65『美作の野は晴れて』第一部、私は学舎で何を学んだのか2
私のつたない記憶によれば、5年生の担任は二宮先生で、最近その先生のお姿を、テレビの番組「世界行ってみたらこんなところ、ホムカミ~ニッポン大好き外国人、世界の村に里帰り」(2014年7月27日の日曜日に放送)で拝見した。新野小学校に通っていた途中で、家の人について南米ボリビアに渡った人が、56年ぶりに日本の西上という村に従兄弟たちや級友、そしてお世話になった先生などに会う話であった。記念の写真撮影の中で、先生は仄かに笑っておられるようであった。その人は、故郷を前にして、「帰ってきたんだよなあ。この風景は忘れないよ」といい、その思いをハーモニカの音色に載せて表現していた。
「うさぎ追い しかの山
つつがなきや ちちはは
夢はいまもめぐりて
忘れが難し ふるさと」(作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一)
その5年生の授業だったかししれないが、美術で自分の拳をデッサンする課題があった。左手を握り、その姿を画用紙に鉛筆で書き入れていく。絵を描くのは嫌いではないが、これを行うとなると、どうにもうまく描けない。それでも、自分なりに鉛筆を走らせて、それらしきものをつくっていった。仕上がり前に、上月君(仮の名)の作品を垣間見たのだが、本物の拳かと驚いた。人にはそれぞれ才能というものがあることを、その場で学んだような気がしている。
自分から取り組んだものは何もなかったのだろうか。これを思い出すには、何日もかかった。その中からひとつ、ある日のこと、図書室に行って本を物色し、夏目漱石の『吾輩は猫である』を手にとって、始めの部分を少し読んだことがあった。その書出しにはこうあった筈である。
「我が輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。」
あのとき、本を借りて帰って読んでいたとしたら、その後の私の文章づくりは少しは上達していたに違いない。
あれは、5年生の終わりの時であったか。ある日の授業かクラスでの時間のとき、先生が後者の来側、道を隔てた田圃のあぜに、クラスのみんなを連れて行かれた。そのとき、写真屋さんが来ていてクラス写真を撮ってもらったのか、それとも他の誰かに撮ってもらったのだろうか。
6年生の担任は流郷先生であった。先生の授業で一番覚えているのは、音楽の授業であった。6年生の音楽の授業は校舎の一番西の音楽室で行われる。先生はそこでよくクラシック音楽を聴かせていただいた。黒板の前には、蓄音機というか、マイクのところに布が張ってある機械が置かれていた。私たちは、長いすに4人ずつくらい座って、神妙な面持ちでいた。音楽室の日当たりはあまりよくない。暖かい時にはいい。しかし、冬の寒いときなどは、授業の間、両手を長椅子とおしりの間に入れる。それでも寒いので、両の足をぶるぶる振るわせつつ授業が終わるまでを過ごす。
授業の始めには、先生が今日聞かせる曲と、簡単な作曲家の内容の説明をして下さった。先生は、それを手短にされていたようである。おそらくは、子供たちに、時間内に、できるだけのところまで、その曲を聴かせてやりたいという配慮があったのだろう。誠に、ありがたいことであった。
それが済むと、先生は用意のLPレコードを紙セットから引き抜いて、蓄音器のそばに行き、セットされる。おもむろに針を円盤の外周部に置く。すると円盤はうねうねと回転を始める。その間「プツプツ」とも「ウーウー」とも何とも形容のつかない微かな音がしばし聞こえたものだ。その後、あるときはやんわりと、またあるときはいきなり、旋律が流れ出す。真冬の授業のときには、暖房が入っていない音楽室で、子供心には寒さを忘れて聞き惚れることは難しい。時々、「ハアー」と手に息を吹きかけては、亦両手の先をおしりの下に敷いて耳をそばだてて、そのメロディーを聞いていた。
いまでも懐かしく想い出される曲が二つある。その1は、フランスのビゼーの『アルルの女』」、その2はシューマンの交響曲から。そして3番目の曲はドボルザークの『新世界』という曲だったか。ビゼーの曲は、晴れやかで元気がでる。舞台のアルルとは、ゴッホの田園を描いた絵にもあるように、フランス南部の温暖な村のことであろうか。シューマンの曲目はなんといったか、メロディーが小川のせせらぎのようで美しかった。ドボルザークの曲は、やや肌寒い。けれども、凍てついた冬ではなく、春を告げる調べが果てしのない草原を流れ渡ってゆくような案配にて、心がだんだんに解放されていく感じだった。
その頃既に、何が一番好きかと聞かれたら、迷うことなく社会科であったろう。歴史を学ぶことも大好きで、そうなるきっかけが歴史年表づくりであった。 それから、日本史を学ぶとき、先生が手作りの年表を作るよう言われ、私たちは画用紙を継ぎしてそれを書き足していった。私は意気込んで、できるだけ詳しく、長い歴史年表を作っていった。おそらく「みんなも、自分でつくってみい」というのが先生の指示だったのだろう。ところが、いったん始めてみると、実に面白い。
作り方は簡単であった。画用紙を買って、短冊のように重ね折りして使う。右の方から書き込んでいき、書きたい部分の白地を確保しながら継ぎ足しを行う。一枚の画用紙ではすぐ尽きてしまう。それなので、次から次へと新しい画用紙をのり付けして、年表を長くしていく楽しみがある。まさに自分の手で日本史の世界を少しずつ広げてゆき、そのことで自分の世界に浸る類の楽しみを得ていたのだろう。
年表でも、自分の好きな色を時代の区分けに使った。黄色から、緑、紫、そして赤という具合に綾取っていく。「源頼朝、鎌倉幕府を開く」など大きな出来事を記すときは黒ではなく、赤字を施したりした。他の級友たちのがどうであったかは覚えていない。おそらく、家でつくっていたものだろう。自分ととってみれば楽しい。
反省点としては、ただ事実を箇条書きにすることでは、それ以上のことは何も表現できない。当時は、織田信長は惜しいことをした、豊臣秀吉は偉くなってからおかしくなった、徳川家康は辛抱強く、最後に笑ったなどと、日本史上の3人の傑物をただ並べ立てて、「すごい」というにとどまっていた節がある。あのとき、庶民の生活がどうなっていたか、外国との関係についても興味をもっていたらもっと良かった。
それでも、作業を進めるうちにはりあいが出て来て、それからの授業がなんだか楽しくなるから不思議だ。大げさにいうと、もやっとしたこれからへの期待と、子供心なりに生まれて初めて「創造する喜び」を知ったことになる。
学校とは違うルートで、忘れられない事件に出くわすときもある。1962年(昭和37年)11月22日のニュースには驚いた。アメリカのケネディ大統領が婦人と一緒のオープンカーに乗ってパレードしている最中、ビルから銃撃され死んだというニュースは、当時の世界を駆け巡った。普段、テレビでニュースを見ることは少なかったにもかかわらず、そのときは日米初めての通信衛星によるテレビ中継での国際報道から、解説そして葬送へと移り変わる画面に釘付けになった。なにしろ、世界一の大国の大統領が白昼暗殺されたのだから、それから数週間というもの、テレビのチャンネルをどう回しても、その話で持ちきりの状態であったろう。彼はなぜ殺されたのか、事件の真相究明が実現しないまま、あれから50年以上が経っている。2039年には秘密文書が公開になるらしいが、あの事件は、私がアメリカという国の複雑さに魅せられるきっかけを与えた。
そればかりではなく、先生の算数の授業は教科書にとどまっていなかった。今も私の手元に一冊の算数の問題集が残っている。こちらはボロボロに使い古されている。流郷先生の指導で課外授業をしてもらっていた。問題はひねってあるというか、なかなかに難しい。正解になるまでは何度でも挑戦する。正解となると、先生は「○」(マル)の中に「合」(合格の意味)の字の朱のゴム印があって、それを問題番号余白に押して下さる。こうなると、何度失敗してもいいのだから、何度間違ってもまた正しい答えを導き出せるまで挑戦すればよい。それが励みとなって、みんなが勉強の励むことを先生は目指しておられたのではないだろうか。
当時の時間割はどうなっていたのだろうか。5、6年生にもなると、多い曜日には授業は6時間あったようだ。午後3時くらいであったろう。因みに欧米では、高校でも今日午後2時に終わるという話を聞いたことがある。外国帰りの家庭の子供が日本の学校に通うようになると、そのギャップに面食らうのだそうだ。
学校の講堂を使っての課外授業もあった。1年生から6年生までの課外授業の中で印象に残っているものを二つ紹介しよう。一つは、一年先輩の児童会長の一宮さん(仮の名)が玉野の造船所に岡山のほかの小学校の代表とともに訪れ、その報告をした。スライドのようなものがドンチョー(舞台の開閉の幕)の場所に映し出されて、いろいろと彼が説明した。画面に映し出されたのは、なにしろ積載量が20万トンはあろうかという石油運搬用のタンカーである。その進水式の模様が映し出された。その船は台の上を水のある方へと進みながら、色とりどりの沢山のテープに祝福されているようだった。
6年生も半ばになると、授業ばかりといっていられなくなっていったようだ。家に帰ってからの勉強も、6年生の卒業を間近に臨むようになってからは、卒業式の練習とか、あれやこれやで手につかない日々が続いたようだ。算数の問題集も、先生が見てくれていたのは多分2学期までだった。その1月からの3学期になると、先生方の表情も心なしか穏やかになっていた。私も、もう少しで学校を出ていく。ここを巣立っていくのだという。そう考えると、なにやらこみ上げて来る思いがあった。
あれは、卒業式が間近い、まだ相当に寒い頃のことであったのかもしれない。流合先生が西下の我が家にこられて、「健康優良児に」推薦の話であったか、卒業式のときの何かの役のことであったのかもしれない。その頃、自分では、健康に自信はなかった。いまに記憶が残っているものに、ある冬、父がうなぎを買いに連れて行ってくれたことがある。私も父も自転車に乗って西下の西隣の掘坂であったか、うなぎ養殖場のあるところに行くと、そのおじさんの家の庭の先にある、まるで田んぼのような中に一囲みの生け簀が設けてあった。そこにはやや深いところで、細めのうなぎが数十匹もいただろうか、寒いので静かに、ゆっくりと泳いでいるように見えた。そこで、父がおじさんに言ってうなぎを2尾くらい仕入れるところを、「世の中には、こんな商売もあるんだな」という驚きの気持ちで眺めていた。その朝の出かける前の母には、「泰司に滋養をつけてやらにゃあいけんと、おとうちゃんがうなぎを食べようというとるけん」とのことであった。その頃は、なんとなく力が入らないというか、特に風邪を引いたらなかなか直らずに、ぐずぐず時を過ごしていたようであるが、きっとうなぎのタンパク質もいただいたおかげで健康を持ち直していたのであろう。
そういうやや虚弱なことがあったとはいえ、ありがたいことに入院が必要な程の大きな病気はしていなかった。そういう次第だから、優良児の表彰状をもらったときは、「やった」とか「褒めてもらってうれしい」とかいうよりは、「本当に僕なのか、僕でいいのかな」という意外な気持ちの方がやや勝っていたのではないか。ほかに、ポケットにも入るような小型の辞書をもらっていて、そのうれしさは忘れない。これはその後長く重宝した。いまでも、こちら埼玉県の家の中のどこかに眠っている筈だ。
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62『美作の野は晴れて』第一部、そして新しき年へ2
1月14日または15日の朝は「とんど焼き」を行っていた。流尾地域の人たちが「あがいそ」と呼んでいる地域の真ん中辺りの坂の上に餅とかしめ飾りを持ち寄って、「焚き火」にくべる。年によっては、夜半からの雪により、かなりの積雪となっている時もある。各自が持ってきた新聞紙にマッチで火をつけ、小枝がパチパチと音をたてて燃え出す。だんだんに、辺りは暖かな空気に包まれる。火箸を使って餅が焦げないように焼いていく。母とおばさん達は、年初めの井戸端会議に花が咲いている。ころあいよく餅が焼けたところで、その餅とすすを持ち帰るか、その場ですすを額につけておく。すすをつけると向こう一年の魔除けになるからというので、半信半疑ながらおでこに一塗りしていた。
正月料理ということではないが、母は三箇日でも混ぜ御飯を作ってくれた。混ぜ御飯は、「おまぜ」と呼ぶ場合もある。日本全国でいろいろに種類があるらしい。例えると、「和歌山県新宮市の伝統料理「かきまぜ」。いわゆるちらしずしで、名前は酢飯と鶏肉などの具材をまぜ合わせることから来ている。田植えや収穫、冠婚葬祭など人が集まるときに出されてきた食事で、卵の黄色や紅生姜の赤など、具材が食卓に彩りを添えるらしい。塩、砂糖で合わせ酢にされたご飯に、鶏のもも肉、タケノコ、ちくわ、塩ゆでして人参、牛蒡、油揚、錦糸卵、それと紅生姜を加える。これらにだし汁、しょうゆと砂糖で味付けするのだと紹介されている。
我が家の混ぜ御飯は、ご飯を別に炊いて蒸らしておく。具は、鍋で煮て用意しておいて、一定時間蒸らしたご飯に入れて、へらでしっかり混ぜる。具に入るのは、油揚、しいたけ、錦糸卵(あったのかどうか判然としない)、ちくわ、わらび、ぜんまい、こんにゃく、人参、鶏肉、里芋(さといも)を使い、仕上げに錦糸卵をふりかけていた。卵も含めてその大方の材料は、自家栽培で採れたものを使っていた。
我が家で毎日のように食べていた鶏卵は、その全部を自宅で調達できた。いつ頃、養鶏業を始めたのか。祖母が、最盛期は150羽くらいだろうか、東の長屋で飼っていた。そこからとれる卵は今でもスーパーでおなじみの容器に入れて、西下の公会堂に持っていき、そこに業者が北引き取るシステムとなっていた。その点は牛乳も同じで、の酪農農家で朝搾乳された生乳は、子供大くらいの大きさの長めのアルミの容器に入れて、公会堂に持ってくる。そこに業者のトラックが来て、その容器を荷台に積んで持っていくようになっていた。鶏卵も置き場があって、そこに置いておけば、集荷に来てくれる。組合の方で買い手にを見つけてくれる訳だ。
冬のある日、我が家に鶏の雛がやって来た。軽四輪自動車でやってきた。祖母をはじめ家族が出迎えて、降りてきたおじさんと挨拶を交わす。さっそく、荷台に載せてきた、大きな木箱を我が家の庭に降ろす。箱は横が1メートル、縦が2メートルくらい、下には4本の足が付いている。例えると、台所の食卓の上に、広いペット用の檻が乗っかっているようなものだ。小さい釘が四方に打ってあり、なかなか頑丈にできている、箱の上部には六角縞の金網が取り付けてあって、上から見下ろせる構造となっている。家族のみんなが一通り見た後、私も興味津々で覗いた。
なんと、その中には20羽くらいの鶏の雛がいるではないか。みなこぶし大くらいに小さい。さっそく、4人がかりで、家の玄関を入って土間に運び、網の上から100ワットの裸電球を垂らす。これで、昼とはいえ、周りがぐんと明るくなった。雛たちは、地面に降ろしてもらって足場安定した上、上から照らされて暖かくなる。これで、雛たちはなんだか心地良さそうに見える。ダーダコダーターコと、狭い箱の中を、押し合いへし合いながらも、歩き回っている。雛たちの餌は祖母が腕よりをかけて作っていた。我が家には荒糠があるので、キャベツなどの野菜を細かく刻んだものにこれを混ぜたり、何やら雛用の餌を飼ってきて与えていた。端に水呑み場が設けられていて、難波もそれに首を突っ込んで水分を補給している。
なんと、その中には20羽くらいの鶏の雛がいるではないか。みな子供のこぶし大くらいに小さい。さっそく、4人がかりで、家の玄関を入って土間に運び、網の上から100ワットの裸電球を垂らす。これで、昼とはいえ、周りがぐんと明るくなった。雛たちは、地面に降ろしてもらって足場が安定する上、上から照らされて暖かくなる。雛たちはなんだか心地良さそうに見える。ダーダコダーターコと、狭い箱の中を、押し合いへし合いながらも、歩き回っている。雛たちの餌は祖母が腕よりをかけて作っていた。我が家には荒糠(あらぬか)があるので、キャベツなどの野菜を細かく刻んだものにこれを混ぜたり、何やら雛用の餌を飼ってきて与えていた。端に水呑み場が設けられている。そこへ、雛たちがかわりばんこというよりは、四方から競って首を突っ込んで水分を補給している。
こうして土間で育てているうちに、雛たちは急速に大きくなっていく。数週間も経てば、体は少し大きくなるし、羽が育ってくる。くちばしなんかも鋭さが増してくる。表情も変わって、大人の風貌が覗くにように代わる。その分、かわいくなくなる。家の中だと、いつでも観察できるし、そろそろ箱の中から出せる時期になって来ているのがわかる。そろそろ移転先の準備にとりかかる時だろう。
東の長屋では、東西につながる二つの土間で鶏を飼っていた。その分、冬の冷たい風が入ってくるし、夜は夜で地面が冷え組む。電気は裸電球の小さいのを一つ、夜の間もともしておく。こうしておくと、蛇なんかが卵や雛をねらってきたとき、親鳥たちにいち早くわかるからだ。敷藁を厚めにしているので、凍えるには至っていない。親鳥が大半なため、彼らの中には卵を産むための10くらいある巣箱の中や、二間ある部屋の境目のあたりの土が者上がったところにたむろしているものもいる。
鶏たちにとって一番の大敵は、夜、寝込んでいるところを襲われることだ。そんなある冬の夜のこと、しきりに鶏が鳴くし、我が家の犬も吠えるので、みんなで東の鶏小屋に行ってみると、その前に仕掛けてある罠にいたちが一匹かかっていた。あたりには、もう異臭が充満している。イタチはまだ騒いでいたので、鶏たちはびくついている。そのまま方っておいて、夜が明けるのを待った。
そのこともあって、養鶏はいつの頃からか、長屋の土間で放し飼いするのから、宙吊りのケージに入れて飼うのに代わった。これだと爬虫類やいたちの類が鶏や卵を狙ってきても奪われることはない。卵を産むと、その卵はとたんに鶏舎を伝ってケージの前面にある棚に転がり出る。鶏たちの糞は長く横に伸びたケージの下に溜まっていくから、それを除去して肥料に持って行くのにも手間が少なくて済む。なる程、これは大変な技術革新であるにに違いない。こんなものを考える人間は、随分抜け目がないと、つくづく感じた。
