新22『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き2 

2016-09-29 11:24:05 | Weblog
22『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き2 

 晩春から初夏にかけての田圃で美しいのは、蓮華草である。この種を蒔いて育てているのは、肥料としてというよりはむしろ、家畜の飼料にするからであった。
 後のことだが、こんな歌がはやっていた。
 「山の麓の小さな村で咲いたかわいい蓮華草よ、覚えているかいあの子のことを、えくぼのかわいいこだったね・・・・・」(作詞と作曲は安藤久、1972年8月ビリーバンバンの唄でレコードが発売された)
 その田んぼには、沢山の蓮華草に蜜を取りにやってきていた。働き蜂たちはあくまでも蓮華の花の蜜を取るのが仕事である。かれらは、「蜜胃」とか「クロップ」なるものを持っていて、そこに蜜をためる。蜜蜂たちがそうしているのは、彼ら自身のためにするのではないらしい。巣に戻れば、ここから蜜を出し、それが幼虫たちの食料と鳴る。自分の体の一部が蜜蜂社会の維持に用立てられるわけだ。自然界の営みは、ここではなんとも献身的な輩(ともがら)によってできあがっているようなのだ。
 水田一面に咲きそろうピンクと白色の花は、春の日差しを浴びて美しく輝く。まるで絨毯で埋め尽くされているようだ。蓮華の茎の高さは30センチ位はある。その先に10個ほどの小花が輪状をなして集まって1~2センチの花を形づくっていり、その小花の並ぶ様子が蓮の花に似ているということで、この名が付いているようだ。
 作業に取りかかるときは、腰を低くして、茎と花の全体を鎌でたぐるようにして刈り取る。その間、とにかくむせるし、暑い。あたりは、蓮華の匂いがむっとして充満している。初めの頃はよいのだが、時間が経つうちに汗が下着を濡らす上、風がないと、なんとも形容しがたいまでの体の倦怠感を時折感じることもあった。
 おそらく、朝からの労働で筋肉に疲労物質がたまってきているのであろう。その度に、「おいしっ」と気合いを入れ直して、目前の仕事にむかっていくのであった。さもなければ、「何やっとるのか」と父の大きな声が聞こえてきそうなことも、踏ん張らねばならぬ一因でもあった。
 その響きは、「ウアーーーン」と上がっていって、中程に行くと消えるか消えないかくらいになり、それからは「アーーーーン」と緩やかに下っていく、なかなか趣がある音色だった。その頃の上村の商店街、たしか酒屋さんのとなりあたり、昼のサイレンが長々と鳴り響く頃には、全身が汗だくになっている。というのも、父はあまり休めとはいってくれないので、父と隣合わせて働く時はしんどかった。それでも休憩がとれると、田んぼの畦に腰掛けたり、まだ刈っていない蓮華草のふとんのように盛り上がっている辺りに寝転んで、休憩をとった。寝転ぶと、まだ春だというのに、日差しがもうまぶしく感じられ、目をほそめつつ、太陽の光を感じていた。刈り取った蓮華草の大方は、胸の前で両手で抱くようにして集め、父の運転する耕耘機の荷台に乗せて、坂を上り、自宅近くのサイロに運んだ。残りの蓮華はその場で干し草にすべく、そのままにしておいた。
 兄と私は、そのサイロの中で蓮華草を踏む役であった。上から父がどんどん蓮華を降ろしてくる。サイロの中は、ひんやりさとなま暖かさが微妙に入り交じっている。そして、鼻腔から喉にこみ上げてくるのは若草の臭い、それらの中で「おいせー、おいせー」と小声で唱えながら、足踏み作業を繰り返した。中はむし暑くなってきて、下着は汗でだらだらに濡れるし、履いている長靴の底までが臭く汗ばんでくる。早く上がるためには、早いテンポで蓮華草を投げ込んでもらわないといけない。疲れてくると、自分がとらわれの身になっているようで、早く仕事を済ませてサイロから抜け出し、「お天道様」を拝んでゆっくりしたいみたい気分になっている。
 蓮華は中国から渡ってきた。当時は、これが牛の餌となっていた。茎葉は栄養分が豊かで、柔らかい。花言葉も「わたしの苦しみを和らげる」というらしい。藁と混ぜて牛に食べさせるには最適だ。農繁期の牛には、重労働をさせるため、麦の蒸したものを食べさせるが、蓮華もまたサイロの中で滋養のある牛の食料と変わる。
 蓮華の花が咲き乱れる様は美しい。蜜蜂も蓮華が咲いているそこかしこを跳び回っては、花蜜を吸っている。当時は、この辺りに養蜂家を見かけたことはない。かたや、津山市鏡野には山田養蜂場という会社があり、その場所は草加部の北辺りにあるということを後に教えられた。ともあれ、蓮華は肌に触れても優しい感触がこちらに伝わるし、匂いを嗅いでもよし。仕事の合間には、あふれんばかりの朱色と白色と緑色の中に仰向けになったりしていた。そのとき麦わら帽子のひさし越しに垣間見た優しげな太陽の光、感じた身体の心地よさ、蓮華の匂い、そして心の爽やかさ落ち着きは、あれからおよそ50年経った今でも、蓮華の収穫の光景は、私の心の中でモネの「積みわら」(倉敷の大原美術館所蔵)のように一服の絵画となって残っている。
 蓮華は、根粒菌を棲息させるばかりでなく、その菌が空気中の窒素分を取り込むときに、その分け前にあずかっているのだと教えられた。そうだとすれば、自然の営みとは、誠に不思議で理にかなっている。豆科の植物のなかでは、ソラマメをふかしたのが好きだった。ソラマメは空豆、または蚕に似ているところから蚕豆というらしい。もっとも、この豆は茹でてから時間がたたないうちに食べないと、味が落ちる。サヤエンドウも柔らかいものを茹でたものがおいしかった。
 学校の花壇ではこの頃、花が色合いの鮮やかなものに移っていく。サルビアやほうせん花、パンジー、百日草などを植えた。担任の先生の指導で、クラスのみんなで花の苗を小さなスコップを使って植えた思い出は、いまでも土の匂いとともに忘れていない。自分の植えた花の美しさを鑑賞するときがあれば、人が植えた花をあるとき訪問して見るときもある。訪問して鑑賞する最大の機会は、当時の田舎では遠足であったろう。みまさかでは、そんな鑑賞が出来るのは春に満開となる鶴山の桜か、初夏7月衆楽公園の池に咲く蓮の花が一番有名だったのかもしれない。そういえば同じ低学年のとき、日本原の塩手池まで学年みんなで歩いていって、写生をし、弁当を食べ、それから少し遊んで帰った。県下最大のため池(1634~1674年津山藩主森長継の時代から改修を重ね、その貯水量は145万トン、周囲が4キロもある)だけのことはあって、その土手には春の草花が沢山咲き乱れていたようだ。
 蓮は、熱帯アジア地方原産のスイレン科ということで、最初に見たときから「これは異国のお花だな」という気がしたものだ。まず、つぼみが神秘的といおうか、幻想的と言おうか、とにかく心惹かれる。下の部分は桃色で、それが縦に入った筋を上に行くに従ってだんだん白味がかっていく。その様は、しずしずしているのにパワーを感じさせる。蓮が仏教でたたえられる花なのは、水底の泥の中に理由があるのだろう。水と泥の中には蓮の地下茎が縦横に広がっている。その節という節から長い柄を伸ばしていき、互いに交わり合っているのだろう。そして、水の上には、50センチメートル内外はあるような大
きな、そしてほぼ丸くて楯の形をした葉っぱを広げ、またその中心部からは茎がニョキーッと突き出しているように見えたものだ。
 このつぼみに対して、夏のある日、朝靄をついて花茎上に咲く一花は、それぞれの花弁がふわっ、ふわぁと水受けのように広がっていて、見ていてとても優しい気持ちに浸れた。昼にはもうしぼむので、花を見たいなら、その前にミニ行かないといけない。小学校のとき遠足で何度か訪ねた衆楽公園の印象で残っているのは、この蓮とそれが植わっている同じ池で悠々と泳いでいた鯉たちだ。2008年の夏、久しぶりにこの公園を訪れたとき、その花はすでに見えなくなっていたが、蓮の大きな葉っぱはあの見慣れた暖かそうな雰囲気を醸し出していた。
 故郷の森に咲いている花で可憐なものを一つ挙げると、ネムノキがある。日当りのよい山野の湿地に生えるといわれていて、大型の「2回羽状の偶数複葉」(植物図鑑)で、沢山の小さな葉がびっしりと付いている。7、8月の日没前に咲くと言われる薄紅色の花は観たかどうかあやふやながら、葉は2回羽状の複葉であり、たくさんの小葉が付いているのが特徴的だ。葉に刺激を与えると小葉を閉じるオジギソウとは、葉の形が実によく似ていて間違えてしまう程だ。
 このネムノキは『万葉集』にも謳われている。
「昼は咲き 夜は恋寝る 合歓木(ねむ)の花 戯奴(わけ)さへに見よ」(『万葉集』巻8、1461、作者は紀女郎(きのいらみや))
備考:「戯奴(わけ)」とは、「若い者」のことをいう。
私は、この木と日に相性がよく、森に咲く花の中では一番好きな部類に入る。また、葉っぱという面では、我が家で飼っていた雌の山羊がこの葉をもっていってやると、たいそう喜んで食べていた。柔らかいので、尚更だったのではあるまいか。

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新20『美作の野は晴れて』第一部、春の課外活動と城下町津山

