♦️968『自然と人間の歴史・世界篇』タイの反政府運動(~2021)

2021-05-31 22:02:36 | Weblog
968『自然と人間の歴史・世界篇』タイの反政府運動(~2021)

 タイでは、2014年5月に軍事クーデターが起き、軍が実権をにぎった。
 2019年7月には、民政への移管の流れに移ったものの、首相には軍政トップだったプラユット氏が就いた。

 それを可能にしたのは軍政下の2017年3月に制定された新憲法なのだが、軍寄りの政党に有利な選挙制度や議会の仕組みが盛り込まれた。
 名ばかりの民政の内実は、2020年2月にもあらわになった。軍政に反対する野党第二党の新未来党が、憲法裁判所のめ命令で解党させられたのだ。
 
 そして迎えた2020年からの集会、デモは、政権の退陣や議会の解散・総選挙とともに、憲法の改正、それに王室への過度の優遇を改めることも打ち出している。

 ちなみに、2020年8月10日に、市民側が政府に要求したのは、①憲法第6条が禁じる国王への訴訟権の容認、②刑法112条の不敬罪廃止、③2018年王室財産法において、公共財的な色彩のある王室財産が国王の私有財産へと変更された、この措置の廃止、④王室予算配分を経済情勢に適した規模に削減、⑤国王に使える官僚制の職務明確化,国王直属軍や枢密院の廃止、⑥王室への献金の廃止、⑦国王の政治への意見表明権を廃止すること、⑧教育制度における一方的で過度の王制抑揚・神格化広報の廃止、⑨王制批判関係事件の死者や行方不明者の調査、⑩クーデターを国王が承認することの禁止の10項目となっている。

 例えば、2020年10月14日の市民デモは、普段はドイツにいることの多い国王が、王室関連行事でタイに戻っていることを意識して実施されたという。王室支持派も、これに合わせる形で大勢を動員して対抗して、これまた街頭へ出て、デモ隊とにらみ合う。

 そもそも、タイでは農村と都市部が対立する構図の政争が長く続いていたが、今回はやや様相が違う。中高生を含むネット世代の若者らが運動を引っぱっている。
 そんな中でも、目新しいとされるのは、タブーとされてきた王室批判にも踏み込んでいる。コロナ禍での経済悪化への不満に加え、4年前に即位したワチラロンコン国王が1年のほとんどを国外で過ごしていて、国民とかけ離れた生活をしていることが、特に若者に反感、批判を呼んでいる、
 かたや、不敬罪の廃止や財産管理の透明化などを求めるデモに対し、王室と近い市民、軍との間で、見解の相違が大きいみであることご、問題の解決なり緩和なりを困難にしている。

 そういうことだから、一度流血の事態になれば、タイの国際的信用は失墜し、政情は長期にわたり不安定化することになっていくのではないかと。

(続く)


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○74『自然と人間の歴史・日本篇』奈良時代の疫病の流行(8世紀)

2021-05-30 21:26:34 | Weblog
74『自然と人間の歴史・日本篇』奈良時代の疫病の流行(8世紀)


奈良時代(710~791)に大陸から持ち込まれたと考えられている疱瘡(ほうそう、痘瘡、天然痘)は、種痘が行き渡る明治時代中頃まで、千数百年にわたって日本人を苦しめた伝染病だ。記録によれば、奈良時代には慢性的に流行し、身分の高低、貧富の差というよりは、もっと泥縄式のあんばいにて、人々を襲い続けた。かかると、ほとんどが死を身近に感じたのではないたろうか。運良く死を免れても、高熱によって失明したり、深刻な後遺症が生じたりして、疱瘡が個人の人生に与えた影響の大きさはどれほどのものだったのか、計り知れない。
 これを裏付ける史料としては、「続日本紀」に、こうある。

・「 (735年)8月12日、勅して曰はく、如聞らく、比日、大宰府に疫に死ぬる者多し、ときく。疫気を救ひ療して、以って民の命を済はむと思欲ふ、とのたまふ・・(巻十二、天平七年八月)。


・ (735年)11月21日、是の歳、年頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、天然痘(俗曰裳瘡)を患む。夭くして死ぬる者多し(巻十二、天平七年十一月)。


・ (737年)4月17日、参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)4月19日、大宰の管内の諸国、疫瘡時行りて百姓多く死ぬ。詔して幣を部内の諸社に奉りて祈み祷らしめたまふ。また、貧疫の家を賑恤し、并せて湯薬を給ひて療さしむ(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)5月1日、日有蝕之。僧六百人を請ひて、宮中に大般若経を読ましむ(巻十二、天平九年五月)。

・ (737年)6月1日、廃朝す。百官の官人、疫に患へるを以ってなり(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)6月10日、散位従四位下大宅朝臣大国卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月11日、大宰大貳従四位下小野朝臣老卒(巻十二、天平九年六月)。


 ・「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」 

・ (737年)6月18日、散位正四位下長田王卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月23日、中納言正三位多治比真人県守薨。左大臣正二位嶋之子也(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)7月5日、賑給大倭。伊豆。若狹三国飢疫百姓。散位従四位下大野王卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月10日、賑給伊賀。駿河。長門三国疫飢之民(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月13日、参議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月17日、散位従四位下百済王郎虞卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月25日、勅遣左大弁従三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人。就右大臣第。授正一位拝左大臣。即日薨。遣従四位下中臣朝臣名代等監護喪事。所須官給。武智麻呂贈太政大臣不比等之第一子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)8月1日、中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐為卒(巻十二、天平九年八月)。

・ (737年)8月5日、参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也(巻十二、天平九年八月)。


・ (737年)12月27日、是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、勝げて計ふべからず。近き代より以来、これ有らず(巻十二、天平九年十二月)。」

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 これら一連の記述(735~737)の解釈としては、まずは、聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(701-756)においては、この伝染病は、「豌豆瘡(「わんずかさ」)と呼ばれていたという。
 そのきっかけは、735年(天平7年)「この年、凶作、豌豆瘡が流行し、死者多数、遣唐使の多治多比広成が帰国し、節刀(天皇から下賜された大刀)を返上する」とあることから、発症地は大宰府管内(対外窓口)と見ていた。そうであるなら、いわば当時の外界との接点・関わりというか、遣唐使船、新羅船の渡来と符合することから唐か新羅伝来の可能性が高くなろう。
 その広がり方は、九州から西日本へ、さらに畿内にかけて天然大流行になっていく。日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスが、正倉院の宝物に含まれる「正倉院文書」に残されている古代律令制下の「正税帳」すなわち出納帳を利用し、算出した推計(1985)による天然痘死亡者は、総人口の25~35%に達していたという。そうなると、100万~150万人がかかる感染症で死亡したという。
 あわせて、当時の平城京において政権を担当していた藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子(藤原4兄弟)が相次いで罹患し、死亡したとされる。

 ここにいう藤原四兄弟とは、藤原不比等の子である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)。聖武天皇の后(きさき)となった光明皇后の兄たちをいい、737(天平9年)に彼らは、次々に亡くなった。その後は、房前の子孫の北家が藤原氏の嫡流となっていく。

 なお、736年の記述にないのはわからない、ひょっとしたら、余りの政権の中核にいた有力者が亡くなり、朝廷政治は大混乱した。この大流行は738年(天平10年)にほぼ終息したのではないかと考えられているものの、当時の日本の政治・経済両面、宗教面に甚大な影響を与えたであろうことは、想像に難くない。

(続く)


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♦️967『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナ禍下での各国の給付行政(2020~2021)

2021-05-28 19:12:25 | Weblog
967『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナ禍下での各国の給付行政(2020~2021)

 1.国民の圧倒的多数が生活困難に見舞われている時(これら二つの状況を満たしている時)に、大方の生活を下支えする方法として、給付行政により給付金を支給するなりすることが、今回のコロナ禍では、各国で行われている。
 その際は、かかる行政によって国民生活に横たわる所得格差を少しでも是正する観点から、一律給付ではなく、所得や規模などに応じて給付に差を設けることが行われている。
 また、諸般の事情から、一律給付を選択している国・地域も見受けられる。
 どちらが望ましいかは、一概には言えないようである。
2.一般的には、給付行政には、一定の金額を国民に支給する場合・方法と、下支えしたい(守りたい)と考える要素を無償で給付・提供する場合・方法とがありうる。
 どちらによるのがよいか、また、その具体的な給付の在り方については、その国と地域、その時の状況(かねてからのものを含む)を見定めて、かつ評価して(国民経済における意味合いを比較考量、特に他の関係する政策との間の調整が必要)、決めているようである。

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 次に、このような場での給付のやり方についての事例を紹介しておこう。インドでは、2009年以来、インド版マイナンバー「Aadhaar(アドハー、アードハールまたはアダール)を段階的に導入。2021年には、13億人超の人口の9割を超える12.5億人が登録をしているとのこと。付番についての法的な義務がないにも関わらず、国民の圧倒的多数が登録している。 その内容としては、生体認証機能が付いている。具体的には、
国民1人1人に固有の12ケタの番号(ID)を割り振る。その上で、それぞれを番号と個人とを顔面認証、(10本の指の)指紋認証、(2つの目の)虹彩認証の3つの生体認証システムを用いて紐づけているとのこと。
 この機能により、ネット上での本人確認が可能・容易となり、今般実施された新型コロナ関連の給付では、Aadhaarに登録した個人あてに、キャッシュレス、ペーパーレスでほぼ間違いのない形で無事割り当てられたようだ。

(続く)

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♦️279の12『自然と人間の歴史・世界篇』幾何学の発展(19世紀中頃、ガウスからリーマンへ)

