◻️211の24『岡山の今昔』岡山人(20世紀、中山幸市)

2021-03-31 15:04:51 | Weblog
211の24『岡山の今昔』岡山人(20世紀、中山幸市)

 中山幸市(なかやまこういち、1900~1968)は、実業家だ。
 1921年(大正10年)には、大阪の関西大学専門部商科に入学する。1924年(大正13年)に同校を卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となる。

 1930年(昭和5年)には、神戸市に関西電話建物を創業する。その後別の事業に移るも、1942年(昭和17年)には、古巣の日本電話建物に復帰する。1945年(昭和20年)の大戦末期に、再び退社したようだ。

 戦後の1950年(昭和25年)には、かねてからの構想を実地に表してみようということであろうか、太平住宅を創業する。3割の頭金のみで家を建てる方式を確立する。これが当たる。事業は拡大し、日本電建、殖産住宅相互と並ぶ「割賦三社」にのしあがる。1953年(昭和28年)には、太平火災を創業して、こちらの社長にも就任する。

 1956年(昭和31年)になると、母校の関西大学法人評議員に選出される。それに、大阪商業大学教授に就任する。

 なにかと忙しい身の上であっただろうに、1960年(昭和35年)には、太平ビルサービスを立ち上げる。事業意欲はなお旺盛にて、1962年(昭和37年)以降、太平観光(1963年)、太平音響(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ、1965年)、太平出版社(1965年創業)、タイヘイフィルム(1965年)という慌ただしさだった。この間に、10数社もの関連会社を創業し、「太平グループ」を築いたというから、驚きだ。折しも、高度成長期での労働者所得増加や、若者世帯の需要が後押した形であったようだ。


(続く)

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◻️171の10『岡山の今昔』岡山(18~19世紀、小野光右衛門)

2021-03-31 14:53:48 | Weblog
171の10『岡山の今昔』岡山(18~19世紀、小野光右衛門)

 小野光右衛門(おのみつうえもん、1785~1858)は、土木家にして暦算家だ。備中大谷村(現在の浅口市大谷)の生まれ。父の死があり、17歳(1801)の若くにして庄屋役となる。
 また、数学を好み、1809年(文化6年)には、大江村(現在の井原市)の谷東平に入門し、和算を学ぶ。谷は、大坂の麻田剛立に学んだというから、高橋至時や間重富の同門とのこと。

 庄屋の方では、灌漑(かんがい)や荒田の開墾などに尽力し名字帯刀をゆるされる。
 折しも、1813年(文化10年)に、里見川の開墾に関連した天領の阿賀崎新田村(現在の倉敷市玉島)と関係25か村との間に訴訟が起きる。小野は、問題解決のため村の代表の一員としてか、江戸へ向かう。なんとか状況を解決の方向へと動かす。

 その江戸滞在中には、訴訟の合間をぬって幕府天文方、渋川景佑(しぶかわかげすけ)を訪ね、その高弟山本文之進から天文・暦学を学ぶ。

 帰郷後は、帰郷後は、1834年(天保5年)に大庄屋に昇格、1840年(天保11年)には、大庄屋本役に進む。住まいも、領主の役宅近くの井手(現在の総社市)に移ったというから、相当の出世をしたことになろう。

 天文・暦学・和算にも、いっそう精進していく。中でも、和算にに秀でていったようであり、名声が伝わるようになる。他にも、この地域は子供たちの学舎ともなっていて、かの金光教の開祖、金光大神も、13歳から14歳にかけて、小野の所に手習いに通っていたという。

 その間、新田開発や検地にもかかわったほか、1855年(嘉永8年)には、和算の入門書「啓迪算法指南大成(けいてきさんぽうしなんたいせい)」を、同年からは「神道方位考」を刊行する。

 ちなみに、後者には、こうある。

 「かくのごとく日の御神を尊み、御国を治め玉ふ。異国にても漢以来の人、太陽の恩恵を蒙らんと欲する書は前に断ることし。是の巻を編ことのもとなり。
 故に上の巻には、日月五星の徳を挙、その推歩の略述を出し(中略)。下の巻には三元、太蔵、月建に従ふていつる神殺を載る。これなる陰陽五行は制化によって吉曜となり凶殺とはなりたるものなり。
 其得失和漢とも□おなじきは、異朝既に吾、天照大御神を太陽と崇め、月読命を太陰と尊み、土木火金水は五星と信敬し奉りて選集したる書なればなり。」(「神道方位考」1855~)

