🔶341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

2022-02-28 20:19:02 | Weblog
341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

 15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
 まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
 もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
 当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
 当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
 その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
 彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
 奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
 「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
 しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
 これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。

(続く)

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🔶339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

2022-02-28 17:22:39 | Weblog
339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

 1864年に入っての6月、逃亡奴隷取締法が廃止される。10月、ネヴァダ州が連邦に加入する。11月、リンカーン大統領が再選される。1865年の初めのリンカーンの第二期大統領就任演説には、こうある。

 「総人口の八分の一は黒人奴隷でありましたが、連邦全体に分布しておらず、連邦の南部にだけ存在していました。これらの奴隷をもとにして独特の強力な利害関係(黒人奴隷制度)が作られました。この利害関係がともかく戦争の原因であることはすべての人が知っていました。反乱者たちが戦争にうったえてまでも連邦を分裂させようとしたのは、この利害関係を強め永続させ拡張することが目的でした。しかし、他方連邦政府はそれが領地内に拡大するのを抑制しようとしたほかは何の権利も主張しませんでした。双方とも戦争がここまで大きくなり長期化するとは予測していませんでした。」(同)

 4月9日、グラント将軍に追われていた南部の主力、リー将軍の率いる軍隊が降伏する。4月14日、リンカーン大統領が暗殺され、翌日死亡したことから、副大統領のジョンソンが大統領に就任する。5月、アメリカ連邦(南部連邦)大統領デーヴィスが逮捕・拘禁される。5月26日、最後の南軍が降伏し、南北戦争が終結した。この戦争で死亡した将兵は、62万3千人に達していた。南部連合は4年目にして消滅することになった。残された課題は、南部11州をどのようにして連邦制に復帰させるかになっていく。12月、合衆国は憲法修正を行い、奴隷制廃止を規定した。
 1866年2月 フランス皇帝ナポレオン3世にメキシコからの撤退を要求する最後通牒を手渡す。4月、黒人の権利擁護をはかる公民権法が制定される。7月には、テネシー州が連邦に復帰する。1867年 3月、ネブラスカ州が連邦に加入する。1868年6月、アーカンソー州が連邦に復帰した。11月、共和党のグラントが第18代大統領に選出される。1869年5月には、大陸横断鉄道が完成する。12月、ワイオミング準州でアメリカ最初の婦人参政権法が制定される。
 1870年1月、ヴァージニア州が連邦に復帰する。2月23日、ミシシッピ州が連邦に復帰する。3月、憲法修正が批准され、白人と黒人の公民権の平等が規定される。7月、テキサス州、ジョージア州が相次いで連邦に復帰したことで、南部諸州の連邦復帰が完了した。1872年11月、グラント大統領が再選される。1873年9月、「1873~79年恐慌」が勃発する。「世界恐慌」ガアメリカにも押し寄せた形だ。ジェイ・クック商会が倒産するなどの激震が走り、南北戦争後から続いていた景気拡大が止まる。1875年1月30日、ハワイとの通商互恵条約締結される。1876年 8月には、コロラド州が連邦に加入する。
 ところで、前の南北戦争で奴隷制の廃止を訴えた北部が南部11州に勝利し、黒人に市民権が与えられたのであったが、彼らの前途は多難なものであった。1896年に最高裁が白人と黒人との隔離政策を容認すると、南部諸州では「ジム・クロウ制度」呼ばれる様々な黒人隔離策がまかり通るようになっていく。要するに、公共の場でも、黒人は白人と同じ場、同じ場所、同じ席にはいられないような差別的取り扱いが社会に広がっていった。こうしたアメリカ国民の生活全般に亘る激しい差別は1964年に導入される公民権法成立まで続いていく。

(続く)

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🔶338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

2022-02-28 17:20:00 | Weblog
338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

 1849年2月にはカリフォルニアでゴールド・ラッシュ始まり、以後、ヨーロッパの大動乱を逃れた人々のアメリカへの移民も激増していく。1850年9月、カリフォルニア州が、自由州として連邦に加入を果たす。1851年2月、ボストンで逃亡奴隷取締法に反対する黒人運動が始まる。12月30日、現在のニュー・メキシコ州とアリゾナ州南部をメキシコより購入、メキシコとの国境が画定する。
 1854年 5月30日、カンザス・ネブラスカ法が成立し、新領地での南北両派の対立が煽られる。7月6日、共和党が正式に発足する。1856年5月、奴隷制支持派が反対派を殺害したりで、騒乱が続く。これを「流血のカンザス事件」という。1857年には、合衆国最高裁判所によりドレッド・スコット事件の判決が出される。発端は、この事件の名のミズーリ州の黒人奴隷が主人に連れられて、イリノイ州に来たことで、彼は晴れて自由の身となった。自由州及びミズーリ協定で奴隷制が禁じられた領地に居住することになったと主張した。ところが、同判決はこの主張を認めず、奴隷制支持派に力を与えた。トーニー判事による判決文には、こうある。

 「今や・・・・・奴隷に対する財産権は憲法において明確に容認されている。ふつうの商品や財産の物件と同様に奴隷の貿易をする権利も(憲法制定後)20年間はそれを欲するあらゆる州において合衆国市民に保証されていた。そして連邦政府は、奴隷が所有主から逃亡したならば、それ以後いつまでもそれを保護することを明確な言葉で約束している。」(大下尚一他編「メイラワーから包括的通商法まで、史料が語るアメリカ1584~1988」有斐閣、1989)
 1858年に入った5月、ミネソタ州が連邦に加入する。1859年2月、オレゴン州が連邦に加入する。10月16日、ジョン・ブラウンがヴァージニア州で奴隷解放を標榜してハーバーズ・フェリーを襲撃した。
 1860年11月の大統領選挙で、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選し、翌年の3月に合衆国大統領に就任することに決まる。リンカールの勝利に、南部では衝撃が走った。12月には、サウス・カロライナ州が連邦脱退を決議する。1861年1月、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が相次いで連邦を脱退する。これらのうち「サロスカロライナ州連邦離脱理由の宣言」には、こうある。

 「きたる3月4日、この政党は政権を握ることになる。その政党は南部はすべての新しい公有地から閉め出されなくてはならないし、裁判所はもっと地域的偏向を強めるべきであり、奴隷制に対する戦いは合衆国全域でそれが死滅するまで戦われ続けられなければならないと宣言した。憲法による保障はもはや期待しえない。州の間の平等の権利は失われてしまうであろう。奴隷所有州はいまや自治権や自衛権を失うことになり連邦政府はそれらの州の敵となるであろう。地域的利害と敵意はますます深刻なものとなっていくであろう。和解への望みは、北部の世論が間違った宗教的信念に凝り固まって、大きな政治的錯誤におちいっていることによって虚しいものとなった。」(同)

 同年2月、連邦を脱退した南部7州がアメリカ連邦(南部連邦)を結成する。ジェファーソン・デーヴィスがアメリカ連邦(南部連邦)大統領に選出される。4月には、南北戦争が勃発する。これに先立ち、南部連合に加わったスウス・カロライナ州が州内にあった連邦側のサムター要塞を攻撃した。これに対し、リンカーン大統領は現地に救援軍を差し向け、これが引き金となって開戦に至った。当時の連邦・北部勢力の規模は、23州で人口は約2100万人であったのに比べ、南部連合内には白人が550万人と、かれらの支配下に置かれる黒人奴隷が約350万人いた。
 リンカーンは、開戦と同時に南部海岸線の封鎖を命令する。南部では、黒人奴隷を使っての綿花栽培のプランテーションが行われていた。プランテーションとは、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた、単一の特産的農産物を大量に生産する農園経営のことをいう。南部産の綿花の主な輸出先は、イギリス、フランスなどの欧州向けであった。5月~6月、アーカンソー州、ノース・カロライナ州、テネシー州の4州が相次いで連邦を脱退する。1862年4月、コロンビア行政区で奴隷解放令が実施される。同年の8月22日付け、リンカーンのホレス・グリーリー宛て書簡には、奴隷制に対する彼の微妙な立場が吐露されている。

 「もし奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。また、もしもすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるものならば、私はそうするでしょう。また、もし奴隷の一部を自由にし、他は放置するすることで救えるならば、やはり私はそうするでしょう。私が奴隷制度や黒人種について何かをするとすれば、それは、そうすることがこの連邦を救うのに役立つと信じているからなのです。(中略)以上、公的な義務に対する私の見解に従って私の目的とするところを述べました。」(同)

