255◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大山康晴)

2019-05-27 23:11:00 | Weblog

255『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、大山康晴)

 大山康晴(おおやまやすはる、1923~1992)は、岡山県倉敷市の生まれ。5歳の頃には、将棋をさし始める。やがて、大坂へ出て、木見金治郎九段門下。
 1940年(昭和15年)には、プロ四段に昇格する。1952年(昭和27年)には、第11期名人戦で木村義雄十四世名人を破り、初の名人となる。以来、5連覇して十五世名人の永世称号資格を得る。

 1957年(昭和32年)には、兄弟子の升田幸三にその座を奪われたが、2年後に奪還するという具合、ここから13連覇を果たす。この間、1962年(昭和37年)には、初の五冠王(名人・十段・王将・王位・棋聖)にもなり、以来、長く将棋界に君臨する。大山にしてみれば、面目躍如といったところか。

 その生涯現役にも驚かされるが、いろんな格言を残したことでも知られる。「助からないと思っても助かっている」など、「攻め」よりは「受け」にまつわることでの名言が多い。それ以外にも、例えば、「不運が続くと思ったら、虚心になって変化を目指せ。不運を幸運に変える要諦は、これしかない」という。これなどは、「苦しい時ほど、視野を広くもって、その事象に当たれ」ということだろうか。

(続く)

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◻️256『岡山の今昔』岡山人(20世紀、三宅精一)  

2019-05-27 22:15:26 | Weblog

256『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、三宅精一)

 三宅精一(みやけせいいち、1926~1982)は、倉敷市の青果店の家の生まれ。やがて、地元の三菱重工業に勤める。

 そのうちに、召集令状が来て、軍隊に入る。1945年(昭和20年)12月には、復員する。1961年(昭和36年)頃からは、岡山市北区南方で旅館業を営む。そのかたわら、発明に興味があり、あれやこれやを試作する。

 そればかりではなく、動物好きが昂じて、セントバーナード犬の飼育を始める。そのことがきっかけで、ある日、盲導犬になる犬を探していた「岩橋英行」と出会う。岩橋は、社会福祉法人の日本らいとハウス理事長その人で、話が合う。

 その岩橋が、視力が弱まってきたことから、盲目や弱視の人が外出する時のことを考えるようになる。そんなある日、「足の裏で、歩道と車道の境目が判るようになれば、危険が減るのではないか?」との発想が脳裏に浮かんだという。

 苦心の末てあったのだろうか、点字ブロックを考案する。そして点字ブロックのデザイン・仕様を完成させる。

  そして迎えた1967年(昭和42年)、岡山市の盲学校近くの横断歩道口(中区尾島、国道2号線、現在の250号線)に、世界で初めて点字ブロックを設置する。岡山県や建設省と交渉してのことで、このための費用、点字ブロック230枚を三宅氏が負担する。

 しかし、すぐにはその有用性はなかなかに認知されない。三宅は、それからも私財を投じ、点字ブロック拡大のために活動を続ける中、しだいに、社会がこれを理解してくるのであった。人に優しい社会をひたむきに考え、行動することで、世の中を変えていく、大いなる人生だ。

(続く)

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◻️187『岡山の今昔』岡山人(19世紀、岸田吟香)

2019-05-26 22:36:10 | Weblog

187『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、岸田吟香)

 岸田吟香(きしだぎんこう、1833~1905)は、日本の新聞記者、実業家、教育家と、幅広の事業を手掛ける。美作国久米北条郡垪和(はが)村(現在の岡山県久米郡美咲町)の庄屋の生まれ。

 14歳の時、津山に行き、漢学を習う。18歳の時には、円城寺(吉備中央町)に行き、「深山、大沢必龍蛇」の落書きを書いた、との逸話が伝わる。

 それからは、江戸へ出て儒学をまなんだり、大坂では中国語を学んだりする。1864年(元治元年)からは、目薬「精錡水」(せいきすい)を販売する。

 きっかけは、目を患って、アメリカの宣教師ヘップバーンに出会い、漢学を見込まれ、彼の和英辞典の編纂を手伝う。ついでに、目薬の処方箋を教えてもらい、研究し、その製造方法を手にしたようだ。やがて、薬業界の大立者となっていく。