 ここに月読命(ツクヨミ)とは、アマテラス、スサノオと共にかのイザナキとイザナミという神の夫婦から生まれた三貴神の一人、すなわち子供とされる。「古事記」でいう月読命(ツクヨミ)、「日本書紀」でいうところの月夜見尊とは同一にて、そのいずれも父母と同様に想像上の神のことをいう。

 かくて、ツクヨミは、この時代、月の運行を含め一切を司る、または夜を統べる神として大方に崇められていた。その頃の暦といえば、月の運行を加味した太陰太陽暦であったのは、まだ私たちの記憶に新しい。

 その意味とは、太陽に従うものとしての、「すなわち月は月読見で日にちを繰るもとであり、月がなければ「万物明暗の機」がないとしつつ、上弦後と下弦前は光が強いため吉として用いるがよい」(「金光和道「和算家としての小野光右衛門」、「金光教学ー金光教研究所紀要」2009年第49号より引用)こととされている。


(続く)

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◻️171の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、川合忠蔵)

2021-03-31 10:30:41 | Weblog
171の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、川合忠蔵)

 川合忠蔵(かわいちゅうぞう、1728~1804)は、福山藩の財政改革及び塩田開発に関与した厚志家とある。備中国小田郡大江村(現在の井原市大江町)の庄屋の家の生まれ。

 幼い頃から、学問が好きであったという。1767年(明和4年)には、この地方に大かんばつがあった。その際には、自らの財産を投じて領民を救う。

 その経験をもとに、福山藩主に藩政改革について上申を行う。その見識を高くかわれ、福山藩につかえる。
 やがて、農学をはじめ神道および儒学に関する著述をよくしていく。そのうちには、古代神道についての研究も進んでいたとか。その学識から朝廷の「御用」も勤める。それもあって、さらに京都を安住の地にした模様だ。
 なお、その著述が世の中に与えた影響は、少なからず。参考までに、「日本農書全集29 穂に穂・他」(著者川合忠蔵 他著、佐藤常他による解題)にて、「近世の先進的農業の実際を解明し版を重ねた「穂に穂」ほか、中国地方の代表的農書4点を収録している旨。
 これらのうち、川合の「穂に穂」には、「備中地方の実情にそって農業技術の改善をめざした書。数度にわたって板行され、近世中期、後期の農業技術の普及に大きな役割を果した。(翻刻・現代語訳 佐藤常雄)」との説明書きが添えられている。

(続く)

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◻️211の9の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、葉上照澄)

2021-03-31 10:06:04 | Weblog
211の9の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、葉上照澄)


 葉上照澄(はがみしょうちょう、1903~1989)は、宗教家だ。岡山県赤磐郡石生村原 ( 現在の和気郡和気町原 ) の天台宗、岩生山元恩寺 (がんおんじ)の生まれ。既に養子が迎えられていた為、初めから寺を出る運命であったのだと。
 それでも、村の大方の貧しい家の子供とは違って、ちゃんとした学校に通えたのは、「幸い」だったのではないか。大正5年に月石生 ((いわぶ ))小学校を卒業 し、岡山県立岡山中学校に入学 する。


 幼い頃は病気がちであったのが、かなりの程度元気になったようだ。さらに、学業に励むうちに、大正9年には旧制中学4年から旧制第六高等学校に入学、四年修了で首席で六高に進学をはたす。

 六高から東大ドイツ哲学科に進学する。卒業後、大正大学のドイツ語教師となる。

 1927年(昭和2年 )には、大正大学教授に就任する。1940年(昭和15年)に、妻春子が31才で他界したことでか、翌年に岡山に帰る。


 1942年に合同新聞 ( 現在の山陽新聞社 ) に入社したのは、請われてか、論説委員などをつとめる。


 1946年(昭和21年)には、心境の変化があってか、比叡山無動寺にこもる。そして、天台宗第一の荒行としての「千日回峰行」に入り、1953年(昭和28年)に大行満 を達成 する。


