新218『岡山の今昔』岡山市(東区)

2021-12-31 19:28:47 | Weblog
218『岡山の今昔』岡山市(東区)

 この地域のおよその歴史的な歩みをいうと、鎌倉時代末期に建立された西大寺観音院の門前町として発展していく。それに、市場町、吉井川河口も含むことから、港町も兼ねて繁栄していた。これらをして文化財というべきは、湊町、門前町として栄えた歴史的な街並みだろう。また、裸祭りで有名な西大寺観音院、藤井の宿なども歴史的な文化遺産として有名だ。さらに戦国時代のこの辺りには、乙子城、沼城といった宇喜多氏ゆかりの遺跡、国指定史跡の大廻小廻山城があり、それらの跡は往生時の陣容を今に伝えている。柔らかい話処でいうなら、焼き物分野において備前焼との関係が指摘される万富東大寺瓦窯跡が残っている。
 江戸時代に入ると、海岸部の干拓が進められることで、新田もできていく。それからも街づくりが進んでの現代、1953年(昭和28年)には、西大寺町と幸島村、太伯村など 9村が合併、西大寺市となる。
 その後は、「岡山県南百万都市構想」が台頭、これを経るうちに活路を岡山市との合併に求めることになっていく。それというのも、この建設計画というのは、岡山県南で33の市町村が合併しようというもので、岡山、倉敷という規模の大きい都市を中心に合併を進め、政令指定都市を目指した。けれども、現実には、各自治体の間を含め、色々な思惑か錯綜していたものと見られる。結局、ぶら下がられる側になる岡山、倉敷にメリットが薄い計画だった事もあり、計画は頓挫してしまう。
 やがて、岡山市は、独自に政令指定都市への道を模索していく、その一環として、西大寺市にも合併の話が具体化していったようだ。そして迎えた1969年(昭和44年)2月18日に岡山市への西大寺市の編入合併が成立、16年間の市政にピリオドを打った。2009年4月1日には、岡山市が政令指定都市へ移行し行政区が置かれ、当地は東区の管轄となり、旧地域センター(支所)が東区役所本庁となる。

 交通では、山陽本線の敷設に反対して鉄道通過地にならなかった経緯があった。そのため、新規交通網への参加が一時停滞したともいうものの、1962年には、国鉄赤穂線が開通して活気を取り戻す。

 産業面では、国道250号の沿道から眺めるとしよう。この辺りは、岡山市有数の先端工業が集まっている。これへのアクセスとしては、山陽自動車道 山陽IC(インターチェンジ)を下り県道を国道250号線へ向かい南へ。東平島交差点で、北西方向へ下ってきた国道250号線と出会う。鉄道でいうならば、岡山駅へ近づいていく山陽新幹線に、その北から南下してきた山陽本線が出会い、JR上道駅からほど近くの道路沿いに着目しよう。すると、在来型軽工業や船舶プロペラのナカシマプロペラ、電気機械器具製造の工場が次々と並んで立地しているのが見てとれる。
 次いで工業団地ということでは、吉井川の下流に沿って金岡町の南側に位置する九蟠(くばん)において、1976年(昭和51年)に瀬戸内工業団地協同組合が創立されたのを嚆矢(こうし)とすべきだろうか、当時から農業機械、自動車、建築、産業機械、食品など多岐にわたる業種が集まり、日本の産業構造の変化、経済発展など大きな変遷を経験し、紆余曲折を経て現在に至っている。
 そのほか、瀬戸地区のビール工場などが集積している。さらに •北部の丘陵地帯では、白桃と同じく岡山を代表する果樹栽培にブドウがあり、黒系、青系、紫系の3系統に分類できよう。その中でも現代の「一押し」とされているのは、種が無く大粒で味と酸味のバランスがよいピオーネ(黒系)、同じく種無しで甘くて皮ごと食べられるのが人気のシャインマスカット(青系)、芳醇な香りとブドウ本来の甘味を味わえるマスカット・オブ・アレキサンドリア(青系)といったところか。それから、南部の農地に眼を向けると、岡山市でも有数の穀倉地帯を広がっている。

○かねてから同区の工場街で操業している船舶用プロペラ大手のナカシマプロペラ(岡山市東区上道北方)が、ドイツの大手船舶用機器メーカーを買収したことが4月12日に分かったという。買収額は不詳ながら、同社にとって過去最大クラスの投資という。 相手方は、大型船のかじやプロペラの前に取り付ける省エネ装置で世界トップ級のシェアを持つ「ベッカーマリンシステムズ」。
 狙いとしては、技術面での向上であるとされ、具体的には、「主力のプロペラを含め、船舶の推進力や燃費を左右する船尾周辺設備の一貫製造で相乗効果を発揮し、業容拡大を目指す」(2021.4.12付け山陽新聞電子版)と紹介される。
 同社関係者による話としては、ベッカー社の株式の51%を3月31日、子会社のナカシマヨーロッパ(オランダ)が取得したもの。役員を選任する経営委員会を新たに設け、定員5人のうち3人を中島崇喜社長らナカシマプロペラ幹部が占める形だという。

○文化面では、2021年12月13日の西大寺観音院(東区西大寺中)を舞台とする裸祭り「西大寺会陽」奉賛会は、2022年2月19日の会陽について、2年連続で宝木(しんぎ)争奪戦を見送り、無観客で開催すると発表した。国重要無形民俗文化財の催しながらも、新型コロナウイルス感染予防のためやむを得ないと判断したもの。
 福男は選ばず、祝い主に直接宝木を授けるという話で、宝木は例年通り午後10時に投下。本堂大床には祝い主の関係者だけが上がり、宝木を受け取る形だ。なお、宝木を作る道具を手入れする「会陽事始め」といった関連行事は行うという。
 この「会陽」だが、1510年辺りか、年長者らに(宝木に当たる)牛玉紙(ごおうし)を授けたのが始まりと伝わる。ちなみに、コロナ禍で迎えた2021年は争奪戦を初めて中止し、歴代福男の中から札引きの儀式によって福男を決めたようだ。



○東区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・高齢化率が30%を超える地域が存在する。・病院・診療所数は本市の約10%、病床数は7.9%と、4区の中で最も少ない。・合計特殊出生率は1.377(2013)と4区の中で最も低い。・健康市民おかやま21東区地域推進会議が健康づくり活動を進めている。歯と口腔(こうくう)の健康づくりを重点的に取り組んできたが、さらに運動を通じた健康づくりに取り組むなど活動の幅を広げている。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(東区)」)

○「岡山県の「街の幸福度&住み続けたい街ランキング」結果は?」(見出し報道)
 大東建託は岡山県に住む成人を対象に、居住満足度調査を実施した。その結果、岡山市東区は、「住み続けたい街ランキング」の1位の総社市、2位の「浅口市」に次いで3位だったという(2021年11月27日配信の「ヤフーニュース」電子版)。 交通の利便性や区民への行政サービスのよしあしが相対評価で最上位クラスのプラスに触れているのは、包容力とでもいおうか、伝統の賜物によるものであろうか、それとも斬新な内容が含まれているためなのだろうか。



(続く)
 
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新217『岡山の今昔』岡山市(中区)

2021-12-31 10:47:23 | Weblog
217『岡山の今昔』岡山市(中区)

 中区といえば、2009年4月1日に設置された。特徴的なのは、岡山市の内で一番小さい区ながら、それとの比較相対で多くの人口を擁している訳だ。

 具体的には、市全域の数値が719,474人なのに対し、その数は146,232人。一方、市全体に対する中区の面積割合は20.32%であって、市全域の数値789.95平方キロメートルなのに対し、こちらは51.24平方キロメートルであるに過ぎない。

 その区域については、おおむね旭川以東から百間川以西とでも表現したらよいだろうか。すなわち、北には龍ノ口山、中央には操山(みさおやま、後楽園の少し東側)の丘陵地、西には旭川、東にはその洪水時の放水路としての百間川と、それからかなり下って瀬戸内海へ出会うまでの南部には、児島湾を干拓した農地などが、かなりの広範囲で広がる。

 歴史的には、この辺りには、古代より人々が居住していたようだ。百間川遺跡や操山古墳群からは、当時からかなりの先進地域であったようである。


 もう少しいうと、百間川は、江戸時代、旭川の洪水時の分流しての負担軽減を意識して開削された人工の放水路だ。現在の北区三野から中区中島にかけての付近で旭川と分流し、操山(みさおやま)の北を東流する。中区米田付近で、東にそびえる芥子山を避けるように大きく南に流れを変え、干拓地の方へと下っていく。
 そのとっかかりからの道程の途中には、旧石器時代、縄文時代から弥生時代までの遺跡、さらには操山古墳群などが見つかっており、中でも弥生時代を通じてのこの辺り、現在でいう百間川の河川敷には、原尾島遺跡、沢田遺跡、百間川兼基・今谷遺跡、米田遺跡からなる、複数の水田跡が見つかっていることから、当時にはすでにかなりの密度で人々が生活していてことが窺えよう。


 やがて奈良時代まで下ると、賞田地区に備前国の国府が置かれていたのではないかと。江戸時代まで下ると、門田地区・東山地区は城下町の一角となり変わる。

 江戸時代、京都・大坂から西国街道(山陽道)でやって来た人々は、藤井(東区)へと入っていた。その時点では岡山城が見えていたのだろう、藤井の宿を越えた辺りから本街道は西南へ下っていく。やがて、森下町(中区)にいたり、そこは城下町の東の入り口となっていた。それからも南下して小橋町のところで京橋を西へ渡り始めると、城下町の中心への道になっていくのだが、現在の東区内の町割りということでは、その方向には向かわず、ひたすらに南下していく流れとなっている。

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 交通は、岡山バイパス(国道2号線)、それに南北に走る県道45号線が動脈となり、その沿線には工場が林立している。

 明治時代には、山陽鉄道や西大寺鉄道が整備される。大正時代になると、路面電車が東山地区まで延長される。

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 人文・歴史面では、区内は、旧制第六高等学校、岡山県岡山高等女学校と創立となって、文教地区としての発展していく。
 変わったところでは、この内には、国清寺という臨済宗の禅寺がある。1609(慶長14年)に、岡山藩の事実上の領主だった池田利隆が池田家の菩提寺(ぼだいじ)として建立した法源寺が始まりだとされる。以来、時の権力との結びつきを重ねてきたよう。それでも、庶民にはこの辺りでは、あの「ゴォーン」と鳴り響く「除夜の鐘」でもって近隣の人々にゆく年くる年を知らせてくれているという。
 そこでこの寺に設置されている鐘の話なのだが、1665(寛文5年)に京都の著名な鋳物師だった藤原国次(ふじわらくにつぐ)が製作し、その銘が鐘の裏に記されている。鐘は長さ120センチメートル、口径68センチメートルで程よい、朝鮮系の要素を取り入れているというから、なんでも名品に違いあるまい。
 それが、太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)8月には、災難にあいかけたという。なぜなら、政府は金属類回収令を公布、寺院に鐘の供出を求めた。軍需品製造のための鉄不足を補うためであった。これに対して、当時の住職がかたくなに拒み、かわりにというか、境内にあった青銅製の観音像は持って行かれたのだと伝わる。


