『(74*54)』『岡山の今昔』新見から広島県境へ

2017-05-30 21:16:04 | Weblog

『(74*54)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』新見から広島県境へ

 新見から西ないし南西に向かっては、芸備線(げいびせん)が走っている。この線だが、新見と広島(内陸の三次(みよし)を経由)とをつないでおり、江戸時代、かつての広島藩(ひろしまはん)が、安芸国(あきのくに)一国と備後国(びんごのくに)の半分を領有していたことから来る「芸」と、備中国(びっゅうのくに)との合わせ技であろうか、その珍しい命名に興味をそそられる、そこで、この線の駅名をしばらく辿るとしよう。
 芸備線のホームの駅標には、新見駅の次の駅として「ぬのはら(布原)」と記される。このホームに入線してくる列車に乗り、まずは布原駅(ぬのはらえき、岡山県新見市西方字野々原)に着く。あたりは人家も少なく、山あいの田舎ののどかな風景が広がっているとのことである。近くには、「阿哲峡」のあることが、地図から読みとれる。今時どこのローカル線でも見かける鄙(ひな)びた駅に違いないのだが、この駅の現在は運行上の理由から、他駅とは区別される特色を持つ。というのは、この布原駅は、地理では伯備線(はくびせん)の上にありながら、伯備線の案内には名前が乗っていない。戸籍上は伯備線なのに、である。そうなっている理由としては、伯備線の普通列車は、原則として布原駅を通過する(実際には行き違いのために運転停車をする列車が一部あるとのこと)。一方、芸備線の列車は布原駅に停車していることから、伯備線の案内には書かれていない。
 21世紀のいま、この駅をはるばる訪れる大方の鉄道ファンは、伯備線を走特急形電車381系「やくも」の撮影が目的であるらしい。実は、この鉄路をかつては蒸気機関車(D51と呼ばれるSL)が走っていた。旅雑誌『ノジュール』(2017年4月号?)に、めずらしい記事を見つけた。興味深深で当該ページを開くと、こうあった。
 「布原(当時は信号場)を出発して新見方面に向かう三重連。まもなく西川鉄橋~苦ヶ坂トンネルにさしかかるところ。列車は足立(あしだち)にある採石場(現在も操業中)から姫路の製鉄会社に原料である石灰石を運んでいた。」
 このとの注釈付きで、黒煙を吐きながら急勾配の坂を上っている、往年の雄姿の写真が紹介されている。少しくすんだような、昔懐かしい写真が目に飛び込んできた。「当時は信号場」といっていたのが、国鉄民営化のなされた1982年4月に「布原」という駅に昇格したと伝わる。貨車を率いる先頭に、「三重連」という機関車を三つもつないで推進力をだしていたというから、驚きだ。 
 さて、布原を出た芸備線の列車は、備中神代(びっちゅうこうじろ)、板根(いたね)、市岡(いちおか)、矢神(やがみ)、さらに野馳(のち)と行く。鉄路に沿ったは、高梁川の支流の一つに数えられる神代川が流れている。芸備線は、さらに現在の広島県との県境を越え、東城(とうじょう)へと西進していく。その大方は、現在の国道182号線近くを列車が走る。
