62『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(大化改新、645)
この変を断行し、成功した者たちが次になした政治改革こそは、「大化の改新」と呼ばれる。その時は647年(大化3年)の正月のことであった。「改新の詔」が発せられ、その中で朝廷は律令を定めることにし、こういう。
「其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまえる子代(こしろ)の民、処々(ところどころ)の屯倉(みやけ)、及び、別には臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものやっこ)、国造(くにのみやっこ)、村首(むらのおびと)の所有る部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(7)めよ。仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)より以上に賜(たま)ふこと、各差有(おのおのしなあ)らむ。
其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内、国司(くにのみこともち)、郡司(こおりのみやっこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河(やまかわ)を定めよ。
其の三に曰く、初めて戸籍、計帳(けいちょう)、班田収授法を造れ。・・・・・
其の四に曰く、旧(もと)の賦役を罷めて、田の調(みつき)を行へ。」(『日本書記』より引用)
これより少し前の645年(皇極大王4年)、同大王が弟である軽皇子に位を譲って誕生したのが孝徳大王である。
こうして生まれた新政権は、おそらく朝鮮半島の新羅(シルラ)との国交を回復し、都を難波に遷し、618年((日本においては推古大王26年))に誕生した大陸の唐(タン)を模範とした国造りを急いだものであろう。皇太子には、同大王の甥(おい)に当たる中大兄が就任し、辣腕をふるっていた。
そして大化の改新から十数年が経過し、孝徳大王が逝き、その姉の斉明天皇が再度の大王位に就いていた。斉明と中大兄皇子とは、大規模な土木工事を強行して、岡本宮を造営し、そこに移り住んでいた。二人は、この工事を強行したことでの民衆や一部の豪族、貴族からの不満や反感を鋭敏にも感じていたのではないか。
この新しい政府は、647年(大化3年)に、今の新潟あたりに○足柵(ぬたりのさく)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく)を設ける。658年(斉明大王4年)からは、北方への遠征を敢行する。いずれも、自らの王朝の範図の拡大という野望を叶えるためであったといえる。
おりしも、654年(孝徳大王4年)、同大王が死ぬと、中大兄の母が再び大王位につき(重○(ちょうそ)して)、斉明大王となる。その皇太子には、中大兄皇子が就任する。ところが、斉明の前の孝徳大王には有間皇子がいて、中大兄皇子とは従兄弟の間柄であった。658年(斉明大王4年)、中大兄皇子は側近の蘇我臣赤兄(あかえ)に命じて有間皇子に謀反をそそのかし、有間皇子が立ち上がるや逮捕し、死に追いやることに成功した。
(続く)
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