養鶏は、我が家にとって貴重な現金収入もたらすばかりではない。鶏たちが毎日産む卵は自家で消費できるし、お客さんが来たときとかには、そのうちの1羽が父の手で「しょうやく」され、我が家にとっては最高級のもてなしの料理になる。
鶏肉を使った正月料理では、さつま汁があった。鶏肉にゴボウなどを加えて煮込む。最後に芹などの香味野菜を入れる。味付けは、醤油と砂糖のほかには何も入れなくともおいしい。味加減は少し濃いめで、それていて甘い。その味の組み合わせが絶妙であった。母がこの料理を誰に教わったのかは、知らない。
正月には、うどんもごちそうの仲間入りをする。玉葱は、冬の間の保存食にもってこいの野菜だ。煮てよし、衣をつけてから油で揚げると、野菜天ぷらとなる。これをうどんの汁に入れて食べると、ほかほかの天ぷらうどんとなる。我が家の「きびや」の軒下には、細目の竹の「なる」が架けられ、そこに玉葱の蔓を結びつけ、日干しにしてあった。そこだと、雨露をしのげるし、風通しもよいのでも腐敗を免れることができる。うどんを食べたいと思うのは、例えば、朝から雪が降り出して午後になっても降りやまず、外が相変わらずどんより曇っているような日であり、ふうふう息を吹きかけて冷ましながらの食べ心地ときたら、たまらない。
保存食のほかには、家畜や養鶏の類からの送りものであろう。卵のありがたさはいうまでもないが、やぎが毎日のように出してくれるお乳は大変ありがたかった。中でも、私は、ご飯に暖かくしたそのやぎ乳を欠けて食べるのが大の楽しみであった。栄養価もあって、厳しい冬を乗り切るにはうってつけであったように思う。
総じて、その頃の村の農家の大方の暮らし向きは楽でなかったろう。暮らしが苦しくなったら、「さようなら、ごきげんよう」といって、その場を立ち去って、自由の身になれる訳でもない。人生にはこれといった「逃げ場」や「避難所」はなく、私の母も当時の農家に嫁いだからには、それからの苦労はすでに織り込み済みのことだったのだろう。正月の三が日くらいは、や親戚の人が年賀の挨拶に来ることもあって、仕事もあまりせず、テレビを見たりして過ごした。
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58『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え2
「天高く、馬肥ゆる秋」となって、村人の生活もまた自然からの恵みに預かることができる。秋の風物詩の中での柿の味は、殊更に忘れ難い。当時の我が家もそうであったが、大方の人々の暮らしは決して豊かではない。子供を育てるには並大抵ではない。そんな時だから、自然の恵みである柿は、食欲旺盛な子供のおやつに代わりにもなる。我が家の西の畑のそばには柿の木が何本もあって、一年おきの実りが巡ってくる。甘柿はその都度木によじ登ったり、枝を揺らしたりしてとり、次から次へと口に運ぶ。の友達の家に行ったときなども、我が家にはない大きな甘柿がなっていた。一緒にその木登りごっこをしたりする間に、何個もほおばっていた。気を付けるべきは雨明け日には登らないことで、猿でも困ってしまう位に滑りやすい。
渋柿の方は、熟すとうまいのがある。ところが、渋柿のなっている木は高い。そこで先がロケットのようにとがっていて、全体として黄色から橙色に変わりつつあるのを下から狙いを定めて、長い竹竿を差し出す。竹竿の先は割ってあって、そこに木枝が挟んである。これを柿のなっている小枝に差し込んで、ぐるりとひねると、うまくとれる。しっかりかませてからとらないと、枝ごと柿が地面に落ちて、ポチャッと潰れて台無しとなってしまう。薄皮を剥いて食べると、味が濃厚で甘い。
渋柿の固いのは、家に持ち帰って「吊し柿」にする。柿を付けている小枝を2センチ位残す。それから、柿の名産地では皮剥き器を使っているようだが、包丁を使って一つひとつ丁寧に、「ヘた」の際まで皮を剥いて「がく」を取る。それが済んだら細縄に残した小枝の部分を挟んでから、母屋と蔵の2階の軒先に吊す。串に横ざしにする産地もあるらしい。剥いた皮は白菜漬けのときに用いるので、捨てない。柿を吊してから3日位は、晴れの日が望ましい。風も必要で、雨の日が続くようだとしばらく部屋の中に入れ、カビが付くのを防ぐ。下の庭からこの吊し柿の日々の変化を観ていると、だんだんにしぼんで焦げ茶色、乃至は飴色になっていき、それからは白い粉をふいてくる。
美作のような内陸部で食べられる魚は、普段は塩の干物か塩漬けと相場が決まっていた頃のことである。思いがけず秋の生さんまを食べられるときもあった。たぶん、町内、河本店か上村のよろずや店に母が買い物に行ったとき、奮発して買ってきてくれたものだろう。さんまは、臓腑をそのままにして塩がふってあったのではないか。半分のところを母が包丁で2つに切り、七輪の炭で焼く。庭先では湯気がもうもうと立ち上り、油がしたたると、せっかくの身に炎が付く。そこで黒こげに焼けてしまわないように火勢をいい加減に案配(あんばい)しないといけない。さんまを焼くうちに独特の匂いがしてくる。
おそらく、それは日本海べりの島根の境港(さかいみなと)かどこかの漁港に水揚げされ、伯備線か、因美線の列車に乗った行商のおばさん達が背負ってきたものなのか、それとも車に積んでの貨物便で運ばれてきたものなのかは、知らなかった。母が買ってきてくれたさんまには、海がはぐくみ、運んでくれた、生臭さがどこかしら残っていた。そのときのさんまを焼く手伝いは、自分から母に志願したようだ。白煙に目がけぶって、涙が出たりしたものの、なんとかいい焦げ具合になった。大変ではあったが、とにかく楽しかった。七輪に載せたさんまが焼き上がると、皿に盛りつけて食卓に運ぶ。一家あげての食事となるのは当たり前のようだが、誰も欠けていなかったことがうれしい。暗い裸電球に照らし出された食卓を囲み、全員揃ってご飯をいただくのは実に幸せなことなのだ。主催のさんまを真ん中に、味噌汁、「おみおつけ」といって主催に付けるキュウリなどの漬け物、季節の野菜の和え物などが狭い食卓に並ぶ。さあ、今日は、海の幸が食べられる。
「いただきまーす」
子供は、合掌してから箸をとり、自分にあてがわれたふかふかしたサンマの半切れに醤油をまんべんにかける。私は、早く食べてさんまがなくなってしまわないようにしたい。だから、肉身を箸を使って細かく砕いてから、それらの切り身をゆっくりゆっくりご飯に盛りつけてから食べていた。
「ああ、子供らに大けえところをやれえ」
普段は寡黙で厳格な父がめずらしくそう言ってくれることもあった。もっとも、それは機嫌がいいときしか見られないことであったろう。さんまは、醤油をかけてから温かい御飯にまぶして食べるのが、格別おいしい。醤油は母屋の裏手の土蔵の倉にある。その一階の奥においてある樽から小出しにしていた。海の味というか、川魚では味わえないものだった。残った骨は子供がもらい、七輪の火で炙ってから食べた。骨の中には髄液が含まれており、コリコリした歯ごたえがしたのは今でも忘れられない。ついでながら、その頃のことであったか、何かの焼魚にお客さん用の「虎醤油」(今は見あたらないブランド名か)の商標の貼られた瓶詰めのものをかけさせてもらったときのことが、ジュワッと口の中で広がる美味しさとともに、懐かしく想い出される。その醤油は、いまで言うと「たまり」なのか、甘くて格別な味がした。ひょっとしたら、津山かどこかの親戚筋からか、贈答か何かでもらったものだったのではないか、味わうのは長続きしなかったようだ。
薬といえば、「越中富山」(えっちゅうとやま)か、倉敷の下津井(しもつい)の「置き薬」を常備薬に用いていた。一年に一回は、竹製の行李を背負ったおじさんが、我が家の前の急な坂を登ってやってきた。「こんにちは」と、おじさんの笑顔がこぼれる。こちらも「遠路はるばる、ようきんさったなあ」などと言って、祖母も母も顔をくしゃくしゃにして出迎える。懐かしい人が家に訪ねてきた感がある。私たちのに時々やって来るおじさんは、3重か4重もの柳行李(やなぎごうり、竹編みの行李に漆か何かを塗ったもの)をたすき掛けの太い紐で背負ってきたようだ。私も農作業で若き日の二宮金次郎さながら「おいこ」を背負うことはあったから、さぞかし重いだろうに、これを背負って日本全国を巡っているのであろうかと、ただ驚いた。おじさんが我が家の軒先の縁側に、荷物もろとも腰を降ろすと、店開きとなる。段々重ねの竹で作った行李が風呂敷包みの中から現れる。磨き抜かれたというか、艶やかな光沢を放っている行李は、段々重ねの重箱が皆開く仕組みになっていた。これだと、狭いところにいちいち店を広げて、また片付ける手間が省けるだろう。それを見て、子ども心に、うまいこと、器用な仕組みにできとるなあ、と感心したものである。そのおじさんこそ、「富山の薬売り」その人であると信じて疑わなかった。
いまそのことを振り返ってみると、この富山の薬の薬の販売システムは越中富山藩の二代藩主の前田正甫(まえだまさとし)が17世紀も終わり頃になって考案し、藩の事業として奨励したのが最初とされている。その際、行商人はいろいろな薬を持ち運ぶことになるが、起業のきっかけを与えてくれた薬に備前の医師・万代常閑(まんだいじょうかん)が製造していた「反魂丹」(はんごんたん)があり、正甫は常閑にその製法につき教えを請い、城下の薬種商・松井屋源右衛門(まついやげんえもん)にこれを改良して売り出すことを薦めたのだと伝えられている。話は戻って、遠路はるばるやってきたそのおじさんは、柔らかい表情をして、にこやかにされていた。
おじさんが縁先で荷物を卸してからしばらくは、祖父母や母と世間話なんかで談笑しているようである。それを見つけると、さっそく近づいていく。おじさんは私と目が合うと、「おいでんさい」と手招きして、赤白縦縞のきゅうり形になった、ぺちゃんこに畳み込まれた紙風船をよくくれた。これは、おそらく紫、青、赤、白、黄色の五色が順繰り出てくるように、色紙を張り合わせて作ってある。さっそく進み出て、「ありがとう」と言って貰い受け、六つ折りに折り畳んである風船の1か所に2ミリメートルくらいの穴が開いている。そこに口をあてがい、「フウーッ」と息を吹き込む。すると、蝋引きの薄手の紙が乾いた音を立て、まるで命を吹き込まれたように、両のこぶし大くらいの風船玉に膨らむ。それを掌に載せてポンポンとたたいてから、今度は平手にして勢いをつけて頭上に打って上げると、こちらが並々ならぬ気持ちで打ち上げると、頭上2、3メートル位の高さにも紙風船が達するので、続けるうちに遊び妙が湧いてきて楽しくなったものだ。
その時のことであったか、薬売りのおじさんは水飴も売ってくれたのかどうか。水飴を買ったのはちゃんと心得ていて、食事をする部屋に備え付けの戸に小さな甕があり、それに入れてあった。麦芽とでんぷんをお湯に入れて混ぜ合わせると、発酵が始まる。しばらく置くとろとろの水飴ができるという。今でもこれを年に,一度くらいは食べていて、そのたびに中学校の国語の教科書に出て来た、あの狂言『附子』(ぶす)の中の小僧たちを想い出す。和尚が出掛けるおり、二人に子供があれを飲んだら死んでしまうぞと念押ししていたにも関わらず、彼らは全部舐めて食べてしまって、和尚が帰ってきたときの言い訳に「和尚様の大切な壷を割ってしまったので、お詫びに死のうとおもってぶすを舐めました。ところが、全部なめても死ねないのです」と一芝居打ったとか、何と大袈裟なことか。私も、母の留守中に箸を使ってちょとだけ掬い取って食べていたものだが、全部食べるのではなく、「ちょびっとだけ」と母に言っては舐めていたので、驚くほどに早く中身がなくなっていた。ことに、母が作る「ながし焼き」といって、インド料理の「ナン」みたいな小麦粉を水でこねてから、フライパンに油を敷いて焼いてつくってくれていたおやつに垂らしてから、おいしくいただいていた。その薬売りのおじさんは、その後も年に一度位、忘れかけた頃の訪問であったが、小学校の高学年になる頃には、なぜか「ぷっつりと」姿を見せなくなった。
七五三祝は、子供の健やかな成長を願って神社なり仏閣に参詣して、お祝いの宴を開いたとの習わしが、今に引き継がれている。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の身祝いである。男の子はかくかく元気に、女の子はやさしく可愛くということで、男女ともの健やかな成長を「氏神様」に祈ることになっている。だから、これを「お宮参り」ともいう。あれは5歳、幼稚園の時ではなかったか。お参りに、祖父と一緒に津山の神南尾山(かんなびさん、津山市の南にある山で標高は356メートル)に登った。津山駅から、どのような順路であの山に登ったのかは覚えていない。それはまだ寒くない、11月になったばかりの日ではなかったか。普段着のまま、祖父に連れられて山頂に登った。神社の社(やしろ)の前でお辞儀などして参拝を済ませて空の帰り道、眼下に、みまさかの山と野があった。まだ幼い日の記憶はそれまでだが、この山の頂上からは、吉井川を挟んだ北向かいにある神楽尾山(標高308メートル)の頂上も見ることができるといわれる。こ その時の「お祝い」にであったか、どこやらの親戚筋から珍しい、豪勢な贈り物をもらったことがある。胴体部分が長く、おしりの突起は短く、全体としてずんぐりむっくりした木製の独楽(こま)をもらったこともあった。それは今でいうキャラクターでいうなら、私がひいきにしている「ピカチュー」というところか。赤や緑の横縞が施されているもので、おじさんから兄と二人で一つずつ手渡しされた。さっそくひもを使って回すと、「グルーリグルーリ」と体をひねり出しながら鈍く低い音を出していた。独楽回しはいろいろな独楽随分とやったが、あのようなしゃれたデザインで、かつ独特の趣のある弧を描く独楽は他になかった。いまでもそれが回る様はありありと思い出すことができる。
こからの津山の町並みもなかなかのものである。
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17『美作の野は晴れて』第一部、春爛漫2
家には、お客さんがよく往来していた。一緒に食べるときは、父が庭で鶏を一羽しょうやくク(解体)して、その料理で精一杯にもてなした。その時は、庭の端に水の入った大きなバケツ、それに調理道具一式が運ばれる。それから父が東の鶏小屋に行き、一羽の鶏を捕まえてくる。鶏は首をしっかりと掴まれているので、暴れていない。庭まで運ばれてくる間に、もう失神しているのだろう。鶏をさばくのは手慣れたもので、工程の順も決まっているみたいだった。鶏の体内には、肉ばかりではない、臓腑や鶏にしか見られないものもある。臓腑の中では心臓や砂肝も食べる。そのほかのところもほとんど捨てることはしない。卵は、大豆粒ほどの非常に小さいものまで、実に沢山の卵の黄身が蔵されている。解体されたその肉や内蔵や皮は、じゃがいもや玉葱などと一緒に醤油で煮る。季節を問わず、我が家の一番の手料理にして、食べる人にとっては貴重で豪華なタンパク源となる。
新学期が始まってしばらくすると、担任の先生による「家庭訪問」が始まる。先生が児童の家庭を訪問するのは、学校が早く終わった日の午後とかである。そのときは、何軒か掛け持ちで、近場の幾つかの家庭を訪問するとうかがった。その日の数日前から、我が家では庭のごみをこもざら(竹製の熊手)にひっかけて取り除いたり、その後を竹箒を使ってせっせと掃いたり、忙しい。家の内はごったがえしている部屋を片付けたりして、先生が通られる道を確保し、表の間(客間)に上がってもらっても失礼のないようにしておかないといけない。
自転車で来られる先生もあって、この山道を来られるのは大変な骨折りであったに違いない。母なども「よう、こんな辺鄙なところにきんさった(来られました)、どうぞ上がってください」と言って客間に案内しようとするが、先生の方は急がれているらしく、この縁側で腰掛けたままでよいことになっていた。ふかふかの座蒲団を持ってきて、それに座ってもらい、番茶に普段は見かけない茶菓子を添えて出していた。先生は、子供がどんな風に家庭で暮らしているかをご覧になりたいらしく、いろいろ母に聞いておられた。
家庭がうまく廻っておれば、子供の学習環境もまあまあな筈だからだ。母からは、さしずめ「学校でうまくやっているでしょうか」となる。二人のそばにかしこまって正座している私にとっては、冷や汗三度、「あのう、それは誰のことなのでしょうか」と、さすらい人のような気分にもなってくる。
私が小学校の3、4年生までの頃、西下天満神社はの子供達の一晩の遊び場であった。境内には大きな檜が何本もあって、昼間でもほの暗い。ここは学問の神様、菅原道真を祭っている新野ではめずらしい神社で、子供に縁が深いのだとか。そこでは同じ村の武(仮の名)ちゃん、慎一(仮の名)ちゃんの男友達のほか、順子(仮の名)ちゃんなどの女の子たちとも一緒に遊んだ。男の子はめんこ(「ぶった」)、馬跳びをしたり、釘打ちで自分の領分を広げる遊びをよくした。男女一緒だと、隠れんぼ、鬼ごっこ、缶けりに始まって「ケンパ」やゴム跳び、大縄跳びとか、数え切れないほどの種類の遊びをした。
小学校2、3年生までは、頼まれると、女の子と「ままごと遊び」もしていた。地面に座敷がもうけられていて、下履きを脱いで茣蓙の間へ入るときには女の子の「もうええで、泰ちゃん、はいりんちゃい(入ってください)」との許しが必要だったようである。
その座敷に入ると、どなたかが
「何をさしあげましょうか」と来る。普段は怖い彼女も、今はなぜか愛嬌たっぷりに笑っている。こちらも心得ていて、
「とりあえず、茶をお願いします」とかやる。
すると、彼女は「ニッ」と笑ってその場を去り、その注文が給仕の女の子に伝わって、お茶が入っている事になっている空のお椀が差し出される。
「情けは人のためならず」、男はそれをうやうやしく受け取る。そして、いただく真似をする。
すると今度は「何を差し上げあげましょうか」と、第二弾の言葉が来る。
向こうは、旬の食べ物はおいしいから、何か奇抜な注文をして喜ばせてもらいたいらしい。それはわかるが、仕方なく、「なんでもいいです」といったかどうか。
