○62『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(大化改新、645)

2018-07-21 21:14:22 | Weblog

62『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(大化改新、645) 

 この変を断行し、成功した者たちが次になした政治改革こそは、「大化の改新」と呼ばれる。その時は647年(大化3年)の正月のことであった。「改新の詔」が発せられ、その中で朝廷は律令を定めることにし、こういう。
 「其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまえる子代(こしろ)の民、処々(ところどころ)の屯倉(みやけ)、及び、別には臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものやっこ)、国造(くにのみやっこ)、村首(むらのおびと)の所有る部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(7)めよ。仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)より以上に賜(たま)ふこと、各差有(おのおのしなあ)らむ。
 其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内、国司(くにのみこともち)、郡司(こおりのみやっこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河(やまかわ)を定めよ。
  其の三に曰く、初めて戸籍、計帳(けいちょう)、班田収授法を造れ。・・・・・
 其の四に曰く、旧(もと)の賦役を罷めて、田の調(みつき)を行へ。」(『日本書記』より引用)
 これより少し前の645年(皇極大王4年)、同大王が弟である軽皇子に位を譲って誕生したのが孝徳大王である。
 こうして生まれた新政権は、おそらく朝鮮半島の新羅(シルラ)との国交を回復し、都を難波に遷し、618年((日本においては推古大王26年))に誕生した大陸の唐(タン)を模範とした国造りを急いだものであろう。皇太子には、同大王の甥(おい)に当たる中大兄が就任し、辣腕をふるっていた。
 そして大化の改新から十数年が経過し、孝徳大王が逝き、その姉の斉明天皇が再度の大王位に就いていた。斉明と中大兄皇子とは、大規模な土木工事を強行して、岡本宮を造営し、そこに移り住んでいた。二人は、この工事を強行したことでの民衆や一部の豪族、貴族からの不満や反感を鋭敏にも感じていたのではないか。
 この新しい政府は、647年(大化3年)に、今の新潟あたりに○足柵(ぬたりのさく)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく)を設ける。658年(斉明大王4年)からは、北方への遠征を敢行する。いずれも、自らの王朝の範図の拡大という野望を叶えるためであったといえる。
 おりしも、654年(孝徳大王4年)、同大王が死ぬと、中大兄の母が再び大王位につき(重○(ちょうそ)して)、斉明大王となる。その皇太子には、中大兄皇子が就任する。ところが、斉明の前の孝徳大王には有間皇子がいて、中大兄皇子とは従兄弟の間柄であった。658年(斉明大王4年)、中大兄皇子は側近の蘇我臣赤兄(あかえ)に命じて有間皇子に謀反をそそのかし、有間皇子が立ち上がるや逮捕し、死に追いやることに成功した。

(続く)

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○61『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(乙巳の変、645)

2018-07-21 21:12:00 | Weblog

61『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(乙巳(いっし)の変、645) 

 さて、628年(推古大王36年)には、推古女帝も死んで、敏達大王の孫の田村皇子と、聖徳太子(しょうとくたいし)の長男である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)との間で跡目争いが起きたという。

 ここで、聖徳太子その人が存在しなかった可能性を否定できない(なので、ここでは、肯定も否定もしないまま話を進めよう)。後に創作されたのかも知れないとされる朝廷公認の「歴史」によると、山背大兄皇子の側が敗北を喫して、推古大王の甥(おい)にして中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)にとっては父に当たる田村皇子が即位(「践○(せんそ)」)して舒明(じょめい)大王となり、聖徳太子の一族だともされる彼らは根こそぎにされてしまう。

 つまびらかではないものの、そのの一族の多くは自決の道を選んだとも伝えられる。なお、この両皇子による争いの一部始終を蘇我一族の勢力拡張の野望で説明する説があるものの、そのような根拠は今日までの資料では見極めがたい。


 続いて、641年(舒明大王13年)に同大王が死ぬと、中大兄が「○(しのびごと)」の役を務めるのであった。翌年、彼の母親の宝皇女が大王位を引き継ぎ、これが皇極大王(こうぎょくだいおう)である。この間の権力継承の経緯については諸説があるが、ここでは村山光一氏の所説から暫し紹介しておく。