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 商店街ということでは、かねてから、この地域は商業でにぎわってきた。それに住宅地は、中区の北側を東西に横断するJR山陽本線の西川原駅を中心に広がる。中でも、古くから城下町として開けていた門田・東山地区や国道250号が通る高島・東岡山地区には、1960年代の高度成長期から住宅建設が進んできた。


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 町の話題あれこれということでは、新聞、テレビなどのメディアにおいて取材があるので、幾つか紹介しよう。

○旭川によって形成された龍ノ口山から操山にかけての扇状地は、岡山市街地北東部に連なる山々を背景に形成されたもので、祇園用水、倉安川などからの大小の農業用水路が張り巡らされているという。
 その水辺には、アユモドキ(天然記念物)やホタルなど貴重な動植物が生息しており、特にアユモドキは、岡山県内の河川と、琵琶湖・淀川水系にだけ棲んでいる珍しい淡水魚で、国の天然記念物に指定されている。
 ところが、同類のドジョウに似て、増水時に水没するような草の生い茂った浅瀬に棲み、5~9月に産卵するとのことながら、河川や田んぼの改修などによって、棲むところや産卵する場所が少なくなりつつあるという。

○中区といえば、4区のうちでは最も人口が緻密であるという。地図を広げてみよう。南側斜面は市街化が進み、住宅地であるが、北側は里山のたたずまいを残した集落が点在し、果樹園や畑、竹林が広がっている。
 そんな操山公園里山センターは、平成9(1997)年11月25日に開館し、以後多くの人々に親しまれている。位置は、操山〔みさおやま〕地区は、岡山市中心部の東に位置し、標高130から170mの山々が東西方向に連なる丘陵地である。
 こちらを楽しむのは、トレッキングだという。いわゆる一つの低山登山という感じでした。操山山頂まで行くことかできよう。それでも、この山はほぼほぼ階段状の坂道、しかも分かれ道が多く、目的地を明確に描いていないと全く別の場所に行ってしまう。気軽に森林浴を楽しむにはよいのてはないか。
 それと、展望もよいという。操山からは岡山平野や市街、また、児島湾、吉備高原の山々も見える。なお、山麓一帯には、古墳や曹源寺、安住院、瓶井の塔などの寺社が点在し、歴史と文化を知る上でもみどころも多いようだ。

 今につながる中区の「保健福祉・子育て」については、岡山市が2016年に作成した、次の報告があり、これに沿った現状認識を重ねることが期待されよう。 
 「・高齢化率は市平均より低いが、「ひとり暮らし高齢者」「高齢者のみの世帯」の割合は4区の中で最も高い。・高齢化率が高い地域の中には、コミュニティのつながりを深め、高齢者を地域で支えるため、活発に取り組んでいる地域がある。・子どもの割合は南区と並び最も高く、合計特殊出生率は○○(2013)と4区の中で最も高い。・各中学校や小学校区単位で健康市民おかやま21の推進体制があり、特に学校と連携して食育などの普及啓発活動を推進している。」(岡山市「区の概況、現状と課題」2016年6月の中の「区別計画策定に向けた検討シート(中区)」)


(続く)


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新591『自然と人間の歴史・世界篇』チェコ動乱(1968)

2021-12-30 19:34:21 | Weblog
591『自然と人間の歴史・世界篇』チェコ動乱(1968)

 1960年代の東欧社会主義国の中で、大いなる「自由化」の運動が起きる。これを首都の名をとって、「プラハの春」と呼びます。筆者は、この運動をこう紹介している。
 「1966年、オタ・シク教授の唱える「新経済政策」がチェコスロバキア共産党の党大会で採択された。これを機に政治・経済・社会全般にわたる「自由化」の機運が党内と社会に強まっていった。
 1968年1月、「スターリン主義者」といわれたノボトニーが第一書記を解任され、代わってドプチェクが第一書記に就任する。これが「プラハの春」事件の出発点であった。
 1968年4月、共産党が「行動要領」を発表した。この中で、「チェコスロバキアの社会主義の道」をめざすことを宣言するとともに、集会と結社の自由、そして検閲の廃止など、それまでの「社会主義」に新風を吹き込むような改革の方向性を鮮明にした。
 1968年8月20日、労働者・市民主導の「自由化」の行き過ぎを懸念したソ連軍(ワルシャワ条約機構の軍として)が、このチェコスロバキアの動きを止めるために突如として軍事介入した。
 なぜソ連が軍事介入したのかについては、詳しいことはわかっていない。確かに、集団安全保障の観点からの、「やむを得ざる介入であった」という見方もあったろう。しかし、政治的理由ばかりを強調するのは誤りで、政治と経済が一帯となった改革がすすんでいくことが必然的であると、その流れを読み取ったソ連指導部の「これは行き過ぎだ、ソ連・東欧の社会主義勢力を守るために阻止しなければならない」との決意が醸成されていった、と考える向きが多い。
 そんな当時の「ソ連の経済事情」を伝えるものとして、こんな見方もある。
 「1962年9月、ソ連共産党機関誌「プラウダ」紙上にリーベルマン論文発表。この論文は、中央集権的計画化を緩和し、企業の自主的決定の権限を拡大し、「計画標準収益率指標」、すなわち利潤率を企業活動の評価基準とすることを勧告した。
 1964年10月に登場したブレジネフ・コスイギン政権はこの面ではフルシチョフ路線をうけついで、1965年9月のソ連共産党中央委員会総会で、いわゆる「コスイギン改革」の開始を決定した。これにならって東欧各国では1964年から1968年にかけていっせいに経済改革に着手する。
 この過程で、チェコの経済改革が上部構造のドラスティックな改革を要求する動きに発展したために、ソ連は(おそらくコスイギン首相その他の反対を押し切って)チェコに軍事介入し、経済改革をソ連なみの限度に押しとどめた。

 このソ連の軍事介入、その背後にある政治決意は、1968年以降の東欧諸国の経済改革に大きなブレーキとなった。経済改革が従来の計画理念を根本的に批判し、上部構造の民主化をともなう経済・社会改革として発展していくことは困難になったのである。」(平田重明「チェコスロバキア「再生」運動の前史的構造ー社会主義への独自の道をめぐる源流と逆流ー」:東京大学社会科学研究所編著「現代社会主義ーその多元的諸相ー」東京大学出版会、1977)
 さりとて、このように政治と経済とを結びつけようとする試みについては、これまでのところ、誰もが「ははん、そうなのか」と納得するような「確証」が残されている訳ではない。

 次には、かかる動乱を現代人はどう評価しているだろうか、そのことにつき軍事介入をした側のロシア国民がどのように思っているかを、簡単に見ておこう、次の新聞報道を紹介しよう。
 「50年前の1968年8月に当時のチェコスロバキアにソ連軍などか侵攻し、「プラハの春」と呼ばれた民主改革を圧殺した事件について、ロシアの独立系世論調査機関「レバダ・センター」は21日、ロシアの回答者の3分の1が「侵攻は正しかった」とした調査結果を発表した。当時のチェコスロバキアの民主改革を「反ソ分子による政変」「西側による策動」と否定的にとらえる回答は計44%にも及んだ。(中略)
 今回の調査で「プラハの春」へのロシア国内の否定的な見方は10年前の同じ調査より18ポイント伸びた。「ソ連支配の体制に対する反乱」や「民主改革の試み」と肯定的に見る回答は28%で、「侵攻は正しくなかった」としたのは19%、最初の質問で「プラハの春」について「何も知らない」と答えた人は10年前より9ポイント減って46%だった。」(朝日新聞、2018年8月23日付け)
 ロシア国内では、2014年にプーチン政権がクリミア半島を軍隊を派遣して併合を行ったのを契機に現政権の対外政策への支持が急上昇しているという。また、その後ウクライナなど旧ソ連国において反ロシアの動きが盛んになっている。そして今回、それらが合わさってロシア国民のかつての国際的栄光(社会主義国の盟主的存在)を振り返り、自分たちの現状に対する不満や怒りなどが色濃く現れているのではないだろうか。
その一方において、この調査とは別な生活面での調査もなされているようなのだが、こちらの調査では、ソ連時代の方が暮らしやすかったという声もかなり出てきているという結果もあるとされ、現代ロシア人の自由と民主主義に関する意識のあり方がかなりな複雑さ、のっぴきならないいびつな構造となっていることが読み取れよう。
 
(続く)

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新◻️174『岡山の今昔』井原市

2021-12-30 11:03:45 | Weblog
174『岡山の今昔』井原市

 井原(いばらし)は、2005年3月1日、井原市、それまでの後月郡芳井町及び小田郡美星町の1市2町が合併してできた。県の西南部にあり、西は広島県に接す。江戸時代までは、備後と連れだって、話に上っていた。そこの中心地の福山市とは、古くから人びとの生活、経済が通じており、共に繁栄したと伝わる。
 その面積としては、243.54平方キロメートルある。北部は、標高200~400メートルの丘陵地帯で吉備高原へと続く。南部には、小田川が、地域の南部を西から東へ貫流し、その流域の平野部に市の中心部がある。
 気候としては、年間平均気温は約13~15℃、年間降水量は1,200ミリメートル前後だという。
 この辺りの交通の便利は、「ほどほど」というところだろうか。倉敷市真備町からは国道486を西へ、広島県福山市神辺(かんなべ)町からは国道313号を東へと向かううちに、町並みが見えてくる。また、旧山陽道に沿うように走るのが井原鉄道であって、総社を出発して高梁川を渡り川辺宿(かわなべ)に近づく辺りからは、高梁川の支流の小田川にも沿っての旅路となり、概ね田舎の田園地帯を進むうち、やがて列車は井原市内の早雲の里荏原から井原の市街地へと入っていく。

 これらの自然を含めての環境下、産業としては、かねてからの繊維をはじめ、自動車部品や電子部品、それに食器製造、鉱業なとが盛んだという。これらのうち、「デニムの聖地」とまていわれる背景には、高級ジーンズ生地を使っての井原オリジナルのジーンズやデニムシャツが生産されており、その一部は欧米にも輸出されるほどの品質と聞く。
 
 次に、このうちの西部、美星地区は、国内でも大規模の天文台で広く知られる。好天なら、遠く瀬戸大橋まで望むことができるという。公開されており、口径101センチメートルの天体望遠鏡で、360度パノラマの星空を眺めることができるというから、一度覗いてみたい。
 合併前の美星町の時代に、1989年に光害防止条例を全国に先駆けて制定した。その前文には、「多くの人々がそれぞれに感動をもって遥かなる星空に親しむよう宇宙探索の機会と交流の場を提供することが美星町及び美星町民へ与えられた使命」とある。

 2021年11月12日には、岡山市内で「星空保護区」の証書授与式が開かれた。天体観測の好適地として知られる井原市の美星町地区で、国際認証制度「星空保護区」の認定を契機に新たなまちづくりが動き出したというのだ。しかも、単なる人集めではなく、「星空保護区」は夜空の環境保全に益するように、との目的意識がちゃんと宿っているというから、驚きだ。その社会的背景としては一体何があるのだろうか。
 新聞報道によると、今ではかなり有名なっている、国連が唱導しているSDGs(持続可能な開発目標)に照らして、行政と民間が協力、相互乗り入れ、もしくは一体となっての自然生態系を守るための行動計画の策定を進める話なのだという。

