♦️728『自然と人間の歴史・世界篇』アルメニア

2017-11-30 21:44:38 | Weblog

728『自然と人間の歴史・世界篇』アルメニア

 現在のアルメニア共和国(通称アルメニア)は、南コーカサスに位置する共和制国家である。「ロシアとその周辺国」に数えられるのが通常だが、東ヨーロッパに含められることもある。
 その書かれた歴史は紀元前9世紀頃にも遡る。ヘロドトスの著作「歴史」以来の国名アルメニアにて、中東でも勇名を馳せていたらしい。紀元前4~同3世紀、東アルメニアにエルヴァンド朝が建っていた。紀元前1世紀、西アルメニアにソフェネが成立する。紀元前190~紀元後10頃、アルタシェス朝古代アルメニア王国が成立する。1~5世紀、アルサケス朝の支配を受け、ローマとペルシアにより分割される。301年、アルサケス朝のトルダト3世がキリスト教に改宗する。これがあって、アルメニアは「最初のキリスト教国家」とも称される。
 7世紀には、ササン朝ペルシアとビザンチン帝国による分割統治下にあった。885年に王位に就いたアショット1世は、両者の承認を得て、教会の新設や修復を行う。991年には、アフパト修道院がビザンチン様式で建てられる。この建物は、「アフパトの聖十字架」と呼ばれ、1996年に世界遺産に指定される。
 11世紀、この地はセルジューク・トルコ朝の統治下にあった。1050年頃~1375年、キリキア(アナトリア南東部)にアルメニア系王朝があった。13世紀、この地にモンゴル軍の攻撃があった。14~15世紀、この地はティムール朝、カラ・コユンル朝、アク・コユンル朝に相次いで支配される。16~18世紀、オスマン・トルコ朝とサファヴィー朝によるアルメニア争奪戦下におかれる。1894年には、オスマン・トルコ朝の支配に反対するアルメニア人活動か1~2万人が虐殺される。
 1928年、トルコマンチャーイ条約により東アルメニアが、イランからロシアに割譲される。1918年5月、アルメニア共和国が成立する。これを第一共和国という。1920年、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立する。1922年、この地の人びとは、アゼルバイジャンと共にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を形成し、ソ連邦の結成に参加する。1936年には、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立する。
 1988年2月、ナゴルノ・カラバフ帰属を巡るアゼルバイジャンとの抗争が表面化する。1990年8月23日、共和国主権宣言を行う。1991年9月21日、共和国独立宣言を発す。1991年10月、テル・ペトロシャンが大統領に就任する。1994年5月、ナゴルノ・カラバフ紛争に関しアゼルバイジャンと停戦協定を締結する。1998年3月に、コチャリャン大統領に選出される。2008年2月、サルグシャン大統領が選出される。

(続く)

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♦️727『自然と人間の歴史・世界篇』ジョージア(旧グルジア)

2017-11-30 21:42:57 | Weblog

727『自然と人間の歴史・世界篇』ジョージア(旧グルジア)

 ジョージア(2015年4月まではグルジア)は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。現在のロシアとの国境は、大カフカス山脈で遮られている。首都はトビリシ。
 紀元前6世紀、西ジョージアにコルキス王国が成立する。前4世紀~後3世紀、東ジョージアにイベリア(カルトリ)王国が成立する。4世紀、イベリア(カルトリ)王国がキリスト教を国教化する。ジョージア文字の考案。562年、西ジョージアはビザンツ帝国により併合される。6世紀、東ジョージアは、ササーン朝ペルシアの支配下に入る。7世紀後半には、東ジョージアがアラブにより征服される。975年、バグラト朝が成立する。 11世紀、バグラト3世がグルジア王国を創建する。1103年、彼はパグラチオ大聖堂が創建する。この時、キリスト教はこの地に大いに広まっていったと考えられる。後のことだが、ここは、1994年に世界遺産に指定される。1130年、ダヴィド4世は、郊外のイメレティアの丘の上に、ゲラチ修道院と王立学校を創立する。この王は、科学教育に熱心であったことが伝わる。タマラ女王(在位1184~1213)のもとバグラト朝が最盛期を迎える。南コーカサス全域を領有する。
 13世紀以降、数次にわたる外敵の侵入がある。16世紀以降、オスマン朝とサファヴィー朝により東西に分割される。1783年、ロシア帝国が東ジョージアのカルトリ・カヘティア王国を保護国化する。1801年、東ジョージアがロシアに併合される。19世紀前半、西ジョージアの諸地方が漸次ロシアに併合されていく。1844年、ロシア帝国がチフリスにカフカース総督府を設置する。1878年、アジャリア併合によりジョージア制圧。1918年5月、ジョージア・メンシェヴィキによりジョージア共和国独立宣言が行われる。1921年2月、赤軍チフリス入城。ジョージア・ソビエト社会主義共和国が成立する。1922年、アルメニアは、アゼルバイジャンと共にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を形成し、ソ連邦結成に参加する。1956年には、民衆集会・運動が軍により流血の弾圧。トビリシ事件という。1989年4月、二度目のトビリシ事件で、独立回復要求集会へのソ連軍の弾圧があった。1991年4月9日、独立宣言。1991年5月、ガムサフルディアが初代大統領に当選する。
 1992年1月、反ガムサフルディア派が大統領官邸を占拠する。ガムサフルディア大統領はジョージアから脱出する。1992年2月、国家評議会創設。シェヴァルナゼ元ソ連外相が帰国し、国家評議会議長に就任する。1995年11月、シェヴァルナゼが大統領に就任する。2000年に再選される。2003年11月、野党勢力が議会を占拠し、シェヴァルナゼ大統領が辞任する。これを「バラ革命」という。2004年1月、サーカシヴィリが大統領に就任する。
 2007年11月、政府が、反政府デモ隊と治安当局の衝突により多数の負傷者が出たことを受け、非常事態令を発令する。2008年1月に大統領選挙を繰り上げることで事態は収拾する。2008年1月、サーカシヴィリ大統領が再選される。2008年8月、ジョージア軍と南オセチア軍の軍事衝突にロシアが介入する。ロシアは、南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認する。2012年10月、議会選挙にて野党「ジョージアの夢」が勝利する。イヴァニシヴィリ首相率いる新政府が発足する。2013年10月、大統領選挙が行われ,与党連合「ジョージアの夢」が立てたマルグヴェラシヴィリ候補が当選する。2013年11月、マルグヴェラシヴィリ大統領が就任する。ガリバシヴィリ内務大臣が首相に就任する。2015年12月、ガリバシヴィリ首相が辞任し、クヴィリカシヴィリ首相が就任する。2016年10月、議会選挙で与党「ジョージアの夢・民主ジョージア」が圧勝を果たす。