 「皇極二年(643)十月、蘇我蝦夷は私的に大臣の身分に伴う紫冠を長子入鹿に授け、大臣の位を入鹿に譲った。唐より帰国した僧○の学堂で学び新知識を身につけた入鹿は、皇位継承の第一の候補であった山背大兄皇子を、「国家の計」をなす器量がない人物と判断し、蘇我系の古人大兄皇子を擁立して大王とし、自ら実権を握ってその思うところの政策を遂行しようとした。そこで同年十一月、突如として斑鳩宮にいた山背大兄皇子とその一族を襲い、上宮王家を滅ぼして、独裁政権を樹立した。
 この入鹿の行動は、泉蓋素文(せんむんそむん)のクーデターに倣ったものと思われるが、その強引な権力集中は、蘇我大臣家の孤立を招いた。しかも入鹿が権力を掌握した時期は、倭国をめぐる国際情勢は緊迫しており、高句麗・百済と唐・新羅の二つの陣営からの倭国への働きかけは積極的になっていた。ところが、蘇我氏は伝統的に親百済的であり、入鹿もまた同様であったと思われ、したがって入鹿は高句麗・百済側に荷担し、新羅に対しては「任那の調」の取り立てを要求するという外交政策を打ち出した可能性が高い。
 蘇我入鹿の前記のごときいわれなき上宮王家襲撃、独裁政権の樹立、唐・新羅を敵にまわしかねない外交政策の採用は、畿内豪族層の間に急速に反蘇我大臣家勢力を結集せしめることになった。その中心は中臣鎌足と皇位継承から疎外された葛城皇子(中大兄皇子)であるが、この二人は密かに蘇我氏から権力を奪取する機会をうかがい、また来るべき新政権の外交政策、内政改革について綿密な計画を練っていた。」(国史概説Ⅰー古代・中世」慶應義塾大学通信教育教材、1988)


 ここで見逃すべきでないのは、これら一連の政治の動きには、朝廷を支える豪族たちの力の伸長があったことである。こうなると、大和の朝廷の中で、互いに並び立っている複数の有力な者同士、その集合体による勢力を一本化しようという動きが火花散るようになっていくのは避け難い。つまり、権力基盤を固めようという側からは統治の一本化、集中化は避けては通れない。ありとあらゆる権謀術数が渦巻いたに違いない。
 その中でも、土着の勢力の筆頭であった物部氏を倒してからの蘇我氏(そがし)は大きくなり、大和朝廷の重鎮となっていた。蘇我氏の方は朝廷に忠勤を励んでいるつもりでも、「大王(おおきみ)」や対抗勢力からみると、数々の不遜な動きがある、怪しいなどということになっていく。機会があれば倒したい相手と映っていたとしても、それは政治の世界のことで、特段不思議なことではない。
 その中央集権化の最初の現れが、皇極(こうぎょく)女帝の治世、645年(大化元年)の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、斉明大王の息子にして後の天智大王)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀って主導した乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)であった。おそらく、これで蘇我氏に対し、おそらくは「無実の罪」を被せ、滅ぼしたものと考えられる。

(続く)

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○○18『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器使用の発展)

2018-07-21 09:23:06 | Weblog

18『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器使用の発展)

 大いなる気候の変化は、伊豆半島にも押し寄せたであろう。手掛かりとしては、黒曜石の利用がある。列島の後期旧石器時代前半期の約4万前から約2万8000年前にかけて各地で利用されるようになっていた。
 主たる産地の一つは、伊豆諸島・神津島(こうずしま)にあったという。南関東と中部地方南部では、伊豆諸島・神津島産の黒曜を使っていた。ちなみに、地図を広げると相当の距離があって、渡海のためには航海術を必要としたことだろう。黒曜石は、主として火山活動で生成される。そのため、産地は主に本州の山岳部にある。朝日新聞の「黒曜石を運んだ海の道、人類史の謎が眠る海」の特集記事には、こうある。
 「垂れ込めた雨雲の下、伊豆諸島・神津島(こうづしま)から小さな島影が見えた。
 太古の昔、神津島とつながっていた無人の岩礁群。恩馳島(おんばせしま)と呼ばれるこの岩礁の島に、人類史の謎が横たわっている。
 恩馳島は、考古学の世界で黒曜石の産出地として知られてきた。
 旧石器時代、黒曜石は最先端のハイテク素材だった。ガラス質の黒曜石は、うまく割ると石刃(せきじん)になる。加工すれば鏃(やじり)になる。当時、獲物を狩るための道具は命綱だった。良質な黒曜石を求め、人々はどんな遠征もいとわなかった。
 主な山地は中部日本と北海道、九州。調べると、黒曜石を運んだ距離は時に数百キロに及ぶことがわかった。本州で恩馳島の黒曜石が次々見つかったことは、さらに驚くべき発見だった。旧石器人が海を行き来し、恩馳の黒曜石を本州に運んだということになるからだ。その年代はどんどんさかのぼり、とうとう3万8千年前の遺跡からも出土した。
 「はい、船で往復した例としては、世界最古です」
 国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介さん(46)が淡々と説明する。
 海部さんによると、およそ5万前にアフリカを出たホモ・サピエンス(現生人類)が原罪のインドネシアから豪州へ海を渡ったのは4万7千年前。このときは「渡った」ことしかわかっていない。「行き来した」と「渡った」は全く違う。行き来には航海術がいる。」
(2015年7月25日付けの朝日新聞「be」欄)
  さらに、人骨と土器、そして石英製石器が同時に発掘されたという話も載っており、それにはこうある。
 「沖縄県立博物館・美術館は昨年12月、サキタリ洞で少なくとも9000年以上前の成人の人骨を発見したと発表した。成人1体の頭部など上半身と、大腿骨や骨盤などがあおむけの姿勢で見つかった。(中略)
 昨年2月に9000年前の土器が上から5層目で発見された。今回はさらに約1メートル掘り進んだ7層目での発見。詳しい分析は今後進められるが、9000年前から大幅に遡る可能性がある。これまでは愛媛県や長野県でみつかった9000~8000年前の埋葬人骨が最古級だった。
 同博物館・美術館は遺物の年代決定に放射性炭素年代測定法による誤差を補正する国際的なものさし「IntCal(イントカル)13」を昨年から採用、従来の発表年代を一部修正しているが、サキタリ洞での調査では文字通り歴史を画す発見が相次いでいる。
 12年に1万4000年前の人骨と石英製石器がそろって出土した。骨と道具が同時に出土した例としては国内最古になる。昨年2月には約2万3000~2万年前の人骨、国内最古の「貝器」、9000年前の沖縄最古の土器などを発見したことを発表、今回の埋葬人骨と続いた。
 サキタリ洞での発見に注目が集まるのは、年代の古さとともに、日本人の起源を巡る研究にも影響があるからだ。というのも、日本人のルーツを考える上で欠かすことができない「港川人」が発見された港川フィッシャー(割れ目)遺跡(八重瀬町)と、サキタリ洞とは約1.5キロの至近距離だからである。
 旧石器時代の人骨は国内でほとんど発見されていない。本土は火山灰に覆われた酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されにくいためで、日本最古の人骨は那覇市山下町で見つかった「山下洞穴人」。同博物館・美術館によると、約3万6000年前で、港川人は約2万2000年前と見られている。本土で確実な旧石器人の骨は静岡県浜北市(現浜松市)で出土した「浜北人」(約2万年前)だけとされている。沖縄はサンゴ礁が隆起した石灰岩地帯が多く、風化から免れた。」(日本経済新聞2015年1月27日付け)