2016-09-29 11:12:10 | Weblog
20『美作の野は晴れて』第一部、春の課外活動と城下町津山

 春には遠足にもってこいの季節だ。小学校3年生くらいまでは、遠足や社会勉強で近場でいろんなところに連れて行ってもらった。その当時、新野小学校で学ぶ子供にとって、最も身近な町は津山であったろう。当時は骨の髄まで田舎者だったので、遠足というと、わくわくした。近場でいろいろな場所に連れて行ってもらった中で、今はもう定かに覚えている訳ではないものの、小学校の2、3年生くらいのとき、春爛漫の季節の津山市街を中心に、一学年2クラスで貸切バスを仕立てて貰って遠足に行ったのではないか。ただの遠足ではなく、沼の住居跡とか、鶴山公園の桜と動物園とかを観た後、しめくくりにと衆楽公園に立ち寄ったのではないか。園内で弁当を食べ、持ってきた画用紙帳をひろげて写生大会を行ってから帰途に就いたのだと思っている。
 これらのうち鶴山の桜祭りには、私たちの他にも大勢の観覧の人々で大変な賑わいをみせていたに違いない。また、城趾公園の入口の料金所を通り抜けて直ぐ右奥にあった動物園は1955年(昭和30年)7月の開園と聞いている。だが、実はその3年前の「市勢要覧」に「鶴山館の傍らに動物園を設けて・・・老若男女(ろうにゃくなんにょ)が来たり遊ぶ者が多い」と記されていることから、津山郷土博物館が執筆した「あの頃の津山、開園間もない津山市動物園」(市政だより、2014.9)によると開設前から何らかの形で動物園で営まれていたようなのだ。そこには、ニホンザル、ライオン、七面鳥等々と続くくらいまでは覚えているが、珍しいところではペンギンもいたことになっている。私の脳裏に動物たちのおおよその飼育檻の配置は入っているのだが、ペンギンの檻とその前の水を張ったプールだけは、はたして動物園内のどのあたりにあったのか覚えていない。「39種類、214匹」(同)の動物たちが飼育されていたということなので、それはもう当時の県北唯一の立派な動物園なのであった。
 衆楽園へは、津山駅から北へ向かっておよそ3.5キロメートル、大人の足で40分くらいのところにある。2014年の現在、そこに行く大抵の人は、津山の駅から小型の「ごんごバス」に乗って、北へ向かう。バスは今津屋橋を渡り、鶴山(かくざん)通りを北上し、山北(やまきた)の坂道を上る。交差点を右折した後、左手に津山商業高校がある。そこを過ぎて直ぐのところに左側に公園の入口がある。2014年(平成26年)7月現在に至るまで入場料は無料となっている。園内は普段は閑散としているが、春だけは当時も今も別のようだ。子供連れだと、池に落ちて溺れることさえ気をつければ、家族揃って参園し、しばらくぶらぶら歩きしたり、天気さえよければベンチや芝生で日向ぼっこなんかをしてぼんやりと時を過ごすにはもってこいの庭園である。
 その時の「青空写生会」の記憶はぼんやりしている。。クラス仲間と3人で並んでベンチに並んで腰掛けて、一緒に弁当を食べている姿が写真に収められているので、多分先生が撮ってくださったのだろう。母が作ってくれた折詰弁当を拡げている。お互い、持ってきたおにぎりなんかを頬ばったりして、無邪気に笑っている。座っていたベンチのあるところはわかっているので、多分、池を前にして、その向こうの茶室のある吾妻屋までを描きたかったのではあるまいか。今でも、入園したときには、池のほとりのその同じ位置に置かれているベンチに腰を降ろすと、なんだか落ち着いた気分になるから不思議だ。
 この公園は、森藩の二代藩主長継が、1655年(明暦元年)から58年(明暦4年)にかけて造らせたものである。京都の仙道御苑を模して造園されたと伝えられているので、いつかそちらも訪れてみれば、設計の意図するところがわかるのかもしれない。公園を入って北に少し行くと、池と松を主体とした築山が目の前に広がる構図となっている。後ろに中国連山を借景においているので、雨の後などに行くと、自然の静寂境の趣が感じられる。北に向かって全部が見渡せるベンチに腰掛けると、なんとはなしに心が落ち着いてくる。築園当時は、7万7200平方メートルもの敷地であったとのこと。明治以後にその3分の2を失って、今は迎賓館と余芳閣(よほうかく)などを含む林泉部分のみを現代に伝えている。「回遊式」なので、園内の散策には迷うことがなくて都合がよい。江戸期には、民衆に開放されていたとの話を聞かないのが当時の施政者の差別感を示唆しているようで、そのとおりなら残念であるが、いつの頃からか一般に公開されている。今でも陽気の漂う日には、公共の憩いの場が少ないといわれる津山市内で日がな一日楽しむことのできる、広く人々の憩いの場所となっている。
 その頃は、園内には沢山のおおぶりの鯉が、何十匹も悠々と泳いでいた。その中には、色あでやかな錦鯉もかなりいた。池に繁茂しているのは睡蓮(すいれん)なのだ、と聞いていた。仏教で「蓮華」というところの蓮(はす)とは「スイレン科」の同族にして、少しだけ葉っぱが小さいなどが異なっているらしい。その睡蓮の根と茎は水面下にあるものの、葉と花の部分は水面に浮かんでいる。早くは朝の日差しのまだ弱い時、遅くても昼までには花を開き、夕方の到来でその花を閉じるのであったか。それとも、6月から9月くらいには、池の睡蓮の花が咲くのは正午頃であったのか。花の色は白だったか、白に桃の組み合わせであったか、とにかく見栄えがする。
 睡蓮とは、もともと平地や山の、池や沼に生えている。葉も、丸くて長めの葉柄の先が切れ込んでいて、水面に浮かんでいる姿がなんだか可愛いかった。そういえば、かつて5千年前に想像を絶するほどの金銀財宝に包まれたエジプト文明にして、蓮の花は子供の胎盤に見立てられていたらしい。そのことから、命の再生、新しい命の象徴としてかのツタンカーメン王のレリーフ(頭の塑像)の台座に使われたり、王や貴族ら特権階級の墓の壁画に描かれていることから、その神聖さのイメージは東洋だけのものではないようだ。
 その当時の勝北町内の子供にとって、津山に行くというのは、「町にいく」ことを意味した。いまなら、就学前の小さな子供だって、そんな野暮なことは言うまい。国道53号線沿いの上村の停留所から中国鉄道バスに乗ると、茶屋林から奈良、野村を経て高野方面へ出る。そこからは因美線に沿って高野駅前から押入、下押入、河辺を通る。
 河辺の南の端までやって来ると、そこは兼田(かねだ)という。ここは出雲街道と吉井川が交差するところ、交通の要衝だった。川のほとりに経つと、人や馬、行き交う高瀬舟が見えてくるようだ。沢山の物資がここに離合集散し、大和から出雲へ、また出雲から大和へと続く出雲街道の要所であった。バスはそれから兼田橋に取りかかる。右手奥に吉井川をのぞみながら加茂川を渡る。吉井川は、当時の真庭郡(現在は真庭市)の奥の方、鳥取県境の人形峠に源流がある、とされる。そこから上斎原村、奥津渓谷を通って鏡の町、院庄(いんのしょう)と南下して津山市街に入る。そこから東へ蛇行して加茂川との合流地点につながるわけだ。
 兼田橋を渡ると川崎に入る。ここで初めて合流後の吉井川の川筋の全体が視界に入ってくる。川崎(かわさき)を抜けてから津山大橋に到るまでの地域は江戸期には「東南條郡」と呼ばれていた。そこからは東津山の町並みを太田、松原、古林田、東新町、西新町と西に進む間に箕作げん甫(みつくりげんぽ)の旧宅や、それに関連した洋楽資料館がある。 そこから上之町(左手に中野町)を通り抜けて、コの字型の大きな曲がりに達する。当時の町筋そのものが武備の一部であったことを偲ばせていた。この区間をバスが旋回して大橋に出ると、そこはもう城の東南の辺りであった。津山大橋の南から西にかけては材木町、伏見町、河原町の町並みが続く。
 津山大橋の下には宮川(みやがわ)が北から南へと流れ、その近くまで歩くうちに城の切り立った石垣積みが迫ってくる。津山という町中も、集落の一形態としての「都市」であって、それは生産から遊離した階級の成立を意味する。それを象徴するかのように、大橋の脇には、東の大番所があって、藩の役人が城下町に出入りする人々を見張っていた。ちなみに、西の大番所は「い田川」沿いの翁橋(西寺町)そばにあって、監視の目を光らせていた。石垣については、近江国(おおみのくに、今の滋賀県志賀郡あたり)の穴太衆(あのうしゅう)を招いて築垣に参加させたということだから、実戦を考えに入れた物々しい防衛陣地であった、というほかはない。
 「津山城下町お城の松に、ピンとはねたる威勢を見せてよ」 
 3番の歌詞の原作(石井楚江による)には、この歌の叙情がひときわ鮮やかに映し出されている。
 「春の夕凪涙をさそう院庄かや、作楽の宮にや赤い心の花が散る」    
 この辺で、津山の城下町の成り立ちに少しだけ触れておこう。在りし日の城のおよその姿であるが、要塞堅固という点では、西日本でも有数とされた。
 「鶴山」(つるやま)の高台の地に、初めて城を設けたのは、1441年(嘉吉元年)、みまさか守護の任にあった山名教清であった。彼は、一族の山名忠政伯耆により招いてを城普請奉行に任じ、彼に築城させたのが「鶴山城」の始まりとされる。
 その後、1603年(慶長8年)に、森蘭丸の弟、森忠政が徳川幕府(徳川秀忠)によって、信濃松代(川中島)城から18万6500石(1石はおよそ160キログラム)で国替えされたとき、最終的に、築城を開始するまでは「富川村「と呼ばれていたこの地を
選んで築城した。参考までに、日本全国でみると、戦国時代の総収穫石高(年間)は2500万石くらいであったのが、元禄が終わる頃には3500万石くらいに増えていた。
 築城には13年余を有したとされる。途中3年間の普請中止の期間も入れてのことだ。その工事には、領民から、婦女子を含め、家臣団が総動員されたらしい。城が完成したのは、1616年(元和2年)であった。天守閣は5層で、本丸の西の端にあって、東西に18メートル、南北に20メートル、高さは20メートル(11間、1間は約1.8メートル)もあったというから、なかなか壮大な建築物であったろう。
 城郭もふるっていて、本丸の他、二の丸、三の丸、外郭に分かれ、櫓(ろ)の数が77、城門の数が41もあって、東の宮川に面するところは絶壁状に岩を積み重ね、そして3方には外堀をめぐらして防衛に力点を置いていたらしい。城のその後は、森家が四代95年間をもって終わった後、城そのものは松平家が受け継ぎ、幕末までのおよそ170年を過ごした。と、ここまでは命長らえていた城構えであるが、明治に入ってからまもなくにして、驚くべき変化に遭遇した。当時のお金で1125円で公売され、1875年(明治8年)には天守閣などのほとんどの建物が取り壊されてしまったのだ。まさに、古城跡「荒城の月」にうたわれる阿蘇の山裾、豊後竹田(ぶんごたけだ)の岡城跡にも思いを通わせる、大いなる夢の跡となっている。
 私の家の方から、津山行きのバスに乗って、大橋から山下(さんげ)を通って京町(きょうまち)まで行く。そのあたりは、市役所などの公共の建物が建ち並ぶ。当時の津山の中心部があったのだ。京町でバスを降りて、少し北に歩くと、その前には幅が8メートルはありそうな広い階段が100段ばかりあり、そこを辛抱強く、ゆっくりと上がってから、右に折れる。すると、50メートルほど前方に大手門の跡がある。こちらが城へ入るための正門側となっていた。ここから、いまは多くの人が、かつて在りし日の天守閣の姿を偲ぶのである。
 一方、京町で降りてもう80メートルばかり西に歩いていくと、ローズの交差点がある。バラにちなんでそう言っていたのか知らないが、そこが繁華街の入り口とされていた。南北に貫いているのは鶴山通りである。そこを横切ると、銀天街、そして専門天街へと続く。当時は、このあたりが一番の繁華街であった。アーケードの架かった街路の両側には、きらびやかな店が沢山並んでいた。銀行や信用金庫もあった。本屋も柿木書店(二階町)とか大きいのがあった。街路から横に入ると、旅館や小さな雑貨店もあった。素通り不可能な路地に迷い込むこともあった。すごい、えらいところに来たもんだ、中に入りたいけど田舎もんじゃけんはずかしゅうてはいれんなあ。出てくるのは溜息ばかりだった。
 その頃の私がかっこいいと思った職業は、バスの車掌さんであった。家の手伝いで風呂炊きをしていると、階段になっているところで、一人芝居をやっていた。指で前後を指先呼称してから、中央の扉を閉めるふりをした。
 「発車アー、オーライ」。「ウィーンウーン」 とエンジン進行の音を入れて、しばらくして「みなさま、毎度ご利用いただきまして」とやり出す。それからまたしばらくしてから「どこに行きんちゃるんか」と客に聞いて、切符の束にパッチンパッチンと穴をあける真似をする。途中で対向車の大きいのが来たことにして、今度はバスを下りてバックを先導する。「ピーッピーッ、ピーーッ」と笛を力一杯に鳴らす。
 「前よし、後ろよし、(すべて)ようし。」
 それから、再び乗車して(目の前の階段を上り)、自分の心に描いたバスが対向車が来るのを待つふりをする。バスが他のクルマとすれ違うときには対向車の運ちゃんと車掌さんに得意の敬礼をするという具合だ。その後またしばらく進んでから、「次は京町、京町、お降りになる方はお知らせください」と言ったかどうか。
 停留所も自分で設定して、バスが着くと「おばあちゃん、ここで降りんさるんですか。ちょうど100円になりますけん(なりますから)。気を付けて降りんさいなあ(降りてくださいね)」などと心の中で言い、めでたく今津屋橋を渡って中国鉄道津山バス駅に到着したものであった。