 つまるところ、この行というのは、相応和尚により開創された回峰行で、比叡山の峰々をぬうように巡るのだという。都合7年をかけてとあるから、驚きだ。
 しかして、この行は、かの法華経の中の常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものだともいう。この菩薩は、出会う人々すべての仏性を説いて回るのだと。この教典たるや、日本では大乗仏教典の中でも、最も有名なものの一つだろう。
 だとすれば、そのような厳しい行にあっても、菩薩と同行二人とでもいえようか、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝しながらということであるなら、なにかしら親しみもわいてくるのではないだろうか。


 1963年(昭和38年)には、さらなる心境の変化があったように見受けられる。東南寺住職として、インドを訪問する。これをきっかけに、初代の「印度山日本寺竺主」を引き受ける。1975年(昭和50年) には、高山寺住職を兼任、また聖フランシスコ教会と兄弟教会になる。

(続く)

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◻️204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、守分十

2021-03-31 09:27:09 | Weblog
204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、守分十)

 守分十(もりわけひさし、1890~1977)は、銀行家だ。浅口郡乙島村(現在の倉敷市玉島)の元庄屋の長男として生まれる。

 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)には、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。

 翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げる。さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたる。
 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任する。香川銀行との合併に手腕を発揮する。1946年(昭和21年)には、公職追放に該当した公森太郎の後を受け頭取に昇格する。
 そのごの30年余にわたり同職に在職したというから、その通りなら、かなりの傑物ともいえるのだろう。その間には「自主健全経営」を掲げ、戦後の同行の再建に当たり、日本有数の経営内容を誇る銀行へと育てあげる。

 地域では、長年にわたり岡山県銀行協会会長、岡山経済団体連合会会長、岡山経済同友会顧問などの要職を務める。

 座右の銘としては、なにがあるのだろうか。つらつら観てみると、その一つには、「誠実一貫」とあり、晩年の頃のものであろうか、写真に微笑む感のある姿形に着流しがよく似合っているのではなかろうか。

(続く)

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◻️171の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、山鳴大年)

2021-03-31 09:10:59 | Weblog
171の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、山鳴大年)

 山鳴大年(やまなりだいねん、1786~1856)は、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町)の庄屋・山成家の生まれ。

 早くから神辺の菅茶山について漢学を学ぶ。後に、長崎へ出て、西洋医学を学ぶ。

 長崎に数年滞在後、蘭医の資格を得て故郷に帰り、医業を始める。評判は上々だったようだ。遠くからも治療のために来院する人が多くなっていく。

 その後、一橋藩の御用医となる。代官の命によりその頃流行していた天然痘防止に尽力する。養子の弘斎とともに村の人々に初めて種痘を実施する。

 そればかりか、郷土の人材を育てようと学舎をひらく。その中では、甥の阪谷朗廬に漢学を教えたり、大戸郁蔵(後の緒方研堂)に医学を教えたり。

 なお、甥の阪谷朗盧が帰郷してからは、伯父の山鳴がなにかしらの援助を与えたともいわれ、坂谷がその力を借りて桜渓塾を開いて、しばし近隣の子弟を教えたことになっている。

(続く)


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◻️188の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)

2021-03-31 08:05:55 | Weblog
188の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)


 緒方研堂(おがたけんどう(いくぞう)、1816-1871)は、後月郡簗瀬村(現・芳井町)の生まれにて、元の名前は大戸郁蔵(おおどいくぞう)という。
 幼い頃から、勉強に励む。そのうち、山鳴大年(やまなりだいねん)について漢学を学び、その後大年の勧めで江戸に出て、津山藩の儒学者昌谷精渓(さかやせいけい)の門人となって漢学を深める。また、坪井信道の塾に入り蘭学を研究する。


 信道の塾で足守藩の出身である緒方洪庵(おがたこうあん)と出会う。それからは、緒方洪庵が1838年(天保9年)に大阪で適塾を開業したことを聞くと、洪庵の所へ行き、入門する。


