♦️35『自然と人間の歴史・世界篇』年代測定と遺伝子解析の発展(遺伝子解析)

2018-05-26 09:11:57 | Weblog

35『自然と人間の歴史・世界篇』年代測定と遺伝子解析の発展(遺伝子解析)

 もう一つ、生物の痕跡を拾うものとして、DNA(デオキシリボ核酸)解析などの生物学的な知見があり、これの適用などにより、いわゆる生物学的情報が得られるという。というのも、DNAは、水、タンパク質、脂質、糖質などとともに、生物の身体を構成している。
 ここに人(ヒト)の遺伝子は、二本鎖のDNAから成り立っている。ちょうど、紐(ヒモ)が二本の糸で絡み合うことでできている。沢山の横棒で梯子(はしご)のように繋がっている。これらの紐には糖とリン酸が交互に並び、それかの一つひとつが共有結合という強い結合で結ばれている。この結合は、2つの原子が「電子を共有」し合うことによって成り立っている。もう少しいうと、お互いの余っている不対電子(2個ペアになってない電子)を共有して繋がりを強めている訳だ。
 そして、人(ヒト)の遺伝子が乗っかっている染色体も、二本鎖のDNAから成り立っている。巨大な染色体DNAの上にある人(ヒト)の遺伝子には、遺伝情報が組み込まれている。遺伝子がもっている遺伝情報は、人(ヒト)を構成するいろんなタンパク質を構成しているアミノ酸の配列を決める。使われるアミノ酸は20もの種類が知られる。その配列としてあるのがA(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)と呼ばれる塩基であり、前に述べた各々の糖の部分にこれらの塩基が結合している。これらは、紐に対してほぼ直角に、梯子の中の方を向いている。言い換えると、前に述べた紐のうち一本をある向きに辿ると、A、T、G、Cによる文字列ができている。
 これこそが遺伝子情報を担う暗号であり、生物は、これらの4つの塩基のさまざまな組み合わせ(配列の仕方)となって、高分子の化合物を構成している。つまり、A、T、G、Cの各々の組み合わせとは、生物の設計図にほかならない。実際のところ、こうした情報がタンパク質という別種の、やはり鎖状の高分子のアミノ酸配列へと翻訳、合成され、それぞれの生物を形づくるものとして発現するのである。

(続く)

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♦️34『自然と人間の歴史・世界篇』年代測定と遺伝子解析の発展(年代測定)

2018-05-26 09:10:07 | Weblog

34『自然と人間の歴史・世界篇』年代測定と遺伝子解析の発展(年代測定)

 さて、自然界に存在する炭素(C)という元素の中には、「放射性同位体としてのC12やC13、C14といった仲間(これを「同位体」と総称しよう)がある。数字の14は、その炭素の陽子と中性子の合計数(これを「質量数」という)をいう。この14などの質量数は元素記号の左上に書かれたりする。
 自然界の多くの炭素は、安定したC12として存在しているとのこと。12の内訳は、陽子6個と中性子6個なのだが、しかし、中性子の数が異なるC13やC14も存在しているとのこと。前に陽子の数が同じで、中性子の数が異なるものを同位体と述べたが、このC14は、安定的なC12と異なり不安定な状態で、放射線を出す性質を持っている。すなわち、放射能を帯びた、放射性同位体として存在している。
 さて、これらのうちC(炭素)14を用いて物質年代を特定するものに「放射性炭素C14年代測定法」がある。1947年に、アメリカのシカゴ大学のウィラード・ウィラード・リビーらのグループが、この原理を用い、過去の遺跡や遺物の年代を推測する方法を発見した。それらから某かの試料を採取し、残っている有機物質を測定することで、それらが生きていた年代を割り出すのだ。それからこの方法は、各国において改良に継ぐ改良が重ねられ、考古学の「放射性炭素革命」と呼ばれる地平を切り開いてきた。
 これの原理を極々簡単にいうと、こうなるだろう。まずは、C(炭素)14は、宇宙線がこれにぶち当たることでつねにつくられている。そして大気中でCO2(二酸化炭素)となり、光合成により植物に蓄積されていく。言い換えると、植物が光合成でその体内に取り込んでいる二酸化炭素の中にもC(炭素)14はちゃんと含まれている。そうでありながらC(炭素)14というのは、放射線を出しながら自分で勝手に壊れる物質にほかならない、つまり崩壊が進んでいるから、自然界には安定して存在しない。この二つの合成作用(蓄積される一方で崩壊も進むこと)によって、大気中のC14と他の同位体(C12やC13)との比率は、植物が生きている間はほぼ一定を保っている。
 ところが、その植物が枯れるとかして死ぬと、その植物内での光合成が行われなくなることから、C14が増えることがなくなり、それからはC14成分が崩壊により減るだけとなる。この理屈は動物の場合も同様で、植物を食べる草食動物、草食動物を食べる肉食動物についても、彼らが生きている間のC14と他の同位体との比率はほぼ一定を保っているのだが、その生物が死ぬと体内のC14が減っていく。
 そこで、観察者は、植物の死体や動物の死体から出るβ(ベータ)線を測定したり、C14と他の同位体との比率を調べたりして、放射性物質であるC(炭素)14がどのくらい残っているかを測定器で調べることができれば、どのくらいの年数が経過したのかがわかる、したがって蓄積の停止した時代がわかるのだという。
 ちなみに、かくも便利に使えるC14の半減期は、約5730年もするというから驚きだ。ここに半減期とは、放射性物質(放射性同位体)は放射線を出して安定したもの(放射性物質でなくなる)になる、その際放射性物質が半分になる期間のことをいう。例えば、はじめにC14が1000個あったとしよう。最初の半減期の約5730年後には、これが500個に減る。半分は崩壊してN(窒素)14になってしまうとのこと。次の半減期の今から約1万1460年後には250個、さらにその次の半減期が経つと125個になってしまう。以下、1万7190年後には8分の1、2万2920年後には16分の1、等々へとなっていく。つまり、はじめのうちは多く減っていくのだが、後になるほど減る量は少なくなっていくので、その分検出するのは難しくなっていく。
 もう一つ、ここにいうC14は、β線(ベータ線)という放射線を出す(この現象を「β崩壊」(ベータ崩壊)という)のだが、このβ線はエネルギーをもった電子のことで、原子核の中から飛び出てくる。原子核の周りにある電子とは別ものの電子であることに留意されたい(ただし、ここでは、かなり簡略化した説明になっている。実際は崩壊には種類があり、電子以外も飛び出るという)。
 このβ崩壊では、原子核の中の一つの中性子から電子が飛び出て、その中性子は陽子となる。というのは、元のC14は陽子6個と中性子8個があわさってのものだ。それがβ崩壊が起こると、中性子1個からβ線(電子)が出て行き、陽子へと変わる。つまり、原子核の中性子が1つ減り、陽子が1つ増え、原子核は陽子7個、中性子7個となる。これは、陽子の数が変わっているので、炭素とは異なる元素になったということ、具体的には
陽子7個、原子番号7は窒素(N)となる、つまり、C14がβ崩壊すると、N14になり変わるのである。ただし、陽子と中性子の合計である質量数は同じなのであって、実際の質量も、減った電子はわずかな質量なので無視して扱うこととされる。