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○○483『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばからの日米貿易摩擦と世界金融

2016-09-28 19:05:07 | Weblog

483『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばからの日米貿易摩擦と世界金融

 1990年代後半からの日米貿易、そして国際金融は、大きな転機にさしかかっていた。このことを丸尾(筆者)は、こうまとめたことがある。
 「1995年6月の先進国首脳会議(ハリファスク・サミット)において、カナダの外務大臣ウェレットが議案の一つとして提案しようとした外国為替取引税は、1978年に経済学者のジェイムズ・トービンが提案したもので、世界の為替取引市場における投機抑制のため取引額の0.02%を課税しようとするものでした。これを国連ベースで浅く広く課税し、税収を国連活動に使うという案であり、フランスのミッテラン大統領が賛成しましたが、それ以上の話にはなりませんでした。この税の「味噌」は、「投機資金はわずかな証拠金で多額の資金を動かすために、わずかな税率をかけられても、その動きが抑えられ、リアルな設備投資そのほかを行おうという長期資金は、この僅かな税率であったならば、その動きは抑えられることがない、という考えである」と。(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 これに一番反対の気持ちを抱いたのは、自国に5大投資銀行を抱え、ITバブル崩壊(IT関連株の暴落)の後は金融業に産業の軸足・ウエイトを移してきていたアメリカでした。
 これより先、1992年のアメリカの貿易赤字の半分以上の494億ドルが日本への赤字で占められていました。日本からの輸入の増加で国内の製造業、特に自動車と自動車部品、半導体は大いなる苦戦を強いられていました。
 1993年4月、1月の就任から3か月後のクリントン大統領はワシントンで日本の宮沢首相と米日首脳会談を行い、日米経済摩擦を巡る問題で包括協議機関の設置を合意しました。会議を終わった両首脳は、共同記者会見に臨みました。宮沢首相がアメリカからの「脅し」(threat)があったことを窺わせる会見をしたのに対し、クリントンは次の4つのことを日本に要求する腹づもりであることを明らかにしました。
 ①として円高、②として日本の景気刺激策、③にはアメリカの製造業の生産性の大幅上昇、そして④としての分野別の交渉が勢揃いした訳です。
 1995年4月19日、ドルの対円相場が1ドル=79円75銭を付け、日本からはこれ以上の円高は困る、米国債を売らざるを得なくなる、と泣きつかれ、また国内の産業振興政策としてのドル安誘導にもかかわらずアメリカの自動車産業などにさほどの活性化が見られなくなっていたことなどがあり、それまでの政府による製造業立て直しの試みには暗雲が垂れ込めていました。
 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが第二期クリントン政権の財務長官に迎えられました。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばくという離れ業を次々としていったのでした。
 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていきます。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破しました。1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に
警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫きました。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ株価は1999年3月には10000ドルを突破しました。
 海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
しかし、このように金融大国への波に逆流もあったのは事実です。その中で、ひとたびこの波が逆になるとどのようなことになるかを教えてくれたのが1998年7月から9月にかけてのロシア金融危機でした。
 これより先、1997年からのアジア金融危機では、米英の金融機関とそれの意を汲むIMFは自らの影響力と利益拡大のために奔走していました。その傍らで、彼らはロシアに「黄金」を見つけていました。しかし、そのロシアに金融危機が近づいてくるに及んで、状況は一変します。
 そして迎えた1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。7月13日、IMFなどによる総額約230億ドルの国債緊急融資を合意しました。伊東光晴氏は、こう論評しています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 さて、かれら米英の金融機関の中で得意な位置を占めていたのがヘッジ・ファンドでした。その中でも、米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)でした。
 そのCTCMの最大の収入源は、ロシアの国債とアメリカの国債を巡っての裁定取引(さや取り)でした。それは、簡単な例で言うと、投資家は性質(満期までの期間、クーポンレート、信用度)が似通った両方の債権を市場から探し出します。まずはアメリカの利回り10%の国債を買い入れる、としましょう。それから、いま割高感のあるアメリカ国債を売っておき、その一方で割安感のあるロシアの利回り20%の短期国債を買っておきます。この場合、支払い不能になる可能性がより高い代わりに高い利回りが期待できるの債権A(「ジヤンク債」)がロシアの国債であり、利回りは安いものの安全性に勝る債権Bとの間に発生する理論値からの乖離を利用して膨大な利益を上げていくのです。
 具体的な簡単な例で言うと、その後時間が経過して市場が動き、米国債の利回りが年20%とロシア国債のそれとの差が同一となり(または縮まり)(他の条件は変化なしとして)、両者の関係が理論値価格に届いたら、こんどはアメリカの国債を買い戻し、ロシア国債を売りますと、その差額分(収益)から取引手数料を差し引いた分が投資家の利益となるでしょう。CTCMは「平均で30倍以上」のレバリッジ(取引金額/保証金)で投資家の資金をかき集めて投資を行い、そこから莫大な利益を得ていました。
 ところが、いまロシアに金融危機が起きて、ルーブルそのものの価値がドルに対して暴落するようになると、ルーブル建てのロシア国債の利回りは急上昇することになり、本来は縮まるはずの両者の金利差が逆に拡大してしまうことで、利益が上げられなくなったのです。 
 ここにリスクの顕在化に直面化した投資ファンドがジャンク債=ロシア国債を大量に手放そうとしたために事態は悪化していきました。そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来て、外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちはそれらの債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちのロシア国債以外のアメリカ国債などの債権や株式のたたき売りを始めました。
 こうしたロシア金融危機の進展により、米系金融機関は大きな痛手を受けました。中でも、ヘッジファンドの雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 1998年8月17日、ロシアがついに債務不履行(デフォルト)か、という事態に見舞われました。1998年4月18日付けの米経済専門紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、「デフォルトの衝撃ールーブル切り下げ、債務支払い停止へ」というショッキングな見出しで、注意を喚起しました。
 その結末については、1998年8月23日の日曜日、政府のルービン財務長官とFRBのグリーンスパン議長が取り持った、ニューヨーク連銀11階の会議室での金融機関14社の集まりでCTCMへの資金拠出で支えていくことが決まったことでした。後にグリーンスパンがキャピタル・ヒルの銀行委員会公聴会で「席を貸しただけで、政府機関として具体的な救済に乗り出したわけではない」と言い張ったように、あくまで民間による民間の救済を実現すめるために仲介の労をとった、ということでしたが、その会議を事実上主導したのはニューヨーク連銀のピーター・フィッシャー副総裁であり、彼は各社の代表を前にして、連鎖的な倒産を回避するには、「LTCMの破たんは絶対に避けなければならない」ことを言い放ったと伝えられています。
 このロシア発金融危機は、ニューヨークばかりでなく、ロンドン、香港、シンガポールも、モスクワも、フランクフルトも、世界の名だたる金融市場のほとんど至るところで、動きがありました。その後も数回にわたる14金融機関の会議の後、「「14社が均等に2億5000万ドルずつ出し合って、総額35億ドルの緊急資金を注入する」という線で、なんとか折り合いをつけたのではないかといわれているところです。その直後ですが、1998年10月、ロシアで投資に失敗したヘッジファンドが損失を削減するために、ドル売り・円買いに入りました。まさに、やられたらやり返すといった彼らのしたたかさを、ここに垣間見ることができます。」(拙ホームページ「アメリカの政治経済社会の歩み」より抜粋)

(続く)
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○○482『自然人間の歴史・日本篇』外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化

2016-09-19 18:08:54 | Weblog

482『自然人間の歴史・日本篇』外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化

 外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化について、1998年4月には、97年5月16日の第140通常国会で成立していた外国為替及び外国貿易法(外国為替法、名称変更あり)改訂が施行されました。外貨両替業務への参入を自由化し、外国為替公認銀行だけでなく証券会社、商社、生命保険会社なども取引が可能となりました。
 そのほか、企業や個人が海外銀行に預金口座を開いたり、外国の証券会社を通じて外国の市場で債権、株式を購入する道が開かれました。
 97年11月、国外送金等に係る資料情報制度、民間国外債に係る本人確認制度の整備等についての法律案を可決・成立。外国為替法等の改正によって、海外への投機的取引、すなわち海外への資本流出が自由化されたのです。
 98年4月になると、銀行経営の健全化を名目に早期是正措置が導入されました。政府が自己資本比率で経営状況を判断し、判断基準を下回ると自動的に「経営改善計画の作成命令」「新規業務への進出禁止」「営業停止」などの措置をとることができるようになったのです。
 一方、株式売買委託手数料は数次の段階を経て自由化されていきました。
 94年4月、約定代金が10億円を超える大口の取引については、証券会社が顧客と自由に話し合って手数料を決められることになりました。
 96年秋、橋本首相が金融ビッグバンを打ち出しました。
 98年4月、売買代金が5000万円を上回る部分について自由化されました。
 99年10月、5000万円以下でも自由化されました。
 98年10月~12月の日本銀行短期金融観測(「日経新聞、99年4月1日」)によると、個人の金融負債は0.4%減少しました。
 98年3月1日付けの朝日新聞「ビッグバンが変える」に、富裕層のカネを巡って投資顧問という商売が載った。。
 「ドル預金を中村さん夫婦に勧めたのは高橋一夫さん(52)だ。大手証券の欧州現地法人に12年勤めたあと、英国やスイスの証券、投資顧問会社で10余り働き、2年前に独立した。「独立が早すぎたかなと思っていたが、ここへきて資産運用への感心が高まってきた」。中村さん夫婦にはいま、同じシティのドル預金でも金利がより高い米国の店舗に預け替えるよう助言している。日本版ビッグバンの第一弾として改正外国為替法が4月に施行され、海外預金をしやすくなるのを生かす狙いです。
 日本の個人金融資産1200兆円の約6割は預貯金。株式などの有価証券は1割程度しかない。一方、米国では有価証券が3分の1を占める。資産運用が米国に少し近づくだけで、お金の流れは大きく変わる。
 変化を見越した金融機関も、富裕層の取り込みに力を入れは始めた。シティは不動産を含む総資産が3億円以上、うち金融資産を1億円以上持つ人を対象にした「プライベートバンク」部門を拡充し、一人ひとりに担当者を決めて資産運用全般の相談にのっている。過去1年間で1000人近く増えたが、対象層は推定で40万人から50万人もいる。モカ委託のマーケットは広い。出遅れていた邦銀各行も、ようやくシティのあとを追って走り出した。

