『(16*16)』『岡山の今昔』安土桃山時代の三国

2017-02-15 08:51:54 | Weblog

『(16*16)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』安土桃山時代の三国

 1584年(天正12年)頃には、美作の半ば以上が逆に宇喜多氏のものとなる。その勢いは、その後暫くの間に美作、備前、備中の全域に広がっていく。そのあたりの途中経過は、郷土の碩学の人びとによってこう伝えられている。
 「大別当城(奈義町高円)は、作州管家の本拠地です。後藤勝基の三星城に援軍を送りましたが敗北したので、その後宇喜多に従ったと記録されています。しかし、作州の武将・岩屋城の中村・矢筈城の草刈・枡形城(ますがた)(鏡野町)の福田・竹山城(大原町)の新免・高田城(勝山町)の楢崎たちは、城を死守して二年あまりもの間戦いぬきました。これは作州の地侍や農民たちが、自分たちの土地や自治を守るために毛利を助けて、宇喜多の支配をこばみ、積極的に戦ったからではないでしょうか。ここにも作州人の気骨ある気質が、よく表れているようです。」(美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(4)」1991) 
 豊臣氏による天下統一後は、備前、備中そして美作の広い領域が宇喜多領になって、豊臣政権による全国支配に組み入れられる。そうなったことにより、戦国の動乱期から長く続いた西国・中国地方の戦乱に終止符が打たれた形である。豊臣政権では、しっかりとした検地を行うことを諸侯に奨励した。建議したのは配下の石田三成らの官僚たちであったのだろうが、それを採決したのは百姓出身の秀吉自身であった。これを「太閤検地」と呼ぶ。検地をするには、まずは土地面積を測るための度量衡を定めることが必要となる。6尺3寸=1間(約191センチメートル)の検地竿(間竿)を定めた。一間四方を1歩といい、30歩をもって1畝(せ)とする。10畝をもって1段または1反(たん)という。そして10段(反)をもって1町(ちょう)とするもので、これを「町・反・歩制」と呼ぶ。
 これらの準備のもとに、それまで主流の指出検地(さしだしけんち)ではなく、役人が直接現地の田んぼに出掛けて面積を測り、地味、つまりそれぞれに1反当たりの標準収穫量を上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、下々田○石○斗の4種類にクラス分けした。畑や屋敷地についても米を作るものとして見立て、上畑と屋敷地は1石2斗、中畑1石、下畑8斗の3種類にクラス分けした。さらに、収穫量を量るものとして、京枡が用意された。こちらの寸法は、縦横が4寸9分(約14.8センチメートル)、深さ2寸7分(8.2センチメートル)の枡をもって1升(しょう)という。これらで、それまで時には幾重にも重なり合っていた土地の権利義務関係を整理し、その土地の耕作者を年貢納入の義務者に定めることで、かれから年貢を確実に年貢を徴収することが目指されたのである。
 1581年(天正9年)、宇喜多直家が死去し、嫡子・秀家が父の遺領である備前、美作、それから備中の内の高梁川以東を引き継いだ。それに加えて、これより前の1577年(天正5年)、宇喜多直家は播磨国佐用郡と赤穂郡をも支配下に入れている。1598年(慶長3年)からの太閤検地の一環として行われた宇喜多領内外の検地では、備前国22万3388石、美作国18万6017石、備中国17万6929石、播磨国35万8584石とされる。ところが、この時点での備中国の高梁川以東分、それから播磨の国の佐用郡と赤穂郡の石高は判明しない。そこで備中国の高梁川以東分を備中国の全体の石高の半分とする。残る播磨の分治分について、時代は1613年(慶長18年)に下るが、池田忠継が徳川幕府に西播磨国三郡(宍栗郡、佐用郡、赤穂郡)10万石を分与されていることから、、二郡の石高はその中の万石と推定しよう。当時の宇喜多の所領合計は、ざっと50万石は下らなかったのではないだろうか。
 なお、この宇喜多氏による検地の性格については、やや「無理押し」のきらいがあったのではないか。例えば、『津山市史』には、次のように伝えられている。
 「領国の安定を見るとともに藩政も膨脹し、そのうえ、外征による出費は多大で、藩財政は次第に困難を加えた。
 この頃領国の総検地を実施して、家臣の給地や社寺の所領にまで手を加えて整理統制し、これによって二〇余万石を量り出したといわれる。これはいわゆる太閤検地の一環としてなされたもので、近世の土地制度はこれによって定まった。このことは藩にとっても重要な財政対策となったのであるが、一面では家臣間の不和を深め、各方面の恨みを招く原因にもなった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第三巻、「近世1ー森藩時代」津山市役所、1973)