2021-05-26 21:51:26 | Weblog
279の12『自然と人間の歴史・世界篇』幾何学の発展(19世紀中頃、ガウスからリーマンへ)

 ドイツの数学者カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)はは、曲線と曲面の研究に徴分積分学を応用した。曲面の性質のうちで、曲面の長さを変えない変形で不変な性質の研究を行う。

 ガウスの弟子ベルンハルト・リーマン(1826~1866)は、ドイツの数学者だ。
解析学、幾何学、数論などを研究する。有名どころでは、曲面上の幾何学、つまり二次元の曲った空間の幾何学を拡張して、一般の次元の曲った空間の幾何学の研究を行う。

 1850年頃に確立されたと言われるリーマン幾何学( Riemannian geometry)とは、リーマン計量や擬リーマン計量と呼ばれる距離の概念を一般化した構造を持つ図形を研究する分野である。かかる図形を、リーマン多様体、擬リーマン多様体という。
 
 ドイツの理論物理学者アインシュタインは、このリーマン幾何学を利用して、一般相対性理論の説明を行う。
 具体的には、楕円・放物・双曲の各幾何学は、この幾何学では、曲率がそれぞれ正、0、負の一定値をとる空間(それぞれ球面、ユークリッド空間、双曲空間)上で説明される。

 アインシュタインは、重力、即ち、一様ではなく湾曲した時空を記述するのに擬リーマン多様体の枠組みが有効であることを見いだし、次のようにいう。

 「一般相対性理論が狙いとした第一のものは、それ自身のなかで一つの閉じたものになるという要求を断念することによって、できるだけ簡単なやり方で「直接観測される事実」と結びつく可能性のありそうな一つの暫定的な考え方なのであります。ニュートンの重力理論は、それ自体を純粋に重力に関する力学に限定することによって、そのようなものの一つの手本を与えるものでした。この暫定的な考え方を次のように特徴づけることができます。
 (1)質点および質量という概念は残しておくことにします。それにたいして一つの運動方程式が与えられますが、それは慣性の法則を一般相対性理論のことばに翻訳したものにほかなりません。この法則は一組の全微分方程式の形をとり、それは測地線(最短曲線)を定義することになります。
 (2)ニュートンの重力による相互作用の法則の代わりになるものとして、g(○○)というテンソル量にたいして設定できるもっとも簡単な、一般共変性をみたす微分方程式の組を求めることになります。それは一回縮約されたリーマンの曲率テンソルを0とおくことによってつくられます。」(アインシュタイン「物理学と実在」、湯川秀樹・井上健編集「現代の科学Ⅱ」中央公論社、1970、「世界の名著66」に所収))

 リーマン幾何学はその他、変形の理論、電気工学などにも応用が広くなっているとのこと。ちなみに、彼の教授までを務めていたゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンは、あとになって物理学かどに大きな貢献をする数学を育んだ歴史を持っている。それは、ドイツのニーダーザクセン州ゲッティンゲンに位置する大学であり、1737年、当時のハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト(英国王としてはジョージ2世)によって1737年に設立されたことから、この名前がある。



(続く)

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♦️223の4『自然と人間の歴史・世界篇』数学難題への挑戦(ベルヌーイ、オイラー、フーリエなど)

2021-05-25 21:53:39 | Weblog
223の4『自然と人間の歴史・世界篇』数学難題への挑戦(ベルヌーイ、オイラー、フーリエなど)


 レオンハルト・オイラー(1707~1783)は、スイス生まれの天才数学者、物理学者、天文学者だ。

 その計算に長けた頭脳は、幼少期には、本人も気がついていたようだ。そのことを紹介するものとして、今から約300年前に大問題になった分数のたし算があって、スイスの一地域の名前をとって「バーゼルの問題」と呼ばれる。


 ちなみに、前者の問題というのは、自然数の逆数の和を求めるのであって、正解は「無限大」だという。スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイが「推論術」の中で取取り上げていることから、「ベルヌーイの公式」としているものの、日本の和算家、関孝和(せきたかかず、1642~1708)もこの理屈をほぼ同時期に発見していたという。

 一方、後者の問題は自然数の平方の逆数の和を求めるのであって、こちらでのオイラーは、sin x のマクローリン展開を利用して解く方法を編み出した。まずは sin x を展開して、その両辺を x で割ると、左辺はちょうど x = ±nπ(n は正の整数)のとき 0 であるから、右辺を形式的に因数分解できるという。そのことをとっかりに、オイラーは、πの2乗を6で除したものがこの無限級数の解であることを突き止める。

 その時(1735年、28歳)にいわく、「いますべての期待に反して、私はバーゼルの問題の値についてエレガントな表示を求めることかできた。それは円周に依存している。(中略)私は、この級数の和を6倍したものが直径1の円の平方に等しいことを発見した」とある。
 なお、この問題の解を日本の和算家、関孝和の弟子の建部賢弘(1664~1739)も発見しているというのであって、しかもその年は1722年というから、驚きだ(桜井進「夢中になる!江戸の数学」集英社文庫、2012)。
 それからも、特に数学での功績が大きく、1748年に「無限解析入門」を発表してからは、前人未到の場所、空間に人々を導いていく。
 いわゆる虚数単位を用いての(複素数の世界を切り開いたり、「ケーニヒスベルクの橋の問題」を解決したり、「フェルマーの最終定理」の突破口を開くなど、それら以外にも、多面体の定理、現代のコンピュータでよく使われるアルゴリズム的な計算方法もオイラーが考え出したものだという。

 そんな中でのオイラーの公式とは、1740年頃に本人により証明された等式であり、次に示される。

eの(ix)乗=cosx+isinx

 これの左辺は、ネイピア数 (自然対数を底とする複素指数関数)で、iは虚数、右辺の cos、sin は三角関数(正弦、余弦)を表す。

 いわく、「対数関数と指数関数を考えてきたあとでは、sin(サイン)、cos(コサイン)を伴っている円孤(えんこ)のことに考察を移す時となった。これは単に超越量のいっそう一般の部類に属しているからというだけでなくて、これらは複素数を用いるときは、対数関数や指数関数から生じている量となるからである。これは以下で述べることで明らかとなるだろう。」(オイラー「無限解析入門」)


 変わったところでは、フリードリヒ2世のベルリン・アカデミーに籍をおいて精力的に活動していた時の話であろうか、1735年頃、過労のあまり右目を失明したというのだが、それでも悲観することなく数学の研究をやめなかった、とあるのは、凄すぎる話だ。
 
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 ジョゼフ・フーリエ(1768~1830)は、フランスの数学者、物理学者だ。
 初め地方の陸軍学校に入学する。 1794年に創設されたエコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) の第1期生となり、翌年には同校の教師となる。
 1795年にエコール・ポリテクニクが開設されたので、講師陣に加わる。 1798年にナポレオンのエジプト遠征に従う。任務としては、司政官を務め、工学上の助言を行う。
  1801年には、フランスに帰り、イゼールの知事に任命される、これを1814年まで務める傍ら、研究を続ける。 1815年には、セーヌの統計局長に任命される。
 主な業績とされるのは、熱伝導率の研究であって、1807年から 22年にかけての研究で、主著の「熱の解析的理論」において、次のような前提の下、固体中の熱伝導が無限級数 (現在のフーリエ級数 ) で表わされることを示す。

 「熱の性質については、不確かな仮説しかおくことができないが、その結果が取り出されるような数学法則の教えることは、すべての仮説から独立している。それらは一般の現象から共通に見出され、そして正確な実験によって確かめられる基本的事実の注意深い検証だけを必要としている。したがってまず最初に、観察の一般的帰結を明示し、計算すべき正確な定義を与えて、計算の基礎とすべき原理を打ち出すことが肝要である。」(フーリエ「熱の解析的理論」)

 もっとも、志賀浩二氏の「無限のなかの数学」(岩波新書、1995)において引用されている砂川重信氏の「熱・統計力学の考え方」(岩波書店)によると、「フーリエの準拠した熱理論は古典的なカロリック説」とのことであり、これだと熱は異なる物体の間を移動する元素のような存在だということになり、熱現象はエネルギーの移動だと規定する現代(1850~)とは異なるのだという。


 1809年には、男爵となる、科学アカデミー会員 、アカデミー・フランセーズ会員 、医学アカデミー会員などをこなす。


(続く)

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新□125の3『岡山の今昔』牧畜と酪農(歴史)

2021-05-24 21:33:00 | Weblog
125の3『岡山の今昔』牧畜と酪農(歴史)

 岡山における牧畜については、畜産物の生産と消費のおおよその流れから始めよう。

 牛については、古代からの畜産に加え、明治時代に入っては千屋牛(ちやうし)が、全国に名前を馳せる取り組みとして登場してくる。
 中でも、竹の谷蔓はわが国で最初の蔓牛にして、当時の阿哲郡の家畜商によって市場化されたもの。農耕などへの役牛の産地として、県北部が脚光を浴び、1935年(昭和10年)頃、県下の飼育頭数は約9万頭であったのご、戦後になっての1950年代初めには約11万頭に達したという。

 それ以外にも、戦後に入っては乳牛を導入しての酪農という事業が発展していく。こちらは、蒜山高原などにおいて、海外から新種の牛が入れられ、飼育と牛乳生産が伸びていく。ちなみに、蒜線での酪農のなれそめと発展については、次のような流れであるという。

