新◻️141の2『岡山の歴史と岡山人』勝央町(勝田郡)

2020-06-27 09:00:50 | Weblog
141の2『岡山の歴史と岡山人』勝央町(勝田郡)

 勝央町は岡山県の北東部、津山盆地の東部にあり、中国山脈の主峰、那岐山から西に向かって連なる山山の南、同じ勝田郡内の奈義町、津山市勝北(旧勝田郡勝北町)のほぼ南に広がる。
 北部は緩やかに傾斜する丘陵が起伏するも、中南部にかけては、町を南北に貫流する滝川に沿って概ね平地が続く。景観は、かなり開けた感じであろうか。
 21世紀に入っての合併話には、加わらなかった。町の中心地「勝間田」(かつまだ)は、古代の奈良時代から文書(木簡を含む)にもかなり出てくる。かつて出雲往来でにぎわった、津山への、津山からの距離は近く、江戸時代には美作7宿のひとつとして繁盛する。
 全国的にもよく引き合いに出される土地名にて、以下に中村勝男氏による説明をしばし引用させてもらおう。

 「同村は元来勝間田(かつまだ)村と称していたが奈良時代に諸国郡邑の名称は嘉字二字を用いることになり「勝間田」(かつまだ)を「勝田」(かつまだ)とした。近世には「勝間田村」に復した。明治二二年町村制施行に伴って、勝間田村外五か村が合併して「勝田村」(かつまだむら)と旧村名を継承した。
 ところが、隣郡勝北郡に「勝田村」(かつたむら)があり、郵送などにしばしば誤送等があり不便なので、明治二四年に再度「勝間田村」と改称、尋常小学校もこれに関連して校名を明治二七年に「勝間田」と改称した。村名・校名は共に読み方は終始「かつまだ」である。
 勝間田村は江戸時代慶長九年から慶安年間にかけて、出雲往来が改修されて宿駅が置かれ宿場町として栄えた。明治以後も郡役所、警察署、登記所、郵便局、銀行等が設置され、勝南郡諸般にわたっての中心地であった。」(中村勝男「阿部知二の父良平・母もりよが通った高等小学校」)

 珍しいところでいうと、東吉田の西隣、梶並川支流の滝川が南下してきて、流路を東に転じるあたり、その右岸に「畑屋(はたや)」と呼ばれる地区がある。江戸時代でいうと、この地は美作の国、勝南郡畑屋村であって、一説には、「秦(はた)」の勝部田の転訛としての「勝間田」や「秦山」の転訛としての「間山」と同じく、「秦屋」が転じて「畑屋」になったと伝わる。なお、ここに「秦」というのは、日本の古代に朝鮮から渡ってきた専門家集団「秦氏(はたし)」のことをいい、また文禄3年までのここの地は「幡矢村」の名称で呼ばれていた由。



 次に、産業としては、何があるのだろうか。まずは、農業面にて、黒大豆からナシ、桃、それにブドウの栽培が有名だ。畜産も盛んだ。少し変わったところでは、農業交流体験施設おかやまファーマーズ・マーケット ノースヴィレッジがある。

 では、工業面ではどうなのであろうか。南部の中国自動車道の勝央サービスエリア近くに勝央町中核工業団地を誘致して久しい。航空写真で拝見すると、周囲を緑の木立が囲み、自然環境を守るべく、全体が『工場公園』のような設計と演出がなされているという。
  ここでの業態としては、薬品や電機から機械など、かなり幅広いという。津山口方面との工業立地や商業施設との連結もあって、かなり恵まれているのではないか。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○○279『自然と人間の歴史・日本篇』レーニンと日本(1920)

2020-06-25 21:43:05 | Weblog

279『自然と人間の歴史・日本篇』レーニンと日本(1920)

 2017年11月3日付けの毎日新聞には、かねてのロシア革命の指導者たるレーニンへの「突撃取材」であろうか、こうある。
 「毎日新聞の前身である東京日日、大阪毎日の両紙は、ロシア革命3年後の1920年6月10日の紙面で、レーニンとの会見記事を掲載していた。革命発生時からロシア国内に駐在していた布施勝治特派員が、クレムリンの執務室で40分間にわたりインタビューしたのだ。」

 なお、生前のレーニンが会見に応じた外国人記者は3人にとどまるという。
 なお、この会見には朝日新聞特派員も同席していて、毎日紙より朝日紙の方が3日遅れてのスクープになったと伝わっていて、さすが、記者魂の真髄を垣間見た気がしてならない。
 その時のレーニンの言葉として伝わっているのは、「日本のある勢力は依然われらに対する態度を改めざるものあれど」と言いながらも、「予は日露両国の関係の将来を楽観している」とあるのが、筆者のような後代の日本人には目に痛い。
 ここに「日本のある勢力」との弁については、レーニンは当時の日本が国策として、革命干渉の名目にて、実はロシアの大地の一部を武力でもって領有しようとの野心をもって軍を派遣していたのであったにもかかわらず、そのことをあからさまに述べていないようだ。そうであるなら、取材を申し込んできた相手の国を気づかってのことなのかも知れない。
 それにもう一つ、布施によるレーニンの人となりだが、「東洋流の豪傑に似たるところ少なからざる」と論評するあたり、ロシア人としては小柄であろうし、筆者が執務室でのレーニンの写真を以前にじっくり拝見した感想では、すんなりとは受け入れにくいのだが。
 それはともかく、レーニンという人は、19~20世紀の政治家の中では、随一クラスの見識を備えた人物なのであろう。その彼はいまレーニン廟に生きたままの姿にて体が保存されている。本人も妻のクループスカヤも願わくない形で。
 その彼も、1918年~1920年頃の旧勢力との内戦の際には、政治家の豪腕さが目立った時期があった。ある時は、富農や宗教勢力の一部がロシア革命を潰そうと反政府軍と行動を気脈を通じていたのに対し、飢える労働者を救うべく、前者がかかる行動をやめないなら殺して構わない旨の指示も送ったやに伝わる、激しい一面も見られたという(とはいえ、ソ連崩壊後での旧「秘密文書」をどう見るかの問題があろう)。
 当時はまた、欧米や日本の軍隊がこの内戦の最中にロシア領内に進軍して、革命側を痛め付けていたのは、疑いなかろう。いわば、相手国への侵略なのであって、かかる「列強」の中でも日本たるや、内戦が収束に向かう流れになっても、なかなかに撤退しなかった。
 それらの一連の歴史を差し置いて、現代に生きる私たちが、当時の、生きるか死ぬかの内戦を戦っている革命側の指導者の「非人間性」ばかりを暴き立てようとするのは、相当程度に不公平なことになるのではなかろうか。
 レーニンを待たずとも、人間というものはその社会の時々の状況に適用しようとして生きている。彼は、他の人々と同様に、万能でも、聖人でもあり得なかったろう。
 過去においてのフランス革命、パリ・コミューン、アメリカ南北戦争などを顧みると、なぜあれほどまでに国民(一部、外国を含む)が殺し合わねばならなかったのか、私たちは、これを考え、人類を少しでも高みへと導いていくための教訓を歴史から読みとろうとすることでなければなるまい。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


新○○198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(あらまし)

2020-06-25 09:01:31 | Weblog

198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(あらまし)