 当時のリンカーンと政府の念頭にあったのは、この内戦に勝利して南部の連邦からの分離独立を阻止することであって、奴隷制の問題はこの主要目的を果たすために、そのかぎりにおいて考えられていたのである。
 1862年9月にイギリスが南部政府承認の気配を見せると、9月22日、合衆国大統領は軍総司令官の権限で、63年1月1日を期して、奴隷解放宣言を出し、占領地域の奴隷の身分を解放することを布告で明らかにする。それには、「1863年1月1日において、合衆国に対して反乱の状態にある州、もしくは州の一部が反乱状態にあると見なされる地域で例として所有されているすべての人びとはその日以後永久に自由を与えられる」とあった。そして迎えた1863年1月、リンカーンの主張が議会で通った形での奴隷解放宣言が発効する。これにより、イギリスなどによる南部政府の承認を阻んだ。ここに、戦争は、南部の分離独立阻止の戦いから、より広範なアメリカン・デモクラシーと社会変革のための戦いへと性格を変える事になる。高い理想を帯びるに至った北軍の進撃には、迫力が増していった。
 また、この頃の戦闘と直接に関係しないものながら、西部開拓と自営農民化に力を与えようとしたものに、合衆国公有地割譲の条件緩和があった。これより前、合衆国政府が管理する公有地を民間に払い下げる場合は、一区画が大きな面積で行われていたため、これを買うには富裕者や土地転売を目論む不動産業者に有利であった。そんな中、西部への移住者が増えるに従い、公有地をより小さい単位で払い下げてほしいとの要求が高まった。
 その流れは、「1841年先買権法」を経て次第に高まり、ついに1862年、5年間の現地居住と開墾耕作を条件に、160エーカー(1エーカーは約1224坪)分の公有地の無償付与することを定めた「1862年自営農地法」がつくられた。これにより、基本的には、「1863年1月1日以降、一区画として存在し、公有地の正式な分割法に合致し、測量の完了した土地であって、同人がすでに先買権の請求を行っているか、あるいは申請時において1エーカー1ドル25セントまたはそれ以下の価格で先買権の対象とされている4分の1セクション(160エーカー)またはそれ以下の面積の未占有の公有地、あるいはまた1エーカー2ドル50セントの価格で先買権の対象とされている80エーカーまたはそれ以下の未占有の公有地に入植する権利を認められる」(同)ことになった。
 そして迎えた1963年6月、ウェスト・ヴァージニア州が連邦に加入する。7月1~3日にはゲティスバーグで両軍が激突した。ミシシッピ川は、全域にわたって北部、すなわちアメリカ合衆国の支配下に入った。1863年11月19日、リンカーン大統領のゲティスバーグ演説(Gettysburg Address、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において)があった。その初めには、「4世代と7年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、自由の理念から生まれ、全ての人が平等に創られているという命題に捧げられた一つの新しい国を生み出しました」と建国の往時を振り返りつつ、その結語では「人民の、人民による、人民のための政治」を共につくりだすことを訴えた。

(続く)

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🔶340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

2022-02-28 17:16:51 | Weblog
340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

 はじめに、アメリカの南北戦争が開始された当時の奴隷制の実体について、大まかに掴んでいただきたい。1860年の国政調査の結果があって、それにはこうある。

 「1.サウスカロライナ州、自由人301,271人、奴隷402,541人、総人口703,812人、奴隷人口比率57.2%。
2.ミシシッピ州、自由人354,700人、奴隷436,696人、総人口791,396人、奴隷人口比率55.1%。
3.ルイジアナ州、自由人229,164人、奴隷435,132人、総人口964,296人、奴隷人口比率45.1%。
8.バージニア州、自由人1,105,192人、奴隷490,887人、総人口1,596,079人、奴隷人口比率30.7%。
9.テキサス州、自由人421,750人、奴隷180,682人、総人口602,432人、奴隷人口比率30.0%。
合計(15州)、自由人8,289,953人、奴隷3,950,343人、総人口12,240,296人、奴隷人口比率32.2%。
(出典:エドウィン・ハーグ・シャイマー「奴隷人口地図ーアメリカ合衆国南部諸州(Slave Population kf the Southern States of the US )」リトグラフ(66cm×84cm)、1889を紹介し引用しているのは、ジェリー・ブロットン著、斎藤公太他訳『新世界地図』河出書房新社、2015。なお、原データは“Census of 1860”。)

 このジェリー・ブロットンの著によれば、「南部諸州では平均して人口の30%以上が奴隷だった」とされる。

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 その後の経過についても、以下に簡単に触れておこう、南北戦争中の1863年1月には、緊急に奴隷解放宣言を出したものの、この時は当時の北軍の支配圏内にいる黒人奴隷を解放するものではなかった。前述のようにその文面は「1863年1月1日に、合衆国に対し謀反(むほん)の状態にある州あるいは州の指定地域の内に奴隷として所有されているすべての人は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる。」(邦訳は、小川寛大「南北戦争ーアメリカを二つに裂いた内戦」中央公論新社、2020)となっていたのだが、それは一過性のものとなってしまう可能性があった。
 そこで包括的なものとするべくリンカーン政権(共和党)は、1865年1月31日に、憲法修正第13条を議会で成立させた。そこには、「奴隷制および本人の意に反する苦役は、適正な手続きを経て有罪とされた当事者に対する刑罰の場合を除き、合衆国内またはその管轄に服するいけなる地においても存在してはならない。」(前掲書での訳文)と定めてある。

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 なお、南北戦争に込めた南部連合の思惑なり、狙いについては、どんなであったのだろうか。顧みると、南北戦争の開戦前のアメリカの州の数としては34州であった、そのうちの南部の13州については黒人奴隷を使っての、綿花栽培を始めとしたプランテーション経営を多分に行うようになっていた。当時イギリスに住んでいて、国際労働者協会の立場でアメリカ政治を見守っていたマルクスは、国を北部(人口は約2200万人)から分かとうとするアメリカ南部(約900万人)の狙いを、こう指摘している。

 「南部における本来的な奴隷所有者の数は、30万人をこえない。それは少数者の寡頭支配であって、それにたいしては幾百万の、いわゆる「貧乏白人」が対立しており、その数は土地所有の集中によってたえず増大し、その状態はローマの最も衰退した時代の平民のそれとのみ比較しうるほどのものである。」(マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年10月25日付け)への寄稿より)

 引き続き、マルクスは次のように述べている。
 「奴隷所有者の党にとっては、彼らがこれまでに支配してきた地域を一つの自立的な諸州連合に統合し、連邦の上級権力から脱却することのみが問題であると、こう世間では信じている。これほどひどい誤りはない。(中略)分離主義者たちはケンタッキーになだれ込んだ。彼らはその「全領域」なるもののうちに、まず第一に、デラウェア、メリランド、ヴァージニア、ノース・カロライナ、ケンタッキー、テネシー、ミズーリ及びアーカンソーの、いわゆる「境界諸州」すべてをふくませている。(中略)いわゆる境界州はすべて、南部連合領有のものを含め、断じて本来的な奴隷州ではない。それらはむしろ、奴隷制度と自由労働制度が並んで存在し、支配権を目指して闘争している合衆国の領領域なのであり、南部と北部のあいだの本来的な戦いの場となっている。このように、南部連合の戦争は断じて防衛のための戦争ではなく、どちらかというと、侵略戦争、奴隷制の拡大とその永続のための侵略戦争なのである。」(カール・マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年11月7日付け)への寄稿より)


(続く)

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🔶1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

2022-02-28 09:06:20 | Weblog
1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

 中国においては、2021年秋以降、新型コロナウイルスの感染再拡大で一人の移動制限が強化されたこと、電力危機、運輸面や環境対応などからの隘路(エネルギーなど)も含めて財、サービスの生産、消費が減速。原材料価格の高騰も加わり、大企業だけでなく、中小企業の収益が悪化しているとのこと。

 2021年12月15日には、中国人民銀行が、当日から企業の資金繰りを助ける名目で、銀行の預金準備率を0.5ポイント引き下げた。

 だが、それからも、同月20日には、中国人民銀行は、今度は、銀行が貸し出す際の指標となる政策金利LPR(最優遇貸出金利)の1年物(企業向け)の金利を0.05ポイント引き下げて3.8%とした。政策金利の利下げは、2020年4月以来1年8カ月ぶりのこと。一方、住宅ローンの指標となる5年物については4.65%で据え置いた。
 明けて2022年2月17日には、2021年10~12月のGDP(国内総生産)が発表され、実質成長率前年同期比4%増へと伸びが鈍化した。同日にはまた、中国人民銀行が、約2年ぶりとなるMLF(中期貸出制度)金利の引下げを行った。

(続く)

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🔶202『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ諸都市の自治(ヴェネツィア、ジェノバ、アムステルダムなど)

2022-02-26 21:49:14 | Weblog
🔶202『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ諸都市の自治(ヴェネツィア、ジェノバ、アムステルダムなど)

 現在のヴェネツィア(ベネツィア)は、イタリアの北部ヴェネト(ベネト)州の州都だ。アドリア海のラグーン(ラグーナ)と呼ばれる干潟(ひがた)に浮かぶ118もの島々からなるという。
 その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
 このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
 その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
 「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
 こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。