泥まんじゅうが出されて来たこともあった。しかし、「要りません」では通らない。
「それでは、頂きます」としないと、話が進まない。
おまけに、食べる仕草もうまくやらないといけない。お互い「ちゃん」付けで気安く呼び合える村の友達の間柄だけど、靴を脱いで「お店」の暖簾をくぐったからには、客の礼儀というか、暗黙の約束事であった。
いつか境内で、村のお姉さん立ちの誘いを断り切れずに、「ままごと」遊びをしていると、知らない村の先輩が通りかかり、私らを「にやり」と一瞥して言った。
「おまえら、二人とも仲がええなあ。鶴と亀みたいじゃなあ」
とからかわれた。そのとき、訳もわからず顔に血が上ったことがある。ただ恥ずかしかったのではない。相手が強さを誇示された気がしたからだ。それでも我慢したのは、もしそこで反抗すると、
「よお、おまえらいちゃいちゃしとるなあ。・・・・・おまえもなあ、気を付けた方がええで」みたいな話にもつれていくのがわかっていたからだ。
そこには、まだ子供ながら、男の社会のようなものがあったから、それからは、「ままごと」などの遊びは、先輩たちが付近にいないことを確かめてから始めていた。
昔ながらの遊びも息づいていた。
「通りやんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ ちょっと通してくだしゃんせ
御用のない者通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りは恐い
恐いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ 」(作詞と作曲は不詳)
向かい合った二人が赤鬼、青鬼となって両手を繋いで関所をつく。残りの者がそこを一列縦隊になってくぐり抜ける。最後の方になると駆足で歌われ、歌い終わったところで関所が閉まる。そこで囚われの身となった子供が鬼にさせられる。囚われる者は男の子であっても女の子と見なすのだそうだ。天神の森には魔物が潜んでいて、人間の娘が人身御供になるというのがその理由であるらしい。
今振り返ってみると、換えると意味深長な遊びもしていた。男の子と女の子が交互に手をついで丸い輪を作る。輪の真ん中には鬼がしゃがみこむ。鬼は両手で眼を覆っていなければならない。
「かごめかごめ 籠のなかの鳥は
いついつ出やる 夜明けの晩に鶴と
亀がすべった うしろの正面だーれ」(作詞と作曲は不詳、現在の千葉県野田市が発祥の地、山中直治が記録し、変容を遂げつつ、全国に伝搬していった)
この歌にはいろんな解釈があるらしい。あるものは、「かごめ」という海亀が駕籠の中に囚われている海鵜(うみう)が海の使者で現れる。かれらは陸に上がって鶴と陸亀の姿に変わり、子孫繁栄のために陸亀の背中に鶴が羽を広げて跨り交尾をなす。ここで「鶴と亀がすべった」というのは、雌の背に乗った雄が羽をばたつかせている。それは、夫婦和合と子孫繁栄の儀式を行っている様を形容している。遊びそのものは、後ろの正面がだれかを言い当てると、鬼から解放され、当てられた者が新しい鬼となって続いていく。誠に「めでたい」お話となる。
こちらは、もはや大人の遊びといわねばならない。むろん、そんな大人の理屈は子供心のこととて知るよしもなかった。ちなみに、中国では鶴は縁起がいい、吉兆を示すといわれるが、亀について語るときは気をつけよ、といわれる。「所変われば品変わる」とは、このようなことをいうのかもしれない。
温かな日和の日中には、男の子同士で狐尾池の堤(土手)に行ってよく遊んだ。その辺りには粘土性の土がある。それでダムの堤(つつみ)を作って遊んだ。用意してきた竹筒をダムの腹廻りに備えて、水量を調節できるようにする。まるで棚田のように、上流から下流へと、何段ものダムを建設していく。はりあいがあるので、途中でいやな気持ちにはなることはない。無心に遊んでいると、その日や、その日の前に少々いやなことがあっても、終わりの頃には不思議と癒されている。無心に体を動かすことで、心の体のバランスをとることができているような気がしていた。そのことが今、懐かしく想い出される。
仲良しの、浩一(仮の名)ちゃんとともに池の近くの杜に入っては、小さな小屋を造って、そこを秘密のすみかとした。そのころのテレビの放映で『ターザン』があった。西洋人の風貌のターザンとその妻子が、アフリカの密林で暮らしていた。奥さんの名前は「ジェーン」である。ターザンは上半身裸であり、奥さんは胸当てをしていた。2人とも、虎の皮の模様をあしらった腰巻きのようなものをしていた。夫は好きなことをやっているので幸せであったろうが、妻の「ジェーン」の方はどうしたのだろうか。
場面は白黒で、熱帯らしき深いジャングルが画面一杯に映し出される。すると、どこからともなくターザンが現れて、蔓をたぐり寄せる。と、次の瞬間、「アーアアーッ」 そのとき何かが解き放たれる。空中ブランコのように枯葉が森を移動していく。猿たちがその姿を追いかける。テレビの画面が次次にスクリーンに映し出されると、なんだか自分も前掛け一枚の裸姿の男となり、ジャングルを駆け巡って気持ちになる。
物語は、狩猟の人間が入ってきて、それにターザンが熱帯雨林とそこに棲む動物たちを護る側の人々とともに立ち向かう筋書きがあった。闘いでは、動物たちも参加して随分ぎやかでである。ライオンが密猟者に捕らえられるところを、猿が助けに回ることもあったのではないか。彼らは、森が密漁者の思いどおりにさせないよう、ターザンに協力を惜しまない。結局は、密漁者たちはさんざんにやられて退散していく。ジャングルといっても暑苦しいばかりではなく、夜の場面では木の間から月が顔を覗かせる。あめりかのグランドキャニオンのような、遠くを見渡せる高台にて、ターザンと家族とともに満月を見上げている。その周りには、さわやかな風が吹き渡っていたようである。
池の水が流れ込む川には泥の浅瀬があり、自生している菖蒲や花菖蒲を切り取って刀に加工した。また池に生えている猫柳をナイフで切り取り、小さな刀を作った。茎の周りをくるくる回してたたいていくと、厚い皮がすっぽりむけてとれる。それが鞘になった。後には艶々した膚の「刀身」が現れる。小竹を切り取り、紙鉄砲を作ったこともある。竹の筒に紙の玉や杉の丸い種子を入れ、それに同じく竹製のピストン軸を差し込んいき、頃合いを観てポンと根元を押すと、紙玉が発射される。同じ原理を利用して、竹製の水鉄砲も作った。違うところは、ピストンの先端を布で包んだことであった。どれもこれも、水辺のひんやりした空気を吸いながら、秘密の世界を持った喜びが耳朶まで伝わってくる。そんな幸せなひとときがあった。
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15『美作の野は晴れて』第一部、春一番2
小学校の頃、夜は「早く寝ろ」ということで早く寝ていた。何もすることがなかったというのではない。「おてんとうさまと三度の飯は付いて回る」と言われたように、食べることに不安はなかった。夜なべ仕事をひとしきり手伝った後は早く寝て、朝早く起きる。親たちは仕事に取りかかる。それが我が家の生活スタイルであった。いまと違って父親の命令は絶対であった。家族の庇護を受けられないなら、生きていけない。このことは、単なる言葉としてよりも、体全体の感覚で身に付いていた。
健康面では概して恵まれていた。学校にお医者さんが来ての検診で引っかかることはなかった。検便とかは当日持って行った。低学年の頃は、男の子も女の子も分け隔てなく、パンツひとつで順番を待っていた。口を大きく開けてのどを見てもらった後は、聴診器を胸と背中にあててもらう。それで何の異常もなければ、服を着てよいことになる。
しかし、あるとき風邪をこじらせたことがある。最初は地元の上村の個人病院で診てもらった。ところが、一向に良くならない。顔が赤くなるほどせき込むし、息苦しくなるばかりである。
ついに母に連れられ上村からバスに乗って、町内で一番大きな日本原病院に行った。そこでは森先生の診察を受けた。診察室の壁には、理科の教室にあった教材用のものとは違った、等身大の半分くらいはありそうな、詳しい人体の図があった。細かい骨の細部まで、血管は身体の隅々まで放射状に広がっている。いろいろな検査を受けて母と一緒に結果が出るのを待った。
診察室に戻ってから、先生は母に肺炎になりかけていることを伝えた。僕の体の中を重たい風が吹き抜けたように思った。これから大変なことになるんだろうかと、怖かった。しかし、大柄な先生の赤銅色の顔を見上げていると、「大丈夫だよ」と仰っているようで、何かしら落ち着いてきた。何があっても、この先生にすがるしかないと思っていた。いまでも、あのとき早く名医のうわさが高い森先生に診てもらって有り難かった。
季節がもう少し暖かくなると、村々は野や田圃の畦道に出て若菜摘みに興じた。田圃の畦などにも、アメリカからの外来種であるセイタカアワダチソウや白いヒメジョオン、薄桃色のハルジョオンなどの雑草が領分を広げつつあった。その間隙をついてというか、その畦のそこかしこに「つくし」が生えていた。それは、童謡にある「つくし誰の子、すぎなの子」と里の人々に歌われていたあの植物に他ならない。
この頃、春の日差しはまだ柔らかい。たまに雷鳴とともに雨が降ることがあるものの、長くは続かない。再び顔を出した陽光の下で、つくしたちはまるでアンデスのモヤイ像のように他の草の中にすっくと立っている。可憐さは窺えない。しかし、自然の絶妙な風情がほのかに漂う。目を凝らすと、茶色の皮のようなものが茎からせり出して上へと伸びており、その上の胞子嚢の緑の部分には白い粉が吹き出しているではないか。おそらく、風に乗って奉仕を飛ばすことによって自分の子孫を残そうとしているのであろう。
母や兄と一緒に小駕籠を手にして採りにいった。茎をポッツンと手折って駕籠に入れる。自然があり、母が寄り添ってくれた。とりとめのない話をしながら草を摘むのが嬉しかった。幸せだった。どのくらいいただろうか。家路につくと、それを母が和え物にして甘辛く煮てくれた。苦く、それでいてほの甘い味がしたのをいまだに忘れられない。
春は野山の食菜が成長する。わらび、ふき、ぜんまい、山うどなどを採取して歩いた。フキは家の周りにも自生していたが、西の田圃に坂を下って行く途中に群生地があったので、採種は容易だった。わらびやぜんまいは田圃に続く低い山とか丘陵に分け入り、ちらほら見えるのを竹かごに入れた。採取したフキは、茎を茹でると皮を剥き易くなる。皮をむくのはかなり根気のいる仕事である。それから、母が醤油と砂糖で甘辛く煮てくれた。
山うどはウコギ科タラノキ属の多年草本で、たらの芽を採るたらとは近親の関係にあるらしい。山ウドがいいのは、直射日光が余り当たらないようなところでないと、なかなかお目にかかることができなかった。かといって陽が当たらないのも困るようで、我が家に近い野原では、水こそ流れていないものの、山の沢のような斜面に沿って山うどが自生していた。採取した山うどは、そのまま食べるとえぐい。だから水に浸けてアク抜きをしなければ食べられない。まずは皮を剥いて白いところと芽の部分を残し、それを竈に湯を湧かして茹でる。母は茹で上がった山うどを大きめに刻み、すり鉢のなかで手漕ぎを使って酢、自家製の味噌、それに砂糖や胡麻と混ぜ合わせる。山椒の葉をとってきて、これもすりつぶしてから加えると、鉢からえもいわれぬ香りがただよう。口にほおばると、シャキッとした歯ごたえの上に独特の風味があった。
ほかにも、ミョウガやフキノトウやミツバも家の付近の涼しい場所に群生していた。中でも一番重宝していたのはミツバで、家の直ぐそばの窪地で群生していた。これを和え物にして食べるとおいしいし、その香りはなかなかのものであった。
それから、蓬(よもぎ)摘みが楽しかった。母が農作業の合間によもぎ餅を造ってくれる時期になると、母と一緒に鎌と竹網のかごを携え、西の田圃のある方に出向いた。目指す田圃の畦道(あぜみち)に着くと、あの黄色い福寿草の花も咲いていた。蝶やてんとう虫の類が行き来していた。母と一緒の、ひとしきりの労働で紡いで来た蓬の新芽はアルミの鍋に入れて湯がいてから手で丸めて揉んで、暖かい餅にまぶす。特有の香りと緑の繊維が餅の中に染み込んで、おいしい蓬餅が出来た。それに、砂糖を溶かしてなじませたりして母が作ってくれた。
「ちまき」もしくは「笹餅」は、蒸した餅米で作った下地で小豆のあんこを包み込み、それを笹の葉に包んでから、もう一度蒸し直して作っていた。私の小学校の低学年までの頃、我が家ではまだガスが入っておらず、薪を主体とした燃料を使って煮炊きをしていた。竈の上に二つの穴が開けられていた。料理をつくるときは、その穴にアルミニウム製の鍋を載せ、お茶を沸かすときは鉄釜を載せて炊いていた。饅頭をつくるときは、その鍋の中で湯が煮えたぎっており、その上に蒸し器が載っている。蒸し器の底板には穴が開いていて、そこから蒸気が立ち上りせいろに達する。せいろには竹で編んだ「すのこ」がが張ってあり、その上に餅米をつぶして丸く形を整えた下地を載せて蒸す仕掛けが施してある。新潟あたりでは、蒸した餅米で作ったちまきの下地を笹の葉で三角に巻いたものを蒸して仕上げているらしいが、我が家のは違う葉っぱで下地の饅頭を包んで蒸していた。
「柏餅」が「ちまき」と異なるのは、実を包むのが柏の葉っぱであることなのではないか。我が家の西のとある田圃の岸に蔦葛があり、その葉っぱを摘んだ。柏の木の葉も枝からもいだ。できたての餅を掌で丸く広げて餡を包み、それを葉でくるむ。よもぎ餅の場合は、餅を作って、そこでよもぎを餅肉になじませた。それを砂糖汁とか自家製の小豆を蒸し潰して作ったあんを含ませて食べていた。桜餅というのは、その色が桃色で、雅な雰囲気のある食べ物に違いない。葉っぱは「ちまき」や「柏餅」でよいが、実の方を桃色の「もちとり粉」で染めて作るもので、「おひなさま」を飾るときに母が作ってくれていたのではなかったか。ちなみに、店売りの丁寧な仕上げでは、薄紅色に色づけした餅で軟らかな餡を包み、塩漬けした桜葉と桜花をしつらえ、あたかも「おひな様」のような見立てになるのだとか、芸もここまで来ると、素人離れしているようだ。
これらに対して、ぼたもちとおはぎとは、どう違うのだろうか。つい最近まで区別できなかったが、ひょっとしたら、この二つは実は同じものなのかもしれない。というのも、春の彼岸の頃につくるのは「春はボタンの花が咲く」から「ぼたもち」といい、今度は秋の彼岸の頃につくるのが「秋はハギの花が咲く」から「おはぎ」という、つまり、季節によって呼び名が変わるようになっている。ちなみに、私はこれを最近になるまで知らなかった。その作り方はといえば、まず餅米にうるち米を混ぜて炊き、すりこぎ棒で上から軽く突きつぶしてから、ひとつかみを掌にとってまるめる。それに自家製のあんこをまぶしたり、きなこをまぶすと出来上がりとなる。
当時の我が家では、「あんこ」も「きなこ」も自家製であった。小豆を蒸してから、細かな目の「そうき」と呼ばれる細かい金属の丸い網に上げて、その下にぬか袋を張ったたらいを受け皿にしておき、上からへらを使ってすり潰していく。ぬか袋の中に残った固形のものがあんこの原料となる。きなこは、煎った大豆を石臼を使って作り出す。手で取っ手を握りしめ、グルーリグルーリと石臼を回してやると、下の臼と下の臼との合わせ目に掘られている360度の溝から、すり潰された粉が出て来て、臼の外部に押し出されてくる。この作業にはなかなか力が必要で、しかも時間の割に生産性は上がらず、よなべの手伝いで取り組んでいた。さらに「桜餅」というのは、小麦粉で作った薄焼きの皮にあんこをはさみ、さらに塩づけの桜の葉で包んだものだが、我が家では作るのを見たことはなく、どこかの親戚にうかがったおりに茶菓子として出されていたようだ。
それに、狐尾池のそばの我が家の小さな竹林があるところに、筍(たけのこ)を掘りに出かけることがあった。当時、我が家には竹藪は一か所しかなかった。きのこ採りや山菜取りには所有権は関係がなかったが、竹の子のように大きくなると、無断で採るといけないということで、自然と村の掟を学んでいったようである。竹の子の掘り方には工夫を凝らした。おしまいに根っこに鍬を入れて、「ボコッ」とした鈍い音とともに、竹の子を地下に這う根から引き離す。とってきた筍で厄介なのは、「下ごしらえ」が必要なことだ。穂先の上之ところ数センチを切り落とし、ごわごわの皮の部分に縦に包丁を入れておく。大きな鍋に湯を沸かして筍に加えて水と米ぬかを入れる。およそ30分くらい火にかけていただろうか。薄茶色い「あく」が湯の上面に出尽くすまでゆでる。途中、煮立ってきたら、湯がふきこぼれないように火加減を調整しながらやらないといけない。こうして筍がゆであがったら、竈の火を引いて1時間ほどそのままにして冷ましておき、冷えたら鍋から取り出して、逆さまにして水気を絞ったら、切り込みから手を入れて皮を剥いて出来上がりだ。ここまでできたら、炊込みご飯の具になったり、そのまま煮たりして我が家の食膳に上がっていた。
初春には、「待ってました」とばかりに木の芽や草花の花々が芽吹く。野や山の切り株や木の根元からは青々と、あるいは赤々とした新芽が出てくる。これを「ひこばえ」という。もくれんのつぼみが膨らむ。水仙や福寿草が出てくる。菫(すみれ)やたんぽぽが道の端や田圃の畦道や、到るところに顔を出してくる。こうして花々が地面一杯を彩る。お花畑の出現だ。一足前に蕾んでいた椿は大輪の花を咲かせた。その花をめがけて蜂やいろいろな小動物たちがやってくる。みどりの補色は赤である。植物たちの葉緑素は太陽エネルギーを取り込んで盛んに光合成を行っている。赤系統の色の光線を吸収して緑色を反射している。緑が輝いている。