(続く)

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○○481『自然人間の歴史・日本篇』持株会社の解禁

2016-09-19 18:05:24 | Weblog

481『自然人間の歴史・日本篇』持株会社の解禁

 1990年代後半の独占禁止法の大資本よりの改訂について、丸尾(筆者)はこう紹介したことがある。
 「97年6月の独占禁止法の改正で、それまで禁止されていた純粋金融会社が解禁されました。これに至る経過は概ね次のようなものでした。
 95年12月、公正取引委員会の研究会が「部分解禁」の報告書を纏めました。
 96年1月中旬、公正取引委員会が「部分解禁」の当初案を自民党に提示しました。
 96年1月下旬、公正取引委員会が「原則自由」の修正案を発表しました。
 96年2月、与党(自民党、社会党、さきがけの3党連立内閣の面々)がプロジェクトチームを発足させました。
 96年4月、連合、日経連、日本経営団体連合会が労使スタディチームを発足させました。
 96年6月、与党が、持ち株会社の解禁をひとまず断念しました。
 96年10月の総選挙で自民党が勢力を示威維持。これにひきかえ社会党改め社会民主党は議席をへらしました。なかでも「部分解禁」を主張して自民党と対峙した社民党の多くの議員たちは政界を引退したり、新興勢力の民主党へ移籍していきました。こうして「原則自由」論が優位になっていったのです。
 96年12月、労働省の研究会が「あたらしい法的問題はない」との報告書を発表。連合は、持ち株会社と子会社の労働組合との関係等をめぐって納得せず、労働関連法の改正を求めました。
 97年1月、公正取引委員会が「原則自由の政府案」を作成。与党の独占禁止法協議会に提出しました。この後は、持ち株会社解禁へ動き急の感を拭えません。
 そして97年12月15日には持ち株会社の設立等の禁止の解除に伴う金融関係法律の整備等に関する法律案、銀行持ち株会社の創設のための銀行等に係る合併手続きの特例等に関する法律案を可決、成立しました。98年3月の金融持ち株会社の解禁によって、独占大企業はコングロマリットを形成する道を開かれたのです。
 99年4月の大和証券の持ち株会社化が先鞭を付けました。本体を持ち株会社化することで、法人向け部門やデリバティブ(金融派生商品)部門を分社化する手法を取りました。」

(続く)

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○○501『自然と人間の歴史・日本篇』郵政民営化(2007)

2016-09-19 10:16:54 | Weblog

501『自然と人間の歴史・日本篇』郵政民営化(2007)

郵政の民営化は、小泉政権下の2007年10月に郵政民営化関連法の施行によりスタートしました。その主内容は、国営だった郵便事業を業態によって分割することでした。具体的には、持ち株会社の「日本郵政」と、その傘下会社としての「郵便事業会社」(手紙や宅配便を集配)、「郵便局会社」(窓口業務)、「ゆうちょ銀行」(銀行業務)、そして「かんぽ生命保険」(簡易保険)4社がこれにぶら下がる形になりました。
 ここで各社の株式はとりあえず政府が全部保有しますが、おりを見て日本郵政については政府の持ち株は3分の1超とし、ゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式については売却して民営にしようというものです。このうちゆうちょとかんぽの民営化は、期限が決められていて、2017年9月までに全株を売却することになりました。
 郵政民営化の前は、自民党の中でたしかにいろいろよろしからぬ事が行われていました。それが、この郵政民営化の流れになっていく中で、自民党の小泉政権内での多数派形成(総選挙の前の郵政を巡る同党の国会議員に対する踏み絵、そして選挙実施での郵政民営化の大合唱による。)の過程では、それまでの自民党の郵政の組織ぐるみの選挙手法が糾弾されました。
 小泉首相はまた、国会議員の私設秘書を斡旋利得処罰罪の対象に加える考えを表明しました。特定郵便局をめぐっては、「ただでやってるんだから税金を納めなくてもいいんではないか」との声が出され、郵政民営化を批判し抵抗する議員は自民党を離党していきました。また、郵政民営化を認めるなかにも、この先採算だけを考えたことになると、僻地の農村山村には郵便物がとどかなくなるのではないかという懸念も出されました。郵政民営化は地方にはコミュニティそのものである、との問いかけがありましたが、議論はかみ合わないまま自民党の衆議院選挙大勝による大合唱にかき消されてしまった感ががあります。
(2)なぜ郵政民営化なのかで錯綜する議論
では、もっと切り込んだ郵政民営化への疑問はなかったのでしょうか。その論点は幾つか幾つかに分かれます。ここでは、その幾つかを紹介しておきましょう。
 「郵貯の完全民営化などできない相談かもしれない。220兆円の郵便貯金と120兆円を超える簡易保険の資金は、利回り1.2%程度の国債購入を完全民営化ののち、続けられるはずはない。オーストラリアの銀行の定期預金は6%の年利である。為替リスクをおかして海外に大量に流れ、国債が売られたら、金融は大きく混乱する。したがって民営化と言っても、例によって財務省は、がんじがらめに規制することであろう。成長分野での進出、例えば国際化なども時おそく、能力の点でも幻想であろう。」(伊東光晴「日本経済を問う」岩波書店、2006)
 「第一の預託義務廃止は「資金を公から民に回すために民営化が必要」という議論の論拠が失われたことを意味する。
 しかし実際には、財投機関に対する資金供給は続けられている。その仕組みが存続する限り、郵貯の経営形態いかんにかかわらず、資金はこれらの機関に供給し続ける。問題は、郵貯を民営化することではなく、この仕組みの改革なのだ。そこで、やや技術的になるが、これについて説明しよう。
 これは「財投債」という仕込みである。財投債は国債の一種であるが、一般会計の財源になる国債と区別するために、このように呼ばれる。これによって調達された資金は、財投機関に融資される。他方で、郵便貯金に対しては、このように呼ばれる。これによって調達された資金は、財投機関に融資される。他方で、郵便貯金に対しては、時限措置ではあるが、財投債の引き受け業務が課されている。そして、財投債の引受先で最大のものは、郵便貯金である。つまり、これは旧来の運用部融資と実質的には同じものなのだ。
 この仕組みが、私がかつて提案した財投機関発行の債券とは「似て非なるもの」であることに注意しよう。私が提案した債券は、その後「財投機関債」という名称で実現している。財投機関債の眼目は、「市場で資金を調達できない機関は廃止に追い込まれる」ということである。つまり、機関存続の判断を、政府から市場に移すことだ。
 これに対して、財投債は個々の機関が発行するものではないから、このようなメカニズムは働かない。財投機関をひとくくりにした一般的な債券では、市場が個々の機関を評価することはできないのだ。そのうえ、郵便貯金に引き受け義務が課されているから、資金調達は保証されたことになる。「その仕込みが存続する限り、郵貯の経営形態にかかわりなく、資金は公に回され続ける」と述べたのは、このような意味である。資金供給を絶つことによって財投機関を整理したいのであれば、財投債を廃止することが、どうしても必要である。」(野口悠紀雄「日本経済は本当に復活したのか」ダイヤモンド社、2006)
 「さらに次の点を注意したい。「資金運用部のルートがいまや存在しないが、その代わりに債券発行で従来の仕組みが維持されている」ことを知っている人も、次のように考えているかもしれない。
 「確かに、資金運用部のルートに代わる資金供給ルートがつくられ、それによって、財投機関への資金供給が続けられているのは問題だ。しかし、郵貯を民営化すれば、このルートも狭まるに違いない。なぜなら、民営化によって意思決定の自由度が増大し、財投債の引き受けを拒否したり、有利な条件を要求したりすることができるからだ」
 しかし、この期待は間違っている。これを理解するには、次の2点を理解する必要がある。第一に、郵便貯金はその大部分を国債に運用せざるを得ない。そして第二に、財投債も一般の国債も、金融債として見れば同じものである。したがって、郵便貯金が国債を購入する際に、「一般の国債は購入するが財投債は購入しない」という判断は原理的に働くはずがない(また、当然のことながら、「一般の国債は購入してよいが、財投債は購入してはいけない」という制約もかけられない)。
 だから、財投債は発行される限り、国語も購入され続ける。したがって、郵貯が民営化されたところで、そして、郵便貯金の引き受け義務がなくなったところで、資金の流れは変化せず、財投機関は存続することになるのだ。」(野口悠紀雄「日本経済は本当に復活したのか」ダイヤモンド社、2006)
 「他方で、政府部門(国及び地方の一般会計など、非企業的な会計)は、高度成長期には、資金過剰ないしは均衡部門であった。実際、国の一般会計は、長期ににわたって超均衡財政を続け、国債を発行しなかった。
 しかし、この状況も一変した。そして90年代の後半以降、政府部門の資金不足は拡大した。大量の国債発行を反映して、金融機関の国債保有は、預金の増加を上回るスピードで増加し、その結果、資産に占める国債の比率は顕著に上昇した。
 以上で見た貯蓄・投資パターンの変化は、きわめて大きなものである。現在の条件下では、郵貯と民間金融機関は競合しているとは言いがたい。むしろ補完関係にあると言うべきだろう。」(同)
 それでも、小泉内閣は「郵政は嫌いだ」と言わんばかりの感情論で突っ走り、2005年8月に郵政民営化法案の否決を理由として衆議院の解散に打って出ました。しかし、なぜか国民の批判は彼ら推進派の本丸までは届かずに、またかれの派手な「郵政がおかしい」パフォーマンスに国民が揺り動かされたのか、選挙は「小泉チルドレン」を含め自民党が大勝、その直後の2005年10月の国会にて、郵政民営化法が成立してしまいます。ここから今日まで我々勤労国民の心を悩ませている、この長い行程がそのとき始まったのでした。
 もともと、この郵政民営化が理論的にしっかりした内容を持っていないものであるだけに、小泉内閣からこの民営化がスタートし阿部内閣、そして福田内閣、さらには麻生内閣へとバトンタッチしていく中で、これまで推進派としてまとまっていた自民党内でも、見直しを巡って意見がばらついてきました。まさに無責任、大政翼賛の「小泉イズム」に踊らされたのでした。
 このように保守の中で意見が割れてしまうのは、民営化を次の段階へと進めようとするグループと、それを引き戻そうとするグループがいるからです。麻生首相すらが、当時からあれでいいとは思っていなかった、などと無責任なことを言っている位ですから、保守勢力内にも相当の軋轢が残っていて、いまそれが吹き出してきているのでしょう。
 郵政民営化に限らず、なんでもかんでも民営化と言っていた火の勢いは2007年から経済状況が景気後退色を強めている中で、次第に下火となってきました。かつての推進派の論客を含めて、将来の株式公開でアメリカ資本による買収の懸念(野党の国会質問)に対し、「アメリカの人たちもそのときはアプローチをしてきてもらってかまわない」(小泉首相)と達観していましたが、それがアメリカの「ハゲタカ・ファンド」にどのように聞こえたのかはわかりません。それから約2年を経た今、2009年半ばの経済状況ではそんなことを無神経に言える雰囲気ではないことでしょう。
(3)鳩山・民主党を中軸とする連立政権による郵政民営化路線のストップ
 09年9月に発足した鳩山連立政権は、さっそく株式売却の凍結や、4分社化の基本の枠組みを見直すことで一致した行動を取り始めています。