 「しかもヴェネーツィアは、17世紀前半において、いくつかの国際的紛争をある程度成功裡に収拾するだけの力を残していた。ことに反宗教改革の波がイタリアを風靡(ふうび)するなかで、国内の教会のことに関して教皇の干渉を許さない独自の立場を保持していた。17世紀初頭にヴェネーツィア政府が宗教機関の不動産取得を制限し、また、二人の聖職者を処罰したことに発して、かねてからヴェネーツィアに教権の確立をねらう教皇庁とのあいだに紛争がおこったとき、スペインの支持を得た教皇パウルス五世は、1606年ヴェネーツィアを破門したが、これに対しヴェネーツィア政府は、改革派の聖職者サルビの指導下に完全と対抗し続けた。」(同)

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 それでは、こうした自治都市というのは、地域によりどのような発展経路をたどっていったのだろうか、例えば、そもそものルネサンス期(1450~1600)の姿としては、ものものしい一面も覗かせている。次に紹介するのは、1481年に発表されたクリストフォロ・デ・グラッシ作の「イタリア、ジェノバの光景」に寄せたジェレミー・ブラック(歴史学者)による説明文の一節である。

 「ジェノヴァはこれまで繁栄を脅かしたすべての打撃に備えることになった。市街地にはほとんど特徴のない小さな家々がびっしりと密集し、波止場のすぐそばまで迫っている。2本の防波堤ははっきりと描かれ(西側には)有名な灯台が見える。港の中央(画面中央)には武器庫がある。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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 その後、17世紀までの姿については、例えば、次のように説明されている。

   「17世紀にはスペインの支配下に置かれていたとはいえ、イタリアには都市を中心にした都市国家がいくつもあった。ロンバルディアにあったミラノの北にあったミラノ公国は、スホルツァ一族による独裁的な支配で知られた。(中略)
 ヴェネチアヤ、ジェノヴァのような都市国家は、かつての役割を保ちつづけた。16世紀および17世紀の西洋社会で、都市共和国は善政た市民の美徳のお手本として広く称揚された。共和制と密接に結びついていた古代ギリシャの美徳を思いださせるものだったのだ。公共の美徳は共和制を特徴づけるものであり、「均整のとれた」組織をもつ国家の産物とみされたのである。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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 「ネーデルランド連邦共和国(オランダ共和国)は、都市連邦のひとつの形として、その典型と考えられた。1100年頃に漁村として築かれ、1275年に初めて都市特許状をうけたアムステルダムはやがて製造および通商の街となり、17世紀には黄金時代を迎えた。アムステルダムの有名な運河が築かれたのはこの時期であり、1665年にはアムステルダム市民の誇りとこの都市の重要さを世に知らしめるために壮大な市庁舎が建設された。
 しかし、多くの都市は独立した存在として政治を運営したいと願ってはいたものの、領土を接した国家として連携したほうが、諸都市にとってはより効果的な防衛になったはずである。辺境地帯にないかぎり、近代的な(そして費用のかさむ)要塞化や市民軍を必要としなかった。こうした国家は、領主である支配者たちの権力、財政的な資源をもつ地元の上流人士、都会のエリートたちの商業的な関心が組み合わさって発展した。
 こうした協力関係は世界中のいたるところで見られたわけではない。ほとんどの地域では、田舎と都会のエリートのあいだに民族および社会的な格差があった。そんなわけで、オスマン帝国の首都は偉大なコンスタンティノープルだったが、田舎の領主であるムスリムのトルコ人エリートたちは、アレクサンドリア、スミルナ(イズミール)、サロニカ(デッサロニカ)といった商業の中心地で活動するキリスト教徒やユダヤ教徒の有力商人たちに少しも親近感をもたなかった。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)

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 これらにもあるように、アムステルダムは、商人のために商人により築かれた運河(1600年代~、3つの大運河が有名)に囲まれた都市であって、フランドルや北フランス、北ドイツといった北欧では、領主は商人の力に押されて農村部に移るなどするケースが多かった。これに対しイタリアなどにある都市では、封建領主である貴族が都市領域に入り、場合によっては市民となりかわっていく、その過程で都市は武装にも努めていく、いわゆる都市国家の発展が強く見られる(もう少し詳しくは、手頃な参考文献としては、石坂昭雄ほか「新版、西洋経済史」有斐閣双書、1985を推奨したい)。

(続く)
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🔶🔶ロシアとアメリカはこれ以上争うべきでない(2022.2.25)

2022-02-25 09:26:08 | Weblog
🔶ロシアとアメリカはこれ以上争うべきでない(2022.2.25)

 昨日の午後からは、かつての冷戦時代の再来かと見まがう、由々しき事態だと思われ、残念だ。
 一方からは、「ロシアが今回、欧米側の警告を無視してウクライナに軍事進攻」「ロシアが、ウクライナの主要都市近郊と軍施設を空爆」「第二次世界大戦後のヨーロッパで最大規模」といった文句が飛び交っている。このままでは、「冷戦後に築かれた国際秩序が危機に」「原油・天然ガス高騰、穀物供給にも懸念」などなど。
 かたやロシアの側では、「ウルライナでのジェノサイドから人々を守ること」「進攻ではない」「ロシアへの直接的な攻撃から国を守る」、それと「ロシアは今も最強の核保有国だ」などなど。
 もちろん、これらによる最大の問題は、ヨーロッパ人同士が殺しあうことだろう。近代兵器を用いた本格的戦闘ともなれば、その損失なりは計り知れない規模になりかねないだろう。そして、その先にあるのは・・・、と考えてしまうのは、少数者による杞憂のレベルではあるまいに、現代においては核戦争はさほどに現実化しうる問題なのである。
 それからもう一つ、今回の事を鎮静化に向かわせるには、「制裁」の類いでどうできるものではあるまい、双方が妥協をし合うべきだ。そのためには、話し合うしかない、その中から平和的共存へ向けた何かが出来てくるのを待つしかない。ことにアメリカは、もう世界の警察官でも、そのレベルの何でもないのだから、そろそろ「西側陣営の盟主」を装おった大国的ないいぶりはやめたらどうか、今回はロシアを少なからず煽った感があろう。
 繰り返しになるが、ロシアとアメリカは、この問題を拡大すべきでない、今直ぐ交渉のテーブルにつくべきだ。そして、新たな合意が必要だ。ロシアのプーチン大統領も「核戦争に勝者はいない」と述べ、アメリカのバイデン大統領も同様であろう。二人とも、世界を代表する大国の一つ、そのリーダーなのである、だからして、ここは全人類的立場を思い起こしてもらいたい、世界の心ある人々は見守っているはずだ。

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 付随して、このたびの西欧における出来事を語るうちには、日本の中でも「台湾」や「尖閣」との兼ね合いを持ち出す論調が散見され、どうやら、それらのうちの少なからずが「もしも」の時は武力を排除しないのであるらしい。まるで、憲法の平和条項(非武装中立)は眼中にないかのような物言いに感じられる。
 だが、そもそも台湾は中国とともに尖閣を日本のものとは認めない話であって、また、国際法上も、日本に帰属する話とはなっていない。さしあたって、「幸か不幸か」、この辺りを巡っての係争の現状としては、現水域において石油などの重要資源の情報はなく、台湾そして中国との衝突は免れているようである。
 加えて、台湾の中国への帰属如何については、台湾が独立国家たろうと大きな一歩を印さないかぎり、中国が台湾本土に進攻するとは考えにくい。それに、戦後の国際秩序を含めた大きな流れでいうと、アメリカにおいてもそうだろうが、台湾は中国の一部というのは動かし難い。
 さらに、中国の国際的な地位はこれからも上がり続けていくであろうし、アメリカもそのことを動かし難いとしている(2021.3~)。そうしたことを踏まえれば、この問題は、やがては平和裡に解決に向かっていくのではないだろうか。
 付言すると、現時点までの日本の論調の中には、テレビも含めて勉強不足のものも散見されよう。かつて、ジョーン・ロビンソン(イギリス)は「経済学者に騙されない」ことを経済学を学ぶ理由に推奨していた、けだし、彼女は庶民の大いなる声に耳を傾けるタフで偉大な経済学者でもあった。