 元禄期の政治の爛熟から、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の治世、幕府は態勢を挽回しようと試みていく。そのはしりは、6代将軍になってからの「正徳の治」として展開していく。まずは1715年(正徳5年)に出された『確固海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
 「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
 正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
 これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。
 その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ、1662~1712)の学問方師匠役の新井白石(あらいはくせき、1657~1725)と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ、1666~1720)という因縁の二人が中心であった。結局、
詮房は罷免され、代わって白石が表舞台に登場する。

 次なる課題としては、この頃すでに幕府財政が苦しさを増しつつあった。そこで財政を再建するための一手として、新井は貨幣改鋳を画策するに至る。その彼は、その前の元禄期の貨幣政策を振り返り、自身の日記『折りたく柴の記』の中で、こういう。
 「今、重秀が議り申す所は、『御料すべて四百万石、歳々に納めらるる所の金は凡七十六万両余、此内、長崎の運上というもの六万両、酒運上というもの六千両、これら近江守(荻原重秀)申し行ひし所也。
 此内、夏冬御給金の料三十万料余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此外に内裏を造りまいらせらるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。
 たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後、取用ひらるべき国財はあらず。いはんや、当時の急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外、内裏造りまゐらせらるべき所の料なり。

 しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内、二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金弐両を徴れしところ凡そ四十万両の内、十六万両をもて其の用に充てられ、其の余分をば城北の御所造らるべき料に残し置かれし所なり。
 これより外に、国用に充らるるべからず』といふなり。前代の御時、歳ごとに其出るところの入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるるに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。

 そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又銀貨を改造られしかど、なほ歳用にたらざれば、去年の春、対馬守重富がはからひにて、当十大銭を鋳出さるる事をも申行ひ給ひき 此大銭に事は近江守もよからぬ事の由申せし也 『今に至て此急を救はるべき事、金銭の製を改造せたるるの外、其他あるべからず』と申す。(中略)
 当時国財の急なる事に至ても、近江守が申す所心得られず。其の故は彼の申す所による時は、今歳の国用に充つべきものわずかに三十七万は、即是去々年の税課なり。されば今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくなりとも、去年納められし所の金七十六万両と、今ある所の金三十万両とをあはせて、総計一百十余万両のあるべし。また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其の価を給らざれば、其の事弁ぜずといふにもあらず。
 其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或ひは其の全価をも給り、或ひは其の半価をも給りて、来年に及びて其の価をことごとく償はれんに、其の事弁じ得ずといふ事なかるべし」

 この引用中段に「そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば」とあるように、幕府の財政は元禄期を入ってから急激な悪化を呈していた。またその直ぐ後の文中に「国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる」とあるのは、1695年9月14日(元禄8年8月7日)に出された金銀改鋳に関する触書のことであって、それにはこうあった。
 「一、金銀極印古く成候に付、可ニ吹直一旨被レ仰ニ出之一、且又近年山より出候金銀も多無レ之、世間の金銀も次第に減じ可レ申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被ニ仰付一候事。
一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被レ成候にては無レ之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可レ出レ之候、至ニ其時一可ニ申渡一候事。」
 同時に、元禄金銀も、慶長金銀と等価に通用させるよう通達が出る。
 「一、今度金銀吹直し被ニ仰付一、吹直り候金銀、段々世間へ可ニ相渡一之間、在来金銀と同事に相心得、古金銀と入交、遣方・請取・渡・両替共に無レ滞用ひ可レ申、上納金銀も右可為ニ同事一。」

 そもそも慶長小判の1両は、金四匁(4もんめ、15グラム)と定めてあった。この「1両」というのは貨幣単位、匁というのが重量単位のことだ。これに対して新しくつくられた元禄小判の1両は、8分の3(3/8)匁の金しか含んでいない。
 幕府としては、これを慶長小判と同等の1両として社会に流通させたい、しかも穏便な形でそうならねばならない。そこで、個々の流通に改鋳(「悪鋳」というべきか)したことを世間に安易に分からないような体裁、すなわち銅や真鍮(しんちゅう)を金に混ぜるという、ある種のごまかし」(「目くらまし」というべきか)をとる。
 この場合は、貨幣の価値が下がるのであるから、その分物価が上がっておかしくないし、事実、1694年(元禄7年)に米1石の値段が銀70匁であったのが、1702年(元禄15年)には銀100匁に上昇したのであった。


 ついでに言えば、新井の論では、貨幣の値打を下げるような貨幣の改鋳は「悪い改鋳」として非難されるべきものだ。それでは、彼はどうやっていくべきだとしたのだろうか。
 1714年(正徳4年)に彼が主導した貨幣改鋳によると、鋳造された正徳小判なるものに含まれる金量は、慶長小判に比べほぼ同重量なのであった。
 ところが、この改鋳ははかばかしい成果を上げられなかった、といって良い。というのも、今度は正徳小判を手にした人は貨幣退蔵を行ったため、社会に出回る貨幣がかえって不足して、経済活動をかえって停滞に向かわせてしまうという、困った事態をもたらしたのであった。
 このような道理については、当時の識者もそれなりに見抜いていたようであり、例えば、儒学者の荻生徂徠(おぎうそらい、1666~1728)は、こういう。

 「然るを今金銀半分の内にへり、慶長の昔に返れども、世界の奢(おご)り風俗の常と成たる所は、慶長の比と遥(はるか)かに異也。ふえたるかまども昔に複せずば、半身代に成て、世界困窮なる筈のこと・・・」(荻生徂徠「政談、巻之二」、1726年の作、「日本思想体系化36荻生徂徠」に所収、岩波書店、1973)

 要は、白石は、価値の減じた通貨と元のそれとを徐々に交換するべしとしたのだが、幕府が一気呵成に交換に応じたものだから、通貨の供給量が急に収縮してしまった。今でいう「デフレーション」のような状況となり、とりわけ米価か急落した。
 そのことを、後代の将軍、徳川吉宗(とくがわよしむね、1684~1751)の諮問に答えた儒学者の徂徠が振り返り、「ふえたるかまども昔に複せずば、半身代に成て、世界困窮なる筈のこと」、つまり、通貨の供給が半分になったからといって、現在の生活水準はその頃に戻せないと批判した訳だ。


 ともあれ、貨幣改鋳は、それからも繰り替えされていく。当の幕府としては、その都度、貨幣改鋳の出自分を収入に繰り入れることで財政の破綻を糊塗(こと)なり、先伸ばしにすることが可能とみていたのであろうか(なお、江戸時代後半の財政金融政策については、続編を企画中です)。 

 それというのも、財政の悪化の原因は、「地震や水害の復旧、ことに宝永元年の関東大洪水や宝永三年の富士山噴火被災地の復興、それに江戸城中の賄い費をはじめ生活消費出の増大、加えるに貨幣改鋳などによるインフレの昂進にあったが、なによりも年貢高の低下に大きな要因があった」(本間清利『関東郡代』埼玉新聞社、1977)とされている。
 これにもあるように、1704年(宝永元年)から1706年(宝永3年)にかけては災害続きでもあり、財政危機の真の原因はなかなかに複合的な様になっていたことが窺えるのである。

 
(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★


新○○144『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(播磨の土一揆、加賀の一向一揆)

2020-06-23 17:15:39 | Weblog

144『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(播磨の土一揆、加賀の一向一揆)