(続く)

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♦️41『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、狩猟採集から農耕牧畜の社会へ)

2018-05-19 22:02:22 | Weblog

41『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、狩猟採集から農耕牧畜の社会へ)

 古代史の場合、最初の人類世界の一つの中心、すなわち「文明」と目されるのは、単にナイル川流域ではない、インダス川流域でもない、さらにまた黄河流域でもない。それは、西アジア(現在のイラン西部)と地中海世界(今日のシリア、パレスチナ)を組み入れてのティグリス、ユーフラテス両川流域、いわゆる「肥沃(豊饒)な三日月(半月)地帯」(Fertile Crescent)と称されるところに発生したメソポタミア文明を指す。
ここからは、紀元元年にいたる約8000年間に、現在我々人類社会が持っている、社会の根幹部分の諸要素がメソポタミアを嚆矢(こうし)として徐々に世界各地に単独でか、拡散(文明範囲拡張)などによってかで次々に形成されていった。
 そこで、この地域でのそもの始まりに思いを馳せると、紀元前1万年前頃、地球の直近の氷河時代が終わる。それからは、徐々に氷河が後退していく。そして、この後退する氷河の後に生まれたのが、新しい生活環境のオリエントなのであった。まずは、中石器時代の2000年間(前1万年~8000年)が続く。ここに住む人々は、用途別につくられた磨製石器が示すように、旧石器時代の採取経済からしだいに脱していく。
 それからの彼らは、より組織的な社会をつくっての複雑な生活へと向かう。「ナトゥーフと」呼ばれる文化が花咲く。ここで留意すべき点は二点ある。一つは、骨角器と石器の組みあわせによる鎌、石製の杵(きね)や臼(うす)の存在であって、二つめは、ヤギなどの家畜の存在である。これらは、やがて新石器時代になって農耕と牧畜の発生という形で結実していく、その礎(いしずえ)になっていく。
 時は、それからさらに下る。地球の温暖化の本格的な始まりが紀元前8500年頃とするならば、人類はその頃、その頃としてはかなりの多数で西アジアから地中海沿岸の温かな地域に進出していたのであろう。なぜならここは、人類の「出エジプト」から近いところにあったからだと考えられる。しかしながらこの地は、チグリス、ユーフラテスの流れ以外には、ほとんどなんの資源も持たない程の、昔も今も目の前に広がるのは乾燥した砂漠なのであるから。
 では、人々はなぜにこの地にとどまって、定住して暮らすようになったのであろうか。それを可能にしたものこそ野生で生息していた麦であった。現代の料理家は、古代メソポタミアの人々の、この思いがけない発見の意義を、こう解説している。
 「今のわたしたちが思い描くようなパンにするには、焼いたときにただのでんぷんのかたまりにならないよう、そしてふっくらとした仕上がりになるよう、内部に気泡を閉じ込めておける程度の固さの生地が作れなければならない。肥沃な参画地帯の穀物のうち、内部に気泡を閉じこめておけて、なおかつ採取可能だった野生種は、大麦(Hordeum vulgare L.)と二種類の小麦ー(Triticum monococcum L.)とエンマー小麦(Triticum dicoccoides L.)ーだった。今日のパンの元祖となったのは、たぶんこれらの麦類だろう。」(ウィリアム・ルーペル「パンの歴史」原書房、2013)
 それを最初にみつけた人物が誰であったかはわからないものの、このメソポタミアの地に住む人々は、これからの収穫を頼りに「天水農耕」(原始農耕の一つ)を始めた。その時期は、新石器時代初期(紀元前8000年頃からの約2000年間)の中にあったのではないかと考えられている。その具体的な地としては、紀元前8000年頃の遺跡で、ザグログ山脈の山麓地帯で雨水に頼る原始的な農耕が始まっていたことがわかっている。
 その後には、シリアの北東部のハーブル川流域に「ハフラ文化」なるものが栄えた。その担い手の民族構成は、はっきりしていないようである。ともあれそれは、紀元前6000年頃~紀元前5300年頃のことであったと推測されている。あわせて、紀元前5500年頃からは、ザグロス山脈の北西部に「ウバイド文化」なるものが始まる。ここに「ウバイト」とあるのは、その遺跡の多くがイラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイドという遺丘(テル)で発見されたからである。現在のウル市の西方六キロメートルに位置する遺跡名である。

