◻️93『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と水平社運動

2021-09-30 22:52:04 | Weblog
93『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と運動

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。


 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)
 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。


 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。

 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。 

 さらに、1922年(大正11年)3月3日には、京都の岡崎公会堂(現在の京都市美術館別館=左京区岡崎最勝寺町)において全国創立大会が開催され、全国の被差別から約3千人が結集する。
 そうして全国が創立された翌年の1923年(大正12年)には、岡山市内の被差別が中心となって岡山県を創立する、そこに全県下から仲間が結集して、この運動を担っていく決意を固め、世間にアピールする。


(続く)


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◻️121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

2021-09-30 22:26:58 | Weblog

121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

 さて、1870年(明治3年)には、前島密により、国家による新式の郵便事業が建議される。
 同年には、工部省(こうぶしょう)が設置される。これが指令元、関連予算の出所などとなって、鉄道の敷設や重要鉱山・炭鉱の経営、造船などを官営事業として展開していく。
 「欧米に学び、欧米に追い付け」というのが、国家の目標とされる時代であったことだろう。

 その流れでは、近代的な郵便や電信なども、国家の行う官営事業として行われていく。
 これらのうち郵便事業については、1871年(明治4年)に郵便創業が創業する。具体的には、東京、京都、大阪間ということで郵便業務が開始される。そのまた翌年の1872年(明治5年)には、北海道の一部を除いて全国に郵便が敷かれる。1873年(明治6年)になると、全国一律の料金制度が導入される。

 そんな中でも、岡山の郵便事業においては、交通の不便な地域で郵便物の集配をどのように行うかが当面の重要課題であったようで、次のような記録(「北条県史」から)が出されている。

 

 「明治5年1月4日、郵便取扱所を津山に置き、備前岡山へ隔日に往復する。7年12月、新線路を開くのに当たって、この中間に設け、改めて往復する。この年、東西の官道上に郵便取扱所7か所を置く。大庭郡久世村、真島郡の真島(勝山)、美甘村、新庄(しんじょう)村(以上出雲街道沿い)に置き、隔日に往復する。6年8月から東西路上の郵便往復毎日になる。脚夫の賃銭は、美甘から新庄の間は、道路嶮岨(けんそ)に属性するため、特に1里を6銭にする。平坦地の1里は3銭。」


 続いて、1875年(明治8年)には、郵便為替と郵便貯金事業を開始する。1885年(明治18年)には、逓信省が発足する。
 
 これが、さらに1916年(大正5年)の簡易生命保険創業などというように、事業を拡大していく。結果、全国各地に大小の郵便局、電話局、電信局などの整備需要が生まれ、明治・大正・昭和から今日までの建築業・建設業の礎を築いた。

 そのような流れで、岡山においても、近代的な郵便制度が整えられていった。他にも、1903年(明治36年)には、岡山に電話が開通する。


(続く)


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◻️341『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2021-09-30 21:39:51 | Weblog

341『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。

 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。

 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。

 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。

 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 かくて、江戸の勤めは、洪庵には、肉体的にも精神的にも極めてきつい毎日であったことが、子供あての次の手紙からも読み取れよう。

 

○「病弱の体質、老後の勤め、中々苦労の至(いたり)、殊(こと)に久々住みなれたる土地を放れ候事。経済においても甚(はなは)だ不勝手、実に世に謂(い)う有難迷惑なるものに、これあり候。」(文久2年6月17日、在長崎子息平三・城次郎あて)

 

○「とても蓄えの金子にては相足不申(あいたりもうさず)。身分こそ高く相成(あいなり)。有難きことには候へども、是れより大貧乏人と相成。」(文久2年9月晦日(みそか)、在長崎跡継ぎ洪哉あて)



 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。

「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。

 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)
 

 ちなみに、洪庵は筆まめな人であって、中でも日記や「詠草」などにおいては、そのたおやかな文体とともに、慨嘆など思いの丈が読み取れるものとなっている(例えば、緒方富雄、司馬遼太郎「緒方洪庵」、海音寺潮五郎ほか著の「日本史探訪」角川書店、1972に、それらの抜粋が写真で紹介されている)。

(続く)

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447に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成)

2021-09-29 08:11:50 | Weblog
447に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇垣一成)

 宇垣一成(うがきかずしげ、1868―1956)は、戦前軍人(陸軍大将)で、政治家。

 磐梨郡大内村(現在の岡山市東区瀬戸町)のうまれ。1890年(明治23年)に陸軍士官学校卒業する。1900年(明治33年)に陸軍大学校を卒業すると、参謀本部員となり、主に、軍事研究のため日露戦争前後に二度ドイツに駐在する。
 
 帰国しての1913年(大正2年)には、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の下、軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとる。

 1916年(大正6年)には、参謀本部作戦部長となる。1918年には、シベリア出兵方針の策定にあたる。これは、革命ロシアに干渉して、あわよくば海外領土を広げようとの目論見であったろう。

 その後、陸軍大学校校長を皮切りに、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣と留任する。

 この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現したという。

 1929年(昭和4年)には、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の陸相となるも、1931年(昭和6年)には、陸軍有志の「桜会」を中心とするクーデター計画である三月事件に関与したとされ、事件後に陸軍大臣を辞職する。
 もっとも、その理由について、「宇垣自身はーー三月事件のとき、軍隊を動かすことに反対したと強調している」(大内力「ファシズムへの道」中央口論社版の「日本の歴」シリーズ24、1967)とされ、そのことから、真相は現在に至るまで行方知れずのようである。