 正長の徳政一揆の翌年の1429年(正長2年)旧暦1月29日、播磨(はりま)の土一揆が起こる。『薩戒記』には、こうある。

 「(前略)ある人いわく。播磨国の土民、旧冬の京辺のごとく蜂起す。国中の侍をことごとく攻むるの間、諸荘園代しかのみならず守護方の軍兵、彼らのためにあるいは命を失い、あるいは追い落さる。一国の騒動希代の法なりと云々(うんぬん)。
 およそ土民の申すところ、「侍をして国中に在らしむべからず」と云々。乱世の至(いたり)なり。よって赤松入道発向しおわんぬてえり。」(権大納言・中山貞親「薩戒記」)

 こちらは、「旧冬の京辺のごとく蜂起す」となり、「侍をして国中にあらしむべからざる所」ということでの、守護の赤松氏の退去を要求する。大胆不敵とも言えるこの一揆のスローガンではあるが、結局は播磨の守護の赤松満祐(あかまつのりすけ)によって鎮圧された。


 次には、1474年(文明6年)、加賀で一向宗門徒による「一向一揆」が起こる。『大乗院寺社雑事記』が、こう伝える。

 「文明六年十一月朔日、加賀国一向宗土民 無□光宗と号す、侍分と確執す。侍分悉く以て土民方より国中を払はる。守護代侍方に合力するの間、守護代 こすぎ 打たれ了んぬ。一向宗方二千人計り打たれ了んぬ。国中焼け失せ了んぬ。(中略)土民蜂起希有の事なり」(「大乗院寺社雑事記」)

 こちらでは、一向宗(浄土真宗)への弾圧に対し、一向宗の本願寺門徒が立ち上がった。それは、加賀を支配していた守護、富樫政親と住民との対立が激化していく中での出来事であった。それから十数年後の1488年(長享2年)、本願寺門徒がついに高尾城に富樫政親を攻め滅ぼす。

 このような、「加賀の一向一揆」と呼ばれるような一大事件になった流れとしては、こう記される。

 「長亨二年六月二十五日。・・・今晨(こんしん)、香厳院に於いて叔和西堂語りて云く。今月五日越前府中に行く。其以前越前合力勢賀州に赴く。然と雖も、一揆衆二十万人、富樫城を取囘く。故を以て、同九日城を攻落さる。皆生害す。而して富樫一家の者一人之を取り立つ。」(「蔭凉軒日録」)

 しかして、これにある「一人」とあるのが、一揆の宗徒によって後釜の加賀国守護に据えられる「富樫泰高」なのであった。
 ついては、その後はどのようなことになっていったのだろうか。別な史料には、こうある。
 
 「其後加州に、又富樫次郎政親、いとこの安高を云を取立て、百姓中合戦し、利運にして次郎政親を討取て、安高を守護としてより、百姓とり立て富樫にて候あひだ、百姓のうちつよく成て、近年は百姓の持たる国のようになり行き候ことにて候」(「実語記拾遺」)

 つまるところ、ここに「百姓のうちつよく成て」とあるとおり、加賀の国ではこの後百年余りの間、本願寺教団と国人(地侍)らの連合による「百姓の持ちたる国」が確立し、彼らによる領国支配が行われる。

 
 なお、後日談ながら、1580年(天正8年)、北陸本願寺教団の平定に、織田信長配下の柴田勝家が乗り出す。そして迎えた1582年(天正10年)、最後に残っていた城主鈴木出羽守を中心とする、3度目の鳥越城攻めを行い、これを以て長い戦いを収束させる。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆


新◻️159『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

2020-06-21 21:12:47 | Weblog

159『岡山の今昔』岡山人(14~16世紀、雪舟)

 雪舟(せっしゅう、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。
 さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。

 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。
 帰国後には、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。応仁の乱で交配した京を避けて山口に暮らす。

 

 また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、画業において、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。

 「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

 珍しいところでは、作庭にもかなりの力をいれたようなのだ。例えば、29代の大内政弘の時代に常栄寺雪舟庭を設計したと伝わる。
 それから、鳥取でも、足跡が残る。医光寺(現在の鳥取県益田市)は、1928年に国指定名勝になった。その前身である崇観寺(すうかんじ)は室町時代(1363年)に創建。伝承によると、室町中期の文明年間(1469~1487)に雪舟が医者光寺の7代目住職として招かれたという。

 これに至るには、益田七尾城15代の益田兼尭(ますだかねたか)が、当時山口に逗留していた雪舟にはたらきかけたのを、益田氏は大内氏に臣従していたので、快く引き受けたのではなかろうか。

 雪舟としては、前述のとおり、大内氏の船で明国に渡るため28代・大内教弘の頃山口を訪れ、明国渡航歴への便宜を図ってもらった恩義があろう。


 その時に作庭されたのが、雪舟の設計によるものだという。その後、崇観寺は戦国時代に荒廃したものの、室町時代後期に医光寺と合併して現在に至る。1928年に国指定名勝を受ける。

 それに、医光寺から徒歩で行けるところにある萬福寺がある。その前身は、平安時代に別の地で「安福寺」として建立されたという。しかし、大津波で流出した。その後、室町時代初期の1374年に、益田七尾第11代城主により現在の地に萬福寺(まんぷくじ)として移築され、それからほぼ百年を経ての1479年に雪舟により石庭が造られたと伝わる。



(続く)

★★★☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


新◻️46の1の3『岡山の今昔』藩札は終幕へ(1853~1872)

2020-06-21 10:06:48 | Weblog

46の1の3『岡山の今昔』藩札は終幕へ(1853~1872)


 さて、話は岡山藩の金融にたち戻るが、札場(さつば)を巡る状況の19世紀前半は、不明らしいのだが、1850年(嘉永3年)頃からまた怪しくなってくる。相場の下落が始まり、1854年(安政元年には金1両が600匁(もんめ、1匁は約3.75グラム)まで下がる。

 参考までに、元禄(げんろく)の頃の鋳造貨幣の方は、金貨はいわゆる計数貨幣にて、小判(1両)、一分(ぶ)金、二朱(しゅ)金の三種類、それら三種の交換比率は1両=4分=16朱とされていた。その後、何度も改鋳などが行われ、金の含有率がへ減らされてきていた。かたや銀貨は、概ね関西以西での使用であったらしいのだが、それらは重さを測っての秤量貨幣であって、丁(ちょう)銀、豆板(まめいた)銀に分かれていた。

 これに臨んだ藩は、札価格の10分の1を切り下げたり、債務支払いの3年間凍結(モラトリアム)を布告したりで収拾しようとしたのであったが、そんなことでは「火に油を注ぐ」の類いであったという。


 かくて、城下の栄町での同年旧暦11月5日には、またもや取り付け騒ぎが起こる。どういうことかというと、モラトリアムに怒った人びとが、口々に「正銀」への引替を要求して、札場に座り込む。それというのも、藩庫にある準備銀は少なく、需要を賄い切れないのだから、ほとほと困っていたところへ、どうした巡り合わせなのか地震が起こる。


