♦️135『自然と人間の歴史・世界篇』カノッサの屈辱

2018-05-28 07:30:14 | Weblog

135『自然と人間の歴史・世界篇』カノッサの屈辱

 顧みれば1075年のはじめ、ドイツの王の権力とローマ法王の権力が激突する出来事があった。問題となったのは司教叙任権といって、法王グレゴリーが、当時俗人である国王や諸侯が持っていた聖職者を叙任する権利だった。法王はこれを否認し、法王権の王権に対する優位性をうたった法王教書を発した。
 これに対し、国王ハインリヒは反発した。王権もまた神が直接に創設したのであり、法王権の下には立たないとし、法王の意向を拒む。これを知った法王は、この年の12月、国王の恭順を求める書簡を送る。
 明けての1076年1月、ハインリヒはウォルムスに帝国議会を開く。そしてグレゴリー法王の廃位を決議する。これに怒った法王は、復活祭前の公会議において国王の破門を宣告するとともに、彼の臣下の彼に対する忠誠義務を解除する。
 これで収まらないのが国王の側であり、彼の臣下はどちらにつくかで二つに分裂する。10月になると、諸侯はトリプールに集まる。そしてハインリヒが法王によって1年以内に破門から解除されなければ、その破門の一周年にあたる翌年2月、法王が主催するするアウグスブルクの国会において位を追われるのもやむなし、と決議する。
 これには、それまで強気で通していたハインリヒも、危機感を覚えたのであろう。さきに出した法王罷免の命令を撤回するにいたる。その上で、アウグスブルク国会での裁きに従うことを表明する。それでも、やはり実際どうなるかの不安に駆られたのであろうか、
自ら進んで運命を切り開くべきではないかと考える。つまるところ、国王ハインリヒは、1076年のクリスマスの直前、ライン川中流域のシュバイエルをあとに、アルプスを南に越え、法王のいるところを目指す。
 おりしも、法王は、アウグスブルクの国会にのぞむため、イタリアを北上していたのだが、この報せに急遽予定を変える。ハインリヒ国王の嘆願にもかかわらず、グレゴリー法王は、信認あついトスカナ伯爵夫人マティルドの居城、アペニン山脈北端のカノッサに閉じこもる道を選んだ。
 困ったハインリヒ国王は、カノッサに急行し、法王に許しを乞いたいと願い出て、両者の間を使者が行きかっての後、やっと王の嘆願が法王に受け入れられる。こうしてハインリヒは、ついにカノッサ城の三重の門の第二門の中に入ることゆるされ、無帽、裸足、修道衣をまとって、3日間法王に赦免を乞い続ける。そのかいあってハインリヒ国王は城内に招き入れられる。告解を行い、諸侯との争いを法王の裁定に委ねることを約束し、これを条件に破門を解かれた。

(続く)

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