(続く)

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○○500『自然と人間の歴史・日本篇』2000~2005年の経済

2016-09-19 10:14:53 | Weblog

500『自然と人間の歴史・日本篇』2000~2005年の経済

 1998年から2001年まで不況で厳しい世相が続きました。2000年8月から14か月連続して消費者物価 指数が対前年比割れを続けました。ここではデフレ(物価の下落と景気の低迷が共存することといっていい。)スバイラル(渦巻き)とは何であったかを探求してみましょう。
 物価の下落→企業収益の悪化→生産縮小→雇用の悪化とそれに伴う所得の減少→消費低迷→さらなる物価の下落という流れがその典型といわれているものです。これは、企業の生産性向上がもたら物価下落とどこが違うのでしょう。
 この頃、アジア価格の襲来が言われました。物価下落の底流にあるのはグローバル化だという見解でした。例えば、パソコンの表示装置である液晶の価格は、薄膜トランジスター(TFT)15インチの国内取引価格で見て、この1年間で半減しました。中華映管などの台湾メーカーが99年末から新規参入を果たして、シェア拡大を狙って価格競争を繰り広げているのです。
 鉄鋼の電炉大手である東京製鉄が鋼板やパイプなどに加工される熱延コイルなどの販売価格を28%も引き下げました。バブンル経済崩壊時1992年の同6万円の半値以下の水準です。新価格は、アジアからの輸入鋼材価格と同じ水準で、韓国の浦項総合製鉄や台湾の中国鋼鉄などの価格に引っ張られた結果であるというのです。輸入鋼材価格と同じ水準で規制緩和などのよる生き残りをかけた競争もIT価格をはじめ商品価格を低落させています。
 ここではその中から、通信を見てみましょう。そこでは。グローバル化、情報化、市場原理の徹底がありました。これらの製品輸入の拡大と浸透に伴って、国内製品の価格が直接・間接に抑制されるという効果も物価下落に寄与していることでしょう。
 その2は、国内市場における競争の激化が上げられるでしょう。企業が慎重な価格設定態度を強めてきているのは、需給ギャップが埋まっていないからです。需要側からのアプローチとしては、設備投資需要もさることながら、今回はさらに下流まで進んで大衆の購買力の低下もあります。終身雇用制の崩壊が逆に不況を長引かせたと言えるでしょう。
 この間の経済状況の総括的な把握については、つぎの記述が参考になるでしょう。
 「ここからは、政策当局が景気循環の現局面の仕組みと景気の行く末に懸念を感じていることが読み取れる。資本制社会においては、労働者の剰余労働によって生み出された剰余生産物はその一部は資本家の個人消費に吸収される。景気拡大が続いていくためには、残る剰余生産物は純輸出(輸出-輸入)、新投資需要(設備増設や在庫の積み増し)、政府需要のいずれかに振り向けられねばならない。

 しかし、新投資需要と政府需要の伸びは抑制気味で推移しながら、国内消費は2001年に入っても回復しないことで景気失速の危険が迫っていた。これを救ったのは2002年からの対外貿易の拡大であって、輸出比率が「2007年第1・四半期には一五%程度まで上昇」したため、この期間の貿易差額の対GDP(実質国内総生産、2000暦年連鎖価格)比率(速報値ベース)は2%を超え、1980年代の輸出ドライブがかかっていた頃の水準には及ばないものの今回の景気拡大の牽引力となっている。
 引き続いて、2002年からの経済拡大とその終焉への歩みについて、簡単にたどってみましょう。
(続く)

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○○486『自然と人間の歴史、日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(金融再生法による処理)

2016-09-19 10:01:57 | Weblog

486『自然と人間の歴史、日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(金融再生法による処理)

 金融再生法は2001年3月までの時限立法で、銀行が経営破たんした場合の破たん処理を定めた法律です。具体的には、経営破綻した銀行の「特別公的管理」といういかめしい名による一時国有化や、金融整理管財人を派遣して整理する処理策を盛り込んでいました。
 それまでの処理法は清算による解体消滅(山陽証券、山一証券)、営業譲渡(北海道拓殖銀行)及び吸収合併にとどまっていました。山一証券の場合は、監督官庁に自ら解散を申し出て、自主廃業の形で解散しました。因みに、山一証券の債務超過が一応確定したのは、99年6月東京地方裁判所による破産宣告を受けたときです。このとき経営陣は東京証券取引所で財務状況を報告しました。それはつぎのようなものでした。
 「自主廃業を申請した97年11月時点の自己資本は1009億円あった。その後、借りていた店舗の解約費用や海外現地法人の生産に伴う損失がかさみ、98年3月末には225億円の債務超過になった。」
 さらに、不動産や有価証券など資産価格の下落が進んだことや、貸付金などの回収不能が見込まれるようになったことで、債務超過額は1602億円にまで膨らんだ。この結果、山一の甘い資産チェックが指弾されるととともに、負債のうち日本銀行からの特別融資(特融)が4890億円を占めており、債務超過額とほぼ同額分の日銀特融総額4880億円に対する返済不能が明るみに出ました。過去に日銀特別融資が焦げ付いた例はありません。さっそく日本銀行は、山一証券が破たんした97年11月に当時の三塚大蔵大臣が「山一の最終処理は寄託証券保証基金(投資者保護基金)の充実、機能強化で対応する」という談話を引き合いに出して、全額回収を政府・大蔵省と証券業界に求めました。この辺の事情について、当時の経済週刊誌「ダイヤモンド」(99年6月19日号)は、次のような説明をしています。
 「山一は破たん当時から債務超過の疑いが強く、特融に慎重だった日銀が踏み切った理由は「蔵相談話だけじやない。」(日銀幹部)。複数の関係者によれば、基金による最終処理を法的に担保するという約束が大蔵省との間にあった。
 事実、その後、証券取引法が改正され、第43条には、破たんした証券会社への再建は、投資家の保護に資すると認められば基金を譲り受けることができ、また、大蔵大臣はそれを要請することができる、とある。つまり、特融という債権を日銀から買い取ってくれと蔵相が要請できるとのことでしたが、これらを根拠に、基金・証券界に求めるのは筋違いであろう。蔵相談話、大蔵省と日銀の合意ができる経緯で基金はまったくらち外に置かれていたからである。
 また、山一の債権は投資家だけでなく、金融機関を含む一般債権者にも完全回収され、紙屑となって当然の転換社債も期限前償還され、従業員の退職金も劣後ローンの一部も払い、つまり、大判振る舞いの挙げ句に債務ョ羽化額が膨らんだ。これでは投資家保護とはいえない。
 そもそも、基金の性格は、破たん証券の財産管理に不正、日があり株券の流用などがあった場合の補償という、限定的な投資家保護の役割に過ぎない。
 山一破たん当時に特融がなければ、他の証券会社にも危機が波及したはずだと大蔵省・日銀が迫っても、基金が負担を追う理屈は成り立たないである。
 振り返ってみれば、破たん処理ルールがないままに、特融決定もその後の処理も、行政の裁量で行われたといえる。とすれば、その結果の損失は国庫、税金で補うしかあるまい。
 では、どうするか。基金が政府保証を付与した借り入れを行い日銀に返済するという案も浮上しているが、現在、基金は2団体に割れてしまっているし、「公的関与をは受けたくない。」(基金幹部)と拒否感も強い。
 日銀が損失を負担した場合は、国庫納付金が減り結局は財政負担となるのだが、日銀の信用が傷つくことが懸念される。銀行の議論は日本ではあまりなされないが、各国中央銀行や市場の日銀に対する信任の低下を招く大きな問題である。
 だが、財政が直接負担するには、法的措置と国会審議が必要で、自らの失策を追求される事実を大蔵省が受け入れるはずがない。大蔵省と日銀の間で、裁量行政のツケ、責任の押し付け合いがこれから始まる。」と。
 新法(金融再生法)になって、2001年までの時限措置として、破綻した金融機関に対して、金融再生委員会が一時国有化か、ブリッジバンクという処理ルートを選択できることとなりました。前者は、ソフトランディングにまつわる処理策といってもよろしい。再生委員会がこの決定を下すと、預金保険機構が強制的に破綻金融機関(破綻しそうなものを含みます。)の株式を買い取り・取得を行う。
 潰れるべき金融機関と見定めて事実上の国家管理に置くものといってもよいでしょう。その間に再生委員会が送り込む経営陣(金融管理人)が「独断と専権」で大鉈を振るって不良債権処理や合理化を行い行く末を決める。言い換えると、国家管理下で暫く2年とか5年とか営業を続けさせる間に、その上で資産の売却先である金融機関、投資家、つまり受け皿機関に当該資産を売却するというものです。
 それでも受け皿機関が見つからない場合の措置を取り決めたのが後者で、整理管財人により不良債権の処理、合理化を行い、受け皿先を探します。それでも見つからない場合は、預金保険機構の子会社として融資業務を継続するというものです。

(続く)

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○○485『自然人間の歴史・日本篇』1990年代後半の金融生制度改革(全体の枠組み)

2016-09-19 09:56:13 | Weblog

485『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(その全体の枠組み)