 このあたりには、自然豊かな名書が散在している。新見市街から西へしばらく行った新見市哲西町(てっせいちょう)、芸備線の矢神(やがみ)駅の近くに、鯉が窪湿原(こいがくぼしつげん)がある。これは、どのようにしてできたのだろうか。その故はまだ知らない。場所は、吉備高原北西辺の鯉が窪池の上流域、標高でいうと約550メートルに位置する。ここは「西の尾瀬沼」とも呼ばれ、温暖湿潤の季節には、およそ3.6ヘクタール、一周が2.4キロメートルもある。ここは国の指定を受けている湿原であり、保存要旨には、保護があればこその意味合いを込めてであろう、こう記されている。
 「鯉が窪の池辺ならびに、付近の湿原は、高梁川の小支流の水源地の山間に残された日本太古の自然の姿を保つ地域であって、ここには北方系・満朝系の残存植物をはじめ、日中共通植物や、日本固有植物その他の湿性植物・水生植物の他種類が生育している。また、数種の湿棲昆虫その他の昆虫も発生し、西部本州の湿原を代表する学術上貴重な地域である。」
 このように学術上の価値の高い湿原であるが、案内パンフなどの説明によれば、オグラセンノウ、ビッチュウフウロ、ミコシギクをはじめ380種類を超える植物が自生している。新見駅前の刊行案内書でもらった写真で拝見すると、色とりどりの、あれやこれやの植物がびっしりと植わっている。どれをとっても、陽光を受け輝いている。しかもその土壌たるや、この地方の人が「サワッタ」と慨嘆するほどに、物干し竿(さお)を射し込めば全部入ってしまうほどの深みなのだと言われる。沼があれば、そこを生活の場とする昆虫や小魚、鳥などがいることだろう。それらを見つけながらゆっくり歩いて一回りすると、楽しくも興味深いウォーキングとなること請け合いなのではないか。
 また、これより芸備線をこれより進んで広島との県境(岡山県新見市哲西町と広島県庄原市東城町)の野馳(のち)駅まで行ってみられるとよい。その近くに日本松峠と呼ばれる、景勝の地があるらしい。ここに、備中神代から東城まで芸備線が開通したのは1930年(昭和5年)のことであった。一方、新見から道路をたどってこの方面へ行く場合は、国道182号線(1963年に指定)に乗っていく。さらに中国縦貫自動車道からは、広島県に入って直ぐの東城インターで降りてから、踵(くびす)を返して峠に向かう。およその道筋としては、かつては備中新見路なり、東城街道と呼ばれていた。この峠のあたりには、江戸時代、ここには浅野藩の番所があった。人馬の往来が盛んであったらしい。峠の名前の通り二本の大きな松の木があったのだと伝わる。
 ここには牧水二本松公園がつくられていて、若山牧水の次の歌碑が旅人を迎えてくれる。
それには、「幾山河こえさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」とあるとのこと。この歌は、牧水が1908年に郷里の宮崎へ帰省する途中に、この峠の茶屋・熊谷屋(くまたにや)に泊った時に詠んだものだとされる。当時の彼は、早稲田大学の学生であったらしい。もう一つ、「けふもまた心の鐘を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれてゆく 」の歌碑も建立されているとのことである。さらには、後に人の喜志子、長男の旅人の歌碑が置かれているとのことで、機会を見つけて是非拝んでみたいものである。