 これの余波であろうか、人びとも落ち着きを取り戻し、衝突の事なきを得たのだと伝わる、これを岡山では「安政の札つぶれ」と呼んでいる。
 その後も、一難去ってまた一難が起きていくも、1867年の明治維新により、備前岡山藩主の池田章政らが全国にも進んで版籍(はんせき)を天皇に「奉還」するに及んで、それまで長らく続いてきた「チキンレース」というか、政情は新国家の管理下での整理へと焦点が移っていく。

 

 なお、全国からの藩札については、できるだけ早く処理しないといけない。そこで、1871年(明治4年)12月の布告により、政府紙幣と引き換えるという方針が示された。その際は、同年7月14日時点の「相場」または実勢価格による。同時点での藩札の総額は、39,094(千円)とされ、これを大蔵当局が査定し、明治政府が引き換えの義務を負うことになった金額は、24,935(千円)だとされる。

 以降、政府は、かかる交換を順次進めていく(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)。


 加えるに、こうして、「道をはき清めながら」ということであったろうか、「殖産資金の供給と政府が受け継いだ紙幣の償却をねらい、1872年(明治5年)には、国立銀行条例が公布された。それをうかがわせるのが、預金や貸付、為替、割引などの業務ばかりでなく、「国立銀行券」としての紙幣を発行する権利が付与された。
 これを念頭に、岡山でも第22国立銀行が1877年(明治10年)に設立される。資本金は5万円、1000株にて、岡山市街の船着町で開業する。その発起人としては、7人のうち5人が旧士族が並ぶ。やや細かく紹介すると、旧藩主池田家(池田慶政、茂政、章政)のが62%、旧一般士族の持ち分(新庄厚信、河原信可、桑原越太郎、武田鎌太郎、花房端連、杉山岩三郎、村上長毅の面々)が29%。

 そして旧平民(広岡久右衛門、橋本藤左衛門)としての9%となっていたという(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)。

 

 

続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


新○○37の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文・弥生時代からの人口

2020-06-20 21:34:22 | Weblog

37の2『自然と人間の歴史・日本篇』縄文・弥生時代からの人口

 日本列島における人口の推移はどんなであろうか。歴史人口学者鬼頭宏氏からの一説を紹介しておこう。同氏は、縄文時代早期20.1(千人)、縄文時代前期105.5(千人)、縄文中期261.3(千人)、縄文後期160.3(千人)、弥生時代594.9(千人)、725年(奈良時代)4512.2(千人)。
 それからは、800年(平安時代)5,506.2(千人)、1150年(平安時代)6,836.9(千人)、1600年(慶長年間)12,273.0(千人)、1721年(享保)31,278.5(千人)、1786年(天明年間)30,103.8(千人)、1792年(寛政年間)29,869.7(千人)、1846年(弘化年間)32,297.2(千人)だったと推測結果をひ発表している(鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社、2000による)。
 このうち、縄文中期の261.3(千人)から、縄文後期の160.3(千人)への人口の大幅減少とは、かなりショッキングな出来事であった。この原因については、様々な説がある、その一説にはこうある。
 「紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、限りある空間を最大限に利用していたと考えられています。」(「日本が乗り越えてきた4つの人口の波」(ナショナルゲオグラフィックのHPより2018.1.8引用して紹介)
 「この時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が、一瞬、大きく人口を減らしたこともあった。ただしこれは、地域的なものであって、列島全体の人口減少という波には結びつかなかった。」(同)
 「当時の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったんです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった。」(同)
 この説の他にも、縄文人の食料調達が木の実などの植物質に偏り、多様性を失ったからではないかという仮説(羽生淳子・総合地球環境学研究所教授(米国カリフォルニア大学教授と聞く)も立てられているようであり、ならば当時の人びとが肉を摂取していたかどうかが分水嶺になっていったのであろうか。

 この国では、紀元前1000年~紀元が改まっての3世紀が弥生時代とされるが、1~2世紀頃には、寒冷期を迎える。それから徐々に寒さが和らいで、300年頃からはひとまず比較的温暖な気候に向かうものの、400年頃からは冷涼化をトレンドに移ったようだ。
 それが5世紀頃まで続いてから、停滞していたのが、600~750年頃には再び寒冷化に入ってしまう。この期間のことを「古代後期小氷期」という。その後の750~900年にかけて気候が顕著に持ち直したといわれ、暖かい状況は10世紀一杯まで続いた。
 
 もちろん、このような人口推計がどのようにして導かれるのかについては、それなりの証拠なり、よって立つ、もっともな推論がなければなるまいが。あるいは、一つだけの原因を特定しようということでは、全体像は見えて来ない性質の命題なのかもしれないと思われるのだが。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️925『自然と人間の歴史・世界篇』コロナとの闘い(アフリカ)(6.15時点)

2020-06-15 22:02:11 | Weblog
925『自然と人間の歴史・世界篇』コロナとの闘い(アフリカ)(6.15時点)

 5月7日、世界保健機関(WHO)のアフリカ地域事務所は、アフリカでの新型コロナウイルス感染拡大の予測を発表した。厳しい成り行きだと、WHOがアフリカと定義する47カ国、総人口約10億人のうち、今後1年以内に2900万~4400万人が感染し、8万3,000~19万人が死亡する可能性があるという。
 また、WHOの5月10日時点の発表によると、アフリカの感染者数の累計は4万2,626人と、世界全体の391万7,366人の1.1%にすぎないが、WHOは今後アフリカでも感染が拡大していくことを見込み、注意を促しているかたちだ。
 あわせて、感染拡大は向こう2~3年にわたり継続する可能性があるという。そうなると、医療体制に問題が出てくるとの心配が出て来ざるを得ないだろう。それに、政治対立などで適切な対策手段が取られない場合が考えられよう。
 WHOは、小国のほか、アルジェリアや南アフリカ、カメルーンといった国々が高リスクとの見方を示しているが、それ以外にも混乱が広がる可能性を指摘する声もある。
 一方、エボラ出血熱などへの対策の経験があったり、人口構成が若者中心であることで、ウイルスへの耐性が働くのではないか、ともいわれているところだ。
 6月11日、世界保健機関(WHO)は、アフリカ54カ国で、新型コロナウイルスの感染者が20万人を超え、死者は5600人以上になったと発表した。
 アフリカで感染者が初めて確認されてから10万人に達するまで98日かかった。ところが、10万人から20万人に増えるのにかかった日数はわずか18日だったという。
 国別の感染状況では、南アフリカが感染者の4分の1を占め最多。死者の7割以上はアルジェリア、エジプト、ナイジェリア、南アフリカ、スーダンの5カ国で発生している。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○○272の2『自然と人間の歴史・日本篇』第一次産業革命(紡績)

2020-06-14 10:32:42 | Weblog

272の2『自然と人間の歴史・日本篇』第一次産業革命(紡績)

 1888年(明治22年)3月9日、孝四郎を初代社長とする「有限責任倉敷紡績所」(略称はクラボウ)が発足した。社長には、大原孝四郎が就任する。これを遡れば、20代の青年3人が計画を立て、倉敷随一の金持ちの大原孝四郎に話を持ち込み賛同、出資が成立。これをきっかけに新しい事業の設立を知った多くの県民から多数の株式引受の申込みがあり、設立資金が整ったのだという。

