443に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大賀一郎)
大賀一郎(おおがいちろう、1883~1965)は、植物学者だ。賀陽郡川入村(現在の岡山市北区川入)の農家の長男として生まれる。子供の頃から、近くの神社にあったのか、蓮のことにかけては並々ならぬ関心をもつ。
大賀一郎(おおがいちろう、1883~1965)は、植物学者だ。賀陽郡川入村(現在の岡山市北区川入)の農家の長男として生まれる。子供の頃から、近くの神社にあったのか、蓮のことにかけては並々ならぬ関心をもつ。
やがて岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を卒業するものの、腸チフスを患い、1年遅れて第一高等学校に入学する。
それに、どのような経緯があったのだろうか、つまびらかでないものの、1902年(明治35年)には、岡山基督教会でキリスト教の洗礼を受ける。
それに、どのような経緯があったのだろうか、つまびらかでないものの、1902年(明治35年)には、岡山基督教会でキリスト教の洗礼を受ける。
1902年(明治42年)に同学を卒業して同大学院へ進学、藤井健次郎教授に師事して植物細胞学を専攻する。
学業のかたわら、内村鑑三の無教会主義に影響を受けキリスト教に関心を示し、足繁く教会に通う、やがて同志社系の日本組合岡山基督教会で洗礼を受ける。
そんなある日、内村に大学進学の相談をしたところ、「君はよく僕にハスの話をしてくれたじゃないか。ハスは、我々人間がどんなに知恵を絞っても決して作り出すことはできない。神様のみが創れるものだ。神様の創りたもう植物を勉強したらどうだろう」と言われたらしい。その影響もあってか、東京帝国大学理科大学植物学科に進学する。
1910年(明治43年)には、第八高等学校(現名古屋大学)の講師となり、翌年、そこの生物学教授となる。
1917年(大正6年)には、転機が訪れる。南満州鉄道の社員に転出し、大連へ赴任したのだ。教育所所員として働く傍ら、満州各地の植生を調査してまわる。
1923年(大正12年)から1926年(大正15年)には、満鉄本社の計らいでアメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学し、球形素焼蒸留計使用の実験を行ったり、満州から持ってきていたハスの遺物の研究も進み、発芽に成功する。
アメリカを離れ、満州に戻ると、教育専門学校教授に就任する、そして「南満州フランテン産の生存古蓮実の研究」によって東京帝国大学から理学博士の学位をもらう。
そうはいっても、満州における日本の植民地政策に疑問を持っていたようで、1932年(昭和7年)には、満鉄を辞任して東京に戻る、政治には染まりたくなかったのではないだろうか。
アメリカを離れ、満州に戻ると、教育専門学校教授に就任する、そして「南満州フランテン産の生存古蓮実の研究」によって東京帝国大学から理学博士の学位をもらう。
そうはいっても、満州における日本の植民地政策に疑問を持っていたようで、1932年(昭和7年)には、満鉄を辞任して東京に戻る、政治には染まりたくなかったのではないだろうか。
そんな大賀は、その後のある日、千葉市剣見川草炭地にて、2000~3000年ほどの昔のものとされる丸木舟が発見されたのを聞き、駆けつける。それが、後にいう「大賀ハス」との出会いであった。彼は、仲間とともにその研究に没頭し、新たな境地をともに切り開いていく。思うに、求道者のような心境でもあったのだろうか、こんな風に、ハスのことを述べている。
「奈良平安の頃、わが国では「蓮葉の宴」が宮中で催された。まさにこれは観蓮会である。この「観蓮の宴」はその後の記録にないが、徳川中期になって山本北山が上野不忍池で観蓮節の詩宴を張り、五山・枕山・湖山がこれに続いたが、昭和十年からはわたしがついだ。(中略)
ハスといえば、仏教国のわが国民は、光明遍照の極楽浄土のこの象徴花を、いつしか陰気な暗い花にしてしまっていたが、特に戦後の新日本ではそうではなく、むしろ陽気な花となっているようである。(中略)生物長寿の好例となって、人生に希望を与えたばかりではなく、いつしかハスに対する人々の認識を深めたようにも思われる。(中略)
私は「ハスは平和の象徴なり」という標語に思いあたった。(中略)願わくは、このハスが、わが国から世界各地に伝わって、殊に世界に平和の来らんことを念願するものである。」
さらに、学業との関連もあったのだろう、戦後荒廃した上野不忍池の復興にも尽力する。以上のように、なんという清々しい話であろうか。
(続く)
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(続く)
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