□74『岡山の今昔』備前往来(岡山道)

2015-10-22 21:41:36 | Weblog

74『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前往来1(岡山道)

 美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。江戸期までは、これを「岡山道」又は「津山道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』には、「『岡山道』は、鉄砲町南土手(当時は小田中村新田の内)字広瀬で川を渡り、北村(今の津山口)から、一方・佐良(皿)・高尾・福田の諸村を経て弓削(ゆげ、久米南町)・福渡(当時久米郡、今御津郡建部町)の両駅を過ぎ、旭川を渡って備前に入り、金川(かながわ)の駅を経て岡山城下に達する」とある。現在の岡山県の南の方は温暖な気候である。ところが、北の方に行くに従い、多くは山が迫ってくる地形となっている。夏は涼しさ、冬には寒さが増していく。
 5世紀後半から7世紀半ばにかけては、備前の肥沃な平野を中心として、吉備氏が君臨していた。その領地は備中、美作、備後にも及んでいて、大和の勢力に対抗していた。その備前から美作へと向かう道の主流は、おおむね現在の津山線に置き換えたルートをたどっていったのではないか。この岡山から津山まで鉄道が通ったのは1898年(明治31年)12月21日の中国鉄道が最初であり、その時は一日四往復、52銭の汽車賃であった。このうち便数は翌年3月、一日七往復に増便された。岡山駅からJR西日本(1985年(昭和60年)までは国鉄))の鉄道に乗って北へと向かう。法界院(ほうかいいん)、玉柏(たまがし)、牧山(まきやま)から野々口(ののくち)を経て金山(かなやま、当時は御津郡御津町、現在は岡山市)へと至る。
 この辺りまでの津山線は、旭川と寄り添うように走る。今では2両建てのディーゼル列車であるが、両側のた時には急峻な山々を仰ぎ見つつ北上していく。その途中の景観は、私に歌心あれば必ず詠んでみたい、それはそれは美しい景観を見せている。金川を過ぎると直ぐ、旭川と別れて、その支流の字甘川(うかいがわ)と暫し寄り添うようにして北上する。それから、この川と別れ進路を北に取って山懐に分け入り、短いが、冷え冷えと濡れた岩肌が露わな箕地(みのち)トンネルをくぐり抜けた後、建部(たけべ、当時は御津郡建部町であったが、現在は岡山市)に近づいたところで、再び旭川と出会う。
 郷土の詩人、永瀬清子の、旭川を詠みこんだ詩に、こうある。
 「旭川のせせらぎは/知的な瞳の中の妹/二つのダムは白い城のようにそばだって、/湛えた湖のしずかさ重さ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959、泰光堂)
 さて、列車は、建部(たけべ)を過ぎてしばらく行き、旭川を渡ったところで福渡(ふくわたり、同)に着く。この辺りがちょうど岡山と津山の中間点に当たる。その福渡駅を過ぎて少し行ったところで、今度は旭川を左に見送る。今度は、その支流である誕生寺川に沿って北上していく。そこからまた津山への鉄路をたどり、神目(こうめ)から弓削(ゆげ)、さらに誕生寺(たんじょうじ)の駅へ着く。このうち弓削駅のプラットホームの標識は少し変わっていて、「川柳とエンゼルの里・弓削駅」とある。その標識を左右から対角線状に二人のカッパが座っている。どのような仕儀で想像上の生き物であるカッパがそこにいるのだろうか。
 その2人には水色の色付けがなされていて、それに陽の光が当たっているような気がしている。向かって左が子どもで、右側が母親のように見えるのだが、よくわからない。標識のてっぺんにいるのが、どうやら父親のようで、なにやらズボンのようなものを履いている。立っている筈なのに、紅葉状の足がこちらを向いているのは、愛嬌たっぷりだ。こちらの色付けは、赤銅色とまではゆかないが、なかなかに威風堂々としている。この家族の面々の表情は、3人ともやんわり笑っているようでもあり、静かに物思いにふけっているようでもある。この地になぜカッパが伝わっているのだろうかと考えを巡らしていると、やはり旭川の水と、地域の人々ののどかで、たおやかな心情が重なり合って伝説を形づくってきたのであろうか。
 弓削の次の誕生寺には、浄土宗の名刹(めいさつ)誕生寺がある。その立場所は、現在の久米郡久米南町である。法然上人・(幼名は勢至丸)が生まれた場所だ。彼は、ここで生まれてから浄土宗菩提寺(勝田郡奈義町)に修行に赴くまでの13年間を過ごしたらしい。彼の父・漆間時国(うるまときくに)はそのあたり(備関莊)の豪族であり、久米押領使を務めていた。