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🔶890『自然と人間の歴史・世界篇』ウクライナ

2022-02-23 10:55:54 | Weblog
890『自然と人間の歴史・世界篇』ウクライナ

 現在のウクライナ共和国(ウクライナ)は、東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。なお、クリミア半島については、2014年からのロシアとの争いの中で、ロシアによる住民投票の結果を受けてロシア領に組み入れられる。
 4~6世紀には、東スラブ人のグループが現ウクライナの地に移動してきた。この地での8世紀には、キエフ・ルーシ公国が成立する。ドニエプル川の中流に位置するキエフは、9世紀末の882年にキエフ公国が成立した時からの首都である。後のことだが、1990年、「キエフのソフィア大聖堂とペチェルスカヤ大修道院」ということで、ユネスコ世界遺産に登録される。  
 13世紀の1240年代には、モンゴル・タタール軍の侵略を受ける。この侵略で、1240年、モンゴル軍がキエフを攻略する。これにより、東スラブ人は、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人のグループに分化していく。
 それから約200年にわたってその支配下におかれる。その後、リトアニア、そしてポーランドへ併合される。
 1340年、ポーランドの東ガリツィア地方を占領する。1349年、ポーランドのガルチ公ダニエルによって、現在のウクライナの西部にあるリヴォフの町が建設される。この町の歴史地区だが、「石畳と格調高い建築群」が伝える美ということで、後のことながら、1998年に世界遺産に指定される。1362年、リトアニアがキエフを占領する。これにより、リトアニア大公国とポーランドの領土に分割された。1569年には、ウクライナ全土がポーランド領土に併合される。
 1648年、フメリニツキーらのコサック軍による蜂起が起こる。これは、ポーランドからの独立戦争であった。1654年、ペレヤスラフ協定が結ばれる。1654年、ペレヤスラフ協定が結ばれる。1764年、ポルタヴァの戦いが起こる。こちらは、ロシアからの独立戦争であった。
 1853年には、クリミア戦争が起こる。この戦争は、なかなかに複雑な構図で戦われた。16世紀末以来のロシアとオスマン・トルコとの戦争の継続・発展なのだが、フランス(ナポレオン3世)とイギリスがオスマン帝国を支援したところに特色がある。実質的には、ロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦争となる。この戦争の舞台は、黒海に南に突き出たクリミア半島で、終戦まで血みどろの戦いが続けられた。
 1914年、第一次世界大戦が始まる。1917年、この大戦中にウクライナ人民共和国が成立する。1917~1921年、ウクライナ・ソビエト戦争。1922年、ソビエト社会主義共和国連邦が成立する。1932年、大飢饉(ホロドモール)が起こる。1939年、第二次世界大戦が起こる。1941年、独ソ戦が開始される。ドイツがウクライナを占領する。1954年、ウクライナがクリミアを編入する。
 1986年には、チェルノブイリ原発事故が起こる。1991年、ウクライナが独立を果たす。そしてソ連邦崩壊、CIS(独立国家共同体)創設となる。1996年には憲法が制定され、通貨フリヴニャを導入する。

 1996年には、憲法を制定し、同年中に戦略核兵器のロシアへの移送を完了したことになっている。

 2004年には、政変が起こる。それを、オレンジ革命と呼ぶ。そこでは、同年11月の大統領選挙と12月の再選挙において親欧米派の野党候補ユーチェンコ元大統領が勝利する。ユーチェンコ政権下では、ガス供給、ロシア黒海艦隊、NATO(北大西洋条約機構)の見方などを巡りロシアとの関係が冷えていく。

 2010年には、大統領選挙の決戦投票で、地域政党のヤヌコーヴィチが勝利し、新政権はNATO加盟方針を撤回(2010年の国内法で非同盟を決定)、ロシア黒海艦隊の駐留期限の延長などで、ロシアとの関係を一部修復する。
 2014年には、マイダン革命(尊厳の革命)が起こる。こちらでは、同年2月に反ヤヌコーヴィチ派の大規模デモが発生し、80名が死亡したという、ヤヌコーヴィチ大統領は国外に逃れた。同月中に、暫定政権が発足する。翌3月には、南部のクリミア自治共和国でロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施され、賛成が多数となり、ロシアに編入された。かたや東部では、同年3月以降、親ロシアの独立派の武装勢力が台頭していく、これに対して政府は軍隊を投入し、内戦となる。同年5月には、大統領選挙が行われて、ポロシェンコ元経済発展貿易大臣が当選する。

○2014~2015年にかけては、ロシア・ウクライナ・ドイツ・フランスの4カ国が参加して、ロシア和平プロセスを定めた、ウクライナ東部に関わる「第1次ミンスク合意」(2014)及び第2次ミンスク合意」(2015)を締結した。
 それらの経緯としては、2014年9月に締結された前者は12項目から成る。OSCE(欧州安保協力機構による停戦監視や、分離派が支配する地域への暫定的な特別地位の付与、地方選挙の実施、当事者の恩赦などが含まれていた。ところが、停戦合意は2015年1月に完全に破られ、大統領は逃亡しまう。
 その後の歩み寄りにて、後者がまとめられるのだが、13項目で構成されている。主なものとしては、武器の即時使用停止、外国部隊の撤退、OSCEによる武器使用停止の監視、ドンバス地方の「特別な地位」に関するウクライナの法律採択、それにOSCEの基準に基づく前倒し地方選挙の実施などの項目がある。

 2022年1月15日、ロシア下院は、ウクライナ東部の2州(ドネツク州とルガンスク州)のそれぞれ一部地域の独立国家として承認するようプーチン大統領に求める決議を採択した。

 2022年2月22日、ロシア連邦議会上院は、プーチン大統領が要請した、ウクライナ東部の親ロシア派2地域における平和維持活動に向けた措置の名目で、国外へのロシア軍派遣を全会一致で承認した。
 これと同じ2月22日、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部の停戦と和平への道筋を示した「ミンスク合意」はもはや存在せず、履行すべきことは何も残っていない旨を述べた。

(続く)

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🔶1175『自然と人間の歴史・世界篇』中国の景気そして労働動向(2020~2022)

2022-02-19 20:56:55 | Weblog
1175『自然と人間の歴史・世界篇』中国の景気そして労働動向(2020~2022)

 中国の2021年10~12月の実質GDP(国内総生産)成長率の速報値は、前年同期比で4.0%に鈍化した。参考までに、その前の2019年第4四半期からの歩み(前年同期比)をたどると、同5.8%、同マイナス6.8%、同3.2%、同4.9%、同6.5%、同18.3%、同7.9%、同4.9%(同7~9月期、この時時点で6期連続のプラス成長ながら、伸びは2期連続で減少、電力・移動制限が響く)と推移している。
 これを前期比年率ベースでいうと、6.6%のプラス。昨年通年の同成長率は、8.1%のプラスと10年ぶりの高成長となった。なお、その前の2020年は同2.3%、2019年は同6.0%であった。
 同年7~9月の4.9%増から減速し、20年4~6月の3.1%以来の低さとなったのは、新型コロナウイルスの感染再拡大をうけた行動制限が経済活動の足かせとなった。環境や不動産など政府の規制強化も響いた形だ。
 次に、月次統計をみよう。こちらでは、12月の小売売上高は名目ベースで前年比+1.7%、実質ベースでは同0.5%のマイナスだ。こちらでは、雇用の回復の遅れや当局の「ゼロ・コロナ」戦略が影響しているとみられている。
 他方、鉱工業生産は、前年比4.3%のプラスと底入れしてきているのではないか。こちらの方は、世界経済の回復が輸出を押し上げるとともに、同期に入っての当局による電力不足解消に向けた動き(石炭出荷増など)もあろう。なお、固定資産投資は、当2021年初来伸びがペースダウンしているものの、金融当局による金融緩和の動きにも助けられて投資活動が持ちこたえているを模様である。

 さらに、失業者統計によると、2021年からは5%前半に持ち直してきていて、なんとか雇用状況の全面的悪化を防いでいる最中のようである(注)。

(注)その定義としては、完全失業率は分母に就業者と完全失業者の計、分子に完全失業者をおくのはよいとして、中国の完全失業者となる者は、都市戸籍者のうち一定の期間継続して企業等に雇用されていた者のみであって、約2億9千万人以上の農村戸籍者のうち企業等に雇用されていた者(農民工失業者)は、調査からはずされてしまうとのこと。農民には農地があり、農業所得がある、つまり自営業者という扱いであることを考えると、仕方のないのとなのかも知れない。
 ちなみに、2019年時点の中国の都市労働者数は約4億4千万人だというから、その5%ということでは2200万人という話になろう。年代別では、16~24歳の都市住民若年層の失業率は、2018年以来10%を超えているとのこと。特に、2020年7月と8月には16.8%を記録した、これは新型コロナ禍が深刻になったことと関係があろう。
 それから、こちらにつき、2021年4月21日付け中日新聞による試算では、その実態は、次のように見積もられている。
 「全部の関係統計が分かる2019年12月の失業率はまだこれよりやや低かったのですが、12月には12.2%を記録していました。高失業率はコロナ禍以前から起きていることです。
 2019年の16~24歳の都市住民人口は8800万人*と推定されますが、その12.2%というと、失業者数は約1070万人**にも上ります。
 *8800万人:総人口14億人(2019年)のうち同世代人口比は11.1%なので実数は1億5540万人、このうち都市人口比は57%なので実数は約8800万人。
 **1070万人:8800万人×12.2%」(2021年4月21日付け中日新聞より引用)
 続いて、それからしばらく経っての2021年11月の全国都市調査失業率は5.0%となり、前月の4.9%から0.1ポイント上昇しての5.0%となった。同年11月での本地戸籍人口調査失業率は、5.1%(前月は4.9%)、外来戸籍人口調査失業率については、同月が4.8%、前月が4.8%となった。その中でも、16歳~24歳の失業率は、同年10月に14.2%であったのが11月には14.3%、同じように25歳~59歳の失業率は4.2%から4.3%に微増した。週平均労働時間については、同年10月に48.6時間だった、それが同年11月には47.8時間に減少。それから、同年11月の新規雇用増加数は、1207万人で政府の2021年年度目標を達成した形。