 また、旧芳井町は、井原鉄道でいうと井原を過ぎ、いずえ、子守唄の里高屋の辺りをいう。その西の先は、もう県境だ。大まかには、農村地帯なのであろうか。明治ごぼうは、この地の粘土質の赤土の中で生産される。聞けば、「普通のゴボウよりも太く育ち、食べると風味があって柔らかい」とのこと。地元では、これをラーメンなどに入れて、おいしく食べる食文化があるらしい。

(続く)

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新117『岡山の今昔』金融の発展(明治時代)

2021-12-29 15:14:13 | Weblog
117『岡山の今昔』金融の発展(明治時代)

 1872年(明治5年)には、国立銀行条令が公布される。これにより、一般への預金と貸付から、為替、割引などの一般事務にとどまることなく、国立銀行券としての紙幣が発行できるようになる。
 そして、これを受けての国立銀行が全国的に設立されていく中、岡山においても設立の機運が高まっていく。
 1877年(明治10年)には、岡山市に第22国立銀行が、高梁に第86国立銀行が開設となる。この年には、国立銀行条令の改正によって、金の準備なしで資本金の8割までの銀行券の発行ができるようになった。そのことで、設立が容易になったことがあろう。
 とはいえ、1879年(明治12年)の京都第53国立銀行の設立をもって、国立銀行の総資本金額、銀行紙幣発行額にほぼ達する。それを受け、全国的に国立銀行の設立が以後禁止されたことから、岡山でのかかる国立銀行の立ち上げは、全国的には「後発組」ということであろうか。
 もう一つの特徴としては、第22国立銀行の資本金は5万円にして1000株構成、7人の発起人のうち5人が元士族の上層部分であった。しかも、旧藩主池田家の面々が62%という独占状況での発足であった。
 一方、津山においては、国立銀行の設立を志すも、準備が整わずに失敗してしまう。仕方なく、これに代わるべき民間銀行の設立へ動く。そしての1879年(明治12年)には、銀行設立に向けての株式募集を行う。元は国立銀行に向けて動いていたことから、順調に資金が集まり、1880年(明治13年)には、岡山県ではじめての民間銀行設立、営業を開始する。追っての1888年(明治21年)の株式の分布は、50%以上が19人の株主により所有されていた。その中の8人が商人、11人が元士族という構成であって、さらに大株主ということでは、旧津山藩主の松平康民と資産家の森本藤吉の二人が名前を連ねていた。
 さらに、倉敷においては、それがなかなか進まなかった。そのため、1888年(明治21年)に設立の倉敷紡績などは、大阪などの遠隔地との取引においては、岡山に出たりして行うしかない。そしての1891年(明治24年)には、倉敷銀行が設立にこぎつける。頭取に大原孝四郎がなり、幹部の多くは倉敷紡績サイドが占めた。1906年(明治39年)には、孝四郎に代わり孫三郎が頭取に就任する。
 
 1890年(明治23年)になると、銀行条令が出される。こちらは、民間銀行の設立、運営に行政からの監督を働かせようとするものであった。
 
(続く)

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新◻️45『岡山の今昔』南北朝統一(1392)後)、戦国時代にかけての土地所有関係 (新見荘、守護・山名氏)

2021-12-29 08:22:47 | Weblog
45『岡山の今昔』南北朝統一(1392)後)、戦国時代にかけての土地所有関係
(新見荘、守護・山名氏)

 まずは、政治状況から振り返ると、例えば、この時期の備中国は、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏などへと、守護が慌ただしく交代していく。こちらでは、1375年(永和元年)には、渋川満頼がこの地域の守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)からは、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、その後には川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下となる。
 かたや後者の細川氏の側の細川頼之は、1392年(明徳3年)には、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、かかる3つの郡は、備中守護の統治下に置かれるも、同年中には、哲多郡については頼之の子頼元の支配となる。1393年(明徳4年)になると、大きな変化、すなわち渋川満頼は、室町から備中守護を罷免されてしまう。その後釜の守護職には、細川頼元の弟の満之がなり、さらに頼元の子孫が世襲していくのだが、こちらも、次第にだんだんに現地での支配力が低下していく。
 かくて、備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が知られているのだが、これらが力を伸していく。やがて、守護やその被官は国内の寺社の造営や重要な行事を取り仕切るようになる。
 さらに、かれらにより、荘園・公領が押領され、被官や国人衆(こうじんしゅう)の実質的所領化していく。かくて、それらの具体像をもう少しわけいって見るには、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などの振る舞いかどうであるかが、「繋ぎ目」として重要になっていく。 
 そこで、室町時代が進む中での土地の所有関係の変化を、先に取り上げた新見荘を例にその後を振り返ってみよう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。
 そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになる。 

 しかし、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状の最初には、こう記されている。
 「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候はば御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくては一向御○○○やう歎入候事」
 その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
 そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見ならびに納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、歴史家網野喜彦の紹介にはこうある。
  「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
 それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)

 なお、当時の同荘園の経済がどのように動いていたのかというと、その一端は、割府(わりふ)というものを発行することで運営していたという。

 「発行者たちは、備中で割符と引換に現銭を受け取り、その現銭で漆(うるし)を購入して京都へ運び、京都で商品を販売したその代価で割符を決済していた。言ってみれぱ、京都での「商品販売代価を受け取る権利」と備中の現銭とを交換することにより、割符を発行していたのである。「はじめに」(略)に準じて説明すると、発行者の「京都から備中への商品代価の送金」と、新見荘三職から東寺への「備中から京都への年貢の送金」という遠隔地間の送金関係を、「新見荘三職から振出人へ」と「支払人から東寺へ」という、割符を媒介とした同地内の支払いに振り替えるという為替取引によって、現金輸送を回避しているのである。」(辰田芳雄「室町・戦国期荘園制を支えた割符ー新見荘や北陸など中間地域荘園の事例」、「岡山朝日研究紀要」第39号(2018年3月)より引用)

 やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。
 二つ目の例として、南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。
  「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
 ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。
 これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らないこと(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。
その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいった。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~1592年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

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新176『岡山の今昔』矢掛町(小田郡)

2021-12-26 21:58:25 | Weblog
176『岡山の今昔』矢掛町(小田郡)

 矢掛町(やかけちょう)は、岡山県の南西部に位置する。小田川とその支流である美山川流域に開けた盆地をなしている。
 年間の平均気温は14.3℃であり、年間を通じて雨は多くなく、冬の雪もほとんど降らず、温暖な気候というものの、2018年7月の豪雨により、新たな認識が必要なのではないか。
 「「僕らは隠れ被災者みたいなものだ」。西日本豪雨に見舞われた矢掛町では、そんな声が聞かれる。50人以上が犠牲になった倉敷市真備町地区に隣接。直接死はゼロだが住宅375戸が被害を受け、住民は「一帯が海」のようになった地域を必死に逃げた。
 5月末。床板が抜けたままの家や、なぎ倒された木々が目につく。矢掛町を流れる小田川では豪雨で堤防が決壊した。」(毎日新聞、2019年6月22日付け)
 県立矢掛高校の生徒のうち、県内で最も多い約20%、5人に1人が被災し、避難生活を余儀なくされたらしい。

 交通の便利は、かなり良い。町の東西を国道486号と鉄道井原線が走る。また、山陽自動車道の笠岡・鴨方・玉島インターチェンジへは約15~20分で接続できるとのこと。
 建物や通りといつた文化面でいうと、かつての本陣が、江戸時代、往時のかなりの程度の町並みが保存されている。圧巻なのは、「矢掛の町並みでしょう」と誰もが笑顔を向けてくれるのだとか。

 その中でも圧巻なのは、山陽道に入って18番目の矢掛の宿場には、里旧矢掛本陣石井家住宅と同脇本陣髙草家住宅といった、国の重要文化財指定(1969)の建築物がある。両方とも、江戸時代中に建てられた、その往時を現代に伝えている。石井家住宅からいうと、裏門・西蔵・酒蔵などを除き、本陣施設としての御成門・玄関・御座敷をはじめ主屋の主要建物は江戸時代後期(天保年間〜安政年間)にかけて再建されたもの。屋敷地の間口は20間(約36メートル)、奥行50間(約90メートル)、面積にすると1000坪(約3200平方メートル)だとされ、そこに十数棟の建物が建っている。
 次いでの脇本陣髙草家だが、本陣から本陣通りを東へおよそ300メートルのところに構える。こちらは、大名に次ぐ家老などが宿泊していたという。明治初年に移築された表門のほかは、建物、敷地とも19世紀初めに整えられた頃の状況をよく保っているとの評価を博している。こちらの保存状態は極めて良くて、約600坪(約200平方メートル)の敷地には、主屋をはじめ蔵座敷、内倉などの建物を配置している。
 さても、両建築物ともに参勤交代で使われる街道に面し、入母屋(いりもや)の母屋(おもや)の広目の間口をくぐって中を進むうちには、奥行きが遥かに色々あって、ネットにて何万かの写真に巡り会うのから察するところ、さまざまな手の行き届いた建物群が現れてくるのだが。それにしてもこの商売、大した羽振りであったように納得した。

 次に紹介するのは、2021年3月、矢掛町中心部の国道486号沿いに、県内17番目の道の駅(第2セクター)として賑々(にぎにき)しくオープンした、「山陽道やかげ宿」だ。およそのアプローチだが、井原(きばら)鉄道の矢掛駅から徒歩約10分。JR新倉敷駅から車で約20分。それと、自動車で山陽自動車道鴨方インターチェンジから約15分の、矢掛町の商店街も近い、ほぼ町の中心部といったところか。
 写真を拝見すると、がっしりした鉄骨2階段建(まるで帽子のような3階と)が通に面して幅広で鎮座している感じだ。黒を基調としているのは、同国道沿いに残る江戸時代からの本陣、脇本陣の醸し出す雰囲気に似せたものだろうか、間口が広目にとられている。
 駅開設にねらいとしては、矢掛の町探検にあたっての玄関口にして、そのため案内フロントを設けてある。訪問者を温かく迎え、その客に古くからの町家や洋風建築が並ぶ矢掛商店街(東西約1キロメートル)とその周辺を巡って買い物、食事などを楽しんでもらおうとしたもの。そのためか、道の駅としては珍しく、レストランや買い物できる施設がない。加えるに、同商店街は同年2月に電線の地中付設化を終え、古民家を改装した観光案内施設「矢掛ビジターセンター問屋」もオープンしたという。

 この辺りにおいて、江戸情緒残る旧宿場町の雰囲気をもり立てることができれば、同商店街が2020年末に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのと合わせ、集客力のアップが期待できるというもの、とにかく頑張ってほしいものだ。

  それら以外にも、町木の「赤松」の梁を活かした、郷土美術館が有名だ。高さ16メートルの水見やぐらがシンボルだ。展示室に入ると、矢掛町の名誉町民である書家の田中塊堂(書家)と、洋画家の佐藤一章の作品が中心となって迎えてくれるとのこと。

(続く)

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紹介(2021.12.25):『岡山の歴史と岡山人』序言