 また、このことが契機となり、新聞という文化のあることを知ったという。1865年(元治2年)には、日本ではじめての民間新聞「海外新聞」を発行する。1868年(慶応4年、明治元年)には、イギリス人バン・リードと共同で、「横浜新報・もしほ草」を発行し、主筆と編集を担う。1873年(明治6年)には、創刊したばかりの東京日日新聞社に入社する。主筆となり、陸軍が台湾事件で出兵したおりには、従軍記者になったりもしたという。

 変わったところでは、 1872年(明治5年)には、卵かけご飯を食べた日本で初めての人物ともされ、以来、周囲によく卵かけご飯を勧めていたらしい。

(続く)

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◻️257『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内田吐夢)  

2019-05-26 21:12:33 | Weblog

257『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、内田吐夢)

 内田吐夢(うちだとむ、1898~1970)は、岡山市北区天瀬戸の生まれ。岡山中学校(現在の岡山朝日高校)へすすむ。

 だが、2年でやめ、ピアノ調律師を志して横浜に行く。「年期奉公」として、ピアノ製作所で働く。1920年(大正9年)には、横浜の大正活動写真株式会社(大活)に出入りする。そこにいた谷崎潤一郎の薦めで、俳優として雇われる。

 1926年(昭和元年)になると、日活京都大将軍撮影所に入る。ほどなく、監督を目指すようになる。翌年には、日活で監督になり、1930年(昭和4年)には「生ける人形」を、1932年(昭和6年)には「仇討選手」を手掛ける。

 本格的な作品としては、1927年(昭和2年)の喜劇「競争三日間」ではないかという。1929年(昭和4年)には、片岡鉄平の小説「生ける人形」、長塚節の「土」を映画化する。

 日中戦争中は、軍部に協力するよういわれ、関東軍を描く「陸戦の華」の脚本を頼まれるものの、はかどらないまま敗戦を迎える。時代に翻弄されながらの何年かであったのだろう。

 そして迎えた帰国後、「血槍富士」でカムバックする。これは、槍持ちという脇役的な位置づけにある権八が主人公であるということ。その上、物語の進み方も変わっていて、主人公が自分で考え、判断を行う中で、封建社会に立ち向かう。

 それからは、「宮本武蔵」「大菩薩峠」などの大衆映画を手掛けていく。続いての「飢餓海峡」は、水上勉の原作だが、時代の変わり目を「荒廃」という観点から浮き彫りにした。

(続く)

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『◻️172岡山の今昔』岡山人(18世紀、西山拙斎)

2019-05-25 22:46:33 | Weblog

172『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、西山拙斎)

 西山拙斎(にしやませっさい、1735~1798)は、儒者にして、『関西の孔子』とも呼ばれる。立身出世を望まないことでは随一クラスであったのではないか。鴨方の医師の家の生まれ。

 はたしてか、早熟であったのかも知れない。まずは、岡白駒(おかはっく)、那波魯堂(なわろどう)に儒学を、医学を古林見宣に学ぶ。20歳の時、京都へ行き、今度は漢詩や和歌を学ぶ。

 1764年(明和元年)には、日本にやって来ていた朝鮮通信使に随行していた学者に、頼み込み、かの地の学問を詳しく教えてもらう。筆談でも、かなりのことがわかったらしい。

 かの国においては、儒学のなかでも、朱子学を正統としていた。
 1773年(安永2年)には、郷里の鴨方に帰って、儒学の塾をひらく。教えるとともに、規則正しい生活を地でゆく。

 そんな彼の名前を一際ひろめたのは、なかでも、朱子学をことのほか信奉し、寛政異学の禁を擁護したことだろう。そもそも、この取り締まりは、1790年(寛政2年)に、幕府の昌平坂学問所で、儒学の中の朱子学を正統とみとめる。これに肩入れした儒者の柴野栗山らによる幕府への進言にあっては、拙斎の熱情的な働きかけがあったらしい。時の老中は、あの権威主義者の松平定信だった。
 それからも、故郷を離れることなく、淡々と過ごす。著作には、「拙斎詩文集」「閑窓瑣言」などがあるという。