 1990年代後半の金融生制度改革は、政治の激動期に行われる。総合経済対策を策定した4月から3か月後の1998年7月の参議院選挙において、政府・自民党が惨敗した。その後は、財政再建に拘泥した感のある橋本内閣に代わって自民党総裁選で競り勝った小渕内閣が7月30日に登場し、「経済再生内閣」の触れ込みで巨額の財政資金を投入しての景気対策が復する。
 その施政方針の第1は、財政構造改革法の凍結と総事業規模で10兆円超の98年度第2次補正予算の編成、第2に総額7兆円の恒久減税でした。後者については、法人課税実行税率を46%から40%へ、所得税・住民税の最高税率を65%から50%に、中低所得層に配慮した低率の戻し減税などが語られた。同年11月には、23兆9000億円の緊急経済対策がまとめられる。4月の対策を7兆円上回る規模となった。
 1998年3月期、主要18行は合計10兆5000億円もの不良債権を直接、間接消却で消却しました。98年5月26日付け日経新聞による98年3月期決算における不良債権額は大手18行でそれまでの旧基準ベース新基準ペースで15兆6675億円、米国証券取引委員会(SEC)新ベースで21兆7779億円と伝えられていた。
 1998年5月には、金融再生法が制定され、公的資金30兆円枠を活用した金融安定化策が始動しました。銀行は潰れないとの神話はもはや崩壊し、最後の砦としての国が舞台の全面にでてきたのであった。
 これを起爆財に預金保険機構が破綻銀行の資金贈与や不良債権の買い取りに乗り出したのです。1998年6月には総理府の元に金融監督庁が発足した。これは97年の第140通常国会において金融監督庁設置法が成立したことに伴うもので、金融機関の検査・監督部門を大蔵省から分離し、総理府の外局として金融監督庁を設立。銀行や保険や証券などの監督や破綻処理を担当することになったのだ。
 1998年10月の臨時国会においては、9つもの金融関連法がどっと成立した。その内訳は、破綻した金融機関の処理策を盛り込んだ金融再生関連が8本、破綻前の金融機関に対し公的資金を注入する道を開くものが1本であった。
(1)金融機能再生緊急措置法(金融再生法)
(2)金融再生委員設置法
(3)預金保険法一部改正
(4)金融再生委員設置法関係法整備法
(5)債権管理回収業特別措置法
(6)根抵当権付き債権譲渡円滑化臨時措置法
(7)競売手続き円滑化法
(8)特別競売手続き調査評価臨時措置法
(9)金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)
 その中で、公的資金(無担保・無制限に行われる日本銀行の特別融資)の枠は、10月13日の預金保険法改正、金融機能再生緊急措置法(金融再生法)及び金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)の成立によって60兆円に積み上げられる。その内訳はつぎのようなものであった。まず、金融機関への資本注入と特別公的管理のために、政府保証枠で43兆円を設け、従来からの預金者保護のための17兆円を加えると60兆円になった訳だ。
 次に政府保証枠43兆円の中身としては、金融再生勘定(特別公的管理、公的ブリッジバンク)のために18兆円、さらに金融機能早期健全化勘定として「生かす銀行」にも25兆円ものカネが割り当てられる。後者の早期健全化法とはその名の通り経営破たんしそうな銀行がそれ以上経営を悪化させないような国の資金支援措置を定めたものだ。
 これは「資本注入」と呼ばれたり、「公的資金投入」と名付けられており、この法律でいう「注入」とはまるでカンフル注射を打たれるような情景を連想させる言葉遣いにほかならない。また、ここで公的資金の投入とは、これらの資金を管理する預金保険機構に対し日本銀行などが融資する際に政府補償を付けてやることを意味している。

(続く)

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○○475『自然人間の歴史・日本篇』土地神話の崩壊

2016-09-19 09:27:59 | Weblog

475『自然人間の歴史・日本篇』土地神話の崩壊

 日本の1980年代バブルの時には、1984年に1万円そこそこであった日経平均株価が1989年末になると4万円に近づいていました。その一方、で1983年を100とした東京圏の地価は1989年には約340に跳ね上がっていました。その間のGDP(国内総生産)は1984年で298兆8198億円であったのが、1989年には405兆6554億円になっていました。なお、株価のピークは1989年12月、景気動向指数による景気の山は、1991年2月がピークとなっていました。
 では、なぜこのような高率の地価上昇がもたらされたのでしょうか。
まず、その間の貨幣供給からみましょう。ここでM1とは現金通貨と預金通貨を合わせたもの、M2とはこのM1に準通貨をたしたもので現金、当座預金、普通預金、定期預金の合計額となります。またCDとは譲渡性預金のことです。わかりやすく言うと、一般企業などが商売上の取引で使う譲渡可能な大口預金のことを指します。マネーサプライの一般的指標としては、M2+CDがよく用いられます。
 そこでM2+CD残高は、1983年1~3月期が247兆3193億円、1984年1~3月期が268兆1766億円、1985年1~3月期が289兆4160億円、1986年1~3月期が315兆3323億円、1987年1~3月期が343兆6531億円、1988年1~3月期が384兆1227億円、1983年1~3月期が423兆8439億円。
 また、この時期の四半期GDP(国内総生産)の推移をみると、1983年1~3月期が64兆8880億円、1984年1~3月期が68兆7140億円、1985年1~3月期が73兆3160億円、1986年1~3月期が77兆1870億円、1987年1~3月期が81兆930億円、1988年1~3月期が86兆8550億円、1989年1~3月期が92兆5380億円。
 今度は、地価の下降局面をたどってみましよう。96年1月、地価税0.15%引き下げ。96年11月、土地政策審議会答申。97年2月、「新総合土地政策推進要綱」を閣議決定。97年3月、不良債権処理のため、「担保不動産等流動化総合対策」発表。97年4月、土地有効利用促進検討会議の設置。97年4月、「担保不動産等流動化対策連絡会議」設置。97年9月、土地有効利用の具体策発表。97年12月、98年度税制改正。
 これらの動きは、やがて2001年からの量的緩和政策、つまりお世の中に出回っているおカネを増やすことで、消費や投資を促し、デフレ経済からの脱却をめざす動きにつながっていきます。

(続く)

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○○476『自然と人間の歴史・日本篇』住専処理(1996)

2016-09-19 09:19:06 | Weblog

476『自然と人間の歴史・日本篇』住専処理(199)

 また、1996年6月、「特定住宅金融専門会社の債権債務の促進等に関する特別措置法」が国会で成立しました。母体行責任かそれとも課して責任かということですったもんだしましたが、この法律制定と96年度予算が成立していることで、住宅金融専門会社の解体処理を巡って6850億円の公的資金が投じられることになりました。
 ここに住専問題とは、住専向けの金融機関の融資が不良債権化していたのをどうするかの問題でした。本来は、ん資金を借りる側もそれを貸す側も民間同士なのですから、かれらの間で不良債権を処理すればよいものなのですが、話し合いが紛糾したことから、国会がこれに関与することになっていったのです。結局は、母体行の責任が言われ、住専に出資していた銀行の債券は放棄、住専に融資していた農協系金融機関は贈与として5300億円を支出するが、これにより埋めきれない6800億円は政府が負担するという運びになっていったのでした。
 この政治決着には前史がありました。95年12月20日、時の連立内閣の村山首相は首相官邸で記者会見を行いました。
「日本の金融秩序に対する内外の信頼を回復するため、また契機対策からもこれ以上先送りすれば傷口を大きくし、金融界の混乱を大きくする。ぎりぎりの苦渋の決断として、公的資金を導入せざるを得ない。」
 これが総選挙で敗北した社会党籍の首相が進退極まったなかで発した節度なき「苦渋の決断」であったことは庶民なら誰の目にも明らかであったでしょう。それほどに与党・社会党の凋落は激しく、明くる96年1月5日には村山首相が閣議で退陣を表明。6日後の1月11日になるや橋本・自民党政権が発足し、ここに住宅金融専門会社に対する政治家の私利私欲による処置がまかり通っていったのです。
 この96年6月からの処理の流れで、いわゆる住専8社のうち7社の清算が決まりました。住専とは、元々は個人向け住宅ローンのために金融機関等の共同出資によって設立された、主として銀行借り入れを減資に貸し出しを行うノンバンクの一種でした。
 この住専が担保に見合った貸し出し、分散貸し出しの原則をかなぐり捨てて、大口のカネを借り手に集中的に融資し続けてきたことが、バブル崩壊とともに資金回収困難となって跳ね返ってきたのです。
 不動産融資の焦げ付きなどによって経営不振に陥った住専8社の92年9月時点の金融機関借り入れ状況は、総額で14兆885億円に膨らんでいました。住専各社は、農林系の協同住宅ローンを除く7社が母体行を中心とした金融機関から金利減免の支援を受けていたものの、不動産取引の低迷などから債権の回収が思うに任せず借入金の圧縮がすすんでいなかったものです(読売新聞、92年11月19日)。
 96年になって、彼らが持っていた債権が額面13兆円。これが不況による貸し倒れ等で価値が大幅に減価して、損失の大きさは6.4兆円に膨れ上がっていました。内訳は、3.5兆円+1.7兆円+5300億円+6850億円ということで説明され、この最後の部分を政府支出で穴埋めしようというものでした。
 具体的には、95年12月19日に発表された政府・与党による住専処理スキームと異なりません。これによると、旧住専7社の一次損失は6兆5000億円。このなかの6兆1000億円の資産を住宅金融債権管理機構に資産譲渡し、同管理機構は同額の譲渡代金(うち管理機構の自己資金
3000億円)を旧住専7社に支払う。
 住宅金融債権管理機構への資産譲渡に伴う資金の流れは、
①96年度当初予算で日本銀行は預金保険機構の住専勘定に財政資金6850億円を出資する。預金保険機構はそのカネを住宅金融債権管理機構に譲り渡す。母体行は2兆700億円、一般行は1兆8000億円、農林系は1兆9000億円、合わせて5兆8000億円の低利融資を行う。
②住宅金融債権管理機構の損失が拡大した住専勘定に欠損が生じた場合には財政支出を追加する
③住専の追加見込み額は7社合計で約6兆4000億円である④母体行は債権総額の3兆5000億円を、一般行においては1兆8000億円をそれぞれ債権放棄する
⑤農協系金融機関は住宅金融債権処理機構に5300億円を贈与する
⑥住宅金融債権管理機構は住専7社に1兆2000億円の支援を行う(日経新聞、96年12月25日付け)、というものでした。
 これは資本主義の原則である自己責任原則を金融秩序の名のもとに真っ向から葬り去ろうという最初の試みでした。
 救済の理由として持ち出されたのは、農林中央金融公庫が住専に多額の融資をしていたため、住専を破産法などの法的整理で処理すると、農林系金融機関の経営を揺るがす問題に発展しかねない、ひいては金融不安が起こる懼れがある、というものでした。といっても、債権回収を行う必要があるわけで、預金者保護のために設立されていた認可法人であった預金保険機構の従来業務に加え、住専処理機構への出資や資金援助、住専処理機構による強力な資金回収のための助言・指導、回収困難事案に対する財産調査権を活用しての取り立て等が可能となりました。
 この住専処理の一連の流れのなかで、モラル・ハザードは働いたのでしょうか。6850億円の財政からの支出については、何ら合理的根拠は見いだせません。それどころか、税金を注入する先は図体の大きいだけのノンバンクで、預金者保護とは縁もゆかりもありません。一方で、農林系金融機関が本来負担すべき6850億円であるにもかかわらず、そして彼らの経営責任こそ問われるべきであったのに、小選挙区制で怖い政治家たちはそのことにいっさい触れませんでした。結局のところ、新金融安定化基金という社団法人176社が合計8130億円の資金を出して、この基金による15年間の拠出金を国庫に納めることで、6850億円の一部をそうさいしたいというような、まさに雲をつかむような話で終幕を迎えたのです。財政民主主義からする節度あるある流れは起きず、結果として政・官・財一体となった住専処理であったことは、否めません。
 このとき、母体行に対しては、次のような「念書」を書かせたようです。
「ご当局指導のもと、全金融機関一致しての支援を踏まえた上で、金融システム安定化の観点から、再建計画に沿って責任をもって対応してまいります所存でありますので、当局においてもよろしくご理解、ご助力の程お願い申し上げます。」
 また、農協系金融機関については、なんと農林水産省との覚え書きによって元本保証をするかのような文言がしたためられていました。
「大蔵省は農協系統金融機関に今回の措置を超える負担をかけないよう責任をもって指導していく」といい、まるで預金者のように次から次へとカネを住専に貸し続けた農協系金融機関のいい加減さを放置するのですから、臭いものへ蓋の感への感を免れません。
 今一つ、「週刊読売「(98.4.5)に住宅金融債権管理機構の社長、中坊公平へのインタビユーがなされています。
「この会社は資本金2000億円、全額が国の出資という典型的な国策会社です。国策会社であって、その窓口が大蔵省です。その大蔵省の方々の監督を受けて自分が社長としての仕事をするときに、意見が分かれるというか、私の主張が大蔵省と会わない場合もあると思うんです。」
「処理すべき不良債権は8兆円あるんです。そのうち5兆円は私が管轄しとるんです。直轄するということは、かれこれ1000件近い事件を全部見とるんですよ。だから、1件1件、私が決済してるんです。」
 さらに、聞き役の宮崎 緑キャスターが「ところで、不良債権の回収にあたっては、いわゆる「闇の勢力」とも対峙するわけですが、怖いと思われませんか。」と話題を転じたことに対応して、こう述べています。
「.....不良債権を回収するとき、彼らはどう出てくるかというと、損切り屋なんです。」
「担保物件にわざわざ傷をつけるわけです。いちばん露骨なやり方が不法占拠です。あるいは架空の賃借権をつけるとか、債権を譲渡してしまうとか。」
 宮崎キャスターが「ただでさえ地価が値下がりしているのに、さらに価値が下がってしまう」としたのに対して、「おまけに傷をつけて、その担保物件を売ろうにも売れないようにするんです。すると向こうは「あんた、損切りでちょっと損しときいな。それでわしとこちょっとお金くれたら瑕疵なくすんやから」というところとで、闇の勢力が暗躍するわけです。」と答えています。私たちは、この一人の老練な法曹家の勇気ある発言から何をまなんだらよいのでしょうか。

