209『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、加藤忍九郎)
加藤忍九郎(かとうにんくろう、1838~1918)は、実業家だ。和気郡野谷村(現在の備前市三石)の生まれ。代々、名主の家柄であった。1859年(安政6年)には、野谷村の名主となる。その後は、別の二つの村の名主も担うにいたる。
ところが、1872年(明治4年)にはこれを退き、清酒製造を始める。その翌年には、三石のろう石を用いた石筆の製造事業に乗り出す。
1872年(明治5年)には、岡山県野谷村(備前市)のろう石を原料に石筆の製造を始める。小学校での普及により事業を発展させていく。しかし同時に、そのうち需要が伸びなくなることを考えていたらしい。まさに、実業家の頭脳だ。
1886年(明治19年)には、地元産出のろう石による煉瓦の製造事業に、新たな活路をみいだす。そして迎えた1890年(明治23年)には、三石煉瓦製造所を設立し、事業に乗り出す。おりからの日清(にっしん)戦争下で急成長をとげていく。
こうなったのには、当地では、三石でろう石原料が多量に産出されたことと、古代からの日本6古窯のひとつである備前焼の長い歴史があったことが幸いした、といわれる。
それというのも、それまでの耐火煉瓦の原料は、耐火粘土といって、可塑性があって成形に適す。そのため、高温で大きく収縮してしまうのであった。そのため、これで耐火煉瓦を製造する場合には、粘土を一度焼成し、焼き締めた塊状原料(シャモット)としたうえで、粘土と混ぜて使用していたという。
これに対し、ろう石は耐火粘土の内には違いないが、加熱収縮が少なく、高温では膨張性を示す。だから、焼き締めた原料に加工する必要がない。また、ろう石質煉瓦を製鉄所で溶鉄に接する部位に使用すると、鉱滓の浸潤が少ない、隣接した煉瓦と一体化して目地が開かないとも。そのため鉄鋼用耐火物、特に取鍋用煉瓦として使用の道が開けたという。
そればかりではない。三石でその製造が始まると、これが産業として発展するにはインフラの整備が不可欠なのに違いない。だが、三石から片上港への道は道幅が狭く、急な坂道が続く。馬車での輸送に頼るが、これでは煉瓦の破損が少なくない。そこで加藤らは、山陽鉄道が神戸―下関間に敷設される話を聞くと、がむしゃらに誘致運動を行う。そのかいあってか、三石駅の開通が実現する。
およそこのようにして、日本の近代産業勃興・発展に、耐火煉瓦は大いに役立っていく。大正初期には、第一次世界大戦下で日本からの耐火煉瓦輸出が大きく拡大する。そういえば、当時の日本は、アジアの大国として、しゃにむに「帝国主義」へとのめりこんでいった。
(続く)
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