(続く)

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♦️726『自然と人間の歴史・世界篇』キルギス

2017-11-30 21:41:43 | Weblog

726『自然と人間の歴史・世界篇』キルギス

 現在のキルギス共和国(通称キルギス)は、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家である。首都はビシュケク。かつての正式国名はキルギスタンである。その位置関係だが、北はカザフスタン、南東は中国、南西はタジキスタン、西はウズベキスタンと接する。
 ここにキルギスというのは、モンゴル高原の北に広がる、南シベリア草原のエニセイ川流域で遊牧生活を送っていたトルコ系民族の名前だという。中国史でいうと、漢代には結骨として出てくる。匈奴に服属していたらしい。現在キルギス人が多数といわれるが、17~18世紀頃までにキルギス人の民族意識が高まっていく。18世紀後半~19世紀前半には、コーカンド・ハン国による支配があった。1855~1876年には、ロシア帝国の支配下にあった。1918年、ロシア連邦共和国内の一部としてトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1924年、中央アジアの民族・共和国境界が確定する。これにより、ソ連邦を構成するロシア連邦共和国内のカラ・キルギズ自治州となる。1926年2月、キルギス自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1936年、ロシア連邦共和国から分離し、ソ連邦を構成するキルギス・ソビエト社会主義共和国に昇格する。 1990年6月には、オシュ事件が起こる。これは、キルギス系住民とウズベク系住民とが衝突したものだった。1990年10月、アカーエフ大統領が就任する。1990年12月、「キルギスタン共和国」に改名し、国家主権宣言を行う。1991年8月、国家共和国独立宣言を発す。1993年5月、国名を「キルギス共和国」に変更する。
 2005年4月、政変によりアカーエフ大統領が辞任する。2005年7月、バキーエフが大統領に当選する。2009年7月、バキーエフ大統領が再選される。2010年4月の政変により、バキーエフ大統領が辞任する。2010年6月、南部にてキルギス系とウズベク系住民の大規模衝突が起きる。2010年6月、国民投票が行われる。新憲法が採択される。2010年7月、オトゥンバエヴァ大統領が就任する。2010年10月、議会選挙が実施される。2010年12月、連立与党による新内閣が発足する。2011年12月、アタムバエフ大統領が就任する。 2015年10月、議会選挙が実施される。

(続く)

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♦️725『自然と人間の歴史・世界篇』タジキスタン

2017-11-30 21:40:28 | Weblog

725『自然と人間の歴史・世界篇』タジキスタン

 タジキスタン共和国(通称タジキスタン)は、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベだ。その地理的領域は、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。
 紀元前4世紀、アレクサンドロス大王により制圧される。紀元前250頃、グレコ・バクトリア王国が成立する。1~3世紀、インドのクシャーン朝による支配を受ける。6世紀中頃からは、テュルク系遊牧民の突厥(とっけつ)の侵入が相次ぐ。ここに、住民のテュルク化が始まる。7世紀、ソグド人の活動が最盛期に。8世紀以降、アラブ勢力の侵入がある。土着のイラン系住民がイスラーム教を受容する。テュルク系諸民族がこれらイラン系住民をタジクと呼ぶようになる。9世紀後半~10世紀、イラン系のサマン朝が成立する。この治世下では、文芸・学問が大いに発展する。
 13世紀、モンゴル帝国の支配下にあった。14世紀後半~15世紀、この地はティムール帝国の支配に服す。16世紀、シャイバーン朝の支配を受ける。18~19世紀、ブハラ・ハン国とコーカンド・ハン国の支配を受ける。1860年代、現在のタジキスタン北部がロシア帝国に併合される。1890年代、パミール地方の大部分がロシア帝国に併合される。
 1924年、中央アジアの民族・共和国境界が画定される。これにより、ウズベク・ソビエト社会主義共和国内にタジク自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1929年、ウズベク共和国から分離し,タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格する。1990年2月には、ドゥシャンベ事件が起こる。この事件は、アルメニア難民移住への抗議行動を契機とする騒乱事件であった。
 第二次世界大戦後、ながらくソ連邦で一翼を務めていた。その後の政治流動化で、こり国の状況は大きく変わっていく。1990年8月、共和国主権宣言を発す。1991年8月31日、国名を「タジキスタン共和国」に変更する。1991年9月9日、共和国独立宣言を発す。1992年5月には、内戦状態に陥る。1992年11月、ラフモノフが最高会議議長に就任する。1994年11月、ラフモノフ大統領が選出される。1997年6月、タジキスタン内戦の和平合意が成立する。2016年5月、憲法改正が行われる。これにより、フモン大統領の大統領職任期制限撤廃、大統領選の立候補年齢引き下げが行われる。

(続く)

