♦️165『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀半ば、フィレンツェなど)

2018-05-10 22:20:36 | Weblog

165『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀半ば、フィレンツェなど)

 1400年、チョーサーが『カンタベリー物語』を著す。この頃、カトリック教会の内側にいた、プラハの大学の神学教授ヨハン・フス(ヤン・フス、1370頃~1415)が、イギリスのジョン・ウィクリフの改革思想に共鳴し、救霊預定説を唱える。その内容は、教会内での聖職者や教会の土地所有、世俗の悪弊、堕落などに警鐘を鳴らす。
 当時の教会中央に反旗を翻したことで、彼ら反感をかい、その前年の1414年にローマ教皇主宰によるコンスタンツの公会議(1414~18)に召喚されていた。1417年、この会議の場で、教会分裂(シスマ)」が決定される。あわせて、この会議の記録によると、意見を曲げないフスを異端として、火あぶりの刑が宣告された。
 1434年、コジモ・デ・メディチ(後述のロレンツォの祖父)がフィレンツェの政権を掌握する。富裕な銀行家としてのメディチ家が、都市国家の指導者にのし上がったのだ。彼は、邸宅や別荘にサロンを開いて学者、文芸家、建築家らに開放し、プラトン学院の創立に尽力する。そのギリシアのプラトンだが、その著『国家論』の中で「幾何学を知らざるものこの門を入るべからず」と説いていた。
 このコジモは、剛胆でいながら、なかなかの策士でもあった。フィレンツェという「自由都市」を牛耳るには、表面上市民大衆の味方を演じるのに精出す。自治の運営にあっては、執行部の選挙を進めなければならない。その際、被選挙権者の名簿をつくる選挙管理委員会(アッコビアトーレ)の人選に、自らの息のかかった者を送り込む。また、時に応じて招集される特別委員会(バリーア)をも、親メディチ派で固める。さらに、「八人軍事委員会」という名の秘密警察を抑えることで、反対勢力に対する諜報活動なりを行う。
 1458年には、鉄鎖で固めたようなメディチ家による街支配の仕組みをつくり上げるのに成功する。とはいえ、むき出しの独裁政治ということではなく、策謀を繰り返し、世論を味方に引き入れることでこそ保たれる、微妙な権力政治なのであった。メディチがこの地位を保つことのできた背景には、もう一つ、その類稀な経済力があった。
 メディチといえばまず金融王であって、ヴェネツィア、アヴィニョン、ロンドン、リヨン、バーゼル、ブリージュに支点を置く。こうすることで、例えばフィレンツェとロンドンとの為替相場の変化を利用して資金を動かし、労せずして差益を稼ぐこともやっていたという(2018年2月放映のNHK番組「欲望の経済学」など)。
 メディチの商売はそればかりではない。もう何枚もの富の積み重ねというべきか、毛織りと絹織りの会社を運営しモノ作りをしたり、輸出入の取引を幅広く行ったりで、国際的な商取引で高まる評価を勝ち得ていたという。

(続く)

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○16『岡山の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

2018-05-10 10:59:14 | Weblog

16『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

 このように倭(大和)朝廷との対抗関係についての推測が重ねられつつある出雲国と吉備国とであるが、両者は、おそらく6世紀までには、他の政権によってだんだんにか、急に押さえつけられるようになっていったのではないか。その政権とは、邪馬台国の卑弥呼の時代を含む前々からその地にあったか、その後の過渡期を経てこの地に台頭してきたのであろう、つまり畿内に根拠をおく、後の「大和朝廷」と呼ばれるものに他らない。
 そんな中央の政権から吉備国に対する最初の働きかけの記録としては、『日本書紀』の「欽明天皇6年7月4日条」に、吉備国5郡に白猪屯倉が置かれたことになっている。また、「敏達天皇12年是歳条においては、「日羅(にちら)等、吉備海部直羽島(きびのあまのあたいはしま)児島屯倉(こしまのみやけ)に行き到る」(小島憲之ほか校注『日本書紀』小学館、親日本古典文学全集3の第2巻、1996、441ページ)とあることから、この頃(年代表記に従えば、同大王の治世は遅くとも585年までは)、半島ではなく島であった児島が、吉備に属していたことが推察される。
 さて、「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)が起きる。これを現代風に言うならば、「クーデター」に近いのではあるまいか。当時吉野に雌伏(しふく)していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍(つまり朝廷軍)の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)を倒した大海人王子が、天下人にとって代わる。なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、これは戦に勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説を捏造(ねつぞう)したためとの考えも出ている。
 ところで、この権力闘争において、吉備氏(きびし)が、どちらに側に属し、又は加担、もしくは中立を通したのかは、実ははっきりしていない。そのことをはっきりさせる類書があるのを、未だに知らないのだが。このおり、近江(大和)朝廷側(弘文大王)が放った東国への使者は、大海人皇子側に阻まれたのではないか。「倭京」(やまとのみやこ)にも使者を遣わした。さらに西国の吉備と筑紫にも使者を遣わし、「これらの国々すべてに兵を起こさせた」(『日本書記』の「元年六月条」の訳文より。新編日本古典文学全集4の同著、小学館、1998、317ページに記載)とある。
 当時の近江朝廷側にとって、これらの豪族の中では吉備と筑紫(つくし)の軍事力が特に目ざわりであった。どうやらその上、敵対する大海人王子と親密な関係にあるという疑いをもっていたらしい。そこで両方への使者に対し、吉備国守(きびのくにのかみ)の当麻公広島(たぎまのきみひろしま)と筑紫大宰(つくしのおほみこともち)の栗隈王(くるくまのおほきみ)が「もし背反する表情が見えたら殺せ」(同)と命令し、現地へ行かせた。
 その後の顛末だが、筑紫では怪しまれて事を成し遂げることができなかったものの、刺客(しかく)たちが吉備に乗り込み面会に臨んだ相手の当麻公広島については「欺いて広島に刀を解かせた。盤手はすぐさま刀を抜いて広島を殺した」(同)とあることから、その使命を果たしたらしい。少なくとも吉備氏による大海人王子側への加勢を阻むことには成功したようである。一方、吉備氏の側は、国の主(あるじ)を暗殺された訳であるからして、余程悔しい出来事であったに違いあるまい。その後の動静なりが某か現代に伝わっていてもよさそうなものだが、果たして、記された歴史の中からき抹殺されるか無視されていったのであろうか。
 併せて『日本書紀』の「天武十一年7月条」に「戌午(ぼご)に、隼人等(はやひとら)に、飛鳥寺の西に饗(あ)へたまひ、種々の楽(うたまひ)を発す。仍(よ)りて禄賜ふこと各差有り。道俗悉く見る。是の日に、信濃国・吉備国・並に言(まを)さく、「霜降り、亦大風ふきて五穀登(みの)らず」とまをす」(同、421ページ)とあるのを見ても、この頃の頃吉備地方は吉備国として支配されていたとみて、差し支えあるまい。およそ以上のことが歴史的事実であったのなら、この頃まで、吉備国は当時はまだ大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見て良いのではないか。