(続く)

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♦️40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(人類、狩猟採集から農耕牧畜へ)

2018-05-19 22:01:01 | Weblog

40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(人類、狩猟採集から農耕牧畜へ)

 そして今から1万数千年前ともなると、主に世界の五大陸の先進的とされる地域で、定住と多様形態での農耕が始まったと考えられている。この時期区分は、ウルム氷期が終わっての約1万年前から地球が温暖になってきたことと某か事情が重なるであろう。アフリカに例をとると、大陸を構成している地殻に隆起が起こり、それが南北に走り、現在も亀裂が少しずつ広がりつある大地溝帯(グレート・リフト・バレー)ができる。
 その亀裂の西側は、昔通りの森林に覆われた姿であったが、東側では降水量が減り森林は草原地帯へと姿を変えていくのである。そのため、草原地帯での生活を強いられたヒトの祖先は生き残りのために自らを変化させていく必要を迫られたのではないか。
 いま最初の農業が勃興した地域を拾い上げると、次のとおり。約5000年前のアメリカ合衆国東部においてはひまわり、約8000年前のメキシコにおいてはトウモロコシ、約6000年前のアンデス・アマゾン地方においてはトウモロコシ、約1万1000年前の中近東(肥沃な三日月地帯)においては大麦、約9500年前の中国においてはコメ、7000年前のサヘル(サハラ砂漠の南縁部で、現在は半乾燥地帯)においてはモロコシ、約5000年前の西アフリカにおいてはアフリカ・イネや数種の雑穀、約6000年前のエチオピアにおいてはテフ(イネ科)とエンセーテ(バショウ科)、そして約9000年前のニューギニア高地においてはバナナ、等々。
 これらからみると、世界農業のルーツは五大陸のかなり広範な地域に跨って分布していたようだ。 

(続く)

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♦️48の2『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣の出現と流通(メソポタミアなど)

2018-05-19 08:16:51 | Weblog

♦️48の2『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣の出現と流通(メソポタミアなど)

 さて、理屈の上では、結局は金を筆頭とする貴金属なりが貨幣の地位を獲得していくことになると考えられるのだが、その過程を歴史的に辿ると、決して平らかなものではなかった。
 そしてこれは、私たちの社会が発展するのに伴って貨幣の形も変わっていった。富村傳氏の紹介による古代メソポタミアの事例には、こうある。
 「ハムラビ王の平和政策によって、商業も大いに振興した。富が蓄積され、通商が盛んになれば、交換の仲介物として物品貨幣が必要になってくる。エジプトでは早く、古王国時代から一定重量の銅環が貨幣として使われ、ついで中王国時代からは、金環が加えられたが、これに対してメソポタミアではシュメール・アッカド時代、交換の媒介物は、もっぱら大ムギであって、ハムラビ王の時代にはじめて、銅と銀の塊が新たな物品貨幣となったのである。もっとも、真の貨幣、すなわち鋳貨の使用ということになると、前七世紀のリュディア王国まで待たねばならない。」(富村傳(とみむらでん)「文明のあけぼの」講談社現代新書、1973)
 これにあるのは、秤量貨幣から鋳造貨幣への変化であって、銅や銀などの地金(ぢがね)そのものが貨幣として定められ、使用されていたという。これだと、取引がある毎にその量目や品質がどうなっているかを調べなければ納得できないということにもなっていく。そこで国家が乗り出してきて、鋳造貨幣という形が考え出された。

(続く)

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○○20『日本の歴史と日本人』縄文時代(前1万5000~前1000)

2018-05-18 09:57:44 | Weblog

20『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代(前1万5000~前1000)