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♦️724『自然と人間の歴史・世界篇』ウズベキスタン

2017-11-30 21:32:49 | Weblog

724『自然と人間の歴史・世界篇』ウズベキスタン

 ウズベキスタン共和国、通称ウズベキスタンは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国。首都はタシュケント。 北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接する。
 紀元前4世紀、アレクサンドロス大王による制圧。紀元前250年頃、グレコ・バクトリア王国が成立する。1~3世紀、クシャーン朝による支配に服す。6世紀中頃からは、テュルク系遊牧民の突厥(とっけつ)の侵入、以後住民のテュルク化が進んでいく。7世紀、ソグド人の活動が最盛期になる。8世紀以降、アラブ勢力の侵入する。イスラム教の受容。9世紀後半~10世紀、サーマーン朝が成立する。この下で文芸・学問の発展が進む。
 13世紀、モンゴル帝国の支配に服す。14世紀後半~15世紀、ティムール帝国が成立する。首都はサマルカンド。15世紀末~16世紀、遊牧ウズベク集団の侵入、シャイバーン朝が成立する。18~19世紀、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配下であった。1860~1870年代、ロシア帝国による中央アジア征服に服す。1867年、ロシア帝国、タシケントにトルキスタン総督府を設置し、植民地統治を開始する。
 1918年、ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1920年には、ブハラ人民ソビエト共和国、ホラズム人民ソビエト共和国が成立する。1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立する。1989年6月、フェルガナ事件が起こる。これは、ウズベク人とメスフ人の民族間衝突である。1990年、カリーモフ大統領が就任する。1990年6月20日、共和国主権宣言を発す。1991年8月31日、共和国独立宣言を発す。「ウズベキスタン共和国」に国名変更する。
 2005年5月、アンディジャン事件が起こる。2016年、カリーモフ大統領が死去し、ミルジヨーエフ大統領が就任する。

(続く)

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♦️723『自然と人間の歴史・世界篇』トルクメニスタン

2017-11-30 21:30:29 | Weblog

723『自然と人間の歴史・世界篇』トルクメニスタン

 現在のトルクメニスタンは、中央アジア南西部に位置する共和制国家である。カラクム砂漠が国土の85%を占める地域だ。現在の国民のほとんどは、南部の山沿いの都市に住んでいる。なお、国内に豊富な石油や天然ガスを埋蔵することで知られる。
 8~10世紀頃 トルクメン民族の起源とされるオグズ族が,アラル海付近のステップ地帯を中心に中央アジア地域に展開。10世紀、イスラム教に改宗したオグズ族の他称としてトルクマーンが使用され始める。11~12世紀頃、テュルク系セルジューク・トルコ朝の支配下、各地で軍事的な主力として戦力として用いられる。
 14~16世紀、現在のトルクメン諸部族の形成が進む。16~19世紀、ヒヴァ・ハン国やブハラ・アミール国の支配下、人びとはオアシス地域に徐々に定着していくのであった。人民の大方は、半農半牧の生活に移行していったのではないか。1869年、帝政ロシアがカスピ海東岸に侵攻する。
 1880年12月、ギョクデペの戦いが勃発する。これは、トルクメン人のテケ部族による帝政ロシア軍の侵攻に対する抗戦であった。1881年1月にかけては、ロシア帝国ととの間で発生した戦闘である。この戦闘によってロシア帝国の中央アジア征服への野望が現実化されていく。1885年、帝政ロシアがトルクメン諸部族のほとんどを支配下におくにいたる。
 1918年、 ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立する。1924年、ソ連の民族共和国境界画定によりトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立する。1990年8月、共和国主権宣言を発す。1990年10月には、ニヤゾフ大統領が就任する。1991年10月、共和国独立宣言を発す。1992年5月、共和国憲法を採択する。1995年12月、国連総会において「永世中立国」として承認される。1999年12月、議会の全会一致によりニヤゾフ大統領が終身大統領となる。2006年12月にはニヤゾフ大統領が死去し、2007年2月、ベルディムハメドフ大統領が就任する。

(続く)

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♦️562『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエル(1945~1957)

2017-11-30 14:33:01 | Weblog

562『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエル(1945~1957)