 それからは、蘭学や医学を研究しながら、門弟を教え、患者治療の手助けを行う。というのは、洪庵の教育方針というのは「医師として、教育者として、蘭学者として」であり、かなりの規律を伴うものであったのだろう。

 洪庵とは、そのうちに親密になり、洪庵の義弟となる。やがて、土佐高知藩で洋学を教える。
 明治2年になると、大阪医学校開設とともに少博士として教育と治療にあたる。訳書に「内外新法」「療疫新法」など。


(続く)

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◻️261の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、福武哲彦)

2021-03-28 21:32:11 | Weblog
261の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、福武哲彦)

 福武哲彦(ふくたけ てつひこ、1915~1986)は、教師にして、福武書店(後のベネッセコーポレーションの創業者だ。

 岡山師範学校卒業後の1935年、岡山県上房郡大和村立大和尋常高等小学校(後の加賀郡吉備中央町の同学)に教師として赴任する。


 その後県職員を勤める。戦後もようやく落ち着きだして1949年(昭和24年)、出版社株式会社富士出版を設立する。問題集などを取り扱う出版社だったが、1954年(昭和29年)に倒産する。

 その後、福武書店をひらく。生徒手帳の印刷と年賀状の手本集を作って広めていく。それまでに、つもりにつもった構想でこの事業に打ち込んだのであろうか。


 1955年(昭和30年)には、資本金50万円、社員6人で福武書店を株式会社化して再スタートした。


 1963年(昭和43年)には、いわゆる通信教育である通信添削「進研ゼミ」高校講座を始める。彼の会社は、小学校や中学校の学習講座も開発していく。その後は、全国模擬試験を手掛けるなど、総合教育情報出版会社として成長させていく。


 果たせるかな、1970年代からは、学術図書や絵本、雑誌など多方面の出版にも業務を拡大していく、次から次へと、頭の中に新しい事業の構想が浮かんだのかもしれない。


 かといって、いわゆる「本業ばかりの堅物」ではなく、視点の柔らかさ、広さなりを兼ね備えていた。そのかなりは、社会のため、未来のための夢に根差していたのではないだろうか、美術品などの収集にも精出したという。

 岡山県出身で、20世紀前半にアメリカで活躍した画家、国吉康雄の代表作百数点やルノワール、シャガールなどの名作を収集し、いわゆる「福武コレクション」を作っていく。それらの努力は、1986年に執務中に倒れるまで続く。

 なお、福武の「岡山県の教育・文化の進展に役立ちたい」との願いに基づき、1986年(昭和61年)に公益財団法人福武教育文化振興財団が設立されているとのこと。

(続く)

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◻️159の2『岡山の今昔』岡山人(13~14世紀、寂室元光)

2021-03-28 19:49:23 | Weblog
159の2『岡山の今昔』岡山人(13~14世紀、寂室元光)

 寂室元光(じゃくしつげんこう、1290~1367)は、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧だ。

 美作高田の藤原氏の出身。京都三聖寺の無為昭元について受戒し、僧侶の道を歩み始める。当時の寺は、知識人への入り口でもあったろう。

 のちに鎌倉に赴いて、大覚派の約翁徳倹に師事する。なにしろ秀才の誉れ高く、1326年に帰国した。

 その寂室が31歳の1320年(元応2年)には、杭州(現在の浙江省)天目山の
中峰明本(ちゅうほうみょうほん)を慕い、中国にわたる。彼の地では、その中峰に従う。彼のもとで、世俗から離れ、清貧に徹する禅風を学んだ模様だ。 寂室の名前は明本から与えられた法号であるとのこと。


 寂室が中国から帰国したのは1326年(嘉暦元年)、37歳の時だった。帰国後、寂室は京都へは帰らず、およそ25年間に わたって中国地方を遍歴した。
 ちなみに、 1377年(永和3年)に刊行された五山版 「寂室和尚語録(寂室録」によると、本人作の詩や文を収録してある。それによると、このころ寂室は西祖寺、 明禅寺、安国寺、滋光寺、菩提寺、美作の田原村などに滞在したことがある。

 そのうちに、備後(現在の岡山県の部分)吉津の永徳寺の開山となる。その後の1361年(康安1/正平16年)には、近江(滋賀県)の佐々木氏頼に招かれて永源寺の開山となる。