(続く)

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『(75*55)』『岡山の今昔』新見から高梁へ

2017-05-28 21:59:12 | Weblog

『(75*55)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』新見から高梁へ

 それから、新見からの南方向への線路が伯備線(はくびせん)であって、こちらは高梁川沿いを辿って、やや東に偏(かたよ)りを見せつつ南下する。こちらの鉄路は、ほぼ現在の国道180号線沿いを辿る。新見を出た列車は、まずは石蟹(いしが)から井倉(いくら)へと南下していく。井倉駅から出て直ぐの左に見えるのが井倉洞(岡山県高梁川上流県立自然公園にも指定されている天然記念物にして、新見市井倉にある)である。日本三大鍾乳洞の一つとされ、石灰岩が堆積した地層が隆起したものであるとも、阿哲台地の石灰岩地帯に長年雨水等が浸食してできたとも説明される。高梁川の流れに寄り添ってあることから、井倉駅から方谷駅にかけては、井倉峡だと言われる。そんな井倉洞だが、全長が1200メートルもあるという上に、高低の落差も相当に上るらしい。鍾乳洞の入口のあるところは、高さ240メートルの石灰岩の絶壁が聳える麓にあると言われる。さても、伯備線の列車に乗っている自分の目を見開いていると、高梁川沿いにそそり立つ絶壁の壁面には、たしかに割れ目のような入口が見て取れる。
 物の本や多くのガイドによると、入り口を入って暫く行ったところには「月ロケット」と呼ばれる竪坑が上に伸びており、さらに上ると「水晶殿」「鬼の手袋」まで行って水平方向に転回し、さらに奥へ奥へと続いていく。それらの行程の道すがら、に入って行くにつれ、鍾乳石が天井からぶら下がっての「つらら石」や、下からタケノコのように生えてきたかの「石筍」(せきじゅん)などの形となって、しつらえられた照明に浮かび上がってくるのだという。聞けば、その姿は「まるで美しい石のカーテン」だの「まさに幻想の世界」だとか、さまざまに称賛される。私もいつか時間を得て、ひんやりした空気を感じながらも、ここを訪ね歩いてみたいものだ。
 有名な鍾乳洞といえば、もちろん、この井倉洞ばかりではあるまい。こういう場合、日本人は「3大」云々と喧伝しがちなのだが、競争じみて来ると、反面見えなくなってくるものが多くあるのではないか。ここではやはりどれも素晴らしい内容と景観ということなのであり、それぞれの特徴を中心に愛(め)でればよいのではないか。山口県にある秋芳洞(あきよしどう)の延長は約10キロメートルと言われており、同じ中国地方にあって、地層などでどう関係しているのか興味深い。岩手県にある龍泉洞(りゅうせんどう)については、この洞内に住むコウモリと共に国の天然記念物に指定されているのが珍しい。こちらの総延長は知られている所で3.6キロメートルだとか。高知県にある龍河洞(りゅうがどう)の泉洞だが、こちらの見所は、奥の方から湧き出る清水が数カ所にわかって深い地底湖を形成していることにあるという。人間などまだ一人としていない頃に、かつて海中にあった生物の残骸、化石として堆積されていたものが地層とともに隆起して来た。生物のそれこそ気の遠くなるような年月に亘ってつくられていったことに、敬意を表したいものだ。
 さて、井倉洞を過ぎてからは、そのまま絹掛(きぬがけ)の滝、鬼女洞などが織りなす井倉峡の渓谷美を間近に堪能しながら方谷(ほうこく)、次いで備中川面、木野山へと下っていく。この「方谷」という駅名は、藩政改革に功のあった山田方谷を記念して名付けられたらしい。木野山までやってくると、訪れる者の目の前にはもう現在の高梁市の北に聳える臥牛山(がぎゅうざん)の勇姿が目前に迫りつつある。
 この中流域からの高梁川は、古来からしばしば歌に詩に詠まれてきた。明治以降の例でいうと、岡山の女流詩人の永瀬清子の作品「美しい三人の姉妹」に、こうある。
 「高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は/気性のいさぎよい末の娘。/奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに/白いしぶきが虹となる。/山々はカナリヤの柔毛のように/若葉が燃えだし/焔(ほのお)のように紅葉がいろどる/そそり立つ岩壁の足もとに/碧(あお)い珠玉(たま)をところどころに抱いて/歴史をちりばめ、地誌を飾り/いつもお前の魅力は尽きない。」(『少年少女風土記、ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959年2月、泰光堂)。

(続く)

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『(28*25)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴)

2017-05-13 08:50:34 | Weblog

『(28*25)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴)

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(7月6日)には全山が崩れる参事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領二二八か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、五月には、幕府天領二二八か村の総代五人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。
 ここに美作の天領二二八か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち七七か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡六六か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡三五か村のグループであった。このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末の同年旧暦7月22日、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。この直訴は幕府に認められ、咎めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。
 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。

(続く)

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『127*85』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』19世紀の岡山人(鞍懸吉寅)

2017-05-06 10:28:56 | Weblog

『127*85』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』19世紀の岡山人(鞍懸吉寅)