 1945年といえば、ユダヤ人防衛組織ハガナによる、ユダヤ人のパレスチナへの不法入国を援助していました。過激派によるテロ事件も頻発していました。イギリスはといえば、ユダヤ人の入国の阻止へと動いていました。この同じ年、なんとか両民族の紛争をなだめようとするイギリスが中心となって、アラブ連盟を結成しました。1947年、イギリスは、移民希望者を満載した「エクソダス号」や「テオドール・ヘルツル号」の入港を拒みました。パレスチナの地では、ユダヤ人とパレスチナ人との争いが、ますますエスカレートしていました。
 1947年4月、イギリスは国際連合に問題解決を任せることにしました。国連は、さそくパレスチナ特別調査委員会(UNSCOP)を編成し、数ヶ月の調査の後、次の案を出します。その骨子としては、パレスチナにユダヤ国家とアラブ国家を樹立するという決議を採択した。具体的には、当時パレスチナの土地の7%を所有し、全人口140万人のうち45万人を占めていたユダヤ人に対し、全土の57%の土地を与えるという、パレスチナ人に大いなる苦難を与えようとするものであった、といわざるをえません。1947年11月29日、この案は総会に於いて採決に回され、予想に反して賛成が33、反対が13、そして棄権が10ということで原案が採択されたのです(「国連決議181」)。
 1948年には第一次中東戦争が起きました。この年の3月、シリアがシオニスト排除の軍隊を出動させます。これにシオニストが反撃し、双方とイギリスであわせて約5000人の命が失われた、と伝えられています。1948年5月14日、イギリスが統治権を放棄しました。これをシオニストたちが見逃すはずがありません。その数時間後には、シオニストの代表であるベングリオンが、我々は明日の5月15日午前0時を期してイスラエル共和国を独立させることを宣言しました。それを受けて、65万人ものユダヤ人たちの意識は最高潮に達したのは疑いありません。ついいに実力行使でもって長年のゆめであった民族としての安息の地が獲得できたのですから。
 予定どおり、彼らは2000年にも渡る流浪の時代に終止符を打とうとイスラエルの建国を宣言しました。彼らは「旧約聖書」でいう神話の世界での話ながら、紀元前2000年頃とも言われるアブラハムの子孫として、パレスチナの地にて独自の新しい歴史を刻印していこうとしたのに他なりません。すると、これに反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン、その他パレスチナのアラブ人部隊など)がパレスチナへ進軍しました。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれ、イスラエル軍より多数でした。にもかかわらず、アラブ連合軍は各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気ももりあがりませんでした。
 この間に、二度の休戦期間がありました。この間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功しました。ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になっていきました。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れたのです。アメリカなどに支えられたイスラエル軍は奮闘し、これにアラブ各国の軍は各個撃破された格好となり、個別に和平条約を取り結ぶというアラブ側にとって屈辱的な結果に終わりました。この戦争によって、イスラエルの領土は、国連による分割決議以上の範囲にひろがった(パレスチナ全土のじつに77%)ことになります。残った土地についても、ヨルダン川西岸はヨルダン王国にとられ、ガザ地区はエジプト王国に併合される結果をもたらしたのです。
 やがて第二次中東戦争の幕が上がります。事の背景としては、1952年、エジプトのナセルたち自由将校団がファルーク国王を追放する軍事蜂起を決行し、共和国制を宣言したのに始まります。シン政権の首相となったナセル(当時)は「汎アラブ主義」を掲げ、列強からの干渉や圧力をはねのけ、自立の道をあゆもうとしました。その一環として、彼の政権はアスワン・ハイダムの建設を志し、その建設費の一部にスエズ運河の使用料を充てようとし、スエズ運河の国有化を考えるようになりました。
 ところが、当時スエズ運河運営会社の株を所有し、かつまた石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用していたイギリスとフランスは、これを認める訳にはいきません。1956年にはエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になりました。エジプト大統領になっていたナセルは同年7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表しました。
 ここに至り、イギリス・フランス両国は、同年10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入したのです。ここでなぜイスラエルがこの戦争に参加したのかと言えば、エジプト政府による国有化とそれによる封鎖がなれば、イスラエルにとって紅海(こうかい)への出口であるチラン海峡(アカバ湾と紅海の間の海峡)に出入りすることが不可能になるであろうからでした。
 戦争は1956年10月29日、イスラエルによるシナイ半島への侵攻により開始されました。この作戦により、エジプト軍は総崩れとなりました。こうしてシナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなりました。イスラエル軍が進撃中の、11月5日になり、フランスとイギリスの空挺部隊も空から攻撃を進めました。かれらの陸軍部隊もスエズ運河地帯に上陸しました。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリスとフランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こりました。アメリカの態度(アイゼンハワー大統領)には、アメリカとの打ち合わせもないまま戦争に持ち込んだイギリスとフランスに不満であるとともに、ハンガリーにおけるソ連の軍事介入とスエズ動乱がリンクすれば米ソの核戦争を呼び起こすこともあることを懸念ほ持っていました。
 そこで1956年11月に入り、国連総会がイギリスとフランスの軍隊、そしてイスラエル軍の即時撤退を決議するや、彼らは6日には国連の停戦決議を受け入れ、撤退することを表明するに至りました。これがPKO(国連の平和維持活動)の起源でもあります。
1956年12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れざるをえませんでした。
 エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、同年3月にスエズ運河の運行を再開しました。一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれるこの戦争で、エジプトはひとまず「戦争に負けて、政治で勝った」という形になり、戦争継続による国家的破綻をまぬがれたのでした。

(続く)

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♦️781『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1970~1988)

2017-11-25 21:28:03 | Weblog

781『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1970~1988)

 ポーランド経済の1970年~1980年は、対外開放期といわれる。1970年には粗放な投資等で経済は厳しい状況となっていた。なお、当時の生産体制は、つぎのような構成となっていた。
 「まず、ポーランドの工場数と所有形態別動向(1970年)は、工場総数:167,500、社会化数:51,300、社会化数のうち国有:20,100、社会化数のうち協同組合有:30,900、非社会化数:116,200。
 また、ポーランドの工場労働者数と所有形態別動向(1970年)は、工場労働者:4,464.000、社会化工場:4,274,700、社会化工場のうち国有:3,724,700、社会化工場のうち協同組合有:530,100、非社会化工場:189,300
。」(出所)Rocznik Statystyczny1976,1980,1983.、(引用)左治木吾郎「ソ連の体制転換と経済発展」文眞堂、1992)
 経済の低迷は、政治に跳ね返っていく。国民にとって、一番我慢がならなかったのは、国民の最も基本的な物資である、食料品の大幅値上げであった。これに端を発する形で、労働者によるグダンスク抗議行動が起こる。そうして世情が不安となる中でギエレク政権に交代する。ギエレク新政権は、経済改革により国民の不満を解消しようと試み、積極的な外資導入を行い、一時期は国民所得の増加も見られものの、抜本的な改革は実現できなかった。そして迎えた1970年12月、ポーランドのゴムルカ政権が退陣する。これは、グダニスクの労働者の抗議の渦の中での出来事であった。
 1980年の夏の7月、政府は財政逼迫から食料品の値上げに踏み切る。これに怒った労働者のストライキが、全国規模で起こる。このため、政府は「グダニスク合意」(8月31日に調印)によりなんとか収拾に漕ぎ着ける。この合意では、スト権や自由労組の結成の自由などが盛り込まれる。グダニスク造船所を拠点とした全国規模の自由労働組合「連帯」(議長はレフ・ワレサ(レフ・ワレサ(ポーランド語ではレフ・ヴァウェンサ)、組合員は約950万人)が9月に結成される。これに促される形で、全国規模で自主管理労働組合「連帯」が生まれていくきっかけになっていく。しかし、こうした市民、労働者の意識の変化は、政治の季節の到来となって、社会主義の基盤を堀崩す役割を担っていく。
 その後1980年から1983年7月の間は、体制内改革期と言われる。この時、「連帯」運動の高まる。1980年7月には食肉値上げに反対する大規模ストが起こる。この年の8月、政府はスト労働者との間でいわゆる「グダンスク合意」を結び、これにより、ソ連圏では初めての自主管理労働組合(「連帯」)が誕生する。1980年9月、ギエレクの後をついだカーニャ第一書記は「グダンスク合意」を尊重し、「連帯」との対話路線をとる。しかし、経済の不信継続があり、政局も混迷を深めたことで、1981年10月、軍人出身のヤルゼルスキ首相が党第一書記を兼任するに至り、彼は同年12月、戒厳令を導入する。
 1981年6~7月、統一労働者党の第9回、次いで第10回の党大会で、社会主義を再生させようとする方針を打ち出す。指導部選出にあっては、初めて秘密投票、複数候補の直接民主制が採用される。1981年12月13日、統一労働者等の第一書記、首相を兼ねるボイチェフ・ヤルゼルスキ将軍が秩序回復を名分にポーランド全土に戒厳令を発する。この中で、自主管理労働組合「連帯」も1982年10月に非合法化される。この戒厳令が解除されたのは1983年7月のことであった。
 1983年7月に戒厳令が解除されてからは、ヤルゼルスキ政権はしばらく社会主義の枠内での経済改革を試みる。しかし、みるべき効果は上がらない。1988年春から夏には再び労働者の抗議運動が高まりを見せる。1988年8月、ポーランドで困難化する経済状況などの打開を目指して、政府が教会、反体制グループも含むすべての社会勢力を一堂に会しての円卓会議を提案する。この円卓会議は、1989年2月から4月にかけておこなわれる。「連帯」等の在野勢力の協力なしには改革が行き詰まると考えたヤルゼルスキ政権は、1989年1月のポーランド統一労働者党中央委員会総会において「政治的多元主義、労組多元主義」を認める。これにより反体制側との対話の道を拓くという政治的転換に踏み切る。1988年8月、政府批判のストライキが全国に広がったのをみて、政権は従来の態度である弾圧路線をついに改める。

