♦️302『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア統一

2018-05-01 11:13:57 | Weblog

302『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア統一

 1859年4月、オーストリアがサルディニアを攻撃する。フランスは、直ちにオーストリアに宣戦布告する。フランス・サルディニア同盟軍はロンバルディアの大半を占領する。けれども、イタリアに統一国家が出現することに、フランスのナポレオン3世は警戒を覚える。そこでサルディニアに無断で、オーストリアと休戦条約を結ぶ。
 その内容だが、ロンバルティアのみをサルディニアに譲る。ヴェネツィアを引き続きオーストリアの領有と認める。トスカナ、モデナに対しては、それらの希望するサルディニアへの合併を認めなかった。また、ローマ教皇にイタリア連邦の盟主になってもらうことなどを入れ込み、サルディニア王に事後承諾を迫る。
 これを受けたサルディニアでは、統一運動が挫折を余儀なくされ、、サルディニア王エマヌエーレ2世の下で宰相をしていたカヴールは辞任する。これ以後、イタリア統一運動は厳しい状況の下でも、続いていく。
 南イタリアでは、ガリバルディらの統一運動が展開されていく。1860年4月にシシリー島の反乱に乗じて上陸、5月には同島を制圧する。さらに南イタリアに渡って、九月にはナポリを占領の上、教皇領に向かって北上を開始する。
 このとき、サルディニアの宰相に復帰していたカヴールは、ガリバルディ軍のローマ攻略が成功した場合は、中・南部イタリアに独立の共和国が成立する可能性があるのを認め、慌てる。そこで列強の領海を得てサルディニア軍を侵入させ、さらに南イタリアに軍を進軍させる。ガリバルディ軍と出会ったところで話し合いがもたれ、ガリバルディ側が譲歩し、占領地のすべてをサルディニア王に献上することとなる。11月には、ガリバルディはサルディニア王都ともにナポリに入城を果たす。 
 1861年2月、イタリアにおいてローマとヴェネト州を除く全ての代表がトリノで議会を開催する。翌3月には、サルディニア王エマヌエーレ2世にイタリア王の称号を授ける。とはいえ、ローマとヴェネツィアとはいまだ統合されておらず、民族的統一ということにはなっていない。
 1866年にプロイセンとオーストリアとの間で戦端が開かれるや、イタリアはプロイセンに味方しオーストリアと戦う。戦いそのものには敗れたものの、プロイセンが勝利を握ったことで、イタリアはヴェネツィアを獲得する。
 そして迎えた1870年、プロイセンとフランスの普仏戦争の際には、もっと大きな収穫があった。フランス守備隊のローマからの撤退を好機ととらえる。軍隊を教皇領に侵入させる。その後ローマを占領した後、人民投票によりローマのイタリア王国への併合を実現する。そして迎えた1871年7月、ローマはイタリア王国の首都になる。
 それでも、トレンティノ、トリエステ、ダルマツィア、サヴォイ、ニースなどの諸都市は、この統一劇の埒外にあった。また、ローマ教皇は「ヴァティカンの囚人」と称してイタリアと相対するのであった。

(続く)

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