211の24『岡山の今昔』岡山人(20世紀、中山幸市)
中山幸市(なかやまこういち、1900~1968)は、実業家だ。
1921年(大正10年)には、大阪の関西大学専門部商科に入学する。1924年(大正13年)に同校を卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となる。
1930年(昭和5年)には、神戸市に関西電話建物を創業する。その後別の事業に移るも、1942年(昭和17年)には、古巣の日本電話建物に復帰する。1945年(昭和20年)の大戦末期に、再び退社したようだ。
戦後の1950年(昭和25年)には、かねてからの構想を実地に表してみようということであろうか、太平住宅を創業する。3割の頭金のみで家を建てる方式を確立する。これが当たる。事業は拡大し、日本電建、殖産住宅相互と並ぶ「割賦三社」にのしあがる。1953年(昭和28年)には、太平火災を創業して、こちらの社長にも就任する。
1956年(昭和31年)になると、母校の関西大学法人評議員に選出される。それに、大阪商業大学教授に就任する。
なにかと忙しい身の上であっただろうに、1960年(昭和35年)には、太平ビルサービスを立ち上げる。事業意欲はなお旺盛にて、1962年(昭和37年)以降、太平観光(1963年)、太平音響(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ、1965年)、太平出版社(1965年創業)、タイヘイフィルム(1965年)という慌ただしさだった。この間に、10数社もの関連会社を創業し、「太平グループ」を築いたというから、驚きだ。折しも、高度成長期での労働者所得増加や、若者世帯の需要が後押した形であったようだ。
(続く)
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中山幸市(なかやまこういち、1900~1968)は、実業家だ。
1921年(大正10年)には、大阪の関西大学専門部商科に入学する。1924年(大正13年)に同校を卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となる。
1930年(昭和5年)には、神戸市に関西電話建物を創業する。その後別の事業に移るも、1942年(昭和17年)には、古巣の日本電話建物に復帰する。1945年(昭和20年)の大戦末期に、再び退社したようだ。
戦後の1950年(昭和25年)には、かねてからの構想を実地に表してみようということであろうか、太平住宅を創業する。3割の頭金のみで家を建てる方式を確立する。これが当たる。事業は拡大し、日本電建、殖産住宅相互と並ぶ「割賦三社」にのしあがる。1953年(昭和28年)には、太平火災を創業して、こちらの社長にも就任する。
1956年(昭和31年)になると、母校の関西大学法人評議員に選出される。それに、大阪商業大学教授に就任する。
なにかと忙しい身の上であっただろうに、1960年(昭和35年)には、太平ビルサービスを立ち上げる。事業意欲はなお旺盛にて、1962年(昭和37年)以降、太平観光(1963年)、太平音響(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ、1965年)、太平出版社(1965年創業)、タイヘイフィルム(1965年)という慌ただしさだった。この間に、10数社もの関連会社を創業し、「太平グループ」を築いたというから、驚きだ。折しも、高度成長期での労働者所得増加や、若者世帯の需要が後押した形であったようだ。
(続く)
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