 「蒜山の酪農は、昭和29年(1954年)酪農振興法による情況下のもとジャージー牛がニュージーランドから135頭輸入されたとことから始まったらしい。そして昭和31年(1959年)1月、蒜山酪農農業協同組合が設立され、ホクラク農協へ加入したそうである。
 始まって間もない頃は、酪農に対する評価は低いものだったらしく、ホクラク三十年史によると、「蒜山地区では、その頃まだ和牛の勢力が強く、ジャージー牛に対する反目もあって、一面、北酪(現在のホクラク農業協同組合)の再建時代であり、北酪の信用も低く、破産する流言も立てられた。」とある。
 しかしながら、その後、蒜山の酪農業は次第にさかんになり、昭和36年(1961年)には、県立酪農大学校が設立、昭和43年(1968年)には、第1回全日本ジャージー共進会の開催、昭和44年(1969年)には、蒜山クーラーステーションの落成などがあり、現在に至っている。
 乳牛の数も、やや波があるもののおよそにおいて昭和60年(1985年)まで伸びて、昭和63年(1988年)でも2500頭以上を保持している。しかしながら、酪農家数は、昭和40年(1965年)頃をピークに急激に減少し、現在では100軒を割っている。これは、1軒の酪農家の飼育する乳牛の数が多くなり、大型酪農家がふえたことを意味するであろうが、反対に、中規模、小規模の酪農家がやめざるを得ない現実もうらづけられよう。」(山本杉生「蒜山の酪農業ーわが家での酪農体験をもとにして」、岡山県歴史教育者協議会編「岡山の歴史地理教育」第22号、1991) 


 ところが、1970年代になると、役牛は、耕運機など農業の機械化に伴い、その役割を失っていく。山間部では、牛飼いよりは、県南へ出稼ぎに出るなどが、増える。1975年(昭和50年)でいうと、役牛の飼育頭数は約4万頭で最盛期の2分の1以下、飼育の戸数は約1万5000戸で、かつての約7分の1になってしまう。


 ちなみに、この時点での牛の飼育の関係では、例えば、こんな評価がなされている。

 「かつて農家の役牛として、また副業収入源として重要な役割をになった和牛は、今は肉牛として専業的に飼われるようになりました。その結果、酪農の場合と同様に、飼料基盤が弱く、高いエサ(配合飼料)に依存し、相場に左右される不安定な多頭飼育と、他方で土地を荒らしづくりする兼業農家というように山村の農業も変わってきてしまいました。
 最近では牛肉の高値がつづき、牛肉は庶民の口になかなか入らなくなりましたが、輸入牛肉を操作して大もうけをする商社や、エサ会社がふとるだけで、生産者の手どりはきわめて少ないのが実情です。」(則武真一編「明日の岡山への提言」明日の岡山への提言刊行委員会、1976)



 そこでそれぞれの生産から拾うと、まず肉の方は、1985年(昭和60年)に6334トンであったのだが、1990年には5635トンにやや減る。それに対し、牛乳生産は18.9万トンから19.2万トンに微増であった。



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 県下では、また戦後になってからというもの、養鶏や養豚も盛んに行われていく。
 養鶏についていうと、とっかかりとしては1955年(昭和30年)頃であって、飼育頭羽は100万羽程度であったのが、ほとんどは農家の副業、それも零細経営であって、経営は安定しなかった。
 そこで1960年代になると、飼育戸数の急激な減少と、一戸当たり飼育頭羽の上昇、つまり多頭羽飼育が普及していく。かくて、1975年(昭和50年)の県下の飼育の羽数は、約402万羽に達していた。

 とはいえ、1980年代になると、こちらの肉としての生産は、1985年(昭和60年)の4万633万トンであったものが1990年には4万2638トンになる。また、鶏卵の生産でみると、前の時期が8万954トンであったものが、後には8万8772トンとほぼ横ばいになる。


 それでは、豚については、どうか。こちらは、肉が栄養価が高いことで知られるものの、県下の生産はなかなか立ち上がりが遅れていた。
 途中を省略して、1990年(昭和60年)の実績をいうとしよう。具体的には、その前年の2925トンから2999トンへと微増したという(以上は、総務省統計局「家計調査年報」、「中国農林水産統計年報」、岡山県「統計で見る岡山のすがた」1992年版)。


 そんな岡山における牧畜のあらましの展開なのだが、それからの足取りはかなりの急角度にて技術革新が進んでいく。中でも目を見張るのが、酪農を取り巻く大いなる変化なのであろう。

 加えるに、まだ極一部ながら、牛の放し飼い、餌の工夫や糞尿の堆肥化、牛舎の環境改善、搾乳のロボット化、さらには搾乳したのをそのままに出荷するばかりでなく、バターやチーズ、アイスクリームなどにして売ることも行うようになってきている。
 
 そういえば、養鶏についても、一羽ずつを連続したゲージに閉じ込め、餌と蛎殻を与え、夜においても白照明を付けたりして、休むことなく、「卵をたくさん産め」と仕向けた。その反省があり、また土間での養鶏、そして卵一つひとつの質を高めようとする動きが出てきた。

(続く)

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○553『自然と人間の歴史・日本篇』介護保険(2021、その現状)

2021-05-24 09:39:03 | Weblog
553『自然と人間の歴史・日本篇』介護保険(2021、その現状)

 例えるならば、日本において介護保険制度が導入された時(1997年12月に国会で可決成立し、2000年から施行)の平均寿命は、男性が78歳、女性が85歳であった(ちなみに、2021年現在は男性が81歳、女性は87歳)。
 その際には、少数意見として、「子が親、親が子を、さらに親族なりが介護を必要とする人を世話するのは「当然だ」、ないしは「仕方ない」「やむを得ない」などの声も聞かれたという。さすがに、ここに取り上げているような介護の社会化に対して、「この国の淳風美俗(じゅんぷうびぞく)の古き善き伝統を改めようとするもの」などとまでには、ほとんどならなかったようである。
 世界では、キューバなど医療や介護を無料としている国もあるようだが、そこまで行かなくとも、社会保障制度というのは、その国の体制如何とは別に、今や「社会的弱者のためのものではなく、すべての国民のためのものであり、私たちの制度である」(江利川毅「社会保障なかりせば」、埼玉新聞2021年5月10日付け「月曜放談」より)という。
 そういうことの中には、「自分の一生涯にかかる経費は自分で賄わないと他の人々にツケを回すことになってしまう」(同)という認識にも、一理あるもの(社会保障をさらに前へと進める上での過渡期のあり方)として、すべからく、大いに耳を傾けるべきなのではないだろうか。


(続く)

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新◻️160『岡山の歴史と岡山人』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 

2021-05-22 21:56:17 | Weblog
160『岡山の歴史と岡山人』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 
 
 この一揆において、堀内三郎右衛門(ほりういさぶろううえもん、?~1699)が行った口上には、当時の藩からの厳しい取り立てが、農民たちのくらしを根底から破壊するものであることが、大庄屋を務める立場から、次のような簡潔な表現でなされている。

 「下方(しもかた)申すも尤(もっと)もに存じ候、御免相(ごめんあい)御領なみと仰せられ候に、子(ね)の才(とし)より大分上がり、御検見と申候へば、先代は三人御出成られ候に、五人迄御出成られ、人足馬等百姓ついへに成申す、口米(くちまい)と申候ては三升御取、口銀(くちぎん)と申事成られ候、此方共に申す候ては承引仕(しょういんつかまつら)ず罷出(まかりいで)候。」

 これによると、下方の百姓が申していることは尤もなことです。年貢は幕府領並みということでしたが、子歳から大分高くなって来た、としている。
 しかも、作柄の検見では、森藩時代は三人の役人が出張していたのに対して、当藩では五人に増加され、その人足・馬等の費用の増加のため、百姓はへとへとに疲れる程になっているのです。
  
 そもそも口米(くちまい)ということでいうと、三升御取が幕府のいわれる年貢でありまして、それを口銀(くちぎん)と申されることにては、承服できかねる次第なのです。」

 ちなみに、ここに口永(くちえい)とあるのは、年貢の外での付加税のことをいう。年貢を米で納めた場合には口米が課されたのに対して、年貢を金銭で納めた場合に課すもの。口銭(くちせん)とも呼ばれるものの、こ銭で納める場合に限定され、この場合は銀で納めた場合には口銀(くちぎん)と呼ばれる。

 これに対して、藩側は、百姓が飢えるようなことがあれば、そこで初めて「願」にあるとおり、幕領並みの年貢率にするというものにて、表向きは譲歩をし、農民たちの団結を切り崩そうと策略を巡らす。

 つまるところ、このような話の成り行きでは、農民たちは実力をもって立ち上がるほかなく、立ち上がった、そして、あえなくというか、藩側の圧倒的な騙しと武力の前に鎮圧されてしまう。

 つまるところ、かくも果敢に闘われた元禄一揆(高倉騒動ともいう)の結末としては、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで農民に味方した彼、大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。
 そして迎えた翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、三郎右衛門ら8人(高倉村の大庄屋(おおじょうや)の堀内三郎右衛門、弟の中庄屋の堀内四郎兵衛(ほりうちしろべえ)、弟の堀内佐衛門(ほりうちさえもん)、高野本郷村の庄屋の松岡作衛門、神戸村の甚左衛門、吉原村の久兵衛(きゅうべえ)、薪森原村(たきぎもりはらむら)の孫十郎、そして三郎右衛門にして少年の堀内平右衛門(ほりうちへいえもん))は死刑に処せられ、事件は終息したのである。

 そんな中でも、高倉村大庄屋にして働く者の側に立った三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる、これと言えるほどの人物はいなかったものとみえる。

 その後については、しだいに「苔むして」といおうか、表面からの民衆運動はみられなくなる。しかしなお、額に汗して働く人々により、怯むことなくその勇気が語り継がれていく。