(続く)

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♦️730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシ

2017-11-25 21:07:41 | Weblog

730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシ

 ベラルーシ共和国(通称ベラルーシ)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。
 9~10世紀、この地にはポロツク公国が栄える。10~12、キエフ・ルーシ時代。13~14世紀、リトアニア大公国の構成地域となる。1569年、ポーランドとリトアニア大公国の連合国家が成立する。1772~1795年、3度にわたるポーランド分割により,現在ベラルーシのほぼ全域、白ロシア東部がロシア領となる。1914年8月に第一次世界大戦勃発。現在のベラルーシ西部がドイツの占領下に置かれる。1918年3月、ドイツの占領下で、ベラルーシ人民共和国が成立。ドイツ軍撤退に伴い,当地の実権がボリシェヴィキに移行。1919年1月、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立。1921年3月、ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領,西半分がポーランド領となる。1922年12月、ソ連邦の結成に参加。1939年9月には、第二次世界大戦勃発。ソ連軍がポーランドに侵攻する。独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ポーランド西半分を白ロシアに編入。
 1986年4月、隣国ウクライナでのチェルノブイリ原発事故により、この地にも放射能が降り注ぐ。土地は汚染され、多大な被害を受ける。1991年9月、「白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国」より「ベラルーシ共和国」へ国名を変更する。おりしも、ソ連邦は、保守派によるクーデターが失敗し、彼らによって南京状態に陥っていたゴルバチョフ大統領の権威は大いに弱まっていく。
 そして迎えた1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、この3国が秘密裏に会合する。集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について話合うのを持て向きに、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことをいう。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した、第二にCIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアはかやの外に置かれる。ソ連邦の憲法では、違法であっても、もはやどおってことはないと見くびられたのであろうか。ゴルバチョフにとっては、自分のあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かう。
 1994年3月、ベラルーシ共和国憲法が制定となる。1994年、第1回大統領選挙。アレクサンドル・ルカシェンコが当選。1996年11月、憲法改正の国民投票で大統領権限の大幅強化が承認される。1999年12月、ベラルーシ・ロシア連合国家創設条約が成る。2001年、ルカシェンコ大統領二選となる。2004年10月、またもや憲法改正の国民投票で大統領の三選禁止規定削除へと繋がっていく。

(続く)

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♦️722『自然と人間の歴史・世界篇』カザフスタン

2017-11-25 21:06:34 | Weblog

722『自然と人間の歴史・世界篇』カザフスタン

 現在のカザフスタン共和国の地は、カザフステップもしくはキルギスステップという。カザフスタン北部よりロシア南部までの広い草原地帯で、ユーラシア大陸の平原の広大な一つ。紀元前の3~1世紀頃、この地には部族共同体があった。6~8世紀には、テュルク系(トルコ系)民族のハン国が、この地を支配する。11世紀後半には、セルジューク・トルコ朝と戦いを交える。セルジューク・トルコ朝というのは、イスラム化したトルコ人が打ち立てた王朝である。12世紀前半、この地に遊牧民族の契丹(キッタン)が侵入する。13世紀初め、チンギスハーンのモンゴル帝国に征服される。これにいたるきっかけは、劇的であった。というのも、チンギス・ハーンが、この土地のトルコ系のホラズム王国に使節団を送る。ところが、王はなぜか使節団を皆殺しにする。翌年の1219年、チンギス・ハーンは報復のためオトラルの町を攻撃する。町は、徹底的に破壊される。この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方への遠征が始まる。
 14世紀頃までに、この地にカザフ語とよく似た言語が定着する。15世紀後半、遊牧ウズベク国家から分離し,キプチャク草原に勢力を拡大。カザフ・ハン国の成立。18世紀初、ジュンガルとの戦いがある。18世紀初、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの三つの部族連合体に分裂する。1730年代、カザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従する。18世紀中頃、清朝にも朝貢する。
 15世紀中頃になり、カザフ民族の名が史上初めて登場する。カザフ民族は、ウズベク族と別れ、キプチャク草原に勢力を拡大する。15世紀末には、カザフ・ハン国を建国する。16世紀、東はバルハシ湖、西はウラル山脈、カスピ海西岸までの、広大な領土を支配下におく。
 17世紀頃から、カザフ民族は、大ジュズ(東部)中ジュズ(中部)、小ジュズ(西部)の3部族に分かれる。18世紀、ジュンガル人の襲来を受ける。1735年、ロシアがウラル山脈の南端に、オレンブルグ要塞を建設する。小ジュズと中ジュズは、ロシア国籍を自発的に受け入れ、ロシア人による入植が始まる。1783~1797年、カザフ人の反ロシア暴動が起きる。18世紀中頃には、清朝の藩族国となって、勢力下に入る。
 1820年代まで、ロシア帝国が南部を除くカザフスタンを直接支配下に収める。1837~1847年、カザフ人による対ロシア反乱が起こる。これを「ケネサルの反乱」という。1850年代、カザフスタン南部がロシア帝国に併合される。1860年代、カザフスタン全域がロシアの支配下に入る。ロシア人農民が大量に、カザフスタンに移住し、カザフスタン領域はロシアに併合される。
 1917年のロシア革命後は、カザフ・ソビエト社会主義共和国を樹立し、ソビエト連邦に加わる。1920年、ロシア連邦共和国の一部として「カザフ(キルギス)自治ソビエト社会主義共和国」が成立する。首都はオレンブルグ。1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定により国境線が変更となる。1925年、首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し、国名を「カザフ(カザク)自治ソビエト社会主義共和国」に変更する。1929年、ロシア共和国から切り離され、「カザフ・ソヴィエト社会主義共和国」となる。1936年、ソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格する。