 法然の出生記録といっても、ちゃんとした当時の戸籍が残っている訳ではない。京都の知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』は全48巻から成ることから、『四十八巻伝』とも呼ばれる。それは単なる伝記のみではなく、長大な伝記絵巻となっている、今では京都の知恩院が所蔵する一大絵巻である。その中には、次のような、彼の父の漆間時国に至る、美作の漆間氏の由来についての記述が見られる。
 「かの時国は、先祖をたずぬるに、仁明天皇の御後、西三条右大臣光公の後胤(こういん)、式部太郎源の年(みのる)、陽明門にして蔵人兼高を殺す。その科(とが)によりて美作国に配流せらる。ここに当国久米の押領使神戸(かんべ)の大夫漆の元国がむすめに(年が)嫁して、男子をむましむ。元国男子がなかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号し、盛行が子重俊が子国弘、国弘が子時国なり。」
 『津山市史、第二巻、中世』は、主にこの資料を使って、「漆間氏は平安末期から南北朝期にわたる数世紀の間、主として美作の南部で重きをなした豪族である」としている。
 さて、1141年(保延7年)、久米の稲岡荘(いなおか)を管理していた明石定明(あかしさだあき)が、その国からのお目付役である、その漆間時国を館に襲って殺してしまった。まだ9歳の彼の前で、この事件があったとされているので、まだ幼気の残る少年の身にとっては大変なショッキングなことであったに違いない。その父の旧宅跡に、1193年(建久元年)になって、法然の弟子である蓮生(れんせい)が主導して師の徳を慕い、伽藍が建立された。以来、八百年余の歳月が流れた。1873年(明治6年)、当時の北條県の命達により廃寺となるも、浄土宗知恩院派の運動があって1877年(明治10年)に管許を得て再興がなった。
 さて、津山線に戻ると、列車は、誕生寺を出た後、小原(おばら、久米郡中央町)へと向かう。小原を出ると、亀甲(かめのこう、現在の久米郡美咲町原田)にさしかかる。列車がホームに滑り込むと、そこには亀が出迎えてくれる。一つは、黄色をベースに、橙と青と緑と白の斑点が付いた大きな亀がいる。コンクリート製のようで、駅舎の上に突き出て見え、とにかく大きい。こちらに向けた目のところらに時計がはめ込まれている。口がぱっくり開いていて、なんとはなしにかわいい。もう一方の亀は、駅の改札に至る途中のホームの端にいる。こちらは岩に上に、実物を模したものといって良いだろう。おそらくは青銅製の亀が3匹這いつくばっている。いずれも首をもたげて、頭上を見上げているポーズのようだ。黒いし、背丈が低いので、視線を落とさないと乗降客はなかなかにして気が付かないのではないかとも考えられる。
 そしてこの地は、光後玉江の故郷でもある。1830年(天保元年)、久米北條郡錦織村(今の久米郡美咲町)に生まれた。父は津山藩医の箕作阮甫とも交流の深い医師であった。医者の子は医者にというべきか、玉江は15歳ながらも向学心に燃えていて、津山藩医の野上玄雄に入門するのだった。そこで医学と産科を学び、28歳で開業したことが伝わっているが、産科はどのようにして履修したのであろうか。以来47年にわたり、当時まだ数少ない女性の医師としての生涯を生き抜いたことで知られる。
 亀甲駅を出て小山に田んぼの入り交じった眺めの中をしばらく往くと、佐良山(さらやま)に出る。佐良山を出てからは、津山市に入って、津山口へ、そして津山線の終点である津山に着く。一方、その後の旭川はといえば、それから御津郡加茂川町(現在の岡山市加茂川)、ついで久米郡旭町へと遡り、そこからさらに真庭郡に入って落合町、久世町、勝山町を北へとたどり、その後さらに山間の地を北に遡って、源流とされる湯原湖に到達する。
 いまは、JR(旅客鉄道会社、1985年(昭和60年)の国鉄分割民営化決定により、国鉄から経営が変更されたことによる)による経営となっても、津山線のディーゼル機関車に乗って津山に向かっていると、自分が古代の舟を操って旭川を探検している姿が彷彿としてくるから不思議だ。列車が天空に輝く程の日差しを浴びた地点にさしかかると旅情によってはなぜか血がざわめき、胸がさわさわとときめくときがある。なお、これまで岡山から今日の津山までの鉄道路を古代の人々の行路に見立てて話をすすめてきたが、第二次大戦後からは中国鉄道津山線や宇野バス(林野から岡山の内山下までの乗合自動車)による方がむしろ一般的な行路だといっていいだろう。物資の運搬についても、馬車で陸路を運ぶほか、1930年代(昭和の初め頃)までは、旭川をいかだや高瀬舟が米や木炭などを積んで下っていたことがある。
 