一番愛らしいと思っていたのはスミレだった。手元にあるポケット版の植物図鑑を見ると、次から次へと瞼の裏に当時の植物たちとの出会いが浮かんでくる。植物図鑑を見て当時の記憶をたどると、何種類かのスミレが瞼の裏に浮かんでくる。普通の菫、タチツボスミレ、フモトスミレ、ムシトリスミレといったたぐいである。普通の菫とは、正式には、「ビオラ属マンドシュリカ種」(種名は「満州の」という意味なのだそうで、今日の中国北部三省に自生していたと意味だろうか。いずれも可憐で小さい。その曲がった花首と花首をひっかけ、引っ張って遊んだ記憶がある。引っ張り合いといえばもうひとつ、二人でオオバコの茎を引っかけ合って、どちらが先にちぎれるかを競っていた。今から思えば、植物たちには随分かわいそうなことをしてしまった。片方で自然の美しさを褒め称え、もう一方でその自然の華を摘み取ることは、本当は不自然なことなのかもしれない。「四つ葉をクローバ探し当てると幸せになれる」という諺に、半信半疑ながらも興味を持っていた。とはいうものの、その幸せ探しには相当の根気がいる。願い事がかなうという触れ込みを受けて、やっていた時期があった。学校の帰り道で女の子たちはよくそうして遊んでいた。誰かと一緒に探したときがあったような気がするのだが、どうしても思い出せない。今の子供達はやっているのだろうか。
先祖の墓の前の下り道で一人で探していたとき、一度探し当てた記憶もあるが、定かではない。「あるかなあ」 、「いや、ないに決まっている」と気持ちには揺り戻しがつきものだ。「それなら、どうして探しているんだろうか」と、さまざまに自問しながら丹念に集落の中に指を入れ込んでは、目を皿のようにして探し続ける。いくら差がしても探せないから、誰かに「見つけたのか」と聞かれたら、とまどいを隠せないだろう。でも、胸がわくわくしてくる。息使いはあくまでも静かなままだ。しかし、心は探し当てたことを考えている。指の腹でより分けるようにして目当ての葉を探していくときの、あのひんやりした、心地よい感触は忘れていない。
やや涼しい道ばたにはツユクサが愛らしい群落をつくっている。これは油で揚げたり、ゆでた上で和え物したりして食べられるのだと最近知った。ほかにも、薄い青紫色をしたワスレナグサが所々に見えている。蜜を吸い出したのはアヤルリトラノオであったのか。小さく黄色いサワオグルマ、ナズナ、オミナエシも花を咲かせている。日本タンポポは、春を告げる花の代表格の一つだ。天気のよいときは、その花の丸い花粉が日差しを浴びている。私たちは大きく息を吸ってその花粉を吹き飛ばしたり、山側に生えているつつじの蜜を吸った。中腹では紅紫色のミツバツツジ、ヤマツツジは淡い紅色をしている。白色のシロヤシオは、田舎では野生のものを見かけることは稀であった。
そんな中、子供らは蜜を吸いながら花から花へ渡り歩く。まるで昆虫だ。湧き水があると、両手ですくって喉を潤す。そうして夢中になっているうちに、自分が蝶であるかのように思われることがあった。しかし、蝶はを吸うために花自体を奪い去ることはしない。
小鳥たちのさえずりも増してくる。池や小川に行くと、生き物の活動を観察することを通じて自然との密接な関わりが見えてくる。茶色い雀たち。白と黒のコントラストのモズ、少し大きくて、せわしなく動いてにぎやかに啼くひよどり、流線型のスマートな姿をしたツバメたちがさまざまな音色でさえずっている。かれらのほとんどは、「チッチッ」とか「チュツッツ」などと囀っている。話している間も、やたらと歩きまわる鳥がいる。電線に留まって二羽で頭をふりふり嘴を動かす。雀たちは群を作って動く。何を話しているんだろうか、と漠然と思ったこともある。彼ら小型の鳥たちの好物といえば、小さい虫とかみみずの類である。ツバメはトンまでくわえるときがある。ここ小川町の鳥とされるメジロはよく見かける。最近モズが食べ物を木の枝に突き刺して蓄える姿をテレビを見たが、かなたの映像をとらえる文明の力とカメラマンの執念はすごい。そこまで観察することはなかった。
ちなみに、春先には、ツバメがやってきていた、南方のフィリピンとかインドネシアとかの辺りから、日本列島が春になると、彼らはやって来る。自分が巣立ったところを覚えていて、それで地理を目やなんかでたどりながら、もと来た道を探してくるのではないかと言われている。やってきてツバメは家の中にも入って巣を作って、つがいで子供を産み、そこで育てる。だから、かれらが出入りするための空間が造られていた。学校では、ツバメは「神様の使いだ」とも言われていた。巣に帰ってきたツバメが、子供のふんを加えて家の外に出しているのは、天敵にそこに巣があるのを気取られないようにするためとの説もあるらしい。
ツバメのほかにも、「ホーホケキョ」とうぐいすのさえずりも聞こえてくる。
「心から 花のしずくにそぼちつつ うくひずとのみ鳥の鳴くらん」(藤原敏行(『古今集』10・四二二))
この歌の大意は、「自分で好きこのんで花のしずくに濡れておきながら、どうして「憂く干ず」(つらい、乾かない)と鳴くのだろう」(織田正吉『「古今和歌集」の謎を解く』講談社選書メチエ、2000より引用)しかし、姿は緑の森に隠されていたので、肉眼ではめったにお目にかかれない。その鳴き声を耳にして立ち止まり、その場にいて、じっと声の聞こえた方角をみつめているうち、もう一鳴きあって、どうやら緑がかった茶色いその姿を目に捕らえることができたときのうれしさは、忘れない。
そうこうしているうちに春の野菜作りが始まる。農家には農協から「野菜歳時記」のようなものが配られていて、絵入りでわかりやすくなっている。4月から5月にかけてが一番の植え時となる。かぶは春と晩秋に収穫できる。種まきから50日程度で収穫できる。
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1966年(昭和41年)の夏には、日本原高原で国際ジャンボリー大会があった。正式な名は「第4回日本ジャンボリー(ボーイスカウト国際交歓野営大会)」といった。FOS(フォス)少年団の一員か仲間として、8月5日から9日にかけての開催期間中のいずれかの日に、仲間と一緒に出かけたのだろう。
ここで日本原高原といっても、馴染みのない方もおられるかもしれない。そこで、場所からいうと、国道53号線(1960年(昭和40年)に「一般国道53号」に改称)の日本原のバス停を通り過ぎるともう奈義町である。そのまま10分くらいバスに乗って東に行くと、「上町川」のバス停にさしかかる。そこを過ぎて少し行った辺り、バスは急に左に大きく曲がってゆるゆる傾斜のある道を降りていく。
バスに乗っていて右を見下ろすと、なだらかではあるが、すりばち状の緩い傾斜となっていて、その景色は雄大である。左に曲がりきったところで、バスは今度はバスは思い切り右にカーブを切って、今度は元来た方向と逆を緩やかに上っていく。私は、これを勝手に「すりばち坂」と呼んで、自分の知りおきし名所の一つに数えていたものだ。
その後、この天然の難所を過ぎたバスは自衛隊前、北吉野、さらに滝本へと東進していく。まだご存知でない読者も、一度この辺りを進んでみたら、アメリカノ西部劇の舞台にも似た、日本の自然らしからぬ、その雄大な景色に驚くのではなかろうか。
日本原高原とは、この辺りでは知る人ぞ知る、西部劇に出てくるような大草原である。乗合バスが日本原のバス停を出た辺りから、バスからは左側、方角からは北に中国山麓に到るまでの地帯を指す。津山盆地の北東部に南北約10キロメートル、東西約3キロメートルくらいのところに広がった、概ね平坦な丘陵地帯をいうのである。
その歴史を顧みるに、天文年間(1532年~1544年)の頃、、この地を訪れ、この地を気に入って住み着いたと伝えられるかの福田五兵衛(ふくだごへい)の墓碑銘(日本原の市街地の西外れにあるという)に曰く、「霊仙信士、元文五申年九月初六日、此霊者国々島々無残順廻仕依○諸人称日本五兵衛、是以所日本野ト申候、日本野元祖、俗名、福田五兵衛」と彫り込まれている、とのことである。
これと同じ話ような話は、『東作誌』にも載っている。
「広戸野は一に日本野と言う。北の方野村滝山のふもとより、南の方植月北島羽野まで平原の間およそ三里、人煙なく、当国第一の広野なり。その中筋を津山より因州鳥取への往来となり、昔はさらに人家なかりしを、正徳のころ市場に五兵衛という農民、日本廻国して終わりに此の野に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて往来の人を憩わしめ、あるいは仰臥したる者などを宿めて、もっぱら慈愛を施せしかば、誰言うとなく『日本廻国茶屋』と呼びなわせしを、後に略して日本と許り唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と称するも時勢と言うべし。」
ついでにいうと、この辺りは、1879年(明治12年)の明治の氏族移民事業で開墾が始められた。当時勝北郡長の安達清風が音頭をとって、政府から資金などを借り受け、士族の有志40人余りが山かした。牧畜や蚕の食べる桑の葉の栽培も含む多角的経営を目指したが、清風の死後になると、うまくいかずに挫折した。原因としては、強度の酸性の土壌、川筋から孤立した灌漑が出来にくい乾いた土地であることがまずあり、これに地域風としての「広戸風」に晒されたことも加わったためと見られている。特に、土壌については、この原に足を踏み入れてわかったことだが、この平原の土は黒くほこりっぽい。これは津山盆地の東北部(勝北町(現・津山市)と勝田郡奈義町)に特有の地層で、第三期層上に洪積世の砂礫層が積み、さらにその上に地元で「黒ぼこ」と呼ばれる火山性の黒色土壌の層が重なっていることらしい。
その後、1909年(明治42年)、その大部分が陸軍の演習場となり、第二次大戦後の連合軍占領期にはアメリカ軍が進駐していた。1955年(昭和30年)には、当時の勝北町に属する地域集落がその地を「日本原」と公称した。またこの年、当時の北吉野村、豊田村、と豊並村の三か村が合併しての奈義町(なぎちょう)が誕生した。1963年(昭和38年)の日本への基地返還の後は陸上自衛隊演習場として今日に到る。なお、国道53号線から南側の地域は、現在は演習場ではなく、農地の用に供されている、といわれる。
今日のジャンボリーには、皇太子夫妻がみえるというので、その頃のバス道はまだ舗装されておらず、ほこりが立つようではいけないから、道には塩が撒かれたと噂されていた。開会式の会場への途中、入り口の辺りの沿道は人が鈴なりのようにたむろしていた。日章旗を振っている人もかなりいたようだ。その中を、やがて先導の車が近づいて来て、その後に夫妻が乗った黒塗りの立派な自動車の窓の中から、皇太子妃が笑顔で、軽く会釈をしながら手を振っている姿が見てとれた。
私はそれまで、皇族の皆さんは私たちには想像もつかないようないい暮らしをしているのではと思っていた。しかし、彼女の姿を見た後は、皇太子妃というのは楽な仕事ではないなと思った。車窓から見えた彼女の頬は色白で、やせこけているようで、子供の眼にも見ていて痛々しく写った。
会場は、自衛隊の演習場で駐屯地の一部だったのだろう。広い会場のあちこちには風船や幟、それにアドバルーンのようなものが立ち登り、それが草原の赤土と夏の日光の照り返しによってきらめいて見えた。どこからやってきたのか、音楽隊もブラスバンドを組んで勇壮ながらきらびやかな音楽を奏でていた。
普段ならば、その演習場には一般市民は入れない。その祭り会場からずっと北の方角に眼を向けると自衛隊の模擬演習を観るこみとができた。遙か前方に戦車が進む後に数人の兵隊さんが付いて歩く。薄茶色い土の膚かに土煙が立ち上がる。何のためにやっているのかは分からなかった。そうこうするうちに、戦闘服を着込んだおじさんたちは、しだいに北へ遠ざかっていった。上空ではを飛行機が信じられないような低いところを飛んでいた。刺激的な味のするコカコーラを初めて買って飲んだのも、このときである。
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63『美作の野は晴れて』第一部、そして、新しき年へ3
父は、元旦だけ休んで、正月の2日からはもう働いていた。来る日も来る日も、ほとんど一年中働ぎつめの毎日であったろうに、父の頭には「休み」はなかったのかもしれない。祖母のいうには、「登は、こんかぎり働いとろう。ちょっとは休まんといけんがな・・・・・」ということで、祖母から見てもひどい働きぶりだったといえるだろう。
祖父は、そんな家族にあって、相変わらず、静かに働き、人とつきあい、暇なときはたあいのないことなどを私にも語りかけたりしてくれていた。
祖母は根っからの働き者で、じっとしているのはめずらしい。それでも、夕ご飯が済むと、時たま「泰司、ちょっと来てくれえ」と誘いがかかる。祖父母の部屋に行くと、ちょうど母にお灸をすえてもらっているところだった。
「おかあちゃんは台所仕事があるけん、泰司がもうちょっとしたげてくれんか」と来る。
「うん」ということで、さっそく背中を出している祖母の後に座る。
「こないだのように、やってくれるか」
というので、「ちょっと待ってえなあ」ということで急いで準備にとりかかる。
モグサをひとつまみとり、それを親指と人差し指の腹で小さいのに丸める。それを祖母の小さな背中の、黒いかさぶたのついたところにやんわりと載せ、上からジワッと押しつける。こぼれ落ちそうな時は、唾をつけて行うと大抵はうまくいく。
「熱いけー、あんまりおおきゅうせんようにしてくれえなあ」
その声に頷きつつ、線香の燃えている部分を三角帽子のようになった藻草のてっぺんに押しつける。火がつくと、線香を離すときに藻草もついてくるから、かすめるように離すのが肝心だ。白く細い煙がシュルーッと上がって、天井への途中で消えていく。それを繰り返して20分くらいはしてあげていただろうか。
「ありがとう。ようしてくれたなあ」
「ええで、またいうてえなあ」
「ああ」
ついでながら、母と祖母の肩たたきもよくしていた。時には、連続して2人にしてあげるときもあって、始めは勇ましくやっているのだが、段々に疲れくる。トントントンとリズミカルに両の拳を使っている時はよい。そのうち疲れてきて、拳の運びがもたもたしてくると、こちらも肩が凝っているのがわかる。こうして肩をたたくのと、その肩を揉むのと交互に行うのだが、揉むのは少々握力が要るし、ただ強くすればよいというものではなく、肩から首筋へとやんわりもみ上げていくのが喜ばれる。だが、こちらの方も、段々と疲れてきて、握力が萎える分、まるで指圧のような肩揉みになっていく。肩たたきも肩揉みも、それぞれ15分位もすると限界に近づいていたようだ。相手も然る者でやんわりした声をかけてくれる。
「泰司、ようしてくれたなあ、今日はこの位にしとこうか」
祖母や母の、一日の疲れで赤くなった目も、「また、頼むで」と語りかけてくる。こちらは、よくしてあげたことへの満足感と疲労感とがちょうど釣り合いをとれたところで終われるので、申し分のない気持ちになれる。
そんな冬のある日の午後のこと、コメの出荷の風景を見物することができた。家から耕耘機の荷台に出荷のコメを載せ、その耕耘機を運転して出かける父を見送ったことはたくさんある。しかし、どこに持って行っているかはわからないでいた。
の中心である平井地区には倉庫が建っている。そこにはで一番太い道が前を通っている。上村の方からやって来る車は、ほどなくここに到る。その日は何かの用事があったのか、なかったのか、私はその前を通りかかった。すると、その建物のそばに、大勢の大人衆と荷台をつないだ耕耘機に混じって、トラックも止まっている。
建物の前には、俵ではなく、大きな袋がきれいに並べられていた。どうやら、袋の中身はコメであるらしい。家の中で俵の中に編み込んでから出荷していたのが想い出されてきた。その時は、化学繊維の袋に変わっていた。では見慣れない人が何人もいて、縦列に並べて積まれた袋の前で、袋になにやら印をつけたり、手持ちの紙に書き込んでいる。その集まりに近づいて、何をしているのか聞きたい。それでも、皆さんの邪魔になってはいけないという気持ちの方が上回ったみたいであった。
その当時、日本のコメの需給は、まだ供給過多の状況ではなかった。小学校3、4年生の頃には、もう旧暦は余り生活に関係が無いようになっていたのではないか。日本では、1873年(明治6年)から新暦である太陽暦が用いられるようになった。それまで使われていたのは月の満ち欠けでみることが残っていた太陰太陽暦であり、現在の中国同様に正月も旧暦で祝うのが本式であった。その旧暦も、年を経るに従い段々に廃れてきて、この頃には旧正月を祝うことはほとんどなくなっていた。ほぼ一月遅れで来るのだが、家でも学校仲間の話でも、新しい暦への切替え劇では特になんということはなかった。
外では、しんしんと雪が降り積もっていた。もう薄暗くなったみまさかの野のあちこちにに、次から次へと雪が降りかかっていく。我が家の冬の暖房の主役は、堀炬燵であった。四角いので、4人が向かい合って暖まることができる。寝る部屋が2つあって、そこには中央に四角い小さな穴が掘ってあって、冬にはその覆いを取り外して、炬燵とする。まずは、底に灰を貯めておいて熱が下に逃げないようにしておく。ついで、風呂炊きや台所で使った炭が赤くなったのを、鉄製の掬いのあるスコップに入れて持ってきて、炬燵の中にくべる。その後、周りの灰を盛り上げて、囲んでおく。こうすると火が長持ちするし、万一、足がすべったときに、火に直接触れることが少ない。
そうはいっても、局部的な暖房に留まるので、こ炬燵の外は寒々としている。いきおい、冬の勉強は、炬燵に足を入れて状態をうつぶせにし、両方の肘で支えつつ、その下にー戸や本を置いてすることになる。姿勢には無理がある。始めはいい調子で本を読んだり、ノートに記したり、結構楽しく勉強している。しかし、肘が痛くなったり、首を上げるのがだるくなったりで、くたびれて勉強が長続きしないのが常であった。
の中では、まだ茅葺き屋根の家がちらほらあった。ある日、その家々のひとつにお邪魔したことがあった。部屋に上がると、中心となる部屋に「いろり」がつってある。天井は2階がないので、高い。いろりの煙がのぼっても、茅葺きの間から煙が外へと出て行くので、煙に巻かれる心配はない。たしかに掘炬燵は暖かい。でも、それは局部的な暖かさといっていい。その分、炬燵の外は冷え冷えするので、寒いときは潜り込もうとする。それは一酸化中毒にもなりかねない。それに比べて、いろりは部屋全体が暖かくなるので重宝する。