 その後は、1936年ま(昭和11年)で朝鮮総督となる。一説には、「ともかく、これによって宇垣は一度に全軍の信望を失ってしまった」(同)とも。

 1937年(昭和12年)には、広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職後、組閣の大命を受けるも、陸軍が反対するなどがあり、組閣を流産してしまうことが起きる。同年2月にできた林銑十郎内閣が4か月の短命で倒れて、近衛文麿内閣(第一次)が6月に成立して、7月に勃発の盧溝橋事件が起きる。9月になると、政府は、それまで使用していた「北支事変」の名称を「支那事変」と改名して、日本が中国との全面戦争に入ったことを国民に印象付けた。
 その近衛内閣は、徐州会戦(1938.4)後に大改造を行い、宇垣は外務大臣になる。宇垣の対中政策は、他の軍人に見られない慎重なもので、蒋介石を警戒しながらも、戦争終結のためには国民政府を相手にせず声明にとらわれないことが先決、というものであった。
 ところが、近衛からすれば、「宇垣には倒閣の意図があると推察せらるる」となったようで、結局、宇垣は1938年(昭和13年)9月に辞表を提出する。かくて日本の政局は、宇垣が得意とするような「深慮遠望」の策を突破して、ひいては対米英戦争への道に入っていくのである。

(続く)

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◻️121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

2021-09-28 21:38:31 | Weblog

121『岡山の今昔』明治・大正時代の岡山(郵便と電話)

 さて、1870年(明治3年)には、前島密により、国家による新式の郵便事業が建議される。
 同年には、工部省(こうぶしょう)が設置される。これが指令元、関連予算の出所などとなって、鉄道の敷設や重要鉱山・炭鉱の経営、造船などを官営事業として展開していく。
 「欧米に学び、欧米に追い付け」というのが、国家の目標とされる時代であったことだろう。

 その流れでは、近代的な郵便や電信なども、国家の行う官営事業として行われていく。
 これらのうち郵便事業については、1871年(明治4年)に郵便創業が創業する。具体的には、東京、京都、大阪間ということで郵便業務が開始される。そのまた翌年の1872年(明治5年)には、北海道の一部を除いて全国に郵便が敷かれる。1873年(明治6年)になると、全国一律の料金制度が導入される。
 続いて、1875年(明治8年)には、郵便為替と郵便貯金事業を開始する。1885年(明治18年)には、逓信省が発足する。
 
 これが、さらに1916年(大正5年)の簡易生命保険創業などというように、事業を拡大していく。結果、全国各地に大小の郵便局、電話局、電信局などの整備需要が生まれ、明治・大正・昭和から今日までの建築業・建設業の礎を築いた。

 そのような流れで、岡山においても、近代的な郵便制度が整えられていった。他にも、1903年(明治36年)には、岡山に電話が開通する。


(続く)


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◻️382に合併『岡山の今昔』岡山人(19世紀、花房端連)

2021-09-28 07:58:56 | Weblog
382に合併『岡山の今昔』岡山人(19世紀、花房端連)

 花房端連(はなぶさまさつら、1824~1899)は、備中の吉備郡真備町(現在の倉敷市真備町)の岡田藩士の次男に生まれ、岡山藩士、花房義考の養子となり。
 やがて藩士として頭角をあらわし、岡山藩の少参事、権参事を務める。廃藩後には新政府に召し出され、工部省鉄道寮に出仕し、鉄道権助となる。陽の当たる境遇となった訳だ。
 大坂での在勤中、郷土のために働いてもらいたいとの高崎五六県令などから要請があったと伝わる。
 1877年(明治9年)には、第二十二国立銀行を岡山に創立し、頭取に就任。また16年岡山紡績会社を創設する、
 1889年(明治22年)には、岡山の市制施行にともない初代岡山市長となる。翌年には、辞職する。
 他にも、岡山商業会議所・山陽鉄道会社・岡山積金会社などの発起人または顧問を務める。
 また、広い意味での社会福祉活動にも精出していく。1896年(明治29年)
には、花房ら有志により、岡山慈恵会が組織される。1897年(明治30年)
には、河野知事らとともに発起人となり、備作恵済会と改め寄付を募り、岡山市瓦町に免囚保護院と感化院の両院を発足させる。

 1900年(明治33年)には、感化院は、三門に移り三門学園と称す。1928年(昭和3年)には、岡山県に寄付する。 ちなみに、現在の 岡山県立成徳学校は、その後身である。
 免囚保護院については、昭和8年に市内東古松に移り、財団法人備作恵済会古松園となり、現在に至る。多くの恵まれない人たちの保護と更生を、社会復帰を助けていく。
 
 およそこのようにして、岡山市政、産業、社会活動における草分け的存在となったのには、「資性温厚で徳望高く」(原三正「岡山の貨幣」日本教育出版社、岡山文庫53、1973)といった人柄も寄与したのであろう。

(続く)

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◻️112『岡山の今昔』明治時代の商業の発展(岡山市の場合)

2021-09-27 19:22:57 | Weblog

112『岡山の今昔』明治時代の商業の発展(岡山市の場合)

 明治維新で新政府が樹立されると、1871年(明治4年)には、各藩の百姓や町人への扶持(ふち)、それに地子・町役免除などが禁止となる。そればかりか、政府は、1873年(明治6年)には、大名貸しのうち1843年(天保14年)以前の旧債は無効とし、1844年(弘化元年)から1867年(慶応3年)に出された新債は、元金は3年間据え置き、年利息4%・25年賦(ねんぷ)とする決定を下す。  

 これにより、全国の、武家の「御用達たちは、扶持米、永納銀の見返り米の大半を失う。特に、後者の範疇での大名貸しの多い豪商たちの証文たるや、ほとんどの債権を失うほどの損害を受ける。かくて、岡山城下町を本拠地とする名うての商人たちも、彼らの多くは、没落への道を転がり落ちていく。