(続く)

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🔶1173『自然と人間の歴史・世界市篇』社会主義経済の進行中の事例はあるか(~2022)

2022-02-18 19:01:00 | Weblog
1173『自然と人間の歴史・世界市篇』社会主義経済の進行中の事例はあるか(~2022)

 社会主義経済とは何であるかを決める要素とは、いったい何だろうか。ソ連や東欧の社会主義がまだ健在もしくは命脈を保っていた間は、公有制や計画経済、資本主義とは異なる労働市場のあり方などを挙げ、それらの要素が合わさって社会主義経済を構成させている、と言われていた。だが、それらは1990年代初頭までに大方瓦解・消失してしまい、今はほとんどが存在しない。
 そうなると、現在、社会主義国は皆無なのかというと、「中国があるではないか」という向きがあるかも知れない。だが、現時点で見るに当たっては、かつての社会主義というものへの理解とかなり違った形となってくるのではないか。筆者としては、新しい観点が導入されないかぎり、従来思考に固執していては、なかなかその資本主義に対する優位性を理解し難い。というのも、新たな要素が色々と国民経済に混入してきていると考えている。
 それと、その体制が全体としてどの方向に向かっているかにつき、政治権力の動きに大きく影響されることもあろう。すなわち、これからは国家の果たす役割との兼ね合いがどうなっているか、「堅忍不抜」とでも形容しようか、その方向性を読み取ることが重要だと考えている。そして思うに、そうした意味をも込めて現在中国は、一個の実験場となっているのではないだろうか。
 と、いささか回りくどくなってしまったが、私見として提案したいのは、21世紀の魅力ある社会主義というのは、公有制や計画経済(市場を活用してよい(注))、資本主義とは異なる労働市場のあり方に加え、構成員全体への生活保証が伴ってはじめて実質的な意味をもつ、それと、政治・経済がそのことに向かって前進しているという姿勢を安定持続していることが必要なのではないだろうか。

(注)市場の一部利用によって引き起こされる競争は、そのことによる利益(効用の増大)ばかりに目が行きがちだが、同時に当該市場の独占傾向が強まり格差を拡大するなどの弊害も伴うことに留意するべきだ。そのことは、体制の如何を問わず起こり得る。

 こうしてみると、今の中国を、「新しい形での社会主義」とは名付けることはできなくなっている(ただし、どちらかというと資本主義の方を向いている「国家資本主義」とは違う方向性をもっていると思われる。またサミュエルソン(米・経済学者)が述べた、私有財産制度を前提とした「混合経済」とも異なる)。とはいえ、現代中国は、その官民合わせての集中力が持続するかぎりにおいて、市場の力を活用することで新たな時代の要請(前述)に応えるべく、そちらに向かって歩んでいる経済、いうなれば「準社会主義経済」とでも呼んだらいいのかも知れない。

(2022.2.18~続く)

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🔶1171『自然と人間の歴史・世界篇』中国の住宅事情と住宅政策(~2022)

2022-02-15 10:10:27 | Weblog
1171『自然と人間の歴史・世界篇』中国の住宅事情と住宅政策(~2022)

❮はじめに❭
 中国では、2021年に不動産大手企業の経営問題が大きく浮上し、様々な「膿」が顕在化している。それらを受けて、この年の1~11月では、全国31省・自治区・直轄市のうち13地域が前年同期に比べ値下がりした(注)。

(注)参考までに、過去10年位を振り返ると、住宅価格(前年同月比)は2012年と2014年にはマイナスに振れ、それからも2017、2020年にも上昇から横ばいに転じたことがあり、一辺倒の上昇基調ということではない。特に2014年の下落場面では、景気への下押し効果が心配されたことがある。

 経済情報サイトの中新経緯が伝える、不動産プラットフォーム事業を手掛ける易居企業集団傘下の易居研究院シンクタンクセンターがまとめたリポートによると、住宅価格が下落したのは黒竜江(10%)がトップ、次いで青海省(7%)、吉林省(同)、甘粛省(同)、広西チワン族自治区(同)、雲南省(5%)、山西省(同)、チベット自治区(3%)、河北省(2%)、内モンゴル自治区(同)、新疆ウイグル自治区(同)、江西省(1%)、貴州省(同)。そのほか、四川省、陝西省、遼寧省、河南省は横ばいだったという。
 一方で、浙江省の住宅価格は13%、海南省と重慶市は各8%、広東省は6%上昇したという。
 これを受けて、件数住宅取引額は、10省区市が前年同期に比べ減少した。減少幅は青海省が25%で最大。雲南省が21%減、黒竜江省が18%減、遼寧省、広西及び内モンゴルが10%減となっているとのこと。
 これらの背景には、冒頭でのべた市場の激変(こちらが主な要因)とともに、政府が、2022年の経済運営方針を決める中央経済工作会議で、都市ごとに適切な不動産政策を打ち出すなど、引き締めをしていることがあろう。

❮経緯❭

 中国での住宅取得が本格的に始まったのは、1990年代の後半であった。1990年代半ば以降、土地の所有権と使用権(定期借地権:宅地の場合、最長70年間)が分離され、土地の使用権が払い下げされるようになったのが、住宅ブームの後押しとなる。特に、胡錦涛(フージンダオ)政権(2003~2013年)になってからは、土地使用権払下げによる売上げは各々の地方政府の財源にしてよいことになった。

 今世紀に入ってからは、2005年頃から急激に増加している。これに関連して、中国の住宅ローンについては、1996年に、国有商業銀行が個人住宅ローンが解禁する。そうしたローンの解禁とともに多くの国民が一斉に住宅取得に向かっていく、その動きが他の要因に加わっていく中、家計債務を押し上げていく。
 これで勢いづいたこが住宅開発業者である、彼らは、債務を膨張させて不動産バブルを作り出していくのだが、不動産からの収入に大きく依存する地方政府がこれを後押ししていく。これに「暗黙の承認」を与えることが、結果的には住宅市場において「暗黙の保証」の役割を果たしていく。
 なぜなら、開発業者による住宅地の確保のためには、地方政府から土地の使用権を得なければならず、そのコストは住宅取得者の購入する住宅価格に組み入れられ、ひいては地方政府の重要な収入源となっていく。その流れにて、地方政府の収入に占めるウエイトは、2021年1~10月には、土地の使用権を与えることでの譲渡収入(土地所有権は、憲法で国のものであり、譲渡できない)は地方一般公共予算収入比で約61%という、「持ちつ持たれつ」の関係へと発展していく。
 ところが、2020年頃からは、恒大集団などという個別企業(開発業者)の経営問題が浮上してくる。2021年7月末になると、中国共産党中央政治局は、下半期の経済運営をめぐる会議で「不動産価格を安定させる」と方針に盛り込み、地方政府は、中古マンションの「参考価格」を作って価格を事実上統制し、マンション購入を許可制にするなど、様々な規制を始めている。
 それらの経済に対するインパクトを考える上では、顧みるに、日本の資産バブル崩壊を思い浮かべればよい。当時は、金融政策の転換や外圧などもあったのだろう、しかし、不動産バブルそのものがかなり積み上がっていたことがあろう。そこで当時の日本政府は、土地の高騰を抑制するための施策を行った。それには、土地取引価格の上限を事実上国が管理する「国土利用計画法(通称国土法)」と、金融機関の不動産関連融資を制限する「総量規制」が含まれていた。これらの結果として、住宅を売る側とそれを買う側の双方においてブレーキがかかることで不動産流通・取引は急激に減り、市場価格を押し下げることになった。ちなみに、1980年の市街地における地価を50とした場合の1991年の同価格は110にまで高騰していたのが、その後は下がり基調に推移して2004年3月には60程度に落ち着いた。また、同じ期間でみた都市部の地価変動はさらに激しく、同3月にはピーク時の約5分の1と言われている(増澤俊彦「経済学の世界」八千代出版、2004など)。

 経済統計で中国の住宅市況の減速が鮮明になったのは、2021年7~9月期の報告位からであって、前年同期比でみた1~9月期の不動産開発投資は8.8%の増加。また、インフラなどの固定資産投資は前年同期比で7.3%であり、いずれも1~6月期に比べて低い伸び率にとどまった。

 そして、これが広がっていくうちに、地方政府発の成長モデルは、そのうちに破綻していくのではないかと、国内外で取り沙汰されるようになっていく。そうした流れにおいて、中央政府としても、旺盛な不動産投資でマクロ成長を牽引(2021年1~9月での不動産投資対GDP比14%))という成長モデルからの転換を模索していかねばならぬ、という認識になり変わっていく。つまり、事ここに至ると、個別企業の問題に止まらず、中国経済全体の安定成長を続けなければならぬという観点からも、マクロの経済での急激な成長率の落ち込みを回避しつつ、住宅問題を克服していくことが求められるようになったと考えられる。