 その生涯、高い地位に就きたいということなく、五山十刹(禅宗寺院の制度)など官寺からの要請を固辞し続ける。黒衣の平僧を貫いたやに伝わる。諡号は円応禅師もしくは正燈国師という。前述の著「永源寂室和尚語録」が伝わり、その格調高い文章には定評がある。


(続く)

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◻️171の6『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河本又七郎) 

2021-03-28 18:54:14 | Weblog
171の6『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河本又七郎) 

 河本又七郎(1697~1775)は、四代又七郎、もしくは隠居しての巣居(そうきょ)とも呼ばれていた、豪商、灰屋河本家の四代目だ。
 そもそもは、1697年(元禄10年)に岡山の富商天野道順の子に生まれた。それが、母が灰屋河本家三代又七郎の一居との妹であったことから、三代又七郎の養子となる。そして、一居が死ぬと、同家の家業をついだ。それというのも、「一居は女性を近付けなかった」(久保三千雄「浦上玉堂」新潮社、1996)ことがあって、その前からの伏線もあったと言えなくもない。
 その又七郎の代となっては、家業を拡大するとともに、岡山城下町の惣年寄筆頭の地位にもつく。苗字帯刀をゆるされ、他の豪商とともに藩の財政援助を積極的に行なう。1776年(安永5年)でこれをみると、和屋屋の常盤右介とともに15人扶持をもらう立場となっている。
 読書を好み、業務で全国を廻るかたわら、先代からの延長もあつてか、書籍などを貪欲に蒐集し、隠居してからも後者を進めた模様だ。なお、子の五代又七郎は一阿(いちあ)と号し、陽明学を学び、茶人としても知られた人物だ。


(続く)

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◻️176の10『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本立軒)

2021-03-27 09:26:43 | Weblog
176の10『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本立軒)

 河本立軒(こうもとりっけん、?~1809)は、豪商、河本家の六代目。学問は陽明学や国学に及び、古物や蔵書の収集で知られる。立像の肖像画が残っていて、うっすら笑みを浮かべて見えるのは、なにかしら自信の表れであろうか。

 立軒が家督相続をした頃の河本家は、藩に献米や献金を多くし、30人扶持、惣年寄格、屋号書き下しなどの権利を与えられ、かつまた博多や函館にも支店を持っていたという。

 さて、当時の河本家といえば、元来の燃料屋に上乗せしての手広い商売のほかに、文物の収集家として全国的に知られていた。

 すなわち、彼の家は、その財力にものを言わせて文物を収集、経誼堂書院という図書館兼学校を作り、本人の死の2年後には、1811年(文化8年)の段階で4573部3万1672冊と言う、膨大な書物を集めていたというから、凄い話だ。

 あわせて、この場は、一大文化サロンの元締めでもあったらしい。浦上玉堂、斉藤一興、木村蒹葭堂、中山竹山などとの交遊が深く、浦上玉堂からは「玉堂琴」を送られているとのこと。

 なお、かくも巨大なる収集のうち、現在所在の分かるものでは、『餓鬼草紙』(国宝・東博本)、天文版「論語」、宋版「春秋左史伝」など。文庫を「経誼堂書院」といい、蔵印は「備前河本氏蔵書記」としている。松平定信の『集古十種』にも蔵品の提供をしているが、これは、一説には、寛政異学の禁で文庫の閉鎖などの弾圧をうけたとも伝わる。


(続く)

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◻️144の2『岡山の歴史と岡山人』湛井用水路(総社市)  

2021-03-26 22:20:59 | Weblog
144の2『岡山の今昔』湛井用水路(総社市)

 治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。

 湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にあるという。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。

 この用水路が最初につくられたのは、平安初期にさかのぼる説もあるというから、驚きだ。また寿永(じゅえい)年間(1182~1184)に豪族で平氏の家人である妹尾兼康(かねやす)が大改修を行い、取水口を現在地に移築したとする伝承がある。

 江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
 それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。


(続く)


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◻️204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉本京太)

2021-03-26 22:09:07 | Weblog
204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉本京太)