私が小学校に通っていた当時、「あがいそ」といって我が家から坂を下りて、しばらく行った道から15メートルくらいはずれたところに、章子(仮の名)さんの家があった。「丸尾」姓なので、ふるくは「株内」か親戚であったのかもしれない。彼女の家は茅葺き屋根であり、何度か回覧板を届けるとかの用事があって訪れたときも、上がらせてもらったのではない。戸をくぐると、おそらく「いろり」があったのだろう。章子さんは、その後、私が6年生の終わりの頃、章子お姉さんは中学の3年生の終わりに、多分卒業のあと、卒然と彼女や家の人を見かけなくなった。行き先は、母によると、大阪方面へ引っ越されたのだという。
その「いろり」に煙突が見あたらなかったのは、茅葺き屋根と関係している。その理由は、茅葺きのため家の外と空気が通じており、いろりを焚くと、二酸化炭素を含んだ煙がそれが上昇気流となって昇っていって、自然に排出される仕組みとなっている。また、いろりに火を入れることで屋内の除湿をし、煙でもって茅葺き屋根に防虫効果ももたらす「すぐれもの」であるとされる。それが、瓦葺きの屋根となると、そのような自然のシステムによる換気ができなくなることから、いろりも設置できなくなってしまう。昔は、我が家のご飯を食べる板間にも「いろり」がしつらえてあって、あの時代劇に出てくるような一家団欒があったのであろうか。
2月ともなれば節分である。大豆をまず煎っておき、その日が来ると「鬼は外、福は内」といいながら、その豆を家の座敷に撒く。鬼に見立てた人にぶつけるのが本筋ながら、我が家に鬼役はいなかった。煎った豆を前方にパラパラ撒いてから、後でその豆を拾う。拾った豆は、あとで集めて油あげやこんにゃく、人参などと一緒に煮物にしていた。
煎った大豆は、よく石臼ですりつぶして「きな粉」にし、保存食にしていた。その行事は小学校の3、4年生になる頃までは続いていた、その後いつからか、ぷっつりやめてしまった。雛祭りもそうだが、親は子供がやってほしいと頼むうちは、忙しくてもやってくれる。子供にすれば、友達の家で行っているうちは、自分もやってもらいたい。やれば、それで「僕の家でもやったんだ」と、話題の花を咲かせることができる。
相前後して、あるいは同時期に、家の玄関先には、ひいらぎ(柊)の葉と鰯の頭を釘に結んであった。柊の葉はギザギザの形状であることから、やってきた鬼がそれに触れて痛がるか、鬼がそれを知っていて家に入るのをやめる。また、いわしの頭は、くさくて、なかなか近寄れないようにするのが目的であった。こうして、家に入ってくるあれこれよくないものを退散させようとしていたのだ。
伝統的な行事や慣習はその後、あるものは年を経るとともにしだいにすたれていき、またあるものは急にぷっつりと姿を消していった。それらを手がけてくれた人々の思い出とともに、「よき思い出」という宝石箱の中に収められていった。
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13『美作の野は晴れて』第一部1、幼年期の想い出2
その頃の思い出に、病気の母の見舞いがある。母が当時入院していたのは津山市京町の渡辺病院であった。その頃の母は、体調が全体にすぐれなかったと聞いている。母は流産の経験もあるように聞いているが、そのためであったのか、詳しいことは今でも何も知らない。病院には、父に連れられていったのだろうか。祖母か祖父であったのかは、依然としてはっきりしない。病院のベッドで、見舞客があったのだろうか、いいこをしているかなどと、そのとき誰かに聞かれたようでもある。
後年、母は私への手紙で、そのときのことを次のように回想している。
「泰司がお腹に居る時分私の心は間違っていました。朝五時に起き兄弟を送り出し家の仕事田圃の仕事が辛い体がえらい事ばかり思い父さんにも不足ばかり思っていました。お腹が大きくなるにつれ足が痛くなり、筋が引きつり立っているのが苦痛になり泣く思いをしたり○で○○居ました。おばあちゃんが私の為信仰をして下さり私も其の時般若心経とノリトを覚えました。お墓にお祀りしてある地主様に詣でていました。二十三才から三十三才迄良く病気をしました。
・・・・・
ぐずくず言いながらも家の炊事や洗濯掃除等は何時もしておりましたが、何時も沈んだ顔をして頭も重く産後も血の道と言って頭が痛くふらふらしていました。両親にも父さんにも子供達にも心配をかけました。肩がこり歯が痛み二十九才の時全部抜いて総入歯をしました。
関本の親父さん(おじいちゃん)は二十九才のとき、母が三十三才の時他界されて一層辛くなり、とうとう胃が悪くなり体全体が悪いような気持ちで三ヶ月も入院しました。
今振り返って見て、我が家の両親に大変心配をかけ親不孝をしました。渡辺病院で一時は湯呑み一杯のおかゆだけ位食べ注射で生きていた様に思います。眠れなくなりやせて血圧の上が八〇(ミリ水銀柱・引用者)位になっていました。
一度倒れた時、子供達と一緒に暮らしたいと思いながら恐怖心を取越心配して淋しい思いをしていました所隣に入院しておられた真庭郡の久世光孝の女の先生が『甘露の法雨』と「生長の家」(せいちょうのいえ、谷口正春を始祖とする新興宗教団体・引用者)の本を持って来て人間は神の子なんですよ。心配を恐怖心と不平不満が病気を造っているんですよ明るい顔をしなさい。鏡に向かってニッコリした顔を想い出して持ち続けなさいと教えて下さいました。
其の時帰って少しでも皆様の御役に立とうと想ってフラフラしながら帰りました。タクシーから降りて多美雄さん宅から我家まで父さんについて帰って来るのがやっとでした。以後も恐怖心があってふらふら道の真ん中が大変長い間歩けませんでしたが、私は神の子完全円満神の子が歩いている(繰り返しの符号あり)。又住吉神社様様(繰り返しの符号あり)と小声で唱えありがとうを念じました。夜は『甘露の法雨』を上げました。」(2000年5月の母からの手紙より)
病院での母の姿は少ししか思い出せない。覚えているのは、ベッドの上に半身を起こした母が、その細くなった手で、「元気でやってるか」と私の頭を撫でてくれたことである。
その病院に滞在中は、一緒に連れてきてくれた家族が「帰るぞ」という時まで、一人で病院の外にも出かけた。近くの道ばたか建物の中で、将棋を指していたおじさんたちと知り合いになったことである。中に名人風のおじいちゃんがいた。なんとなく凛とした風格が漂っていた。小さな貸本屋もあって、そこで本を、20円だったろうか小遣い銭をもらって借りてきて、病室の母のそばで読んでいたらしい。その店は、鶴山(かくざん)通りを横切って50メートルばかり坂を下った所にあった。店の中は今でも、おじさんの物珍しそうな表情と狭苦しく本が置かれていたのを覚えている。
母が病気というので子供心に辛いとは思っていなかった。たぶん、津山市内に住む親戚や、祖父母がまだ元気でいてくれたおかげで、そのような気持ちに陥らずに済んだのだろう。後年、母に聞いたところ、母はこのとき宗教法人である『生長の家』に入信した。東洋と西洋とが合わさった神の中に、自分の命の源を見つけたのである。そして、いつまでもこのままではいけないと、決意を固め、退院して、家に帰った。
家では、安吉(やすきち)おじいさんの「心配するな。必ず直してやるからな」との励ましを受けて勇気づけられた。あるとき『このようなことではいけない』と意を決して立ち上がり、カド(住みかの始まるところの意で庭を指す)西の田圃に続く坂道をよろよろとふらつきながらも登っていったそうである。
このとき母の身体には神様が宿っていて、母を立ち直らせたそうである。私がつい4年前まで母に甘えていられたのは、このときの子供2人を残して死にたくないという、母のなんとしても生きていこうとする決意の賜であったろう。
「七五三」は、子供の成長を願って神社なり仏閣に行くことになっている。だから、これを「お宮参り」ともいう。あれは7歳、小学校に入りたての時ではなかったか。そのお参りに祖父と一緒に津山の神南尾山(かんなびさん、津山市の南にある山で標高は356メートル)に登った。津山駅で降りて、そこから歩いていくには、幼い子供の足では遠すぎる。やはり、7歳になってから連れられて言ってもらったのだと思う。どのような順路であの山に登ったのかは、残念ながら覚えていない。
それはおそらくまだ夏ではない、春たけなわの、ある晴れた日のことだった。山頂に登り、神社の社(やしろ)に参拝を済ませた帰り道に、初めて雲海というものを目にした。雲の上の面は様々隆起があるものの、全体としてはなだらかな線となっていた。目の前や眼下に、みまさかの山と野があった。この山の頂上からは、吉井川を挟んだ北向かいにある神楽尾山(標高308メートル)の頂上も見ることができるといわれる。ここからの津山の町並みも「春霞」(はるがすみ)の中にもやっと霞んで見えた。
それから勝北町勝加茂西にある城の山商店(仮の名)主催の潮干狩りツアーで、村の人たちと一緒に祖父と母、兄と私で出かけたことがあった。行き先は倉敷市の児島湾の下津井か、「高州の浅瀬」の辺りだったのか、詳しい方は教えてほしい。中国鉄道バスの前で祖父、母、そして兄と一緒の写真が残っている。まだ、幼稚園に通っていた、6歳頃のことなのかもしれない。
初めて見る海はだだただ広くて、とらえどころがなかった。そのときは浜であさり採りに夢中になっている。ジョレンやシャベルなどの大きな道具は使ってはならず、小さな熊手を使って砂地を掘ったのではなかったか。まだ幼かったので、潮の満ち引きなんかの理由はわかっていないし、大勢の人たちが同じことに夢中になっている、その物珍しい光景の方にこそ興味をそそられたのかもしれない。あさり取りを終えて、家族に付いてバスに戻る途中か何かで迷子になった。祖父に付いて歩いていたつもりが、ふと気が付くと別人だったのだ。
『ちがう、おじいちゃんじゃない!』
電光石火というか、体中に稲光のような衝撃が走った。
それから、大変な不安に駆られてやみくもに捜し回ったことを覚えている。
その帰りであったか定かではないものの、上村のバス停留所でバスを降りて何気なしに渡ろうとした。その途端、「シューン」というトラックのブレーキが地面にきしむような音で鳴り響いた。目の前で白い煙も上がったような覚えもある。僕は目の前が真っ白になった。私の心臓はどっくんどっくんと音を立てた。
「危ないじゃないか」
びくついて身を縮めている耳に運転手の罵声が飛んできた。やせ型の運転手の顔は怒気に包まれていた。
トラックが去った後、私はしばらく道を渡れなかった。何が起きたのかはまだ、よくわからなかったし、そもそも頭が働かなかった。運転手さんからひどくしかられた関係上、危なく命をうしないそうだったのだとまでは、わかっていた。でも、何でそうなったのかは、特にそこに到るまでの自分のこうどうに対する客観的評価ができない。まるでしおれた花のような気分になった。道路の面をしばらく眺めて、息が落ち着いてから、祖母や母と渡ったようだ。
手元に1964年(昭和34年)3月25日付けの保育証書が残っている。「右は本園で1ケ年間保育したことを証します」とある。満6歳と8ヶ月の春のことである。ちなみに幼稚園には2年通う人もいた。
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43『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風3
夏休みには宿題が幾つもあった。大変なのは自由研究で、工作とかをして、2学期の始めに持ってくるように先生が言われた。あれは5年生のときの自由研究だったか、船を造ることにした。父に母が知恵を出すようたのんでくれて、父が私にそれをやったらどうかと言ってくれたのかもしれない。
我が家の前の坂を上がったところに、桐の木が大きく育っていた。父がその木を切ってわたしに与えてくれたのか、すでに切ってあったのをもってきてくれたのかは知らない。あの軽くてすべすべした手触りからいって、あの船に使った材料が桐の木であったに違いない。船体を作るのは一仕事だった。設計図はつくらなかったと思うが、完成したものを頭の中に描いて、最初に鋸を使って、桐の丸太から20センチメートルくらいの円柱に切り、次に縦に切り目を入れて半円柱の形にした。二つできたので、形のいいものを素材に選んで、加工のための線引きをすることにした。素材の丸くなった面を船底に見立てて、それに鉛筆で船の流線形を書き入れてやる。
それから先は、描いた線に沿って彫刻刀を使って船首の部分を削り出したり、乾電池とモーターを入れる溝をくりぬいたりの地道な作業がしばらく続く。少しずつ、注意深く作業を進めていかないと、うっかりミスをしかねない。2、3日がかりで船体の部分を仕上げることができた。ありがたかったのは、桐の木は柔らかくて加工がしやすかったことだ。
その後は、船尾にスクリューを取り付けるための加工を施し、錐を使ってモーターからスクリューまでをつなぐ連結穴を開ける。
さあ、これで全部がつながったという訳で、さっそく父とともに家の前の坂下にある共同の堀に行って、できたての船を浮かべてみた。モーターのスイッチを入れると、乾電池からの電力でスクリューが回って、船がゆっくり動き出した。船の進み具合が少々斜めで、船体も傾き加減であったが、なんとか浮かんで動いてくれた。あのときの小さな感動は今でも忘れない。それにしても、船のモーターとスクリューの一式はどこから調達してきたのだろうか。今にして思えば、それもまた、あの厳格で無口な父が私に与えてくれたものなのかもしれない。
長いとされる夏休みが終わりにさしかかる頃、8月も下旬となると、となる。そんなとき、どういう訳か、前線が西日本に長く居座って、よく強い雨が降ったのを覚えている。2014年8月18日、西日本に大雨が降って、広島では山の斜面が崩れ、多くの家と人が埋まった。
その雨は、太平洋高気圧がいつもより寄ったとき、その高気圧のへりに沿って、南からの風に乗って高く湿った空気が豊後水道(ぶんごすいどう)を通って広島市などに多量に流れ込み、、その空気がさらに山に当たって上昇して上昇することで積乱雲ができたことになっている。さらに、その雲が南西からの風に乗って直線上に次々と並んで、雨を降らせては風下へ移動し、その空いたところに次の積乱雲が発生し、その帯状になった辺り全体に長時間、大量の雨を降らした、といわれる。
今と、その当時の集中豪雨の降り方とは異なるのかもしれないが、そのような運びで、当時のみまさかも大雨に見舞われていたのだとしたら、頷ける。
9月になると、学校が再開する。2学期の始まりだ。久方ぶりの登下校は楽しいことばかりではない。この頃になると、天候はいいときと、そうでないときの差が出てくる。いいときは、誠にさわやかな秋晴れとなる。風があるときでも、薄い雲がゆっくり流れていて、たおやかであった。その季節には、稲はかなりの大株となっている。それくらい大きくなっても、台風の到来で取入れ前の日に風向きのあった方角になぎ倒されてしまう。
台風の頃には、よく「広戸風」(ひろどかぜ)が吹いた。この地では、台風や低気圧が四国沖(土佐湾)を東に進んだときや、台風が紀伊半島沿い(紀伊水道)を北上するときに、この風が横仙の大地によく吹き下ろす。名前にある広戸だけではなく、私たちの新野や、津山の東部でもたいそう吹く。私の家から狐尾池の方へと坂を下ったところ、「あがいそ」と呼ばれる田圃の中を流尾地域から外へとつながる道がある。そこにさしかかると、「ゴオゴオ」、「ヒューヒュー」の音とともに風が北から吹きつけてくる。子供には、余程前屈みになって両足に力を込めないとよろけるほどの風だった。
広戸風は、なぜこの辺りだけに吹くのだろうか。中学生になってからの何かの授業のとき、学内に岡山大学の先生たちが研究用につくった岡山の地形の模型を持ってこられた。そのとき、みんなで車座になって話を聞いたが、内容までは覚えていない。今の岡山地方気象台のホームページ(二〇一四年一〇月現在)にこうある。「広戸風は、那岐山のふもとにある奈義町、勝央町、津山市のごく一部(数Kmの範囲)で吹く局地風で、日本海から鳥取県の千代川に沿って風が吹き込み、そのV字谷で収束され、那岐山を越えた時に吹き下ろすおろし風の一種です」といわれている。
683年(天武11年)、当時みまさかの地も含んでいた頃の「吉備国」のことを、『日本書記』は「吉備国言す。霜降り亦大に吹きて五穀登らず」と、この地方最古の災害記録に数えている。これにあるように、農業というものはよいときはよいのだが、天変地異のことゆえ、うまくいかないときも多い。そんな時は、親に面と向かって言われなくても、家族で過ごす労働の場で手伝いをしている中でなんとなく、以心伝心という類で子供心にもわかるものだ。一番困ったのは、東北のような夏の冷害のためではなくとも、夏の一番日照の必要な時期に涼し過ぎると稲の実入りが少なくなってしまう。水が足らなくても同様の結果をもたらす。
台風が通り過ぎると、「台風一過」の日和となることが多い。そのときは、かごを持って栗を拾いに行った。栗は普通の大きさのものと、「丹波栗」と呼ばれていた大ぶりの栗があった。ここ関東では茨城が栗の産地らしいが、西日本はどこなのだろう。丹波栗の木は、我が家に隣接する森や林にはなかった。たまによその家の敷地林でそいつを見つけても、取ってたり、拾ったりしているところをその土地の持ち主に見つかったら叱られる。だから、近づくことは遠慮した。普通の栗でも、結構大きいのが、台風の風などに吹かれて、そこらに転がっている。その「いが」が割れたところに鎌の背を押し込んで広げると、殻がうまくむけて、中から栗の実がコロッと転げ落ちるから、そいつを手で拾っていく。全体的に丸みを帯びた、重量感のあって、つやつやしているものがよい。
家に持ち帰り、下校後、母が栗ご飯を作ってくれていた。栗ご飯は、米9割にもち米1割を混ぜて、それに栗を入れて炊く。栗の実は、少しゆでて皮をむいてから水につけておくと、自然にあくがぬける。炊くときは日本酒をいれていたのかもしれない。味付けは薄いのがよい。その方が栗の風味がよく感じられるからだ。
ついでながら、昔の貴族は、栗には粥も合うと考えていたらしい。