❮地方政府債務の抑制策に動く政権❭

 そして迎えた2021年4月には、政府が「地方融资平台和政府的关系该如何理顺」を発布して、かかる動きに歯止めをかけようと動く。その紹介記事には、こうある。

  「4月13日,国务院印发《关于进一步深化预算管理制度改革的意见》(以下简称《意见》)。《意见》指出,要清理规范地方融资平台公司,剥离其政府融资职能,对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算。(中略)
此次发布的《意见》对地方融资平台与政府的关系问题提出要求,进一步强调要清理规范地方融资平台公司,剥离其政府融资职能,就是针对个别地方没有真正理顺好政府与融资平台关系这一问题。这既是规范地方债务和融资平台运行的关系,也是对地方融资平台可能出现风险的警示。尤其是要求“对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算”,就是责令地方政府必须理顺与融资平台的关系,不能让地方融资平台成为拖垮政府的“灰犀牛”。」(2021年4月15日付け北京青年报の電子版)
 これにある、地方融资平台公司(LGFV)というのは、地方政府傘下の投資会社であって、それが放漫経営で溜め込んだ債務に対し地方政府は関わりをもってはならないと通知した。平たくいうと、「LGFVの債務不履行には政府が責任を持つ」という、法で明文化されていない約束に対する市場の期待を黙認すること(「暗黙の政府保証」)を改めて(2010年通知に続き)禁止するというもの。また、「尤其是要求“对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算”と引用されているように、支払能力のないLGFVに対しては、救済ではなく法律にのっとり破産もしくは清算を進めるように要求している。

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 マクロ経済ベースでは、2021年7~9月期の実質GDP減速を受ける形で、住宅ローンの制限や土地の入札規則を緩和するとともに、デベロッパーが債務を返済しやすくするための措置を打ち出した。あわせて、金融政策として、市中銀行に義務付ける現金保有比率を引き下げることを通じて、企業の資金調達コスト低下を期待することで、景気の底割れを防ごうとしているのであろう。
 また、住宅関連の個別資本のレベルにおいても、債務縮減などへ向けての動きもみられる。例えば、2022年2月25日、経営難に陥っている中国の不動産大手、中国恒大集団は、同グループで開発を進めていたマンションやテーマパークに関連する住宅関連プロジェクト合計4件について一部権利を売却するとは発表した。売却先は国有資源大手、中国五鉱集団傘下の五鉱国際信託、そして中国光大集団股傘下の信託会社の、つごう2社だという。
 現地の報道によると、信託2社は建設を引き継ぎ、住宅の受け渡しを保証するとしている。 これにより、70.1億元(約1300億円)の債務を解決でき、当該プロジェクトへの初期投資の一部である19.5億元を回収できるという。
 恒大グループはこれまで、債務弁済期限の度に苦しいやりくりを露呈してきたところ、物件引き渡しの遅れや、工事に関わる代金の支払い遅延をも引き起こしている。ついては、建設中の物件を購入者へ引き渡すことで、経営問題の改善を図る方針だと伝わる。

(続く)

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🔶707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

2022-02-13 22:57:20 | Weblog
707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

 1988年6月28日から7月1日にかけて、第19回ソ連共産党協議会が開催された。討論の実況が初めてテレビで全国に公開された。
 この会議でソ連共産党の書記長であったゴルバチョフは、政治改革の必要を訴える。具体的には、ソ連の最高の権力機関としての人民代議員大会の創設を提案する。これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる4004~450名の最高会議議員でもって新たな連邦議会を構成するというもの。しかも、議員の3分の2の選出に当たっては、それまでのような共産党の推薦した唯一の候補者の信任投票によるのみでなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという仕組みに取って代える。
 また、人民代議員大会の中から選出される最高会議(最高会議議長職の創設を含む)については、共産党政治局の決定を破棄する権限をもつことが決定される。
 1988年10月、ソ連邦最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、同年11月に憲法改正案と新選挙法案を提出する。国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設、それに常設の立法機関としての連邦最高会議の創設などが盛り込まれた。同年12月、憲法改正案と新選挙法案はソ連邦最高会議で採択される。
 1988年11月、ソ連の一共和国であるエストニア共和国最高会議は、主権宣言を採択するとともに、共和国憲法を改定し、ソ連邦の法令は享保国最高会議の批准によってはじめて効力を持つことに変えた。これを受けたソ連邦最高会議幹部会は、エストニア共和国のこの決定はソ連邦憲法に違反し無効であると宣言する。翌年になると、エストニアの近くの共和国であるラトヴィア共和国とリトアニア共和国もエストニア共和国と同様な決定を行うに至る。

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 当時において経済改革の主要課題とされていたのは、やはり、卸売(資本財)市場の創設と消費財の安定供給、インフレーシヨン(そのために、「国民は毎日貧しくなっていた」とも解釈できるほど)を克服することであったろう。
 そこで前者について、まずみていこう。ペレストロイカの経済面の実務を務めていた経済学者アガンベギャンは、こんな話をしている。

 「私たちは、経済メカニズムの立て直しが、単に企業管理部やその研究開発部門にとどまらず、従業員全体にまで及ぶようにするため、独立採算制に基づくあらゆる集団請負制の適用範囲を広げることを決めた。とくに、その最高形態である賃貸借(アレンダ)制の適用範囲を拡大したいと考えている。この賃貸借制は、生産物の品質改善とあらゆる資源利用の効率向上を狙った複雑な奨励措置制度と結びついている。第19回党協議会では、卸売商業の導入を促進するとともに、各企業による営業収益の管理権に今なお加えられている制限をできるだけ早急に撤廃することが決定された。また、ソ連経済の財政健全化を目指す特別計画の策定をもはや延期できないことが改めて指摘された。
 この面での成否は、私たちが社会主義市場をどの程度利用できるかにかかるところが大きい。私たちは、消費市場とともに、資本財の市場を近い将来に我が国に創設することを目指している。(中略)
 現在のような時期にはインフレ傾向を阻止することが重要であり、そのためには競争が盛んになるような市場の状況を作り出し、独占行為をやめさせ、インフレに抵抗する財政・信用機構を作り出し、通貨の流れとの適正な相関関係を確保するようにしなければならない。」(アベル・アガンベギャン、大朏人一(おおつきじんいち)訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)

 これにもあるように、当該の党議会においては、政治ばかりでなく経済面での困難(それらは、当時の諸般の差し迫った状況から見て、もはやソ連の社会主義経済が暗礁に乗り上げるレベルに達していたに違いないのだが)を打開しようとの意気込みも見られたようなのたが、その後の経緯からすれば、「遅きに失した」の感を免れなかったようだ。

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 そこで古今東西、それに現在においてもよく言われていることなのだが、やはり「衣食住」が大事であるのは、ほぼ共通しているのではないか。ソ連のペレストロイカにおいても某かそのことに気がついていたのは、当時の用人、アガンベギャン(経済学者)の次の指摘からも、窺えよう。
 「商品とサービスの供給となると、これまでに収められた成果はきわめてわずかなものだ。物的財とサービスの量は1986年に5.7%、1987年に3.3%、1988年には7%だけ増加した。第12次5か年計画の最初の2年間に、小売販売高(アルコールを除く)は10.5%、1988年には7.1%だけ増加した。同期間に有料サービスは19.2%および17%も増加した。国家統計委員会によると1人当たり実質所得は、第12次5か年計画の最初の2年間に4.6%、1988年にはさらに3.5%それぞれ増加している。」(アガンベギャン、前掲書)

 とはいえ、こうした数字を額面どおりに受け取ってよいのだろうか、同時に、食糧供給の隘路(あいろ)について、次のように言及している。

 「以上の統計数字(不変価格で表示)に評価を加えるにあたっては、ソ連には隠れたインフレがあり、それが消費市場に影響を与えていることを念頭に置くべきである。現行の価格統計は一定の品目の定価表を基礎にしていて、品目の変更による価格の上昇を考慮に入れていない。実際には、安価な商品が姿を消し、代わりにもっと高価な商品が現れるという動きが絶えず進行しているのである。この隠れたインフレは年率3~4%と見積もられている。これに応じて上記の数字を修正すると、物的財とサービスの消費の実質的成長率は、1986年で2%前後、87年にはゼロ成長、88年にはわずかに上昇した計算になるだろう。(中略)
 一般に、ソ連は食糧消費に関する限り、世界の先進15か国の一つであるが、住宅条件、幼児死亡率、サービス産業の発展、耐久消費財の供給その他多くの指標に、ついては、50番目あたりに位置している。しかも、食糧供給の点で高い位置にあるとはいえ、その供給体制がきわめて悪いために、需要が満たされない部分が多く、地域差も大きく、食料品の種類は非常に貧弱で、品目によっては非常に品質がお粗末だ。それから見ても、基礎食糧の輸入を最小限に減らし、食糧供給を改善するためには、農業生産と食品工業を発展させるだけては不十分だと結論せざるを得ない。それに劣らぬ努力を食糧供給体制の改善に注がなければならない。つまり、根拠のある食糧価格を復活し、食糧の品質を向上させ、豊富な種類の食料品を生産し、販売するように、しなければならないのである。また、公共外食制度や食糧の輸送、貯蔵、販売の根本的改善を考えなければならない。(中略)