(続く)

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♦️125『自然と人間の歴史・世界篇』五胡十六国と晋の南渡

2017-11-23 10:08:47 | Weblog

125『自然と人間の歴史・世界篇』五胡十六国と晋の南渡

 五胡十六国(ごこじゅうろっこく、中国読みでウーフーシーリョウグゥオ)というのは、
何をいうのであろうか。これは、304年に、黄河が北へ大きく湾曲する山西に匈奴(きょうど)の劉氏・劉淵が自立して漢(前趙)と称したのに始まる。それからは、相前後して羯(けつ)(匈奴の一種)、鮮卑(せんぴ)(東胡系)、?(てい)(チベット系)、羌(きよう)(チベット系)の、合わせて五つの非漢族が、中国平原の華北から華中の地に国を打ち立てていく。彼らにより、439年北魏が華北を統一するまでの、およそ100年位の間におよそ16もの国が興亡を繰り返したことをもって、この名が付いたものだ。
 これより前、彼らのそもそもの暮らし向きは、主に遊牧であったのではないか。これらのうち匈奴は、前漢の時代に中国史の表舞台に登場する。1世紀後半には、後漢に叩かれて大打撃を受ける。その一派であるフン族は、西へと走ってウラル山脈を越えて尚も西へ進んでいく。そして、ゲルマン民族を突き動かして、彼らの西ヨーロッパへの大移動を引き起こしていく。なお、匈奴には別の一派もあって、彼らは後漢に降り、漢人と共存の道をとったことで「南匈奴」と呼ばれる。そればかりではない。匈奴の移動で勢力の空白が生じた東北方には、羯や鮮卑が進出してくる。また、中国平原の西からは?や羌が押し出してくる。
 魏、呉そして蜀の三国鼎立の時代に入ると、彼ら遊牧民族は主に魏の柵外に定住していく。さらに万里長城内に移住してくる。そうした集団がますます多くなっていく。続いての晋(西晋)代にかけては、黄河流域を中心に大規模な集団移住が相次ぐ。さらに2世紀になると、彼らの相当部分はさらに大胆に中国の平原地帯への進出を遂げていく。その矛先は、当然、中国の王朝が強固に支配している地域にも及んでくる。一説には、ゲルマン民族がローマ帝国の傭兵(ようへい)としてその領内に移住していった。その時と同じように、彼ら五胡の北方民族も、軍事力として用いられていく。そんな中で、しだいに力を伸ばしていく。彼らは、中国内にますます多く移住してくる。ついに、これに圧迫されて、西晋はついに華南へと避難するにいたる。都を南の建康(現在の南京)におき、それからを東晋と呼ぶ。
 戦乱で荒れ果てた華北の地には、前述のように、まずは匈奴による漢(前趙)、?による成漢、漢人による前涼など小さな国々が生まれる。集い固まっていくのではなく、それぞれが覇を競うようになっていく。319年には、漢(前趙)の石勒(せきろく)が後趙を建国し、さらに洛陽の戦いで劉曜の前趙を破って330年に皇帝の位につく。後趙は、都を長安において、漢の文化を取り入れる。石勒は漢族から多くの官吏を集め、彼ら自身の中国化を進めていく。彼は、中国固有の文化のみならず、西から伝わった仏教を篤く信仰し、僧侶の仏図澄を重用する。
 351年、後趙が怠惰な政治と度重なる戦争により力を失うと、代わりに勢力をのばしたのは?族の符健が建てた前秦である。三代皇帝となったのが符堅で、彼は370年に前燕、376年には、前涼と、拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。前秦の軍隊は?、羌、鮮卑、匈奴、漢人による混成軍団であったという。それからの前秦だが、383年、南へ進んで東晋の都、建康に攻め込む。東晋は迎え打ち、大勝利をおさめる。これを「?水の戦い」という。この後、前秦の各部族は独立して争うにいたる、華北は分裂状態に陥った。その後、398年には、北魏が誕生し、平城(大同)を都に定めて華北で力を強めていく。一方の東晋が治めていた地には420年に宋が東晋を攻めて王朝を開く。ほどなく北方では、北魏が華北の統一を成し遂げる。ここに五胡十六国時代は終わり、中国は南北朝時代に入っていく。

(続く)

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♦️716『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連崩壊と核兵器