「火を山の如く起こして、大いなるかなへ立てて、栗を手ごとに焼きて粥にさせ、よろづのくだものくひつつ、人々の御もとなる人に賜びいたり」(『宇津保物語』嵯峨院)
栗のおいしさは、正味の味もさることながら、その口当たりにもある。ふっくらした栗ご飯を食べるときは、幸せ感に包まれるから不思議だ。古来から、「山の幸」とは、おそらくこのことをいうのだろう。
里芋もまた、混ぜ御飯に入れると、本当においしい。春に種芋を植えたものが9月から10月にかけて収穫の時を迎える。里芋の子供は初めはその親芋の養分を吸収して育つ。芋煮会や芋の子鍋の風習がなかったのが惜しい。母の混ぜご飯にときおりこの里芋が入れられるときは、最高に美味であり、このうえなきごちそうであったことを、いまでもありありと想い出す。
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64『美作の野は晴れて』第一部、私は学舎で何を学んだのか1
あの頃の私たちは、何に導かれて学舎での時を過ごしたのか。私にとっても、クラスや学年の仲間にとっても、当時の学舎は学校、家庭、そして地域社会であったろう。一番の学舎は、やはり学校であったといえる。小学一年生の勉強の中身は、まずは読み書きと簡単な計算ができることだったろう。国語では、「漢字練習帳」といなますの学習ノートがあって、漢字が薄く見えるようになっていた。そこへ鉛筆で上書(なぞらえ書)することによって、漢字を覚えられる。小学校に上がるとき、名前だけは母に漢字で書けるよう教えられていたので、戸惑うことはなかった。算数の方は、たぶん遅れ気味だった。かけ算まではいっていなかったように思っている。
心の隅というか、根っこの部分ではなんとかがんばろうという気持ちがあって、それが落ち込むのを支えてくれていた。学芸会のときの写真には、楽しそうに「うさぎさん」のお面を付けた。その写真はいまではもう知れないが、私が級友とともにあったことはうれしい。
健全な精神は健康な体に宿るとか。冬場の学校の体育の時間は、まず走ること。学校での体育行事にマラソンがあって、一年生の時は一位になることができた。自分の心の中ではいつも通り、当然の走りであって、ゴールインしても大して疲れていなかった。2年生からはよく覚えていないから、学年での順位はだんだんに下がっていったのだと思う。級友たちも、学年が上がるにつれ、だんだんと体ができてくる。中には、大会が近くなると、練習していた人もいるらしく、持久力をつけて健康な体をつくる、体力が伸び盛りの子供達にとっては切磋琢磨の舞台となっていたようである。5、6年生の時の体力テストで、50メートルを走った。その時、2回目を試みても、結果は8秒1で変わらずじまい。目標の7秒台にならず、悔しい思いをした。
体力テストには他に、ソフトボール投げもあって、5年生のときだったか、46メートル位投げて快哉を叫んだ。余興に二宮先生が投げられた時は、ボールが学校の運動場の一番奥の垣根を越えてしまったのを見て、みんなで「先生はやっぱりすごいな」と驚いた。冬場には縄跳びをして体を温める。朝礼のときや体育の時間に縄跳びをするときは、一斉に跳び始めて、回っている縄に体がひっかけたら跳ぶのをやめにしてしゃがむことになっている。達者な人も相当人数いて、かなりの時間が経過しても、どんどん元気なテンポを刻んで跳び続けている。いやはや、すごい。種目別でも、胸の前で交差する「あや跳び」をしたり、「二重跳び」といって2回分ずつを跳んだりする段になっても、君たちは引き続いてみんなの注目を一身に浴びながら跳んでいる。最近テレビを観て知ったことだが、「6重跳び」までは日本人の名でギネスブックに載っているというから、痛快極まりない話で「お見事」というほかはない。
学校での遊びは、朝の授業前もしていたが、主流はやはり昼の給食が終わってからの45分位である。ちなみに、その後は掃除の時間となっていた。給食を食べ終わると、給食当番の人を除き、外が雨や雪などでなかったら、大抵の人は運動場に跳び出していく。夏場などは、鉄棒でもボール遊びでも、何でもできる。冬場は寒いので、体を始終動かしていた方が、体がぬくもりやすい。男女で一緒にしていたのはドッジボールとか、追いかけ競争が筆頭か。ドッジボールは冬場の一番の遊びで、緊張感あり、入れ替わり、立ち替わりで人が動き、枠の中に誰もいなくなったら負けとなる。ボールをキャッチする能力と、ボールを投げてアタックする能力の二つが試される。長らく遊びだと思っていたが、現在は競技として、スポーツ界に立派に根付いているようである。
追いかけ競争は、別名「バビロン虜囚」との言葉も聞かれた。この遊びの特徴は、捕虜の獲得にある。あの映画の『ベンハー』に出てくるエジプトにとらわれているイスラエルの民のように束縛を受けていて、解き放たれるのを待ち受けているのと、何かしら似ている。広い運動場の西の端と東の端とで、双方が陣どっている。これを、かたやブロック、かたやイチョウか何かの木と決めて、これに相手方の人がやってきて、触れようとする向こう方の手をふりきって触れることができたら、チームとして勝ったことにしていた。大抵は、陣地に近いところで、だれかが迎え撃ってタッチして、その人を「虜囚」として、陣地につなぐ。つながれた人は、手をつないで、その一番先の手に味方がタッチしてくれると、晴れて解放の身となる。勝敗は、敵方に捕虜で連れていかれ人数が増して、味方の陣地が手薄になってしまうようになると、陣地の電柱などに四方八方から敵方の手が伸びてきて、やがては本丸にタッチされてしまい、ゲームオーバーとなる。
勉強は、2年生から少しずつし精出すようになっていったようだ。怠け心が長けていくときがあれば、「やらねば」と頭のねじを巻く時もあって、その都度、勉強のペースが変化していたのではないか。難しいのは、何かの突発事項が出て来たり、難関を迎えたときであって、一番覚えているところでは、算数の授業で分数が出たのは3学年のときだったろうか。あのときは、やたらと焦ったし、何をどうしていいのかがまるでわからなくて、もどかしかった。単に、どうすれば解くことができるというのではなく、なぜそのように解くのかがわからない。それがどんな状況なのかもわからない。しかし、それも幸い乗り越えることができた。自分の力ではなかったとすれば、先生の導きによるものか、他の誰かから教わったのかもしれない。
不思議なことながら、昔のことを無理に急いて思い出そうととしていると、ますますわからなくなってしまうことがある。そのくせ、微かな記憶を追いかけることをやめ、また普段の事をしているうち、ふとその頃のある場面がまるで一シーンを引き出してきたかのようにありありと思い出すことがあるから、人間の頭の働きは不思議だ。
理科はどうしたら好きになれるのだろうか。この学科には実技が伴う。例えば、採取した川や小沼の水を理科室にある小さな顕微鏡でミジンコなどのプランクトンを探した。あの体の中身が透けて見える小動物である。備え付けの小さなガラス板2枚の間に水を挟んでから、何倍か拡大していくうち、小動物が動いているのを発見した時は、うれしかった。自然科学では、先生に日食や月食とは何かを地球儀と太陽と月のミニチュアを使っての説明があった。太陽がどうなっているかも学んだ筈だ。とどのつまり宇宙の構造はどうなのかという具合に、謎は謎を呼んでわからずじまいだったのかもしれない。
3年生になると、もう少し落ち着いてきた。担任は前原先生であった。2年生のときの内田先生が優しい先生であったとすれば、前原先生は穏やかながらも、何か都会のにおいのする先生であった。
この頃、賞状をもらっている。
「賞状
第三学年
丸尾泰之
よいおこない
あなたはすすんでまどをふいていましたので表彰します
昭和三十六年六月三十日
新野小学校 印」
これを読むと、あの頃、窓に上がって、友達と向かい合ってガラスを拭いていた自分の姿が蘇る。時折、窓に息を吹きかけたりして、熱心に「ふきん」でガラスを丁寧に拭いていた、あのときが懐かしい。学校での掃除時間は、充実していた。掃除する場所は、教室や、校長室、講堂などの他に、便所の清掃もあった。便所掃除のことは、いまでもありありと覚えている。なかなかきつい仕事であったが、みんな、怠けることはなかった。学校で飼っているさまざまな生き物たちの飼育係も、言われたら二つ返事でやっていた。思い出にあるのは、山椒魚(さんしょううお)で、多くの学友が「台湾どじょう」と呼んでいた。そいつは、独立した生け簀の中で飼育していた。その当時、学校にはいろいろな生き物が飼われていた。うさぎや鶏の小屋があったかどうかは記憶に定かではないが、中庭の掘には大小の魚が泳いでおり、渡り廊下では三葉虫を水槽に入れて飼っていた。それらの全体の世話は用務員さんが当たっていたのであろうが、昼間は私たちにもそれなりの役割が与えられていた。
この学年では、地理の勉強も始まった。ドリルがあってそこに産物やら気候やらをいろ鉛筆で書き込んでいく作業があった。これは、プラモデルを組み立てるのにも似て、面白い。いま定年後の楽しみにしている人も多いと聞く、「塗り絵」の楽しさはいかばかりか、その興味の果てるのを知らない。自分でも多分に理解している事柄であっても、それを「塗り絵」などで表すのも実に楽しい。
この学年位から、家庭科の時間があった。技術家庭科の時間は、ほとんど男女一緒のことをやっていた。りんごのジャムを作ったり、裁縫の道具でちょっとした飾りを編んでみた。不器用なりに、その一つひとつに工夫を凝らしていると、「これは」といえるものができるから不思議だ。
あるいは、粘土をこねて器をつくり、「ゆうやく」なるものを塗ってからどこかの炉に入れてもらい、自前の焼き物を作った。その時は、できばえはまあまあで、緑のゆうやくが所々に流れたり、ボツボツに凝固して、手前味噌だがら、えもいわれぬ風情を醸し出していた。あれから今日まで陶芸に手を染めたことはなく、自分史の中ではいまでは貴重な経験の一つに数えられることだろう。
4年生での学習はどうであったのだろう。担任の影山先生の授業だったかどうかは判然としないが、カエルを捕まえてきて、それを解剖して、内臓の仕組みを調べるカリキュラムがあった。はじめに座学をしてもらい、教科書に出ている小動物のミジンコとかの生態を学ぶことから始まって、だんだんと魚とか、小動物のあれこれの体の仕組みへと進んでいく。その授業の後半にはごく簡単な「解剖学」の実習があった。
その日の理科室には、それなりの道具がしつらえてあった。ガラスの容器やごく小さなメス、ピンセットなどだ。解剖はなかなかうまくいかなかった。魚の扱いは日常生活の中で、少し慣れていると信じ込んでいた。だが、カエルの解剖はそうは行かない、まるで違っていた。カエルをどうやって動かないようにさせたのかは全く覚えていない。カエルの体を仰向けにして、上から下へとメスを入れて、皮をめくって内臓が見えるようにする。そこは生々しいものであった。特有の臭いもした。気持ちはいいものではない。
私たちのグループでは、代わる代わる執刀した。隣のグループでも同じようなことをやっているので、気が進まないからといって、途中でやめる訳にもゆかない。先生はどれどれと見ているが、生物の体の仕組みは自分たちで確かめろ、ということであったろうか。後に、さらに高学年となると、津山の山下(さんげ)にある自然科学博物館を見学した。そのとき、動物、さらには人間の特定部分の内臓標本に出会うことになった。
4年生の授業には、何があったのだろうか。めずらしく勉強の賞状が残っているので、これを紹介しておこう。
「賞状
第四学年
丸尾泰之
あなたは五月一斉テスト(算)を熱心にしてよい成績であったので表彰します
昭和三十七年六月二十九日
新野小学校 印」
これによると、4年生からは結構テストがあったことが窺える。算数の中身が何であったかは語るに落ちない。なんとかついて行っている自分の姿が彷彿としてくる。
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61『美作の野は晴れて』第一部、そして、新しき年へ1
年の瀬に入るきっかけは、12月24日のクリスマス・イブの集いであった。西下のお兄さんたちが、子供会の恒例の行事で、皆さんボランティアでクリスマスを祝ってくれた。FOS少年団の会なら緑のベレー帽を持って行くのだが、今夕はそれは要らない。会場は平井地区にある、西下の公会堂で、夕方暗くなりかけた頃には会が始まった。その日の子供会の集まりには、中学校就学前の15人位の子供が参加していて、いつもの集まりよりも盛況となった。椅子取りゲームとかで遊んだあと、みんなでささやかなクリスマス・ツリーを飾ったのかもしれない。急いで、一応の飾りつけを行う。それができ上がると、それをみんなで囲んで『ジングルベル』を大きな声で歌った。
「走れそりよ 風のように
雪の中を 軽く早く
笑い声を 雪にまけば
明るいひかりの花になるよ
ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る
鈴のリズムに ひかりの輪が舞う
ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る
森に林に響きながら」(宮沢章二歌詞、ピアポント作曲)
クリスマス会の締めくくりに、「きよしこの夜」を合唱した。大広間の明かりを全部消すと、ろうそくの灯だけが瞬く。みんな輪になって手を結び、その所々に青年部の人たちがいる。敬一さん(仮の名)、和夫さん(仮の名)など5、6人の青年の人の顔がろうそくの明かりで、ほの紅く見える。子供たちの顔も仄暗い中に浮かび上がっている。
「きよしこの夜 星は光り
すくいのみこは まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく」(由木康訳詞・グルーバー作曲「きよしこの夜」)
その当時は、イエスがヨセフという大工の父と、マリアという母との子として、ユダヤの国の貧しい労働者家庭の長男として生まれたこと、ローマがキリスト教を公認してから、イエスの誕生日に切り替えてローマの冬至祭を祝うようになったとも言われ、12月25日のクリスマスの日が彼の誕生日であるということは、実際は確かなことではないこと、彼が初代皇帝アウグストゥスのローマ帝国の直轄地としてユダヤ総督によって治められ、首都エルサレムの議会によって宗教上の自治権を与えられていたユダヤの国のベッレヘムの地で生まれたこと、そして彼の誕生のときから西暦が始まったのではなく、6世紀初め頃のローマの神学者ディオニシウスが「暦をのちにくっていって、このようにきめたものであるといわれて」(赤岩栄「人間を愛しぬいた人、キリスト」岩崎書店刊、1986)いること、さらに、「この神学者の計算はすこし間違っていて、紀元前8年から4年の間にイエスは生まれたのであろうとこんにちではみられている」(同)ことは、誰からも教わったことはなく、まるで知らなかった。それでも、この歌がろうそくの灯火とともにかなでる厳粛な雰囲気だけは、たどたどしく歌う身にじんわりと伝わってきた。
一通り歌の合唱が終わると、大広間のスイッチが入れられて、パッと明るさが戻る。クリスマス会の最後は、あのクリマスケーキが配られる。お兄さんたちが私たち村の子供に順番に配ってくれた。美作の銘菓「高瀬舟」の一舟くらいの大きさであったけれども、スポンジの菓子の上に白いクリームが被さって、その上にいちごの小片が載ってい。家でクリスマスケーキを買ってもらう習慣はなかったので、うれしくて、うれしくて、その場で食べてしまうのはもったいなくて、持って帰ろうともしたが、みんなが食べるので、その輪に入って一緒に食べた。
いまになって思うのは、の青年の皆さんの温かい心である。みなさんは、私たちの自主性を大事にしてくれた。喋り過ぎることなく、押しつけることなく、ぞんざいな口使いをすることもなく、私たちの興味を引き出そうとしてくれた。それは、学校と異なる、その外の「学舎」(まなびや)であった。
年の瀬になっても、大人は何かと忙しい。どちらかというと、婦人の方が忙しい。あれもこれもで、てんてこまいとは、母の言い分であったろう。母は優しく、おもいやりに溢れるばかりでなく、やることを器用にこなしていた。嫁姑の関係は、おばあさんにむしろ仕える風であった。おばあさんは、自分のことを「わし」といったり、「体は小そうても(小さくても)、山椒の実」というのが口癖の、剛胆な婦人である。母への口調もやわではないが、そこそこには思いやりがこもっていた。
我が家では、新年が明けるや黒豆の煮たのと「つるし柿」(あんぽ柿)を食べていた。柿は飴色の地に白い粉が降ったような色をしていた。柿を食べるのは、「幸せを掻き取る」からというのが、子供にもわかる。一口噛むと、体の芯にじんわりとした甘さが広がる。魔法のような味である。黒豆は、「今年も豆に暮らせますように」との願いを込めて食べるのだとか。だとすれば、この甘い煮豆にはその願いが宿っている。縁起のいいところで、黒豆も欠かせない。母が、前の晩に水につけておいた自家製の黒豆を大なべに入れて、弱火でコトコト煮ていく。水分がなくなってきたら、あくを取る。その都度水を加えるを繰り返して、しだいに豆を煮詰めていく。何時間かたったら、落とし蓋をしたかどうか、止めてそのまま冷ましておく。何時間かたってから、蓋をあけると、ほんわかした、ある甘い黒豆ができあがるのだった。
他の家庭では、「八方、まめで、くりくり働いて、幸せを掻き取る」とのたとえで、これに八頭(やつがしら)や栗をも加えて、年始めの神膳にしてともに頂いていたらしい。
元旦の朝はゆっくり寝ていた。7時くらいに起きて、最初に食べる料理が雑煮であった。当時は、元旦からの三が日、家族で雑煮を食べる習慣があった。雑煮というものは、日本国中、白味噌仕立てのものがあれば、醤油仕立てのものもあるなど、美作の内はもちろん、岡山県内でも地域によってもいろいろに違うみたいだ。次に紹介するのは、御津郡御津町(現在は岡山市)の正月風景である。
