これは、武家支配の時代で農・工とともに下位に置かれていた商人としては、随分と思い切った発言だと言わねばならない。
これの時代背景としては、西鶴が生まれた年より6年前の1636年(寛永13年)、幕府は中国から輸入していた永楽通宝(永楽銭)に代わるものとして、寛永通宝の鋳造が始まったことがある。この寛永通宝の流通が始められたことによって、金・銀貨を本位貨幣、銭を補助貨幣とする貨幣制度が確立していったのである。
さて、この本には、巻五の第五「三匁五分 曙の金」において、津山の蔵合屋(ぞうごうや)という豪商のことが出てくる。蔵合屋は、津山の二階町に9つもの蔵を持っていた豪商ということになっている。同家の元は院庄で代々酒造業を営んでいたのが、森長政による城造りの際に津山市街に移ってきたらしい。いつの頃からか、藩から与えられた、津山城下町の町方の行政を担う役である。大年寄と、各町内に置かれた町年寄とある中で、大年寄の方は全部で5人のうち2人は見習いであって、蔵合家の蔵合孫左右衛門は藩政初期の大年寄の筆頭、三十人扶持を与えられたことがわかっている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