🔺🔺🔺

 およそこのようにして、岡山で活躍していた豪商のかなりが大損をしたといっても、およそこのようにして、岡山で活躍していた豪商のかなりが大損をしたといっても、ほどなくしての資本主義の成立史においては、資本に転化する貨幣がどのように蓄積されたかは欠かすべからざる論点であるに違いない。

 かくて、これとは対照的なのが、藩体制から距離をおいてきた中堅商人、村方の役人や地主(豪農など)であって、維新の後に資金をかき集め、また所有の田畑・山林・塩田などによって経済力を保ち、拡大していく。また、かれらのなかでは、おりからの自由民権運動や選挙に出るなど、政財界において力を発揮する者が相次ぐ。
 
 
 しかして、彼ら新興勢力による、維新後しばらくしての諸々の産業の勃興を認めない訳にはいかないだろう。やがて、1886年(明治19年)下半期からは、いわゆる「松方デフレ」をようやくぐり抜け、日本資本主義は、企業勃興期に入る。その中では、鉄道、紡績、鉱山などを中心に投資が盛んに行われていく。1989年(明治22年)に市制施行の岡山市も、その例に漏れない。

 それからも、浮き沈みとしての景気循環がありながらも、特に、日清戦争の勝利で当時としては莫大な賠償金が入ってきた全国各地では、未曾有の活況を迎える。

 ちなみに、1898年(明治31年)における岡山市の物産県外移出入たるや、移出は岡山県全体の30.3%、移入は同33.9%を占め、県下最大の移出・移出地となっている。
 また、品目別でみると、経済学者(神立春樹)の論文には、こう書かれている。
 
 「この岡山市は、移出は糸類及びその原料(個別品目では繰綿)がさらに抜群に大きく、普通農産物(同じく米)もいっそう大きく、他方、移入は、普通農産物(同じく米)が抜群に大きく、ついでその他雑品、織物及び同製品が大きく、糸類及びその原料(個別品目では綿糸)が極端に小さい。すなわち、岡山市は綿糸、米の移出が大きい岡山県の産業構成の特徴を示しているが、その原材料の移入は小さく、そして米、呉服太物、そしてその他雑品が大きく、最大の消費都市であり、この消費物資の集散地であることが示されている。」(神立春樹「明治期の岡山市における商工業の展開」岡山大学経済学会雑誌24(1))、1992)

 あわせて、同年の岡山市の商家数をみると、全体数3253人のうち、穀物の商いをするのが350人、同菓子320人、同煙草293人、同古道具293人、同古着233人、同魚類166人、同荒物166人、同酒130人、同呉服太物124人、同八百屋144人などとなっていて、「これは、例えば玉島が上位に麦稈真田(ばっかんさなだ)、肥料があるのと比較すると、岡山市の消費物資集散地としての性格が明らかとなる」(神立前掲論文)とされている。


(続く)

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◻️203『岡山の今昔』歴史的現在から見据える岡山の近未来(産業など)

2021-09-27 08:29:51 | Weblog
203『岡山の今昔』歴史的現在から見据える岡山の近未来(産業など)
 
203『岡山の歴史と岡山人』岡山の近未来(歴史的現在からの視点、産業など)

 岡山の未来について考えるには、どんなふうにしたらよいのだろうか。そして今は、その地域にまつわる話と、これからの筋道につての何らかの価値創造性とがうまく折り合いをしながら、ともに進んでいく環境っくりとが、大事だと考えている。ここでは、この課題を考える際に、参考になりそうな指標を取り上げ、その有効性に、ついて、ごく大まかに検討してみたい。

 最初に、SDGsというのは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称であり、日本での略称としては「SDGs(エス・ディー・ジーズ」が当てられている。
 ここでいうSDGsとは、2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。
 あわせて、このSDGsが採択されたときに、国連の壁にプロジェクションマッピングで模様を施したものが、17の大きな目標と、それらを達成するための具体的な169のターゲットで構成されている。
 その中身でまず飛び込んでくるのは、貧困や飢餓、健康や教育、さらには安全な生活環境(わけても水)など開発途上国に対する支援も取り上げられており、未来への全世界的な運動であることがわかる。
 しかし、日本では、このところマスコミなどでしばしば取り上げられる割には、実際には、日本の子どもの6人から7人に1人が貧困だと言われており、またジェンダー平等に関しても2020年12月に世界経済フォーラムで発表された数字によると153カ国のうち121位に留まっているという。


 そうなると、ここで取り上げたいのは、インターネットに「高梁市地域おこし協力隊」の募集記事が掲載されていて、現在の状況はどうなのか知れぬが、暖かみのある文章で、こうある。

 「あなたの「何かしたい」という想いと地域の「何かしてほしい」という気持ちは、ここにしかない地域資源が繋げてくれます。外からの目線と楽しむ気持ちで地域おこしにチャレンジしてみませんか。
 高梁市は、岡山県の中西部に位置し、豊かな自然と多様な歴史的・文化的遺産が息づくまちですが、人口減少や高齢化が進み、年々深刻な問題となっています。そこで、意欲ある地域外からの人材を積極的に受け入れ、新たな視点・発想により高梁市の地域資源を再発見し、地域の元気づくり、集落の維持・活性化を図っていくために、次のとおり「地域おこし協力隊員」を募集します。高梁市での地域おこし活動に意欲・興味のある方、将来高梁市内において起業、就業する思いを持った方などの応募をお待ちしております。」

 この募集で求められるのは「IT人材」のようであり、同市との雇用関係はないものの、月額で20万円が支給され、家賃の補助も付く、年齢はおおむね40歳までとされ、求人数は1名というから、狭き門なのだろう。
 実際の仕事はどうなるのだろう、一般的には、この範疇では、数え上げられられないほどのテーマが考えられるのかもしれない。