2017-11-23 10:05:54 | Weblog

716『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連崩壊と核兵器

 旧ソ連時代,その一員であったウクライナ領土には多数の核兵器が存在していました。1991年のソ連崩壊時には、核弾頭数千発を有していました。「核弾頭の維持管理はソ連・ロシアで行われていた」ものの、核弾頭そのものはウクライナの地にあった訳です。そのウクライナに配備されていた核兵器のうち戦術核は、1992年5月までにロシアに撤収された、と伝えられます。
 「SS18」、「SS19」、「SS24」などといった戦略核に関しては、1994年1月の米・ロシア・ウクライナの3国間共同宣言に基づく義務が生まれました。続いて、1994年12月のNPT(核不拡散条約)加盟に伴い、ウクライナは米国の財政・技術支援を受けて、ICBM(SS-19及びSS-24)のサイロを廃棄しました。さらに、ミサイル本体の解体も完了し,STRTー1に定める規定の履行を完了しました。核弾頭はその後も廃棄されるかロシアへの移管がすすみ、1996年6月1日、クチマ大統領がウクライナ領土からの核弾頭完全撤去を発表しました。
 こうして核兵器の削減、廃止に動いたウクライナの独立や国家保全は、引き換えに1994年12月に米英とロシアが署名した文書「ブダペスト覚え書き」で保証されることになっていました。ところが、ここに2014年ウクラスナの政変が起こり、それはロシアによるクリミア併合を誘発しました。そこで、ウクライナのヤツェニュク首相は、「これは核不拡散の努力全体に悪影響を与える。我々への保証が約束通り履行されないようであれば、イランや北朝鮮に核を放棄するよう説得するのは極めて困難になる」(2014年4月5日付け朝日新聞)とのべ、クリミア半島のロシアへの併合はこうした核軍縮の取り組みへの挑戦であることを主張しているところです。

(続く)

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♦️547『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(カンボジア)

2017-11-22 09:45:22 | Weblog

547『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(カンボジア)

 9~15世紀にかけて、現在のカンボジアの地は、アンコール朝の統治下にあった。26代にわたって王に統治される。12世紀初めには、全盛期を迎える。この間にアンコール・ワットやアンコール・トムといった宗教建築が建てられる。この二つは、1992年、「アンコール」として世界遺産に指定された。前者は、クメール語で「寺院のある町」という意味で、12世紀の前半のスーリャヴァルマン2世(太陽王)の治世に、およそ30年をかけて増築を重ねていく。ヒンドゥー教のヴィシュヌ神を祀(まつ)るとともに、王の墓とする。後者は、クメール語で「大きな町」の意味で、ジャヤヴァルマン7世により12世紀の末に建造された。アンコール王朝最初の都城にして、アンコール朝の最盛期を飾る。こちらは仏教建築を兼ねており、都城の中心には、仏陀を祀るバイヨンが立つ。
 1887年、現在のカンボジアの地は、フランス領インドシナに編入される。1940年、フランス軍がドイツ軍に敗北を喫す。翌年、日本軍がカンボジアに進駐してくる。植民地支配がその目的であった。1945年3月9日、日本軍がインドシナ駐留仏軍を武装解除(仏印処理)し、この地域での支配権を確立する。1945年3月12日 シアヌーク国王がカンボジアの独立を宣言する。
 1945年8月15日の日本の戦争敗北を経て、フランスがまた野心をあらわにしていく。そして、1945年10月にはフランス軍がプノンペンを制圧し、カンボジアを再び植民地化するのだが。1953年11月9日、シアヌーク国王がカンボジアが再度の独立を宣言する。カンボジア王国を称す。1955年になると彼は王位を父に譲って退位し、サンクム(社会主義人民共同体)を組織し、自身は総裁に就任する。1955年、総選挙を実施し、サンクムが全部の議席を獲得する。選挙はその後4年ごとに行われ、1970年3月の親米派ロンノルによるクーデターで実権を奪われるまで続く。

(続く)

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♦️545『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(マレーシア)

2017-11-22 09:43:50 | Weblog

545『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(マレーシア)

 マレー半島が伸びるこのあたりは、温暖の地である。1396年、マラッカ王国が成立する。これを打ち建てたのは、スマトラ島(現在のインドネシア)にいたパレンバンの王族「パラメスワラ王子」であった。
 地図を開くと、マラッカ海峡は交易で要衝の場所である。16世紀、これに目を付けたポルトガルが、この地の一部を支配下におく。マラッカ国王はこの難を逃れて南下遷都し、国名を「ジョホール王国」とする。次いで17世紀、オランダ東インド会社がマラッカを支配するにいたる。1824年の英蘭協約により、マレー半島及びボルネオ島西北部がイギリスの勢力下に入る。イギリスによる植民地支配は、やがて第二次世界大戦の時期に入っていく。
 1942年から1945年の日本の敗戦・連合国への無条件降伏まで、マラヤ、シンガポールは一時的にイギリスの支配を離れ、日本軍による占領下におかれる。1945年8月に日本が連合国に無条件降伏すると、9月にはイギリス軍政が復活する。しかし、戦後のイギリス軍政にマレー人の反発が高まり、1946年1月にはダト・オンを初代総裁としたマレー人国民組織(UMNO、マラヤ連合)が発足する。同年、イギリスはマレーシアからシンガポールから切り離し、マレー半島部とペナン・マラッカとを合体させ「マラヤ連合」とするかたわら、シンガポールを自らの単独植民地とする。
 1948年には、それまでの「マラヤ連合」から転じて、イギリスがマレー人の地位を認めた英国領土としての「マラヤ連邦」が発足する。1951年、ラーマンは郡長時代の功績が認められ、UMNOの第二代総裁選挙に当選し、連邦立法評議会のメンバーにも選ばれる。1952年、マラヤ連邦下で初のクアラルンプール市議会議員選挙が行われる。この選挙では、タン・チェンロック率いる中国人擁護のための馬華公会(MCA)とUMNOが連合したことで勝利を収める。選挙後、マラヤ・インド人会議(MIC)を加えてマラヤ連合党を結成する。
 1956年には彼はマラヤ連合党(正式には「連合マラヤ人国民組織(UMNO)」)代表とイスラムのスルタン代表の10人の「独立交渉団」を結成する。彼らは、ロンドンで約3週間のイギリス政府と独立をかけて交渉する。
 このマラヤ連合党の中心となったのは次の三つの政治勢力であった。一つはマラヤの支配層で、経済基盤はその封建的生活基盤のゆえに経済力は強くなかった。二つ目は華人で、こちらは小資本家や商人などを中心に「マラヤ中華協会(MCA)」に結集しており、三派の中では一番大きな経済力を持っていた。そして三つ目の勢力はインド系の人々であり、少数の資本家と中間層が主体をなしており、「マラヤ=インド人会議(MIC)」を結成していた。
 翌1957年8月31日、かれらはイギリスから政治的譲歩を引き出し、イギリスからのマラヤ連邦の独立が決定する。初代首相にはラーマンが選出される。この新しい政権の基本性格としては、マラヤ連合党が相異なる政治勢力の選挙目当による緩やかな連合であった。これを反映して、「権力中枢の実体はきわめて弱体な寄せ集め」(鶴見良行「アジアはなぜ貧しいのか」朝日新聞社、1982)でしかなく、そのためマレーシアは、「統一国民不在のまま独立することになった」(同)のだ。
 1963年、マレーシアが成立する。シンガポール、サバ、サラワクを加える。1965年、シンガポールが分離、独立をはたす。