「それからお正月の朝、初めて水汲むのを若水(わかみず)いうんですが、若水は井戸から汲んで来るんです。若水を早く汲んで来て、顔洗ってそれから皆一緒に新年のご挨拶をしたら、その時、梅干し一つ入れたお茶を飲み、干柿とみかんをいただいて、それからお雑煮を食べるんです。お雑煮は、一番底に輪切りの大根を一つ入れて、お餅をさまして入れて、その上に鰤(ぶり)のゆがしたのとか、ほうれん草を入れました。一日がおしょう油で二日にお味噌、三日がおぜんざいしょうたんじゃなかろうか。三箇日、それが決まりでした。」(西崎富子「楽しかった季節のうつろいーおやつは手作りで」:岡山市文化的都市づくりプロジェクト企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年』岡山市、1990)
我が家の雑煮は、岡山市や津山市街地などでの「白味噌仕立て」ではなく、醤油での味付けであった。雑煮に出世魚の鰤(ぶり)に塩をまぶしたのを入れるのは、西日本の正月料理の定番であるらしいのだが、我が家のものには、その変わりといっては何だが、鯨肉とするめが入っていた。鯨肉といっても、いまスーパー・マーケットで高値で売られているような薄皮のものではない。あの黒い分厚い皮と、その先に付いている脂ののった肉が少しとが、まるで切り出されたように肉のブロックになっている。鯨たちはその厚い皮下脂肪のおかげで、極北の海でも命永らえているのではないか。この小さな切れが、雑煮の餅と汁の上に2、3切れ載せられいると、「これはうまいのですよ」の値札がつけられているようで、食べる前からご満悦の気分になっていた。これに対して、するめいかの干物を雑煮になぜ入れているのかは、母にたずねたことはなかった。そのまま50年位が経過して、わからぬままに放置していた。それが、最近になって回転寿司屋のちらしでふと「神社や神棚のお供物の一つ。「寿留女」とも書く縁起もの」とあるのをみつけ、この意味だったのではないかと推測するようになっている。
我が家の雑煮には芹(せり)がよく似合っていた。せりには、風味もある。味も雑煮の汁につけて食べると料理全部が引き立つ。実に重宝な薬味だ。芹を採りに行く場所は、我が家の西の田圃の奥深い窪地にあった。春に母とつくしを摘み取りに出かけたところから程近い。その奥まった溝から清水が「ファーッ」と砂をかき分けるようにして湧き出している。せりはその辺りに群生していた。あるだけ全部を採っては次のとき無くなるので、ほどほどの収穫ににしておいた。その芹は冷たくて、きれいな水を好み、採れるとれる場所は限られていた。人の手で栽培できるのかもしれないが、自然のものとは風味が異なっているのではないか。雑煮に入れるほか、「おひたし」にもしていた。朝に取ってきた瑞々しいのを、その朝食べると大変美味しい。あのようにかぐわしい、いい臭いがする野菜はみつばのほかに私は知らない。雑煮の濃厚な味とよく合うのはただものではない気がしていた。
正月料理には縁起のよいものが選ばれる上、それぞれの地域の伝統を受け継いでいるようである。雑煮のほかに煮しめ各種も加えられていた。その煮しめには牛蒡、蕗(ふき)、人参、椎茸、里芋、筍(たけのこ)、蒟蒻(こんにゃく)などが多様な形で使われている。食べる前には、まず、母と祖母が仏壇と氏神、大黒さんの棚に正月料理を供える。ろうそくによる灯明は欠かせない。祖母や母は棚の前に立ち、両手を合わせてなにやら話しかけていた。それが済むと、「ちゃぶ台」の前に家族6人そろって座っての食事となる。
このちゃぶ台というのは、ちょっとした座卓を小さくしたものであり、引出しが付いている。その中にきれいにした茶碗と箸が入れてある。ご飯の気の座る場所も決まっていて、戸棚を背にした上座は父、下座は母、両脇の一つ側には祖父と祖母、もう一つの側に兄と私が座る。ちゃぶ台の置かれていたのはお茶の間といったところか、今どきの住宅の「リビングルーム」とはだいぶん違う。その板間は6畳くらい。その東側には夜なべ仕事に使う土間がある。敷居を挟んでその南にはもう一つ土間があって、そこからは南の玄関につながっている。
雑煮を食べるとき位、和気藹々でいられたら、どんなによかっただろう。そうであったなら、たまらなく嬉しくて涙が流れたのかも知れない。だが、我が家の食事はそうではなかった。正月といっても、食べながら話しているときつく叱られる。だから、黙って前に正座して食べるしかない。この決まりに逆らえば、大袈裟といわれるかもしれないが、命の危険も出でくるような案配にて、私は物心ついた頃から大層恐れていた。だから、正月を迎え、父の表情がゆったりしているのを見て、「これなら、普段通りしていれば怒られることはない」と安堵したものである。
年が明けて7日目には、母が作ってくれた七草がゆを食べた。ここで七草とは、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、の春の七草の名前だ。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはカブ、スズシロはダイコンのこと。
これらを野に探し行くのだが、沢山の種類なので時間がとめどなく過ぎていく。結局、一つか二つを見つけて、いいことにする。七草がゆのときには、なずなまたはあぶらなだけを入れていたというが、母に聞いていないし、いちいち確かめていないので、わからない。邪気をはらう意味合いがあっ。この七草をお粥にして食べる習慣は、江戸時代に広まったらしい。
芹(せり)は水辺の山菜で香りがよい。薺(なずな)の別称はペンペン草。御形(ごぎょう)の別称は母子草で、草餅の元祖。繫縷(はこべら)は腹痛の薬にもなった。仏の座(ほとけのざ)はの別称はタビラコ。菘(すずな)は蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。蘿蔔(すずしろ)は大根(だいこん)のこと。これは、消化を助け、風邪の予防にもなるというから誠に有難い。
正月の遊びは、盛り沢山の内容である。大抵、我が家の外に出かけていた。凧揚げは風のあるときにやる。其の時は、「さあ、やるぞ」と気合いを入れてから、使い古した凧を持って、我が家の坂下の田んぼの中の道へと向かう。凧を担ぐようにして、その紐を手に持って、全速力で道を走り出す。風で空中に凧が舞い上がったら「しめた」もの。後は、腕を引いたり、戻したりしながら、少しずつ糸を伸ばしながら風に乗せていく。凧はさらに高く、遠くへと昇っていく。紙飛行機を飛ばすのは、飛ばすのもさることながら、それを手作りする楽しさも味わえる。きっちり作るときは翼に工夫を加えるとよい。翼の両側は内折りにして風を切れるようしておく。後ろの昇降舵の部分は念入りに、親指の腹で少し下に押して、ひねりというか、風が逃げてゆく感じに仕上げる。これらの両方とも、江戸時代にはもうあったというから、日本人の遊び心は大したものだ。
正月に雪が降っていれば、の神社などに出かけて雪だるまを造ったり、雪合戦をしたり。雪だるまは一応の形が整った後、最後に目と鼻と口を付けて完成にするのが特に楽しかった。雪合戦では、力を抜いてやることにしていた。少なくとも、中に石を詰めて相手めがけて投げるような卑怯なやり方は、西下の仲間はしていなかったと思う。
部屋の中での遊びも、のあちらこちらの家にお邪魔して、みかんなんかをいただきながら、いろいろとしていた。将棋にトランプ、花札もあったが、大抵女の人もいるので、「すごろく」や「かるた取り」とかが一番で、それに飽きると、「お手玉」や「おはじき」、「折り紙」などもして遊んだ。独楽回しは土の地面でもできるが、土に食い込んで勢いがつかない。コンクリートで固めたところは駒の回りがよくて、これだと2つも3つも駒がかち合う様が見られる。自慢の駒を持ち寄って「これでもか」と夢中になって廻していた。羽子板はどこかの家でちょうどやっていて、その中に入れてもらって一度させてもらったことがある。大人の人に「あんたもやってみたら」と言われて羽子板を渡され、相手の親戚の人と向かい合って2度、3度と羽子板で羽の付いた玉を打ってみたが、それ以上は的を外れて空振りとなっていた。ほかにもいろいろな正月遊びに興じていたが、現在の正月風景でめったに目にしなくなったものが多い。あの頃は、日本の子供達の正月の過ごし方はどれもこれも雅な時代からの伝統を受け継いでいたのであろう。それらの大抵は、よく知っている仲間や先輩、子供に受けのよい大人の人も出て来たりして、昼からだったら夕方までと、それはそれは楽しい時を過ごさせていただいた。
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23『美作の野は晴れて』第一部、修学旅行など1
物心ついてからは、自分は岡山の「県北」の者であって、「県南」はまるで知らない、それなので小学校の遠足で南の方に出掛けられる時には、前の晩からどんな処かと心がときめいていたのではなかったか。その頃の自分はおそらく、たぶん、自分は山野草の森の中に住んでいる「田舎者」(いなかもの)であることをかたくなな心でもってひがんでいたのではなく、多分におおっぴらな気分で「何でもいいから知りたい、連れてって」という無邪気な好奇心が働いていたように思い出している。とはいっても、南と北で気候も風土もかなり異なるとはいえ同じ岡山県人なのだから、「井の中の蛙」の例えのようになっていてはいけないという気負いも、少しはあったのだと思っている。
私の人生初めての大きな旅は、どうやら岡山よりもっともっと遠い、大阪の地であったらしい。ついては、大人になってからのある日、母から、その時の大阪で写真屋らしきところで撮ってもらった写真を見せてもらい、そのことがわかったような次第で、まるで夢のような母の話であった。その古ぼけた一枚の写真を観たときの記憶はいまでも鮮明に残っている。その写真は薄い茶色に変色してしまっていた。そこには、まだ50歳代かと思われる祖父母とともに、私が兄と一緒に写っていた。目ははっきり開かれていたものの、その姿にはいかにも幼さが漂っており、たぶん四、五歳の頃の写真ではなかったか。その時の母の話では、大阪の親戚に祖父と祖母が招かれて行ったときに、孫の二人も見せるため連れて行ったのだと聞いた。その日から十数年後であったか、再び「あれを見せてほしい」と母に頼んでみた。母はちょっと驚いた表情をみせてから立ち上がり、「どこに行ったんだろう」ということで、その写真の在りかを母は知らないようであって、家の奥に行った。数分経ってから、私のいる表座敷に古い写真集を何冊か持ってきてくれて、「それじゃあ、これらの中から探してみよう」ということになった。私にとってあの写真の大事さを認識しだした頃であったことから、せめて複製でもとっておきたいと願っていたので、これらの古い写真集に紛れているのではないかと、母と一緒にかなりの入念さでページをめくってみたものの、ついに目的のものを探し当てることはできなかった。
岡山方面への最初の旅の記憶は、上村の城山百貨店(じょうやましょうてん)主催の潮干狩り旅行であって、そのときは幼稚園にもまだ行っていなかった。それが小学校に入ってからは、たぶん学校の遠足で県南の観光地や学習の場に連れていってもらうようになり、徐々に県南への関心が実感に変わっていった。行き先は、たぶん岡山の半田山植物園とか、日本三大名園の一つといわれる後楽園だったのではなかったか、行き先でのあれこれもさることながら、そこまで行くバスの道中に窓を過ぎてゆく風景も楽しめた。
これらのうち、後楽園への遠足は県北の当時の小学校では、バスに乗っての遠足には定番の行く先だったのではないだろうか。ここに後楽園は、もともとは「御後園」(ごこうえん)といい、岡山城の後ろにつなげてあったことから、この名前がついたのだという。着工したのは1687年(貞享4年)であって、一応のたたずまいが整ったのが1700年(元禄13年)だとされる。その場所は、旭川をはさんだ中州にある。当時の岡山城の二代藩主の池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造成に当たらせた。完成したのは着工から数えて80年後であったようで、その連綿たる志にはさしあたり「めでたし」として敬意を払うとしても、そもそもは庶民の暮らしには馴染みがほとんどなかったように感じられる。というのも、「サライ」という雑誌の1967年5月号「日本の庭園」に収められている岡山後楽園の紹介によると、こうあるからだ。
いわく、「藩主は城から舟で旭川を渡り、いまも残る御舟入跡から園内に入る。そのあたりは植栽が繁り視界が遮られている。園路を東へ進むとやがて視界が開け、曲水(きょくすい)が目に入り、<トンネルを抜けると清水(せいすい)が流れる>となる。
演出はさらに巧妙に仕組まれており、曲水の流れを耳で楽しみながら、園のほぼ中心にある唯心山に登る。短い山道だが、途の両側に植栽を配し、もう一度視界を絞り込み、ふたたびトンネルへと導く。
そして唯心山の上に立つと、初めて眼下に満々と水をたたえた沢の池と、一面芝生の広々とした庭園が広がる。美味しいものは最後に楽しむ、ごとく、感嘆の景観を幕を切り落とすように一気に見せているのだ。その感動をかみしめながら、唯心山を下り、フランス庭園を思わせる芝生の中の園路を散策する。これが岡山後楽園の、心憎い演出である。
ところが実際は、現在の正門から入園すると、全く逆のコースを歩むことになる。それでも名園鑑賞に変わりはないが、第一印象はかなり異なるであろう。」
この公園の隣にある岡山城の方も名状として知られる。この城は、かの豊臣秀吉に気に入れられた宇喜多秀家が三層六階建ての望楼形天守閣を造営し、ここにいかめしくも古風な城の威容が整った。岡山城は、二代目藩主池田忠雄の代に完成を見た。それが明治維新後の廃城で城門については、32棟の城門のうち石山門1棟のみが残った。城の建物は、天守閣と塩蔵、月見櫓、西手櫓、石山門の5棟が撤去を免れた。1945年(昭和20年)の空襲で天守閣に加え、塩蔵と石山門が焼失した。1966年(昭和41)、天守閣と、そのそばの不明門と廊下門が再建された。城主の権威の象徴であった書院造りの城主の間も復元されている。
県南という地域を初めて一望にできたのは、おそらく中学年くらいになってからの遠足のときではなかったか。水島の工業地帯を見渡せる道を通って、鷲羽山(標高は112.8メートル)へも出かけた。バスが山に上る途中の道脇の待つや低木類の端麗さもさることながら、頂上に達してからの眺望は、誠に美しかった。ちなみに、徳富蘇峰はこの頂上に立った時、「内海の秀麗ここに集まる」との意味からに「鐘秀峰」と名付けている。そのときはよい天気だったから、おそらく瀬戸の海に長く突き出したい半島には田之浦、吹上、下津井の港と町並みが見え、その向こうの沖には櫃石島(ひついしじま、香川県坂出市)、松島、釜島、六口島、さらに向こうには与島、広島などの塩飽諸島が見えていたことだろう。現在は、その櫃石島を通って瀬戸大橋が架けられている。江戸期の港には、玉島港に負けず劣らず、千石内外の北前船が入港して、北日本からの航路で干し鰊や昆布などの海産物をもたらしたり、こちらからは綿、塩など瀬戸内の海産物、米などの積み出しが行われていたとされる。
小学校生活の集大成というか、思い出にということだろうか、修学旅行に行ったのは、6年生になってからしばらく経った頃であった。行き先は、四国の高松栗林公園と金比羅さん参りであった。その前には、準備やら、心構えやらがあって、行く前にいろんな先生からの指導や班にに分かれての打ち合わせがあった。詳細な計画を記した上が配られた。そこには、何日は何をする。何時から何時まで、役割分担はこう、というように、盛り沢山な決め事が記してあった。なにしろ、内陸のみまさかから出て、瀬戸内海の向こうの四国に行くのだから、2泊3日の行程なのだから、大変だ。私は、海を渡るのは初めてであった。出発の日には、学校の前にバスが来ていた。2クラスあったから、2台のバスに乗って行ったような気がする。津山線で岡山駅まで出て、そこから宇野線で終点の宇野まで行くルートもあるが、四国に渡ってからのこともあったので、やはりバスごと船で運んでもらったのだと思う。
最初の日は、柵原経由で直接玉島市の方角へ南下する道の方が近道であったかもしれない。しかし、国道53号線を使って岡山に南下して、そこから玉島、宇野へと向かうのが自然なのかもしれない。その日、津山からバスは、いずれかのルートをたどって宇野まで行って、そこの港桟橋からバスごと国鉄宇高連絡船に乗ることにしていた。岡山平野に入ったあたりから、視界がぐんと開ける。ここは、もう県南の大いなる平坦部であって、江戸期に岡山藩によって精力的な干拓が進められた。「千石の宇喜多堤防」と呼ばれる潮止堤防を嚆矢として、およそ300年間にわたり奥除新田までが開削された。明治になると、旧藩の武士の授産事業としての取組みも加わった。1900年(明治33年)には、民間の藤田組の手によって欧米式の干拓が起工され、新田は同組の経営となって、敗戦まで続いた。農地改革により農林省の管轄となり(藤田農場は解放され、実際の耕作者が自作農に)、江戸期から続いてきた児島湾干拓事業は1963年(昭和38年)に一応の完成をみた。
さらに下った向こうには海が広がっている。
「桃太郎さん 桃太郎さん
お腰につけた 黍団子(きびだんご)
一つわたしに 下さいな」(『桃太郎』、作詞は未詳、作曲は岡野貞一)
今でも、この伝説の確かな由来はわかっておらず、なにゆえ犬や猿、雉(きじ)にエサを仕掛けて供に迎え入れたかなどもはっきりしない。一説によれば、桃太郎の伝説は当時の瀬戸内に出張っていた水軍というか、海賊というか、かれらを封じ込めることからとった話である、という。これに従えば、古くは、下津井港の沖合に浮かぶ塩飽(しわく)諸島を根城にしていた軍勢なども彷彿してくる。それに、「黍団子」も、発祥は岡山に限ったものではないとのことであったが、今の岡山側の人々がそれらをうまいこと故郷の地に根付かせたのは「さすが」だといっていいだろう。