2021-12-25 09:48:20 | Weblog
紹介『岡山の歴史と岡山人』序言

💛額に汗して働き、ふるさと・地域を愛し、かつ切磋琢磨の人であった、父・丸尾登と母・丸尾定子、父方の祖父・丸尾安吉と祖母・丸尾とみよ、母方の祖父・為季文蔵と祖母・為季せきに、この文を捧げる💛

 私は、岡山県の山間部の農家に生まれた。子供のころの一番の疑問は、家(うち)はどうしてこんなに朝から夜まで働かなければならないのだろうか、というものだった。そうなるとねがうのは、家族が安心して暮らせるように世の中もかわってくれたらいい、というものだった。

 小学校、中学校までは、自分からはほとんど態度を決めるようなことはできなかった。そんな中でも、社会科の勉強と歌を歌うのが大好きで、これで何かできたらいいな、というのが秘めたる思いではなかったか。中学生の時の独り道になると、よく歌謡曲の「人形の家」やアメリカ民謡の「スワニー・リヴァー」、同ジャズの「デキシーランド」などを繰り返し口ずさんでいたのを思い出す。

 転機は、工業高専の4年生の時学生運動があり、それに参加するうちに何かしら世の中のことを、それまでよりもやや広く眺めるようになった。学業の方は、工科系はなんとかついていっていた程度で、大方振るわなかった。
20歳からは、県外に生活の糧を求めた。次男坊であったから、あれは中学生の時であったろうか、祖父の安吉(やすきち)から、「おまえはここを出てやって行け」との言葉に、「そんなものかなあ」と身の引き締まる思いに駆られた。以来、たぶん失敗の方が多くて、それでもめげずに、これまでなんとか暮らしてきた。
 顧みると、故郷の野や山そして川(吉井川の支流の加茂川)に向かって、我が胸を張れるようなものなどあるのだろうか。それというのも、私にとってこれまでの人生行路たるや、判断を迫られるような時にも、何かしら臆するところもあり、不本意なままで過ごすことが多かった。
 それと、日々の暮らしをなんとかやっていくには、自分や家族の力のみならず、社会との関わりからも相当の影響を受けてきたのではないだろうか、いまようやく時を得て、万感迫るものがある。
 私に、きみのふるさとの岡山はどんなところかと問いかけてくれたら、とても良いところですよ、というほかはない。では、どのように良いのかと問い直されるなら、この地は、そもそもは吉備の国、やがて美作・備前・備中の三つに分かれ、さらに岡山県となったのです。それらの土地名は、今も岡山人の心の拠り所となっているのです、とでも答えたい。
 そんなふるさとの悠久の歩みを回想しながら、今までお世話になった皆さんのお顔を想い起こしつつ、これまで私を支えて戴いたこの郷土のすべてに感謝を捧げる一環として試みたのが、この地を通る道を案内役に見立てたこの物語である。
 岡山県内には、まだ自身が歩くか、車に乗って通ったことのない道が万を数えるほどにあれども、これから機会に恵まれれば、愛用のリュックサックを背負って、それらをあわせてのできるだけ多くの道を巡り歩きながら、あれこれの名所旧跡などにも挨拶してゆきたいものだ。

追記
 なお、執筆にあたっては、全600項目からの各々が程よい長さで、ご要望のあった、電車なりでいうと二駅過ぎる位の間になるべく読めるよう心掛けました。しかし、あれもこれもと欲張っているうちにその枠をはみ出すことが多く、ご期待に沿えていないのかも知れません。
 主なご要望の二つ目は、「内容、記述とも難しい」とのご指摘です。こちらでは、逐次注を施すなど、正確さを失わない、可能と思われる範囲内でわかりやすさを引き出すための工夫をしてきたところです。
 そういう次第にて、ある程度のご愛顧をいただくまでの間には、いまだ程遠いのかも知れないものの、ここにひとまず取りまとめを行ってから、追々考えていく所存でおります。

✳️現在取りまとめ作業中のブログの案内(https://taiji7988mt.blog.jp)

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新261『岡山の今昔』真庭市

2021-12-24 20:44:46 | Weblog
261『岡山の今昔』真庭市

 真庭市は、中国山地のほぼ中央にある。この市ができたのは、2005年3月31日に、当時の真庭郡勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村及び上房郡北房町の9町村が合併したことによる(この時には、新庄村を除く真庭郡の町村と合併し及び北房町を加えて真庭市となる)。
 もう少し前までをたどると、1889年(明治22年)には、湯本村近隣の田羽根村、下湯原村、釘貫小川村、都喜足村、久見村三世七原村、社村が合併して神湯村(かんとうそん)となる。1904年(明治37年)には、温泉街旭川西対岸の八幡村と合併し湯原村(ゆばらそん)となる。1940年(昭和15年)には、町政を施行し湯原町となる。1956年(昭和31年)には、二川村と合併する。

 この一帯は、北は鳥取県に接し、東西に約30キロメートル、南北に約50キロメートルもある。総面積は約828平方キロメートルで、岡山県全体の面積の約11.6%を占める、県下で最も大きな自治体である。地勢ということでは、まずは蒜山(ひるぜん)三座があり、岡山県の真庭市北部と鳥取県の倉吉市南部に跨っての火山にほかならない。
 「気候は年間を通じて比較的穏やかで、台風や地震などによる災害も総じて少ない」ともいわれるのだが、そこはなかなかどうして、北部の冬はかなり厳しい寒さになるのではなかろうか。
 新しい市の中心としては、やはり落合町、久世町、勝山町の連なる形での既成市街地なのであって、これらでの交通の流れに沿った街づくりが大切にされているようだ。珍しいところでは、全国的に名高い建築がある。遷喬尋常小学校(真庭市鍋屋)は、1874年8月に開校した学校にして、現在は真庭市立遷喬小学校となっている。その校舎は1907年に竣工し、1990年には116年の歴史を終えて新校舎へ移転したのだか、旧校舎については現在も旧住所鍋屋に建っており、国の重要文化財(指定日は1999年5月13日)となっている。その対象の正式名称としては、「木造、建築面積601.2m2、二階建、スレート及び桟瓦葺き、背面出入口二所附属」というもの。
 この校舎は、1905年(明治38年)7月に着工した。そして、1907年(同40年)7月に竣工している。ルネッサンス様式(注)の木造校舎として建てられた、中央棟の東西に両翼棟が取り付いている、それでいて完全なシンメトリー(左右対称)の平面をもつデザインの新規性と白亜の外観が印象的だ。また、講堂の二重折り上げの洋風格(ごう)天井も、堂々たるものだとの評判だ。

(注)例えば、ローマに建つイタリア式庭園のヴィッラ・メディチのファザード(建築物を正面から見た外観)にそれを目にすることができるのではないか、佐藤幸三「ROMA、ローマの休日ひとり歩き」平凡社、1999にも紹介されている。

 設計については、当時の岡山県工師・江川三郎が関わったと伝えられる。工事監督の方は中村錠太郎、施工は津山町の高橋岩吉によるとのこと。
 この校舎だが、格別の美しさのほかにも、我が国において学校建築の設計基準が確立した後にあたる明治後期の代表的学校建築のひとつで,中国地方における小学校建築の先駆けとしての価値が高いという。1990年に小学校としての役目を終え、現在は一般に公開されているとのことで、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」「火垂るの墓」などの映画のロケがこの施設を使って行われた。

 産業としては、何があるのだろうか。かねてからの農業、林業の蓄積に、ものを言わせるような新たな展開を目指しているのであろうか、全国的にも知られるようになっている、廃材を使ってのバイオマス発電には多くの期待がかかる。しかして、この発電施設の開始は2015年4月にして、地元の集成材大手銘建工業と市、森林組合など計10社・団体が出資した「真庭バイオマス発電」が事業を担う。その場所は、真庭産業団地の中にある。未利用材を主な燃料とする木質バイオマス発電所としては国内最大級。稼働から1年間で売電した売り上げは約21億円。はじめは、新電力に販売してきたが、2016年度からは一部を見直し、真庭市役所本庁舎と市の第3セクター会社が運営する文化流施設に供給しているらしい。
 また、大手とのコラボレーションということでは、市内の蒜山(ひるぜん)高原(吉備中央町)に新たな観光名所を作ろうという話が進行中だ。報道(2019年12月10日付け日本経済新聞など)によると、東京五輪に絡んで、三菱地所がCLT(直交集成板)の魅力を発信する施設「CLT PARK HARUMI」が東京都内に14日開設するという。そこでだが、この施設が2020年の五輪後に不要となるのを見越す形にて、木材の供給元の真庭市が譲り受け、市内に移設するとの話で、2021年春の開設を目指す。
 それと、湯原温泉が世の中に知られるようになったのは、いつ頃のことなのだろうか。一説には、平安時代中期頃には、「播磨の名刹、書写山円教寺の名僧、性空上人(書写上人とも呼ばれる)が重病で倒れ、その時夢枕に天童が現れて、この湯を暗示したという。性空はその地に赴き、平癒」と伝承されるほどに、薬湯として日本国内に広く知られるようになったという。927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳においては、その社地域において8社の官社が存在していたといいい、朝廷から「式内社」として呼ばれていたという。というのも、この地域は、古墳時代より「たたら製鉄」の盛んで金山(ぼた山のような不要物の山)が多くある。当時のたたら場は1000名以上の集団で作業を行っていた。鉄を作るには良質の砂鉄と大量の燃料が必要で、過酷な労働条件で身体を壊し、また怪我をする者が後を絶たないありさまで、その彼らの治療、養生にはもってこいの場であったろう。
 その頃、「作陽誌」(1691)においては、次のように紹介されている。
 「湯原温泉、湯本村ニアリ、何人ガ鑿闢(さくへき)ヲハジメシヤヲ知ラズ、カツテ備作太守宇喜多中納言秀家ノ母ハ痼疾(こしつ)アリ、医薬験ナシ、湯原は黄門(秀家)ノ臣牧籐左衛門家信ノ奉邑(給地)ナリ、家信宴ニ侍シ、日語シテ温泉ニオヨビ、極メテソノ奇功ノ尽述(語り尽くせない)スベカラザルヲ言ウ、母公ハ旧作州高田三浦貞広(貞広でなく貞勝)ノ室ナリ、色倫ヲ絶シ、高田亡ブルニオヨンデ直家強イテコレヲ納レ、寵嬖コトニ厚シ、イクバクモナクシテ男秀家ヲ生ム。コレニヨリ、モトヨリソノ温泉ノ効ヲ耳ニセリ、ココニ於いて行装ヲ企ツ、秀家ハ吏ニ命ジテ湯屋及ビ寄十余宇ヲ造リ、ヨク営ソワナル、母公湯治スルコト三七日ニシテ、久患トミニ除(さ)ル、コレヨリ遐迩(遠近)ニ伝承シ、来ル者踵(きびす)ヲツラネタリ。」 (「美作地侍戦国史考」文中の「作陽誌」大庭郡古跡部の項)

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新77『岡山の今昔』長尾の農民一揆(1752)

2021-12-24 13:17:54 | Weblog
77『岡山の今昔』長尾の農民一揆(1752)

