196『自然と人間の歴史・世界篇』イギリス絶対王政
1485年、バラ戦争に勝利して即位したヘンリー7世に始まり、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリ1世、エリザベス1世と続く、15世紀末から16世紀のイギリスの王朝をテューダー朝という。
まずは、最初のヘンリ7世(在位は1485~1509)だが、バラ戦争を収束させたことで、それまでのヨーク朝に代わってのテューダー王朝をひらく。ランカスター家出身だが、ヨーク家の女性と結婚することで、自らの権威を獲得する。
では、なぜそのようなことが可能になったのか。顧みれば、バラ戦争は1453年に始まり、1485年までの32年間にわたって続けられた。その実は、イギリス国内の貴族間の内乱であり、彼らが赤バラと白バラを紋章とする二つの王家、ランカスター家とヨーク家とに分かれて争った血なまぐさい戦いなのであった。
ともあれ、この戦いの最終局面のボズワースの戦いにおいて勝利をおさめたため、彼に新たな王位が与えられる。それゆえ、彼を祖とするテューダー朝はこの時創設された、といって良い。
このように幸運を掴んで登位したヘンリ7世であるが、なかなかの策士でもあったことが窺える。国王直属の星室庁裁判所を設け王権の強化に努める。イギリス絶対王政の基礎つくり、その彼は、重商主義の政策をとることで国富を増やそうと目論む。特に、毛織物産業の発展を目指して、羊毛の関税を高くすることで、外国商人の羊毛購入を制限したり、毛織物製品の輸出奨励をすすめる。スペインの毛織物産業が1570年以降衰退したのに対し、イギリスからの製品輸出はますます増大する。
二代目のヘンリ8世(在位は1509~1547)は、イングランドのみでなくウェールズ、スコットランド、アイルランドの統治権も行使し、イギリスを一つの主権国家としての統合を進めた、バイタリティのある君主である。宗教面では、より露骨な立ち回りを演じる。すなわち、ルターの宗教改革には反対し、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられる。
ところが、この蜜月は長く続かなかった。ヘンリー8世は、王妃カトリーヌとの離婚問題でローマ教皇と対立するにいたる。ありていにいえば、若く美しい妃にとって替えようというのであったのではないか。1534年に首長法(国王至上法)を制定して、イギリス国王を教会の首長とする、イギリス国教会制度を創設する。ローマ教皇との決別である。これに絡んで、ローマ・カトリックの立場から離婚に反対した人文主義者のトーマス・モアは、1535年に断頭台で処刑される。王権拡張の障害となる修道院を廃止する。自己の地位を脅かしかねない貴族層の力を弱めるとともに、官僚的政治機関を配置する。絶対王政の基礎を築く。
その後のエドワード6世(在位は1547~1553)は、ヘンリ8世の唯一の男子。9歳で即位し、16歳で死ぬ。年少であったゆえ、その治世において実権を握っていたのは、叔父にあたる摂政とその側近たちであった。議会で一般祈祷書が制定され、国教会の礼拝方式を整備するのたが、取り巻きたちがよってたかって王の行動を逐一監視し、誘導したのは否めない。
さらにメアリ1世(在位は1553~1558)は、イギリス王室最初の女王となる。ヘンリ8世の娘であり、生まれながらの女王というべきか。母キャサリンがカトリックであったため、彼女もこれに従う。それまでのイギリス国教会を否定してカトリックに復帰するのであった。宗教的妥協ということであったのかもしれない。スペインのフェリペ2世と結婚してからは、態度がこわもてとなっていく。すなわち、プロテスタントを弾圧しては殺害を繰り返し、民衆からは「血塗られたメアリー」と恐れられるのだが、短期政権であった。
エリザベス1世(在位は1558~1603)は、ヘンリ8世の娘で母はアン=ブーリン。メアリーの死去により女王となり、中庸的な宗教政策をとる。イギリス国教会を復活させる。そのため、カトリック教会からは、大層嫌われたというのだが。1559年、それまで廃止されていた首長法を復活させ、さらに統一法を制定して一般祈祷書による儀式の統一を図る。国王を宗教上の最高権威に据える一方、国境への服従を国民に強制する。政治力学にいう勢力均衡に取り組み、議会を巧妙に利用しつつ、イギリス絶対王政の体制を確立させていく。
その一方では、1588年、オランダを支援してスペインと国交を断絶する。スペイン国王フェリペス2世とヨーロッパの覇権を争う。そして迎えた1588年、海上でスペインのスペイン・アラメダ(無敵艦隊)を破り、海上支配の基礎を固める。1600年には、東インド会社を設立する。その彼女が、同時代人のシェイクスピア(1564~1616)の戯曲を愛したのは、つとに知られる。彼女は、生涯結婚せず後継者が無かったので、これにて116年間持続したテューダー王朝に幕が下りる。
彼女の後は、1603年に、遠縁にあたるスコットランド国王ステュアート家のジェームズ1世がイングランド王を兼ねるにいたる。というのも、ステュアート朝は、1371年以来スコットランドの王朝であったから、その名前を継いだことになる。彼は、絶対王政の強化を図り、ジェントリ層を中心とした議会と対立していく。
当時のイギリスの社会事情について、池上忠広氏の論考には、こう紹介される。
「1603年疫病が再発し、神の怒りの表れと考えられた。宮廷生活の堕落は悪名高く、財政状態は混沌に陥っていた。旧来の社会的差別も無差別な騎士授勲や昇進で崩れてきた。1605年は世に「暗黒の年」(Black Year)と呼ばれ、役者はあつかましくも舞台上で国家や宗教などを風刺し批判した。1605年11月5日有力なカトリック教徒による議会爆破を企んだ火薬陰謀事件(Gunpower Plot)が発覚し国内を震駭させた。悪い徴候とみなされた日食や月食が続いて起こった。1606年にはさきの大事件に関係したガーネット神父(Father Garnet)の裁判そして処刑があった。このような同時時代人に一般的にみられた運命論や厭世思想が当時のシェイクスピア劇に暗い影を投じていたことであろう。」(池上忠広「悲劇」:池上忠広ほか「シェイクスピア研究」慶応義塾大学通信教育教材、1977)
その強引な政治手法は、1642年にピューリタン(清教徒)革命が起こって、王の独裁が倒されるまで続く。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
49『自然と人間の歴史・世界篇』ヒッタイト王国