 翌1889年(明治23年)には、英国式最新鋭の紡績設備を備えた倉敷本社工場(現在の倉敷アイビースクエア)が竣工された。当時、日本の精紡機はミュール精紡機と呼ばれる旧式設備が主体となっていたところへ、最新鋭のリング精紡機を導入するという思い切りの良さで操業を開始する。 
 その原理とは、
粗糸からはドラフトローラへ供給し、細く引き伸ばす、その次にリングとトラベラによって撚りをかけ、完成した糸をボビンに巻き取るのが一連の工程となっていて、製品化までの人手がより少なくて済むという。自動化が進む分、従来機よりコストも相当抑えられたらしい。


 これより前の段取りとしては、県内児島の下村紡績所に伝習生を派遣して、当該機械の操作などの技術を習得させてもらったと伝わる。
 操業に入ってからは、労働者の寄宿舎も整えたりで、概ね順調に推移国していったようだ。国内のみならず、中国へ「三馬」というブランド名で綿糸の輸出を行うなど、海外への販路拡大にも取り組む。
 全国的にも大手企業に名前を連ねるようになっての1893年(明治27年)には、商法の施行のため会社名を「倉敷紡績株式会社」に改めた。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


合併新○○145『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(山城の国一揆など)

2020-06-13 15:18:12 | Weblog

145『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(山城の国一揆など)

 まずは、応仁の乱の後の「下剋上(げこくじょう)」の風潮について、こうある。

 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。

 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。

 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)

 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。

 

 次に、1485年(文明17年)に起きた山城の国一揆もこの時代に起きている。こちらは反乱にとどまらず、地方レベルながら、政治的な支配まで進んだ。『大乗院寺社雑事記』に、こうある。
 「文明十七年十二月十一日、今日山城国人集会す。上は六十歳、下は十五六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両陣の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか、但し又下極上の至也。両陣の返事問答の様如何、未だ聞かず。


 十七日、古市(ふるいち)山城(やましろ)より帰陣。六十三日の在陣なり。筒井(つつい)同じく退散す。十市(といち)同前。越智(おち)も同じ。両陣の武家衆各引き退き了ぬ。山城一国中の国人等申し合す故也。自今以後に於ては両畠山方は国中に入るべからず。本所領共は各々本の如くたるべし。新関(しんせき)等一切これを立つべからずと云々。珍重の事也(現代訳は、まことに結構なことである)。

 文明十八年二月十三日、今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法猶以て之を定むべしと云々。凡そ神妙なり。但し興成せしめば天下のため然るべからざる事や。」


 これらにあるように、山城国(現在の京都府)南部地域において、国人(地侍)と農民が共同戦線を張って守護の畠山氏に相対峙した。

 それというのも、
この話のそもそもとは、応仁の乱の後の1482年(文明14年)、山城南部、河内、大和においては、畠山政長が率いる東軍に、畠山義就が率いる西軍が南山城に侵攻したという。
 1485年(文明17年)になっては、畠山政長の東軍が反攻を開始して、争いが収まる気配はなかった。

 そういうことだから、田畑は荒れるし、治安は乱れ放題という具合であったろう。一番迷惑を受けていたのは、この地域にかめてから平穏に暮らしていた人々であって、文明17(1485年)の旧暦12月10日、宇治、久世、綴喜、相楽4郡の国人たちは、農民たちの支援を受けて集会を開き、畠山両軍に退陣を迫る相談を行った。

 その翌日の11日、彼らは蜂起して、かかる申し入れを武力を背景にして、行ったという。

 そして迎えた同月17日には、両陣営の武士たちが陣営を引き払い、出ていった。
 念のため、「十七日、古市(ふるいち)山城(やましろ)より帰陣。六十三日の在陣なり。」の後に「筒井(つつい)同じく退散す。」とあるのは、それぞれ、「古市」が大和の国人にして畠山義就の被官、その勢力は約300とも。「筒井」と「十市」というのは大和の国人にして畠山政長の被官をいう。さらに「越智」とあるのは大和の国人にして畠山義就方をいう。
 
 これからは、横暴を許さないとの行動が、両勢力を退去された訳だ。そして、その後にいわく、「今より以後、畠山方の者、国中に入るべからず」「本所領ども(=荘園の権利関係)は、おのおのもとの如くたるべきこと」(現代訳は、「本所が支配する所領はもとのように本所支配に戻すこと」)「新関(しんせき)等は、一切これを立つべからざること」(新しい関所は一切立ててはならない)と。
 
 更に、文明18年(1486年)旧暦2月13日には、彼らは平等院に集まり、これまての運動の主旨にのっとり、「国中掟法」を定めるのだという。
 その後に作者が、「凡そ神妙なり。但し興成せしめば天下のため然るべからざる事や」(現代訳は、まことに感心なことだ。ただし、これ以上盛んになると、天下のためには良くないことになるだろう。)

 それからのこの地方では、ほぼ8年の間、畠山らの武家の影響力を排除して、自治を行ったことになっている。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★

新◻️82『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代)

2020-06-13 09:17:40 | Weblog

82『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代)

 さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
 ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。

 これより総社地区に入る。履く備前のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。

 現在のおよその行路はこのようなのだが、総社に入って最初に現れる川こそが、この戦国末期の戦いに際し、攻防に大きな影響を与えたとされる足守川(あしもりがわ)なのである。
 この地この時、秀吉が黒田勘兵衛の入れ智慧でとったとされる戦術の名は、「水攻め」なのであった。この周りの線に従っては、当時毛利方の援軍四万がぐるりと楕円陣を北向きに構えていた。そのあたりから北に向かっては、丁度すり鉢のような地形になっていて、それをぐるりと鳴谷川、長良川、血吸川などの小さい川がその周りを取り囲むように経由して、やがて合流する足守川の方へと向かって流れている。

 地質学者の宗田克己氏による推理(「私考」)には、こうある。
 「高松城は当時沼の城として、低湿地の城として、中央に築城されその要害を誇っていたのであるが、これが近くに足守川という天井川があってのもので、もしも堤防が決壊でもすれば、簡単に浸水することに気がつかなんだらしい。

 これは私考であるが、このあたりは50ミリの雨で水田が冠水するほどのところであるので、秀吉の攻め込んだ時ももう一帯が冠水していて、それに長雨をたたられ、秀吉にしてみれば手も足もでなくなっていたところ、ふと思いついたのがいっそのこと、もっと浸水させて城に水が乗るまでにしてやろうと、足守川の堤防を決壊して見ずを仕掛けたまでのことで、歴史に伝わるほど秀吉は大したことをしでかしたとは考えていなかったのであろうと思う。」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59)
 たしかに、眺めてみると、梅雨時ともなればこれらの川らかは水かさが増し、ただでさえ湿地帯になるというのがふさわしい地形ではある。その湿地帯の中心部にある城に向かって、北西方面から下ってきて、そこからは西から東へと流れているのが立田川であって、この川の丁度、現在の吉備津駅と備中高松駅とに位置する「蛭ケ鼻」を羽柴軍が堰き止めた。高いところでは、一説でいうと「7メートル」とも言われる土塁でぐるり囲んだという。