(続く)

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○○474『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革2

2016-09-17 22:37:24 | Weblog

474『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革2

 これらに対して兵庫銀行の場合は95年8月に破たんの処理が行われました。いったん清算し、民間金融機関と地元経済界が設立したみどり銀行に事業を譲渡したもので、合併方式との違いは、受け手の金融機関が店舗や人員を基本的に引き継がない点で。余裕が乏しくなったという金融の環境変化が影響しています。これで金融システム破綻に波及する恐れありとして、30年ぶりに日本銀行の特別融資が実行されたのです。
 けれども、これらの銀行の行き着いた先は、結局は預金保険法に規定されている「経営破たん」で、金融機関が債務超過に陥って預金の払戻しを停止することができる、この点で通常の倒産と異なった手続きとなりました。具体的には、兵庫銀行がみどり銀行に事業譲渡(95年8月)、旧太平洋銀行がわかしお銀行に事業譲渡(96年3月)、旧コスモ信用組合は旧東京共同銀行(現整理回収銀行)に譲渡(95年7月)、木津信用組合が整理回収銀行に譲渡(95年8月)、大阪信用組合が東海銀行に事業譲渡(95年12月)、武蔵野信用金庫が王子信用金庫などが救済合併(96年9月)など枚挙にいとまがありません。
 では、具体的にどのような道筋を経てそのようになったのでしょうか。ここでは第2地方銀行最大手であった兵庫銀行の経営破綻について、やや詳しく紹介しましょう。同銀行の不良債権の回収不能額は7900億円に達していました。これで自力再建が困難とみなされたので、自らのノンバンクをまず法的に倒産させる。ついで残りの債券債務の全事業を、民間銀行などが出資する銀行に業務譲渡して新銀行として再出発する道を選びました。
 回収不能額7900億円の補てんは自己資本から1600億円、預金保険機構からの贈与が4000億円、その後10年間の収益1800億円となっていた。日本銀行は劣後ローンということで資金を供給することになった。劣後ローンとは、日本銀行法第25条の「日本銀行は主務大臣の認可を受け信用制度の保持育成の為必要なる業務を行うことを得」という規定を適用したものです。
 武村蔵相はこれら一連の処理によって、個別の金融機関の債務処理問題は山場を超えたといいましたが、当時から40兆円もの金融機関の不良債権があることが言われていた訳で、それはこれから本格化する流れの第一幕であったのです。国際通貨基金のこの時期の報告書には「中小の金融機関の問題に早く対応しなかった失敗が、当局の介入が必要な事例を増やした懼れがある」と、現状の護送船団方式を批判したものと受け止められたものです。金融検査で実態を知っていたにもかかわらず、それをこんなになるまで放置していた背景には、金融の場合、中小といえども政界・官界・財界の利権のトライアングルが結ばれていたことを示唆しているでしょう。
 さらに、95年11月、阪和銀行の破たん処理の場合、整理と清算を前提に設立するブリッジバンク方式と呼ばれるもので、1995年11月21日、大蔵省は阪和銀行に普通銀行としては戦後初めての業務停止を命令しました。不良債権を分離・移管した後に残った業務と再建を受け皿銀行が預金払い戻しを担当しながら進めていくというものでした。住宅金融専門会社(住専)処理のための基金の一部で受け皿金融機関を設立し、債権の回収が終了した時点で同機関を清算しようとするものでした。このように、95年からの破たん金融機関処理方式は、合併方式から出資銀行方式へ、さらにはブリッジバンク方式へと移っていきました。

(続く)

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○○473『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革1

2016-09-17 22:31:33 | Weblog

473『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の金融破綻と金融制度改革1

 金融面では、1991年6月、金融制度調査会が6年をかけてまとめた「新しい金融制度について」がまとめられ、業態別子会社方式による相互参入方式を提言しました。92年6月になると、これに基づいた金融制度改革法が公布、93年4月に施行され、業態別子会社方式による相互参入の道が開かれたのです。1950年代前半に築かれた「専門制、分業制」は転換の時を迎えました。
 91年7月、伊予銀行による旧東邦相互銀行の吸収合併が行われました。預金保険を初めて適用し、伊予銀行が引き取った旧東邦相互銀行の不良債権の償却原資に充てたものでした。この方式は、92年4月、旧東洋信用金庫を三和銀行が吸収合併したときも用いられました。
 コスモ証券は、93年3月期決算で175億円の赤字でした。これに追い打ちをかけるかのように、「飛ばし」と呼ばれる簿外の不正取引が発覚、これで700億円もの損失が出て、同証券は債務超過に陥りました。金融制度改革法附則第19条は、銀行が証券子会社を新設するとき、株式仲介業務を禁止しているものの、銀行が既存の証券会社を買収するときには、例外的にそれを認めるとしました。これを受け手、メインバンクの大和銀行は93年9月、コスモ証券の第3者割り当て増資780億円分をひきうけ、持ち株比率を59.6%に引き上げて、株式仲介のための子会社としました。
 同様に、日本信託銀行が94年3月期に230億円もの損失が出たとき、大蔵省は10月、銀行法第26条、兼営法第4条による改善命令を出しました。11月になると、三菱銀行は第3者割り当て増資1995億円分を引き受けました。これで三菱の持ち株比率は68.8%となって、フルライン業務を担う日本信託を子会社化したのです。
 95年3月には、乱脈経営で破綻した東京協和・安全の両信用組合の破綻の救済をめぐって厳しい批判の渦が起こりました。預金保険機構の活用によって一般小口預金者の預金の保護が強調されましたが、小信用組合にはふさわしくない大口預金者の顔ぶれであり、4%を超える高い金利は何かの縁故によるものとしか考えられず、これらの私欲に目のくらんだ銀行と大口預金者のグループが倒産に際しなぜ救済されなければならないかということでした
 おりしも、金融の分野で地殻変動が始まりました。92年には金融制度改革関連法が成立して、銀行、証券会社、信託銀行がそれまでの枠組みを超えて相互に参入する道が開かれました。業態別子会社を使っての参入に限って認めるもので翌93年4月に施行されました。長らく護送船団による庇護の下にあった金融分野でも、力のある者はますます強くなり、逆に弱い者は強い者に呑み込まれる時代となってきたのです。
 経営破綻となったのは、翌年94年12月、東京協和、安全の2つの信用組合の破綻がその皮切りでした。資産を上回る負債があると、その企業の資本はマイナスとなって首が回らなくなります。そういう状況に陥っても金融は国民経済の要であり、護送船団としていくんだということで昭和金融恐慌のあった1927年から歴代政府によって手厚く守られてきたのです。
 ところが、世界規模の金融ビッグ・バッグバンの始まりとともに、金融もまた世界規模の生き残り競争に巻き込まれていました。95年6月、ときの武村蔵相が2001年4月まで5年間、ペイオフ実施の凍結を表明しました。一定限度まで預金を保護する仕組みは71年にできたもので、信用組合破綻の混乱で政府は96年、2001年3月までの5年間に限って実施を凍結する。それで1000万円を超える預金とその利息も保護することにしました。預金先が潰れても、一つの銀行当たり1000万円までの預金については政府が全額保証するというものでしたが、99年末になって当時の自民党・自由党・公明党の与党3党は「信用組合など体力の弱い金融機関の対策がすすんでいない」、解禁すれば特に信用組合の破綻が進みかねない、としてペイオフ解禁を1年繰り下げて2002年4月としました。また、普通預金などの決済性預金はさらに1年後の2003年3月末まで全額保護することになりました。
 95年7月から8月にかけてコスモ信用組合、木津信用組合及び兵庫銀行が相次いで経営破綻しました。銀行法に基づく銀行が経営破たんする敗戦後初めての事態でした。木津信用組合はバブル期に高金利の預金をてこに急速に資金量を積み増しして不動産業中心に貸し付け、これがもとで6000億円もの債券回収不能額を抱えていました。兵庫銀行はバブル期に系列ノンバンクを通じて不動産融資を膨らませ、大阪の木津信用組合では、95年8月に大阪府が業務停止命令を出したことで預金者による取り付け騒ぎがありました。
 ここで木津信用組合の破たんから順に、やや詳しくたどってみましょう。53年11月、組合設立。84年5月日米円ドル委員会が報告。87年4月、三和銀行からの紹介預金が開始される。90年3月、大蔵省が総量規制を通達。90年12月、紹介預金がピークを迎える。総油金の54%を占める。93年7月、大阪府と大蔵省の合同検査で、不良債権の分類率83.93%。94年12月、東京都が東京二信用組合の破たん処理スキームを発表。95年1月、大阪府が木津信用組合を実質破たんしているということで、日本銀行と大蔵省と協議を開始。95年2月、東京二信用組合の破たんの影響もあって預金が流出し始める。95年3月、大阪府が毎日の資金状況を把握し始める。大阪府が大蔵省と日本銀行に対して、流動化対策への協力を要請。95年4月13日、大阪府が三和銀行に対し、資金支援を要請。
 95年5月8日、大阪府が三和銀行に対し、資金支援要請文を郵送。三和銀行は開封することなく返送。95年7月31日、東京都がコスモ信用組合に業務停止命令。95年8月1日、コスモ信用組合への業務停止命令の影響もあって預金流出。95年8月28日、大阪府が全国信用組合連合会に支援貸し出しを要請。東京都がコスモ信用組合の破たん処理スキームを発表。同時に高利率の預金者に対して、東京協同銀行への業務移管のときにそのレートを引き下げてほしい旨要請すると発表しました。
 95年8月29日、末野興産グループをはじめとして、480億円もの巨額預金解約発生しくしました。95年8月30日、大阪府が業務停止命令を出しました。