 さて、現在では、高梁川の西岸、新倉敷駅や山陽道自動車道玉島IC(インターチェンジ)なども配置される、倉敷市玉島エリアの中枢となりつつあるのが、長尾(ながお)地区(倉敷市玉島長尾)だ。ここは、今では倉敷市の西部、新幹線の新倉敷駅の北東側に位置していて、交通の便利も相当よい。
 それに、この地の近くは、中世は深い入江で内海が広がっていたのではないだろうか。その頃は、港町としての阿賀崎、乙島地区が南に控えていたとのことであり、また、町の北側は丘陵地帯をなしている。昔からの、旧山陽道の通る小田川流域とを分けていた形だ。  
 それに、いつの頃からか、玉島往来(たましまおうらい)が南北に貫き、商人たちもが行き来していたようである。古くは平安期の「新拾遺集」にも地名が登場しているという。江戸時代に入ると、事情がさらに変化を遂げる。初期に備中松山藩領、一部幕府領を経たが、幕末まで多くの期間、丹波亀山藩(たんばかめやまはん)領の飛地であった。
 かくて江戸期に入っての岡山藩と備中松山藩による新田開発があって、玉島港辺りと陸続きになる。陸地化して以後は、玉島港への中継点としての役割が増したのかもしれない。これに加えるに、地場産業も古くから興っていたようで、文政年間(1820年頃)から足袋や線香の生産が盛んになり、線香製造は現在も続けられている。小麦の栽培が盛んでうどんの生産が行われ、麦藁帽子の原料である「麦稈真田編」の一大産地でもあった。
 そこで、江戸時代の中期における支配・被支配の話に戻してみよう。前述のようにこの地は、丹波亀山藩(現在の京都府)5万石のうち、1万2000石分の飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などで構成されていた。
 当藩の領国支配は、奉行所(同藩の陣屋)を中心に行われ、奉行など、上方の役人は、丹波亀山より派遣され、その他の役人は、現地玉島の者、中でも庄屋に多くの業務を請け負わせていた。ここ長尾村については、二人の地主がほぼ全域の農地を所有していたから、村民のほとんどは小作農であったらしい。
 しかして、この地を舞台に、1752年(宝歴2年)に勃発したのが、ここに紹介する「長尾の農民一揆」である。この事件の発端は、その年の前からうち続く飢饉(ききん)により、長尾村の農民たちは、集団をなして、大地主の二家に対し小作料の減免を願い出ていた。ところが、両家は頑張として応ぜず、強硬姿勢を貫く。
 これに怒った農民たちは、その地主の家を壊すなど、「狼藉を働いた」ということで、後日、彼らの主だった者たちは亀山藩の現地出先の奉行所に引き立てられ、そこで厳しい取り調べが行われていく。
 ここで腑に落ちないのは、同藩の対処であって、かかる農民たちの行為に対し、なんらの解決策を講じようともせずに、ひたすらに農民たちを罪に問うのであった。どうやら、役所の中には、識者はいなかったようだ。そのうちに、どういう次第なのであろうか、事態が新展開を見せる。なんと、青年、信四郎と利兵衛か主謀者として名乗りを上げたというのだ。なぜそうなったのかについては、ほとんどわかっていないようなのだが、腑に落ちないとはこのことであろう。
 それはともかく、同藩としては、大いに調べがはかどる話であったろう。自白があれば、物証などは要らずに処断できるのが、当時の力関係であったのだろう。そして二人の青年は、皆に成り代わり「罪」を背負い、雄々しく死んでいったと伝わる。なんとも息が詰まりそうで、悲しい話ではないか。

(続く)

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新171『岡山の今昔』浅口市

2021-12-24 09:58:45 | Weblog
171『岡山の今昔』浅口市

 浅口(あさくち)市は、県の南西部に位置する。その南側は、瀬戸内海に面している。東には倉敷市、西には笠岡市。ちなみに、「浅口」という名前の由来だが、「続日本書記」に、「備中国浅口郡犬養のかり手、昔、飛鳥寺の塩焼戸(しおやきべ)に配せられて、誤って賤例に入る。是に至りてて遂に訴えて之を免ず」(森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、1988で紹介)とある。当時としては、賤民にされると大層生づらかったのだろう。

 それから、長い年月を経ての2006年3月21日には、金光町、鴨方町、寄島町の3つが合併して誕生した。その時、里庄町は浅口郡に只一つ残り、船穂町は倉敷市に移った。

 交通をいうと、東西をJR山陽本線が横断していて「鴨方駅」「金光駅」の二つの駅が設けられている。主要な道路としては、国道2号線が山陽本線に沿うように通っていて東西の交通の要となっている。県道64号線を筆頭に多くの県道がそこから枝分かれして市内全域へとつながる展開だ。バス路線も充実していて、市内循環してもよし、倉敷市方面・笠岡市方面・市内循環をカバーしていると教わる。それから、山陽自動車道が市の中心部から少し北部を横切り「鴨方IC」が設けられている。

 こちらの気候としては、瀬戸内海に隣接していることから、一年を通じて温かく、しのぎ易い。とはいえ、2018年7月の豪雨に遭ったことで、様子が変わったのは、他の南部の自治体と同じ。
 交通の便利は、JR、国道、山陽自動車道が市を横断しており、倉敷市など周辺都市のベッドタウンの顔を持つ。

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 産業としては、植木の栽培、手延べ麺の生産、漁業など多種多様だ。いうならば、合併前の各地域ごとに特色があった。北の方から順に少しいうと、金光地域は、「金光教本部」があることから宗教の町といったイメージもあるものの、そればかりではなくて、植木の町としても有名だ。それに類して、季節の花や木が展示販売され賑わっているとのこと。  その南西方向にある鴨方エリアというのは、なんといっても「鴨方そうめん」をあげねばなるまい。「阿部山水系」に源を発する「杉谷川」の水を利用した手延べそうめん作りは、江戸時代末期から伝統を誇る。そういえば、関東地区の店にも時折売られているのを拝見する。他にも桃やイチゴの栽培も盛んに行われているとのことであり、全体として爽やかな土地柄といってよい。
 寄島エリアについては、その名前のとおり、いまでは島は陸つづきだ。この辺りの瀬戸内海は、古くから漁場として栄えてきたところであって、寄島漁港では約80隻の底引き網漁船が停泊していて瀬戸内海で漁業に精を出しているとされる。四季折々の魚の種類も豊富、代表的なものにガザミやシャコなど。また牡蠣の養殖も盛んに行われているとのことで、頼もしい。

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 それから、市内の見所として、珍しいところでは、天文台が有名だ。この町の北部には、国内最大級の望遠鏡が二つあるという。一つは、1960年(昭和35年)に設置された183センチメートルの反射望遠鏡で、国立天文台が運営する。もう一つは、2018年に完成した3.8メートルの反射望遠鏡「せいめい」で、こちらは京都大学岡山天文台だ。後者の特徴は、24時間、各国連携での観測を可能とするものだという。

 それにまつわる最近のニュースから一つ紹介させていただこう。りゅう座EK星(注)をご存知だろうか。ついでなから、りゅう座がどの辺りに見えるのかは、例えば、次のような説明が付されている。いわく、「ほとんど一年中休むこともなしに北極星のまわりをめぐっているかなり大きな星座であるが、これといって目立つ星もないので、見ごろといえば7月の夕方北の空高くのぼったころになる。まずはじめに、こと座の織姫星ベガの北に目をうつすと、からす座を小ぢんまりとしたような四角形をさがしだすことができる。これが火を吹く龍の頭である。(以下、略)」(村山定男・藤井旭「星座への招待」河出書房新社、1972)
 前置きはその位にして、その星のことを研究対象にしてもっと知りたいと、国立天文台などの研究グループは、京都大岡山天文台(それは浅口市鴨方町本庄に設置されてある)にある光学赤外線反射望遠鏡「せいめい」を使って、若い頃の太陽に似た恒星を観測していた。望遠鏡の能力をあらわすその口径は、東アジア最大級の口径3.8メートルだというから、驚きだ。そして迎えたある日のこと、超巨大爆発スーパーフレアに伴う「巨大フィラメント」(約1万度のプラズマ)を観測することに成功。この結果をまとめて発表(2021.12.9)したという。
 巨大フィラメントなるものが惑星に到達すれば、大気の成分に影響を及ぼす可能性があるのは、それなりにうなづけよう。同グループによると、観測には、光を波長で分割して捉える手法を用いた。そして、今回の観測結果は、若い頃の太陽の活動が地球にどう影響し、生命の生存環境がどう作られたのかを知る糸口になり得る、それに、太陽で今後、スーパーフレアが起きた場合、地球で起きる現象を予測する手掛かりにもなるという。
 そもそもは、地球から110光年離れ、温度や大きさが太陽に近い「りゅう座EK星」をせいめいなどで観測していた。すると、2020年4月6日未明、星が明るくなった様子を捉え、過去に太陽のフィラメントを観測した際のデータとよく似ていることから、りゅう座EK星でも発生していると判断したのだというから、その間よほど集中力をもって観測をしていたのだろう。

(続く)

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新◻️259『岡山の今昔』美作市(旧大原町を含む)

2021-12-23 18:48:46 | Weblog
259『岡山の今昔』美作市(旧大原町を含む)

 美作市は、県内で一番の北東部にある、南北に長い領域だ。吉井川の支流吉野川、梶並川流域から、中国山地南斜面に広がる。こうなったのは、2005年勝田町、大原町(因幡街道大原宿のある)、東粟倉村、美作町、作東町、それに英田町の5町1村が合併して、市制を敷いたことがある。これにより、人口は 2万7977人(2015)に膨らんだ。行政でいうと、北で鳥取県、東で兵庫県に接する。行政区の別でもう少しいうならば、隣はざっと西から時計回りに久米郡三咲町、勝田郡勝央町、同奈義町、東に回って播磨、赤穂など色々、さらに南にかけては備前市、赤磐市という具合だ。
 自然環境は、ぐんとよい。この辺り、北へ向かうと、兵庫県境に届く、県内最高峰の後山などが聳える。このあたりの北部は氷ノ山後山那岐山国定公園、南部は吉井川中流県立自然公園として、なかなかの景勝地だという。
 交通網としては、古代においては、その中の勝田地域といえば、日本の古代から名前が知れている。中世になると、北半分に梶並荘(かじなみしょう)、南半分には小吉野荘があり、当時の荘園支配の一環に組み入れられていたと伝わる。
 この辺り古代といえば美作国英多郡大原郷(おおはらのごう)があり、中世になっては大原保(おおはらのほ)という荘園がおかれていたという。また江戸時代に下ると、この地域の中心集落である古町は、因幡(いなば)往来を行き交う参勤交代などの宿場町として、かなりの賑わいを見せていたという。またこの一帯は、古代美作国英多郡大原郷(おおはらのごう)、中世は大原保(おおはらのほ)であった。

 近年には、縦貫道以外にも色々便利になってきているようだ。さしあたり、鉄道がJR姫新線と智頭急行(大阪駅~大原駅)。道路では、国道 179号線、29号線が通じ、大阪からは中国縦貫自動車道が便利だ。課題としては、やはり、北部と南部の繋ぎが一番なのであろうか。そこで期待されているのが「美作岡山道路」であって、こう紹介されているところだ。 「県北部を通る中国自動車道と南部の山陽自動車道を結ぶ道路(総延長約36キロ)として計画され、1993年に事業が始まった。すでに11.5キロが通行でき、吉井(赤磐市)〜佐伯(和気町)と熊山(赤磐市)〜瀬戸(岡山市)は、来年度にも供用が始まる予定。美咲町の飯岡地区がある英田(美作市)〜吉井の約11キロのみが未着工のままとなっている。」(朝日新聞、2017年12月23日付け)