(続く)

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○○17『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(最初の石器使用)

2018-07-21 09:21:08 | Weblog

17『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(最初の石器使用) 

 それでは、この列島に最初にやってきた人々は、どんな暮らしをしていたのだろうか。そんな観点からは、最も古い年代の石器使用はどのくらい遡るのだろうか。参考までに、日本経済新聞に、「島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正」なる記事が載っており、こうある。
 「島根県出雲市の砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は7日までに、出土した石器36点について見解を再修正し、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた報告書にまとめた。
 2009年の発表では、12万7千年前ごろにできた地層と、約11万年前の三瓶木次火山灰でできた地層に挟まれた地層から石器が出土したとして、石器の年代は約12万年前の国内最古と発表した。
 その後、火山灰の地層は三瓶木次層でなく、約7万年前の三瓶雲南層と判明。翌年、石器の年代を7万~12万年前と幅を持たせて修正した。岩手県遠野市の金取遺跡でも5万~9万年前の石器が出土していたことから、砂原遺跡の石器も最古から最古級と見解を変更した。
 松藤教授によると、石器を含む地層の成分を詳しく調べたところ、層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることが分かり、約11万年前と判明、石器を含む層は11万~12万年前と結論付けた。
 松藤教授は「考古学の研究であまり試みられなかった地質学の手法も組み合わせて、年代を特定できた。遺跡調査の手法を飛躍的に高める先例になるのではないか」としている。」(2013年6月7日付け日本経済新聞)
  それでは、ここに、この列島での石器の最初の使用が、最大12万年も遡るというのであれば、それからの石器の利用はどうなっていったのだろうか。ようやくにして、その輪郭らしきものが明らかになってくるのは、おりしも地球の温暖化の影響が日本列島にも進んできた頃であった。
 約1万2000年前くらいからの海面の上昇により、海岸線はどんどん陸地の奥へと入っていく。そのため、関東平野のような平地では、今日の埼玉県の西部と南部はもとより、秩父の低地にまで海が押し寄せてきた、現代の地理学では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)、そして埼玉県の奥まで進した海のことを「奥東京湾」と呼ばれている。

(続く)

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♦️155『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀後半)

2018-07-20 22:24:57 | Weblog

155『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀後半) 