(続く)

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『◻️171岡山の今昔』岡山人(18世紀、万代常閑)

2019-05-25 21:36:35 | Weblog

171『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、万代常閑)

 万代常閑(まんだいじょうかん、1675~1715)という名前は、越中富山薬売りで有名だが、一人の彼が始めた商売ではなく、代々その名前を受け継ぐ。やがて、11代目になる、これに至る長い商売の伝統があった。

 それというのも、室町時代、萬代家初代とされる萬代掃部助(もずかもんのすけ)は和泉国、堺の万代(もず、現在の堺市)の代官として大内氏に仕えていた。

 そんなある日、堺浦で明国舟が難破したのを、掃部助が助けたという。そのためか、掃部助の夢枕に百舌鳥八幡宮の神様が出てきて、「明人から礼を受け取ってはいけない」とのお告げをもらう。その後、明人は、やはり『お礼を」と持ちかける。だが、掃部助はお告げを守って、その申し出を断る。

 そして、その明人から秘薬の製法を伝授される。これが、延寿返魂丹のはじまりだと、代々伝わる。掃部助は、これを機に返魂丹の製造に乗り出す。

 その後、足利義満と大内義弘の争いに巻き込まれ、丹後の国(現在の兵庫県)へ逃れる。その後さらに、縁があって、備前の国和気郡益原村(現在の和気町)へ移る。

 それからこの地で、主計(かずえ。3代)からは、医師となり、この薬を医術の中に組み込み、治療に用いていく。それからは、穏やかな年月で、つつがなく暮らせたのか、どうか。

 1674年(延宝2年)と1688年(元禄元年)に疫病が流行すると、この時、万代家は、郡奉行の下で治療に努める。

 やがて常閑(11代)へと受け継がれていくのだが、1704年(元禄17年)には、岡山城下の森下町番所に住居を与えられる。

(続く)

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◻️170『岡山の今昔』岡山人(18世紀、古川古松軒)

2019-05-25 20:51:56 | Weblog

170『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、古川古松軒)

 古松軒(ふるかわこしょうけん、1726~1807)は、下道郡新本村(現在の総社市新本)に生まれる。8歳の時、母を失う、それからは、よくわからない。二十歳の頃、京都に住んだとも。その後だろうか、真備村(現在の真備町岡田)に移り、「仲屋」という薬屋を営む。

 だが、四十歳始めの頃には、博奕にふけったり、代金不払いで大坂の薬問屋から訴えられるなど、その生活は安定せず、貧乏な暮らしぶりであったようだ。1769年(明和6年)の44歳になっては、 このままではいけないと思ったのだろうか、何と起請文を書いて、一念発起したという。

 手始めに、何をしたのだろう。頭角をあらわすのは、1783年(天明3年)、58歳の彼は、九州一周の旅を敢行する。ただの旅ではなく、この体験を「西遊雑記」にまとめ、発刊する。1788年(天明8年)には、幕府巡検使に随行の身となり、奥羽と蝦夷(えぞ)を旅する。長男が、幕府老中松平定信の家臣、小笠原若狭守の侍医松田魏楽の養子になっていた。そのつてがあったのかもしれない。

 この旅行の後には、定信に呼ばれ、息子と一緒に江戸に行き、地理や測量のこと、九州の地方事情などを定信に説明したようだ。紀行文「東遊雑記」を提出したのだと伝わる。さぞかし、面目躍如であったことだろう。

 その「東遊雑記」においては、当時高名であった蘭学者林子平が著した「三国通一覧」に誤りがあるなどと、批判しているとのこと。なにしろ、「百聞は一見に及ばず」が口癖であったとのことであり。進取の精神というべきか。かく引用する筆者にも覚えがあり、正面から切り出されると耳が痛い。

 測量についての当時の日本の技術水準がどれほどであったのかは、つまびらかでないようだが。「東亜地図」や「蝦夷全図」「大坂市街の図」などが、彼一人の手によるのではないようなのだが、作製されている。