(続く)

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♦️542『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ベトナム)

2017-11-19 09:51:27 | Weblog

542『自然と人間の歴史・世界篇』戦後の東南アジア(ベトナム)

 中国の三国時代の一つの国、呉(ご、中国読みでウー)は、南の広東(カントン)、海南島、ベトナムの地方に進出した。それから数百年後の10世紀には、ベトナムの独立があった。その時の模様についての尾崎康氏の論考には、こうある。
 「長く交州として中国の直接支配下にあったトンキン平野一帯は、唐末五代の争乱で中国の勢力が弱まった機会に、ようやくヴェトナム人による独立の動きが活発になった。10世紀には十国の一の番○(広東)に拠る南漢の瀬力をはねのけて、呉(939)、丁(でいん、968)、黎(れ、980)の各氏が相次いで王位に立ち、黎朝のときトンキン平野を統一し、宋の侵攻も撃退して完全に中国から独立した。
 その後、李朝(1010~1225)になって安定した王朝の時代に入り、科挙制を移入するなど中国文明を引き続き受容し、占城・宋・真○と抗争しつつも、ほぼトンキン平野からユエに領域を保った。次の陳朝(1225~1413)は、再度にわたる蒙古の猛攻に堪えて民族の毒釣りを守った。」(伊藤清司・尾崎康「東洋史」)
 それからさらに千年近くが経過した1802年、ベトナム最後の王朝、グエン(○)朝(~1945)が建国される。都は、現在のベトナム中部のフ、フォー川を挟んでの新市街の対岸に、ユネシコの世界遺産に指定(1993年)された旧市街が広がる。ベトナム統一にフランスの力を借りたのが影響して、1885年にはフランスの植民地に組み入れられてしまう。1940年、フランス統治下のベトナムに進出してきたのが日本軍であり、ベトナムを占領下に置くのであった。1945年8月19日、連合国が日本の無条件降伏を受け、ホーチミンがベトナムの独立を宣言し、同9月2日にはベトナム民主共和国が独立宣言を行い、北の本拠地ハノイで武装蜂起する。
 一方、フランス軍はこの独立を認めない。同年9月になり、フランスはベトナム南部に侵略を開始する。これにはイギリスの支援があった。彼らは9月23日にはサイゴンを占領する。このため、翌1946年になると、北のベトナム政府はフランスに対し武器をとり、第一次インドシナ戦争が勃発する。この年1946年3月18日には、フランス軍は北の本拠ハノイへ進駐し、続いて同年6月1日には南部ベトナム、その中でも都市部を支配下におくとともに、コーチシナ自治共和国という傀儡(かいらい)政府を樹立する。
 フランスは軍事力の優位を背景にして、主要な港湾を固めることで、新生ベトナムの勢力地域を経済封鎖することに血道を上げる。1946年11月20日になるとフランス軍はハイフォンでベトミンを艦砲射撃で攻撃し約6千人のベトナム人の命を奪う。同年中には北緯15度以南のベトナムを支配下に収める。これに対して同年12月19日北のベトナム政府は全国レベルでで反撃を開始する。
 その後の北の政府とフランスとの戦闘は、互いに決定打なく長期化していく。しかし、補給の困難なフランス軍がじりじり消耗し、後退を余儀なくされる。1950年になると、東西冷戦化の中、中国とソ連が北ベトナムを承認する。一方、アメリカは、フランスの傀儡(かいらい)政権である南ベトナム政権を後押しする。
 1949年7月、バオ・ダイ元首が南部にベトナム国政府の樹立を宣言する。1950年10月、アメリカの軍事援助顧問団がサイゴンに設置される。この経緯から、南の政権はアメリカの肝いりの政権である、と言わねばならない。1951年2月、ベトナム共産党が第二回党大会を開いてベトナム労働党と改名する。1954年、戦略的要地ディエン・ビエン・フーが陥落し、フランスは大敗を喫す。1954年5月のジュネーブ会議で、ベトナムの地は、北緯17度線を軍事境界線に二つの国家に分断される。今度、南の傀儡政権を援助したのは、フランスに替わったアメリカであった。1955年、南部にベトナム共和国が樹立され、ゴー・ディン・ディエム大統領が就任する。
 1959年1月、「第15号決議」で南ベトナムを武力解放をめざすと発表する。1960年12月には、南ベトナムに「南ベトナム民族解放戦線」が結成される。この組織は、アメリカと南ベトナムの傀儡政府に宣戦を布告し、ここに第二次インドシナ戦争が始まる。

(続く)

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