 1555年には、前にダンテ・アリギエ(ー)リ(1265~1321)の遺作「神曲」初版が発刊される。その彼は、フィレンツェの貸金業の家に生まれ、長じてはその父を継ぎ同市の政治派閥の一方(白党)の重鎮となっていた。だが、1302年にはローマ教皇を抱き込んだ他方(黒党)の圧力にフィレンツェを追われる。さぞかし、無念であったらしく、それからは、イタリア各地を転々とする間に、この著述に没頭していく。
 話の舞台は、地獄・煉獄(れんごく)・天国の3編からなる。これらのうち煉獄とは、カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化される、その場所をいう。その体裁だが、自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、それからベアトリーチェに導かれて天国をめぐり歩く。その間に、歴史上の人物の死後の姿に出会うという。これを大叙事詩調にて、語りかける。ダンテは、この「神曲」をラテン語でなく、トスカナ語(フィレンツェを中心とするトスカナ地方の口語)で描くことで、イタリア・ルネサンスの先駆者となった。
 1559年には、ジャック・アミヨがプルタルコスの『対比列伝』(仏訳本)で「文芸のルネサンス」という考え方を示す。1561年、グイッチャルディーニにより『イタリア史』が出版される。
 1568年、スペイン領ネーデルラントが独立戦争を開始する。1570年のイタリアにおいては、いわゆる神聖同盟が盟約される。これは、おりからのキプロス島の攻防をめぐってトルコと会戦していたヴェネチア共和国が、キリスト教諸国に援助を求めていた。これに対し教皇膝下のローマがスペインやイタリア諸邦に呼びかけたものである。
 その翌年の1571年のレパントの海戦に、スペインの「無敵艦隊」を主力とする同盟艦隊がトルコを打ち負かした。これは、イスラム勢力の伸長に対し、キリスト教国の陣営を守った形であった。

 しかしその反面、この勝利がスペインの勢力を強めたことがあり、17世紀を迎える頃のイタリアでは、ミラノ公国領、ナポリ・シチリア・サルデーニャ三王国領およびトスカーナ西南海岸がスペイン総督府の支配下に入った(詳しくは、森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)。
 1580年には、モンテーニュの『随想録(エセー)』初版本が出版される。
 以上の事柄を概観するに、ルネサンス期は文芸復興に、羅針盤と活版印刷の実用化と地理上の諸発見などという外装・外観を伴っていたのである。

(続く)

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♦️154『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀前半)

2018-07-20 22:22:45 | Weblog

154『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀前半) 

 明けて16世紀の初頭からのローマでは、ユリウス2世(在位1503~13)、レオ10世(在位1513~21)などの文芸庇護者が出てくる。これに押されて、サン・ピエトロ大聖堂の全面改築、美術品の収集などの事業が行われる中で、文芸運動は盛況を迎える。1506年には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改築工事が始まる。その建築主任はブラマンテであった。
 同年には、ローマのピョートル大聖堂の建造開始に伴って、資金を得るために贖宥券(通称では、免罪符)の販売が始まる。1508年、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂天井壁画を描き始め、1512年に完成させる。
 1511年、ネーデルランド出身のルネサンス人文主義者デジデリウス・エラスムスが、ラテン語による諷刺文学『愚神礼賛』を著す。1509年から1510年の間には、ラファエロ(1483~1520)が、時の教皇ユリウス2世の委嘱を受けて「アテナイの学堂」を製作した。それには、古代ギリシアの哲学者、科学者などが堂々たる姿で描かれている。
 1513年には、マキァヴェリが『君主論』を著す、公刊されたのは1532年であった。フィレンツェの政治に関与していた経験から、イタリアで分裂と混乱回避の緊急手段として、君主に一番必要なものは強力な権力であるとした。政治行動の評価の基準を善悪から、力の行使におき、目的を達成するには権謀術数を用いても構わないとした。1515年、ギヨーム・ビュデ『古代貨幣考(アースについて)』が出版される。1515~1524年、ブロアの城館にフランソア1世館の建造が行われる。1516年、トマス・モア『ユートピア』とアリオスト『狂えるオルランド』が出版される。
 1516年、ハプスブルク家がスペイン王国を支配するに至る。1519年、マジェラン(マガリャンイス)が世界周航に出発する。文芸の都ローマについては、1527年、神聖ローマ帝国のカール5世の軍隊がローマを荒らす。これを「ローマの略奪」という。以来、ルネサンスの中心地は衰退していく。

 「フィレンツェでは「ローマ劫掠」の報が伝わると、事件の十日後の1527年5月16日、共和派と反メディチ派が一斉に蜂起し、メディチ家の二人の若い当主、イッポリトとアレッサンドロ、そしてクレメンス(ローマ教皇クレメンス7世)の名代パッセリーニ枢機卿を市から追放した。イッポリトとアレッサンドロはその傲慢で粗暴な性格のため悪評が高く、コルトーナ出身のパッセリーニも陰険で非常な人間として市民から嫌われていた。またローマにいるクレメンスの間接統治によってフィレンツェ市民は重い税負担を強いられ、メディチ支配への反感が強まっていた。共和派は、大評議会と市民軍を復活させ、ニッコロ=カッポーニを国家主席に選び、サヴォナローラ時代と同じように、「王イエス・キリスト」を戴く共和国を打ち立てた。」(森田義之『メディチ家』講談社現代新書、1999)

 1529年、皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世の和睦が成立し、皇帝がメディチ家のフィレンツェ復帰を確約した。このため、皇帝軍のフィレンツェ攻撃は避けられないということになり、共和派は市の要塞化と戦争準備を進める。翌年、フィレンツェはスペイン兵を主力とする神聖ローマ皇帝軍に包囲される。攻撃を受け、市民は焦土作戦を展開して抵抗したものの、戦局の不利はあらたまらず、8月には降伏する。