 ともあれ、この列島で集団生活を始めた人々に続き、後続の集団も、だんだんにやって来た。その時代の特定をめぐっては、旧石器時代もしくは新石器時代という、彼等が使っていたであろう石器からの区割りに加え、日本に特有の区分であるところの「縄文時代」とも言われる。ごく大まかに、縄文時代とは、紀元前1万4500~5000年頃から紀元前1000年までの、1万年以上にわたる期間の社会と人々の暮らしを総称していうのが、現時点での大方の見方のようなのだが。
 この「縄文」という名前が付けられたのは、あのえも言われぬ、縄を回したような図柄がついた土器が1877年に初めて見つかったことによる。モースによる大森貝塚から発掘されたことから「大森文化」といってもおかしくはなかったのだが、その後はこの土器の紋様に着目しての日本史における時代区分として用いられていく。
 なお、現時点での縄文時代に関する有力説によると、土器の形式の変化から見た縄文時代の区分としては、15000年前?~11500年前が草創期。11500年前~7000年前が早期。7000年前~5500年前が前期。5500年前~4500年前が中期。4500年前~3300年前が後期。3300年前~2400年前?が晩期だとされる。
 こうした年代の割り出しには、炭素14による年代測定結果を、木材年輪年代等で「暦年較正」したものに他ならない。それから、最近約1万6000年前の土器が発見されているが、石鏃(矢じり)など新たな石器が出現するのは、最終氷期が終わり温暖・湿潤な気候になってきた1万1700年前までまたなくてはならないため、縄文時代の始まりをどこにおくかをめぐっては、学説が分かれている。ゆえに、これらの定義も確定したものではなく、今後の発掘なりによっては変わっていく可能性が大いにある。
 それらはともかくとして、話を前に進めたよう。いつの頃からか、そして列島になってからも、営営としてこの地に少しずつたどり着いてきたのかも知れない。そうして集積を重ねてきた人々が、日本列島のここかしこで集団生活を営んでいった。
 旧石器時代と交替し、次なる縄文時代に入ってからの人類の足跡の調査は、21世紀に入って上徠よりややテンポをはやめつつ分かり始めている、といって差し支えあるまい。ここでは、それらの中から二例を紹介させていただく。
 2014年7月、北陸新幹線の工事が行われていた現場で、これまでの考古学の歴史を書き換えるかのような、縄文人の骨の発掘があった。富山市の埋蔵物センターが富山県小竹(こだけ)遺跡から発掘された縄文人の化石から、そのルーツを推測しており、こう語られる。
 「富山市の埋蔵文化財センターは26日までに、縄文時代前期の小竹貝塚(同市)で、2008年に出土した女性の頭蓋骨を国内外で見つかったものと比較した結果、縄文人の祖先は東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州へ入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があると明らかにした。
 小竹貝塚では、既に見つかっている多くの人骨のDNA鑑定から、北方系と南方系の人たちが一緒に暮らしていたことが判明しているが、たどったルートは分かっていなかった。調査した国立科学博物館の溝口優司名誉研究員は「日本人のルーツ解明が一歩進んだ」と話している。(中略)
 溝口名誉研究員によると、富山の女性は歯のすり減り具合などから40~60代とみられ、当時としてはかなり高齢。この頭蓋骨を東北、関東、東海、山陽の各地方で出土した骨と比べると、パーツの形などが東北で集団出土した縄文時代中期以降の人骨とよく似ていた。(中略)
 東北の人骨は、北海道で出土したものや、中国河南省の安陽市で見つかった青銅器時代の人骨、東南アジアで出土した新石器時代から鉄器時代の人骨と特徴が類似しているため、北方系の流れとみられるという。
 一方、青森県で見つかった縄文時代前期の女性の頭蓋骨は、山陽で出土した女性のものと類似。岡山県で見つかった同時期の男性の人骨は、東南アジアとのつながりはうかがえるが、安陽市で見つかったものとは全く似ておらず、南方系と判断した。
(「縄文人祖先は南と北から? 富山などで出土の人骨比較」(2014年7月26日付けより引用)

(続く)

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♦️47『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(ハムラビ法典)

2018-05-18 08:41:17 | Weblog

47『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(ハムラビ法典)

 この第6代ハンムラビ王の治世(紀元前1792年頃~同1750年頃)において、ハンムラビ法典が編纂された。この法典を刻んだ石碑が発掘されており、これが日本の世田谷美術館の「メソポタミア文明展」にやって来た時、設置の台の外側に立って、上半身を前に乗り出すようにして見させてもらった。しかし、文字の形までは識別がかなわなかったのが残念。閃緑岩のやや円筒を模したような、緩い曲面に刻まれている。この碑の近さはゆうに2メートルはあったろうか。
 文字のさらに上、石碑の一番上部には、この法典の由来が浮き彫りで表現されている。右側に神、左側に王がいるではないか。王は、椅子に鎮座しているところであろうか。王と向かい合っている神の名は「シャマシュ神」といい、髭を蓄え、神の象徴とされる角(つの)を頭の上部に帯びている。長い腕をした上、その方からは何本もの太陽光線を発していて、貫禄は充分。この石碑は、かつてはシャマシュ神の神殿に建てられていたものと推測されている。
 この現存のハムラビ法典だが、1901年、イランのスーサで発見されたという。本文は282条に前文、後文が付けられている。その最大の特徴は、いわゆる「同態復讐法」に貫かれた、その刑罰の厳しさであろう。その中から、幾つか紹介しよう。
 「第196条、もし人が人の目をつぶしたときは、彼の目をつぶす。
第197条、もし人が人の骨を折ったときは、彼の骨を折る。
第198条、もし半自由民の目をつぶし、あるいは、人の奴隷の骨を折ったときは、銀1マナ(約490グラム)を支払う。
第199条、もし奴隷の目をつぶし、あるいは、人の奴隷の骨を折ったときは、その(銀1マナの)半分を支払う。
第200条、もし人が彼と同格の人の歯を折ったときは、彼の歯を折る。」(富村傳(とみむらでん)「文明のあけぼのー新書西洋史①」講談社現代新書、1973)
 珍しいところでは、チグリスとユーフラテスの両河が引き起こす洪水についても、その損害への規定を設けている。
 「第45条、もし人が地代をとって畑を耕作人に貸したあと、畑に洪水が氾濫したり、津波がおそっても、損害は耕作人の負担となる。」(同)
 ほかにも、結婚も契約扱いであったのか、証書を交わさなければ正式に認めれなかったという。

(続く)

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♦️40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、バビロニア王朝)