 次は、日用品の問題だ。第12次5か年計画期におけるこの分野の進展は全く不十分だった。1986~87年に消費物資の生産量は7.8%増加した。そのうち、軽工業は3%、縫製工業は1%の生産増加しか見せなかった。1988年には、消費物資の生産増加率は5.1%、そのうち軽工業は4.3%だった。しかし、軽工業で主たる問題になっているのは生産量ではなく、品質と種類である。国民一人当たりの生産量では、わが国は織物と靴で久しく世界第1位を占めている。ところが、需要は満たされていない。なぜなら、製品の品質と種類が国民の要求に合わないからである。それはもっと伝統的な日用消費製品、たとえばテレビ、冷蔵庫、洗濯機、電気製品、ラジオなどにも当てはまることで、この場合も生産量は十分なのに、品質と種類が国民の要求に合わないのである。」(アガンベギャン、前掲書)

(続く)

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(続く)

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新185『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

2022-02-12 19:01:20 | Weblog
185『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)


 さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。

 「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)

 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
 この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
 計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
 この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

 こうして海を仕切って我が国において最初にできた児島湖なのだが、その後の展開でいうと、やはり湖沼法との関連で岡山県にスポットが当てられるようになったことではないだろうか、そのことは、環境行政に詳しい由比浜氏により、次のように語られている。

 「国の責任官庁が不明では、県が浄化事業を実施しようにも補助金申請先がない。したがってこれまで県が実施できたのは工場などの排水規制指導、河川への清水導入、流域下水道建設、合成洗剤問題PRなどであった。
 1985年(昭和60年)暮れに湖沼法が制定され、県は水質保全計画を翌年春にまとめ、国と協議のうえ、全国に先がけて1987年(昭和62年)に計画決定をみた。1985年度(昭和60年度)のCOD10ミリグラム/リットルを5年間で8.8ミリグラム/リットルにまで改善する目標で、下水道整備、底泥凌渫(しゅんせつ)、排水対策等々を講じようというのである。目標達成自体、大変な努力を要するし、流域下水道は第一期工事が完成しても流域の一部をカバーするにすぎず、加えて処理場からの大量放水を湖沼・湖外のいずれに行うのかは地元との大争点である。
 1987年(昭和62年)5月に農林水産相は農林水産省を児島湖管理者とし、管理を岡山県に委託する旨決定した。農林水産省所管ということは、土地改良法にもとづく事業が主体となる関係上、委託を受ける県側の主役は水質保全課ではなくて耕地課である。そのため、どこまで環境改善が達成されるか不安がる向きもある。しかしともあれ、行政として児島湖問題に取り組む体制ができたといえる。」(岡山大学教授・由比浜省吾「大干拓の歴史と再生への努力ー児島湖」ー「日本の湖沼と渓谷11ー中国・四国、宍道湖と帝釈峡・祖谷渓」ぎょうせい、1987に所収)

(続く)

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新♦️930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)

2022-02-12 09:50:49 | Weblog
930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)


 2022年2月現在、新型ウイルス感染拡大は、まだ、止まっていない。同時にこの問題は、現代世界で、一部を除いて支配的な社会経済体制である資本主義の運営や仕組みにも、大いなる課題や疑問を投げかけている。

 例えば、2020.10.3のNHKのBSニュース(フランス放送局発の部分)によると、「フランスでは、救援センターの利用者が3月以来3倍に増えています」とのこと。
 同センターは、食事に事欠いている人々に食べ物を無料で提供する活動をしており、フランスでは新型コロナウイルス下で貧困者が増大していることからこのような急増になっている、と分析している。

 このような話はいま、世界のいたるところで、その有効性がわかっていても行われていないか、目指されていたり、様々なかたちで行われているところなども散見されよう。

 それにしても、この問題はその発生からすでに10か月目を迎えつつあり、その根は深く、新型ウイルス感染拡大は、各人の「命の値段」にも波及してきているのではないだろうか。

 ついては、かかる新たなかたちでの貧困、「社会的弱者」などへの経済的なしわ寄せがなぜ避けられていないのか、しかも、そのような社会になっている根本的理由をあきらかにしようとの取り組みは、まだそう多くないように感じられる。
 ここでは、そのような取り組みの一助として、資本主義社会における所得分配の階級的性格について、すこしなりとも、「なぜそうなっているのか」を中心において考えてみよう。

 所得が増加(減少)するにつれ人々の消費の割合が減って(増えて)いくのは改めて証明を必要としない自明の事柄だと言われる、はたしてそれは心理法則であろうか、いや、そうではないと考えられよう。
 その理由は、同じ「所得」でも労働者の所得と資本家の所得ではそのあり方が異なるからだ。

 いま貯蓄をS、労働者の所得をW、資本家の所得をP、労働者と資本家の所得に占める貯蓄の割合をそれぞれsw、spとすると、Sは両方の所得の合計したものなので、次式が導かれよう。

S=swW+spP  ①
さて国民所得はY=W+Pなので、①式をこのYで割ると、

S/Y=sw+P/Y(spーsw)  ②
この式においてS/Yは国民経済全体に占める貯蓄の割合(貯蓄率)、
P/Yは資本分配率。

 ここで資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいと考えられることから、国民所得の分配問題とは優れて階級的な問題であることが分かる。

spーsw>0  ③


 もちろん、これには「資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいとは思わない」との反論が出されるかもしれない。


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 次は、現代の多くの人々が日頃大きな値の方がよろしいという評価をしている経済指標の中から、国内総生産と労働生産性を中心に、それらの相互関係を考えてみよう。

 粗国民国民所得、経済成長、労働生産性などの関係式について(拙ホームページから転載)

 まずは、数学公式z = xyの中の変数x,yについて、{(x+Δx)+(y+Δy)-xy}/xy=Δx/x+Δy/y+ΔxΔy/xyとなり、Δx,Δyが十分に小さいときは最後の項を無視できてΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/y(2変数の積による合成関数の変化率式)となる。

 上記の変化率の公式を導き出すには、z=xyの対数をとって(logz=logx+logy)、両辺を微分してもΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/yを導ける、その導出方法はこうなる。
log z = log xy
log z = log x +log y
両辺を微分して
Δz/z= Δx/x + Δy/y
Δ(xy)/xy = Δx/x + Δy/y
よって、2変数の積による合成関数の変化率式が示された。

ただし、
Y=L・y:(4.1)
Y:粗国民所得
L:生産部面の年間平均労働者数
y:平均労働生産性(生産部面の平均労働者数で粗国民所得を割ったもの)
(4.1)式を微分して変化率をとると、
△Y=L・△y+△L・y+△L・△y
右辺の3項目目は微小数なので省略して、
△Y=L・△y+△L・y:(4.2)
(4.2)式を(4.1)式で割ると、
△Y/Y=△y/y+△L/L:(4.3)
粗国民所得の成長率△Y/Yを=r(アール)、労働生産性の向上率△y/yをα(アルファ)、雇用の増大率△L/Lをβ(ベータ)とおくと、
r=α+β:(4.4)
次に、人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率に対する雇用の増大と労働生産性の向上をみる。一国の総人口をN、人口の自然増加率をλ(ラムダ)=△N/Nとおくと、
Z=Y/Nの変化率△Z/Zは、(4.4)式を動員して
△Z/Z=(△Y/Y)/(△N/N)=r-λ=α+β-λ:(4.5)
この式から、労働生産性の向上率が大きいほど、雇用の増大率が大きいほど、人口の自然増加率が小さいほど人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率は大きくなる。この中の雇用の増大が賃金上昇に通じて資本の利潤増大を脅かすのであれば、資本家が利潤のために一番に取り組もうとするのは、労働生産性の上昇による利潤の増大ということになる。

 一方、労働生産性に一番に寄与するのは、資本装備率であって、それは生産関数に表される。

(この後、追加予定)

 しかして、労働生産性向上の要因については、次に列記するように様々ある。

(1)技術的生産条件、労働の技術装備度(労働者定員一人当たりの固定生産価額)
(2)労働者の熟練度、専門的知識、生産上の経験
(3)労働と生産の組織形態
(4)生産の集約度
(5)自然的条件
(6)国民経済の構造変化へのシフト
(7)生産条件の動的要因(エネルギーなど)
労働生産性は、大まかに技術的要因と非技術的要因とに分かたれる。 
(1)技術的要因(労働の技術装備度の引上げなど)
(2)非技術的要因(基本的に投資要因以外)


