73『自然と人間の歴史・日本篇』貨幣の鋳造と流通
国家単位での貨幣の流通は、文明社会の成熟度を計る一つの目安となる。大和(倭)朝廷による「和銅和同開珎(わどうかいほう(ちん)という銭貨の鋳造について、『続日本記』には、こうある。
「和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父郡(むさしのくにちちぶぐん)、和銅(にぎあかがね)を献ず。詔して曰く、「(中略)東方武蔵国に自然作成(おのずからになれ)る和銅出在りと奏而献焉(もうしてたてまつれり)」。(中略)故、改慶雲五年を改めて、和銅元年として御世年号と定め賜ふ。(中略)二月甲戌(きのえいぬ)、始めて催鋳銭司を置く。」(『続日本記』の聖武天皇2月の条)。また「五月壬寅(みずのえとら)、始めて銀銭を行ふ」(同5月の条)。さらに「八月己巳(つちのとみ)、始めて銅銭を行ふ」(同8月の条)とある。
実は、これより前の682年(天武大王12年)、富本銭(ふほんせん)なる貨幣がつくられている。とはいえ、こちらは世の中にどのように出回ったかにつき説が分かれているのを踏まえると、通貨流通面では708年(慶雲5年・和銅元年)の和同開珎(わどうかいほう(ちん)をもって本格的な貨幣の鋳造とみてよいのではなかろうか。
以来、958年(天徳2年)までの間に、大和朝廷が鋳造し発行した貨幣は12種類にわたることから、総称して「皇朝十二銭」(こうちょうじゅうにせん)と呼ぶ。
具体的には、(1)和同開珎(わどうかいほう(ちん)、(2)萬年通宝(まんねんつうほう)、(3)神功開宝(じんごうかいほう)、(4)隆平永宝(りゅうへいえいほう)、(5)富壽神宝(ふじゅしんぽう)、(6)承和昌宝(しょうわしょうほう)、(7)長年大宝(ちょうねんたいほう)、(8)饒益神宝(にょうやくしんぽう)、(9)貞観永宝(じょうがんえいほう)、(10)寛平大宝(かんぴょうたいほう)、(11)延喜通宝 (えんぎつうほう)、(12)乾元大宝 (けんげんたいほう)をいう。
これらのうち和同開珎は、武蔵の秩父郡で作られた。銀銭と銅銭の2種類であった。これは、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を手本にしたもの。それは、「日本最古の法定貨幣なのだ」と言われる。ところが、この和同開珎という貨幣、使い道が定まらなかった。なお、銀銭の方は、翌709年(和銅2年)に廃止を余儀なくされる。その2年後の711年(和銅4年)、貨幣の流通促進に向けた試みの一つ、『蓄銭叙位令』についての記述には、こうある。
「和銅四年冬十月甲子,詔して日く、夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する所以なり当今百姓なほ習俗に迷ひて、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して位を授けん。其れ従六位以下蓄銭一十貫以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。(中略)其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け。」(『続日本記』)
蓄銭の「多少に応じて位階を授けよ」の下りは、その前に記される「僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し」の事情から来る。当時はまだ、稲や布などが銭貨として世の中に出回っていたために、「当今百姓なほ習俗に迷ひて、未だ其の理を解せず」という状況なのであった。
(続く)
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