 例えば、「仮想空間」と呼ばれるものがあって、市内に無線LANを使える空間・場所がどのくらいかあると、ネット空間上に情報共有のための、開かれた場にアクセスすることができるという。そこでテーマの選択そして進捗の様子、これからの方向性をその都度載せてくれたならば、市民の多くがその情報を得ることにつながるのではないだろうか。

(続く)

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◻️252『岡山の今昔』津山市(産業など)

2021-09-27 06:09:44 | Weblog

252『岡山の今昔』津山市(産業など)

 現在の津山市は、岡山県の北部、津山盆地とその周辺から成り立っている。現在の津山市は、2005年2月28日をもって、旧津山市と勝北町、久米町、加茂町、それに阿波村が合併して誕生した。総人口は約10万人だという。

 地理では、北は鏡野町、鳥取県と接す。東には美作市、南にかけては久米南町(久米郡)、西には真庭市。

 その成り立ちでは、古くから美作地域の中心である。713年(和銅6年)の4月に備前国から離れ、現在の津山市総社に美作国(みまさかのくに)の国府が置かれた。それからかなりの時が経過しての江戸時代には、津山城の城下町となる。そして、1876年(明治9年)4月には、北条県が岡山県に合併吸収された。

 思えば、713年(和銅6年)の4月に備前国からから離れて以来1163年ぶりのことであった。続いての1900年(明治33年)には、津山町と津山東町が合併して、第二次の津山町がスタートした。

 この地域における近代産業の展開ということでは、美作域内での繊維大手としては、津山市二宮を本拠地とする郡是グンゼが、1916年(大正5年)、グンゼ株式会社津山工場として設立し、生糸の生産を開始する。

 同社の場合、それが第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

 さらに時代が変わっての市制施行は、1929年(昭和4年)のことであった。

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 第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)には、産業の復興がなされていく。繊維に、ついていえば、前述の郡是が、合成繊維の普及に圧される形で、生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への衣替えを行う。その中でも。合繊ミシン糸への転換を進める。1972年(昭和47年)以降は、ミシン糸の一環生産工場としてミシン糸に特化した模様。2003年10月にほ、津山グンゼ株式会社として独立し、蓄積した技術、設備を生かし分野を拡大中だと伝わる。

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 それから、現在につながる合併から10年を迎え、市では、かねてからの新生津山キラめきプラン(津山新市建設計画)や津山市第4次総合計画などでを推進してきた、それを今後の津山市の施策へ繋げてゆくため、合併10年間の成果と課題をまとめた「合併10年の総括と今後の展望」を作成したという。

 続いて、美作の若手を育てる企画から、一つ紹介しよう。
 「美作地域に活力を生み出そうと、若手の起業家や農業者、建築士らによる交流組織「みま咲く未来プロジェクト」が6日、発足した。若者たちが連携できる取り組みを通じ、若者らの定着や、より活躍できる地域づくりを目指す。

 地域の将来像を展望した「みま咲く未来シンポジウム」(11月18日・津山市)でコーディネーターやパネリストとして登壇したウェブサイト制作などのレプタイル(同市)の丸尾宜史社長(37)ら6人で構成する企画会議を同市内で開催。交流組織の立ち上げを決め、組織の在り方や活動内容を話し合った。
 名称は、若者らを支援しようと、シンポジウムや本紙作州ワイド版の連載「この地に生きる―作州の若手」を展開した美作県民局と山陽新聞津山支社による「みま咲く未来プロジェクト」と同名にし、代表に丸尾社長を選んだ。
 今後、組織を紹介するホームページを作成。企画会議に学生らより若い世代のメンバーも加え、具体的な取り組みについて検討していくことなどを申し合わせた(2019年12月6日 、山陽新聞デジタル)。
 これにあるのは、新しい頭脳の一つとしての交流部門の誕生なのだろうが、是非、吉備高原都市構想などの、県内の優れた経験にも取材してほしい、みんなの力を合わせることで頑張ってほしい。

   

(続く)

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◻️169『岡山の今昔』高梁市(明治時代~現代)

2021-09-26 21:36:13 | Weblog
169『岡山の今昔』高梁市(明治時代~現代)
 
 ここでは、前提として幾つか、この時代の備中の生活状況から、幾つかの話題を紹介してみよう。
 まずは、徳川吉宗の時代、享保20年(1735)から元文元年(1736)にかけて、江戸幕府の命により、全国規模で動植物や鉱石など領内の産物の徹底調査と報告がなされた。日本初の本格的な生物相の全国調査とされる。
 集められた諸国の産物帳は、本草学者の丹羽正伯(1691~1756)のもとに集められたもの。岡山藩においても、幕府の命に従い、備前国・備中国の領内の動植物を、ことごとくにという意気込みで調査して編纂された「産物帳」を、幕府に差し出す。
 その内容としては、領内の1895種の自然産物名(リスト)を記した本帳と、228点の精密な絵図を収録した絵図帳 から成りたつ。
 現在、岡山大学「備前国備中国之内領内産物帳」は、幕府への提出の控えとして岡山藩が手元に残した写本とされる。
 その内容は、穀類、果実、藻やコケ、鳥獣、虫などを網羅しているという。珍しいところでは、遺伝子解明に使われるショウジョウバエを「猩々はい」と記録したり、絶滅が危ぐされる「トキ」が登場したりする。

(続く)

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◻️257『岡山の今昔』日本原高原と自衛隊駐屯地(その経緯と現状)

2021-09-26 20:42:16 | Weblog
257『岡山の今昔』日本原高原と自衛隊駐屯地(その経緯と現状)

