♦️529『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(フィンランド)

2018-05-13 21:06:10 | Weblog

529『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(フィンランド)

第二次世界大戦後のフィンランドは、戦争責任裁判を経て、1947年2月には、ソ連と友好・協力・相互援助条約を締結して、よき隣人としての立場を確立。東西の冷戦の中での中立的な位置どりで、双方との対立を回避しながら、国力の増進を図る。それからは、1952年にソ連への戦時賠償を完済するとともに、フィンランドも参加しての北欧諸国間で北欧パスポート連合を結成し、人の自由往来を認め合う。
 1954年になると、これら諸国の間で移住及び労働の自由を認め合う。1955年には、元枢軸国イタリアとともに国際連合への加盟をはたす。それからのスウェーデンは、福祉国家への道を歩み始める。
 1995年1月には、念願だったスウェーデン、オーストリアといった、冷戦下に争いに巻き込まれるのを回避するべく、中立政策を守っていた国々に伍(ご)して、EU(欧州連合)への加盟を果たす。

(続く)

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♦️402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

2018-05-13 20:55:05 | Weblog

402『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦の道(ヨーロッパ戦線・第四次ポーランド分割)

 ポーランドにおいては、966年にピアスト朝がキリスト教を受容する。1386年になると、ヤギエウォ王朝が成立する。1573年には、選挙王朝の時代となる。1795年、第3次分割によりポーランド国家が消滅する。長い苦難の時代の始まりであった。
 1914年からの第一次世界大戦では、ヨーロッパは血みどろの戦場と化した1917年11月には、バルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立する。それに続く1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約が結ばれる。これは、枢軸国側(ドイツなど)とソヴィエト・ロシア(三国協商の一角としての)との間での、単独講和条約に他ならない。この条約締結地のブレスト・リトフスクは、現在のベラルーシのポーランド国境の都市である。
 これには、大いなる事情があった。1917年11月に生まれてから日が浅いソビエト・ロシアは、世界最初の社会主義革命の行く末を守らなければならなかった。そのため、他の協商国にはからず単独で枢軸国側と講和し、戦闘を終結したことで、枢軸国側のドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦に応じる。
 この条約の内容としては、ソビエト・ロシアは、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などを放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲る。これにより、ポーランドが独立を回復することになる。だが、これで「めでたし」とはならない。
 1939年、今度はドイツのナチス政権が動く。独ソ不可侵条約を破り、ドイツのヒトラーの軍隊がポーランドに侵攻する。そのやり方は、戦車機動部隊を押し立てて突破するという強引さであった。
 さしあたっては、ダンツィヒ自由市とポーランドの海への出口であるポーランド回廊の割譲を要求したのだ。ポーランド政府がこれに抵抗すると、ヒトラーはポーランド攻撃に踏み切る。おりしも、モスクワでは、1939年3月10日~21日の予定でソ連共産党の第18回党大会が開催されていた。ソ連指導部は、驚愕をもってそのニュースを聞いたに相違あるまい。
 1939年8月23日のモスクワにおいて、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結ぶ。その秘密議定書の中で(18世紀の三回に続いての)4回目のポーランド分割を取り決めていた。その一、二項には、こうある。
 「一、バルト諸国(中略)の領土的・政治的再編については、リトアニアの北部国境を持ってドイツとソ連との勢力圏の境とする。この際、ヴィリニュスについては調印国双方が利害を共有する。
二、ポーランドの領土的・政治的再編については、ナレツ、ヴィスワ、サンの河川をドイツとソ連との勢力圏の境とする。ポーランドを独立国としておくか、その国境線をどう定めるかーこれらは今後の政治的進展により決定される。いずれにしても、両政府は本問題を友好条約により解決する。」(引用は、渡辺克義「物語ポーランドの歴史」中公新書、2017)
 そして迎えた1939年9月17日、ソ連軍がベラルーシ人とウクライナ人の保護を名目に、ポーランドの東側から国境を越えてくる。続いての1940年の4月から7月にかけて、ソ連の機関によって、これに先立ち本国から連れ去られていたポーランド人将校と知識階級らの人々(2万2千人とも2万5千人とも)が「カティンの森」で殺害された。ソ連の関与については、内務人民委員部なりが独走したとも、ソ連共産党政治局の指示によるとも、諸説があるようだ。
 ソ連がなにゆえこの事件を引き起こしたのかについては、一説には、ソ連にとって、ロンドンに逃れていたポーランド亡命政府(アメリカとイギリスが支持)をたたき、自分たちが後押ししてポーランドのルブリンに発足させた暫定政府をアメリカとイギリスといった当時の国際社会に認めさせるために必要であったからだ、と言われている。
 ポーランドにおいては、民衆が黙っていない。国民民主戦線が、労働者、社会民主党、地下労働組合、農民、青年によって結成される。1944年、ドイツ占領軍に対しワルシャワ市民が武装蜂起するのであった。

(続く)

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♦️405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