 そうなると、降りしきる五月雨は湿地帯の真ん中につくられていたこの城の周囲に溜まるばかりであった。人が自由に身動きできない状況をつくり出したことにより、毛利の軍勢は孤立無援と化した高松城の援軍に駆けつけることができなくなってしまった。
 その両軍にらみ合いの最中の本能寺の変により、主君の信長が殺されたのを知った秀吉は、急遽毛利と和睦した。その停戦協定には、「高梁川より西は毛利、東は宇喜多」の支配下に入ることが記されていた。美作ではその後も、宇喜多の支配を拒む勢力が反旗を翻したものの、すでに態勢は決まったも同然で、1584年(天正12年)秋までには美作全域が宇喜多氏に帰した。
 このあたりを舞台にしての作り話ではに、『桃太郎伝説』が名高い。この話の主人公の桃太郎は、桃から生まれた。だから、そのような人間はいる筈がない。それでも人として振る舞い、また動物たちを家来に従えて旅する訳なので、そのことに例を借り、処世訓なり現世への戒めなりを印象深く人民大衆に訴えたものと考えられよう。

 いまこの話の原型ができたといわれる、室町時代の中盤から末期にかけてを振り返ると、「戦国時代」や「下克上」(げこくじょう)とも形容される、油断ならない状況であった。この政治的混沌の時期には、『かちかちやま』や「舌きり雀」などの寓話も作られた。私たちの『桃太郎』伝説も、この時期に出来上がったと考えられている。前者の物語からは、同時代の殺伐たる空気が読み取れる。
 実は、2016年春から、吉備線の愛称というか、別名というか、それがJR西日本の提案で「桃太郎線」と呼ぶことになる。それにしても、「桃太郎線」が、なぜここに登場してくるのであろうか。それこそは、ミステリーであるのだが、確かなところは分からないのが現状だ。 

 ともあれ、話はこの国の中世から近世までに遡る。結論から言うと、前に述べた吉備津彦命と鬼の戦いの伝説が、別にあるところの桃太郎の寓話(ぐうわ)と結びついて、その結果『桃太郎』伝説が生まれたのではないかと。

 この二つの話を結びつけた立役者としては、岡山市の彫塑(ちょうそ)・鋳金(ちゅうきん)家の難波金之助(1897~1973)であって、彼は先の大戦前から「桃太郎会」を結成して吉備津神社を参拝したりで、両者の結びつきを大いに宣伝したとのこと。戦後になると、「桃太郎知事」と呼ばれ三木行治が岡山国体(1962)のシンボルに採用、そのあたりから行政も入っての「おらが国の桃太郎話」が喧伝されるようになる(詳しくは、例えば2016年6月4日付け朝日新聞、「みちものがたり・吉備路(岡山県)」)。
 だが、物事、馴れないところで具体的な選択肢を伝えるには、先ず話の筋道を整えることが大切であって、何よりもこの寓話に込められた「凄惨さ、残忍さ」をぬぐい去る仕掛けが必要であった。案の定、岡山人がこの寓話を導入する時には、そうはうまくならなかった経緯があるようだ。

 そのためか、吉備線のみならず、宇野線の名称においても、また地元の人たちに提案があった模様。提案を受ける側の地元の反応は、前向きのものではなかった、とも言われる。その理由としては、桃太郎寓話と容易に結びつくのではなく、「唐突感」があったからではないか、勝手に想像するのだが。
 それでは桃太郎話の未来を切り開くには、どうしたらよいのであうか。そのためには、例えば、あの勇ましく、軍隊調の歌をなんとかしなければなるまい。全部をご存知でない方もおられるかと、歌詞には、こうある。


 「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな。
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう。
3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう。
4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島。
5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや。
6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや。」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)


 この歌については、あたかも、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った「鬼退治」として、前向きの印象を持たれる人が多いのかもしれない。ところが、中身は相当に異なっている。

 1~3番目は、違和感はあるものの、まあ、普通の範囲内だろう。だが、それの歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、なんだか様子が怪しくなっていく。最後では、主観としては、何というか、ガチガチという位に固くなだ。だから、おしまいまで歌う気がなくなってしまうのだ。なにしろ、岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない。それでも、なんだか寂しい気がしてならない。
 この作り話の由来は、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説(中国が発祥)と関わりがあるのかもしれない。江戸期までには、今日に知られる全体の構成が出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立て、力をもって征伐を加える構成になっているのは、室町以来の伝統を引きずっているのかもしれない。

 しかも、桃太郎一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬を黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一部には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、元々はそうでなかった。その種の話は、日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。

 あわせて、全国で新規まき直しの話の伝わっていた愛知・犬山や高松・女木島(めぎじま)の『鬼ヶ島』洞窟話などとも連携するなどして、21世紀を見据えた平和を愛する桃太郎話の構築に努めたが良いのだろう。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


◻️25の2『岡山の今昔』備中国の上原郷、園荘など

2020-06-10 08:52:40 | Weblog
25の2『岡山の今昔』備中国の上原郷、園荘など

 まずは、現在の総社市上原(かんばら)とは、概ね平野部といって差し支えあるまい。今では、岡山市と倉敷市に隣接したベッドタウンの性格もある、この場所は古くから栄えていたという。
 鎌倉時代からは、備中の大河川・高梁川下流部に位置する市庭町とされる。それというのは、地方政治の町から山陽道や高梁川の水運を生かした、門前町、宿場町として賑わう。
 やがての近世からは、豊かな農村地域としても発展するにいたり、江戸時代には、岡山藩や足守藩など複数の藩領や幕府領などが入り交じる、複雑な統治模様となっていく。

 

 そこで、鎌倉時代からの市庭の形成に戻ると、文書にはっきり出てくるのは、1392年(明徳3年)の「上原郷未進徴苻案」に「市 十郎太郎」とあり、また1396年(応永3年)の「上原郷半済方散用状」にも「市庭屋敷分地子」が見えるという。さらに、1398年(応永5年)の「上原郷内得岡名田畠土貢目安」によると、「古市跡」に屋敷が三十三余りがあったことになっている。
 それでは、この地に市場が立って、主に取引された品目は何であったのだろうか。これについては憶測ながら、「上原郷の年貢品目等から米や麦、大豆、蕎麦などがあった」とも言われるものの、高梁川の水運を使って北から運ばれてくるものもあったらしい。
 1357年(延文2年)には、上原郷を押領する美作彦四郎の違乱を停止するよう幕府が守護・細川頼之に命じたとされ、高梁川上流部はおろか、美作とも関わりがあったことがうかがえる。

 そして迎えた1444年(文安元年)には、この地の名主・農民らが、荘主の光心を罷免するようにと、京都にある東福寺に訴え出たという。ここで注意願いたいのは、この寺そのものが荘園領主であって、この時代よりある程度時代がさかのぼっての大寺院は、かなりの確率で寺内奴隷も抱えていたことは意外と知られていない。
 さて、この言上状は、17か条に及んでいて、その中には「これ見よがし」の悪行なども動員されているという。したがって、信憑性の疑わしい言い分も含まれるという。
 ともあれ、光心は本郷の日常支配に、守護勢力の力添えが必要であったのに違いあるまい。そのことが、農民たちには不満であったのみならず、同言上内容によれば、光は「もし任期半ばて代官を罷免されるような動きになるなら、この地を守護領にしてしまうぞ」と、彼らを脅迫していたやに伝わる(このあたり、桜井英治「室町人の精神」講談社、2001、「日本の歴史」12などに取材)。
 
 
 