2018-05-18 08:39:53 | Weblog

40『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、バビロニア王朝)

 さらに、このメソポタミアの世界は、バビロン第1王朝(紀元前1894年頃~前1595年頃)の時代に入っていく。それまでの初期王朝時代の週末までにスメル文化がメソポタミアのほぼ全域に及んでいた。だがそれでも、その支配の色に塗り尽くせない場所があった。この空白を埋めるべく、新たに歴史の表舞台に登場する勢力について、小川氏(前出)はこういわれる。
 「さらにその後に、同じく砂漠から入った第二のセムの波として、カナアン人がより大規模な形で海岸まで入植し、その地の文明文明の基本的性格を確立する。
 アモリ人は同時に、メソポタミアでも定住運動を開始した。ウル第三王朝後期の王たちはユーフラテス川流域に史上最初の長城を建設して彼らの侵入を防ごうとしていた。しかし、前2006年にこの王朝が亡びると、アラム人はエラム人を追い払い、イシンとラルサに定着し、それぞれ王朝をつくった。(中略)
 やや遅れて、アモリ人の別の一派が定着し、バビロンに王朝をつくった。そして、メソポタミア中流域以南の地は、アモリ人による三王朝並立の時代を迎えたが、バビロン王朝第6代目の王ハンムラビ(前1792~1750)に至って、彼の下に前メソポタミアが統一された。このようにして出来た、バビロンを中心とするアモリ人の国家をバビロニア帝国という。」(小川前掲書)
 これにあるように、バビロン第1王朝(前1894~同1600ごろ)の初代スムアブムからは、彼らは着々と勢力を拡大してきた。それが、ハムラビ王の時代に至って、東方山岳地からこの地に侵入してきていたエラム人を種メールから一掃するとともに、当時スパルトゥと呼ばれていたアッシリアの地をも制圧し、メソポタミアの統一を成しとげたのである。

(続く)

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♦️72の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣の出現と流通(その由来、マルクス)

2018-05-17 21:54:45 | Weblog

♦️72の2の2『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣の出現と流通(その由来、マルクス)

 人の手でつくられ、世の中にあるものは、何事も最初が肝心だとか。貨幣が初めて出現したのは、かなり古代での出来事であったことだろう。その貨幣たるや、地球上の地域によって、さまざまなものがあったという。これをもう少しいうと、石やその類から、金属まであったらしい。
 とりわけ金属にあっては、刻印や形の整っていないとかで、その社会に出回っていたこともあったであろうことから、そんな自分にこれを受け取った者は、常々(つねづね)もしくは次第によっては、「どうか本物であってほしい」ということにもなっていたのかも知れない。
 そんな多様な形態をもって始まった貨幣を説明するには、どのように説き起こせばよろしいか。この問いに、最も系統だった回答をしているのは、科学的社会主義の提唱者として知られるカール・マルクスであろう。
 彼は、こう始めている。
 「誰でも、他のことはなにも知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の雑多な自然形態ときわめて著しい対照をなす一つの共通な価値形態ー貨幣ーをもつということは、知っている。しかし、ここでなされなければならないことは、ブルジョア経済学によって一度も試みられなかったこと、すなわち、この貨幣形態の由来を証明すること、つまり諸商品価値関係のうちに含まれている価値表現の発展を、そのもっとも簡単な、目立たない姿から、まばゆい貨幣形態まで追跡することである。それによって同時に貨幣の謎も消滅する。」(カール・マルクス「資本論」第一巻)
 そこで貨幣がどのようにして導かれるかの理屈を説明すると、まずは「簡単な、単一の、または偶然的な価値形態」としてのx量の商品A=y量の商品Bというものを考える。これだと、商品Aは自分で自分を表現できない。だから、商品Bによってその価値を表現するしかないのだが、その場合、商品Bは商品Aの価値の鏡の役割をはたす。
 これの関係を商品Aからいうと、商品Bとの相対的な関係からその価値を表現するので、相対的価値形態の立場に身をおくであろう。これに対して商品Bは、価値の鏡として、等価として機能することから、等価形態の役割を担うであろう。
 この基本的な関係は、窮屈なものであって、より多くの交換をなすには、「全体的な、または展開された価値形態」へと発展しなければならない。式の例示でいうと、z商品A=u商品Bまたは=v商品C=または=w商品Dまたは=x商品E、等々。
 これからさらに、「一般的な価値形態」へと進む中では、y量の商品B=,z量の商品=C,w量の商品D=のそれぞれの右辺側が全てx量の商品Aへと集約される。つまり、その社会に出回るすべての商品が、単一の商品Aを唯一の価値形態とみなされるという、一商品が一般的な等価形態(第三形態)へと昇格する。
 こうして一つだけの商品がその社会の一般的な等価形態に這い上がるのは、ただその商品が、他のすべての商品によって、この商品世界のいわば共同作業とてして行われるようにったからだ。
 そこでいまこの一般から際立って区別された商品が、その商品の自然的性質が、等価形態の機能をはたすのに最も適しているとの理由から、一つにに限定されると、その商品はその社会の中で諸商品の等価形態として、社会的妥当性を獲得するにいたる。このような自然的特性と等価形態(社会性)という機能との結びつき、重なり合った特別な商品こそが貨幣商品と呼ばれるものであり、この究極の姿は金(きん)である。

(続く)

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♦️52の3『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(レオナルドとミケランジェロとラファエロ)

2018-05-16 06:55:21 | Weblog
52の3『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(レオナルドとミケランジェロとラファエロ)

 レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、それにラファエロ(ラファエッロ)の3人は、後期ルネサンス期を代表する芸術家として、世界に広く知れ渡っているのではないか。
 まずはレオナルド・ダ・ビンチだが、大きなものでは「最後の晩餐」をつくった。画業は、自身が考える究極のものとなるまで、手放すことなく書き加えていたと伝わる。「モナリザ」などは、当時の人々の精神性をも伝えているかのようだ。個人としてだけではなく、レオナルド主宰による工房としても仕事を請け負っていたらしく、多くの弟子や助手を動かして、顧客からの依頼に応じていたという。
 対するに、ミケランジェロは多芸でもあるところに特色を持っていた。その主なものとしては、ざっと建築、彫刻、それに絵画といったところか。建築は、ローマのサンピエトロ大聖堂の設計を手掛けた。円錐状の堅固なドームは、当時の価値観も反映しているのであろうか。別人が始めた計画を引き継いだものも数あるという。
 彫刻では、「ダビテ」とか「ピエタ」とかは、まるで一部の隙間もないような作品ばかりだ。それから絵画の大きいところでは、システィーナ礼拝堂の天井画「最後の審判」があり、左右対称の構図をもち、正三角形が重要な役割を果たしているとされる。
 3人目のラファエロは、中部イタリアの古都、ウルビーノ生まれの天性の画家であった。その短い生涯に、画業絵の上で実に多くの仕事を成したことで有名だ。大きなものからいうと、ローマ教皇の住所であるヴァチカン宮殿「署名の間」の壁画がある。彼は、これの作成を画業の棟梁として請け負っていた。依頼主は、なにしろ激しい気性で知られるユリウス2世であったというから、完成までには二人の間で壮絶なやり取りがあったのではないか。これを完成させたラファエロ及びその工房は、たちまちローマ画壇の寵児となったという。
 このラファエロだが、めずらしいところでは、ドイツ南部の都市ニュールンベルクに住んでいた版画家のデューラーと、親しくつきあっていたという。ラファエロが描いてデューラーに贈ったという素描(そびょう)が残っているとのこと。
 もうひとつ、ラファエロは晩年に弟子と一緒の絵を描いている。弟子のジュリオ・ロマーロらしき男が師匠のラファエロを親しげに振り返っているもので、自画像としてのラファエロは穏やかな表情をしている。

(続く)

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○○91『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(鑑真の来日)

2018-05-15 20:52:55 | Weblog

91『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(鑑真の来日)

 鑑真の人となりについては、さしあたり謹厳実直といったところか。この時期に唐から日本に向かった代表的な中国人として、日本にあまねく知られる。真人元開が著した『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』(訓読文)には、こうある。
 「東大寺戒壇院『伝教大師全集』宝暦十二壬午年刊本を底本
 大和上、諱は鑑真、揚州江陽県の人なり。族姓は淳干、斉の弁士?が後なり。其の父、先に揚州の大雲寺智満禅師に就いて、戒を受け禅門を学す。大和尚年十四、父に随って寺に入り、仏像を見たてまつりて心を感動す。因て父に請て出家を求む。父、其の志を奇なりとして許す。是の時、大周則天長安元年、詔有て天下の諸州に於て僧を度す。便ち智満禅師に就て出家して沙弥と為り、大雲寺に配住す。後改て龍興寺とす。
 唐の中宗孝和皇帝神龍元年、道岸律師に従て菩薩戒を受く。景龍元年、錫を東都に杖て、因て長安に入る。其の二年三月廿八日、西京の実際寺に於て登壇して具足戒を受く。荊州南泉寺の弘景律師を和尚と為す。二京に巡遊して、三蔵を究学す。後ち淮南に帰て戒律を教授す。江淮の間、独り化主為り。是に於て仏事を興建して、群生を済化す。其の事繁多にして、具に載すべからず。」
 そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。彼らは、遣唐使で、朝廷から、中国から「戒律」の専門家を連れてきてほしいとの密命を帯びていた。「戒」というのは、仏教者が守べき行いを定めたもの。「五戒の戒」とは、不殺生(ふせっせい)、不偸盗(ちゅうとう)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふいんしゅかい)の五つであって、これを守った上で、仏教徒がもらえるのが、元々の「戒名(かいみょう)」の意味なのだ。
 そらに「律」というのは、僧たる者の集団生活に辺り規則が定められていた。これらが弛緩していた日本の仏教界に、喝を入れようとしたのであった。
 その鑑真は、6回目の挑戦で日本にやってくることができた。第1回は743年、55歳の時であった。第2回は744年、56歳の時であった。第3回は744年であったが、これも失敗であった。そこで態勢を立て直して再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄されもまたもや失敗する。栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。第4回も744年。福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告したために失敗した。
 第5回の渡航は748年、鑑真が60歳のときであった。出航するまでは良かったが、暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。揚州に引き返す途中で、栄叡が死ぬ。遣唐使船で大陸に来て15年のことであった。鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。そして第6回の753年、時に鑑真65歳。日本から20年ぶりに第10回の遣唐使がやって来ていた。
 その日本への帰国便で、鑑真と弟子5人を非合法で連れ出そうということになる。帰りの船は4隻に約600人の大船団であって、鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、遣唐大使、つまり正使が鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断で自分の船に鑑真一行を乗せたことから、世紀の渡海が実現したのであった。待ちかねていた日本側は、さっそく鑑真の受け入れ準備に乗り出す。
 一方、唐においては、755年に安史の乱が起こる。節度使といって、募兵の長の一人が朝廷に対し反旗を翻し、都長安を攻めた。反乱軍は長安を占領し、玄宗皇帝らは四川に逃れる。唐は、安史の乱を鎮圧するため、遊牧民族のウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきたのであるが、他力を頼むようではもはや唐は衰退していくのみであった。
 894年(寛平6年)には、遣唐使が廃止された。それからおよそ200年の後の、平氏による日宋貿易まで、中国との関係はほとんど鎖国状態になっていく。日本側とすれば、もはや中国から学ぶべきものは何もなくなったと判断したのか、唐の側でも国勢衰退によりもはや受入れの態勢が整わなくなったのかもしれない。