 こうして、ルネサンスの中心地は衰退していく。かかる文化の潮流は、ナポリ、ヴェネチア、ミラノ、フェラーラ、マンとヴァ、ウルビノなどの大小の都市に分散していく。 

 同じ1529年には、フランス王フランソワ1世(在位1494~1547)が、古典語の研究所、のちの「コレージュ・ド・フランス」を設立する。また、フォンテンブローの離宮にロッソ・フィオレンティーノほかイタリア人職人を招く、これを「第一次フォンテンブロー派の形成」という。

 1543年には、ベサリウスによる『人体の構造に関する七つの本(ファブリカ)』とコペルニクス『天球の回転について』が出版される。1545~1563年、トレント公会議が開催され、反宗教改革の狼煙(のろし)を上げる。1547年、ミケランジェロ(1475~1564)がサン・ピエトロ大聖堂の建築主任になり、大円蓋を設計する。1550年、ジョルジョ・バザーリが『美術家列伝』で、「美術のルネサンス(ルネサンス美術)」ということば遣いの下にイタリア美術の歴史を跡づける。

(続く)

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♦️169『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(レオナルドとミケランジェロとラファエロ)

2018-07-19 21:52:53 | Weblog

169『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(レオナルドとミケランジェロとラファエロ) 

 レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)、ミケランジェロ・プオナローテイ(1475~1564)、それにラファエロ(ラファエッロ)・サンテイ(1483~1520)の3人は、後期ルネサンス期を代表する芸術家として、世界に広く知れ渡っている。どんな時代においても、物事のスタートには、きっかけと動機があるものだ。
 まずはレオナルド・ダ・ビンチだが、「万能の天才」の異名をもつ。中でも、画家として建築家として、大業をなした人物だと評される。大作としては、「最後の晩餐」をつくった。画業は、自身が考える究極のものとなるまで、手放すことなく書き加えていたと伝わる。「モナリザ」などは、当時の人々の精神性をも伝えているかのようだ。個人としてだけではなく、レオナルド主宰による工房としても仕事を請け負っていたらしく、多くの弟子や助手を動かして、顧客からの依頼に応じていたという。

 そのレオナルドにおいては、解剖学に裏付けられての人体描写ばかりでなく、例えば、空を飛ぶ原理を考えたり、目の構造を見極めようとしたりで、多彩な方向への発展が、折々に書き記したメモなどに見てとれるだろう。これらによる飽くなき探求という意味合いからも、ルネサンスの最も先鋭的部分であったのではなかろうか。

 
 対するに、ミケランジェロも、多芸でもあるところに特色を持っていた。ざっと彫刻を中心にして、建築、それに絵画までを包含するといったところか。建築は、ローマのサンピエトロ大聖堂の設計を手掛けた。円錐状の堅固なドームは、当時の支配的な価値観を反映しているのであろうか。別人が始めた計画を引き継いだものも、数多くあるという。
 わけても彫刻では、これだという石を選び、ノミをふるって、「頭の中にある対象を掘り出す」とか、「余分なものを取り除いていくことにより、彫像は完成していく」と喝破していたという。

 若い時の「ダビテ」とか「ピエタ」とかは、寸分の隙間もないような作品ばかりだ。それから絵画の大きいところでは、システィーナ礼拝堂の天井画「最後の審判」があり、左右対称の構図をもち、正三角形が重要な役割を果たしている。
 そんな自信満々かに見えていた彼にして、88歳の時の作品といわれる「ミラノのロンダニーニのピエタ」では、イエス・キリストの亡骸を、覆い被さるような姿勢で抱いている女性は、歴史上の「生母」その人にして、長男の死に悲嘆に暮れているのであろうか。それとも、あくまで聖書伝説上の「聖母マリア」として描かれているのだろうか。

 若い頃の作品のような正確無比、力強さといった類のものは、何一つとして看取できない。ありきたりのものではない、素朴な美しさというのだろうか。その頃の彼に、「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現できるようになったと思う時に、死なねばならぬことだ」という述懐があって、さぞかし無念を感じていたのかもしれない。


 3人目のラファエロは、中部イタリアの古都、ウルビーノ生まれの天性の画家、建築家であった。その短い生涯に、画業絵の上で実に多くの仕事を成したことで有名だ。大きなものからいうと、ローマ教皇の住所であるヴァチカン宮殿「署名の間」の壁画がある。彼は、これの作成を画業の棟梁として請け負っていた。依頼主は、なにしろ激しい気性で知られるユリウス2世であったというから、完成までには二人の間で壮絶なやり取りがあったのではないか。これを完成させたラファエロ及びその工房は、たちまちローマ画壇の寵児となったという。
 このラファエロだが、めずらしいところでは、ドイツ南部の都市ニュールンベルクに住んでいた版画家のデューラーと、親しくつきあっていたという。ラファエロが描いてデューラーに贈ったという素描(そびょう)が残っているとのこと。
 もうひとつ、ラファエロは晩年に弟子と一緒の絵を描いている。弟子のジュリオ・ロマーロらしき男が師匠のラファエロを親しげに振り返っているもので、自画像としてのラファエロは穏やかな表情をしている。