2018-05-13 20:52:01 | Weblog

405『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

 想い起こせば、フィンランドとしての国家の成立は、20世紀になるのを待たなければならなかった。11世紀~12世紀になってキリスト教が伝来、東西キリスト教の角逐があった。1323年、スウェーデン・ロシア間の国境が確定する。このときフィンランドは、スウェーデン王国に組み込まれ、そのの一部となる。1809年、スウェーデンがフィンランドをロシアに割譲する。
 その分水嶺を提供したのは、まずはイギリスへの「大陸封鎖令」の履行をスウェーデンに迫るナポレオン・フランスと、これを拒むスウェーデンとの争いであった。そこで、ナポレオンはスウェーデン領であったフィンランドを攻撃するようロシア皇帝に求める。ロシアは、それではとフィンランドに軍を派遣し、スウェーデン軍と戦う。戦争はロシア側に軍配が上がり、1809年9月に講和条約が締結にいたり、スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲する。これによりほぼ600年にわたるスウェーデン統治に幕が下ろされる。
 他方で、1814年のスウェーデンは、ナポレオン戦争の講和としてのキール条約でデンマークからノルウェーを割譲させ、手に入れる。その後のノルウェーは、スウェーデンとの「同君連合」下におかれ、その鎖を断ち切ってノルウェーが独立を勝ち取ったのは1905年のことである。
 1917年12月、ロシア革命後のロシアより、フィンランド共和国として独立を宣言する。レーニンを首班とするロシア革命政府がこれに同意を与えたことで、ここにフィンランド共和国が成立する。その後のフィンランドは、国内に残っていたロシア軍のことも相俟って、国内の赤衛隊と白衛隊との間で内乱が勃発するのだが。4か月の戦いで白衛隊に勝利が傾いていく。翌1918年の3月には、ロシア政府は、ドイツとの講和であるブレスト・リトフスク条約に従い、フィンランドに残っていた2万5千人のロシア軍を撤退させる。
 そして迎えた1919年、新たな統治章典が制定され、スウェーデン統治時代からの政体法が廃止される。大統領制が導入され、1919年5月のパリ講和条約において改めてフィンランドの独立が承認され、フィンランドは独立国家への大きな一歩を踏み出す。
 1921年になると、新たな問題が起こる。スウェーデンとの間に位置し、バルト海に浮かぶオーランド諸島において、スウェーデンとの間で帰属問題が浮上したのだ。現地オーランド諸島の住民の間では、スウェーデンへの帰属に傾く。
 そんな中、これをスウェーデンが国際連盟に提訴していた領土問題で、連盟による裁定が出る。これは、いわゆる「新渡戸稲造裁定」ともいわれ、事務局次長であった新渡戸が取りまとめたことで知られる。これにより、領土はフィンランドに与えるかわりに、言語はスウェーデン、文化、風習は当地を尊重する。オーランド諸島には自治権を与え、この地域を非武装中立とし、総督を置くというもの。
 1939年11月~40年3月、最初の対ソ戦争(冬戦争)を戦う。この年の10月、ソ連がフィンランドに領土交換を提案してくる。ソ連がロシア・カレリア地方の一部を割譲する見返りに、フィンランドからヘルシンキ近郊のハンコ岬の30年間租借とフィンランド湾東部諸島の譲渡、北極圏ペツァモとカレリア地峡国境線の一部後退を求める。この交渉は双方で多少の譲歩はあったものの、交渉は決裂し、戦争に入る。双方のあわせて十数万の戦死者を出しての膠着状態の中、講和条約が締結される。ソ連は当初の要求の大部分を手にし、フィンランドは自国の存在をソ連を認めさせる。
 続いての1940年12月には、ナチス・ドイツからソ連侵攻計画「バルバロッサ作戦」への参加を求められる。そして迎えた1941年6月、ドイツがソ連に進攻すると、ドイツと盟友関係のフィンランドは、「大フィンランド」の実現を目論んでソ連と再戦するにいたる。これを「継続戦争」と呼ぶ。この戦争は、ナチス・ドイツからの支援を受けて1944年まで続く。
 1943年2月にスターリングラードの攻防戦でドイツ軍機動部隊が大敗を喫すると、フィンランドは慌てて戦線を離脱し、ソ連との和平を模索する。それでも1944年9月にソ連との間でようやく休戦条約を締結し、なんとか戦争を終える。23か条の休戦条約の中には、ソ連に対して6億米ドルに相当する賠償金の支払いや、ドイツ軍のフィンランド領内からの追放などが含まれる。

(続く)

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♦️289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