 さて、周知の事柄とは思われるが、黒ぼこりする土で知られる日本原高原には、中・四国最大規模の陸上自衛隊日本原演習場(約1450ヘクタールともいう)がある。これに関連して、奈義町(勝田郡)内には、その管理地域として、火力戦闘を担う特科隊、戦車中隊などが置かれた陸自日本原駐屯地がある。
 
 この沿革については、既に明治40年代、一帯の山野は旧陸軍の演習場となる。とはいえ、大規模ではなく演習場扱いのため、岡山市などに駐屯していた陸軍部隊が岡山県での中心部隊であったろう。
 
 やがて迎えた敗戦により、演習場は連合軍に接収された。1957年に日本に返還され、その後、陸自の演習場となる。戦後の軍隊に、地元では反対の声も強く、抗議活動が激しく展開された。一方で町は陸自を誘致し、1965年に駐屯地ができる。
 演習場の中にある許可耕作地については、里山だった経緯から、田畑の耕作、薪の採取、家畜のエサの草刈りなどは農家の権利として認められていて、今日まで平穏な暮らしを守るため、自衛隊と向き合う運動が続く。
 
 その一例では、1970年(昭和45年)、着弾地付近に演習反対を訴える住民らがいるなかで、陸自は実弾3発を発射した。国会でも問題視され、当時の中曽根康弘防衛庁長官は、「慎重の上にも慎重を期すように今後戒める」と答弁する。
 
 翌1971年(昭和46年)には、実弾射撃訓練の差し止めを求めて内藤さんら地元農民が提訴したが、1987年(昭和60年)に最高裁で敗訴する。また、1976(昭和51年)には、演習場への立ち入りを巡って、農民を含む基地反側と自衛隊とで紛糾する。

 この出来事については、その後、政治的な対立ともなり、1985年(昭和60年)7月に、同時の中曽根首相が坂田衆議院議長に提出した「衆議院議員矢山有作君提出自衛官によって写真撮影を妨害された事件に関する質問に対する答弁書」には、「防衛庁では、各部隊等に対して、駐屯地等の施設等に対する部外者による外部からの写真撮影を禁ずる措置を採るよう指導を行ったことはない」とのこと。また、各部隊等が、外部からの写真撮影を禁ずる旨の掲示を行い、また、「これらの掲示がない場合において写真撮影を差し控えるよう申し出ることがある」。
 
 しかしながら、「いずれも当該駐屯地等の施設等の写真撮影を差し控えるよう期待して行われるものであり、強制的なものとは考えていない。防衛庁としては、各部隊等に対して写真撮影を行わないよう強制することはできない旨適宜指導している」というのが、政府の見解そして態度となっている。
 

 なお、この問題については、20216月に自民、公明、日本維新の会、国民民主各党の賛成で土地規制法が国会において可決、成立しており、自衛隊基地や原子力発電所など安全保障上の重要な施設周辺の土地利用を国が規制し、私権を制限することができるものとなっている。

 

 また、21世紀になっては、こんな出来事も報道されている。

 「陸上自衛隊日本原演習場(岡山県奈義町、津山市)で行われていた日米共同訓練は4日、3日間の日程を終えた。
 13日まで国分台(坂出、高松市)など5カ所の演習場・駐屯地で展開する訓練の一環。中国四国防衛局などによると、日本側と米海兵隊の各約10人と訓練の警備要員を含む計約70人が午前7時ごろから9時半ごろにかけ、自衛隊車両など12台に分乗して饗庭野(あいばの)演習場(滋賀県)に向けて出発した。
 日本原演習場では3日に射撃訓練を実施。奈義町、津山市によると、期間中に住民からの苦情などは寄せられなかったという。
 同演習場での共同訓練は2006、07、10年に続き4回目。15年は台風の影響で中止していた。来年3月には米軍単独訓練が予定されている。」(2019年12月04日 、山陽新聞デジタル)
 ここに展開するのは、「創設は1965年。中部方面隊のうち、中国5県を担当する第13旅団に所属する。火力戦闘を担う特科隊、対空戦闘の高射特科中隊、戦車中隊、後方支援隊などが置かれている。奈義町と津山市にまたがる演習場(約14.5平方キロ)は中四国地方で最大規模(「陸上自衛隊日本原駐屯地」、2015年9月18日付け朝日新聞での説明から引用)。 

 

 もう一つ、今度は米海兵隊がこの演習場を使って訓練をしたという、そのことを地元紙が、こう伝える。

 「陸上自衛隊日本原演習場(岡山県奈義町、津山市)で単独訓練を行っていた米軍岩国基地(山口県岩国市)所属の海兵隊は28日、14日間の日程を終えて撤収した。
 海兵隊の後方支援部隊が15日に到着し、ヘリコプターの離着陸帯(ヘリパッド)敷設や射撃、重機操作訓練などを実施。23日は実際にヘリコプターが飛来して着陸・給油訓練も行った。大きなトラブルはなかった。
 同演習場での単独訓練は2018年10月、20年3月に続いて3回目。」(2021年3月28日付け山陽新聞電子版)


 一方、自衛隊をこの地に受け入れている町当局には、「自衛隊との共存共栄のまち奈義町」という、すなわち基地反対側とは別の立場があるという。こうなるのは、自衛隊があることで交付金などが入り、周辺の水路整備などにも補助が出るばかりか、現在650人ほどの隊員がもたらす経済効果は、人口減が進む町にとって相当大きいという。