二つ目。1418年(応永25年)での天皇家に連なる貴族、伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)は、おのが領地に係わる一つの決断をしたという。その土地のあるのは、備中国園荘(そそのしょう)という荘園、さらにその中に西荘と東荘とであった。
 貞成が成したことの意味するところは、実に複雑であったという。すなわち、彼はかかる地の代官に、同国の守護を務めている細川満重の官僚、富田中務丞(とだなかつかさのじょう)を任じた。
 しかして、それは一体、何のためだったのだろうかというと、「(中略)これにより同荘は守護請になったが、じつはこのとき同荘を支配していてのは貞成ではなく、西荘が理覚院、東荘は梅津長福寺であった」(「桜井英治「室町人の精神」講談社、2001、「日本の歴史」)という。
 ここに語られているのは、貞成としては、自分の息のかかった者を備中に遣わし、かの地の支配を奪いとって欲しいと武力に訴えての守護の役割に期待したのだと。
 
 なお、かかる貞成とは、親王に家系にして、伏見宮を構えていた人物であって、あれやこれやにわたる才人として名を馳せていた。代表作として、室町時代前期における政治、社会経済から文化、果ては政治向きの話も含んでの日記「看聞御記(かんもんぎょき)」を記す。こちらは、1416年(応永23年)から1448年(文安5年)の途中までをカバーしての、自筆の原本全44巻から成るという。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新◻️134『岡山の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館、倉敷アイビースクエアなど)

2020-06-09 22:24:27 | Weblog

134『岡山の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館、倉敷アイビースクエアなど)

 この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方は、これからどうして暮らしていったらよいだろうかなど、不安な毎日を送っていた。そんな厳しい時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。

 この美術館建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。

 大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだろう。日本最初の西洋美術館となる。開館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。

 主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。

   これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
 むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
 倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再建したものだ。

 なお、ここで「民芸」というのは、大正時代の末期に文化人の柳宗悦(やなぎそうえつ)らが生み出した造語「民衆的工藝」の略称にほかならない。「用の美」を追及するこの民藝運動には、陶芸家の濱田庄司(はまだしょうじ)や河井寛次郎(かわいかんじろう)なども参加していく。その本拠地として1936年(昭和11年)に開設されたのが、東京・駒場の日本文芸館である。

 さて、話を戻しての倉敷民芸館だが、三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
 この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」


 それに、艶やかさということではないものの、倉敷アイビースクエアが憩いの場となっていて、倉敷の複合観光施設とされている。この地には、1889年(明治22年)に建てられた倉敷紡績所(現在のクラボウ)の本社工場があった。そのかなり前の江戸時代に遡ると、幕府の天領を統括する倉敷代官所だった。倉敷川を起点に綿花や年貢米の集積地として栄えた。

 1945年(昭和20年)まで稼働していたのだが、開かずの館となっていたのを、観光客が宿泊・飲食できる施設にしようと、1973年(昭和48年)に複合施設へと衣替えした。写真で眺めるレンガ造りの建築の色は落ち着いた赤茶色で、蔦(つた)が建物の壁を覆う形だ。

 この中には、ホテルやイベントスペースにレストランやお土産屋などが併設されているという。加えて、ネットでの説明によると、敷地には、複合施設とあって、訪れる楽しみが盛りだくさんなようだ。倉紡記念館は、1969年(昭和44年)にクラボウ創立80周年の記念事業として設立され、 1971年(昭和46年)から一般公開されたという。

 その館内には1888年(明治21年)からのクラボウの歩みと紡績産業の歴史が紹介されていて、 展示にあっては、クラボウの創業当時に建てられた原綿貯蔵用の土蔵倉庫が再利用されているとのことだ。
 次なる愛美工房は、陶芸や藍染が体験出来る工房にして、ギャラリーとショップも併設されているとのこと。また、アイビー学館というのは、かつては工場であったレンガ造りの建物本体にて、現在は、展示室・ギャラリーとして利用可能とのこと。さらに、オルゴールミュゼとは、旧工場の事務所を使って、大原家代々のオルゴール趣味のつながりなのであろうか、シリンダーオルゴールやディスクオルゴールなどの アンティークオルゴールの展示がされているようで、だとすれば、あのエキゾチックで涼しげな音を無料で拝聴できるなら幸いなことだろう。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○〇27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

2020-06-08 20:14:12 | Weblog

27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

 それらの一つには、その中から徐々に瀬戸内海に面した海岸線に沿って東へ東へ北へと、新天地を求め進んだ一部がいたのであろう。二つ目には、山陰から、これまた東へ東へ北へと進んだ一団があったのではないか。こちらの代表格は「出雲王朝」を形づくっていく。だとすれば、出雲の小国家の成立は弥生時代の中期頃からに当たる。もちろんそれは、今日の国ではない。出雲に弥生期の遺跡が見つかるまでは、この地域は神話のベールに厚く閉ざされていた。さらに、3つ目、4つ目の東方への旅が敢行されていったのかもしれない。
 前述の通り、弥生時代(紀元前1000年頃~)の少なくとも後半くらいからは、日本列島では、「国(くに)」が存在していた。中国の歴史書では、紀元前のかなり前から「倭」にこれがあるというのが載っている。ここに国というのは、今日におけるような四角張ったイメージは必ずしも必要でなく、当時のヨーロッパで環濠集落(代表的なのは、古代イギリスのケルト集落)を用いていた「部族」というトータルとしての名称と、さほどに変わらないのではないか。
 そのことを物語る遺跡としては、前述の吉野ケ里遺跡が有名だ。それは、紀元前のこの列島に、小規模ながらも、既に統治の役割が確立されていたことを覗わせる。そして、これと同類の遺跡は、列島各地にかなりあるのではないか。田和山遺跡(島根県松江市乃白町・乃木福富町)も、その一つであろう。2001年に本格的な発掘が行われた。
 こちらは、紀元前400年頃の構築だと推測されている。一説には、弥生時代中期末の紀元前1世紀頃まで存続したとみられる。
 その特徴としては、三重にめぐらせた環濠があった。それぞれの環濠の規模は最大で幅7メートル、深さ1.8メートル位あるという。それは、幾多の偶然が重なって出来たというよりは、それなりに明確な設計があってのことだろう。
 こうして環濠に囲まれた中には、それなりの構築物が造られていたようだ。頂部では、多数の柱穴が発見されたという。ただし、住居跡は環濠の輪の外部にしつらえてあったらしい。
 こうした弥生時代中期からの遺構を考慮すると、弥生時代に入っては、はっきりした階級というものが社会に出現していった。発掘された弥生期の中で特徴的なのは、住居が階層化されていったことがわかる事例が多く出てきた。たとえば、先に紹介した佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような周りに濠(ほり)をめぐらせる環濠集落は2世紀末には姿を見せなくなる。
 そして3世紀になると、堅剛な平地住居や高床式の倉庫などを持つ豪族の居館が一方に現れ、竪穴式の住居に加わる。水稲耕作が発達してくるにつれ、大規模な開田や水路の維持補修といった治山治水・灌漑なども発達してくる。そのための共同労働は始めのうちは自然発生的なものであったのかもしれないが、規模が大きくなるにつれて共同労働が必要となる。
 さらに進むと、一定の規模以上の共同体同士の間で仕事を共同して行う必要が出て来たり、それらの共同体の間で限られた土地や水を巡って争いが起きるようになっていったのではないか。こうした争い、併呑そして調整などを繰り返しているうちに、その地域の共同体を束ね、あるいは統(す)べて、農耕に伴うさまざまな作業を指揮するとともに、いったん事ある時には、外敵から自分たちの共同体を守る首長が列島のそこかしこに誕生していった。
 1994年(平成4年)に荒神山遺跡(島根県出雲市)、1996年(平成6年)に加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)など、弥生時代の遺跡が相次いで発掘された。この考古学上の発見により、これらの遺跡では「扁平な礫石を斜面に葺いた四隅突出型墳丘墓」(広瀬和雄「知識ゼロからの古墳入門」:幻冬舎、2015)とともに、九州圏と同じの銅剣、銅矛、銅鐸が発見されたことになっている(常井宏平・秋月美和「古代史めぐりの旅がもっと楽しくなる!古墳の地図帳」辰巳出版、2015)。この地域に当時、ヤマトや九州、このあと述べる吉備の勢力にも匹敵する国があったことが明らかになったのである。
 その出雲の国が、あの『魏志倭人伝』でいわれるうち、どの国であるかは、わかっていない。この書物において「倭」がとり上げられているのは、『三国志』・「魏書」・巻三十鳥丸(うがん)・鮮卑東夷伝・倭人の条であり、そこに弥生時代の有様なり大陸との関係なりが二千字くらいの文章で書かれている。魏の国史の体裁であって、編者は、三国鼎立時代を生き抜いた、陳寿という人物である。話を出雲に戻すと、その由来を『魏志倭人伝』中にある「投馬国」に求める見解が出されている。
 なお、一説には、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国が出雲である可能性を指摘する向きもある(例えば、歴史学者の倉西裕子氏の論考「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)。