 なお、高倉神社(下高倉)本殿の脇には、かかる堀内三郎右衛門の妻の傳が、残った二子の無事成長を祈願した一対の石灯籠が立っているとのことだ。

(続く)

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新♦️320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)

2021-05-22 09:23:16 | Weblog
320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(原典解説から)
 
 この項では、資本主義後の人類社会の在り方について、参考になりそうな文面なりを、幾つか拾ってみたい。

 はじめに、社会主義(ソーシャリズム)というのと、共産主義(コミュニズム)というのとでは、かなりの違いがあるという。

 前者では、「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」というのであって、資本主義でのような資本家による労働の搾取はなくなっているのが、前提だとされる。

 それでも、各人の労働能力には差がみられるのであって、その大小なりは、さしあたり市場で評価されたものなのだろう。とはいえ、その揺らぎなり、偏りは絶えず起こっていると考えられよう。したがって、その分を何らかの方法で補うことがなされるべきだと考える。

 それから、後者の共産主義(コミュニズム)というのは、「コミュニティ」とか「コミュニケーション」などの系列に属する言葉なので、言葉そのものの印象の差はさほどではないだろう。
 しかして、こちらになると、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(注)になるという。

 それというのも、資本主義社会では、私有財産制度をとっていて、各人はその能力に応じて働き、各々の資本の評価によって受け取る建前となっているからである。

 蛇足ながら、前者の「社会主義」にあててであろうか、「天は自ら助くる者を助く」というのは、中村正直が「西国立志編」(1871)でそう訳してから、日本にも定着したらしい。
 かくて、こういう言い回しの元は、ラテン語以来の古いことわざ(「fortes fortuna adjuvat」)なのだともいう。
 それが後代へと語り継がれていくうちに、格言にまで昇華したものか、はたまた世の中に流されていくうちに、今日見るような意味合いになったものだろうか。
 やがての17世紀、イングランドの政治家アルジャーノン・シドニーの著作「Discourses Concerning Government」の中に「God helps those who help themselves」という一文があるとのこと(「google books」で閲覧できるとのこと)。
 やや遅れての有名どころでは、18世紀のアメリカの技術者であり政治家、その他様々な才能で知られるベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」において、「God helps them that help themselves」なる思いを、誰に伝えたかったのだろうか。
 それでは、その意味としては、どうなのだろうか。これには諸説あるも、人に頼らず自分の力で生きていきなさい、というのが馴染みの解釈ではないだろうか。これだと、人生どうなるかはあなた自身の責任だ、ともなりかねない。

 もう一つ、共産主義思想とは直接的な関係はないものの、「聖書」には、キリスト教ならではの、こんな下りが見られる。

 「2(使徒行伝):43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 2:44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 2:45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 2:46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 2:47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(インターネット配信の「聖書」日本語訳から引用)

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 さて、前おきはその位にしておいて、ここでの本題に入ろう。こちらの堅固な意味での初めての提唱者は、これまたカール・マルクスであって、彼は19世紀に生きた人物だ。そのマルクスが社会主義の高度な段階としての共産主義社会について述べているのは、数か所に限られよう。その中から、幾つか紹介することにしよう。まずは、労働者の政党の綱領文書について、こう語っている。

 「共産主義社会のもっと高度な段階において、すなわち、ひとりひとりが分業のもとに奴隷のごとく組み込まれることがなくなり、したがって精神労働と肉体労働の対立もまた消失したのちに、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなくそれ自体の生命欲求となったのちに、さらにはひとりひとりの全面的な発展とともに彼らの生産力もまた成長を遂げ、協同組合の持つ富のすべての泉から水が満々と溢れるようになったのちにーそのときはじめて、ブルジョワ的な権利の狭隘な地平が完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ドイツ労働者党綱領評注」:カール・マルクス著、辰巳伸知ほか訳「マルクス・コレクションⅥ、フランスの内乱/ゴータ綱領批判/時局論(上)」、1993)
 

(注)その原文については、「Jeder nach seinen Fa(aはウムラウト付き)higkeiten ,jedem nachseinen Bedu(uはウムラウト付き)rfnissen !」(この原文の出所は、KARL MARX「KRITIK DES GOTHAER PROGRAMMS」DIETZ VERLAG社、ベルリン、1965、25ページ)


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 二つ目の文章を紹介すると、彼の主著「資本論」には、こうある。

 「自由の国は、実際、窮迫と外的合目的性とによって規定された労働が、なくなるところで初めて始まる。したがって、それは、事柄の性質上、本来の物質的生産の領域の彼方にある。
 未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し、また再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。
 文明人が発展するほど、この自然的必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。
 すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力によるように支配されるのをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっともふさわしく、もっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
 しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といっても必然性の国をその基礎として、そのうえにのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(カール・マルクス著、向坂逸郎訳「資本論」第三巻、岩波文庫、1967)(なお、この原文の出所は、KARL MARX「DAS KAPITAL ーKritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」Dritter Band、DIETZ VERLAG社、ベルリン、1980、828ページ)


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 三つ目には、宣言文書から、当該の箇所の一つを紹介しておこう。共産主義を目指す政府が政権をとった場合に、さしあたり実現をめざすであろう、「所有権とブルジョア的生産関係への専制的干渉」の措置は、国情に応じて違うのを認めてから、マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」(1848)は、次のようにいう。
 
1として、土地所有を収用して、地代を国費に当てる。
2として、強度の累進税を課税する。
3として、相続権を廃止する。
4として、すべての亡命者及び反逆者の財産を没収する。
5として、国家資本と排他的独占権とを持つ国立銀行を通して、国家の手に信用を集中する。
6として、運輸機関を国家の手に集中する。
7として、国有企業、生産用具を増加し、共同計画のもとに土地を開発し改良する。
8として、すべての者に平等に労働を割り当て、工業軍を、殊に農業に対して、設置する。
9として、農業と工業の経営を統合して、都市と農村の差別を次第に除くようにつとめる。
10.すべての子供を公共的に無償で教育する。今日の形態に、おける子供の工場労働を廃止する。教育を物質的生産と結合する、等々。(ドイツ語原文については、対訳版の「詳解、独和・共産党宣言」大学書林、1956、96~97ページ)


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 そして四つ目には、これまで見たのとはゆ異なるアプローチとして、
マルクスは、こんなことを言っている。

 「大工業が発展すればするほど、素材的富の創造は、労働時間と支出労働量とに依存するよりも、むしろ労働時間中に動員される生産手段の力に依存するようになる。
 そしてこれらの生産手段はーーそれがもたらす強い効力についてもそうだがーーそれの生産に要する直接的労働時間には比例しないで、むしろ科学が達成した水準や技術の進歩、さらにはこの科学が生産過程で応用されることに依存する。(中略)
 人間労働はもはや生産過程に内包されたものとしては現れないで、むしろ人間が生産過程それ自体にたいし監視者ないしは統御者として関係する、(中略)
 労働者は生産過程の主作用因ではなくなって、生産過程のいわぱ外に立つこととなる。このような転機が生じると、生産や富の主柱は、人間自身が行う直接的労働でもなければ、かれが労働する時間でもなくて、人間自身の一般的生産力の自己還元、すなわち人間が社会的存在であることを通して自らのものとしているその知識と自然の支配という意味での一般的生産力の自己還元、一口でいえば、社会的個体の発展をその内容とするようになる。(中略)
 直接的形態での労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間はその尺度であることをやめ、またやめざるをえないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の尺度であることをやめざるをえないのである。
 そうなれば、大衆の剰余労働が社会的富の発展の条件であるという事態は終わるし、同様にまた、少数者が労働を免れることによって人間の一般的な知的能力を発展させるという事態も終わる。そして、それとともに交換価値に立脚する生産様式は崩壊する。」(マルクス「政治経済学要綱」)
(KARL MARX「Grundrisse Kritik der politischen O(ウムラウト付き)konomie」,1953,Dietz Verlag,,592~593ページから、都留重人が翻訳したものから引用した。こちらは、「都留重人著作集」の第3巻、「資本主義と経済発展の課題」講談社、1975に所収。一貫した日本語訳としては、高木幸二郎監訳の「経済学批判要綱」大月書店、1959として発刊されている。)
 

(続く)

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新○43『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

2021-05-22 08:39:50 | Weblog
43『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

 東アジアの3世紀後半からは激動の時代であった。中国大陸では、263年、魏(ウェイ)が蜀(シュー)を滅ぼす。265年になると、魏が亡び、これを滅ぼした西晋(シージン)が当時の全中国を統一する。一方、倭の3世紀後半からしばらくの歴史については、中国の歴史書から姿がはっきりとした姿は見あたらなくなる。例えば、村山光一氏は「大和政権」の項の冒頭で、自説をこう述べておられる。

 「二六六年から百年間は、文献・金石文などの史料によって日本の動向を知ることはできないが、われわれは古墳の出現・波及という考古学上の知見にもとづいて、この空白の期間に、畿内を中心に西日本の各地域において多くの政治集団が形成されていたことを確認することができる。(中略)
 さらに、この前方後円墳の分布の中心が、巨大古墳の集中している大和盆地の東南部にあったという事実に着目するならば、右の政治的連合の盟主はこの地域の首長であったと推断することができるであろう。なお、西日本の政治連合体の盟主となった大和盆地東南部を中心とする地域の政治集団は、大和政権あるいは大和王権と呼ばれるが、この大和政権は、卑弥呼の死後再びシャーマン的女王を共立した倭国とは別個の政権であり、九州地域に存在したかつての倭国は大和政権を中心とする西日本の政治的連合体によって征服されてしまった、というふうに考えておきたい。」(村山光一・高橋正彦『国史概説1ー古代・中世ー』慶応義塾大学通信教育教材、1988)