 鞍懸吉寅(くらかけよしとら、俗名は寅次郎、1834~1871)は、赤穂(あこう)の下級藩士の家に生まれた。長じては、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩の会沢正志斉らに学んだ。浪人するが、「富籤論」(とみくじろん)をあらわした。24歳の若さにして、足軽の身分から勘定奉行に抜擢され、藩政改革に携わったものの、保守派に活動を阻止され、追放の憂き目を見る。師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成に務めていた
 ふとしたことから、旧縁のある津山へ来て、津山藩士の河井達左衛門を頼る。塾で、講義をするなどした。これを機縁に津山藩に出仕する道が開ける。7人扶持という。儒者として用いられることになった。就任直後の1864年(元治元年)夏には、津山藩領である小豆島(しょうどしま)である事件があった。島には、イギリス軍艦が碇泊していた。これに商品を運ぶため小舟が近づくのを浜から島民が見物していた。この中の一人を、水兵が銃殺した。その水兵は、すぐさま船中へ逃げ込んだ。イギリス軍艦は、早々に去った。藩からその処理を命じられた鞍懸は、現地に赴き、この事件を詳細に調べた上で不当であるとし、幕府に訴え出た。しかし、幕府にイギリスを訴えようとする気はない。それでも、鞍掛は諦めなかった。働きかけを続け、1865年1月10日(元治元年12月13日)付けのイギリス公使の「賠償金をだすことは当然の義務と考えている」との書簡を引き出した。これに基づき、1867年に入ってようやくイギリスに賠償金の洋銀200枚を支払わせた。
 その後は、江戸屋敷に左遷されていたのが、呼び戻されたものの、藩政の要路からは外されていた。かれの「勤王」の立場が、「佐幕」(さばく)の念の強い藩の空気にそぐわなかったと見える。その後、しだいに実力を発揮するに至り、国事周旋掛となる。時の藩主は、9代松平慶倫(まつだいらよしとも、1827~1871)であり、蛤御門の変後、慶倫が幕府に提出した上言書には、鞍懸に攘夷の思想が反映されていた。その幕府からの長州追討の命に対しては、「征長延引に今一掃尽力せられたい」という意見書をしたため、藩主に願い出ている。
 維新後の1869年には、一転して、小参事を経て権(ごんの)大参事に任命された。この時の事例は、知事が直接に渡した。その後、民部省をもつとめる身の上となる。津山城下においては、1871年9月19日(明治4年8月5日)、津山県庁から士族および卒に対し、今後の処遇に関する通告があった。
 「海内一般郡県の制度になったので、県内の士族は追って文武の常識を解いて家禄を収め、「同一人民之族類」に帰するようになるから、その旨を心得て方向を定めるようにせよ。もっとも家禄を収めたうえは相応の米券を遣わし、生活の道がたつようにする。」(『布告控』:津山市史編纂委員会「津山市史」第五巻近世Ⅲ幕末維新、1974での現代語訳から引用) 
 1871年9月26日(明治4年8月12日)の夜、津山の椿高下の河瀬重男(友人)宅を出たところを短銃で狙撃され、翌日息を引き取った。犯人は逃げおおせたが、当時の城下士族のすさんだ空気がこの暗殺を呼び寄せたものと推察される。頭脳鋭敏な鞍懸としては、そんなこともあろうかと思っていたのかも知れぬが、かれを取り立ててくれた津山藩最後の藩主・慶倫の恩顧に報いようとする気もあって、わざわざ津山を訪れていたのかもしれない。

(続く)