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 ちなみに、あと少し述べておくべきだろう。それというのは、およそを振り返ってみれば、憲法の施行から約3年後の1950年(昭和25年)6月には、朝鮮戦争が勃発する。当時の連合国軍最高司令官マッカーサーは吉田茂首相に警察予備隊の創設を指示。保安隊への改組を経て、自衛隊が1954年7月に発足する。
 それからもも、政府は「自衛のための実力は、憲法が保持を禁ずる戦力ではない」との見解を継承することから、さらに自らの憲法解釈を拡大、さらに1992年には国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、安保法を強行成立させたことにより、密接な関係のある他国が武力攻撃を受けた際、政府が日本の存立を脅かす明白な危険がある事態と認定すれば、海外での自衛隊の武力行使が可能となる。
 一方、この国の司法は、高度に政治的な問題は判断しないという「統治行為論」に立脚して現実から目をそむけ、政府のやり方に事実上の免罪符を与え続けていると考えるのだが、いかがであろうか。

 しかして、自衛隊、また安保条約に基づく米軍の日本原での訓練などは、それらは、いうまでもなく武力を持った軍隊にほかならず、その武力のありようによっては、日本国民をも傷つけるものであることを、忘れてはなるまい。



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 このように、憲法第9条の解釈をめぐっては、21世紀に入ってから、いわゆる護憲側が、かなり押し込まれてきているようである、その一例としては、政権側が、自衛隊が違憲だという憲法学者はいまや「2割「という言葉を発したり、先頃国民投票法の改正が通ったり、何かと慌ただしいことがある。

 ちなみに、憲法学者のうち、21世紀に入ってからの、ある概説をひもといてみると、「これまでの政府の考え方としては、自衛戦争肯定説が採用されている。憲法研究者の間では否定説が多い」(臼井雅子(うすいまさこ)「日本国憲法への招待」改訂版、同友会、2012)とされており、政権側と逆の見方であるのは、興味深い。

 それはさておき、自衛戦争否定説の方のうちには、9条1項では侵略戦争戦争のみ放棄していて、しかし、第2項で戦力と交戦権を放棄しているため、結局すべての、戦争を放棄しているのだという見解をも含む。

 ところが、である。今日ある自衛隊の現状を「軍隊である」というのは、どちらの陣営もほぼ変わらない。その訳は、戦後のある時期から、この両方の見解は絶え間なく論争を続けてきた。だが、その間にも、自衛隊はますます大所帯になりゆき、軍備も大規模かつ精鋭なものとなってきている。そうして、いまや世界で名だたる軍事大国となっている。
 併せて、21世紀に入ってからの政権側は、2015年9月には安保関連法(戦争法)を、2017年6月には共謀罪法(2017年6月15日、いわゆる共謀罪の創設を含む改正組織的犯罪処罰法として、第193回通常国会で成立し、同年7月11日に施行)を、国会の数の力で強行した。

 そうなると、かかる憲法解釈論争はますます込み入ったものとなっていかざるを得ない訳であり、事実、国民目線からは辟易しかねないほどのつばぜり合いさえ演じることにもなってきているのではないだろうか。
 
 これには、かねてからの護憲勢力としてあった社会党の凋落もかなり影響していよう。この政党は、村山連立内閣のおり、憲法解釈をがらりと自衛隊合憲へと変えてしまった。その少し前からは、「違憲・合法」など、訳のわからぬ日本語を使うようになっていた。

 とはいえ、過去を色々とひもとくばかりでは、この国の現在そして未来に資する何ものも生まれることはあるまい、そこで何かしら、新たな視点を持ち込んで、この歴史を踏まえた現状認識の隘路(あいろ)からの脱出を、試みるべきだろう。

 そのおりには、やはりこの憲法に立ち返って、こんにちただいまの現状、そして未来がこの条項の改変を要求しているのか、していないのかを比較検討し、国民たるもの、おおいなる関心をもって、あらゆるタブーを恐れずに、語ろうと努力することでなければなるまい。

 なおさら、あえて憲法9条を護ろうというなら、その時しのぎの話ではなくて、この自衛隊をどのようにして縮小なり変革なりしていくのがよいか、深く考えねばならぬ。非武装精神を貫きたいのなら、この国はこの先何をどうしてゆかねばならないかを、先伸ばしにしないことだろう。

 そもそも、社会での人間の営為(えいい)というものは、一方の側からして、それは「間違いだから」といって簡単に覆せるものではあるまい。なおかつ、ほとんど誰もが認めぜるを得ないように、この問題では、国論は大きく二つに別れていて、取り扱いようによっては、どちら側に傾くにせよ、国民の間に深いしこりなり、分裂なりを惹起するものとなりやすい。

 そうであるなら、双方にとって、自らの正しいと考える方向に改めるには数十年、百年、あるいはそれ以上を要することもありえよう。とりわけ、この問題は、自衛隊や、そこで働いている私たちの同胞とその家族の運命にも死活的に関わってくる。それだからして、彼らの仕事や生活がこれからも成り立つように、取り計らわれなければなるまい。
 

(続く)

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◻️183『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(江戸時代、全体図)

2021-09-26 18:43:18 | Weblog
183『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(江戸時代、全体図)

 古代吉備の主流であった時代には、岡山市北区から総社市にかけての吉備路にかけては、政治的、経済的に大きな位置を占めていたことだろう。それに加えて、当時から江戸時代までは交通面で旧山陽道が通っており交通の要衝で、歴史の積み重ねの中で造られた史跡が数多く残っている。
 なお、明治以降、道路や鉄道が南部に移るものの、江戸時代までの日本の風景がそのまま残り、現在につながる。
 吉備路の内、現在の岡山市については、江戸時代に入ってからは一層政治、経済、文化の中心をなすに至る。さらに、日本の古代から東西陸路交通の連絡・要衝としての旧山陽道は、それらの史跡も加わっている事である。
 