 市の中心としての林野(はやしの)には、姫新線の林野駅が定着して久しい。吉野川と梶並川の合流点付近に位置し、河港として発展してきた。江見は、吉野川流域の物資集散地として発展してきた。そして、古町は、近世に因幡街道、土居は出雲街道の宿場町であった。また、吉野川沿いには、湯原温泉、奥津温泉と並んで美作三湯の一つに数えられる、湯郷(ゆのごう)温泉がある。

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 産業としては、やはり昔からの農業から始めるべきだろうか。農村部では米やアワ (粟) 、美濃早生大根、シイタケ、葉タバコ、ブドウやメロン、イチゴなど多彩だ。山間部では、豊富な自然を活かしての木材に、花木、葉タバコ、クリが特産であるという。畜産も盛んで、丘陵地では、古くからウシの飼育が盛んだという。梶並川上流には久賀ダムがあり,農業用水源となっている。

 それでは、新たな産業としては何があるのだろうか。さしあたり、工業団地とメガソーラーがあるとされ、後者については、こんな報道がある。
 「岡山県美作市は大規模太陽光発電所(メガソーラー)の発電用パネルの面積に応じて独自に法定外目的税を賦課できるよう検討を始める方針を示した。萩原誠司市長が28日の定例市議会で表明した。設備の自然災害時の復旧や環境負荷抑制に向けた経費への充当を見込むほか、減価償却が終了した後の固定資産税の収入減を見据えて財源を確保する狙いもある。
 法定外目的税は自治体が条例で金額や使途を定めることができ、現在は国の関係機関と協議に入っている。今後は有識者会議や事業者からのヒアリングなどを経て課税対象や賦課方法など詳細設計について議論し、1年程度かけて条例整備を進めていくとしている。市によると、条例が制定されれば全国初の試みになるという。
 美作市内では現在、合計で最大出力5万キロワット分のメガソーラーが稼働しており、市には2017年度に1億7000万円の固定資産税が入った。19年秋以降には米系のパシフィコ・エナジー(東京・港)が、国内最大規模となる最大出力25万7000キロワットの「作東メガソーラー発電所」を稼働させる予定だ。」(2018年11月29日付け日本経済新聞デジタル)

 この関連での最近のニュースでいうと、工業団地や太陽光発電に、まつわるものがよく話題とされている。2021年12月21日、美作市議会が太陽光発電パネルの設置面積に応じて発電事業者に課税する「事業用発電パネル税」条例案を賛成多数で可決したという。地方税法に基づく法定外目的税ということで、発電施設周辺の環境保全や防災費用に充てるとしている。総務相の同意を得て2023年度の施行を目指しており、実現すれば全国初ケースとなろう。
 この条例案だが、ある規模以上の施設を対象に策定された。出力10キロワット以上の野立て型発電施設を対象としている。ただし、住宅などの屋根に設置するタイプには課税しない。また、野立て型でも50キロワット未満で、土砂災害などの危険区域外なら免除される。
 同市内には国内最大規模のメガソーラーもあり太陽光発電パネルの総面積は2021年1月現在、約238万平方メートルと県内最大。
このうち課税対象施設から、発電パネル1平方メートルあたり50円を課税するとして、年間約1億1000万円の税収を見込んでいるという。税収の使い道については、発電施設は山の斜面などに設置されていることが多く、昨今は土砂崩れなども頻発しており、環境保全や災害対策などに充てるというのだが。
  
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 大原については、別に少しばかり説明しておこう。こちらの現在は、市の北東部にある、21世紀に入っての合併で今は美作市の一部だが、その前は、英田郡(あいだぐん)にあった旧町名、大原町といった。
 吉井川の支流の吉野川を上流まで遡ろう。そこにある盆地のあたり。周りを、なだらかな山々が囲む。区割りでいうと、同市の北東部を占める地域で、兵庫県と接す。旧大原町は、1922年(大正11年)に町制が施行された。古町、下町、江ノ原、辻堂それに上庄から成っていた。この一帯は、かつて美作国英多郡大原郷(おおはらのごう)、中世に入っては大原保(おおはらのほ)とあり、これが旧町名となった。そこで、古町の南端、後山川との合流点付近から南にあるのが、江戸期の吉野郡下町であり、そこには1493年(明応2年)に新免貞重の築いた竹山城があった。慶長5年までの106年間、ここを本拠に新免氏の支配が続いた。当時の上庄町の一部を分けて竹山城の下町とし、家臣のほか、商人や工人などを住まわせたという。その新免氏も、1600年の関ヶ原合戦に宇喜多秀家に属して出陣し、敗北して没落する、そんな中でも、家老の本位田家の一族などは下町に土着してその後を生きていく。
 1954年(昭和29年)には、讃甘(さのも)、大野、大吉の3村との合併をはたす。それからも、山あいでの人々の厳しい暮らしがあったのだろう。そして迎えた2005年(平成17年)には、勝田郡の勝田町、英田郡の美作町、作東町(さくとうちょう)、英田町の3町および東粟倉(ひがしあわくら)村と合併して市制を施行、広域での美作市となった。旧大原町の中心集落の古町は、江戸時代まで因幡往来が通っていて、鳥取から姫路の間の宿場町として繁栄していた。現在も、本陣や脇本陣のある古い町並みが残っているという。
 交通でいうと、智頭(ちず)急行が便利だ。国道373号がここを経由して兵庫県と鳥取県を結んでいて、429号が交差している。こちらの産業としては、かねてからの自然との関わりを挙げるべきだろう。豊かな山林を資源としての木材に、花木、葉タバコ、クリが特産であるが、養鶏も盛んだという。

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 やや珍しい話としては、これも「歴史上の変化」に違わないという当該地域の出来事を伝えたい、今のグローバルな世界で考えるにそれは突飛なことではないのが、以下に紹介する「ベトナムとの交流」ではないだろうか。美作市関連のサイトでは、まずもって「少子高齢化等の影響により人口の減少が著しい中、外国人の人口は年々増加傾向にあり、その中でもベトナム人の人口が増加している状況」(2021.12.23にアクセス)だというから、驚きだ。
 かの国などから、技術研修を含め働きにこられている人の数がかなり多いのは、受け入れ側の態勢が整っていることも寄与しているのではないかと、感じ入る。
 しかも、「この状況に鑑み、美作市では、在市ベトナム人が安心して暮らせるまちづくりの構築や文化・教育・観光等において交流を図ることにより、更なるベトナム人の定住化や観光客の増加を目的に、ベトナム交流事業を推進しています」とあり、並々ならぬ友好の意思がこちらに伝わってくる。
 それでは、ベトナムとはどんな国なのだろうか、「あのホーチミンの国なのか」「ベトナムについて楽しく学んでみませんか
とあるが、自分はどんなアプローチがあるだろうか」等々。その受け皿としては、「美作日越友好協会では美作市のベトナム人職員を講師としてベトナム語講座を実施します。ベトナム語での自己紹介やあいさつ、日常の会話等、様々なことについて楽しく」(募集は随時ではなくて、締め切りの表示も散見されるようだが)ともされており、訪問者への配慮があって嬉しい。
 
(続く)

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新◻️163『岡山の今昔』新見から高梁へ

2021-12-23 09:12:35 | Weblog
163『岡山の史と岡山人』新見から高梁へ

 それから、新見からの南方向への線路が伯備線(はくびせん)であって、こちらは高梁川沿いを辿って、やや東に偏(かたよ)りを見せつつ南下する。こちらの鉄路は、ほぼ現在の国道180号線沿いを辿る。新見を出た列車は、まずは石蟹(いしが)の駅に滑り込む。
 ついでにこの駅で下車してみよう。国道180号線を約2キロメートル北に行き、正田の交差点を左折してから高梁川を渡る。今度は、本郷川に沿って上流に約1キロメートルで金谷へ。さらに、本郷かわと河本ダムのある西川との合流点付近の川原に行くと、その辺りには約2億年前の石灰岩とそれに隣接しての花こう岩の地層が見られるとともに、方解石やガーネットといった種々の鉱石が拝見できるとのこと(柴山元彦「ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑」創元社、2017)。
  さて、鉄路に戻ろう。石蟹からは、井倉(いくら)へと南下していく。井倉駅から出て直ぐの左に見えるのが井倉洞(岡山県高梁川上流県立自然公園にも指定されている天然記念物にして、新見市井倉にある)である。そこから「下流へ約8キロメートルの間をいい、高梁川がカルスト台地たる阿哲台の石灰石を深くV字状に刻み、蛇行して流れ峡谷をつくっている」(立石憲利「高梁川上流の渓谷」:「日本の湖沼と渓谷」2中国・四国、ぎょうせい、1987に所収)と紹介されている。
 日本三大鍾乳洞の一つとされ、石灰岩が堆積した地層が隆起したものであるとも、阿哲台地の石灰岩地帯に長年雨水等が浸食してできたとも説明される。高梁川の流れに寄り添ってあることから、井倉駅から方谷駅にかけては、井倉峡だと言われる。そんな井倉洞だが、全長が1200メートルもあるという上に、高低の落差も相当に上るらしい。鍾乳洞の入口のあるところは、高さ240メートルの石灰岩の絶壁が聳える麓にあると言われる。さても、伯備線の列車に乗っている自分の目を見開いていると、高梁川沿いにそそり立つ絶壁の壁面には、たしかに割れ目のような入口が見て取れる。
 物の本や多くのガイドによると、入り口を入って暫く行ったところには「月ロケット」と呼ばれる竪坑が上に伸びており、さらに上ると「水晶殿」「鬼の手袋」まで行って水平方向に転回し、さらに奥へ奥へと続いていく。それらの行程の道すがら、に入って行くにつれ、鍾乳石が天井からぶら下がっての「つらら石」や、下からタケノコのように生えてきたかの「石筍」(せきじゅん)などの形となって、しつらえられた照明に浮かび上がってくるのだという。聞けば、その姿は「まるで美しい石のカーテン」だの「まさに幻想の世界」だとか、さまざまに称賛される。私もいつか時間を得て、ひんやりした空気を感じながらも、ここを訪ね歩いてみたいものだ。
 有名な鍾乳洞といえば、もちろん、この井倉洞ばかりではあるまい。こういう場合、日本人は「3大」云々と喧伝しがちなのだが、競争じみて来ると、反面見えなくなってくるものが多くあるのではないか。ここではやはりどれも素晴らしい内容と景観ということなのであり、それぞれの特徴を中心に愛(め)でればよいのではないか。山口県にある秋芳洞(あきよしどう)の延長は約10キロメートルと言われており、同じ中国地方にあって、地層などでどう関係しているのか興味深い。岩手県にある龍泉洞(りゅうせんどう)については、この洞内に住むコウモリと共に国の天然記念物に指定されているのが珍しい。こちらの総延長は知られている所で3.6キロメートルだとか。高知県にある龍河洞(りゅうがどう)の泉洞だが、こちらの見所は、奥の方から湧き出る清水が数カ所にわかって深い地底湖を形成していることにあるという。人間などまだ一人としていない頃に、かつて海中にあった生物の残骸、化石として堆積されていたものが地層とともに隆起して来た。生物のそれこそ気の遠くなるような年月に亘ってつくられていったことに、敬意を表したいものだ。
 さて、井倉洞を過ぎてからは、そのまま白絹を掛けたような趣のある絹掛(きぬがけ)の滝、鬼女洞などが織りなす井倉峡の渓谷美を間近に堪能しながら方谷(ほうこく)、次いで備中川面、木野山へと下っていく。この「方谷」という駅名は、藩政改革に功のあった山田方谷を記念して名付けられた。木野山までやってくると、訪れる者の目の前にはもう現在の高梁市の北に聳える臥牛山(がぎゅうざん)の勇姿が目前に迫りつつある。
 この中流域からの高梁川は、古来からしばしば歌に詩に詠まれてきた。明治以降の例でいうと、岡山の女流詩人の永瀬清子の作品「美しい三人の姉妹」に、こうある。
 「高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は/気性のいさぎよい末の娘。/奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに/白いしぶきが虹となる。/山々はカナリヤの柔毛のように/若葉が燃えだし/焔(ほのお)のように紅葉がいろどる/そそり立つ岩壁の足もとに/碧(あお)い珠玉(たま)をところどころに抱いて/歴史をちりばめ、地誌を飾り/いつもお前の魅力は尽きない。」(『少年少女風土記、ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959年2月、泰光堂)。