(続く)

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○○90『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(吉備真備の場合)

2018-05-15 20:52:01 | Weblog

90『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(吉備真備の場合)

 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび)がいた。彼の出身は、吉備氏の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだと伝わる。古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。

 朝廷に出仕し、「大學寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄に見出されるとともに、位も上がって「正六位下」に昇叙され大学助となる。以後、玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって吉備真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国する。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。

(続く)

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○○89『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(その使命)

2018-05-15 20:50:27 | Weblog

89『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使(その使命)

 遣唐使になってから、日本に様々な文物などが持ち帰られることになったのは、唐という国に日本が認知されたからであろう。ところが、これが対外的に認められた最初は何年であるかが長い間分からなかった。日本という国号が法的に確立したのは701年に完成の「大宝律令」なので、それからの両国の関係の中で、その時がわかる事績があれば良いのだが。それに対する手掛かりが今世紀に入って判明した。その報、いみじくも中国からやって来た。
 彼の地で発見されたのは、遣唐使で唐に行った先で死んだ井真成(いのまなり、699年生まれと推定される)の墓であった。彼の墓誌が発見された場所は、中国・西安の郊外(郭家灘(かっかたん)付近と推定)の工事現場だという。墓誌は蓋と本文の2つの石からなっており、それが同地の西北大学に持ち込まれ、調査が為される。

 その結果、日本人遣唐使の墓誌であることが判明し、そのことを西北大学が内外に発表したのが2004年である。実際にどの工事現場でいつ、発見されたのかは不明のままである。というのは、本文(16字づつ12行)には発見されたときの工事の時に何らかのミスがあったためか、傷があるために各行の冒頭などが読めなくなっている。その原文は、次のような構成となっている。
 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序、公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能、○命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶、○朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終、○遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月、○日乃終于官弟春秋卅六○○○皇上、○傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官、○卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水、○原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠、○兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰、乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶歸于故鄕」
 ここで「開元廿二年」、つまり734年をもって「日本」という国号が記されているからには、唐の方でそれまでに「倭」を改めたものと見える。井が唐に渡ったのは西暦717年、その時19歳であったという。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)らと一緒に唐に渡ったことになっている。その彼が日本に帰国を果たせないままに、734年に唐の都・長安(現在の中国・西安)で亡くなった後は、多くの遣唐使員と同様に脚光を浴びることなく、長い沈黙を余儀なくされていたもののようである。
 遣唐使には、小さな船に大勢が乗り込んでいた。はじめの頃は1~2隻であったらしい。それが8世紀に入ると4隻に増える。船を漕いで行くのだから船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らはもちろんのことだが、乗手としての人の数がとにかく多いのだ。大使の下に副使、判官、録事若、知乗船事、造舶都匠、訳語(おさ)、医師、陰陽師、画師、史生、射手、船師、新羅語や奄美(あまみ)語の通訳、卜部(うらべ)、様々な工人らがいて、さらに留学生・留学僧らが加わる。そういうことだから、一説には多いときには1隻に120人ほど乗っていたのだとか。だとすると、4隻ともなれば一行全員で数百人にもなっていたとも考えられているところだ。
 はたして遣唐使が身につけて帰った諸々の知識(思想的及び制度的なものを含む)や技術など、そして彼らが彼の地で収集し持ち帰った文物は、形成途上にあった日本の政治(制度を含む)や文化の発達に大きく貢献したのは疑いなかろう。それどころか、現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、過言ではあるまい。
 現在に生きる私たちは、いたずらに中国とは異なる、独自の道を歩んだことを強調し過ぎる嫌いがありはしないか。私たちの文化が造られてきた中に、中国からの諸要素が紛れもなく、しっかりと入り込んでいる、このことの意味をよくよく考えてみる必要がありはしないか。
 そればかりではない。彼ら、唐から遣唐使が持ち帰った中には、暦(こよみ)が含まれていた。その暦は大衍暦(ダーイェンリー、だいえんれき)といい、ちょうど唐に留学していた吉備真備が735年(天平7年)に帰国した時、楽器、武器などとともに、日本に伝えられた。この暦は、764年(天平宝字8年)から858年(天安2年)まで94年間にわたって使われる。
 ここに大衍暦 とは、僧の一行(いちぎよう)らが唐王朝の玄宗皇帝の命によって編んだ太陰太陽暦のことだ。それまでの李淳風の麟徳暦(儀鳳暦)では、日食や月食がしばしば合わないことから、より正確な暦をつくることを志すに至る。一行や南宮説(なんぐうえつ)らは、標準点を陽城(河南省登封県告成鎮付近)に置いてから、子午線を実地に測定していく。
 その後も、様々な課題について粘り強く思索し、新暦の編成のために全土に及ぶ大規模な天文測量を実行した。この暦は、729年(開元17年)から33年間使用されたのであるが、一行はそれを見ることなく、727年(開元15年)に45歳で死んだ。
 そして迎えた734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。

