○○91『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(鑑真の来日)

2018-05-15 20:52:55 | Weblog

91『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(鑑真の来日)

 鑑真の人となりについては、さしあたり謹厳実直といったところか。この時期に唐から日本に向かった代表的な中国人として、日本にあまねく知られる。真人元開が著した『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』(訓読文)には、こうある。
 「東大寺戒壇院『伝教大師全集』宝暦十二壬午年刊本を底本
 大和上、諱は鑑真、揚州江陽県の人なり。族姓は淳干、斉の弁士?が後なり。其の父、先に揚州の大雲寺智満禅師に就いて、戒を受け禅門を学す。大和尚年十四、父に随って寺に入り、仏像を見たてまつりて心を感動す。因て父に請て出家を求む。父、其の志を奇なりとして許す。是の時、大周則天長安元年、詔有て天下の諸州に於て僧を度す。便ち智満禅師に就て出家して沙弥と為り、大雲寺に配住す。後改て龍興寺とす。
 唐の中宗孝和皇帝神龍元年、道岸律師に従て菩薩戒を受く。景龍元年、錫を東都に杖て、因て長安に入る。其の二年三月廿八日、西京の実際寺に於て登壇して具足戒を受く。荊州南泉寺の弘景律師を和尚と為す。二京に巡遊して、三蔵を究学す。後ち淮南に帰て戒律を教授す。江淮の間、独り化主為り。是に於て仏事を興建して、群生を済化す。其の事繁多にして、具に載すべからず。」
 そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。彼らは、遣唐使で、朝廷から、中国から「戒律」の専門家を連れてきてほしいとの密命を帯びていた。「戒」というのは、仏教者が守べき行いを定めたもの。「五戒の戒」とは、不殺生(ふせっせい)、不偸盗(ちゅうとう)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふいんしゅかい)の五つであって、これを守った上で、仏教徒がもらえるのが、元々の「戒名(かいみょう)」の意味なのだ。
 そらに「律」というのは、僧たる者の集団生活に辺り規則が定められていた。これらが弛緩していた日本の仏教界に、喝を入れようとしたのであった。
 その鑑真は、6回目の挑戦で日本にやってくることができた。第1回は743年、55歳の時であった。第2回は744年、56歳の時であった。第3回は744年であったが、これも失敗であった。そこで態勢を立て直して再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄されもまたもや失敗する。栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。第4回も744年。福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告したために失敗した。
 第5回の渡航は748年、鑑真が60歳のときであった。出航するまでは良かったが、暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。揚州に引き返す途中で、栄叡が死ぬ。遣唐使船で大陸に来て15年のことであった。鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。そして第6回の753年、時に鑑真65歳。日本から20年ぶりに第10回の遣唐使がやって来ていた。
 その日本への帰国便で、鑑真と弟子5人を非合法で連れ出そうということになる。帰りの船は4隻に約600人の大船団であって、鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、遣唐大使、つまり正使が鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断で自分の船に鑑真一行を乗せたことから、世紀の渡海が実現したのであった。待ちかねていた日本側は、さっそく鑑真の受け入れ準備に乗り出す。
 一方、唐においては、755年に安史の乱が起こる。節度使といって、募兵の長の一人が朝廷に対し反旗を翻し、都長安を攻めた。反乱軍は長安を占領し、玄宗皇帝らは四川に逃れる。唐は、安史の乱を鎮圧するため、遊牧民族のウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきたのであるが、他力を頼むようではもはや唐は衰退していくのみであった。
 894年(寛平6年)には、遣唐使が廃止された。それからおよそ200年の後の、平氏による日宋貿易まで、中国との関係はほとんど鎖国状態になっていく。日本側とすれば、もはや中国から学ぶべきものは何もなくなったと判断したのか、唐の側でも国勢衰退によりもはや受入れの態勢が整わなくなったのかもしれない。

(続く)

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○○90『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(吉備真備の場合)

2018-05-15 20:52:01 | Weblog

90『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(吉備真備の場合)

 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび)がいた。彼の出身は、吉備氏の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだと伝わる。古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。

 朝廷に出仕し、「大學寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄に見出されるとともに、位も上がって「正六位下」に昇叙され大学助となる。以後、玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって吉備真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国する。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。

(続く)

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○○89『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(その使命)

2018-05-15 20:50:27 | Weblog

89『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(その使命)