 ここで何故、中国流の「方墳」(ほうふん、四角い形)ではなく、前方後円墳なのであろうか。
 その答えとしては、諸説が提出されている。いまだに定説は見あたらないものの、同時期の中国(山東省き南(きなん)県の「き南(きなん)画像石墓」、2世紀)の豪族の墳墓の中に、壺(つぼ)の中に仙人(「東王父」(とうおうふ))の住む、「不老長寿の世界」を見立てる像が刻されていることから、この姿を平地に横たえて造形することにより、被葬者の死後の世界=理想郷(ユートピア)としての「東の海・ツボ形の島」を保障しようと考えたのではないか、との新説が唱えられている。
 つまり、「ツボの中に、不老長生のユートピアがあるという思想が入ってきたとき」(元同志社大学教授(古代学)辰巳和弘氏)。国内の前方後円墳の墳墓の墓室中においても、「被葬者が徠正でも、現世と同じように暮らすことを願って、絵が描かれた」(同教授)と主張されているところだ。

 この国においては、現時点で4000基以上の前方後円墳が見つかっている。それらの中では、大和の地に最古級の前方後円墳がある。中でも纏向(まきむく)古墳は、畿内(現在の奈良県桜井市)にある。 

 これの発掘を行った桜井市教育委員会によると、この遺跡の造営年代は、3世紀前半、もしくは2世紀後半から3世紀位と推定されている。この築造年代の推定が当たっているならということで、纏向は邪馬台国の拠点であったとする向きがにわかに増えた。纏向古墳の全長は約90メートルで、それまでの中では群を抜く長さである。その規模は、約3平方キロメートルであり、この時代のものとしてはやや広い部類に属する。

 続いて、纏向と同じ畿内(奈良県桜井市)から一つの古墳が見つかった。この箸墓(はしはか)古墳は、全長が276メートルもの巨大な前方後円墳となっている。こちらが築造されたのは、3世紀中葉以後(3世紀後半)と推測する人が多い。とはいえ、こちらの現況は纏向の場合とやや異なり築造年代がやや不明確だ。その理由として、仁藤敦史氏は、次のように言われる。

 「箸墓古墳の築造直後の布留○式土器の年代測定の年代を240年から260年と推定する見解が提起されて話題となったように、邪馬台国の時期は、従来のように弥生時代ではなく、古墳出現期に位置づけられるようになったことが重要である。」(仁藤敦史「「邪馬台国」論争の現状と課題」:歴史科学協議会編集「雑誌・歴史評論」2014年5月号、第769号に所収)

 こうした畿内での初期古墳の発見によって、邪馬台国ヤマト説が俄然勢いづいている。
 2009年11月には、この遺跡内から大型建物跡が発見された。その場所は、大和の三輪山の麓にある。これをもって、卑弥呼(ひみこ)なり、台與(とよ)か、それとも「日本書紀」にいう天皇家初代の頃の「神功皇后」なのではないか、等々の話にも発展している。これらのうち一つ目の考えはかなり多くあり、例えば、岸本直文氏は次のように述べておられる。

 「卑弥呼の治世は三世紀前半の約半世紀、ヤマト国を盟主とする北部九州を含む瀬戸内沿岸諸勢力の政治連合が生まれた。ヤマトの本拠は纏向(まきむく)である。100メートル級の前方後円墳が築造され、その墳形の共有、公孫氏政権から入手した中国鏡の配布が始まる。
 238年に公孫氏は魏に滅ぼされ、翌景初三年、卑弥呼は帯方郡に使者を送り魏への朝貢を願い出る。魏は卑弥呼を「親魏倭王」として認め、「銅鏡百枚」などを与える。
 卑弥呼は247年頃に没し、初代の倭国王墓、巨大な前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳に葬られた。これが前方後円墳が列島規模で波及する起点であり、倭国統合の第三段階である。」(岸本直文「古墳の時代ー東アジアのなかで」:岸本直文編「史跡で読む日本の歴史2古墳の時代」吉川吉文館、2010所収)

 この三つめの可能性を指摘するものとしては、「日本書紀」の神功皇后の条において、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王2人のいずれかを神功皇后に見立てるなどの向きがある。いずれも、畿内での初期の前方後円墳と見られる墳墓の発見によって、邪馬台国=(イコール)倭(ワもしくはヤマト)説が出て来た。その上で、邪馬台国がどうであったのか、及び3世紀後半からの倭はどうであったのかを推定している。この説に立つなら、畿内に興った邪馬台国が北九州の諸国についても影響力ほ及ぼして従えていったことらもなっていく。

 これに加えるに、この文献学上の根拠とされる向きもある『日本書記』の「神功皇后摂政」の三十九年から四十三年には、こうある。

 「三十九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。」
 この部分の書き下し分は、次のとおりである。

 「是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

 「四十年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
 こちらの部分の書き下し分は、次のとおりとなっている。

 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。」

 「四十三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

 この部分の書き下し分は、こうなっている。

 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人」

 ここに「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也」(「明帝景初三年」は西暦では238年)とあるのは、『魏志倭人伝』中の「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」と年号が異なっている。
 また、「日本書記」のどこを探しても、「魏志倭人伝」に載っている当時の邪馬台国に関する記述は一切出てこない。さらに、「神功皇后摂政」とはいうものの、当時の倭の勢威を盛んにならしめたといわれる彼女が、果たしてその通りの人物として実在していたかどうかは、分かっていない。
 このように、国家が編纂する史記の上では中国側と倭の側とで大きな食い違いが生じている。他にも、『魏志倭人伝』においては、「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」とある。つまり、「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、人がいて武器をもって守衛す」となっている。ここに「城柵」とは、土塁と柵を巡らせていたことが覗われる。けれども、両遺跡からは、そのような堅固な城柵の跡は見つかっていない。

 総じて、今日までの邪馬台国と大和朝廷の関係を論じる論説はあまたあるのではないか。それでも、現在にいたるも、いずれの説においても学会ならびに国民を納得させるにたる証拠は見つかっていない。つまり、この論争に決着はまだついておらず、先延ばしの感が強い。
 かつまた、これまで未発掘と目されている残りの天皇陵において、全国の主だった古墳を司る文化庁が近い将来、考古学者らによる発掘を許可する可能性は乏しいのではないか。それに、「天皇家の私有財産」とか「墳墓に埋葬されている人物の神聖不可侵」を唱える向きもあって、学術的な発掘が実現するには程遠いのが現状であろう。

 それでも、やがて追々には、大和政権は、邪馬台国からの、何らかの連続性において捉えることができることになっていくのかもしれないし、それらとは断絶したところから新説が次々と浮かび上がってくるのかもしれない。さらには、単に邪馬台国のあった場所はどこであったのかという、その枠では史実を語れないことになってしまうかもしれない。
 いずれにしても、21世紀の現代においても、我が国の歴史の5世紀頃までの解明においては、近くは中国などと大きく異なり、色々と決め手に欠けることが多すぎる感じがしてならない。


(続く)


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新◻️13『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の実力、~7世紀頃)

2021-05-21 22:40:49 | Weblog
13『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の実力、~7世紀頃)

 これらのうち、最大規模のものが岡山市吉備津にある茶臼山中山古墳(ちゃうすやま中山こふん)であり、墳長は約120メートル、後円部の直径は約80メートル、後円部の高さ約12メートル、前方部の長さは約400メートルもある。

 こちらは、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半にかけての造営とも云われる。ただし、岡山市のホームページにおいては、「本墳の時期を決めるのは、現状の資料だけからでは困難であるが、もし最古の前方後円墳でなかった場合、足守川流域では最古の前方後円墳が少なく、かつ貧弱だったということになる。

 弥生時代後期の備前、足守川流域では、多くの集落遺跡や墳丘墓を築いており、一大勢力を形成していたと考えられる。最古の大形前方後円墳が存在しないとすれば、そこに大きな歴史的意味があるといえる」(2016年6月にアクセス)と述べられる。このことから、纏向(まきむく)古墳(現在の奈良県桜井市)に類する型の前方後円墳と決めてかかるのは時期尚早とも考えられる。

 現在も、大吉備津彦命(きびつひこのみこと)という伝説上の人物の墓ということから宮内庁の管理下にあり、立ち入ることができないことになっているとのことだ。しかしながら、倭(その中の大和、中国語読みではウォの第1声、やがて統一されての国家の名前が「日本」となるのは中国の唐(同、タン第2声)の時代)の時代の大王陵墓でないのなら、管理を岡山県に移してもよいのではないか。

 彼らは、これ以後の律令政治への展開の中にだんだんと組み込まれていく。後の日本になってからの「日本書紀」などに従えば、6世紀中頃の5年(欽明大王16年)、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置いた。翌556年(欽明大王17年)には、後の大和朝廷が大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)を同地に派遣して、備前国児島郡に児島屯倉(こじまみやけ)を設けることを承諾させ、葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令として派遣した。
 
 ここに屯倉とは、「御」を表す「ミ」と、「宅」ないし「家」を表す「ヤケ」の組み合わせた直轄地のことで、地方豪族の所領の中にヤマト朝廷への貢納・奉仕の拠点と、これに附属する耕田を手に入れた。朝廷への貢納と奉仕を負わされた「部」の制度とともに、それからの民衆支配の根幹をなすものとして全国規模でおかれ、進行していった。
 この政策を朝廷(欽明大王の下)で推進した中心人物としては、蘇我稲目(そがいなめ、彼が政治の表舞台に登場するのは6世紀前半のことであり、没年は570年)が知られる。