(続く)

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♦️286『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849)

2018-07-16 21:37:30 | Weblog

286『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849) 

 オーストリアでは、1848年3月13日に、首都のウィーンで民衆たちが蜂起する。これに恐れをなした宰相メッテルヒはイギリスに亡命する。
 3月31日、オーストリアの支配下あったハンガリーでは、バチャーュを首班とするハンガリー独立内閣が成立する。ボヘミアでも4月チェク人が動き、ボヘミア自治のための憲法制定議会を開くことを要求し、これをウィーン政府に認めさせる。6月なると、プラハで歴史家のパラッキーを議長とする汎スラブ主義よる会議が開かれ、ドイツ人に対するスラヴ人の団結を唱えるのであった。 
オーストリアの圧力の下にあったイタリアにおいても、自由主義的な動きが波及していく。3月中旬のミラノで暴動が起きると、全国に広がる。オーストリアの守備隊を国外に追いやり、自治の意識の強いヴェネツィア市は共和政を宣言する。この動きに乗じて、この年の始から自由主義憲法を発布して、自由主義運動の旗手を任じていたサルディア王カルロ・アルベルトは、オーストリア宣戦を布告し、これにはイタリア各地からかなりの援軍がかけつける。
 とはいえ、オーストリア国内の革命勢力が相互に連絡し、妥協点を見出そうとすることなく、反目し合っていた。その間に保守反動勢力は態勢を立て直していく。1848年10月ウィーンで、軍隊による反革命が成功する。ハンガリーやボヘミアの革命運動が、政府軍に各個撃破される。
 概して、これらに参加した人びとは、ブルジョア的な自由主義から勤労者的な自由主義まで、広範な領域に散らばっていた。彼らが自分たちの希望を一歩実現するには、違った階層に属する者同士が当面の目標実現のために戦術的に統一し、目の前の一歩を踏み出さねばならない。
 総じて、敵と妥協しないためには、見方と大胆で必要な妥協をすることが必要であり、そのためには揺るぎない原則というものを持たねばならない。その際には、複雑に絡み合う利害、勢力関係などをその都度見極めながらも、順序だって進んでいくことでなければならなかった。これらの地方での革命の早々での失敗は、それらが完遂できなかった点で時期尚早であったという見方もできるのかもしれない。

(続く)

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♦️867『自然と人間の歴史・世界篇』インドの市民運動(~2017)

2018-07-11 16:44:42 | Weblog

867『自然と人間の歴史・世界篇』インドの市民運動(~2017) 

 インドでは、原子力発電所を増やす政府の方針があり、立地地域の住民との間で争いが起こっています。

 2012年9月10日、インド南部タミルナド州で10日、原発の稼働に反対するデモ隊に警官隊が発砲し、1人が死亡しました。数百人のデモ隊が警官隊に投石して抗議したほか、鉄道の線路も封鎖し、これに対し警官隊が空中に一斉射撃して対抗したが、デモ隊の1人に銃弾が命中し死亡したといいます。
 稼働が計画されているクダンクラム原発は沿岸部にあり、主に女性や子どもたち約4000人が原発の近くにキャンプを張り、放射能の脅威を訴えて反対活動を行っています。同

 原発はロシアの支援を受け建設され、昨年には稼働する予定でした。しかし、東日本大震災による福島第1原子力発電所の事故を受けて、原発稼働に反対するデモ隊の抗議が続いています。南部は、2004年のスマトラ島沖地震で津波の被害を受けた場所でもあります。
 インド政府は2032年までに30基の原発建設を予定しているところです。

(続く)

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♦️868『自然と人間の歴史・世界篇』農村雇用保障法からガンジー国家農村雇用保障法へ