 同著によると、ここに「三大国」というのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であったと考えられる(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国は、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国いったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同氏の同著)との推定に基づく説だといえよう。

 なお、これらの話とは別の流れにて、後漢の光武帝が与えたのではないかと考えられている、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と通称される金印が、江戸時代の博多沖、志賀島(しかのしま)で発見され、現在、国宝に指定されている。これをもらったのは、当時の倭の国王の一人ではないかというのだが、諸説がある。一説には、「そのような三段読みはあり得ない」(宗主国+民族名+国名+官号)、したがって、そのような印章は存在しなかったとの話なのだが、その場合は、「「漢(宗主国)の委奴国(わなこく)の王(官号)」と読むのが正しいのだという。


(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


新◻️211の20『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

2020-06-06 09:22:03 | Weblog

211の20『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

 大原孫三郎(おおはらまごさぶろう、1880~1943)は、郷土が生んだ豪傑の一人といって差支えあるまい。岡山県倉敷村代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られていた大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。

 その幸四郎が、1889年(明治22年)に当時としては世界最新鋭のイギリス式紡績機を輸入して、これを備えた有限会社倉敷紡績所(のちの倉敷紡績・クラボウ)を設立し、初代の社長に就任する。
 それからは、かつては製塩業、転じては綿花やイグサの栽培が盛んであったこの地域は、一躍、繊維産業の町に発展していく。同じ岡山県南部の下村紡績(児島)や玉島紡績(玉島)などとともに、日本有数の繊維産業をなしていく。

 1901年(明治34年)の彼は、クリスチャンになっていた。その案内役をしたのは石井十次であって、1899年(明治32年)10月に孫三郎が初めて石井を訪問して以降、親友となっていたという。その石井の影響が大きかったのであろうか、兼田麗子氏による、「1901年9月22日の日記」の紹介には、こうある。

 「神が生(せい、自分のこと)をこの社会に降(くだ)し賜わって、而(しか)も末子である生を大原家の相続人たらしめられたのは、神が生をして、社会に対し、政治上に対し、何事かをなさしめようとする大いなる御考に依るものものだと信ぜざるを得ない。この神様より生に与えられたる仕事とは生の理想を社会に実行するということである。」(「大原孫三郎ー善意と戦略の経営者」中公新書、2012)

 続いての1906年(明治39年)、父・孝四郎の紡績事業ほかを継ぎ2代目社長になった大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかった。事業を拡大するとともに、新たに銀行業や電力業なども手掛けるようになっていく。

 具体的には、1919年(大正8年)に、倉敷銀行を母体に岡山県内の6つの銀行を合併させ、第一合同銀行を設立する。1920年(大正9年)から1931年(昭和6年)までは不況続きであるが、倉敷紡績は、これにひるまずに操業を続けた。その一因としては、伝統的な和装用途の小幅木綿から、輸出向け広幅綿布や織物産地の新需要に合わせた綿糸の販売に活路をもとめ、これが当たった。

 1926年(大正15年)には、倉敷市に倉敷絹織株式会社を設立する。日本が敗戦に向かって歩み始めた1943年(昭和18年)には、その商号を「倉敷航空化工株式会社」に変更する。


 そうして大資本家の仲間入りをしていく彼であるが、会社経営に当時としては斬新な内容を付加して臨んだ。代表的なのは、広い意味での労働環境の改善を志向し、社内に医師の常駐や託児所の設置を行う。また、初等教育を受けていない社員に向けて、社内に職工教育部や尋常小学校を設立したという。さらに、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、自社の社員、工員ばかりでなく、地域の人々の診療も手掛けていく。

 これらの出費は相当にかさんだが、反対する重役たちに「わしの頭は10年先が見える」と言って押し切っていたというから、驚きだ。

 「温情という精神的なものだけでは労働問題は解決しない。労働の科学的な究明による数的理論を基礎にして労働者の真の福祉の向上をはか」(藤田勉二「大原孫三郎氏」高橋彌次郎編「日本経済を育てた人々」関西経済連合会、1995)らなければ、という思い。

 この持論を敷衍(ふえん)しての一説には、自らをして、労働者から搾り上げての儲けだけの資本家人生にだけはしたくなかったのかもしれない。

 そればかりではない。他の資本家とはかなり違っての有名なところでは、紡績業などで得た莫大な富を使って、文化事業にも精出す。その典型に、大原美術館の設立があった。その様式建築の斬新さとともに、集められた作品の数々からは、彼の意を受けて開館の基礎となる西洋絵画の収集に力を注いだ洋画家・児島虎次郎とともに、「人々に一流のものを見せたい」との思いが伝わってくるような気がする。
 そのほかにも、大原農業研究所(農研、1914年(大正3年))、大原社会問題研究所、それに倉敷労働科学研究所の三つの研究所を立ち上げる。社研と労研には貧困をなくす役割を、農研には農学への貢献を期待したという。

 まずは、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学農業生物研究所)の設立にあっては、その運営のために200町歩を拠出したという。幼い頃から、自分の家に出入りする小作人に対しての真摯な態度を培ってきたのを、彷彿とさせる出来事でもあろう。

 これらを評して、「当時の孫三郎は、単なる慈善事業には批判的で、防貧を理想とし、また労働者の過酷な労働条件の改善を心から願っていた」(阿部武司「大原孫三郎、百年先を見通す慧眼、いまに伝えるこころ、」帝国データバンク資料館だより「ミューズ」2019.7)というのも、彼ならではの取り組みかたであった。

 

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