(続く)

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『(17*17)』『岡山の今昔』江戸時代の初期の三国

2017-02-15 08:41:03 | Weblog

『(17*17)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の初期の三国

 秀吉の死後の跡目相続の戦い、1600年(慶長5年)の関ヶ原において徳川家康を戴く東軍が勝ち、譜代、親藩を除いた全国の諸大名は、徳川についた者もそうでなかった者、さらに日和見であった者も含め、まるで鉢植えのようにあらたな領国を分け与えられる。この戦いで西軍に加担し、土壇場で日和見を決め込んだ毛利氏を例にとると、中国地方8カ国の120万国から29万石へと減封となる。毛利氏とすれば、この減封に対処するため、1607年(慶長12年)から1610年(慶長15年)にかけてに再度検地を実施した。その結果は、周防(すおう)と長門(ながと)の2カ国で、実高53万9268石となった。この石高は、太閤検地の一環として1587年(天正15年)から1590年(天正18年)にかけて行われた旧領国内の検地による石高を上回る。再度の検地の結果をそのまま幕府に上申すると困るので、36万9411石と上申したところ、これが認められる。
 備前、備中及び美作に関するところでは、関ヶ原の戦いで西軍に与していた宇喜多秀家の軍は敗走し、後に捕らえられ、わずかに残った家臣ともども八丈島に流されてしまう。宇喜多の旧所領のうち、関ヶ原の戦いを勝利に導いた小早川秀秋に備前一国を与えるとの家康の内意が示されたものの、秀秋が黒田如水(勘兵衛改め)に仲介を頼み、家康は如水の顔を立てる形で秀秋に美作を加増したとも伝えられている。なおも歴史は巡る。1602年(慶長7年)に「胡乱の人」秀秋が美作を領有することわずか1年半で死ぬと、継嗣がなかったので、小早川家は断絶した。
 1603年(慶長8年)、池田輝政が小早川氏のあと備前28万石を、関ヶ原後の播磨52万石に加増される形で受け継いだ。なお、1617年(元和3年)、備中松山に鳥取の池田氏が6万5千石で移ってきた。ほかに、同年まで幕府天領として備中国総番所が置かれていた倉敷は、1642年(寛永19年)になってこの天領は「倉敷陣屋」と名を変更した。この役所の管轄となったのは、備中の他、備前の一部、四国・讃岐の一部、小豆島を含む塩飽諸島の天領も含まれており、都合6万石余分の大きさの年貢がこの町に集積することになったことから、その業務を扱う倉敷商人たちを繁栄の道へと押し上げることになっていく。
 1603年(慶長8年)、小早川家取潰しの後の美作国主として、1599年(慶長4年)から信州川中島13万石を拝領していた森忠政が、徳川秀忠から国替えで美作18万6500石を申し受けて着任した。それからまた40年余が過ぎ去り、徳川幕藩体制の基礎が固まったのが17世紀の半ばあたり。私の生まれた家の話はその頃から始まっている。その頃の美作がどんなであったかを伝えるものに、1661年から1672年の寛文年間に勝南郡で、森藩の大庄屋を務めていた岡市右衛門が書いた『諭文』(さとしぶみ)があり、その一節にこうある。
 「御当主様(森家)御入国前、今より五六十年の昔の村々有様いかに御座候や。当美作は中古播州赤松家の領地なりしも、合戦より山名家の領地と相なり、また戦争あって赤松家に返りまた戦い浦上家と相成るか。浦上亡されて宇喜多家と変わり、その内には毛利の強勢に襲われ、尼子の暴行に逢い、所の地頭は、風になびく草の如く有るもなきが如く、百姓は田畠持ち居るも強きもの来て横取り、米を貯え囲えば強盗来たり、家内を傷け奪い取るも、諸浪人来り強談するも、守護職の政治は更に行き届かず、妻子と共に安眠する隙(ひま)これなく、年寄りありては逃るに差つかえるというてきらわれ、誠にあわれなる事にて御座候、もっとも郡村奪わんとする敵には、軍勢押出し御防ぎあるも、村方百姓内へ立ち入る浪人もの・ねだれ者(拷請者(ゆすりもの))・盗賊などには行き届かず、銘々防ぎよりほか致方これ無し。赤松・山名の御時代には、一郷一庄また村方に郷土を置き、これを頭として壮実のもの組をこしらえともども村を守り居るも、守護職・地頭職に合戦ある時は、軍人として呼びつけ戦いに役せらることにて、誠に守護職は、年々年貢を取るのみにて、百姓は政治の御陰(おかげ)をうくるということ更に御座なく候。」(『美作一国鏡』所収の一節を、柴田一『岡山の歴史』(岡山文庫57、日本文教出版、1974、71~72ページ)にて紹介されているところから引用)
 森氏が美作に入ってからの支配の要諦は、過酷な百姓支配にあった。城普請は人々への苦役で数十年にも及び、城を守る防護線としての城下町が整備されていった。津山城下から離れると、そこは美作の大地が広がっていた。郡奉行(こおりぶぎょう)が6人いて、各々が二郡ずつを管轄していた。この奉行の下には下代一人と、所務下代が三人、それに書役一人の合計5人が従った。彼らは、自邸を郡役所にしていた。その百姓支配の手、腕となり、脚となったのが「大庄屋」の面々にほかならない。
 「寛永初年(1624年)ー中略ー各郡より五十一人御選抜、登城仰せ付けられ、御家老原豊前殿より、思召をもって今般大庄屋役仰せ付けられ候間、上下の間に立ち、御用弁仰せらるべき旨御演達の上、大庄屋一人の引受高二千石以上八千石まで、地理の模様にて一触となし、一触毎に、肝煮役(きもいりやく)二人以上四人を置かれ、右肝煮と村庄屋を大庄屋の支配とし、大庄屋は郡奉行の支配に定められ、ー中略ー総て御用向は郡奉行より大庄屋へ相達し、大庄屋はこれを肝煮に、肝煮はこれを村庄屋に相達し、成るべく全国緩急無く行き届き候様なされたき御趣意に候」(『大庄屋由緒調』、1884年矢吹正則取調べ)という、綿密さであった。