ここでの歴史の舞台は、紀元前19世紀のアナトリア半島。この地は、現在のトルコ中央部にして、地中海、黒海、エーゲ海、マルマラ海に囲まれる。このあたりには、北方からインド・ヨーロッパ語属を話す人たちが移動して来て、住み着く。このあたりには、メソポタミアのような大河による灌漑農耕文明のない、高原地帯が広がる。
紀元前1900年頃、半島の東部に位置するキュルテペにおいて、アッシリア人たちが、商業的な植民都市を建設する。紀元前1680年、王国が建つ。インド・ヨーロッパ語属の一派のヒッタイト人の王ラパルナス1世(前1680~前1650)が、先住民族を従えてこれをたてた。これを「ヒッタイト古王国」という。その後は、養子、義弟、義子などによって王統が受け継がれていく。多数の同盟国や土地を割り当てられた王族の領土も存続していくのであった。
紀元前 1650年頃、ハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を最初の王都とし、強力な帝国に成長していく。アナトリア全土を支配下に置くにいたる。内を固めるばかりではなく、アレッポ、カルケミシュといった同盟者も多数いたことが分かっている。
紀元前16世紀の初め、4代目の王ムルシリスの治世には、シリアにも攻め入っている。顕在の歴史書に「古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす」とあるのは、メソポタミアの文書に「サムスディタナの時代に、ヒッタイト人がアッカドの地に侵攻した」とされており、紀元前1600年のやや後に、カッシート人と協力して同国を滅ぼしたと考えられている。
紀元前1590~同1525年には、内乱がまだんなく、だらだらと続いていた。これを平定したのが王朝の外戚のテリピヌスであった。この古王国は、紀元前15世紀初頭まで君臨するのだが、彼の死後、この王国がどのようにして弱体化し、没落への道をたどっていったのかは、よくわからない。
紀元前1430年には、ヒッタイト新王国が成立する。紀元前1380年、スピリリウマス1世(~前1346)が登位する。古王国の政治にとって代わったのだろうか、それとも禅譲という形をとったのであろうか。今度の王位の系統については、こういわれる。
「(中略)その新王朝は古王国のものとは別系統に属し、東方のフリ人の血の濃いものであった。王たちは古王国時代の王名を採用したが、実際にはフリ人がアナトリアの支配者となったのである。この事実はテリピヌスからスピリリウマス1世にいたる120年間は、西アジア全域でフリ人と印欧語族との国家であったミタンニ王国の影響力が非常に強かったことを示している。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
この時代、対外的にはエジプトの第18王朝と相対峙していた。エジプトは北へと力を伸ばしてきていた。ヒッタイト帝国の方も、紀元前14世紀には最盛期を迎えていた。紀元前1330年頃、シュッピルリウマ王の軍が、ミタンニを制圧する。紀元前1273年には、カデシュの戦いがある。カデシュはオロンテス川流域の要衝であって、ヒッタイトの王ムワッタリスを盟主とする親ヒッタイト勢力(前述)との同盟軍が、エジプト新王国ラメセス2世の軍と戦い、エジプト軍は不利な戦局にみちびかれる。
けれどもなかなかに決着がつかない。そして開戦から数年が経った紀元前1283年、ヒッタイト王ハットゥシリス3世は、アッシリア帝国による東方からの脅威に対抗するべく、一転してエジプトと講和条約を結ぶ。その条文が遺っていて、相互の援助条約により、第三者の攻撃に対し共同で当たることを約す。それからは、姻戚関係を結ぶなどする関係になりかわる。
それからさらに、大いなる時が経過していく。ハットゥシリス3世の後は、ヒッタイト王国は弱体化していく。代わって、アッシリアが勢力を増していく。紀元前1250年、バビロンを占領してカッシート人の国家を滅ぼす。エジプト王国はというと、ラメセス2世の後も概ねその力を保持するのであって、海の民の撃退できたのではないか。
しかし、ヒッタイト帝国の方はそれだけの力がなくなっており、「海の民」はカデシュの戦いにおいても双方の傭兵として使われたりしていたが、次第にヒッタイト帝国の足元を堀り崩すようになっていてく。
そして迎えた紀元前12世紀初頭の1190年頃、さしもの大帝国も滅亡する。小川英雄氏によれば、その模様は、「(前略)海の民の勢力はフリュギア人と協同してヒッタイト帝国を滅ぼし、オリエント世界に新しい混乱の時代を到来させた」(小川英雄、前掲)のだという。同様に、「「すでにカデシュの戦の時にヒッタイト軍の傭兵として姿を現した「海の民」と呼ばれる強力な移住民、それと友にとりわけアルヌワンダス三世時代にアナトリアに出没するようになった同じく印欧語系のフリュギア人が、前1200年頃ハットゥサスを掠奪し、王家は壊滅的打撃を受けた」(小川英雄、前掲)とも語られる。
このようにヒッタイト滅亡の引き金は「海の民」の侵攻とされてきたのだが、その根拠とされるのは古代エジプトの碑文の記述くらいに限られるのではないか。また、「海の民」の正体についても、彼らの侵攻を示すだけの考古学的な形跡が未だに見つからないことから、文献史料だけで結論されるのは、いささか早計な気がするのだが。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
126『自然と人間の歴史・世界篇』中国の南北朝時代
ここで少し顧みると、304年匈奴の劉淵の建国から439年北魏が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つをいう。また、十六国(304~439)とは、北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数はもっとあったらしい。
さて、南進して、華南に本拠を移した東晋(317~420、なおその前の西晋は265~316)だが、これを取り巻く政局は、不安定ながらもやや落ち着いていく。356年には、桓温が北地に軍を進めて、洛陽を一時占領することがあった。383年には、
淝水の戦い(ひすいのたたかい)があった。華北の盟主であった前秦の軍が江南に進撃し、東晋軍と淝水(ひすい、現在の安徽省寿県の東南)で激突する。攻め寄せた大軍に対し、東晋軍は前秦軍の軍列が整わぬうちに先制攻撃をかけた。そのことで、勝敗が前秦に不利に傾く。前秦軍は総崩れとなって、華北へ敗走する。
しかし、その後の東晋はふるわなくなっていく。君主の暗愚と、貴族が互いに争たり社交の生活に沈み、まっとうなる政治を捨てたこと、それらのことにより農民などの反乱が広がる。桓温の子桓玄が帝位を奪うにいたり、4世紀末からは国内は内乱状況を呈していく。