(続く)

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◻️244『岡山の今昔』岡山人(20世紀、時実新子)

2019-05-24 20:30:56 | Weblog

244『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、時実新子)

 時実新子(ときざねしんこ、1929~2007)は、岡山県上道郡九幡村(現在の岡山市東区西大寺)に生まれる。やがて、県立の西大寺高等女学校を卒業する。17歳で兵庫県姫路市の商家に嫁ぐ。

 ふとしたきっかけであったのだろうか、子育て中の25歳から川柳を作り始める。自己表現に目覚めたらしい。1963年(昭和38年)には、句集「新子」をつくり、これがデビューとなる。

 1974年(昭和49年)には、季刊川柳誌「川柳展望」を主宰する。「凶暴な愛が欲しいの煙突よ」や「五月闇生みたい人の子を生まず」などを盛り込む。やむにやまれぬ「私」の熱情がほとばしり出たのであろうか。
 1987年(昭和62年)には、夫ある女の激しい恋情を詠った句集「有夫恋(ゆうふれん)」がベストセラーとなる。大した度胸なのだろう。作家の田辺聖子さんは、これを「珠玉にして匕首(あいくち)の句集」と感想を述べたという。まるで、川柳界の与謝野晶子であるかのように、「奔放」な彼女に期待を込めたのだろうか。

 1996年には、今度は「月刊川柳大学」を創刊する。若手作家を育成することにも、川柳の普及に力を注ぐ。わけても、短歌や俳句に比べ、やや遅れて表舞台に出た感のある川柳への風当たりは強かったのではないだろうか。

 その間には、産経新聞夕刊の「夕焼けエッセー」の選考委員も務める(2017年9月11日付け産経新聞)。

(続く)

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◻️209『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、加藤忍九郎)  

2019-05-23 23:02:59 | Weblog

209『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、加藤忍九郎)     

 加藤忍九郎(かとうにんくろう、1838~1918)は、実業家だ。和気郡野谷村(現在の備前市三石)の生まれ。代々、名主の家柄であった。1859年(安政6年)には、野谷村の名主となる。その後は、別の二つの村の名主も担うにいたる。

 ところが、1872年(明治4年)にはこれを退き、清酒製造を始める。その翌年には、三石のろう石を用いた石筆の製造事業に乗り出す。

 1872年(明治5年)には、岡山県野谷村(備前市)のろう石を原料に石筆の製造を始める。小学校での普及により事業を発展させていく。しかし同時に、そのうち需要が伸びなくなることを考えていたらしい。まさに、実業家の頭脳だ。

 1886年(明治19年)には、地元産出のろう石による煉瓦の製造事業に、新たな活路をみいだす。そして迎えた1890年(明治23年)には、三石煉瓦製造所を設立し、事業に乗り出す。おりからの日清(にっしん)戦争下で急成長をとげていく。

 こうなったのには、当地では、三石でろう石原料が多量に産出されたことと、古代からの日本6古窯のひとつである備前焼の長い歴史があったことが幸いした、といわれる。

 それというのも、それまでの耐火煉瓦の原料は、耐火粘土といって、可塑性があって成形に適す。そのため、高温で大きく収縮してしまうのであった。そのため、これで耐火煉瓦を製造する場合には、粘土を一度焼成し、焼き締めた塊状原料(シャモット)としたうえで、粘土と混ぜて使用していたという。

 これに対し、ろう石は耐火粘土の内には違いないが、加熱収縮が少なく、高温では膨張性を示す。だから、焼き締めた原料に加工する必要がない。また、ろう石質煉瓦を製鉄所で溶鉄に接する部位に使用すると、鉱滓の浸潤が少ない、隣接した煉瓦と一体化して目地が開かないとも。そのため鉄鋼用耐火物、特に取鍋用煉瓦として使用の道が開けたという。