2018-07-11 16:23:14 | Weblog

868『自然と人間の歴史・世界篇』農村雇用保障法からガンジー国家農村雇用保障法へ 

 農村雇用保障法(National Rural Employment Guarantee Act, 2005)について、
OVTAのHPなどによる報道、論評からまとめると、こうなります。
 インドでは、農村を中心に、2014年1月26日現在、一日1.25ドル(約130円)未満で暮らす貧困層が約4億人いる、といわれています。
 この法律は、そのインドで国民会議派政権が中心となり、2005年に成立しました。女性や被差別カースト民などを中心に貧困農村世帯から希望する農民は、各1人について年間100日を上限に雇用し、土木工事(主に、土を掘ったり運んだりする単純労働だが)などへ就労することができ、その分所得が得られる、という仕組みです。これは、日本でも戦後しばらく間に失業対策事業がありましたから、類似している部分があります。
 これは、2009年にヘリコプター事故で死亡したY・S・ラジャシェカーラ・レッディ元アンドラ・プラデシュ州首相がその州において導入した事業を全国に拡大したものです。
 この法律は、2009年度には独立の父の名を冠した「マハトマ・ガンジー国家農村雇用保証法(MGNREGA)」と改められました。
 この法制の評価を巡っては、当座の生活不安の緩和については前向き評価がなされていますが、貧困している農民の生活自体を立て直していくことについてはほとんど力になっていないことが、広く指摘されているところです。言い換えると、生活自体を総合的に改善していく施策を進めていかなければ、一つ一つの施策の効果は限られているのではないか、ということになるでしょう。
 なお、2012年の間はラート州においては、「実際に雇用が確保されたのは、1人平均で平均23日、最貧州のビハールではわずか5日だった」(朝日新聞、2014年4月19日付け)、と伝えられています。「年間の所得が5千ドル(約50万円)を下回る低所得層は約10億人と、全人口の8割を占める」(同紙)社会の下でいかに実効ある政策を組み立てていけるかが問われています。  

 「農村部では、「Mahatma Gandhi National Rural Employment Guarantee Act(MGNREGA)」により失業率が低下している。この法律は、未成年者の手作業でボランティアをしているすべての世帯に、会計年度に少なくとも100日間の有給雇用を提供することにより、「働く権利」を保証することを目的としています。」(「East  Asia  Forum」の2017年6月2日号)

(続く)

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♦️610『自然と人間の歴史・世界篇』インドと中国の国境紛争(1962)

2018-07-10 17:14:24 | Weblog

610『自然と人間の歴史・世界篇』インドと中国の国境紛争(1962) 

 1962年10月、中国の人民解放軍がヒマラヤ国境を越えてインドに軍事攻撃を始めました。二つの紛争地域に兵を進めていたインド軍は3000人を失うという大敗を喫して退却しました。

 中国軍は、北東辺境管区の国境全域とアクサイチンを制圧しました。そこで中国は停戦を宣言し、1959年に両国が支配していた地域の境界線より内側に撤兵する予定をインドに示しました。両者の間には、「あいまいな国境線」が残されました。
 このとき、ネルーは15年間堅持してきた非同盟政策にもかかわらず、アメリカに救援を求め、ケネディ大統領はベンガル湾に空母を派遣するよう命じたところでした。
 この問題の本質の一つにチベットの領有問題があります。中国側の主張に拠れば、チベットは昔からの中国の領土であるし、この地域を含む中国からの分離派に対しては断固たる態度で臨むことになったことになります。インドと中国はその後も国境紛争を繰り返し、最終的にインドが中国のチベツト領有を認めたのは2003年でした。

(続く)

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♦️864『自然と人間の歴史・世界篇』インドのオーストラリアからのウラン鉱石の輸入と国内調達

2018-07-10 11:15:17 | Weblog

864『自然と人間の歴史・世界篇』インドのオーストラリアからのウラン鉱石の輸入と国内調達  

 インドの豪州からのウラン鉱石の輸入について(2014年9月の豪州との合意)  2014年9月5日、オーストラリアとインド、原発の燃料となるウランなど核物質の輸出入を可能にする原子力協定を締結しました。オーストラリアのアボット首相が5日、訪問先のインドでモディ首相(インド人民党)と会談、協定締結で最終合意したものです。

  オーストラリアは核拡散防止条約(NPT)未加盟国へのウラン輸出を禁じていたのを2007年に対インド輸出の解禁を方針を決定していたものの、外国政府との合意に至っていませんでした。今回のインドとの措置により、世界最大のウラン埋蔵量を誇るオーストラリアが、核拡散防止条約(NPT)未加盟国に対するウラン禁輸を初めて解除したことになります。
  これに関連して、インドのウラン鉱山がもたらすの環境破壊について(2014年7月時点)にも触れておきましょう。鉱山の名前は、ジャドゥゴタ鉱山。首都のニューデリーから約1370キロメートル離れたインド東部ジャルカンド州にある人口約2万人の町ジャドゥゴダにあります。
 この地域は、空前の原子力発電ブームを支える燃料、ウランのインドの採掘拠点です。 ここでは、インド・ウラン公社が政府から鉱業権を付与され、毎年、数十万トンのウラン鉱石を採掘しています。  細かくいうと、この地域には2003年11月時点で、第一ウラン鉱山がNarwapahar 第二鉱山がBhatin、第三鉱山がジャドゥゴダです。
 これら3つの鉱山は約0キロメートルしか離れていません。採掘されたウラン鉱石はジャドゥゴダにある国営ウラン会社(UCIL)に集められて精錬にかけられます。  ところが、この場所で核物質による環境汚染が深刻化しています。鉱山の近くの複数の池には、低レベル放射性廃棄物が放置されていて、住民への健康被害が数多く報告されているところです。