(続く)

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新30『美作の野は晴れて』第一部、自然の猛威

2015-10-10 10:03:41 | Weblog

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30『美作の野は晴れて』第一部、自然の猛威

 七夕が済むと、いよいよ梅雨も大詰めとなる。ところが、この時期に大きな災害があったのを、今でもよく覚えている。それは、吉井川水系の「1963年(昭和38年)7月、梅雨前線による洪水」の記録として、今でも語りぐさとなっている。当日の気象台当局の記録によると、7月11日(木)午前8時頃、吉井川の水位は12時30分に加茂川の増水を受けて13時には久木(ひさぎ)に達し、最高水位6メートルにもなって、合流点に流れ込んだ。私たちの勝北地域でも、昼頃になると、雨足が大層強くなった。学校の判断で、授業を途中で打ち切って家に帰ることになった。教室の窓から見ていると、時々前が白くなるほどのどしゃぶりの雨足になってきたので、怖い。
 早々集団下校の指示があり、各に分かれて帰ることになった。その時、私たち西下の者は、途中まで先生に引率してもらったように思っている。全学年揃って、一列になって進む。5年生や6年生が先頭で、先生が一番後ろの順で、足元や周囲に気を配りながら進んでいく。西中の途中から通常とは異なるコースに入ってからは、口数は少なく、はやく家に帰りたい気持ちを抱えながらみんな進んでいったのではないか。西中を南に通り抜けて西下の中村地域に入ると、最初にこの地区の何人かが離れていった。そこからさらに南へと下ってゆき、1キロメートル弱歩くと国道53号線に出る。そこで、先生方と分かれたように思っている。その道を坂上のバス停まで歩き、それから西下に入って北へと向かい、やっと胸が詰まるような気持ちが去っていくのを心のどこかで意識しながら、お互い自分のところの辻辻で「さよなら、気をつけて」と挨拶を告げつつ、家路を急いだものだ。
 それとは、異なる年にも、洪水の時があった。今度は、9月か10月の台風シーズンの時ではなかったか。日時の記憶が定かでないので、消防庁の記録を辿ると、1959年(昭和34年)9月26日に暴風雨の被害があった。広戸風も吹いたとされているので、たぶん、その時のことではなかったかと考えている。
 その日は登校していて、雨はその後も降り続いていた。曇り空ながら、ときおり面前が白くなる程の大粒の雨が降ったりで、一向に雨がやむ気配がない。そのため、授業を途中で切り上げて、早めにごとに集団下校することになった。その時は先生の引率はなく、私たちだけで連れ立って帰った。道には、その雨が地面を伝わり、道の端の側溝にも濁流が流れていた。そこかしこで雨水がところ構わずな程にはみ出しつつ流れ下っている。その光景が、いつもと違って周りがほの暗い世界になっている。私たちは、普段と同じ通学路を辿って帰っていったのだが、大変危険なところが少なくとも一カ所あった。というのも、西下の畑地域の水車がある場所にさしかかると、普段は何の変哲もない川の流れなのに、その日の田柄川はいつもの数倍も水かさを増しているようであった。その川の流れの中では、濁流が渦巻いているところも出来ていて、それが生き物のように感じられて怖いなあと思った。
「水にさらわれたらいけんなー(いけないから)、橋の真ん中を歩けえよ」
 また誰かが「気をつけにゃあいけんでえ。うろうろせんとしっかりついてこいよ」とみんなで声を掛け合いながら用心して歩いていく。
 上流の方から濁流が渦を巻いて、水かさを増して田柄川を下流へと押し寄せてきていた。その流れに呑み込まれたら、どうなってしまうかわからない。
「きょうていな(怖い)。下に落ちたら、おしまいだ、そうなったらたまらん。もう助からない。そのときはおしまいだ」
 そんなことを考えつつも、とにかく渡るしかない。そこで、どのようにして欄干のない、橋桁まで水かさが増している、コンクリート橋をみんなして渡ったのか、たぶん傘をすぼめて真ん中を足早にか、おそるおそるか通ったことだろう。しかし、そこを渡らないと帰れないのであるから、10人程度の全員が無事に向こう岸に渡ったことは確かである。畑(はた)地域の十字路まで帰ると、もう安心ということで平井と笹尾の両地区の学友と別れた。流尾地域は連れが2人だったか、道子ちゃん(仮の名)も連れていたのかもしれない。無事に家路についたときは、何はともあれほっと胸をなでおろす気分であった。