 そればかりではない。三石でその製造が始まると、これが産業として発展するにはインフラの整備が不可欠なのに違いない。だが、三石から片上港への道は道幅が狭く、急な坂道が続く。馬車での輸送に頼るが、これでは煉瓦の破損が少なくない。そこで加藤らは、山陽鉄道が神戸―下関間に敷設される話を聞くと、がむしゃらに誘致運動を行う。そのかいあってか、三石駅の開通が実現する。

 およそこのようにして、日本の近代産業勃興・発展に、耐火煉瓦は大いに役立っていく。大正初期には、第一次世界大戦下で日本からの耐火煉瓦輸出が大きく拡大する。そういえば、当時の日本は、アジアの大国として、しゃにむに「帝国主義」へとのめりこんでいった。

(続く)

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◻️242『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柴田錬三郎)

2019-05-23 08:41:43 | Weblog

242『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柴田錬三郎)

 柴田錬三郎(しばたれんざぶろう、1917~1978)は、邑久郡鶴山村(現在の備前市)の生まれ。この場所は、鯛漁など、漁業が盛んな土地柄で、伸び伸び育ったのであろうか。おまけに、腕白小僧のあだ名があったという。鶴山小学校から岡山二中へすすむ。さらに、慶応義塾大学支那文学科へいく。

 その3年在学の時から「三田文学」に小説を発表する。また、魯迅の文学、キリシタン史に傾到していく。

 1942年(昭和17年)には、衛生兵として、南方へ派遣される。その時のことだが、そこに向かう途中の船が撃沈される。柴田は漂流し、なんとか助けられたという。

 戦後、「日本読書新聞」の再刊に携わる。また、佐藤春夫に師事して、文筆活動へと向かう。1952年(昭和27年)に「三田文学」に発表した「イエスの裔」で直木賞をもらう。翌年には、時代小説に移る。「真説河内山宗俊」が契機となったとのこと。

 1956年(昭和31年)には、「週刊新潮」に連載した「眠狂四郎無頼控」で空前の剣豪ブームを巻きおこす。その眠の親友の中には、あの義賊の鼠小僧次郎吉や、貧民のために義挙を起こした大塩平八郎がいたというから、驚きだ。1969年(昭和44年)には、「三国志英雄ここにあり」で吉川英治賞を受ける。

 そんな柴田にして、エッセイの執筆やテレビの出演といった活動もしていく。

(続く)

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◻️241『岡山の今昔』岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)

2019-05-21 20:23:41 | Weblog

241『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)

 岡崎嘉平太(おかざきかへいた、1897~1989)は、吉備郡大和村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。家は、裕福であったのかも知れない。

 県立の岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)までを、岡山で過ごす。そのご、東京の第一高等学校へとすすむ。

 1922年(大正12年)に東京大学を卒業し、日本銀行に入る。 エリートの道であろう。1939年(昭和24年)には、上海の華興商業銀行理事となる。こちらは、日中共同出資の会社であったという。それから、大東亜省参事官を務める。こちらでは、上海の大使館にいたという。その頃の言葉であろうか、次のようなものと伝わる。

 「我々は隣国とだんだん、だんだん交わりを深くして隣国との間に争いを起こさない。アメリカも大切な一人であり、我々が自由陣営から離れることは絶対、民族にとって不利でありますけれども、ただそれだけで、自由陣営に属しない者の悪口を言いけとばして済むかというと、そういうわけにはまいりません。まず相手を知る。とにかく我々は体を持って行って見る。向こうの人と直接会ってみる。直接向こうの実情を見た上で、我々の否応を判断しなきゃいけない。」

 1945年(昭和20年)には、日本敗戦となり、その処理で国民党政府の湯恩伯将軍と交渉する役割を担う。戦争責任には、問われなかったようだ。

 日本へ引揚げ帰国の後には、池貝鉄工、丸善石油の再建に参加する。続いて、全日空の副社長、1961年(昭和36年)には社長となる。

 1962年(昭和37年)には、高碕達之助経済訪中団に同行する。以来、日中友好に取り組んでいく。しだいに、日中民間総合貿易の中心人物となっていく。

 1967年(昭和42年)には、全日空社長を退く。その後も全日空に隠然たる影響力をもっていたという。

(続く)