 これらのことを踏まえてか、故郷の『津山高校百年史』(下巻)での筆者は、これらのことから「五世紀後半の吉備への大王家の対応を想像するならば、南部の中枢にいた大首長に対しては軍事的な圧力によって、周辺の中小首長に対しては吉備中枢に対する自立を促す形で積極的に大王家の官僚組織に取り込むことによって、大王家にとって脅威であった吉備というまとまりの分断、弱体化を謀っていったものと考えられる」(岡山県津山高等学校創立百周年記念事業実行委員会百年史編纂委員会『津山高校百年史』(下巻)、1995)との、大胆な見解が提出されている。

 一方、美作の久米・大庭・勝田(かつまだ)、江見の辺りを治めていた豪族達は、大友皇子(おおとものおうじ、天智大王の長男にして太政大臣)の進める中央集権化の政治に反発してであろうか、はやばや吉野方の大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に加勢した。美作の豪族、地侍たちは、当時吉備の国からも圧迫を受けていた。とすれば、吉野方に加勢すれば美作の国としての旗挙げができる、いまがその潮時だと意気込んだのかもしれない。

(続く)

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◻️181の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田真道)

2021-05-20 22:36:06 | Weblog
181の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、津田真道)

 津山出身の津田真道(つだまみち、1829~1903)は、津山藩の料理番の家の出身だ。

 父親の津田吉田太夫も、長男の彼を文武両道に向かわせたようだ。幼い頃から、学問が好きであり、藩の抱える儒学者の大村成夫らに漢学を学ぶ。武術の方は、剣道、槍術それに弓を習う。

 そればかりか、やがての1850年(嘉永)には江戸に出て、箕作げんぽに蘭学を、佐久間象山に洋式兵法を学ぶ。

 やがて、蘭学に秀でてからは、その3年後のペリー来航時には、藩籍を離れる。勝麟太郎の知偶を得て、長崎行きがかなう。そこでの蘭学が評価され、1857年(安政4年)には幕府の蕃書調所の教授手伝いになる。

 その後の1857年(安政4年)、同僚の西周(にしあまね)らとともに、幕府の第一回留学生としてオランダに遊学する。オランダでは、おもに法学を学ぶ。

 1865年(慶応元年)に帰国後すると、「泰世国法論」を著わす。それは、オランダで師事したライデン大学教授フィッセリングの講義録をまとめたものだ。

 ともあれ、新政府の役人として、外務省とか司法省で、新たな制度をつくるのに没頭していく。

 1873年(明治6年)に創立の明六社にも参加する、「言論の自由」や「民選議員のすすめ」、さらに「夫婦同権」などで、発言を行う。

 そんな心の柔軟さを持っていたのであったが、のちに貴族院議員を歴任、また男爵(注)にもなって栄達の途を進んだことで、体制側に遂には心も体も組み込まれていったようだ。


 (注)明治時代に入ってから戦前までの華族(新たな身分制)に列せられたのは、公家と武家の一部などからの選抜であった。これには、天皇に侍(はべ)るというか、列に従うというか、そんな時の序列を指し示す意味合いがあって、その段階表としては、こうあった。
 最上位は、公爵(こうしゃく)であって、「五摂家」(大化の改新のクーデターで政界の中枢に進出した藤原鎌足がそもそもの祖先とされ、そこから分岐したと伝わる近衛・鷹司・九条・二条・一条の各家)に加え徳川家、毛利家、島津家をいう。
 二番目は、候爵(こうしゃく)であって、「清華家」と江戸幕府時代の旧国持大名があてられていた。
 三番目は、伯爵(はくしゃく)といい、大臣、羽林家(うりんけ)などに加えるに、江戸幕府時代の10万石以上の旧大名があてられていた。
 四番目は、子爵(ししゃく)であって、こちらの資格としては、大臣、羽林家などから枝わかれたした家系に加えて、江戸幕府時代の10万石未満の旧大名があてられていた。
 五番目に侍るのが男爵(だんしゃく)であって、維新後に華族となった神官や僧侶、それに江戸幕府時代の旧大藩の家老職を務めていた家柄(1万石)があてられていた。
 

(続く)

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♦️121『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教以前の状況)

2021-05-18 18:42:53 | Weblog
121『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教以前の状況)

 ユダヤ教のそもそもの成り立ちは、人と人を超越したある存在との運命的な出会いから出発している。アブラハム(Abraham)という人物は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。創世記第11章にて誕生し、第25章で175歳で亡くなった、としている。

 実在した人物かどうかはわからないものの、旧約聖書での彼は、イスラエルの民(ユダヤ人)の祖とされる人物だ。だが、「他の神に仕えていた」偶像の信者でヘブル人であるテラの息子として生まれ、ウルの地に住んでいた。
 
 ウルの土地柄については、次のように注釈されている。

 「ウル。ユーフラテス川下流西岸のメソポタミアの初期王朝時代のカルデア人の町。月神シンの礼拝地であった。発掘により前4000年期より居住されていたと推定されるが、その上層に大洪水の跡が発見された。アブラハムの出生地(創・11の31、15の7、ネへ・九の七)」(A・シーグフリード著・鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教ーイスラエルの道ー」岩波新書、1967)

 その地で族長であったときのある日、彼は「一なる神」の啓示により故郷を後にし新天地へと出発する決意をしたという。教義の上では、ユダヤの民の始祖は、彼だとされている。
 そのユダヤ教の一番の特徴は、唯一の神を信仰していることにあるといっていい。アブラハムは、当時たくさんの神々の中でその神だけをあがめることを選んだ上、契約を結んだことになっている。
 だからこそ、彼はこんにちも西洋的な宗教観をもつ人びとのほぼ共通の祖先、あるいは始祖として象徴的存在として君臨することになるのだろう。


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 これに対し、インドや東洋においては、神という存在の規定なりは、相当に曖昧であったろう。あえていうなら、単独の神を意味することはまずなく、そのほとんど全てが多くの神々とともに人間というものがある、そのことを前提として成り立ちがなされているように考えられる。

 インドで代表的な宗教といえば、まずは古い時代の民族宗派、それにジャイナ教と、仏陀が興した仏教とがあろう。

 まずは、バラモン教というのは、インドとその周辺の地域の最古層に属する中では、最大の思想潮流をつくっていた。後のヒンドゥー教の根元には、その教えなり戒律なりが、相当に受け継がれ、現在に至っているのではないだろうか。そのことをもって、一説には、「古ヒンドゥー教」とも呼ばれているようだ。
 そもそもの成立は、政治絡みであったようだ。規模は異なるものの、日本の「天皇神話」などともどこかしら似て、大古からのインドの先住民の暮らしを押し退ける過程で歴史に現れていったものと考えられる。
 それというのは、紀元前2000~同1500年頃にかけて、アーリヤ人たちが、インドに侵入する。その前の彼らは、西トルキスタンで牧畜を営んでいたのだが、部族ごとにであろうか、先住民を支配下において、かのインダス農耕を学び、階級社会をつくっていく。
 その階級は、大きく分けて4つあり、儀式をする司祭のバラモン(婆羅門)、王族や武族のクシャトリヤ(刹帝利)、商工業者のヴァイシャ(吠舎)、奴隷のシュードラ(首陀羅)の4つなのだが、これらに含まれない最下層の人も規定していたというから、驚きだ。
 そういう中では、アーリヤ人たちは、インドの東の方にも侵入し、これまた先住民も帰依させて社会に組み込んでいく。一説には、それに応じて、アーリヤ人の宗教とインドの先住民の宗教が混ざったのがバラモン教ではないかとも、現代では考えられている。


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 次のジャイナ教は、苦行を行うことをいい、仏教は、その連鎖を絶ちきり、悟りを得るのを本来的な道とする。

 このうち、ジャイナ教を始めたのはマハービーラで、当時のインド宗教界において、特異な教義を展開していく。具体的には、バラモン教徒の間で行われていた犠牲祭をとくに批判する。その際には、いわゆるベーダ聖典の権威も否定する。

 この宗派を理解しようとする際の鍵となるのは、生命の根源に分けいる姿勢にあろう。動植物はもちろんのこと、地・水・火・大気をよりどころとする大小さまざまな生物の存在を認める。
 その上で、事物の認識には多くの観方(みかた)(ナヤ)が必要であり、つねに一方的な判断を避けて相対的な考察を行うべきである。真理はかかる実践の中にあるという。
 しかして、徹底した苦行、禁欲、不殺生の実践を重視することにより、悟りを得ようというのである。 

 また、後者は、ゴータマ・シッダールタが始めた宗派であって、これまた人間というものを深く観察することにより、解脱を目指す。その詳細は別項に譲るが、それを実現するに「八つの正しい道」を提起して、これを実践するというもの。