(続く)

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(504*378)『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

2017-02-04 22:36:14 | Weblog

(504*378)『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

 2016年からは、現天皇の生前譲位の意向を受けての、新元号制定の話が広がりつつある。元号法には、こうある。
「1、元号は、政令で定める。
2、元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則
1、この法律は、公布の日から施行する。
2、昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」 
(法律第43号(1979年6月12日))
 では、これまでどんなやりとりが為されてきたのだろうか。顧みるに、この元号法制化の時の政治では、幾つかの論点が出された。時は、敗戦から30年余りが過ぎた1979年2月、皇位継承があった場合に改元すると定めた元号法案が、政府(大平正芳首相)により国会に提出された。毎日新聞(2017年1月6日付け)に、その時の論点整理がしてある(表の紹介に当たっては、筆者により適宜、番号、句読点などをつけてある)。
 「(1)法制化について。政府・与党:「元号制度を明確で安定したものとする。」/社会・共産党:「天皇を神格化させることによって、戦前の天皇主権へ道を開く。」
(2)法制化後の元号の扱い。政府・与党:「一般国民に元号の使用を義務づけているわけではない。」/社会・共産党:「事実上の強制が行われようとしている。」
(3)一世一元制について。政府・与党:「象徴天皇と国民とを結ぶ深いきずなとしてふさわしい。」/社会・共産党:「絶対主義的天皇制の専制支配を支える役割を果たしてきた。」
(4)元号は文化か。政府・与党:「わたしたちの日常生活に根をおろしている尤も身近な国民文化。」/社会・共産党:「法制化しなければ存続し得ないものは、受け継ぐべき文化の名に値しない。」
(5)憲法との関係。政府・与党:「憲法は象徴天皇制を定めており、憲法違反は生じる余地がない。」/社会・共産党:「憲法の国民主権の清新に反する。」」
 これらの5項目の論点の他にも、「西暦で充分」とか、「日本でだけしか通用しない元号では、西暦との換算が大変」、「元号は天皇の一代限りであるこので、元号間の通算でもわかりづらい」、さらに「国際化時代において元号に拘るのはわからない」など、多様な意見が国民から出されていた。著名なところで財政学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)は、こちらの文脈で元号存続に難色を示していた(『1970年』もしくは『実力は惜しみなく奪う』などの評論集がある)。彼があえて述べたのには、いわゆる「元号問題」は政府や著名人から成る「有識者」が議論し決めて、上からおろすものでなく、主権者である国民がどうするかを決めるべきだ、という含みがあったからではないか。
 ところで、今回は、これまでのところ、国民からの意見がチラホラながら散見される。
 「天皇陛下の退位を巡り、新元号に関する議論が進んでいる、2019年1月1日付で新元号にする案もあるようだ。
 しかし、私はあえて言いたい。国民生活への影響を最小限に抑えるというのなら、いっそ元号を廃止すべきだ。そして今後は西暦一本でいけば、国民の利便性は確実に高まると思う。
 現在は、元号と西暦が併用され、特に役所関係の書類は、元号しか書かれていないことが多い。ケースに応じて西暦を元号に換算したり、その逆をしたりすることが、どれほど面倒か。元号を廃止した場合、どれほどの不便があるのか、私にはわからない。
 そもそも、もうわが国は天皇主権の国ではない。国民主権となって70年が経つ。天皇が代替わりしたら元号を変えるという制度は時代錯誤もはなはだしく、民主主義にもそぐわない。