2018-05-13 08:14:54 | Weblog

289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

 フレデリック・ショパン(1810~1849)は、孤独と情熱の人であったようだ。ポーランドのワルシャワ近郊の村で生まれた。貴族の家に生まれたのであろうか。家族の献身もあって幼い頃から音楽に親しみ、少年時代を過ごしたのだという。やがて長じては、「ピアノの詩人」といわれるとともに、「繊細にして華やかな調べ」や「完全なる美意識」を称される曲を数多く作曲していった。
 ショパンはまた、マズルカやホロネーズなどで知られる「愛国者」なのであった。そんな彼は、激しい調子の曲をも作っている。その名を「革命」という。それというのも、彼が生きた時代のヨーロッパにおいては、かなり範囲で民衆の力の台頭(たいとう)があった。1789年に始まったフランス革命からの民主の流れが、ヨーロッパに伝搬していったのだ。
 そこでこのショバンの曲の成り立ちだが、この年の7月までには、パリに向かう演奏旅行の途中のシュツットガルトにおいて、ポーランドを独立させまいとするロシアとの間で戦争が行われている、とのニュースを聞いたのであろうか。
 なにしろ年来の宿敵ロシアからの独立戦争ということなので、革命の勃発を知った時はさぞかし驚いたことであろう。1830年12月、ショバンはワルシャワにいる友人のヤン・マトゥシェフスキ宛の手紙において、こう記す。
 「ヤン(三世ソヴェスキ)の軍勢が歌っていた、散り散りになったその残響がいまでもまだドナウの両の岸辺のどこかしらに漂っているかもしれない歌の数々をーそのほんの一部でもいいから探りあててみたい。(中略)
 この僕はー父の重荷になるということさえなければ、今すぐにでも帰りたいが帰れない。(中略)サロンでは涼しい顔を装っているが、家に戻ればピアノに向かってあたりちらしているのだ。」(関口時正氏による訳、これを引用されている渡辺克義著「物語ポーランドの歴史ー東欧の「大国」の苦悩と再生」中公新書、2017から収録)
 この時、いても立ってもいられられなくなり、ホーーランドに帰国しようとしたのかどうかはよく分からないものの、父親が手紙で思い留まったとも伝わる。
 この衝撃がショバンの頭脳に閃きを与え、作曲された曲の名は、「作品10第12のハ短調練習曲」としてであり、後に付されることになる革命的なタイトルはフランツ・リストが命名したもの。その調べは、最近ではテレビ番組「ラララ・クラシック」や「題名のない音楽会」などでピアニストにより弾かれ、中盤からは情熱の渦となって人びとの胸に迫ってくる。
 その一つ、ショバンの曲を紹介しよう。例えば「キラキラと輝くワルツ」という3拍子の、優美かつ軽やかなリズムを刻むようなものに、「英雄ポロネーズ」がある。ポロネーズ(polonaise)とは、フランス語で「ポーランド風」の意味にして、マズルカと並ぶポーランド起源のダンス(舞曲)のことを指し、1842年に作曲された、正式にはピアノ独奏曲「ポロネーズ第6番変イ長調」作品53という。
 これはしかし、彼の滞在していたパリをはじめ上流階級の人びとに心地よく聴いてもらうばかりの曲とは決めつけられない、曲想の根底には、ポーランドの土着の精神が宿っていたのだともいわれる。パリ時代に記した告白に、次の下りがある。
 「僕はこうして何もせずにただときどきピアノに向かってうめき苦しむだけ、悲嘆にくれるだけだ。そして、それが何になる?」(関口時正ほか訳「ショパン全書簡、ポーランド時代」岩波書店)
 ポーランドでの革命が押さえ込まれた後も、パリにいて芸術活動に携わりながらも、故郷への想いを馳せていたのであろう。今ポーランドがロシアに蹂躙されているというのに、何も出来ない自分を見つめていたのであろうか。その心情を書くことを通じ、少しなりとも楽な気分に浸れたであろうか。それからの作曲家人生だが、ショパンが亡くなる1年前の1848年、フランスでは二月革命が勃発していた。
 この時も、真偽にについては不明ながら、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家にして、当時小規模な新聞を発行していたジョルジュ・サンドは、ショパンのこのポルネーズ曲を聴いていた。味わいを深めながら、ショパンへの手紙の中で、「霊感!武力!活力!疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る!これより、このポロネーズは英雄たちの象徴となる!」と書き記したのだという、そんな当時のバリの空気を彷彿とさせる逸話が伝わる。
 参考までに、音楽史に占めるショパンの位置については、例えば、こう評されている。
 「 かれの音楽はポロネーズやマズルカが使われていることによって、ポーランドの民族主義を代表している。一般的にいえば、ショパンの様式はフランスとドイツのロマン主義のに混合体である。かれはポロネーズ、バラード、マズルカ、ワルツ、ノクターン、プレリュード、練習曲、即興曲、自由なロマン主義的ソナタを書いた。かれは本質的にピアノ作曲家で、他の表現形態における試み(たとえば2曲のピアノ協奏曲)はあまり成功していないし、独特の表現も少ない。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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♦️301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

2018-05-13 08:10:11 | Weblog

301『自然と人間の歴史・世界篇』ポーランドのウィーン会議から3月革命前夜(1815~1847)

 ウィーン会議後のポーランドでの民主化運動の高揚の二つ目の山は、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。
 これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。
 しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。

(続く)

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