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 かたや、古代の中国においては、諸子百家もの多数の学派が活躍した。
 その中でも一番の影響力をもっていたであろう儒教(じゅきょう)の祖は、紀元前の中国に生きた思想家であった、孔子である。
 春秋(しゅんじゅう)時代の周(しゅう)王朝の末、紀元前551年(一説には同552年)に、魯国という小国の昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で生まれた。父は、この国の陬邑大夫の地位にあった。当時の中国は、実力主義が横行し古来の身分制秩序が解体されつつあった。長じてからは、当時の中国の各国を回って智慧を磨いた。
 彼が関心を示したのは、あくまで現世での価値ある生き方の追求であった。今日的なジャンルを用いるなら、政治と道徳(人生哲学をも含める)面の主張が主であったのではないか。政治・道徳面では、周代初期の君臣政治への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁による思いやりの政治を掲げた。
 具体的には、「子曰く、甚だしいかな、吾(わ)が衰えたるや。久し、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」(巻四第七述而篇5)とあって、彼の出身地の魯(ろ)の国の始祖・周公が取り組んだものを模範として掲げた。また、「礼」(社会生活を規律する根本倫理としてのもの)を以て政治に当たることの重要性を、「子曰く、能(よ)く礼譲を以て国を為(おさ)めんか、何か有らん。能く礼譲を以て為めずんば、礼を如何らん」(巻二第四里仁篇13)とあるように、他者に噛んで含めるが如くに訴えた。
 
 その「三十にして立つ」からの確固不動の人生態度には、今日でも驚きをもって受け止められているのではないだろうか。その死(紀元前479年)までの間に3千人ともいわれる、多くの弟子を育てた教育家もあった。

 そんな儒教の日本への伝来がいつのことだったかは、わかっていない。仏教よりも早く伝わったことは疑わないとしつつも、「継体大王」(けいたいだいおう、『日本書記』による)の時代の513年か、百済より五経博士が渡日したとの記述がある。このことから、これ以降しばらくしてとみる説がある。それ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』にみえる。さらに有力説では、邪馬台国の卑弥呼の時代、つまり3世紀には既に「千字文」(せんじもん)とともに倭にもたらされた。顧みるに、仏教はインドから長い時間をかけて伝来したが、儒教は当時「中原」(ちゅうげん)と呼ばれていた中国文明の中心地で生まれた思想である。そのことから、この列島への儒教の伝搬(でんぱん)は、3世紀までのことであったと考える。

 「論語」は、どうやって出来上がったのだろうか。やはり、弟子達が生前の孔子が語っていた事柄を、簡潔な文に直してか、あるいは逐一諳(ろら)んじていたものを書き写したものであろうか。特徴としては、さまざまな分野、場面に亘っている中で、「君子」たる者の道が堂々と披瀝されている。その際一際異彩を放っているのが、彼の死生観、すなわち「子、怪力乱神を語らず」(巻四第七述而篇20)並びに「子曰く、未(いま)だ生(せい)を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」(巻六第十一先進篇12)ではないだろうか。抑制的な口調となっていても、いわゆる「神仏を敬い、神仏を頼らず」といった処世観・処世術とは、明らかに異なる。
 とはいえ、神仏を語らぬということは、かならずしもそれが反宗教的な思想であることを意味しない。その意味では、孔子の思想は、多神教、しかも草木をも奉祀するこの列島での自然宗教としての神道(いわゆる「国家神道」とは別物として考えたい)による曖昧な「神」観と相入れ易い面を持っているのではないか。また、元々の孔子の教えには呪術的なところが見あたらないし、当時の政治儀式(獣の血をすすって盟約を立てるなど)についても取り立てて拒絶しているようなことは、見あたらない。これらの点では、4世紀頃の倭に入ってきていたとされる道教(老子・荘子の思想)や、5世紀頃に入ってきたと考えられる陰陽五行(いんようごぎょう)の思想とも馴染みやすかったのではないか。


🔺🔺🔺

 このように、東洋と西洋の宗教観がかくも大きな違いをもっているのはどうしてなのかはよくわかっていない。たぶん、歴史的なものと地理的(気候を含む)なものとの両方がその成り立ちに大きくかかわっているのではないだろうか。


(続く)

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新○341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945 の総論)

2021-05-17 21:15:41 | Weblog
341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945
の総論)


 1941年12月8日には、ハワイへの空襲があった。宣戦布告の国際的慣わしだが、何かの手違いからなのか、その通告がアメリカ側に届いたのは、ゼロ戦の編隊列が、真珠湾(パール・ハーバー)にいるアメリカ軍に攻撃を開始した後のことであったという。
 しかして、これを先導したのは、一体誰であったのだろうかという話になると、今でも、かなりの日本人は、口が重たくなってくるのではないだろうか。とりあえず、ここでは、外国人による一説を手短かに紹介しておこう。

 「官権力は荒々しい力ともなりうる。ときにはきわめて危険なものになる。この抑制されない官権力の典型例が、軍官僚の仕組んだ真珠湾攻撃だ。責任ある政府の指導者ならば、当時、日本の十倍との工業力をもっていた国アメリカを攻撃するようなことはなかっただろう。日本国民が慈悲深いはずの支配者たちに裏切られたという点できわめて悲劇的だった。」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著、篠原勝訳「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社、1994)

 続いての12月10日には、日本軍が、フィリピンに上陸する。12月11日には、グアムを占領する。12月23日には、ウェーク島を占領する。12月25日には、香港を占領する。

 1942年1月には、マニラを占領する。同月、長沙を占領する。2月には、シンガポールを占領する。2月には、スラバヤ沖海戦。3月には、バタビヤ海戦、同月占領する。3月、ラングーンを占領する。


 4月、アメリカ(艦載)機が、東京を初めて空襲する。4月には、マンダレー(ビルマ)を占領した、これにより南方作戦は一段落。5月には、コレヒドール(フィリピン)を基地とするアメリカが降伏する。同月、珊瑚海(さんごかい)海戦が戦われる。


 そして6月には、ミッドウェー島付近で大規模な海戦があり、日本の海軍が大損害を受ける。同月、アッツ島にアメリカ軍ぐ上陸する。8月には、アメリカ軍を中心とする連合軍をが、ガダルカナル島に上陸し、第一次から第三次までソロモン諸島付近で海戦が戦われる。

 1943年になると、日本軍の南方部隊の崩壊が始まる。4月には、山本五十六連合艦隊指令長官の乗った飛行機が撃墜され、戦死する。5月になると、アッツ島の日本軍が全滅する。6月には、学徒戦時動員体制確立方針が決定となる。

 7月には、キスカ島撤退作戦が実行される。9月には、御前会議において、「今後とるべき戦争指導大綱(「絶対防衛網」確保に向けたもの)」を決定する。要するに、これからは勝利はもうおぼつかない。海外拠点の多くを失い、守りの方に目をくばらなければならなくなった訳だ。

 それでも戦いを続けるのか、それに関わる選択が話されてもおかしくはあるまい。果たして、その時の御前会議で天皇はどのように発言したのだろうかは、多くの国民が本来なら聞きたいところであったろう。だが、政府の発表や国内のマスコミなどは、戦況の不利については国民に伝えなかった。

 11月には、マキン・タラワ島の日本軍が全滅する。11~12月には、ブーゲン・ルオット沖で海空戦がある。そしての12月には、学徒出陣となる。

 1944年2月には、クエゼリン・ルオットの日本軍が全滅する。同月、アメリカ軍が、トラック島を空爆し、日本軍は大損害を受ける。
 それでもの2月から、日本軍はインパール作戦に打って出て、7月まで行う。3月には、古賀連合艦隊指令長官が戦死する。

 そして迎えた6月には、マリアナ群島にて激戦の方向。アメリカ軍がサイパン島に上陸する。同月には、マリアナ沖で海戦がある。そして迎えた7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する、そのことは日本にとって大打撃となったことは、想像に難くない。

 それというのは、これにて、「南方占領地からの物資補給は事実上断絶し、物動計画も、1944年第3四半期以降は崩壊するにいたった」(安藤良雄「現代日本経済講義史」第二版、東京大学出版会、1963)という。安藤氏によりては、続けては、こうある。

 「アメリカの海上封鎖、とくに潜水艦作戦のため、中国大陸からの輸送、朝鮮からの輸送も不可能にな、さらに機雷投下のため本土沿岸航路さえ混乱におちいった。
 一方、マリアナを基地とする対日戦略爆撃の開始、さらには機動部隊の鑑載機の攻撃、艦砲射撃のため、軍需工場・交通機関が大損害を受け、一般都市も焼夷弾爆撃によって大きな損害をこうむるにいたった。」(同)

 これらをもって、戦争経済は崩壊へ向かう。それを受けてか、7月17日には海軍大臣が更迭される、それもつかの間の翌7月18日には東条内閣が総辞職し、小磯・米内協力内閣となる。

 それからも、8月には、テニアン・グアム島の日本軍が全滅する。10月には、台湾沖で空中戦が戦われる。10月には、兵役年齢の引き下げを実施する。

 10月には、アメリカ軍がレイテ島に上陸する。同月、神風特攻隊による攻撃が開始される、帰ることを予定しない出撃として。11月には、マリアナ基地よりのB29の日本基地への来襲が始まる。

 明けて1945年1月には、アメリカ軍がルソン島に上陸する。最高戦争指導会議が、「今後とるべき戦争指導大綱」、それに「決戦非常措置要綱」を決定する。本土決戦までを想定し始めてのことであったのは、否めない。


 ちなみに、この年の2月にあった近衛文麿が天皇に提出した「上奏文」にまつわる話を、女性史研究で知られる鈴木裕子氏は、こう解説しておられる。

 「天皇家と藤原鎌足以来、姻戚関係が強く、もっとも親近感のあった元首相で公爵の近衛文麿は、45年2月14日、敗戦は必死であり、共産革命か起こる以前に手を打つ必要を天皇に説いた。近衛はのちの首相吉田茂と協議のうえ作成した長文の「上奏文」をもとに「戦争終結」を強調した。