 国民生活を不便にする上、日本はあたかも天皇が治める国であるかのような錯覚を生じさせる元号は、この機に根拠となる元号法とともに廃止する勇断をすべきだと思う。みなさんの意見を知りたい。」(2017年1月18日つ付け朝日新聞、『声』欄、H氏)
 誠に、現在が民主主義の世の中というのであるなら、この種の問題は、優れて日本の文化と関わりがある。国民の間で大いに議論すべきであって、遠慮すべきではあるまい。国の未来は、国民自身が責任を持って切り開いていくべきものだろう。元号法制化からはや30年以上が経過し、日本を取り巻く状況も大きく変わった。元号も日本と日本人の持つ一つの文化であるなら、これを巡っての変化はこれから、さらに大きなものになっていくであろう。
 いわゆる国旗国歌法(こっきこっかほう)は、1999年8月13日に公布・即日施行された。
 「第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
附則、施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。」
 国旗は、平たくいうと「日の丸」で、要は太陽によって命を吹き込まれている国という意味合いであろうか。デザインや単なる配置のことではない。大まかな輪郭として、この国の太陽との関わりの一断面を切り取って図案化したものだと考えている。
 もう一つの国歌を巡っては、賛否両論がある。戦後、純粋な音楽論を展開してきたのは、多くは反対論の側であって、その一つにこうある。
 「よい楽曲は、言葉(歌詞)とメロディーがよく合っていて、自然に聞こえなければなりません。海が膿(うみ)になっては困ります。これを歌うと、君が代は、でなくてどうしても君がぁ用は、と聞こえます。それに音楽的フレーズが、千代に八千代にさざれ、で切れて、さざれ石という言葉が、さざれ、と石、と真中で割れてしまうように、歌われやすいのです。最後の所、こけのむすまで、が、むうすうまああで、と無理な引き伸ばしが、さらにこの曲を不自然なものにしています。要するに、歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎるので、無理に引き伸ばしているのです。ですから、この曲を大勢で歌うと、お経のように意味がわからなくて、間のびした、だらしのない感じになってしまいます。」(中田喜直『メロディーの作り方』音楽之友社刊)
ここに述べられるのは、楽曲としての『君が代』には、「歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎる」という、作曲の上での問題が認められる、だから、『君が代』は歌としていい歌ではないことになっている。要するに、日本伝統の音楽というのは自然に歌え、かつ意味が通じるものなのであって、『君が代』が日本伝統の音楽であるというのは間違いだ、というのである。
 その一方で、『君が代』の歌詞は、雅楽朝のメロディーであってこそ冴(さ)え冴えとするのではないかとの擁護論がある。そのここと一部重なるのかもしれないが、既に長いことこの歌を耳にし、時には歌っている向きにあっては、「親しみが感じられる」「馴染みがある」との声も根強くあることだろう。げんに、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚され、国歌のメロデイーが流される時、口ずさんでいる国民は、相当数おられるのではないかと推測する。仮に、この歌の歌詞が天皇と天皇制にひれ伏す類から完全に逃れているとは言い難く、またメロディーも歌詞にそぐわない箇所があるとしても、それらからストレートに『君が代』が無用の長物となるのではないのかもしれない。
 やはり、国歌というのは、この先の大いなる国民の経験の中で、主権者たる国民の総意の形で創られてゆくものではないかと考えられるのである。

(続く)

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