さて、私たちの乗ったバスは無事、宇野に着いて、そこから港桟橋へ、宇野港から船に乗った。初めて見る大きな船だった。船旅は初めてだった。当日は快晴であったのではないか。このときの国鉄宇高連絡線は、1909年(明治42年)7月に宇野港が竣工となり、それに少し遅れる1910年(明治43年)6月に宇野線が開通にこぎ着けた。これとほぼ同時に宇野と高松間の連絡船も就航し、本州と四国を結ぶ新しい運搬ルートが成った。この連絡船は、瀬戸大橋の開通に伴って1988年(昭和63年)4月にその役割を終え、廃止された。それまでの長きにわたり、本州と四国を結んで、人々や車両、物資を運んできたのである。
出発前に連絡船の人と先生から、出発したら甲板に出ないようにとか、カモメが飛来してくるので気をつけるようにと、注意を受けた。1955年(昭和30年)6月のこと、濃霧の中、途中で旅客船紫雲丸の右舷に同連絡船第3宇高丸(貨物船)が衝突し、死者・行方不明者168名を出す惨事が起こった。旅慣れていない子供を大勢連れて船に乗るのだから、引率の先生方も緊張を強いられたことだろう。甲板には出られない。それでも、通路をたどって、その近くまでは行ける。そこにいても、それなりの景色が見える。かもめの方は、うっすら記憶が残っている。何羽かは見えていたようだ。海はとにかく広い。その上、果てしなく続く。
船が桟橋を出ていく。その時は、なんとなく、逆進でバースを離岸して、ぐるりと方向転換し、港外へ向かった。直ぐに赤白灯のようなものを過ぎると、そこはもう海原になっていた。宇野港を後に見送ると、まもなく左手に直島が見えてくる。右手に春靄にけぶって見えていたのは、地蔵山(標高158メートル)だったのだろうか。途中で見る瀬戸内の島々は霞がかかっていて、行き交う船も漁船からタンカーまで幾隻かが見えていた。向かう方向の海面の所々に、微風の中、紺碧の空の下、白い波頭がところどころに立っていた。それは海原というのが、ふさわしい。そして、陽を浴びて島々の緑が刻々と変化して見える様は何とも美しい。気分は最高、めざすは対岸の高松桟橋。まさに順風満帆の修学旅行日和であった。そうこうするうちに、船は対岸の高松港に近づいてくる。ここまで、意外に時間はかかっていない。次々に開けてくる光景に心をなびかせているうちに、対岸の風景が近づいてくるという感じであった。船が高松桟橋に入るときには、衝突を避けるためか、接岸するまで長い時間を要した。港に着いてからも、降りれるようになるまでには時間がかかった。
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60『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし2
冬には植物がちぢこまっているようだ。春や夏には葉が茎が根がどんどん伸びていったのに、冬になると彼らはじっと次の活躍の時期の来るまで耐えているように見える。人間も同じで、日を経る毎に寒くなっていく中、冴え返る余寒におびえるように首をすくめつつ、農作業を行うことになる。牧歌的な風景としての麦踏みなんかはその典型であって、西洋においても「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、もし死なば、より多くの実を結ぶべし」(『新約聖書』ヨハネによる福音書)と記されている。
冬場の外での主な農作業としては、田んぼに肥えをやることがあった。農業を営むというのは自然相手の事があって、経営としては大変な営みなのである。麦を植えなかった田圃には冬の間に有機堆肥をばら撒いておく。朝方にうっすら霜が降り始める日、麦の取り入れが終わった田圃に出て、家族総出で有機堆肥を撒いておく。
それは、牛の糞を藁にまぶして我が家の東の庭に積み上げ、発酵させたものであった。野積みの仕方はシンプルである。まず藁を三束ずつ両手で掴んで祖父に差し出す。祖父はそれを地面の上穂先を中心部に向けて、放射状に置いていく。一通り置くと、次にその上に重ねて積んでいく。祖父の作業は巧みな上、無駄というものがない。積んだ稲藁が互いに離れたり、崩れたりしないように、身長の中程のところの高さまで藁を隣と結んでおく。
藁がある程度積み上がりだしたら、家畜の糞を満載した敷藁を載せる。その繰返しで藁済みをしていって、祖父の背丈くらいにまで藁積みが積み上がっていく。前後左右に均等に積んでいかないと、どっちかに傾いてしまう。そのため、途中で何度も側面をたたいたり、押したりして姿勢を整えている風であった。最後に藁で作った大きな帽子を載せて、できあがりとなる。祖父は、それでも側面の出っ張りを「チョッ、チョッ」と軽くたたいたり、総仕上げに余念がない。こうして、しっかりした肥藁積みをするには、なかなかの技術が必要だ。
それを天気の日も、雨の日も、そして小雪の舞う日も、天に晒しておく。その間に、じんわりと肥えの養分が藁積みの全体に染み渡っていく。藁積みを仕掛けてから2ヶ月くらい経った頃、それを取り崩して、田んぼに運び、肥料として撒くときがやってくる。
そのとき、藁積みの内部の温度は、底の方では摂氏八〇度くらいにもなっているというから不思議だ。積藁をめくると湯気の立ち上るものもあったものの、牛は主に草を食べているのだから、人糞に比べるとそんなに臭いものとはならないと、自分に言い聞かせていた。
田んぼにこれを撒くときには、耕耘機のトレーラーに積んで持って行き、田圃の何カ所かに分けて置く。そいつを引っ掛け爪が付いた「フォーク」を堆肥に差し込んで「ぐい」と持ち上げる。次の動作で杖を旋回させ、堆肥をばらまく。腰を水平方向にひねるようにして、遠心力を働かせるとよい。あるいは、両方の手で「ごそっ」と取り、まだ肥えを撒いていない場所に持って行ってから、回りに人がいないのを確かめながら撒いていく。田圃の隅から隅まで満遍に行き渡るようにするのがよい。
こうしておけば、稲にとって自分の養分となるばかりでなく、発酵肥料が分解するときに酸素が奪われて、還元状態となる。この酸素の欠乏によってコナガやヒエなどの雑草の発芽を抑えることができる。田植え時で見る限り、肥料は堆肥で作った有機肥料を用い、それを補うものとして化学肥料を用いていた。
ところで、農家の冬の暮らしの中心は、農閑期の作業もさることながら、だんだんに現金収入を求めての農業以外の作業に従事することへと傾いていった。それでも、東北地方にみるような村をあげての出稼ぎの形態をとってはいなかった。ただ、稀に、の人や学友の中でも、父親が岡山県南部の水島工場地帯とか京阪神の都会に出稼ぎに行っているという話を聞くことがあった。
あれは小学校の4年生から6年生の頃であったか、倉敷の金甲山、鷲羽山方面に春の日帰り遠足があった。そのとき、峠から坂道を下る観光バスの車中から、下界に広がるその「勇姿」というか、赤白まだらの高い塔が立っていたり、ギザギザ状の工場が林立していた。煙突のようなものからは白煙が空に立ち上っていた。しかも、それらの建物や付属の建造物は相互につながりをもった有機体というのがふさわしい。その施設の数々は海の入り江のような形をした広い、広い埋立て地所にびっしりと集積していた。初めて目にするその全貌に目を吸い込まれつつ、私の後ろの席からも前の席からも「わあー。すげえー」などとと、驚嘆するに十分な大パノラマだった。
当時、この地で現金収入が得られる仕事の代表格と言えば、土木工事であったろう。公共工事で幾つもの現場があって、国や県や町から工事を請け負った会社が地域の農民を臨時雇いして工事を行っていた。私の父は、冬場の多くはその現場に雇われて、働いていた。現場は複数有り、一つが済むと他に移る。そうして、人もまた幾つもの現場を渡り歩くのだ。近くは、私のいるの小川の築堤工事場から、遠くは鳥取との県境人形峠(現在の英田郡上斎原村と鳥取県東伯郡三朝町に跨る県境の峠)の施設の建設現場まで、仕事に出かける父に母は朝早くから起きて大きめの弁当を作ってあげていた。
小学校の放課後、冬なので道草(みちくさ)をしてゆるゆる帰るわけにはいかない。家に向かう途中、笹尾(ささお)地域付近から「東の田圃」の付近にさしかかる。すると、7、8人位の人たちが東の田んぼの小川の補修工事の現場で作業していて、その中にモンペ姿の母らしい姿を見つけるときもあった。そんなときは、あまりそっちの方を見ないようにして帰りの道を急いだこともあった。いま顧みると、なぜ堂々と胸を張って通らなかったのかと悔やまれる。もしも、皆さんと目があったら「こんにちは」と元気よく声をかけたらよかった。そうする方が、「あれ、さーちゃん、あんたの子供さんじゃないかな」などと気がついてもらって、母も喜んでくれたのではなかったかと、悔やまれる。
当時の日本は、神武景気を経て、岩戸景気(1958年(昭和33年)6月~61年(昭和35年)11月))と、その後の調整期にあった。そして、時代は、高度成長期後半を告げるいざなぎ景気(1965年(昭和40年)10月~70年(昭和45年)7月)の入口に近づきつつあった。
私たちの当時の勝北町においても、貨幣経済がだんだんに浸透してきていた。あれこれの食料品も、川本商店(仮の名)など、大きな店に母のお供をして買出しに行った。
「うわー、こげんようけい(たくさん)品があるんかのう。」と眼を奪われたものだ。
とくに、即席ラーメンとかのインスタント食品には眼を奪われるような「ど派手」な包装がなされてい。家では、農作業で忙しいときは即席ラーメンに冷えたご飯を入れて煮たものをたびたび食べるようなっていたので、母がよく買い込んでいた。
そういうことだから、農家と農協との間の農協による信用買い、掛け買いなどの濃密な関係は、しだいに後景へと退くほかはない。入れかわりに貨幣経済がどっと入ってきて、現金取引・決済で必要な生活物資をその都度調達しなくてはならない。勢い、年に一度のコメと麦の売却収入のみに頼るのではなく、農閑期に生活に足りない分を求めて日雇い仕事に精を出すようになっていた。
私がまだ小学校に通っていた頃、我が家の一番の副業は和牛を育てることだった。ちなみに、中学に入ってからは、たばこ栽培が一番にとって変わった。和牛の飼育では、我が家に何代目かの雌の和牛がいた。朝夕は母屋の隣の納屋で檜で作った堅固な柵に囲まれて過ごしていた。しかし、農繁期になると、まだ耕耘機が家になかった頃には、役畜として主要な田んぼでの仕事に欠かせない存在だった。土起しから代掻き、そりでの荷物の運搬までその牛に大きく依存していた。
ところで、我が家の牛にはもう一つ大きな仕事が課せられていた。ある日、獣医さんらしき人が家にやって来て、我が家の牛に「種付け」をしているようだった。そのときは、興奮を抑えるための注射もされた。それから、どのくらい経った後かは思い出せないが、やがて月満ちて、その牛が臨月を迎える頃になると、今度はいつ産気づくか、いつ生まれるかで家族一同、気になって気になって夜もおちおち眠れない日が続くのだ。
いま思い起こしてみると、その日はたぶん12月の夜だった。獣医さんが来てくれるのを、今か今かとま家の外で待っていた。その間に夜空を見上げると、夕方の東の地平線から少し上がった辺りに、私の大好きなオリオン座がかかっていた。
我が家の母牛が産気づいたのは、その日の夕刻になってからのことだった。納屋に見に行くと、苦しいらしく口から泡のような唾液を盛んに垂らしていた。牛の入っている納屋の広さは6畳くらいしかない。その狭い納屋に、獣医さんが父と一緒に入って牛の鼻緒を何重にも柱に結わえ付け、パンパンに張ったおなかをさすったり、牛の涙とおぼしき粘り気のある液体をタオルで拭いてやったり、下が滑らないように新しい踏み藁をかませたり、等々、ともかく忙しく立ち働いていた。
獣医さんはと言えば、掛け持ちをしていることもあるようで、それとも何かを取りに帰ったのか、途中でしばらく消えたりしたものだが、夜の零時を過ぎて、いよいよ生まれてくるときにはちゃんと戻って来てくれた。
私も、「ありがたい、ありがたい、どうか無事で子牛を生んでくれ」と、頭の中で反芻していた。何しろ、へたをすると親子とも台無しになってしまいかねない。母牛の命がけの出産なので、家族一同、夕食をする間も落ち着かない。食事の味もしないような緊張の面持ちで、固唾を呑んで事の成行きを見守った。
子牛が無事生まれたのは、午前をかなり回っていた。納屋の外間近から見ていると、最初に両の足が覗いた。それからは、なかなか出てこない。母牛はますますもって苦しい声をあげて、狭い納屋の中で、「ハアハア」と冷気を白くさせている。そのとき、「ようーし、もうちょっとじや、いきんでみい」と怒号が聞こえる。父が親牛の太い首にしがみつき、獣医さんが後ろで構える。私はそれを見ているだけで、何も協力できい。
そうこうするうち、足がもっと出てきた。そこで二人が力わ合わせて、足を引き出す。すると、「ズルズルズル」という具合で、子牛の胴体まで母体の外に出てきた。そこで、獣医さんと父が今度は子牛の胴体をつかむような姿勢になって、もう一度「オイセエー」と引っ張り出す。
そして、とうとう丸ごと子牛を引き出して、新しいまぐさの上に横たえる。父が親牛のおしりを押して、子牛がいるところから少し離すようにし向ける。子牛は血のついたどろどろの袋をひきづっていて、それは母牛の胎盤の一部ではないかと思われる。目の前に繰り広げられている光景は実に生々しく写った。
ほっと一息ついてしばらく後、一旦母屋に帰っていた。だが、なお気になって、牛の納屋に戻ると、母牛は横たわって眼を見開いている子牛の東部かに首のあたりを何度も何度も厚い舌でなめ回している。顔の表情はいつもの母牛に戻っている。獣医さんと父とは納屋の中で、今度は子牛の胴体を引き起こして、足を起こして立たせようとしている。
祖父は納屋の外で、私を従えて何やらかけ声をかけ続けている。と、何度めかの挑戦のあと、生まれて半刻と経っていないうちに、子牛は4本の足を新しい藁を敷いた上に立てた。2度、3度、膝のあたりがへたりそうになるのを持ちこたえていた。だが、介添えの力に助けられたのか、その後直ぐに「すっく」と自分の足で立った。
「やった、やったぞ、これでみんな終わった。どっちも偉いぞ」
何回かに分けて、そんな思いがこみ上げてきた。そのときの牛の母子の姿を見ていた誰もがそう言ってねぎらってやっただろう。人をして感動させるだけの、牛の新しい命の誕生であった。外へ出て、深夜の空を見上げると、あのオリオン座が頭上に移動して、夕方見たときより、さらに深い静寂をたたえ輝いていた。
それから、私がおよそ20歳になって家を離れるまでに、子牛の誕生はそれから1、2度はあったろう。だが、そのとき初めて見た我が家の牛の出産の一部始終は、数十年を経た今でも色褪せていない。
冬が来ると、子供の心に、多かれ少なかれ「早く春が来てほしい」との仄かな願いの灯が点灯したことだろう。冬から春への転換は少しずつ、一つひとつの事象として段階を踏んでゆくしかない。冬が到来したら、それはそれは長いトンネルに入ったようだった。それからの人々は寡黙となり、互いに体を丸めるようにして日々を過ごす。一皮また一皮と何かしら血の気がよみがえっていくのを待つ気分といったらよいのだろうか。それだけに、時々暖かな「好日」が巡ってくると、うれしい。
冬の数少ない娯楽の随一はテレビを見ることだった。あれは小学5年生くらいになった頃だったろうか。春も近くなった頃をテーマとした心暖まる連続ドラマがあり、毎週のように楽しみにしていた。
「雪やこんこあられやこんこ、ふってはふってはずんずん積もる、山も野原も綿帽子かぶり、枯れ木残らず花が咲く」(文部省唱歌)
その我が家の猫はといえば、こたつの上とか、暖かいところで、毛繕いに余念がない。あのざらざらしたベロ(舌)で腕とか脚とかなめなめして、古くなった毛やまとわりついたほこりなんかをなめ取るのだ。それを見つめながら、彼と同じく暖を取っている私も、なんだか眠たくなったものである。
私と猫がそうしている間も、祖母や母はせっせと、根気強く働いていた。
「母さんは夜なべをして手袋編んでくれた、木枯らし(ごがらし)吹いちゃ冷たかろうてせっせと編んだだよ、ふるさとの便りは届く、囲炉裏(いろり)の匂いがした」(『かあさんの歌』、作詞・作曲は窪田聡)
冬場の子供たちが、屋内ではまる遊びの二つ目は何だろうか。その頃の遊びといえば、トランプやすごろく、花札とか、かるたとりは、親戚の子供同士集まったときや、内では勇介君の家とかにみんなで集まって、男の子も女の子も入り交じってやっていたようだが、いまでは誰と誰がいたということでは大方忘れてしまった。それら幾つもの楽しみの中で異彩を放っていたのは、将棋であった。これはすぐ近所の敬一ちゃん(仮の名)に教えてもらった。小学校の低学年のことであった。彼は私より4歳くらいは年上であったが、きさくで、人なつっこいので、年はもいかない後輩に将棋でも教えてやろうと思い立ってくれたのではなかろうか。
覚え立ての頃は、なかなかうまく駒を動かせなかったものの、次第に色々作戦を考えるようになれた。しかし、それ以上の上達するのは難しい。おかげで、母がまだ津山の渡辺病院に入院している頃、京町の道路の少し入ったところの民家の前で、お年寄りたちが将棋を囲んでいた。その時はまだ将棋を覚えて間がなかったようで、どんな作戦でいるのか読めないでいるうちに、指し手がどんどん進んでいくという具合であった。
もっとも、生きているゲームの観戦なので、珍しい駒の使い方があれば、興味津々となる。それは「桂馬の高上がり」といって、駒を一つ飛び越して斜め前に進む。独特な動きをして立派な働きをする。そのかわり、逃げるのが苦手だ。極めつけは、頭に「歩」(ふ)を打たれるとピンチとなる。これは「桂馬の高飛びの餌食」とも比喩されているらしい。 そもそも、その頃の私は、テレビの将棋番組を見たり、腕を磨いたりのことはなかったといっていい。それなのに、図々しくも、おじいさんたちの「勝負の輪」に入れてもらって観ていた。もっとも、お年寄りにとっても、将棋を囲んでいるところに子供が寄ってきて、静かに対局を観戦しているのだから、拒む理由はなかったろう。ピシッという音を立てて将棋の駒が置かれると、相手の人が「フーム」と言って顔をしかめたりする。そのうち、勝負が佳境に入ってくると、考える時間が延びる。戦局の難しいことはわからないが、こちらも拳に力が入ってきて時間が経つのを忘れた。
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