(続く)

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○○472『自然と人間の歴史・日本篇1990年代後半の景気対策

2016-09-17 21:55:52 | Weblog

472『自然と人間の歴史・日本篇1990年代後半の景気対策

 1995年初め以降、民間企業設備投資は堅調な伸びを続けていました。95年度の伸びは7.4%の増加で、96年度を見ても9.1%増を記録していました。個人消費も回復し、この時期の景気を牽引しました。96年は5年ぶりに3%を超す経済成長に漕ぎつげ、バブル崩壊後、初めて明確な景気回復軌道に乗ったかに見えたものです。
 ところが、その設備投資は97年度に入ってから急速に落ち込んできたのです。まず、独立的投資が頭打ちになったこと。通信業や卸売り・小売り業の分野での設備投資が、規制緩和の効果の一巡で鈍化しました。2つめに、企業収益が4年ぶりに減収減益になるなど、キャッシュ・フローが減少。このなかで中小企業への金融機関の貸し渋りが取りざたされるようになりました。これにともなって、企業の中期的な見通しもはっきりしなくなってきました。
 このような景気後退が不可避になったのは、9兆円もの国民負担を増大させた緊縮予算といわざるをえません。政府は、消費税の引き上げ等の影響は4-6月で消えるのではないかとうそぶいていました。ところが、消費税引き上げ後は惨憺たるもので、97年3月頃からはっきりおかしくなり、そのまま97年末にかけて景気は底割れしたのです。
 97年の株価下落は、経済がおかしくなったのに敏感に反応しました。96年6月25日政府が消費税引き上げを閣議決定したときから下がりはじ
め、97年になるとそのペースが増し、97年11月末まで下落を続けました。
 95年7月、新進党が参議院比例区で躍進、9月には自民党総裁選で橋本龍太郎氏が総裁に就任、96年1月には禅譲の形で橋本自民党首班内閣が発足しました。 
96年10月の総選挙で、96年1月に衣替えしたばかりの社会民主党は一気に15議席まで議席を減らしました。96年12月には村山氏から土井たか子氏へと委員長が交代しました。
 公共事業の規模は90年代後半になるとさらに膨らみました。
95年9月の総合景気対策は14兆2200億円の規模で、GDP比2.9%。減税ゼロ。公共事業費は9兆600億円。そのうち用地買収費を除いた、いわゆる真水分は8兆740億円。公共事業予算追加額は、国が4兆9766億円、しかし地方のそれ(決算額-地方財政計画額)はマイナスの3593億円の合計で4兆6173億円でした。
 98年4月の景気対策の総額は16兆6500億円で、過去の経済対策では最大となりました。その名目GDP比は3.3%の予測で、減税額は4兆6000億円。公共事業費は7兆7000億円。そのうち直接的にGDPを押し上げる費用として6兆5000億円が組まれました。減税については、97年度に1兆4000億円を確保しました。
 1991年度~2000年度までの国家予算・一般会計に占める公共事業関係費は一般歳出比で平均24%、総額で100兆円に膨れ上がりました。景気対策の総額は120兆円を超えました。
 政府は財源確保のために消費税率を97年4月からそれまでの3%から5%に引き上げました。国民総生産(GNP)に占める比率はいわゆる先進国のなかでトップレベルであるにもかかわらず、物価上昇分を差し引いた実質経済成長率はこの10年間の平均で1.6%にとどまっています。
 96年度末の国債残高は約240兆円に達していました。地方債の残高は約101兆円でした。地方自治体が組んだ景気対策としての地方単独事業によって、5年間でほぼ倍増していました。地方債とは、地方自治体が公共事業や財源対策として自治省の許可を得て発行するものです。資金運用部など政府資金が引き受けるものと、銀行に引き受けてもらうものとが主なもので、市場で自由に売買できる債券形式の地方債もあるが、大半は証書形式で、長期借入金とほとんど変わりません。
 続いて97年度の一般会計決算は、4年ぶりに1兆5000億円もの規模の歳入不足(いわゆる赤字決算)に陥りました。政府は97年春の消費税
率の引き上げで当初予算に比べ11.0%増の税収増を見込んでいたものの、特別減税の追加などを受けて税収を97年末の補正予算では8.0%
増の56兆2260億円に減額修正にしていたものです。
 それでも景気低迷に伴う企業の利益減や不良債権処理の処理の拡大などで1兆円以上見積もりを下回ったりしたことが大きく寄与したものです。これは、98年度の第2次補正予算で赤字国債を増発して赤字を処理する方針を出しました。不足分は、決算調整資金を国際整理基金から借り受けして穴埋めするにほかなりません。
 一方、97年5月、国と地方を合わせて500兆円もの財政赤字に危機感を抱いた政府・与党が分野ごとの歳出削減の数値目標を盛り込んだ「財政構造改革の推進方策」を纏めていました。98年予算編成を前にした97年11月末には財政構造改革法として制定し、以後の予算編成にたがをはめようとするものでした。
 その内容としては、次の8項目があります。
①2003年度までに財政赤字を対国内総生産(GDP)
②2003年度までに赤字国債依存から脱却
③社会保障費は、98年度予算での増加額を3000億円以下に、続く2年間の増加率は
前年度比2%以下に抑制
④公共事業費は、98年度予算で97年度比7%削減、続く2年間は全年度以下に抑制
⑤文教、防衛、中小企業対策、主要食糧関係、エネルギー対策は前年度比以下に抑制
⑥政府開発援助は、98年度予算で97年度比で10%削減、以降は前年度比以下に削減
⑦化学技術振興費は、98年度予算で伸び率を5%以下に、以降は増額を出来る限り抑制
⑧地方財政計画は、98年度予算で97年度以下に、以降も国と同一基調で抑制
 これを受けて策定された98年度一般会計予算では、まず総額77兆6692億円で前年度予算と比べ0.4%の微増にとどめました。政策的経費である一般歳出はというと、1.3%の減と11年ぶりのマイナス予算となり、公共事業に至っては同法の7%目標を上回る7.8%削減となっています。
 見過ごしてならないのが社会保障費の削減で、国庫負担を減らすため、薬価基準を5.7%引き下げたものの、診療報酬()は1.5%引き上げられ
ました。老人医療費の制度改正などによって国庫負担が削減される分は、サラリーマンの組合健康保険などが肩代わりすることになって、将来の
 保険料率の引き上げに含みをもたせる結果となりました。国立大学の授業料は99年度入学者から年額47万8800円に引き上げ。それにスライド
して在学者の授業料も自動的に値上げされるシステムがとられました。
 これで98年度予算における財政赤字はGDP比で9.7%となって、赤字国債の発行は7兆1300億円で済む。しかし、97年度当初に比べて
3400億円の削減となっただけで、2003年までの6年間で赤字国債の発行をゼロにする目標を維持するため、97年度で7兆5000億円に達している赤字国債を毎年1兆2500億円ずつ削減する目標は達成できていません。
 この原因としては、橋本首相が選挙対策もあって、突然2兆円特別減税を打ち出したことがありますね。特別減税の財源としては赤字国債で賄うしかありえず、とりあえず97年度補正予算で1兆円計上するものの、残りは98年度予算で賄う羽目に陥って、その結果赤字国債発行額が膨らんでしまったのでした。こうなると、99年度以降で、赤字国債を1兆4000億円強ずつ削減しなければならない計算になってしまったのです。」
(拙ホームページ「戦後日本の政治経済社会の歩み」)
 ともあれこれで財政赤字改革法の赤字国債削減規定との矛盾が避けられなくなり、恒久減税を実施するには同法の改正が必要との声が政府・与党の間でも出てきました。

(続く)

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○○407『自然と人間の歴史・日本篇』日中国交正常化(1972)

2016-09-16 16:56:59 | Weblog

407『自然と人間の歴史・日本篇』日中国交正常化(1972)

 1972年9月、日中平和友好条約が締結され、また日中共同声明が発表され、日中国交正常化が実現されました。
 同条約は、次のとおり。
 「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約
 日本国及び中華人民共和国は、千九百七十二年九月二十九日に北京で日本国政府及び中華人民共和国政府が共同声明を発出して以来、両国政府及び両国民の間の友好関係が新しい基礎の上に大きな発展を遂げていることを満足の意をもつて回顧し、前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、国際連合憲章の原則が十分に尊重されるべきことを確認し、アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。
 日本国     外務大臣 園田 直
 中華人民共和国 外交部長 黄  華
 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。
第一条
 1両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
 2両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第二条
 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第三条
 両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第四条
 この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。
第五条
 1この条約は、批准されるものとし、東京で行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによつて終了するまで効力を存続する。
 2いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。
 以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。
 千九百七十八年八月十二日に北京で、ひとしく正文である日本語及び中国語により本書二通を作成した。
 日本国のために     園田 直(署名)
 中華人民共和国のために 黄  華(署名) 」
 引き続いて、共同声明は次のとおり。
「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
 田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。
 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
一日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
二日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
四日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
五中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
六日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
七日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
千九百七十二年九月二十九日に北京で
 日本国内閣総理大臣  田中角栄(署名)
 日本国外務大臣  大平正芳(署名)
 中華人民共和国国務院総理  周恩来(署名)  
 中華人民共和国 外交部長  姫鵬飛(署名)」
 これにあるように、中国政府は、そのとき日本政府に対して何らの戦争賠償も要求しませんでした。これについては、竹内実がつぎの重要な指摘をしています。
「中国では、日本の侵略に抵抗した戦争を、1937年から数えて、「抗戦8年」といっているが、この戦争による被害は、中国の公式的発言によると、こうである。
 遠い昔のことはしばらくおき、単に1931年、日本が中国の東北に侵入してから、とくに、1937年、日本が中国を侵略してから8年間の戦争について見ただけでも、中国の軍隊と人民が受けた損失は1000万人以上であり、財産の損失額はアメリカドルで500億ドルをこえている(沈釣儒「戦争犯罪人検挙と懲罰について-国際民主法律家協会第5次代表大会における報告」1951年9月6日。日中貿易促進議員連盟「日中関係資料(1945-1966年)」1967年刊行、165ページ)。
 右の発言を行った沈釣儒は、中国の民主諸党派の一つ、中国民主同盟の指導的人物である。彼は抗日戦中は、抗日を主張、そのために弾圧を受けた7人のうちの一人であった。
 国交正常化が実現する1年まえ、筆者は右の沈釣儒発言にもとづいて、日本の対中国賠償額を52兆円と計算したことがある。当時、日本の国家予算は9兆4000億円であった。もし52兆円を支払うとすれば、毎年の歳入の半分を削るとして20年間支払わなければならない。
 賠償について、「共同声明」の第5項は、つぎのようにのべている。
 中華人民共和国は政府は、中日両国人民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
「請求を放棄する」というのは、もともと請求する権利はあったということにほかならない(これについては拙著「中国への視覚」中央公論社、1075年、169ー181ページ。ただし、筆者は自分の計算に拘泥するつもりはない。そもそも、人名を金銭で評価することは不可能である)。」(竹内実「現代中国の展開」NHKブックス、1987)


(続く)

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