420年、軍人の劉裕が東晋最後の恭帝を退位させる、形ばかりは禅譲を受ける形で、華南に宋王朝(420~479)を建てる。都は建康(現在の南京)に置く。劉裕は武帝となり、軍事政権という性格を押し出していく。ほどなく、439年に北魏(386~534)が華北を統一し、中国は南北朝の時代に入る。北朝については、北魏の後は東魏(534~550)、北斉(550~577)、西魏(535~557)、北周(557~581)へと王朝が乱立もしくは移り代わっていく。
南朝の宋の2代目の文帝は、文芸を奨励し六朝文化が繁栄し、詩人の謝霊運などが活躍する。けれども、政治の方はだんだんにおろそかになっていく。貴族は、封建制社会の下での特権的地位を子孫に継承させていく。彼らは、互いに利益をめぐって争いながらも、徒党を組んで人民から搾取する。そんな社会の頂点に立つ皇帝は、貴族層の専横と常に妥協を図らねばならず、改革を行うのは至難だ。
続いて斉(479~502)、梁(502~557)それから陳(557~589)と、短命な政権がつぎつぎに興亡していく。
これらのうち梁の時代の政治では、武帝(治世は502~549)にみるべきものがあった。彼は、「武人でありながら、一流貴族に堂々と対抗しうる文化人でもあったからである」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史Ⅰ」慶応義塾大学通信教育教材、1976)との指摘もなされる。
このようにして、ほぼ170年の間にめまぐるしい王朝の交代が見られたのだが、最後の陳(南朝)も、581年にに至り、北周をついだ隋によって滅ぼされる。その隋(581~618)が中国を再び統一する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
64『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明の崩壊
紀元前1230年頃以後、ミケーネ文明は衰退に向かう。そして、紀元前1200年頃ついに歴史の表舞台から消えてしまう。その崩壊の理由については諸説があるも、有力説によると、「海の民」の侵入によるものと考えられている。それというのも、その頃の東地中海域には鉄器がもたらされつつあった。これの生み出す力が、従来の青銅器文明を打ち破っていくのである、これが人類史的な出来事であったのは、いうまでもない。小川英雄氏によると、ここにいう「海の民」とは、ヒッタイトやエジプト側記録の研究により、実態が明らかになりつつあるとのこと。同氏は、こう説明を続けられる。
「侵入民に追い払われたミケーネ人たちは、アテネを経て、小アジア西海岸に移住し、イオニアやアイオリスとよばれる地方を形成したが、さらに多くの者が連鎖反応的にギリシァ本土、エーゲ海の島々、イオニアなどを追われて、小アジアのキリキアやキプロス島、シリア、パレスティナ海岸部(シドン、ウガリットなど)、エジプトのデルタ地帯に押し寄せた(前13~12世紀)。彼らは放浪の途上で幾つかの部族組織を形成した。(中略)
エジプトでは彼らは一括して海の民とよばれていた。エジプトの壁画によると、彼らは舟も用いたが、牛車に家族を積み込んで陸路をも移動した。戦士たちは馬の毛を編んでつくったかぶと、特異なスカート風のよろいをまとい、鉄製の剣を持っていた。鉄自体は後期青銅器時代のアナトリアや北シリアで貴重品として用いられていたが、武器として実用化したのは海の民である。それが前12世紀から約2世紀間の間に、全オリエントに広まり、鉄器時代が始まった、」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)
もう一つ、鉄器文明の曙とともに、弱体化しつつあったミケーネ文明を退場に追いやったものこそ、ドーリア人(ドリス人)の南下であった。その彼らは、アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシアを構成した集団のひとつの流れであって、ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタであるといわれるのだが。このドーリア人は、もとはギリシア北部にとどまっていたのだが、紀元前1200年頃にギリシア本土のミケーネ文明が消滅した後に南下し始める。一般に、これをギリシア人の南下の第二波といって区別している。そして迎えた紀元前1100年頃、ドーリア人はギリシア本土のペロポネソス半島一円に侵入、そのまま定住し、先住民のアカイア人と共存していった、と考えられている。その中心になってつくったのが、後のギリシア社会の有力ポリスの一つ、スパルタにほかならない。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
63『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(トロイア文明)
エーゲ文明は前半のクレタ文明、後半のミケーネ文明の二期に分けられるが、並行して小アジアのトロイアにも、類似の青銅器文明があった。推定年代としては、紀元前1300年頃までか、ほぼミケーネ文明と同時期に重なる時期であったのではないか。
このトロイアだが、トルコ西部、エーゲ海を数キロ先に見渡す丘に広がる。これを空から見ると、エーゲ海岸から6キロメートル程の内陸にあるが、かつては入江が側まで迫っていたのだという。この地は、ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)などで物語られるトロイア戦争(紀元前1300年頃)の舞台として有名である。
19世紀のドイツ実業家シュリーマンが、このトロイア遺跡を発掘する。この戦いは史実に違いないと、そう確信していた彼は、1871年10月、発掘を始める。そして迎えた1872年、地下深くから宮殿跡や墓などを発掘する。この地に某かの文明の実在したことが初めて証明されたことになる。
けれども、彼が発見し、「プリアモスの財宝」と名付けた財宝などが、ギリシア軍に攻められ、滅んだとされるトロイ王朝時代のものなのかは、分かっていない。今日までのトロイ遺跡の発掘によると、紀元前3000年頃の初期青銅器時代のものから、紀元前350~400年頃のローマ時代のものまで、9層にわたり都市遺構が発見されているとのこと。