(続く)

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♦️571『自然と人間の歴史・世界篇』第一次インドとパキスタンとの紛争(1948~1949)

2018-07-10 11:06:23 | Weblog

571『自然と人間の歴史・世界篇』第一次インドとパキスタンとの紛争(1948~1949) 

 1947年8月、インド・パキスタンとしてイギリスから分離独立しました。この時点でパキスタンはインドの東西に領土を持つことになりました。
同じ月に独立したインドではネルーが首相となり、当初は「社会主義」を目指していました。
 ここで独立の時点で、パキスタンの人口と領土がどのようになっていたかをみておきましょう。
 ベンガル(東西)には3300万人のムスリムが住み、州人口の55%を占めていました。またパンジャーブには1600万人のムスリムが住んでおり、こちらの州人口に占める比率は57%となっていました。
  他に、スィンド、北西辺境州、バルーチスタンがあって、これら全国(英領インドと藩主国)にいたムスリムの合計は9500万人がいました。これは、当時のインド大陸に住んでいた人口総数の約4分の1に当たっていました。1947年の独立によりパキスタンの住人に数えられることになったムスリムは6000万人とも言われています。
 同年10月、パキスタンがカシミールに軍事侵攻しました。この地方の70%はイスラム教徒であり、カシミールの藩主たちはパキスタンから独立しようとして、インドに保護を求めました。インドはカシミールに軍隊を派遣し、ここに第一次の印パ戦争が始まりました。
 1948年、インドはパキスタンがカシミールに軍事侵攻したことを捉え、国連に提訴しました。同年9月には、印度軍がハイデラバードを武力併合しました。1949年1月、国連の調停によりカシミールを巡る両国の戦争は停戦しました。

(続く)

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♦️858『自然と人間の歴史・世界篇』米印原子力協定の発効 (2008)

2018-07-10 10:43:02 | Weblog

858『自然と人間の歴史・世界篇』米印原子力協定の発効 (2008) 

 2008年10月10日、米国のC.ライス国務長官とインドのP.ムカジー外務大臣は、ワシントンで「原子力の平和利用分野に関する協力のための米合衆国政府とインド政府との協定(123協定)」に調印しました。これにより、同協定は正式に発効しました。
 これまでの経緯は次のとおり。2005年7月、ブッシュ大統領がそれまでの方針転換で、インドのシン種商との間で原子力協定の締結で合意しました。  2007年7月、同協定が政府間で締結されました。
 2008年9月27日、米国連邦上院が本会議で、米国から印度への民生用の核技術・燃料の供給を認める米印原子力協定を82対13の賛成多数で可決しました。
 2008年10月1日、米国連邦上院が本会議で、米国から印度への民生用の核技術・燃料の供給を認める米印原子力協定を82対13の賛成多数で可決しました。これにより、大統領の署名を得て、米国側の手続きが完成します。
 同協定の発効には、インドと国際原子力機関との査察協定の締結、原子力供給国グループ からインドを例外とする米議会での承認が必要でした。

(続く)

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♦️863『自然と人間の歴史・世界篇』インドの外資導入(小売業など、2012)

2018-07-09 22:29:45 | Weblog

863『自然と人間の歴史・世界篇』インドの外資導入(小売業など、2012)

 2012年8月9日、インド各地でスーパーやコンビニエンスストアなどへの外資導入に反対する、小売り業者を中心としたデモが一斉に行われました。
 この集会は中小零細の小売業者らでつくる「全インド商業連盟」が主催したもので、西部のムンバイ、南部のチェンナイ、東部のコルカタなど主要都市のほか、地方の中小都市でも開催されました。参加者は「外資参入でインドは経済的奴隷状態に陥る」、「インフレが進む」と、反対の理由を叫ぶ声が聞かれた、と伝えられています(読売新聞、2012年8月10日付けなど)。
 これより先の2011年11月、インド政府は外国からの投資促進や小売業の効率化を推進するため、51%までの制限付きで外資による小売業への出資を認める決定をしました。ところが、関係業界のほか、与党連合内の一部政党からも反発があり、はやくも同年12月にはこの決定の撤回に追い込まれました。今回の集会は、スーパーやコンビニエンスストアなどへの外資参入を引き続き認めてはならない、とする勤労大衆の意思表明の場となりました。
 (このところの外資に対する規制緩和の動きについては、その他次のものがあります(2013年版通商白書より)。
 2012年9月14日発表:民間航空業:上限49%。:単一ブランド小売業:出資比率51~100%の場合の現地調達率などの緩和。:放送事業:衛星放送など上限74%。:電力取引事業:上限49%。
 2012年10月4日発表:保険業:上限49%。:年金基金:外資に開放。さらに、国有企業の一部売却の動きもあります(2013年版通商白書より)。
 そして2012年9月14日発表:資源系4社:MMTC、Oil India、MALCO、Hindustan Copper)

(続く)

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