(続く)

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♦️394『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(日本、~1945)

2018-05-15 19:29:21 | Weblog

394『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(日本、~1945)

 いったい、第二次世界大戦とは何であったのか。さまざまなアプローチがあることだろう。しかし、何が一番人々の心を打ち、揺さぶるものとなるかは、時と場合による。ナチス・ドイツが組織的に行ったユダヤ人迫害と虐殺は、かれらを滅亡させるかの如くに行った、大規模かつ継続的なものであった。何よりも、その残虐さ、その殺人数において人類史に残る汚点であり続ける。
 指導者のヒトラー自身が、これを雄弁に語っているところだ。これを、戦後のドイツは国家ぐるみの「戦争犯罪」であったと認め、あのようなことが決して起きてはならないという決意の下に、国づくりを行ってきたという。幸いにして、1980年代になって、ようやくドイツとフランスに「歴史的和解」(フランスのミッテラン大統領と西ドイツのコール首相)が演出された。もちろん、それで大戦の傷が癒され尽くしたということにはならぬ、その分は現に生きる世代がその事業を受け継いでいくしかあるまい。
 これに対し、日本の先の大戦での戦争犯罪については、「ああでもない、こうでもない」ということであろうか、21世紀を迎えた今も決着がついていないものが多くある。例えば、日本軍が南京(なんきん)攻略の直後に行ったとされる、中国人捕虜の虐殺の話がある。これまでの日本政府は、大筋ではそのような事件があったことを否定していない。しかし、詳細な話に及ぶにつれ、口を濁らして語らなくなる。
 前述のドイツの対応事例と比較して、何が違うのだろうか。そこで思い至るのは、日本国内では、国論は統一されていないし、国民自らの良心に鑑みて、大いなる反省をしているとはとても思えない。第一の意見では、そもそも、そういう事件はなかったという。そういうなら、証拠を見せよというのが常套文句とならざるを得ない。それでいて、自分は何も踏み込もうとしない、平たくいうと「ずるがしこい」のである。これは、日本軍は、一説には、不可避と知るや、現地で証拠隠滅を急いだ。作戦や捕虜に関する記録はおろか、彼等を捕虜にする際に徴収していた兵器その他に至るまで、焼却処分その他で「足がつかないようにした」のだという。その様子は、「まるで阿鼻叫喚のようであった」(当時現場にいた兵士の証言)とも言われる。
 二つ目としては、かかる事件があったのは否定できないとする。その上で、日本側の正当防衛としての殺害をいう。具体的には、中国人捕虜たちが何かで反抗し(散発的、偶発的であったにせよ)、日本側を攻撃、もしくは威嚇してきた、もしくはその動きを見せたという。こちらの日本兵たちがやむなく応戦し、射殺を行ったのではないかと。これが「自衛発砲説」と呼ばれるのものであり、いわば、「暴発」での出来事であったとするもの。だが、これをもって日本側の正当防衛を立証するには、証拠らしいものが、これまでのところ一切示されていないである。
 その三つ目は、これには、現地の聯隊に止まらず日本陸軍そのものが組織的に関与していたという。周到なる計画的にでしか、2万人もの中国人捕虜たちを一両日に殺すことはできなかったと。しかも、現場に多くの備え付け機関銃を配備し、効率的に銃殺したのだという。その虐殺は、2日間に亘って行われ、例えば当時の兵士のメモには、2日目(南京への入城式典の行われた日)のこととして、「今日は1万4776名の捕虜」を目してのことだと記されているとのこと。
 これらにいたる経緯を詳しく伝えるものとしては、2018年5月14日の深夜番組、日本テレビの「南京事件2」での放送がある。その概要は、日本陸軍による組織的・計画的虐殺であったという見方に近いものとなっているように感じられる。そのようにいわれる一番の力となっているものは、やはり現地にあって事のほぼ一部始終を見ていた当時の兵隊たち(主に福島歩兵第65聯隊所属)の証言なり録音テープなどであろう。これらのうち当時の兵たちの証言については、いずれも、顔に「ぼかし」が入っていることから、匿名にしてもらいたい等々ということであろうが、事の流れはいずれもきちんと把握しての発言であるように感じられる。

(続く)

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♦️529『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(フィンランド)

2018-05-13 21:06:10 | Weblog

529『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(フィンランド)

第二次世界大戦後のフィンランドは、戦争責任裁判を経て、1947年2月には、ソ連と友好・協力・相互援助条約を締結して、よき隣人としての立場を確立。東西の冷戦の中での中立的な位置どりで、双方との対立を回避しながら、国力の増進を図る。それからは、1952年にソ連への戦時賠償を完済するとともに、フィンランドも参加しての北欧諸国間で北欧パスポート連合を結成し、人の自由往来を認め合う。
 1954年になると、これら諸国の間で移住及び労働の自由を認め合う。1955年には、元枢軸国イタリアとともに国際連合への加盟をはたす。それからのスウェーデンは、福祉国家への道を歩み始める。
 1995年1月には、念願だったスウェーデン、オーストリアといった、冷戦下に争いに巻き込まれるのを回避するべく、中立政策を守っていた国々に伍(ご)して、EU(欧州連合)への加盟を果たす。

(続く)

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