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新◻️173『岡山の今昔』高梁から総社、小田郡(矢掛町)へ

2021-12-22 20:45:59 | Weblog
173『岡山の今昔』高梁から総社、小田郡(矢掛町)へ

 伯備線の米子~岡山間が全面開業になったのは、1928年(昭和3年)のことであった。そしての備中高梁以南の伯備線(はくびせん)であるが、この線は、現在は岡山で山陽本線や赤穂線に乗り入れており、米子では山陰本線に乗り入れている。伯備線で完結する列車としては、備中高梁駅発倉敷駅行きの1本がある。また新見から備中神代間は芸備線が乗り入れて、共用区間となっている。さらに、岡山県南部の清音(きよね)駅から総社(そうじゃ)駅までの間は、井原鉄道井原線との共用区間となっている。
 この伯備線と寄り添うようにして概ね北から南へ流れる高梁川は、このあたり迄来ると、せせらぎに耳を傾けながらというよりも、さらに大きな流れとなり、岩を穿ちながらさらに下っていく。駅で言うと、備中高梁を出て直ぐに高倉山(標高382.8メートル)の掘られたトンネルをくぐり抜けると、備中広瀬の駅に到達する。それからは、くねくねした川の進路にまるで翻弄されるかのように、半ば夢見心地で、美袋、日羽、そして大きく湾曲して豪渓(ごうけい)駅に滑り込む。この近くには、日本全国はおろか、アジアにおいてもかなり知られるあの名所「豪渓」がある。

 「高梁川の下流にたた井堰という古くからの井堰(いぜき)があり、その上手に流れこんでいる小さな川が槇谷川だ。槇谷川を5キロほどさかのぼっていくと、谷がせばまり名勝・豪渓となる。「「吉備郡誌」には、「槇谷川の両岸の山脚川に迫る処、恰(あたか)も無数の柱を蔟立(ぞうりつ)せるが如くざん巌突兀(がんとつこつ)として雲中へ聳(そび)へ。実に奇詭峭抜(ききしょうばつ)の勝景たり。苑(えん)として画聖雪舟(せっしゅう)の山水画を観るが如し」と激賞されているが、漢語調で説明した方がぴったりふる景色である。
豪渓は、槇谷川に沿った延長約1キロの峡谷で、規模は大きいものではない。ちょうど大型のブロックを積み重ねたように、花崗岩の方状節理がよく現れている。高いものは100メートルにもおよび、天柱山(てんちゅうやま)、剣(つるぎ)峰、雲梯(うんてい)峰、盒子(ごうず)岩などと名付けられている。見る角度によって、奇観は千変万化する。「岩山は天の柱の文字あるも、のきもぬれゆくむら雨ふれば」と、与謝野晶子(よさのあきこ)が歌っているが、天柱山の巨岩には「天柱」の二文字が刻まれて天にそびえている。槇谷川の瀬音と松風の音のなかに音もなくそびえる岩の柱は、いつまでもみあきることがない」(立石憲利「高梁川上流の渓谷」:「日本の湖沼と渓谷」2中国・四国、ぎょうせい、1987に所収)


 広瀬からは、もうすでに現在の総社市に入っている。豪渓の駅を出てその程近く、渓谷にさしかかる。これは総社市の槇谷から、加賀郡吉備中央町(2004年10月に上房郡賀陽町から変更)に跨る渓谷にして、槇谷川の上流にある。規模としては、奥津渓と同じくらいか。その特徴は、ほぼ直立にそびえ立つ約330メートルの天柱山、剣峰、雲梯峰(うんていほう)、盒子岩(ごうずいわ)などの個有名を得ている。いずれも、花崗岩を主体とする奇岩、いかつい絶壁の類であって、清流と相俟って四季折々の壮大な自然美を繰り広げる。景勝の地としては、もってこいの場所と言って良いだろう。このあたりには、アテツマンサク・ベニドウダンなど貴重な植物の自生地としても知られる。1923年(大正12年)にし、名勝地として国の指定を受けた。
 1876年(明治9年)頃に作成された「日本地誌略図会」に、「豪渓之図」の一筆がある。豪渓の天柱山の切り立った岩の辺りを描いたものであろうと推測されているところだ。絶壁の岩山があり、段々になって流れる槇谷川との間の石畳のような道を旅人が上流に向かって歩んでいる姿が印象的だ。画面に説明書きがあって、それには備中国の位置など略地誌が記されている。作者は、明治に入ってからの三代目の歌川広重(うたがわひろしげ)であり、初代歌川広重の門人だとされる。与謝野晶子は、その光景を「岩山は天の柱の文字あるも、のきもぬれゆくむら雨ふれば」と詠んで、今も自然の繰りなす美に驚嘆した歌として、今も語り継がれる。
 なおも流れに沿って、南へと下っていく。その中間点にある総社は、総社宮の門前町から発展したところだが、山陽道の北側直ぐ近くには、足守川が北西から東南方方向へ流れている。足守川の堤の北隣には、あの有名な造山(つくりやま)古墳が鎮座して、はるか古代の流域の姿はいかばかりであったのすかと、その時代に生きた人々の往時を偲ばせている。
 山陽道に沿っては、現在の総社から少し南へ下ったところに、総社から伯備線との線路の共用部分を経て西に折れてゆく地方線路が走っている。これを井原鉄道線と呼んで、第三セクターの経営となっている。その順路としては、清音(きよね)駅を出発しばらく過ぎたところで高梁川の中州を西へと渡る。ここは、井原鉄道で最も長い高梁川橋梁で、全長716.3メートルもあるらしい。赤茶色に錆びた鉄橋に見えるものの、そうではなく、橋の材料は無塗装耐候性鋼材という、保護性の錆(安定錆)を形成するように設計された特殊合金鋼で、防錆塗装をしていなくとも大丈夫なように出来ているらしい。また、橋梁上で大きくカーブを描く珍しい鉄橋で、さらに民営鉄道や第3セクターでは珍しい、「ロングレール」という継ぎ目のないレールが使用されているとのことで、驚きだ。
 高梁川を渡り終えると、今度はその支流の小田川と国道486号線に沿いつつ川辺宿から吉備真備、備中呉妹、三谷へと西進してから茶臼山(ちゃうすやま)トンネルをくぐり抜ける。このトンネルを滑り出るともう矢掛(やかけ)の駅である。この一帯は、小田郡矢掛町である。ここは、「矢掛本町」と総称され、江戸期に山陽道の宿場町として栄えたところである。町には、大名達が泊まった豪勢な建物が幾つも残っており、日本で唯一、国指定重要文化財に指定された本陣と脇本陣が残る。矢掛町内の大通寺という曹洞宗の寺は743年(天平15年)の開基とされる。その書院北側には、江戸末期に造られた石寿園という庭園が広がる。その形式は、池泉観賞式庭園と言われ、釈迦三尊石、座禅石、須弥山などという仏教にちなんだ名のついた奇岩が配されていて、さながら山水画のような景色がここにある。
 めずらしいところでは、小田郡の矢掛町から井原市美星町に跨るところに、谷がある。谷が主体な地形なのに、全体としては「鬼ヶ岳」の名がついているのは、何かの理由があるのだろうか。この谷を流れるのが美山川であって、小田川の支流である。谷間には、鬼ヶ岳温泉があったり、上流に鬼ヶ岳ダムがあったりで、ダムでできた人造湖では淡水魚の養殖も行われて来た。この谷あいに支配的な岩石としては花崗岩とのことであるが、「それも谷をさらにさかのぼると、そこには青黒い石が散見する」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59、日本文教出版)とのこと。
 それが、矢掛石である。この石の本当の名(学術名)は、輝緑岩と斑糲岩(はんれいがん)であって、「岡山県の東北から、西南にかけて、対角線上に。時にはふくれ時にはしぼまり、散見している」(同著)ものである。写真で拝見すると、緑色の石目がなかなかに細かい。全体が引き締まった紋様を為しており、太古に繋がるかのような独特な風合いを醸し出しているようだ。この石の使い道は、一般には自然石様の石碑や庭石、デザイン墓石などによく使われるという。それ以外にも、実は変わった使い道があり、骨董になったり盆石に使われたりする。
 ここに盆石というのは、すなわち芸術であるとのこと。陶磁器の平たい盆の中に、小石や砂などを用いて小宇宙を創っていくのだそうな。例えば、川があれば、砂も生き生きとしてくるのであるらしい。そんな上にある月も描ける。近づいてみると彫刻、遠ざかっては絵画というところであろうか。盆栽とは、いささか異なるものの、盤上に精魂傾けて独特の世界を開陳することでは共通しているのだと思われる。

(続く)

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新170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

2021-12-22 09:18:48 | Weblog
170『岡山の今昔』高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡の地域)

 新見から高梁にかけての南下ルートに対し、その西に位置しているのが、高梁市川上町(旧川上郡)、新見市阿西町(旧阿哲郡)であり(前者は後者の南に位置する)、両郡とも現在は高梁市に属す。交通面では、新見から南西方向に迂回して、吹屋(ふきや、高梁市に合併前の川上郡吹屋)を通って山陰と山陽とを結ぶ陸路のルートが栄えたという。
 まずもっての阿哲台(あてつだい)は、標高は約500〜600メートルの台地をなす一帯なのだが、その地質基盤としては、阿哲石灰岩層群(元の秩父古生層)と三郡変成岩類(変成された秩父古生層)の二つの地層から成るという。それぞれの厚さは1500mの内、石灰岩層は600mほどもあるという。台地の中央を南北に流れる複数の河川によって、石蟹郷台、草間台、豊永台、唐松台の四つに分かれているとのこと。
 そこから成羽(高梁市に合併前の川上郡成羽(なりわ)町)にかけて地形に目を向けてみると、このあたりは、中生代ジュラ紀(現在から約1億9960万年前~約1億4550万年前)末にまでさかのぼる。その頃に陸化したであろう日本列島は、その前の古生代の昔から、その後の新生代中新世になって日本海ができるまでは、東アジア大陸の一部を成していたであろう。