それらのうち、彼が掘っていたのは、火災の跡のある下から2番目の地層、その推定年代は紀元前2600~2300年頃と目される。これだと、彼が推定したトロイア戦争の時代よりも約1000年も古い。そこで、もしトロイ戦争が史実として、その遺構に推定されるのであるなら、紀元前1300~1200年頃の第7市の地層が当該の地層でなければならないが、第7層の遺構の大部分はそこなわれており、時代考証が困難になっているようである。
このように、トロイ戦争が史実であったとは証明されていないのだが、現在も発掘調査
が続けられていることから、追々その全容が明らかになっていくのではないかと期待される。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
62『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(ミケーネ文明へ)
少なくとも前2000年紀から南下し始めたギリシア人、その第一波のアカイア人たちが、テッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。彼らは、クレタ島にも出て行き、先住民のクレタ(ミノア)文明を滅ぼす。前1800~前1600年頃には自分たちの文明、ミケーネ文明を構成していく。彼らはギリシア本土にミケーネ王国やティリンス・ピュロスなどの小国家を作る。
この文明の第1の特徴は、クレタと同じ青銅器文明の後期であること。二つ目は、クレタと同じく海洋に糧を求めた。彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプト、またシリア、パレスチナまでの広い範囲にわたって交易を行う。
そればかりではない。紀元前13世紀のミケーネ文明においては、ギリシア語を表す文字の普及が認められる。これについては、1952年、彼らが使用した線文字Bがヴェントリスによって解読される。これらの発見により、高度な貢納王政のしくみなどが判明する。
しかし、この文明の光も、長くは続かなかった。その模様を、小川英雄氏は、こう述べておられる。
「(中略)ビュロス文書が示すように、地方的な小規模な王政が幾つかあり、それぞれ中央集権制に向かって発展していたが、各王国の対立は激化し、中心になる城市の砦は強化され、きわめてきびしい国家間の対立が存在する一方、北方のドナウ川流域の印欧語族集団から新しいギリシャ人たち、即ち、ボイオティア人やドーリア人の移住の波が押し寄せてきた。そのため従来のような広範囲にミケーネ世界の交易活動は失われて行き、前1230年頃以後は、オリエントとの通商はほとんどただれてしまった。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
61『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(クレタ文明へ)
西洋文明の源流というのは、いつ頃、どのあたりから始まったのだろうか。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが分かる年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すのであった。
紀元前3000年頃、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行がある。青銅器文明は、オリエント文明の影響を受けて形成されたものだ。彼らは、オリエント地域との海上交易を通して、次第に一つの文明圏を形成していく。
この紀元前2000年頃と相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを担ったのは、人種は不明だが、ギリシア人の先祖ではなかったと考えられている。ここでは、ひとまず一説をとって「エーゲ海先住民族の手によって」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)つくられたということにしておこう。
これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、1900年からの発掘であり、「クレタ文明」、もしくは、神話に出てくるミノス王に比定されてミノス王ということから、この文明を「ミノス文明」とも言う。紀元前1600~同1400年頃、このクレタ文明は最盛期を迎える。大規模な宮殿などがクノッソス、マリアなど島内各地に建てられる。王たちは、そこで栄華を極めたのであった。
それでは、クレタにおいて見つかったのは、何であったろうか。まずは、色彩豊かな宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い中央集権的王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。しかも、ギリシア文化とは異質な海洋民族としての特徴的な意匠、例えば蛸(たこ)やいかを描いた壺などを残している。これは、彼らが営んだ海上貿易によるものといえるだろう。
その主要な相手は当初、ビュブロス、ウガリットなど地中海沿岸のカナンの都市、それがしだいにエジプト第18代王朝や地中海を西へと広がっていったのではないか。つまりは、クレタ島のクノッソスに王宮を築いた王は、海上貿易を掌握して海上国家を築き専制政治を行っていた姿が彷彿と蘇ってくる。
そればかりではない。この時代に初めてクレタ独特の絵文字が発明される。これに工夫を加えることで、紀元前1700年以後には、音節文字の線文字Aがつくられる。だが、未だに未解読だという。
このように多方面に発達したクレタ文明なのだが、紀元前1400年頃の原因不明のクレタ島諸宮殿の焼失を境にだんだんな下り坂になっていく。さらに、ギリシア本土から進出してきた最初のインド・ヨーロッパ語系ギリシア人(その一部のアカイア人で、ミケーネ人ともいわれる)がこの島にもやって来て、彼らの攻撃によりクレタ文明は滅ぼされたと考えられている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
536『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(アイスランド)
アイスランドは、北ヨーロッパの北大西洋上に位置する。共和制を取る。首都はレイキャビク。人口は、2015年1月時点で約37万人。極寒の地ながら、火山がここうかしこにあって、地球が生きていると実感でき、地熱発電も行われる。