 また、広い意味での現在の総社市を中心とする地域では、鎌倉時代以降は、地方政治の町から山陽道や高梁川の水運を生かした、門前町、宿場町的性格に様変わりするととも、豊かな農村地域としても発展する。江戸時代には、岡山藩やその支藩・足守藩など複数の藩領や幕府領など複雑な統治を形づくる。
 さらに、現在の倉敷市街は、幕府天領として山陽の一大物資集散地となるのはもちろん、その郊外の南部平野部は、戦国時代末期以降の干拓により生み出した、そのため塩分を含んだ陸地であり、稲作には適さなかった。そんな中でも、干拓地に適した綿やイグサを栽培、倉敷や周辺地区での繊維織物、花莚産業の発展もあり、江戸時代中に岡山と並ぶ名物都市になる。


(続く)
 

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75に合併『岡山の今昔』久米南条・北条郡村々江戸越訴 (1813)  

2021-09-25 18:04:24 | Weblog

75に合併『岡山の今昔』久米南条・北条郡村々江戸越訴
(1813)  

 1813年(文化10年)には、(略しては、美作において、久米南条・北条郡村々江戸越訴(略しては、「北条17か村江戸越訴」)が勃発する。
 そこで、この地域の支配の前史から起こすと、1603年(慶長8年)から1697年(元禄10年)までは、森藩領であった。その後、松平領、幕府領(天領)支配を経て、1747年(延享4年)から1812年(文化9年)にいたる66年間は、他の作州35か村とともに、関東を本拠地とする小田原藩(大久保氏)領となっていた。
 それが、次の年になると、どういう次第なのだろうか、かかる飛び地が、大坂代官所管下の幕府領に組み入れられる。これをきっかけとして、旧小田原藩となった村々が、同代官所・幕府を相手に起こした嘆願闘争である。
 その願いの主な筋としては、当該の村落においては、かねての慶長の頃から、「大庄屋山崎家そのほか中庄屋たち、これらと特別の関係のある村々庄屋たちは、自分たちだけで一切の支配関係ーとりわけ年貢納入関係を処理して、一般の庄屋ないしは小前百姓ー農民大衆には何ひとつしらせなかった」(大林秀弥「「文化十年久米南条、北条17か村江戸越訴事件」)ことがあるという。

 その実は、この領地替の噂のあった前年に、当該地域の農民たちによる、「一丸となって」の運動が展開されていた。具体的には、代表の4人が江戸に行き、これを思い止まるように、幕府当局や小田原藩に上申したものの、相手側は彼らの願いをはねつける。

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 そこで、当該52か村中17か村落民になっての嘆願参加の村の内訳は、久米北条郡の中では、宮部下村は81名、神代村は72名)、戸脇村は55名)、桑上村は32名、桑下村は60名、福田下村は24名、里公文下村は29名、宮部上村は64名、中北下村は77名、中北上村は80名、油木下村は19名、油木上村は36名となっていて、以上が2000年時点では久米郡久米町内に属する。
 また、同久米北条郡のうち、下打穴中村は67名、下打穴西下村は54名、下打穴西上村は12名、下打穴下村は55名となっていて、以上が2000年時点でいうと久米郡中央町に属する。
 それに、久米南条郡の中では福田村が47名となっていて、こちらは2000年時点でいうと、津山市に属する。

 そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。

 これに対し、既存の村権力をあずかる「17か村大・中庄屋」一派は、猛然と反対するのであったが、村民側も、飛躍的惣代の名前で願書を大坂代官所・幕府当局に提出して、あくまでも要求貫徹をめざす、そのまま双方がにらみあっているうちに(約3か月というところか)、大坂直支配実現の願意は達成されないままに農閑期を過ぎ繁忙期にさしかかってしまう。
 そうしたところへ、迎えた秋の採り入れ後、闘争の第2幕が上がる。それが、江戸への「越訴」(今度は正式なもの)なのであった。この時、江戸へ向けて出発したのほ、多三郎、貞助の二人、急ぎ足で江戸へなんとか到達、月番の勘定奉行に届くように嘆願書を、公事方曲淵甲斐守に欠込(かけこみ)訴訟を決行したという、だが、当該の嘆願書の細かな内容は現代に伝わっていないなど、その周辺の事情についても今日にいたるまで大して判明していないようなのが、今更ながら気に掛かる。

 明けての1814年(文化11年)には、丸3年にわたる、この事件の一応の決着となる。それまで及びその中では、農民たちの大坂直支配の実現と、庄屋との関係の改定との、うち、前者の願いは、倉敷代官所支配への移管扱いとなったことから、前進。また後者の願いについて芳(かんば)しい改善は得られなかったものの、以前のような剥き出しでの村支配はできなくなったものと推察されよう。

 とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。


(続く)

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◻️211『岡山の今昔』ベンガラ、炭など(吹屋の伝統的建造物群保存地区など)

2021-09-25 14:05:17 | Weblog

211『岡山の今昔』ベンガラ、炭など(吹屋の伝統的建造物群保存地区など)


 まずは、著名な旅行家が初めてこの町を目にしての、平安時代から戦後、そして現在に至るまで、まるで絵巻物語を垣間見るかのようで、ここでは、その中からかいつまんで紹介しよう。

 「古くは平安時代から鉱山があったといわれるし、また室町時代からともいわれている。(中略)

 ただし江戸時代は、銅山で数度の繁栄期を経験したことはわかっている。

 それで、現在に残る素晴らしい町並みだが、これはその銅山の繁栄に加え、もう一つ江戸中期に偶然発見されたベンガラの製品化の影響が大きかった。ベンガラは黄銅鉱とともに産出する硫化鉄鉱からつくられるが、ご存じのように、焼き物の赤絵、漆の朱、家屋の塗料、などに用いられる赤い染料である。いや、吹屋の町並みが整ったということなら、このベンガラのほうが影響が大であったのだ。(中略)