 いまになって、これまでの美作の災害記録を紐解いてみると、1934年(昭和9年)9月21日朝、四国の室戸岬(高知県)に台風が上陸した。室戸岬では、最低気圧が911.9ヘクトパスカルにもなっていた。このときの最大瞬間風速の方も、秒速60メートルを記録した、とある。この台風による被害は、全国で死者と行方不明者あわせて3千人を超えたという。
 この台風は「室戸台風」と名付けられ、1949年(昭和24年)のキティ台風、1959年(昭和29年)の伊勢湾台風、1961年の第2室戸台風と並ぶ巨大台風として、いまでも「巨大台風に襲われたら」の話によく登場してくる。
 この時は、現在の岡山県全域が被災した。県南においては、暴風雨と、高潮による津波で甚大な被害が出た。後楽園正門裏の塀には、当時の洪水の最大水位を示す「浸水線」が記されている。県北では、まず現在の「真庭市久世、惣、富尾」付近では暴風雨が吹き荒れた。中川橋にかかっている中側橋が崩れ落ちたのをはじめ、久世の野白地区の堤防も決壊した。これらにより、久世の市街地は床上浸水した。津山では、荒れ狂う暴風雨により、二宮の松並木が倒れたり、院庄の堤防が決壊したり、それから何といっても今津屋橋が決壊した。『広報つやま』(2015年9月、731号)では、「あの頃の津山」として「今津屋橋の流出(昭和9年)」の模様を、次のように伝えている。
 「岡山県が昭和10年に発行した「昭和9年風水害史」によると、津山市では同月20日の午後4時ごろから雨足が強まり夜にかけて激しさを増し、21日の未明には猛烈な暴風雨となったようです。また、岡山市向かう街道の一部だった境橋も、くの字に折れ曲がり、ほぼ全損の状態であったと記録されています。」
 この記事には、江見写真館提供の今津屋橋決壊の写真も紹介されていて、今津屋橋の橋げた近くまで、濁流が押し寄せているのがわかる。駅側の岸へ向かっての4分の1くらてであろうか、橋が流されて濁流の中に半ば沈んでいるようだ。何しろ、向こう岸の津山駅に向かっての建物も水浸しになっているようなので、土塁を積もうにもどうにも、手のほどこしようがみつからないような大規模決壊であったに違いない。
 これほどの台風であったのだが、当時の勝田郡勝北町(現在の津山の東部)や奈義町他においては、「広戸風」がビュービユーという轟音を立て吹き荒れることで、被害が拡大したことが伝わっている。ここに広戸風というのは、私の子ども時代、かなり頻繁に吹いていた。それは、県北の東側にだけ吹く、局地風と言って良い。8月から10月の台風シーズンに伴って吹くことが多い。そして、人々の記憶の片隅にこびりつくようにして覚えられている大災害とは、人々が忘れかけた頃にやってくるものだ。1959年に続いて、2004年に奈義町全域を襲った広戸風の威力は、これまでの最大規模のものであったらしい。記録によると、この年の10月20日、台風23号の日本列島北上に伴い、この地域に広戸風が発生した。台風の本州四国から紀伊半島にかけての接近、通過により、瞬間最大風速が秒速51.8メートルになったという。県北の奈義町においては、昼前から夜半までの12時間もの長時間にわたって秒速30メートルもの広戸風が吹いた。上町川・滝本地区で上下水道が断水したのをはじめ、停電も4日間に及び、町内の道路の多くも不通に陥るなど、人々は70年ぶりの大きな被害を受けた。
 県南沿岸部での高潮被害で付け加えるべきものに、1884年(明治17年)8月25日から26日にかけての大津波がある。この時は、25日夜から未明にかけての台風に、折からの満潮が重なり高潮になり、これで堤防が決壊し海水が広い範囲で流入した。これによる、死者と行方不明者は655人、家屋の流壊が1227戸とも伝えられる。被害が最も大きかった、現在の倉敷市福田に、当時の遭難者を祀る千人塚が建立されている。さらに珍しいところでは、1946年(明治21年)12月21日、岡山県南西部海岸一帯に地震があった。これは、和歌山県沖を震源地とする南海大地震の影響で、岡山も震度5であったのだが、この地震で相当規模の堤防の損壊や家屋の倒壊があった。  
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