825年、ディチル(アイルランドの修道士)がアイスランドに着く。9世紀後半から、ヨーロッパからの入植者が相次ぎ、アイスランドに村などができていく。930年、民主議会、アルシンギが創設される。982年、エリック・トヴァルソンがグリーンランドを発見する。930年、アルシンギ(立法・司法機関)設立される。1000年、オーディンを主神とする多神教に変えて、キリスト教に改宗する動きあり。
1262年、ノルウエーの植民地になる。1397年、今度はデンマーク王の統治下に入る。1602年、デンマークがアイスランドとの通商交易を独占する。1707年、鼠蹊(そけい)腺ペストの流行で、人口の約4分の1のアイスランド人が死ぬ。
1798年、デンマークの独占通商交易が終わり、自由通商交易が始まる。1880年頃からは寒冷化が進み、移民するアイスランド人が出る。アメリカに渡ったアイルランド人も、当面、そのほとんどは貧しい生活を強いられたのではないか。1916年、社会民主党と進歩党が発足する。1918年、主権国になる。独立には違いないものの、デンマーク王は引き続き国王として君臨する、これを「デンマークとの同君連合」と呼ぶ。
1929年、アイスランド独立党が発足する。1930年、共産党も発足する。アイスランドラジオが放送を開始する。1940年、デンマークがナチス・ドイツに占領される状況の下、イギリス軍に占領される。1941年、アメリカ軍が防衛を肩代わりする。
そして迎えた1944年、アイスランド共和国として独立する。1949年、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。1951年、米軍がケフラヴィークに駐屯する。1952年、漁業権が4マイルに延びる。1958年、漁業権が12マイルに延びる。
1963年、スルトエイ噴火がある。1966年、アイスランドテレビが放送を開始する。1970年、EFTA(European Free Trade Association)に加盟する。1973年、ウエスマン諸島が噴火する。
1980年、初の女性大統領、ヴィグディス・フィンボがドッティル氏が誕生する。1994年、EEA(European Economic Area、欧州経済領域)に加盟する。1980年代の半ばから、この国は教育投資を増やし、また海外からの投資を大胆に受け入れる。アメリカをはじめ多くのIT関連企業が流入する。金融業や保険業も、どんどん来て国は活気を呈する。グローバリゼーションの典型、脱工業化のスローガンが独り歩きする。
2006年、アメリカ軍がこの地から撤退する。アメリカ軍の駐留は、55年にして終止符を打たれる。2008年、経済破綻となる。アメリカノリーマン・ブラザーズの経営破綻を契機に、世界恐慌が始まると、経済小国アイルランドはその縮小の渦に巻き込まれる。その前までの経済過熱、インフレ傾向から一転、株価も住宅価格も急落を呈する。2009年1月、ゲイル・ホルデ政権が退陣する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
441『自然と人間の歴史・世界篇』モルディブ
モルディブ共和国は、南アジアのインド洋の島にある。インドとスリランカの南西に位置する。約1200もの群島でもって、国家を形成する。2000年の国連推定による人口は、約28万人。住民の多くは、スリランカのシンハラ人、アラブ、ドラヴィダ人などの混血だという。
12世紀、イスラム化の進展がある。1558~1573年、ポルトガルの支配を受ける。17世紀、オランダ東インド会社の間接統治下に入る。1887年、イギリス保護領に組み込まれる。
そして迎えた1965年7月26日、独立する。翌年には、国連への加盟が認められる。
1968年の新憲法の発効に伴い、イスラム教義に基づくスルタン制を廃止し、共和制をとる。ナシルが初代大統領に就任する。議会は、一院制をとる。地方行政は、環礁単位で行われる。1985年、英連邦に加盟する。
1988年11月には、めずらしい事件が起こる。貿易商のルツフィがスリランカ・タミル人の傭兵隊を率いて大統領官邸を攻撃する。政府は、インド海軍に助力を要請して、なんとかこれを鎮圧する。1998年1月には新憲法が発効し、複数候補者による大統領選挙となる。
2003年10月の大統領選挙では、ガユーム大統領が再選、6選となる。2005年、複数政党制を導入する。2008年、新憲法を制定する。2016年、英連邦からの離脱を宣言する。
独立以来のモルディブ経済については、主に漁業と観光から成り立っている。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン
ブータン王国は、南アジアに位置する。北は中国、東西南はインドと国境を接する。内陸国だ。国教はチベット派仏教。21世紀初頭での民族構成は、チベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語だが、英語も一般化している。首都はティンプー。
9世紀頃までに、原住民はチベット軍の支配下に入る。その前のこのあたりの歴史は、はっきりしないのだが。チベットの力が浸透するにつれ、両者の混血により、現在の中心民族ガロップがつくられていく。
17世紀、チベット仏教の高僧ガワン・ナムゲルらがこの地にやってくる。布教のためではなく、この地を治めるためであった。そして、各地に割拠する群雄を征服していく。自ら初代法王と称し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握する。
18世紀に入ると、中国そしてイギリスの影響がこの地に及んでくる。19世紀末、今度は東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが、支配的郡長として台頭してくる。
1907年、トンサの領主ウゲン・ワンチュクが、ラマ僧や住民に推される形で法王と摂政を廃す。そして、初代の世襲藩王に就任する。これにより、現王国の基礎を確立する。1949年には、インドとの友好条約を結ぶ。
1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンテュック(在位は1952~72)は、気鋭の近代化政策を打ち出す。1959年のチベット動乱を契機に、インドとの外交、軍事のみならず、経済でも結びつきを深めていく。当時のインドから民主化で茂樹を受けたものと思われる。農奴解放、1人あたり30エーカー以下への耕地所有の制限、英語による近代教育の普及、国民議会の創設、最高裁判所の設立、郵便制度の創始など、盛り沢山の制度改革を行う。