 現在の県内において、自然が織り成す景観は全国でも珍しいほどの独特のものがあろう。中でも有名なのは、井倉洞(いくらどう)、磐窟峡(いわやきょう)、豪渓(ごうけい)の3どころであろうか。井倉洞は伯備線の井倉駅から歩いて約5分と近い。
 ここで話を元の地域に戻して、磐窟峡は、成羽川の一支流、磐窟(いわや)川という小さな川をさかのぼったところにある磐窟谷と呼ばれる深い谷を擁していて、その辺りは樹木もうっそうとしているとされる。こちらも、県の中西部にある白亜の断崖が連なる阿哲台と呼ばれる石灰岩台地の一部であって、磐窟川が長い歳月を掛けて浸食してできた渓谷美は、国指定の名勝地となっている。
 そこでの地質としては、「石灰岩と角岩とからなる標高400~500メートルの台地をつくった深い峡谷となっている。川というより谷の両側に高さ100メートルにおよぶ断崖絶壁が屏風のように連なっている。(中略)
 このほか、見晴らし、天狗(てんぐ)遊び、蜂(はち)の巣(す)岩、白布(しらぬの)の滝などと名付けられた絶壁、奇岩、滝などが約1キロほどのあいだに集中している。
 絶壁の中腹には、1968年(昭和43年)に発見された鍾乳洞・ダイヤモンドケイプがある。長さ400メートルの洞で、非常に繊細な鍾乳石や石筍(せきじゅん)が多く、方解石の結晶がダイヤのように光り輝き、宝石倉のなかに入ったような錯覚さえ受ける。」(「日本の湖沼と渓谷」11、中国・四国、ぎょうせい、1987)

 そんな自然の歴史については、興味深いことが色々とわかっており、ここではその中からまず、現在の岡山県西部、川上郡の町であるところの大賀(たいが)地区を見よう。そこでは、日本列島全体でも珍しい、古代の地形が見られる。その名を「大賀デッケン」という。
 ちなみに、地質学では、地層が切れた際の衝上面と水平面との角度が40度以上である場合を押し被せ断層と呼び、それ以下の低角度をデッケン(Decken)あるいはナッペ(Nappe)と呼ぶ。なお、大賀という土地名は、地名で滝がある「大竹」と、「仁賀」とを併せた由来となっているらしい。その大賀から徒歩2~3分の距離で仁賀の家並みがある。道は、岡山県道294号線を辿って現地にさしかかる。この場所には、領家川が流れている。この川は成羽川の支流であって、領家川流域の吉備高原に位置するところだ。

 参考までに、現地に建つ案内板には、こうある。
 「天然記念物 大賀の押(お)し被(かぶ)せ(大賀デッケン)、昭和12年6月15日国指定
 海流や河川流によって運搬された土砂などは、その運搬作用が止むとき堆積し、地層を形成する。一般に地層が上下に積み重なるとき、上に重なった地層は下にある地層よりも新しい。ところがこの大賀地区では中生代の三畳紀(約2億年前)に堆積した新しい地層(成羽層群)の泥岩・砂岩の上に古生代の石炭紀・二畳紀(約三億年前)に堆積した古い時代の石灰岩層(秩父古生層)が重なり、新旧の地層が逆転した「押し被せ構造」となっている。
 このめずらしい地質構造は中生代の白亜紀(約一億年前)に起こった大規模な地殻変動によってできたものである。このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっているのである。
 現在も、この石灰岩層と泥岩層との境界部は河床に明瞭に見られる。この露頭は大正12年東京大学の小澤儀明博士によって発見された。
 なお、以上の説明とは別に、秩父古生層は隆起して浸食を受けさらに沈降し、その後この地層の上に成羽層群が堆積したという考えもある。文部省 岡山県教育委員会 川上町教育委員会」

 これにもあるように、中生代三畳紀(その中のざっと約2億年前と見られる地層)の泥岩、砂岩の地層(成羽層群(なりわそうぐん)といって、現在の川上町)の上に、古生代石炭紀ペルム期(ざっと約3億年前)、二畳紀の石灰岩の地層(秩父古生層)が覆いかぶさって、地層の逆転がおこっている。
 「このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっている」というのであるから、その原因となった中生代の白亜紀(約1億年前)に起こった大規模な地殻変動の、より詳しい解明が期待される。

 ついでに、この辺りでの「石探し」を少しばかり紹介したい。こちらは、備中高梁駅から備北バスに乗り、川上バスセンター((終点)までいく。それから、成羽川(なりわがわ)を渡り、川上町吉木で川原(かわら)に降りてみよう。この川というのは、広島県庄原市付近の中国山地に源を発し、南下するうちに岡山県に入る、それから高梁市まで来て高梁川に合流する、一級河川だ。すると、五色石など色んな石が見つかるという。その模様は、例えば、こう言われる。
 「特に、成羽五色石と呼ばれる約1億年前の礫岩は色とりどりの礫が入っていてきれいなため、珍重されてきた。礫の種類はチャート、石灰岩、砂岩、泥岩などで、基質は赤色の泥岩で陸成の堆積岩である。また白い石灰岩には紡すい虫やウミユリの化石が含まれているものが多い。」(柴山元彦「ひとりで探せる川原や海辺のきれいな石の図鑑2」創元社、2017)


 この辺りでの植物分布にも特筆すべきものがあろう。この地、高梁市成羽の美術館が来客にわたしてくれるのではないか、そのパンフレットには、「成羽の化石ー日本最古の森」と題し、次の説明がある。
 「中生代三畳紀後期の約2億3千万年前、成羽地域では日本で最初の森が発達しました。その証拠として多くの植物化石を産出します。
 当時の森はイチョウやソテツといった裸子植物やヤブレガサウラボシの仲間のシダ植物が中心で、110種以上が報告されています。その中でも新種は38種と非常に多く見つかっています。このように多種多様な植物化石が産出する場所は世界でも珍しく、「Nariwa Flora(成羽植物群)」として多くの人に認識されています。」(高梁市成羽美術館)

 さて、現在の高梁市の吹屋(ふきや)については、観光ではあのベンガラ屋根の家並みが保存されていて、観光で有名だ。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであったという。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 顧みると、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山(旧・川上郡成羽町)は、江戸時代、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。
 1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。
1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。
 なお、かかる旧川上郡には、旧成羽町の西隣に旧備中町があり、さらにその南には旧の川上郡川上町が位置していた。

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 自然の厳しさの中から、人々の生活にはどのような変化が生じていったのだろうか、例えば、次のように紹介されている。 

 「成羽川は備後(びんご)の道後(どうご)山を源に、備中・備後に広がる吉備高原に深い谷をけずりながら、高梁川に合流する。この川は古くから水運交通の要路として、高原上の村村から、谷底への急坂を駄馬の背で運んできた農作物や薪炭などを、舟や筏(いかだ)で運び出すのに使われていた。
 成羽川が高梁川に合流するわずか手前に成羽町がある。ここは「備中神楽」の本場で神楽の里といわれている。(中略)
 白蓋(びゃっかい)行事とよぶ神降ろしにはじまり、藁(わら)でつくった大蛇(だいじゃ)を引きずり回して神がかりになり、託宣を行う。このように、天災を荒神にみたてて信仰してきたのは、成羽川が氾濫川であり、高原上は水利が悪く、気象条件も劣悪という、厳しい自然との闘いの生活があったからだ。
 高原上の村村の生活は、自給自足の農業が主で厳しいものがあった。かつては麦とわずかの米が主食で、畑作ではタバコ、コンニャク、大豆、小豆(あずき)、粟(あわ)などを作っていた。(中略)
 また、和牛の飼育も盛んであった。この地方は石灰岩地帯で、牧草にはカルシウムが多く含まれ、骨の丈夫な牛がつくられた。
 このような備中北部の生活は、年中行事のなかにも、雨乞い、虫送り、収穫祝いの秋祭りなど、農事に関するものを多く織りまぜながら、備中神楽とともに、先祖から受け継いできた風俗習慣を、郷土色濃い姿で残している。」(研秀出版「日本の民話」12、1977)

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 そして、この地の往年の産業として忘れてならないのが、鉱山経営であろう。その代表格の吉岡銅山の跡は、2007年に「吉岡銅山関連遺産」として、経済産業省の近代化産業遺産(瀬戸内銅)に登録されている。その認定の種類としては、「吉岡銅山関連遺産資料等笹畝坑道、沈殿槽、ボタ山、精錬所、選鉱所、煙道、 三番坑口、ベンガラ館」というのであって、1972年(昭和47)に閉山となっていたのが、その鉱山跡地に今では観光がメインとなっている。
 そもそもこの辺りは、古代から鉱石が多く産出されてきた場所柄で、「吹屋よいとこ金掘るところ 掘れば掘るほど 金がでる」などと、威勢のよい話でもちきりであったとか。中でも、当地の吉岡銅山は、807年(大同2年)の開坑と伝わり、戦国時代には利権を巡って有力大名による争奪戦が展開された。それが、江戸時代中期には、大坂の泉屋(いずみや、後の住友家)が経営に参画し、国内屈指の産銅量を誇る鉱山に成長する。明治時代初期には、野心家の岩崎弥太郎が率いる三菱商会が買収し、外国の先進技術の導入したりで、鉱山経営を発展させていく。
 運搬面では、1907年(明治40年)の開通以来活況を呈していた原材料の搬入から鉱石の運搬まで活躍していたトロッコ輸送だが、1928年(昭和3年)に伯備線が全通すると、吉岡銅山は貨物を石蟹駅までトラックで運び、鉄道輸送に切り替えられる。しかし、1931年(昭和6年)には銅鉱脈の枯渇もあって、同経営での吉岡銅山は閉山にいたった。その後は、吉岡鉱山株式会社として経営に当たっていたが、1972年(昭和42年)には、最終的に閉山した。

 また、山宝鉱山(さんぽうこうざん)跡は、高梁市(旧・川上郡備中町)の鉱山にして、主に磁鉄鉱を採鉱していたという。しかし、1970年(昭和45年)頃には、海外からの鉄鉱石輸入の増大があり、閉山した。こちらでは、昭和初期頃は、7つの坑道を持つ大きな鉱山だったそうで、多くの人が働いていたようだ。坑道より磁鉄鉱を運び、トロッコで降ろ し、運んでいた。1973(昭和48年)からは生石灰が製造され、1976(昭和51年)になると、新鉱物として承認されたソーダ魚眼石が見つかったことでも知られる。なお、封鎖された坑口が残る。さらに小泉鉱山跡は、これまた高梁市(旧・川上郡成羽町)にあった鉱山にして、 銅・鉛・亜鉛が採掘されていた。 こちらでは、広大なズリ跡が残る。そのほか、近場には高取鉱山など、大規模な鉱山跡が多々存在しており、往時のこの辺りには労働者たちの活気がみなぎっていたのだろうか。

(続く)

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