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◻️240『岡山の歴史』岡山人(20世紀、木村毅)

2019-05-21 13:01:41 | Weblog

240『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、木村毅)

 木村毅(きむらき、1894~1979)は、勝田郡勝田村(現在の勝央町勝間田)の生まれ。少年時代から、文学に傾倒する。田山花袋(たやまかたい)の「文章世界」への投稿など。

 地元の高等小学校を卒業後は、大阪に出て、キリスト教会にて英語をまなぶ。1911年(明治44年)には、早稲田大学予科英文科に入学する。6年がかりで卒業後は、出版社に勤務しながら文筆活動を続ける。

 1924年(大正12年)には、小説「兎と妓生と」を大阪毎日新聞夕刊に連載する。文学評論においても、1925年(大正14年)刊行の「小説研究十六講」は、のちに菊池寛や松本清張も熟読したという。松本清張は、恒文社版『小説研究十六講』に「葉脈探求の人―木村毅氏と私―」(1980)という一文を寄せている。その一節には、こうある。

  「小説研究十六講」を買ったのは昭和二、三年ごろだったと思う。私の持っているのは十三版で大正十四年十二月発行である。初版がその年の一月だから、一年間に十三版を重ねた当時のベストセラーだ。私は高等小学校を出てすぐにある会社の給仕になっていたが、時間を見つけてはこれに読み耽った。たとえば銀行にお使いに行きそこで待たされている間もこれを開いた。自転車で使いに走りまわるのに、五百ページの本は少々重くて厄介だったが、これを読むのがそのときのただ一つの愉しみだった。

 それまで私は小説をよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて立証し、創作の方法や文章論を尽したこの本に、私は眼を洗われた心地となり、それからは、小説の読みかたが一変した。いうなれば分析的になった。」

 それからは、社会主義思想の啓蒙活動で全国を遊説したりも加わる。安部磯雄の日本フェビアン教会の創設、賀川豊彦の農民学校に協力、それに日本労農党にも参加する、という慌ただしさであった。

 また、吉野作造らを中心に結成された明治文化研究会に参加する。「明治文化全集」の刊行に尽力したり。とにかく、精力的であったらしい。

 1928年(昭和3年)から2年間ヨーロッパに滞在したのち帰国し、「ラグーザお玉」を発表する。その後も、「日米文学交流史の研究」など。文学、歴史、政治などの分野を跨がって活動したことでは、近代でそうは前例がなかろう。

(続く)

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◻️208『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿藤伯海)

2019-05-21 11:11:33 | Weblog

208『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、阿藤伯海)

 阿藤伯海(あとうはっかい、1894~1965)は、浅口郡六条院村(現在の浅口市)の生まれ。教育者にして、漢詩人。

 父は、村長を務め、祖父は家塾をやっていたという。矢掛中学校から第一高等学校、東京帝国大学を経て、京都帝国大学大学院に進んだというから、トントン拍子ということか。狩野直喜に経学を学ぶ。これは、古代からの中国の学問(哲学か)であるらしい。

 その後は、法政大学、第一高等学校で教鞭を執る。1944年(昭和19年)には、職を辞し郷里に帰る。以後、漢詩の詩作を中心に暮らす。

 1949年(昭和24年)には、岡山大学の創設にも参加する。1956年(昭和31)年から翌年まで、岡山県教育委員会委員を務める。しかし、会議に出て、失望し、辞職したという。学問一途の人には、世俗的なことは、馴染めなかったのだろう。

 珍しいところでは、農地改革では、田んぼをほとんど全て無料で手放し、家産を傾けても頓着しなかったと伝わる。また、所帯をもつことなく、「孤高の人」とも言われる。写真をみると、静かなたたずまいだ。

 没後に、教え子らによって漢詩集「大簡詩草」が刊行される。句碑もあり、吉備まきびを偲んだものである。中国人ならわかるのだろうか、ネット記事にて拝見したものの、筆者のごとき中国語の超初心者には、歯が立たないようだ。