 「昭和天皇実録 第九」(以下「実録」)によれば、侍立の内大臣木戸幸一の要旨によれば次の通りである。要約抜粋引用する(原文片仮名)。

 「最悪の事態に至ることは国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の興論は今日のところまだ国体の変更とまでは進まず、国体護持の立場より憂うべきは、最悪なる事態よりも之に伴って起こることあるべき共産革命なり。(中略)「翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々に具備せられ、・・・生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親近ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂(いわゆる)新官僚の運動」「之を背後より操る左翼分子の暗躍なり」とし、「勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るもの」「国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を構ずべき」と進言した(「実録」45年2月14日条)。 近衛のこの上奏に対し、天皇は「今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難」と口吻(こうふん)を洩らした(同右)。もしこの時仮に近衛の上奏を受け、「終戦」に努力していれば、あの凄絶な沖縄戦はじめ東京大空襲など各都市へのB29機の焼夷弾投下による莫大な人命の損失をも免れていたであろう。」(鈴木裕子「続・天皇家の女たち」)


 同じ2月には、米鑑載機による本土爆撃が開始される。3月になると、B29による東京下町地区への無差別空襲が始まる。以後、全国的な規模で、焼夷弾攻撃が始まる。3月には、硫黄島の日本軍が全滅する。

 3月には、軍事特別措置法が制定されるとともに、決戦教育措置要領、さらに国民義勇隊設置が決定される。

 4月には、アメリカが、沖縄本島に上陸する。同月、アメリカの要請を受けたソ連が、連合国としての立場から、日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告してくる。

 4月5日には、小磯内閣が、総辞職する。後継は、鈴木内閣。5月には、最高戦争指導会議幹部が、ソ連仲介による終戦申し合わせを行った由、以後、終戦工作が活発化していく、しかしながら、時既に遅しの状況。

 6月には、御前会議にて、本土決戦断行の「戦争指導要領」を決定し、いわば、「一億玉砕」の覚悟を国民に強いようとしたのであろうか。

  同月、昭和天皇が、終戦措置を指示したというのだが、もはや、連合国に対し降伏を急ぐべし、とはならなかった。同月、日本政府はなおも戦争を継続しようとしてか、戦時緊急措置法、義勇兵役法、国民義勇戦闘隊統率令を公布する。あわせて、決戦生産体制確立要綱を決定する。

 同6月中には、沖縄の日本軍が全滅、これには民間人多数の死者を伴う。多くの民間人に死が強いられた。同月、昭和天皇が、近衛文麿に訪ソ連を指示する。同月、国内戦場化具体措置を閣議決定する。

 7月からは、米鑑隊による日本本土艦砲射撃が本格化する。主食配給が10%減となる。同月、戦時農業団令が出される。

 同7月17日には、米英ソ連首脳によるポツダム会談が開会され、同7月26日には、対日ポツダム宣言が発表される。同宣言は、日本に対し無条件降伏を求める。
 
 8月6には広島に、9日には長崎に原爆が投下される。8月10日には、御前会議にて、ポツダム宣言を受け入れることに決定する。その際、天皇制を中心とする国体護持が条件であるとして、連合国側に示される。国民の命より天皇制の護持の方が先であったことは、疑うべくもなかろう。同月14日には、これがアメリカに受け入れられたことにより、無条件降伏を決定、連合国側に通告する。
 
 翌8月15日、昭和天皇は、国民向けに「終戦の詔」を発布、自身が放送する。それは、相も変わらぬ国民を下に見ての話であった。鈴木内閣は総辞職するも、戦争終結に反対の乱が各地で起こる、しかし、クーデターなどは起こらなかった。日本の敗戦は、ここに確定する。

 なお、先ほど引用した鈴木前掲論文において、彼女は、自身の問題意識から、その末尾を天皇制の将来についての次のように結んでいるのであって、ここに紹介しておこう。

 「昭和天皇その人の意識はどこまで変わったのか、依然として疑問が残るが、天皇家が生き延びるための新たな「演出」工作が図られ、存続を可能ならしめたわけである。その息子の明仁・美智子天皇制に象徴されるように、「愛される天皇・天皇家」が誕生し、今日に至っているが、法の下の平等・男女平等を謳(うた)った日本国憲法との矛盾は明らかであろう。
 筆者としては、天皇家の人びとが「ただの市民」になることを願い、戦前戦後の天皇・天皇制へのタブーなき真実の歴史が多くの人びとに理解・共有されることを願うばかりである。」(同)



(続く)

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♦️363の2『自然と人間の歴史・世界篇』『E=mc2』(イー・イコール・エム・シー・ジジョウ)

2021-05-15 22:20:36 | Weblog
363の2『自然と人間の歴史・世界篇』『E=mc2』(イー・イコール・エム・シー・ジジョウ)

 さて、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれる一つに「質量とエネルギーの等価性」があり、式でいうと、 エネルギー(E)=質量(m)×光の速度(c)の2乗 、E=mc2(イコールm×c×c)というものだ。その発見以来、人類史上最も有名な法則名となる、
 参考までに、彼の論文(1905)中では、光速度をV、エネルギーをLとすると、当該部分「エネルギーLを放出すると、物体の質量はL/V2だけ減少する」との表現でこの式が表現されている。
 しかして、このアインシュタインの説は、1932(昭和7年)にイギリスの二人により確認された。ジョン・コッククロフトとアーネスト・ウォルトンは、実験物理学者だ。共同して、100kV(つまり、100万ボルト)の電圧まで作れる高電圧発生装置を電源として組み込み、加速器を製作したという。この装置は、彼らの名前をとって「コッククロフト・ウォルトン回路」と呼ばれる。
 なお、かかる功績により二人は、1951年(昭和26年)に、「人工的に加速した原子核粒子による原子核変換についての先駆的研究 」の名目にて、ノーベル物理学賞を受賞した。
 とはいえ、当時の技術では、粒子の加速は3Mev(=3×10^9ev(「ハット」記号を含む後半部分は10の9乗電子ボルトと読む))が限界だったらしい。
 そして彼らは、この加速器を使って、陽子の加速実験を行う。すなわち、リチウムの原子核に加速した陽子を衝突させたところ、2個のヘリウム原子核が生じたのだが、その合計質量は、元の陽子とリチウム原子核の質量の和に比べて、僅かに減少していて、その質量欠損分については、アインシュタインの式にいうところのエネルギーとして放出されていることが観測されたのだという。
 ところで、この関係式の意味するところをやや広くみるには、まずは、古典物理学の世界で、それぞれ互いに独立して論じられてきた「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」とのつながりから、紐解いてみるべきだろう。
 最初の質量保存の法則は、1774年にラボアジエが発見した。ここでは、温暖化との関係で注目される反応からひろうと、炭素と酸素から二酸化炭素が生成する場合を化学式でいうと、C   +   O2   → CO2であって、それぞれ12g、32g、44g。この反応において、炭素12gと酸素32gを反応させると、二酸化炭素が44g生成する。これにおいては、反応前は炭全体の質量は44g、反応後は二酸化炭素が44gあるので全体の質量は44gであり、反応の前後で全体の質量は変わっていない。
 二つ目の反応として、エタンと酸素から二酸化炭素と水が生成する場合をとりあげよう。こちらの化学式は2C2H6   +   7O2   → 4CO2 + 6H2Oというもので、それぞれ60g、224g、176g、108gとなろう。反応の前後で284gとなっており、これまた全体の質量は同じだ。
 二つ目には、エネルギー保存の法則だが、こちらには、様々な局面があるだろう。そんな中から一つを例えるに、地表から20メートルの高さ(h)に身をおき、ある質量(m)のボールを静かに離す、簡単化のため、そのとき空気抵抗が無視できるとしよう。すると、そのボールが地表に到達する際の様子の目安としての速度(v)は、高さ20メートルの所と地表との間でエネルギー保存の法則が働く。式でいうと、1/2m02(m0はエムゼロ、2は二乗)+mgh=1/2mv2(2は二乗)+mg0(0はゼロ)となり、これを整理するとmgh=1/2mv2となることから、v=72km/毎時となろう。

 三つ目には、仕事量との関連で、この法則を当てはめてみよう。ここにジュール(英: joule、記号:J)というのは、仕事、熱量、電力量といったエネルギーの単位であって、発見者のジェームズ・プレスコット・ジュールに因む。
 具体的にいうと、「1 ジュールは標準重力加速度(9.80665 m/s²の重力)の中で約102 グラムの物を 1メートル持ち上げる仕事」と定義される。
 したがって、1メートル持ち上げるとは重力に対して「力の向きに動いた距離」、力の大きさとは上に持ち上げるので「重力(9.80665 m/s²)と物体の重さの積」となるだろう。
 しかして、1 ジュールは標準重力加速度の下でおよそ 102.0 グラムの物体を 1 メートル持ち上げる時の仕事に相当する。
 そういうことだから、今質量を1グラムに見立てて、先のアインシュタインの式に当てはめると、 光速c = 30万km/s = 3億m/s (メートル毎秒)、質量m = 1g = 0.001kg なので、
mc^2(c^(ハット)2というのは、c×cをいう) = 0.001 × 3億 × 3億 = 90兆ジュール が導かれる訳だ。


 しかして、これら三つの事柄でいうのは、質量とエネルギーとは別次元のものと考えられているのであり、あくまでも「物質からエネルギーが生まれる」類いの話であったのたが、冒頭で紹介したような関係式が成立する世界では、この式を変形してm=E/c2ということなのだから、「質量とエネルギーとは等価」にして、この拡張した範囲での関係をありていにういうならば、まさに「エネルギーから物質が生まれる」という表現こそがふさわしい。
 しかして、かかる相対性理論から導かれる式により、両者が一つの法則「エネルギー・質量保存の法則」に統合されたことになるという。
(続く)
 
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