 杉本京太(すぎもときょうた、1882~1972)は、発明家だ。大阪市電信技術者養成所を卒業する。

 その大阪で、活版印刷関係の仕事につく。その後には、東京へ。
 追っての大正4年には、実用的な和文タイプライターを発明し、特許を取得する。一番の問題は、膨大な常用漢字を盤上に並べられないことにあった。その上、邦文では五十音を並べるのみならず、常用漢字だけでも2136文字もあるから。

 ところが杉本は、ありきたりの解決方法ではなく、文字盤にキーを並べるのではなく、独自の配列で文字庫に並べた2400文字の活字盤をタイプライターの下に配置したという。

 かくて、1915年に「特許第27877号タイプライター」を取得してからは、世の中にうって出る。

 その使い方としては、(筆者も買い求めて使っていたのだが)、下の段に保管されている文字の中から適当なものに照準を合わせてハンドルを動かし、打点の操作を行う。すると、その金属活字かその下からつまみだされて、最上部にセットされている紙に印字されるというあんばいだ。

 その2年後には、日本タイプライター株式会社を設立する。また、和文タイピストの養成にもつくす。他にも、1936年(昭和11年)には、国産の小型トーキー映写機をつくる。
 
(続く)

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◻️176の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本公軒)

2021-03-26 19:59:59 | Weblog
176の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本公軒)

 河本公輔(かわもときんすけ、1775~1832)は、江戸時代後期の国学者にして歌人だ。
 当時の岡山城下の船着町に本拠をおく豪商、河本立軒の生まれ。しかも長男ということで、幼い頃から将来を嘱望されたことだろう。しかし、やがての彼は明らかに違っていたようだ。
 そうなるのはいつの頃からだろうか、家業を引き継ぐのではなく、学問というか、かしこまっていうならば文雅をこころざすと心に決めたのであろう。それが何に影響されての決意であったのかは、よくわかっていないようだ。家督を弟にゆずり、自らは京都に移る。

 賀茂季鷹(かもすえたか)に歌学を、本居大平(もといおおひら)に国学をまなぶ、などという話であって、大いに驚かされる。これで「営利は脱した」というのはもっともながら、いわゆる、食いぶちはあてがわれたのではないか。そうであるなら、当面の生活には困らなかったのではないだろうか。

 その後の本人は精進したに相違あるまい。元々が才能があったらしく、そのうちに芸にも秀でるうちに、門人に公卿も多く集まるようになっていく。

 著作に「名字弁」「竹取物語管見」などがあるといい、ならば後の世にどのような影響をの与えたのだろうか、興味深いことだ。


(続く)

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◻️204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、相賀武夫)

2021-03-26 09:34:35 | Weblog
204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、相賀武夫)

 相賀武夫(おうがたけお、1897 ~1938)は、出版社の経営者だ、しかも時代を先取りするかのような鋭敏が持ち前であるような、そんな天才肌の人物であったようだ。庄屋の息子として生まれる。しかし、生家は没落し、小学校卒業後は書記見習として農学校に就職する。

 そこで2年ほど勤めるうちに、何かの啓発に触れたのか、自らの考えが育ったのだろうか、岡山市の吉田書店に就職し、しかも、吉田書店が新しく設けた東京出張所の主任に任じられて上京したという。

 やがて、その吉田書店の店主吉田岩次郎の承諾により、東京市神田区錦町に小学館を創業する。その意気込みたるや、並々ならぬものがあったのではなかろうか。

 1922年中に、出版界最初の学年別学習雑誌、小学五年生、小学六年生を創刊した。1923年09月01日の関東大震災では、大きな打撃を受けたという。それでも、雑誌を刊行し続けたという。

 1926年には、小学館から娯楽誌出版部門を分離独立させ、1926年に、「英知が集う」集英社を設立する。

 1929年夏から病床を余儀なくされたのは、年来の体の無理があったのではないか。そのうちに日蓮宗に帰依したというのは、その日蓮の人生に自己を重ねていたと、言えなくもあるまい。晩年には、なにかしらおのが人生をふりかえることもあったのではないだろうか。そのひたむきな生き方は、さながら、人類の未来を夢見ての開拓者精神の賜物として永く語り継がれることだろう。


(続く)

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