 それはともあれ、数々の教え子たちからは「先生」の人柄を綴られ、地元では「はっかい先生」と慕われているらしく、教育者冥利に浸れるのではないだろうか。漢文の方は、せめて現代漢字に訳してもらえると、大いにありがたいのだが、いかがであろうか(例えば、「万葉集」の原文は漢文だか、解説者による「ヤマト言葉」による書き下し文が付けられて流布されており、当時の人々の息づかいが伝わってくる)。  

(続く)

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◻️207『岡山の歴史』岡山人(19世紀、西毅一)

2019-05-21 08:52:01 | Weblog

207『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、西毅一)

 西毅一(にしきいち、1843~1904)は、岡山藩の家老池田氏の家臣、霧山の家に生まれる。1858年(安政5年)には、父に従って大阪に行く。そこで学んだのち帰郷し、森田節斎の門人、西後村(にしこうそん)の、書生となる。
 余程気に入られたのだろうか、後村没後は、後村の養嗣(し)子となって西姓を名乗る。1869年(明治2年)には、上京し、同年には上海に渡る、そして帰国し、学んだ英語で、外交応接方になるというから、その俊敏さに驚く。

 1871年(明治4年)に台湾事件が起きると、被害にあった琉球人は日本の領分とみなしたのか、台湾の領有を譲らない清国に兵隊を向けるよう行動する。日本としては、この事件を種に台湾に出兵し、琉球の帰属に政治的野心のあることを世界に示した。かの当時の政府の中枢、慎重派の大久保利通も、これには加担していたというから、西ばかりをとやかくいえまい。

 1875年(明治8年)には、岡山県参事に、その翌年には東京上等裁判所判事となるが、さらに翌年辞任してしまう。せっかく手に入れた職であったろうに、次から次へと考えが発展していたのだろうか。
 1879年(明治12年)になると、清国に渡り文学研究に励む。ところが、病気になり帰国する。同年、自由民権運動が高揚すると、これに身を投じる。国会開設運動にいそしむ。県下における運動の中心的存在になり、政府に国会開設の建白書をだす。板垣退助らとも連絡していたのだろうか。

 そればかりではない。1880年(明治12年)には、旧岡山藩士族の生活困窮を救うべく、微力社を設立する。1881年(明治13年)には、閑谷学校の再興を図り、保こう会を設立する。
 1890年(明治23年)の第1回及び第2回衆議院議員選挙に当選するが、政府側に属したらしい。威張るところはなく、議員生活は質素なものであったらしい。その後は、閑谷学校の経営に心血を注ぐ。これが、天命とわかったよう。学校は、1903年(明治36年)に、私立閑谷中学校となる。ところが、その翌年に自殺してしまったのは、惜しい。休むことなく働いてきた人生を振り返っていたのなら、未来を担う若者たちに何を伝えようと考えていたのだろうか。

(続く)

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◻️239『岡山の今昔』岡山人(20世紀、松岡寿)

2019-05-19 21:46:12 | Weblog

239『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、松岡寿)

 松岡寿(まつおかひさし、1862~1944)は、岡山藩領の内山屋敷で生まれる。父は、日本での洋学の先覚者の一人。1872年(明治5年)には、父とともに上京して、思想家の西周の家に下宿する。1873年(明治6年)には、川上冬崖の聴香読画館に学ぶ。父と西夫妻の勧めがあったという。

 1876年(明治9年)に開校の工部美術学校に入る。 1878年(明治11年)には、十一字会を組織する。1880年(明治13年)には、イタリアに留学をはたす。向こうでは、ローマ美術学校に学ぶ。

 1888年(明治21年)には、帰国する。初期にはバルビゾン派風の自然主義的な画法を学んでいたのが、留学後はイタリア官学風の堅実な手法に移る。 1889年(明治22年)になると、浅井忠らと明治美術会を結成する。続いての1892年明治美術学校を設立する。

 さらに東京帝国大学工学部講師、東京美術学校教授、東京高等工芸学校教授、同校長、文展審査員を歴任する。主な作品としては、「ローマ、コンスタンティヌス凱旋門」 (1882、東京芸術大学)、「ピエトロ、ミカの服装の男」 (岡山県立美術館)など。

(続く)

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