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『(33*30)』『岡山の今昔』幕末の攻防

2017-05-03 20:20:40 | Weblog

『(33*30)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末の攻防と封建体制の終焉

 備前と備中そして美作の3藩は、幕府と新政府の間をさまよったものの、維新の最終段階では新政府に従った。これらのうち津山藩は、さきに将軍家斉の子斉民(なりたみ)を8代藩主として迎えた10年後の1827年(文政1年)、皮肉にも先代藩主の斉孝に慶倫(よしとも)が生まれた。そのため、斉民は隠居を余儀なくされ、家督は慶倫が継ぎ新しい藩主になった。これが契機となって藩内は分裂、斉民側は佐幕派、慶倫(よしとも)側は勤王派に分かれての抗争が始まった。
 津山藩主の松平慶倫は、1863年((文久3年)8月18日政変の後も長州藩への寛大な措置を求めた。とはいっても、それに先行して実施の陣夫役、そして政変後の長州征伐や鳥羽伏見の戦いにも幕府方として参戦した。ここで「陣夫役」とは、雇兵でもなければ、長州藩の奇兵隊の如き、当時の腐りきった世の中を突き崩すために志願しての兵でもない。具体的には、8月政変の5箇月前の3月、津山藩は摂津湊(せっつみなと、現在の兵庫県神戸市)の警備を請け負い、領地内の出役可能な18歳から60歳迄の男子の中から相当数を選んでこの賦役に動員した。出役者には、日程数に応じて一日当たり2升ずつの扶持米と若干の小遣いが支給されることになっていた。
 ところが、その扶持米支給は「大割入」(おおわりいり)といって、領主の出兵のための費用を、領内全体の農民の負担に割り振って拠出させるという、農民たちへはいわゆる「やらずぶったくり」のからくりなのだ。加えて、1868年(慶応4年)1月の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)時には、幕府の新たな命令を目して、領津山藩内で360人もの猟師を兵として動員する計画まで立てられていた。それによると、大庄屋たちに対し、彼らの管轄ごとの必要人員と集合場所まで指示していたという。そういうことだから、殿と大方の重役達は当時の時代の変化を観る目がまるでなかった酷評されても仕方がないのではないか。
 幕府の命に従っての津山藩の参戦は、しかし、惨めな失敗へと連なっていく。そのことごとくの敗戦後、備前の岡山藩などが新政府にとりなしてくれたのが効を奏したほか、勤王派の鞍縣寅次郎(くらかけとらじろう)らが奔走した。彼が公武合体と勤王両派の間をとりもって藩内を新政府に従うことにまとめたこともあって、かろうじて「朝敵の汚名」を免れることができた。もう片方の斉民は江戸にいて、鳥羽伏見で命からがら逃げ帰った将軍慶喜が江戸を退去する際、彼から田安慶頼(たやすよしのり)とともに徳川家門の後事を依頼された。
 また、同時期の岡山藩と備中松山藩の動静については、まず岡山藩が徐々に幕府から離れていった。もともと勤王色が濃かった岡山藩政が大きく勤王・倒幕側に傾いたのは、1868年(慶応4年)のことであった。これより先の1866年(慶応2年)師走に、一橋慶喜が15代目の将軍に就任した。その慶喜の実弟である岡山藩主池田茂政は、これにより微妙な位置に立たされたが、翌1867年(慶応3年)、西宮警備を命じられて家老以下約2150人が出役した。翌1868年(慶応4年)正月には「朝敵」と見なされた備中松山藩の征討を命じられ、またも家老以下1千数百人が出役した。この間に大きく世の中が動いたのを見抜いたのは、近隣の津山藩などと大きく違うところである。この年の旧暦正月15日、藩主の池田茂政は急遽隠居をして、徳川氏とゆかりのない鴨方支藩の池田章政が本藩の藩主となり、かねてよしみを通じていた長州藩との連絡をも密にし、倒幕の旗印を鮮明にするに至るのである。
 これに対し、備中松山藩は、家柄の重さが大いに関係した。この藩の元々は、1617年(元和3年)、因幡鳥取の池田長幸(いけだながよし)が6万5千石で入封した。ところが、1641年(寛永18年)にその子長常が死んで無継嗣・改易となり、翌年備中成羽(びっちゅうなりわ)の水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石を与えられて入封した。しかし、これも1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。ために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり除封された。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄(いちくらかつすみ)が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして、7代藩主の板倉勝浄(いたくらかつきよ)が幕府老中に就任していたこともあり、結局は倒幕に抗する動きを示した。
 戊申戦争(ぼしんせんそう)においては、彼は奥羽越列藩同盟の公儀府総裁となって函館まで行って新政府軍に抵抗したものの、時流には逆らえず、1869年(明治2年)、明治政府によつて禁固刑に処せられることになる。加えるに、鶴田藩(だづたはん)は、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で長州軍に所領を奪われた石見国浜田藩6万1千石の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら、水戸藩主徳川斉昭の子)が、翌1867年(慶応3年)に幕府から久米北條郡内で2万石を与えられて立藩していた。このため、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いのおり、幕府側について敗れ、「お家存亡の危機」に立たされたが、家老尾関隼人の赦罪賜死での嘆願によってどうにか新政府側の許しを得たのであった。
 そして迎えた8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)ら
ざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす。・・・・・」
 この措置により、例えば備中松山藩を例にとると、新政府から蔵米2万5千石を受けて6万1千石に復された。(つづく)
 さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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『(11*11)』『岡山の今昔』鎌倉時代の吉備(文化)