 遣唐使になってから、日本に様々な文物などが持ち帰られることになったのは、唐という国に日本が認知されたからであろう。ところが、これが対外的に認められた最初は何年であるかが長い間分からなかった。日本という国号が法的に確立したのは701年に完成の「大宝律令」なので、それからの両国の関係の中で、その時がわかる事績があれば良いのだが。それに対する手掛かりが今世紀に入って判明した。その報、いみじくも中国からやって来た。
 彼の地で発見されたのは、遣唐使で唐に行った先で死んだ井真成(いのまなり、699年生まれと推定される)の墓であった。彼の墓誌が発見された場所は、中国・西安の郊外(郭家灘(かっかたん)付近と推定)の工事現場だという。墓誌は蓋と本文の2つの石からなっており、それが同地の西北大学に持ち込まれ、調査が為される。

 その結果、日本人遣唐使の墓誌であることが判明し、そのことを西北大学が内外に発表したのが2004年である。実際にどの工事現場でいつ、発見されたのかは不明のままである。というのは、本文(16字づつ12行)には発見されたときの工事の時に何らかのミスがあったためか、傷があるために各行の冒頭などが読めなくなっている。その原文は、次のような構成となっている。
 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序、公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能、○命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶、○朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終、○遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月、○日乃終于官弟春秋卅六○○○皇上、○傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官、○卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水、○原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠、○兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰、乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶歸于故鄕」
 ここで「開元廿二年」、つまり734年をもって「日本」という国号が記されているからには、唐の方でそれまでに「倭」を改めたものと見える。井が唐に渡ったのは西暦717年、その時19歳であったという。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)らと一緒に唐に渡ったことになっている。その彼が日本に帰国を果たせないままに、734年に唐の都・長安(現在の中国・西安)で亡くなった後は、多くの遣唐使員と同様に脚光を浴びることなく、長い沈黙を余儀なくされていたもののようである。
 遣唐使には、小さな船に大勢が乗り込んでいた。はじめの頃は1~2隻であったらしい。それが8世紀に入ると4隻に増える。船を漕いで行くのだから船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らはもちろんのことだが、乗手としての人の数がとにかく多いのだ。大使の下に副使、判官、録事若、知乗船事、造舶都匠、訳語(おさ)、医師、陰陽師、画師、史生、射手、船師、新羅語や奄美(あまみ)語の通訳、卜部(うらべ)、様々な工人らがいて、さらに留学生・留学僧らが加わる。そういうことだから、一説には多いときには1隻に120人ほど乗っていたのだとか。だとすると、4隻ともなれば一行全員で数百人にもなっていたとも考えられているところだ。
 はたして遣唐使が身につけて帰った諸々の知識(思想的及び制度的なものを含む)や技術など、そして彼らが彼の地で収集し持ち帰った文物は、形成途上にあった日本の政治(制度を含む)や文化の発達に大きく貢献したのは疑いなかろう。それどころか、現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、過言ではあるまい。
 現在に生きる私たちは、いたずらに中国とは異なる、独自の道を歩んだことを強調し過ぎる嫌いがありはしないか。私たちの文化が造られてきた中に、中国からの諸要素が紛れもなく、しっかりと入り込んでいる、このことの意味をよくよく考えてみる必要がありはしないか。
 そればかりではない。彼ら、唐から遣唐使が持ち帰った中には、暦(こよみ)が含まれていた。その暦は大衍暦(ダーイェンリー、だいえんれき)といい、ちょうど唐に留学していた吉備真備が735年(天平7年)に帰国した時、楽器、武器などとともに、日本に伝えられた。この暦は、764年(天平宝字8年)から858年(天安2年)まで94年間にわたって使われる。
 ここに大衍暦 とは、僧の一行(いちぎよう)らが唐王朝の玄宗皇帝の命によって編んだ太陰太陽暦のことだ。それまでの李淳風の麟徳暦(儀鳳暦)では、日食や月食がしばしば合わないことから、より正確な暦をつくることを志すに至る。一行や南宮説(なんぐうえつ)らは、標準点を陽城(河南省登封県告成鎮付近)に置いてから、子午線を実地に測定していく。
 その後も、様々な課題について粘り強く思索し、新暦の編成のために全土に及ぶ大規模な天文測量を実行した。この暦は、729年(開元17年)から33年間使用されたのであるが、一行はそれを見ることなく、727年(開元15年)に45歳で死んだ。
 そして迎えた734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。