かれは、経済政策でも新味なものを打ち出す。友好国インドの援助を受けながら、5か年計画で、森林開発や水力発電、鉱物資源探査など、大いなる山間地で小国が生きて行くための方策を練るのであったが。
1962年には、国家としての自立を目指してのコロンボ・プランを試みる。1964年、地方豪族間の争いに起因する首相暗殺があったり、その後に任命された首相による宮廷革命の企み発覚があったりする。これらによる政情不安定に対し、首相職が廃止され、国王親政がとられる。1969年の万国郵便連合、71年の国際連合へと連なっていく。
1972年、16歳で即位した第4代国王ジグメ・シンゲ・ウォンチュックは、前の国王が敷いた近代化、民主化路線を継承・発展させていく。王政から立憲君主制への移行準備を主導していく。2001年には、成文のなかった憲法草案の作成が始められる。
2006年12月、第4代国王の退位により、5代目が王位を継承する。2007年12月及び2008年の総選挙を経て、2008年4月に民主的に選出されたティンレイ政権が誕生する。5月には国会(一院制)が召集される。7月に憲法が施行となり、それまでの王政から議会制民主主義を基本とする立憲君主制に移行する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
439『自然と人間の歴史・世界篇』バングラデシュ
バングラデシュ人民共和国は、南アジアに位置する。現在のインドの西隣、ベンガル地方というところにある。西インドのベンガル州を含む一帯でもある。地勢的には、平野部に位置する。気候としては、モンスーンといわれる高温多湿な中にある。ここには、ガンジス、ブラフマプトラ、メグナの3つの大きな川と、その支流に当たる無数の川が流れる。
この地には、紀元前413年、ナンダ朝が成立する。これは、マガタ国が発展したもので、ガンジス川流域の現在のインドビハール州及び西ベンガル州の一部を領する。程度の程はよくわからないが、度量衡や貨幣経済も手掛けたやに伝わる。
次には、マウリア朝の時代が来る。これは帝国クラスの国で、西はインダス川流域から東はガンジス川まで、現在のインドの大部分を治める。最盛期とされる第三代のアショーカ王の治世では、仏教が行き渡る。だが、彼が死ぬとこの国は急に勢力が弱まり、紀元前180年頃に滅ぶ。
それから混乱を経ての320年、幾つかの小国群立から抜け出したのが、グプタ王朝である。こちらは、パータリプトラを本拠にし、ジャラーと、パンジャブそしてベンガルを支配する。この王朝は、農業国だけでなく、貿易も盛んにする。国境はヒンドゥー教であっても、仏教など他宗派にも寛容であった。やがて北方からの攻撃に悩むようになり、それに応じて国内も混乱してゆき、520年頃には滅ぶ。
6世紀になると、西北ベンガルにシャシャンカ率いるガウダ国が現れる。ところが、彼が637年に死ぬと、この国は力を失う。750年頃、ゴーパーラがパーラオア王朝を建てる。ベンガルやビハールを含むインド亜大陸の北部を広く領する。この王朝は、宗教面では比較的寛容であった。グプタ王朝のように、ヒンドゥー教を国教としつつも、他の宗派も保護したという。
こちらは400年余の後国内が乱れたところを、1160年頃にセーナ朝によって滅ぼされる。セーナ朝は、西ベンガルに成立した国で、ヒンドゥー教における最上位のカーストとしてのバラモンを厚遇することで、勢力の安定を得ようと計らう。
1202年には、この地にもトルコ系の勢力が攻めてきて、ムスリム王朝である「奴隷王朝」を打ち立てる。1342年には、ベンガル地域を勢力下におくイリアス・シャー朝が成立する。これが1410年に滅ぶと、ヒンドゥーのラジャ・ガネシュ朝が興る。ムスリムの有力者たちは、後を継ぐ王がムスリムに改宗することを条件に、これに従う。1437年、ナシルディン・マハムードが後期イリアス・シャー朝の王位に就く。彼は、ベンガル出身の王で、ベンガル語の振興にも尽くした。そして迎えた1526年、バーブル率いる軍勢が、インドのデリーのロディー朝を滅ぼす。彼らは、ムガル王朝を築く。1587年頃までに、全ベンガル期は無ガル王国の支配下に入る。この支配は、1858年にムガル帝国が滅亡するまで続く。
1947年8月、パキスタンの一部(東パキスタン)として独立。これは、印パ分離独立に伴うものであった。インドからの分離独立は,宗教(イスラム)をアイデンティティの基盤に据えたものであった。1971年12月、バングラデシュとして独立。今度は、西パキスタンからの分離を果たす。こちらは、独立は,ベンガルという民族を基盤に成し遂げられたものであった。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
438『自然と人間の歴史・世界篇』ネパール
ネパール連邦民主共和国は、南アジアに位置する。内陸国。ヒマラヤ山脈を北にし、ネパール盆地を中心に人びとが暮らす。2008年に王制が廃止されてからは、共和制をとる。
この地には、釈尊の生まれた場所ルンビニがあり、1997年世界遺産に登録される。
13~18世紀のマッラ王朝時代には、カトマンズと、工芸や商売に長(た)けたネワール族職人の集まるパタン、それに今でも中世が息遣いてるかのようなバドガオンの町とが、ともに栄えたのだという。これらのうちカトマンズには、「全域がヒンドゥー教と仏教、計7派にとっての信仰の地で、繊細な木彫を施した木造の家並みがひしめく路地の間に、寺社、ストゥーパ(仏塔)、沐浴(もくよく)場、庭園、仏像などが無数に見られる」(小学館「地球紀行、世界遺産の旅」1999)とのこと。
そんな中でも興味をそそられるのは、スワヤンブナートと呼ばれる、ヒンドウー教とチベット仏教の性格をあわせもつ寺であり、巡礼者が仲良く共存しているというから、驚きだ。今、「カトマンズの谷」と呼ばれる地域は、多宗教が穏やかに共存する信仰の十字路になぞらえ、1979年にユネスコの世界遺産に登録される。
1768年、グルカ(ゴルカ)勢力がカトマンズを征服する。プリトゥビ大王によるシャハ(ゴルカ)王朝として国家統一が成る。この時からの首都は、カトマンズ。1846年からは、ラナ将軍家による専制政治が行われる。1816年、イギリスにグルカ戦争で敗北したことにより、その保護国とされてしまう。1823年に王国としてイギリスから独立するのだが、1846年には宰相のラナ家に実権を奪われる。1951年、王政復古の号令が発出され、立憲君主制を回復する。
1990年には、新憲法が制定される。2001年6月1日、ネパール王宮で事件が発生する。この事件直後にディペンドラ王太子が危篤状態のまま国王に即位するのだが、その3日後には死亡してしまう。その彼が父・ビレンドラ国王らの王族を殺害したといわれるのだが、そのことも含め事実関係ははっきりしていない。