2017-05-03 10:30:48 | Weblog

『(11*11)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』鎌倉時代の吉備(文化)

 臨済禅は栄西(えいさい)が中国の宋から持ち帰る。武士にも参禅する者が相次いでいく。栄西その人は、備中国の吉備津神社の神主、賀陽(かや)氏の出身と聞く。19歳の時比叡山へ上り、天台宗徒になる。伯耆の国の大山寺にも学んだものの、中国留学の志が抑えがたく、伝手(つて)を求めて1168年(仁安3年)に中国大陸に行く。次いで1187年(文治3年)にもう一度、宋(いわゆる南宋(なんそう)のことで、1127~1279年に栄えた)を訪れる。二回目に行った時には明確に禅の一派を学ぶ意思があり、中国大陸の天台山の萬年禅寺で虚○懐○(こあんえじょう)の下で禅を学んで帰国した。京都において大いに布教しようとして果たせなかった。そこで鎌倉に赴き、そこで北条政子をはじめ、武士社会への浸透を図っていく。その試みは、無駄ではなかった。当初の想像以上に、うまく行ったものと見える。日頃から死と向かい合わせにいる武士の精神世界に、彼の持ち込んだ禅の思想が合ったのではないか。なお、栄西が中国から他に持ち帰ったものに茶の苗があったらしく、佐賀の山村(現在の佐賀県神埼郡脊振村(かんざきぐんせふりむら))に植えたとのこと。現在では、この過疎の村は、日本茶の発祥の地として知られる。
 栄西が中国から持ち帰った臨済禅の特徴は、ありきたりの仏教教義に囚われない、その闊達さにある。筆のタッチに例えると、さしずめ簡潔にして豪快といったところか。この派においては、座禅はかりでなく、言葉も重視する。特に、開祖の黄檗(おうばくぜんじ)禅師の弟子である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の人の破天荒ぶりは群を抜いていたらしい。こんな逸話が残っている。それは、上堂して「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」(岩波文庫に『臨済録』として収録されている)と喝破しながら宙を指さしたものか。こうした義玄の奇怪な言動には、弟子達も大いに悩んだのではあるまいか。その言わんとするのは、私のことを見ている、私の中の私を見定めよ、ということなのだろうか。とりわけ師弟の間では、「公案」という禅問答を巡って到達した心境を推測する。他にも「公案」(こうあん)という、まるで雲を掴むような謎かけを行って、それを解いてみろ、と迫るのだ。

(続く)

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『(19)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作森藩)

2017-05-03 09:28:02 | Weblog
『(19)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(美作森藩)