(続く)

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♦️283『自然と人間の歴史・世界篇』ベルギーの独立と植民地経営へ

2018-05-10 10:18:33 | Weblog

283『自然と人間の歴史・世界篇』ベルギーの独立と植民地経営へ

 1831年は、オランダから、その南部の地域がベルギーとして独立する。独立を指揮したのは、ブリュッセルを力を増してきた自由主義者たちであった。その中心力としては、やはり経済があった。北部は商業が盛んであったが、南部は農業と工業が中心であった。独立後のオランダは、商業国家づくりが大方の政策の根本に据えられたから、南部の人々の反感が増していく。
 これに、北部と南部での宗教と言語をめぐる問題が加わる。まず宗教面では、オランダ(ネーデルランド)の南部においては、カトリックが根ざしていた。そのため、カルヴァン主義を信仰の柱とする北部とは、そりが合わなかったのは否めない。
その一方、言語面でも、北部はオランダ語を用いていた。それ対し南部は、オランダ語とフランス語が共存し、どちらかというと後者を用いるの方が一般的であった。特に、指導層はフランス語の方を常用語としていたことから、事あるごと北部ともめていく。
 さて、独立の成った国政では、代議制と君主制とがミックスされたことがある。ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公レオポルドが議会によって国王に選出され、シオポルド1世(在位は1831~1865)を名乗る。
 独立直後からのベルギー王国は、なんとかして小国として生き延びる道を考えていたのであろう。イギリスやフランスといった周辺の大国の勢力争いに巻き込まれることのないようと、中立国としての立場をとる。
 そのベルギーは、元々産業が盛んであったことがあり、大陸での産業革命に伍して力を伸ばしていく。19世紀も後半にさしかかると、ヨーロッパ有数の工業地帯を形成していく。ちなみに、歴史家・河井田研朗の説明には、こうある。
 「たとえば、人口は1860年の500万から1910年の740万に増え、農業は中央平原の穀物とフランドルの商業作物のおかげて1870年ころにはヨーロッパ最高の収益率を誇り、リエージュ・シャルルロワ・ボリナージュの石炭産出は、1880年の1700万トンから1910年の2300万トンになり、ムーズ河谷の鉄鋼生産は、1880年の10万トンから1912年の250万トンに急上昇した。
 このような生産の上昇を支えたものは、19世紀末に世界最高の密度を誇った鉄道網の完成、蒸気機関やディーゼル機関の使用、製鋼におけるベツセマー法からトーマス法への転換などであった。蓄積された資本は、国内の企業ばかりでなく、ヨーロッパ諸国の鉄道や、ブラジル・中国・南アフリカなどの海外の企業へも投資された。」(河井田研朗「ベルギー」:今来陸郎編「中欧史・新版」山川出版社1971)
 さらに、国王レオポルド2世(在位は1865~1909)の治世に入ると、列強に遅れじと中央アフリカに着目し、コンゴを中心に植民地経営へと進出していく。そのやり方は実に巧妙なものであり、1876年、「中央アフリカ文明と開発のための国際協会」を設立する。その上で王は、コンゴ盆地を探検した探検家スタンレーを用い、
ベルギー単独にて「上コンゴ研究委員会」をつくる。現地の多数の有力者たちと協定をむすんで新国家を樹立し、自ら国王となる。
 この新国家だが、イギリスとフランスによって牽制され、阻止される。とはいうものの、1885年に開催されたベルリンでの国際会議において、中立の厳守と門戸解放(もんとかいほう)を条件に、ベルギーによる私的な国家領有を認める。それからのベルギーは、おおっぴらに苛酷な原住民支配を敷くのであった。そんな非道な植民地経営法が国際世論の非難の的となると、1908年これを王の個人的所有から切り話し、ベルギー領コンゴ植民地とする。

(続く)

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