2007年1月、暫定憲法が成立する。2008年5月28日、王制が廃止され、制憲議会が発足する。2010年5月、制憲議会を1年延長する。2011年5月と8月、制憲議会をそれぞれ3ヵ月延長する。2011年11月、制憲議会がさらに6か月延長となる。2012年5月、制憲議会が期限内の憲法制定に至らず任期満了してしまう。
2012年5月、制憲議会が期限内の憲法制定に至らないまま、任期満了となる。2013年3月、制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣が発足する。2013年11月、第2回制憲議会選挙が実施される。2014年1月、制憲議会が開会になる。2015年9月、新憲法が公布される。2017年5月、地方選挙の第1回投票を実施する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
437『自然と人間の歴史・世界篇』スリランカ
スリランカ民主社会主義共和国は、南アジアに位置する。インド亜大陸の南東にポーク海峡を隔ててある。首都はスリジャヤワルダナプラコッテ。
紀元前483年、ヴィジャヤ王子らがスリランカに上陸する。そしてかけらは、シンハラ王朝を建設する。紀元前250年頃、仏教が伝来する。
459年、アヌラーダプラ王朝のカッサバ王子が、父王を殺し、王位を奪う。カッサバ1世となり、高さ180メートルの岩上に王朝を築くのだが、王位簒奪から11年後には、弟にその座を追われる。これより後のイギリス統治下の1875年、イギリス人が岩山西の中腹にある洞窟から天女のフレスコ画を発見する。これを含めた「古代都市シーギリヤ」として、1982年ユネスコ世界遺産に登録される。
12世紀、シンハラ朝は、パラークラマバーフ1世により最盛期を迎える。その2番目の都市ポロンナルワには、「ガル・ヴィハーラ」と呼ばれる釈尊の涅槃像などが伝わる。1982年、この古代都市の王宮や寺院などとともに世界遺産に登録される。1505年、ポルトガル人がこの地に来航する。1592年のシンハラ(キャンディ)朝第166代ヴィマラ・ダルマ・スーリヤ1世の時代には、島の沿岸部の大半がポルトガルの植民地に占められる中でも、島の中部のキャンディを都になんとか独立を維持する。
第169代の王ナーランドラシンハの治世に建てられたダラダ・マリガワ寺(仏歯寺)には、釈尊の歯の一部を保存していると伝わる。釈尊自身はおそらく無神論者であった。そうであっても、火葬にふされた後の釈尊の歯を、一体誰が持ち帰ったというのであろうか。「赤味のある黄色の壁と茶色の屋根をもつ八角堂は、シンハラ建築様式の美を今に伝えている」(小学館「地球紀行、世界遺産の旅」1999)と評される。
1658年には、この地にオランダ人がやって来る。1802年、アミアン条約によりスリランカはイギリス植民地となる。1815年、シンハラ(キャンディ)朝が滅亡し、全島がイギリスの植民地化となってしまう。
1948年2月4日、イギリスから連邦内の自治領、セイロンとして独立する。1956年、バンダラナイケ首相が就任する。シンハラ語のみを公用語とする公用語法が成立する。1972年、国名をスリランカ共和国に変える。英連邦内自治領セイロンから独立する。1978年2月、ジャヤワルダナが大統領に就任する。1978年9月、国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称する。
1983年7月、大騒擾事件が勃発する。政府軍と、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)との内戦が続く。1987年7月、インドとの間で平和協定が結ばれる。これに基づき、インド平和維持軍(IPKF)がスリランカに進駐する。1987年11月には、憲法改正が行われる。この中で、シンハラ語及びタミル語を公用語と規定する。州評議会制度を導入。1989年1月、プレマダーサが大統領に就任する。1990年3月には、IPKFの完全撤退に踏み切る。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
436『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン
パキスタン・イスラム共和国は、南アジアに位置する。イギリス連邦加盟国。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。
1947年、イギリス領インドより独立する。また、インドと土地紛争が持ち上がる。これを「第1次印パ戦争」という。1948年、「建国の父」とされるジンナーが死去する。1956年、「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)が公布・施行となる。
1958年、アユーブ・カーン陸軍大将によるクーデター。アユーブ・カーン陸軍大将が大統領に就任。1962年、「パキスタン共和国憲法」(大統領制)公布・施行。1965年、第2次印パ戦争。 1969年、アユーブ大統領辞任。ヤヒヤー陸軍参謀長が大統領に就任する。
1970年、初の総選挙が実施となる。1971年、第3次印パ戦争が起こる。東パキスタンがバングラデシュとして分離独立を果たす。ブットー人民党(PPP)党首が大統領に就任する。1973年、「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)公布・施行。ブットー大統領が首相に就任する。1977年、総選挙実施があるが、ハック陸軍参謀長らによるクーデターが勃発する。1978年、ハック陸軍参謀長が大統領に就任する。1979年、ハック大統領が「イスラム化政策」を開始する。
1985年、総選挙が行われ、ジュネージョ首相が就任する。また、憲法の8次修正が行われる。1988年、ハック大統領がジュネージョ首相を解任する。ハック大統領が軍用搭乗機の墜落事故によって死ぬと、カーン上院議長が大統領に就任する。これにより、総選挙が実施され、ブットー首相が就任する。
1990年、カーン大統領がブットー首相を解任する。総選挙が行われ、シャリフ首相が就任する。1993年、カーン大統領がシャリフ首相を解任する。総選挙が実施され、ブットー首相が就任する、1996年、レガーリ大統領がブットー首相を解任する。1997年、総選挙が実施され、シャリフ首相が就任する。そして、憲法第13次修正がある。このように政情は、クルクル変じて、誠に慌ただしい。このように政情が安定しない原因とは、何であるのか。