 元禄期の美作はどのようであったのだろうか。ちなみに、森家は忠政の嫡男他が早世していて、二代目藩主には、養子になっていた長継(ながつぐ)が就任する。長継は、忠政の姉の嫁した関共成(せきともなり)の後継・関成次(せきなりつぐ)と森忠政の二女との間の長男にして、森忠政の養子となって養父の後を継いだ。三代目藩主には、長武がなった。彼は長継の次男であって、長継の長男・忠継がすでに死去したため跡を継いだ形であった。そのため忠継の子の長成が16歳での元服に長じると、長継は長武に働きかけて長成に家督を譲らせ、長成が四代目藩主になる。
 おりしもこの時代、5代将軍綱吉が1687年(貞享4年)発布した「生類哀れみの令」が生きていた。これは、発令の動機からして変わっている。綱吉にとって、自分にいまだに継嗣がいないのは、前世に殺生を多くした報いである、なので新たな子宝に恵まれるためには犬や馬、猫などに愛情を注ぐのがよい。特に将軍は戌年であるから、ことのほか犬を大切にすべきであると、このような説法を隆光僧正から受けたのがそもそもとされる。綱吉が大好きな儒学のどこをほじくり回して探しても、そんな教えはどこにも見あたらない。珍説といえるのだが、残念ながら、命を賭して主君をいさめようとする人材は幕閣にはいなかった。
 1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。彼は、以後1708年(宝永5年)までこの趣旨の布達を繰り返すという、はたから見ても「はばかりながら、なぜにそこまで拘られるのか」と言いたい程の執着ぶりであったろう。ともあれ、津山藩はなんとかこの工事を終える。しかし、この犬小屋普請により森藩の財政は大きく傾いたのであろう。
 そして迎えた1697年(元禄10年)旧暦6月20日、藩主の長成が27歳の若さで死去するという一大事が出来(しゅったい)する。その長成には、まだ跡継ぎが生まれていなかった。当時の武家諸法度は、4代将軍の家綱の時代、1651年(慶安4年)に、以下のように改訂されている。
 「五十歳以上以下養子願之事
諸大名らびに御旗本、諸物頭、御役人に至るまて召しにより登城仰せ付けらる。
一、御家人之面々、五十歳より内にて末期に及び養子之願仕り候者、その筋目(すじめ)により跡式(あとしき)御立成られ候。また五十歳以上にて末期に及び養子之願仕り候者、跡式御立成られ間敷旨(まじきむね)、上意之趣仰せ付けらる。」『徳川禁令考』二二六二号、前集第四、二五〇頁
 要するに、それまでの末期養子の禁止を緩和し、50歳以下の当主が急病危篤の際に末期養子を願い出ることを認める。そのことで、「慶長七年(1602)から慶安三年(1650)までの約五十年間に、末期養子の禁のために改易・減封(げんぽう)された大名は五十八家、幕府が没収した石高は四百三十万石弱にのぼる」(栗田元次『江戸時代史』上巻(初版、内外書籍、1947)近藤出版社復刻本、1976)にあって、それが所理喜夫編『古文書の語る日本史』第6巻江戸前期、筑摩書房、1989にて引用される)状況の改善に踏み出したのであった。
 そこで、長成の末子養子にと祖父の長継から推された関衆利(せきあつとし)に白羽(しらは)の矢を立てた。その衆利だが、2代長継の12男で森家家老の関衆之(せきあつよし)の養子に入っており、忠継や2代藩主の長武の兄弟、前藩主の長成の叔父に当たる。彼は、津山藩家老の要職(およそ6名体制の内)にあった。前述の1695年(元禄8年)旧暦10月から12月にかけての幕命による犬小屋普請に際して、衆利は当時23歳の総取締として重責を担う。
その彼が本家の森藩の跡目を相続することになり、幕府に江戸に出向くよう呼ばれる。
要は、家督相続のため江戸に来て申し開きをせよの仰せであったことだろう。衆利と同藩の一行は、東海道のまだ半ばより手前、伊勢国桑名縄生村(名生村)までやって来ていた。
そのおり、宿にて「発狂失心」に陥り、「近習に斬りつけ負傷させた」ことが公(おおやけ)とされた。そのため、一行は桑名から江戸へ進発不能となってしまい、そのことが幕府の知るところとなる。