 このベンガラと銅による繁栄は、幕末から明治、大正、さらに昭和初期までつづき、またその富は、周辺の山林や田畑の購入に向けられ、家々はさらなる大地主になっていった。(中略)

 しかし、一転、戦後の衰退は激しかった。
 まず、農地解放で地主の収入がなくなった。ベンガラも化学の発達で安い染料が出現した。そのため、かつて倉敷と競ったほどの町は、またたくまに過疎化し、山の中の忘れられた町・・・あの備中高梁の人にさえ忘れられるような無名の町になっていったのである。(中略)
 映画の封切り(横溝正史作品の映画化たる「八つ墓村」・引用者)は1977年(昭和52年)であった。1977年(昭和52年)というのは、吹屋が町並みの修復を始めてから二年目にあたり、くしくも吹屋が重要伝統的建造物保存地区に選定された年でもあったのである。」(馬渕公介「日本全国50か所、小さな江戸を歩く、九州・四国・西国路」小学館、1993)

 

 これにかなり詳しくあるように、吹屋は、重要伝統的建造物群保存地区に認定されている。そこで一番有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったという。


 当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。
 ちなみに、この町には、ベンガラ工場を忠実に再現したしたという、ベンガラ館がある。また、ベンガラの製造、販売で財をなした片山家の屋敷や、ベンガラの原料であるローハ製造て財を築いた広兼邸、「赤の中の赤」を追及してベンガラ製造を発展させた西江邸など、かつてを偲ばせる建物などが残っている。

 

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 さらに、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、火をつけ、材木を炭化してつくる。それからは、小さな穴を開けておく他は、土などで空気穴をほとんどふさぐ。

 そのことで、化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、木や竹を燃やしつつも、空気の少ない、ギリギリの状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。 


 とはいえ、高価で売れる備長炭にするには、かなりの高温を実現するのが必要にして、なおかつ、最後は炎のつくる余熱、いうなれば熱風で摂氏1000度からの温度が必要とのことであり、それらの頃合いは「匂い」とかを頼りに見いだすしかないようだ。


(続く)

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◻️579『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大林秀弥)

2021-09-25 09:58:57 | Weblog
579『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、大林秀弥)
 
 大林秀弥(大林秀彌、おおばやしひでや、1918~2001)は、教育者にして、また社会運動家としても名を馳せている人物だ。
 当時の久米郡大井東村に生まれる。1925年(大正14年)には、同村立の大井尋常小学校に入学する。1931年(昭和6年)に同学を卒業し、津山中学校へと進む。1935年(昭和10年)には、4年間の学びを終え、第六高等学校の文科甲類に入り鋭意学ぶのだが、途中病気のため休学もあったとされる。
 1939年(昭和14年)に同校を卒業して、東京帝国大学の経済学部経済学科に入学する。なぜ、経済を勉強したいと思ったのかは、つまびらかでないようだ。1941年(昭和16年)12月に東大を卒業する頃には、日本は戦争の真っ最中であった。翌年1月には、日本光学工業株式会社に就職する。
 その後、1943年(昭和18年)6月から戦後の1952年(昭和27年)9月間での、長い病気療養生活があり、その間の1945年10月に同社を退職する。1952年9月には、津山の学校法人作陽学園に就職できる。ここで、やっと、太陽の光を浴びて再び働けるようになった訳だ。
 それからは、同学園において、教育に研究に取り組み、そのうちに作陽女子高等学校、作陽短期大学、作陽音楽大学の教員を務(つと)める。同大学を退職した年の1982年(昭和57年)4月には、作陽音楽大学名誉教授になる。
 
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 さて、大林の場合は、そればかりではないところが顕著であって、作陽学園在職中及び退職以後の社会活動として、津山文化財保護委員・委員長などの公的な役職とともに、その範囲は平和運動、国の治安維持法犠牲者への賠償要求支援の取り組み、被差別の問題・解放運動などにもおよぶ。

 その傍ら、もしくは本人の幹の部分でもあるだろうか、ライフワークとしての学習・研究も同時に進めるという話であって、まさに「寸暇を惜しんで」の学問上の成果を、江戸時代の農民一揆の研究から、明治からの庶民生活の分析にいたるまで、多くを実らせている。

 そんな中でも、「明治10年代美作地方の消費生活」「維新期の農業経営について」「維新期における雇用労働力」「地主制の一側面」「維新期農村工業の存在形態」なる論文は、経済学の立場からは大変重要な研究であり、これまでの日本史の空白部分を埋める一助にもなっている、ここでは、その中でも異色の「明治10年代美作地方の消費生活」の「結び」の一節を紹介しよう。

 「上来わたくしは、一地主の家計支出の分析によって、本稿の主題、明治10年代初頭の、岡山県美作地方に、おける消費生活の実態を具体的に明らかにすることに努めた。
 もちろん、本稿に、おいて分析の対象とした家計は、地主のそれであり、しかも第四表に明らかな通り、金融や窯業マニュファクチャー(工場制手工業・引用者)の別途収入を持つ、強い経済的立場に立っている。したがって本稿の事例によって、当時の農村の農民各階層の消費生活を推定することはできないのは当然としても、本稿の事例が、当時、当地方農村社会消費生活の上限であるとは、言いうるであろう。」(大原秀弥「明治10年代美作地方の消費生活」、この論文の最初の出は、作陽学園学術研究会「研究紀要」第6巻第1号、1973)、追っては、大林秀彌「わが学習と実践の記録」、2000に収録されている。


(続く)

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