1998年、パキスタンは核実験を行う。以来、核兵器の開発に力を注ぎ、核兵器保有国となる。1999年、カルギル紛争が勃発する。また、ムシャラフ陸軍参謀総長によるクーデターが起きる。ムシャラフ陸軍参謀長が行政長官に就任する。2002年、総選挙が実施される。2007年、大統領選挙の実施でムシャラフ大統領が再選されると、彼は非常事態宣言を出す。
2008年、総選挙実施でギラーニ内閣が発足する。ムシャラフ大統領が辞任し、ザルダリ大統領が就任する。2012年、ギラーニ首相が辞任し、アシュラフ内閣が発足する。2013年、総選挙実施でシャリフ首相が就任する。フセイン大統領が就任する。2017年、アバシ首相が就任する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
535「自然と人間の歴史・世界篇」カナダ
カナダは、北アメリカ大陸北部に位置する。アメリカ合衆国と国境を接する。10の州と3つの準州との連邦を構成している。立憲君主制国家。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。首都はオタワ。国土面積はロシアに次いで広い。
1000年頃、ニューファンドランド島北部に北欧バイキングが短期間留まる。これが、初のヨーロッパ人だと伝わる。1492年、コロンブスがバハマ諸島に上陸する。1497年、イギリスが派遣したイタリア人ジョン・カボットが、カナダの東海岸を発見、上陸した島をセント・ジョン島(現ニューファンドランド島)と命名する。
1534、フランス国王の命を受けたリタリア人探検家ジャックルカルティエが、セントローレンス湾に面したガスペ半島に上陸し、この地をフランス領土を宣言する。
1583年、ギルバートが、ニューファンドランドにイギリスの海外初の植民地を建設する。1604年、フランスのシャンプランがアカディア(現ノヴァ・スコシア)にフランス領植民地を建設する。1608年には、シャンプランが、ケベック砦を建設する。ここに「ケベック」とは、先住民の言葉「川幅の狭くなるところ」を意味する。また、先住民の構成については、後の「1982年憲法」で「インディアンとメイティ、イヌイット」のことだと規定される。1610年、アジアへ抜ける北西航路を探していたヘンリー・ハドソンが、大陸北部の湾(現在のハドソン湾)を発見する。
1620年、メイフラワー号で、イギリスのピュリータンがマサチューセッツに上陸する。これに負けじと、1627年、フランスがニューフランス会社を設立し、カナダ支配を任す。1642年、メゾヌーヴが、モントリオールにヴィルマリーを建設する。
1670年、イギリスがハドソン・ベイ社を設立し、大西洋沿岸の開拓に乗り出す。1682年、フランスのラ・サールが、ミシシッピ川流域を探検しルイジアナを開拓する。
1689~1697年のウィリアム王戦争、1702~1713年のアン女王戦争が繰り広げられる。
1713年、ユトレヒト条約で、ニューファンドラン、アカディア、ハドソン湾岸がイギリス領となる。それからも、1754~1763年、フレンチ・インディアン戦争。
1763年、パリ条約と続く。1791年には、イギリス議会が、ケベック植民地をオタワ川を境に西のアッパー・カナダと東のロウワーカナダに2分する。
1837年、マッケンジーがアッパー・カナダで、パピノーがロウワー・カナダで反乱が起こる。1839年、反乱鎮圧に派遣されたダラム卿が、アッパー・ロウ両カナダの統合と政治的独立を果たしたいと、イギリス政府に勧告する。
1841年、連邦法により、アッパー・ロウワー両カナダの統合が実現し、カナダ連邦が誕生する。1846年、北緯49度をアメリカとの国境に定める。1848年、ノヴァ・スコシアにカナダ政府が実現する。1859年、オタワが首都になる。1864年、シャーロットタウン会議とケベック会議で、連邦結成のための決議が採択される。
1867年、イギリス帝国(イギリス連邦)領北アメリカ、カナダ自治領(「ドミニオン・オブ・カナダ」)が成立し、初代首相にマクドナルドが就任する。このドミニオン(Dominion)だが、現在はカナダの州であるニューファンドランド・ラブラドール州を領域として、1949年にカナダ連邦に併合されるまで存在した。
1868年、ハドソン・ベイ社が連邦政府にルパーツランドを委譲する。1869年、ルイ・リエルの反乱でマニトバ出身のルイ・リエルを首班にメティスが臨時政府を樹立する。1870年、ニトバ州がルパーツランドから分離し、連邦に加入する。
1873年には、カナダ最高裁判所のニスガ判決により、土地に関する条約を締結していない先住民の権限(ネイティブ・タイトル)は消滅していない、と認める。1876年、インディアン法の制定に伴い、同条約を締結した先住民は公認インディアンに分類される。1896年、ユーコンのクロンダイクで金鉱発見され、ゴールドラッシュが始まる。1898年には、ユーコン準州が成立する。
第二次世界大戦後の1949年には、ニューファンドランド州が、カナダ連邦に加入する。1980年、「オー・カナダ」をカナダ国歌と定める。
1982年には、1982年憲法が発布される。国家の用いる公用語としては、「英語およびフランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会および連邦政府のすべての機関における使用言語として、対等な地位と権利及び特権が認められる」(16襄1項)となっている。1999年、ノースウエスト準州から分離したヌナブト準州が誕生する。
なお、この間のカナダの歴史解釈に絡んでは、歴史家により次のような反省がなされている。
「だがヨーロッパ人が北米大陸へと進出し、それがカナダ史の始まり、とする解釈は正しくはないだろう。かつてはヨーロッパ系白人中心史観が、カナダ史解釈の機軸と思いこまれていた。ところが、民族学研究の進歩やカナダ社会の多民族化とともに、今日では、より多面的でより重層的な歴史観が受け入れられている。無文字文化であったとはいえ、
カナダ史の文脈のなかで先住民の存在意義が積極的に再評価されているのは、こうした理由による。」(「ヌーベル・フランスと先住民、異なる文明の同士の出会い」:飯野正子、竹中豊編著「現代カナダを知るための57章」明石書店、2010に収められた論文より抜粋引用))
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