 どうしてそのような事態になったのかは、現在でもよくわかっていない。あるいは、その宿にて、どこからか重大な報せか命令を受けたのかもしれないし、津山に在るときからの内紛(とりわけ一門の間の複雑な事情があったのは否めない)が昂じて破局を迎えた結果であるのかもしれない。さらには、医師が衆利に朝鮮人参を大量に調合した薬を処方後、衆利本人の様子が急変したとも言われる。もしこれから行く先の江戸で、厳しい詰問に応えなければならないとしたら、その不安が精神にも介在した可能性は否定できまい。いずれにせよ、事の真相としては世間をはばかるものであったようで、そのため後々も関係者の口は固く閉ざされ、政治という藪の中に置かれたままになっていった感を否めない。
 ともあれ、出来てしまったことは、もうどうにもならない。幕府の決裁では、長成死去後の「当主」継嗣(けいし)がないことが表向きの理由とされ、1697年(元禄10年)旧暦8月2日、幕府は森藩を召し、「長成が疾によって没し、嗣子にあげられた衆利も狂疾をおこした故をもって美作国を没収する」旨の言渡し(内示)を行った。森藩の長成の遺領は、いったん没収、禄高は収納ということにならざるを得ない。この沙汰は、刀傷沙汰、勤役懈怠(きんえきけたい)、勅使などへの不敬から不行跡、病と称しての勤務拒否、藩主乱心などへの扱いとはどこが異なっているかが判然としていない。これでは、末子養子の禁を緩めた「恩恵」は得られず、幕府の譜代(一部を除く)、外様大名に対する態度には厳しいものが残ったのではないか。
 その後の森家と家臣にとっては、1697年(元禄10年)の旧暦10月11日、城下で津山城の幕府への明渡しが行われ、禄を失い住処(すみか)を明け渡した家臣たちは方々へと散りじりになってゆく。その近傍年での森氏の家臣数としては、『津山市史』により、扶持米取りが119人、切米取りが2401人の計2871人あったのではないかと見積もられている(津山市史編さん委員会『津山市史』第三巻、近世1ー森藩時代より引用)。
 その日、城下宮川の制札場に、次のような高札が掲げられた。
 「条々
一、今度津山の城召し上げられ候に付き、給人引払いの儀、今日より三十日限りたるべし。ただし給人津山領にこれ有りたしと申す輩は、せんさくを遂げ、心次第に先ずこれを指し置くべく、立退きたる者に滞り無く宿を借すべきむね御目付中より証文遣わすべき事。
一、喧嘩口論はこれを停止し○(おわ)んぬ。もし違犯の族あらば、双方これを誅罰すべし。万一荷担せしむる者は、その咎(とが)本人より重かるべし。
一、竹木伐採の儀、ならびに押売り狼藉停止の事。
一、家中の輩武具諸道具、其の身心に任すべき事。
一、家賃の儀、譜代に非(あらざ)る者は、以後、主従相対次第たるべき事。
 右の条々これを相守るべし。若し違反の族は厳科に処せらるべきもの也。仍って件の如し。
 元禄十年丑(うし)十月十一日
水谷弥之助(勝信)
田村右京太夫(建顕)」
 同年の1697年(元禄10年)旧暦10月15日、幕府は長成の死後、隠居中の二代藩主であった森長継(ながつぐ)に備中国西江原において二万石を与えることで再出士を命じ、その家名を存続させる。その翌年の旧暦6月の長継は、旗本となっていた息子の長直(衆利の兄)を呼び戻す形で再興のなった森家の家督を相続させる。その話の後段だが、森長直はそれから8年を経て、赤穂義士の吉良邸討入り後の播磨の国赤穂に移封となっていく。さらに長継の備中西江原受領と同時に、3代目藩主であった長武(長成の叔父)が別の弟長俊に1万5千石で分家させた支藩である津山新田藩は、同月播磨の国の西部へ移され、三日月藩として存続を許される。また、関長次(せきながつぐ、森長継の九男にして森忠政の甥)の次男・長政が森藩2代目の長継から1660年(万治3年)頃、宮川の墾田を分知され、立藩していた支藩の美作宮川藩(関家1万8900石)も、関長治(せきながはる、関長政の養子にして、長継ぐの九男)が藩主の時、備中の新見藩(1万8700石)に転封される。
これら一連の森藩の徐封(じょふう)などの後、美作は、幕府の直接支配に移ったが、その後の1698年(元禄11年)、松平宣富(まつだいらのぶとみ)がみまさかの約半分の領地を受け継ぐ形で津山城の主に封じられた経緯がある。

(続く)

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