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ハロッドの経済成長率に関する見解について

 経済成長の推進力はどの要素に依存するのだろうか。というのは、ケインズが扱ったのは短期(生産力、すなわち生産設備が一定と仮定)であったので、中・長期スパンでみた場合の供給面の増加は考慮に入っていなかった。
 とはいえ、財・サービスの生産が拡大するためには、需要と供給がともに増大することでなければならない。前者は、消費と投資(閉鎖体系でいうと)を増やせば増加するのだが、供給は、労働や資本を増やし、技術進歩があれば増加する。あわせて、需要の一部である投資は、資本に追加されることにより資本ストック(K)を増加させ、そのことをもって供給能力の増大をもたらすのが知れている、これを「投資の二重性」と呼んでいる。
 そこで、イギリスの経済学者ハロッドは、この投資の供給能力増大効果に着目して、ケインズ理論を基礎とした独特の成長理論を構築しようとした。

 これについては、現実成長率(G)、保証成長率(適正成長率)、自然成長率の3つから成り立っている。
 まずは、保証成長率の導出(資本を完全に利用した場合の均衡生産量の成長率)
は、次のとおり。

1、「財市場」が均衡しているときの経済成長率を「保証成長率」(Gw:warranted rate of growth)という。この「保証成長率」(Gw)が達成する条件は、「貯蓄率」(s)と「資本係数」(ⅴ)で表すと次の形になろう。

Gw = s/v (保証成長率=貯蓄率/資本係数)

ここに「Gw = s/v」の導出のために、単純化して、政府部門と海外部門がないと仮定して、話を進めていく。
財市場の均衡条件は、「Y=C+I」と「Y=C+S」より、次の形になる。

(財市場の均衡条件)
I=S ・・・①

「貯蓄」は「国民所得」に依存すると仮定しよう。そして、この関係を、「貯蓄率」(s)を用いてあらわすと次の形になろう。

(貯蓄関数)
S=sY ・・・②

2、次には、①に②を代入すると。

I=S=sY ・・・③

次に、「投資」(I)について考えてみよう。

「投資」とは、「生産」をおこなうために生産要素を投入すること、ここでは、「資本」を増やすことであると考えよう。

「資本」(K)の「変化分」を「⊿」であらわすと、次のとおり。。

I=⊿K ・・・④

ここで、「資本係数」(v)について考えよう。

「資本係数」とは、生産量1単位当たりに必要な資本量、これを式でいうなら、「資本」(K)と「国民所得」(Y)から、次の形であらわされる。

ⅴ=K/Y

これを変形すると、こうなる。

K=ⅴY

ここで両辺の変化分をとろう。

⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑤

3、
⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑤

これを、④(I=⊿K)に代入しよう。

I=⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑥

これを、③(I=S=sY)に代入すると

sY=ⅴ⊿Y ・・・⑦

これを整理すると、こうなる。

⊿Y/Y=s/v ・・・⑧

この「⊿Y/Y」は、国民所得の変化率、つまり「経済成長率」となっている。
この式では、「財市場の均衡」が達成されている状態で求められたもの、だから、この経済成長率は「保証成長率」(Gw)となる。

ハロッドの自然成長率(資本が完全に利用されているばかりでなく、労働人口の増加、技術進歩が完全に吸収されている場合の成長率。この成長率においては、ケインズのいう非自発的失業は存在しないことから、完全雇用成長率とも呼ばれる。)


4、固定資本減耗を入れるとどうなるだろうか。ここまでは、単純化のために、機械や設備などの「固定資本」の価値は低下しないと仮定して話をしてきた。だが
もし、このような価値の低下(固定資本減耗)がある場合を仮定すると、「保証成長率」(Gw)は次の形になろう。
Gw = s/v-資本減耗率
つまり、機械や設備が古くなる分だけ、成長率は低下すると考えている。
そこで、あらたな概念を考えて、

「労働市場」で「完全雇用」が達成されている「自然成長率」(Gn)は次の形になる。
Gn = 労働人口増加率
これは、「労働人口が増加した場合、同じ比率で経済が成長すれば、失業は発生しない」ということをあらわしている。
「技術進歩」があると仮定すると、「自然成長率」(Gn)は次の形になる。

5、
技術進歩」があると仮定すると、「自然成長率」(Gn)は次のとおり。。

Gn = 労働人口増加率 + 技術進歩率

 これを評して、労働人口の減少は「技術進歩」でおぎなうことができる。どちらかというと、経済成長率の最大要因は、技術進歩による労働生産性の上昇ではないか、というのであろうか。

最適成長条件

これらをまとめると、「最適成長条件」(Gw=Gn)は次の形となる。

  s/v = 労働人口増加率 

「資本減耗」と「技術進歩」がある場合は、次のようになろう。

s/v-資本減耗率 = 労働人口増加率 + 技術進歩率

6、ハロッドの提唱した3つの成長率の総括としては、次のとおり。

 こちらは、不安定性原理と呼ばれている。

 ここにあげた「貯蓄率」(s)、「資本係数」(v)、「労働人口増加率」の3つは、それぞれ別々に決まる値だとされている。
また、「ハロッド=ドーマー・モデル」では、「資本係数が固定的」と考えている。ついては、最適成長の条件である「s/v=労働人口増加率」の関係が成り立つような値が見いだせるかどうか。
 また、たとえ最適成長の状態にあったとしても、いったんバランスが崩れるとなかなか回復しにくいことも考えられている。このように「ハロッド=ドーマー・モデル」では、最適成長は「達成しにくい」ことを説明する。このことを、「不安定性原理」(ナイフエッジ原理)という。

 この関係について、教科書的には、例えばこう説明されている。
 「ハロッド成長モデルの基本的な考え方は、すでに説明した国民所得は投資の増加分に限界貯蓄性向の逆数を乗じたものだけ増大するという乗数理論と、所得の増加は新たな投資を誘発するという考え方を理論化した加速度原理の2つを結合したところにある。
 ハロッドは、3つの成長率概念、すなわち現実成長率、適正成長率、自然成長率を使って、これら成長率の相互関係から経済成長の不安定性を明らかにしようとした。これは、前章でも少しみたように彼の不安定原理(アンチノミー理論)として有名である。」(小渕洋一「イントラダクション経済学」多賀出版、1990)

🔺🔺🔺

(続く)


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◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山県

2022-02-11 10:46:25 | Weblog
136『岡山の今昔』1980年代の岡山県

 ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
 それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(5年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
 では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。

 二つ目、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
 一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。

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 次に、戦後の農業についてはどうなっているだろうか。ここで1980年までの岡山農業の歩みとしては、農家数、農業就業人口、経営耕地面積の変化に触れておこう。
 中でも農家数は、「1960年から1980年の間に3万7734戸がみられた。減少率は21.9%で、全国の23%をやや下回る。この間に専業農家は4万6657戸、率にして70%をこえる75.6%の減少があった。その減少はその数が実に4分の1になるという専業農家数の減少に負っている。他方、兼業農家はこの間8923戸、増加率8.1%の増加があり、専業農家の兼業農家化が進展した。しかし、この兼業農家数も1970年をピークとして減少に転じ、以後減少しつづけている。」(神立春樹「岡山県にみる戦後農業集落の変貌ー「農業集落調査」にもとづく統計的概観」岡山大学経済学会雑誌20(3)),1986)
 一方、農業就業人口については、「1960年には基幹的農業従事者のみであるが、33万3633人てあったものが、70年代には16万7326人へと半減し、さらに80年には8万475人へとまた半減するといつ激しい減少をみせているのである。」(神立、前掲論文)
 さらに経営耕地面積の変化もかなりのものであり、「1960年11万3451haをピークとして以後減少し、80年までに3万1232ha、率にして実に27.5%の減少があった。水田はこの間に1万8982haの減少があり、減少率23%、畑は1万383ha、率にして42.8%の減少があった。他方、樹園地は131ha、率にして2.8%の増加があった。農業の軸である稲作の水稲作面積をみると、1960年から80年の間に2万7896ha、率にして35%という減少があった。この岡山県の動きは、経営耕地面積、水田、畑のいずれにおいても、また水稲作においても、減少率は全国をはるかに上回っている。」(神立、前掲論文)

 それでは、これらを概観するとどうなるか、同論文において、神立氏は次のように語られている。
 「すべての類型農業集落においてその変貌は著しいが、その変貌には対蹠(たいしょ)的な二つのタイプがある。その一つは都市的集落における変貌である。都市的集落は岡山県の場合は岡山市の周辺の岡山平野部にあるものなどであり、そこは元来は豊かな水田農業地帯であったが、都市化のストレートな影響によって変貌している。住宅地化、工業用地化による混在化・都市化の進展は著しく、農業生産基盤は弱体となり、農業集落としてのまとまりもむずかしくなってきている。
 これと対蹠的なのは山地村山村的集落のそれである。山地村山村的集落は従来一定の農業生産基盤があったが、農業生産の担い手の流出により農業生産が衰微し、農業集落もそのまとまりを継続しがたいものともなる。
 この二つを両極とした多様な変化がみられる。この変貌についての立ち入った検討は個別的な地域についての検討によって果たされる。その対象としては、先程の集落変貌のタイプからみて、いまや都市化の進行の著しい県南部の肥沃(ひよく)な干拓地農村、そして一方での過疎的現象が著しい県北部の中国山地農村、これらが格好のもとなろう。」(神立、前掲論文)

(続く)
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