(続く)

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♦️394『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(日本、~1945)

2018-05-15 19:29:21 | Weblog

394『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(日本、~1945)

 いったい、第二次世界大戦とは何であったのか。さまざまなアプローチがあることだろう。しかし、何が一番人々の心を打ち、揺さぶるものとなるかは、時と場合による。ナチス・ドイツが組織的に行ったユダヤ人迫害と虐殺は、かれらを滅亡させるかの如くに行った、大規模かつ継続的なものであった。何よりも、その残虐さ、その殺人数において人類史に残る汚点であり続ける。
 指導者のヒトラー自身が、これを雄弁に語っているところだ。これを、戦後のドイツは国家ぐるみの「戦争犯罪」であったと認め、あのようなことが決して起きてはならないという決意の下に、国づくりを行ってきたという。幸いにして、1980年代になって、ようやくドイツとフランスに「歴史的和解」(フランスのミッテラン大統領と西ドイツのコール首相)が演出された。もちろん、それで大戦の傷が癒され尽くしたということにはならぬ、その分は現に生きる世代がその事業を受け継いでいくしかあるまい。
 これに対し、日本の先の大戦での戦争犯罪については、「ああでもない、こうでもない」ということであろうか、21世紀を迎えた今も決着がついていないものが多くある。例えば、日本軍が南京(なんきん)攻略の直後に行ったとされる、中国人捕虜の虐殺の話がある。これまでの日本政府は、大筋ではそのような事件があったことを否定していない。しかし、詳細な話に及ぶにつれ、口を濁らして語らなくなる。
 前述のドイツの対応事例と比較して、何が違うのだろうか。そこで思い至るのは、日本国内では、国論は統一されていないし、国民自らの良心に鑑みて、大いなる反省をしているとはとても思えない。第一の意見では、そもそも、そういう事件はなかったという。そういうなら、証拠を見せよというのが常套文句とならざるを得ない。それでいて、自分は何も踏み込もうとしない、平たくいうと「ずるがしこい」のである。これは、日本軍は、一説には、不可避と知るや、現地で証拠隠滅を急いだ。作戦や捕虜に関する記録はおろか、彼等を捕虜にする際に徴収していた兵器その他に至るまで、焼却処分その他で「足がつかないようにした」のだという。その様子は、「まるで阿鼻叫喚のようであった」(当時現場にいた兵士の証言)とも言われる。
 二つ目としては、かかる事件があったのは否定できないとする。その上で、日本側の正当防衛としての殺害をいう。具体的には、中国人捕虜たちが何かで反抗し(散発的、偶発的であったにせよ)、日本側を攻撃、もしくは威嚇してきた、もしくはその動きを見せたという。こちらの日本兵たちがやむなく応戦し、射殺を行ったのではないかと。これが「自衛発砲説」と呼ばれるのものであり、いわば、「暴発」での出来事であったとするもの。だが、これをもって日本側の正当防衛を立証するには、証拠らしいものが、これまでのところ一切示されていないである。
 その三つ目は、これには、現地の聯隊に止まらず日本陸軍そのものが組織的に関与していたという。周到なる計画的にでしか、2万人もの中国人捕虜たちを一両日に殺すことはできなかったと。しかも、現場に多くの備え付け機関銃を配備し、効率的に銃殺したのだという。その虐殺は、2日間に亘って行われ、例えば当時の兵士のメモには、2日目(南京への入城式典の行われた日)のこととして、「今日は1万4776名の捕虜」を目してのことだと記されているとのこと。
 これらにいたる経緯を詳しく伝えるものとしては、2018年5月14日の深夜番組、日本テレビの「南京事件2」での放送がある。その概要は、日本陸軍による組織的・計画的虐殺であったという見方に近いものとなっているように感じられる。そのようにいわれる一番の力となっているものは、やはり現地にあって事のほぼ一部始終を見ていた当時の兵隊たち(主に福島歩兵第65聯隊所属)の証言なり録音テープなどであろう。これらのうち当時の兵たちの証言については、いずれも、顔に「ぼかし」が入っていることから、匿名にしてもらいたい等々ということであろうが、事の流れはいずれもきちんと把握しての発言であるように感じられる。

(続く)

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