6『岡山の今昔』倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)
弥生時代の終了年代については、前方後円墳が日本列島の各地で築造されるようになってからと考えて差し支えないだろう。そしてこの列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。ただし、例えば畿内にある箸墓古墳など古墳時代初期の古墳については、3世紀中葉から後半等々に至るまで諸説紛々、説が割れている。被葬者が誰(卑弥呼か、その跡を継いだ台与(とよ)か、はたまた後続の男王)かが明らかでなく、そのゆえに築造年代が特定できない状態が続いている。
このうち6世紀は、仏教伝来(528年とも552年とも)に始まる「飛鳥時代(あすかじだい)」の前期に区分けされ、奈良盆地の飛鳥を中心に「倭国」の都が建設され、整備されつつあった頃のことだ。ちなみに、特に645年(大化元年)の「大化の改新」から710年(和銅3年)の平城(奈良)京遷都までの飛鳥時代後期に華咲いたおおらかな文化のことを「白鳳文化(はくほうぶんか)」と呼ぶ。
果たして、この時代における古墳の造営は、ここ「吉備国」(きびのくに)でも同様であったのだろうか。この地方国は、6世紀頃までかなりの勢威を誇ったと見える。大和政権との関係は、支配される地方政権として大和の統一政権に取り込まれるまでのある時期までは、もっと拮抗する間での政治的連合の相手方であったのだろうか。
因みに、古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀早早も含む)である。
さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は前方後円墳といい、これは中国にも朝鮮(現在の韓国)にも原型の類例がほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのであって、独自の背景を以ていたのは異なるのではないか。
中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。
それはともあれ、これまでの我が国での発掘なりでは、最初の時期の前方後円墳と見なされているのは、奈良の纒向(まきむく)遺跡の中にある、箸墓古墳(はしはかこふん)などであるが、これには前史があると見られている。かかる原形は、吉備(現在の倉敷市)の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)にあるのではないか、というのだ。
それというのも、まきむく型前方後円墳の特徴は、後円部に比べ前方部が短く、ほぼ2対1になっているとのこと。一方、楯築の場合は円丘部分の前後に突起がついていて、片方をはずすと、まきむく型と似通った形になろう。
このような推測から、穿った考えによると、ヤマトの政権が樹立されるまでの「倭」という国は、吉備国をふくめての、いわば連合政権であったのではないかと。さらに空想を逞しくすると、北九州にあった勢力がヤマトへと勢力を伸ばしていくことや、かの連合政権としての邪馬台国がどこにあったか、という問いにも発展してくるあのではないか。
いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。
吉備地方の古墳についても、最も早い段階でのものから、比較的早いともの、さらに時が経ってのものがあろう。これらのうち、初期のものは、2世紀後半から3世紀前半、「楯築墳丘墓」(現在倉敷市)や、「県指定史跡宮山墳墓群」というのが、その時代の墳墓の体裁なのではないかといわれるが、築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。
前者は、畿内の前方後円墳墓の先駆けと目されでいる。また後者は、「県指定史跡宮山墳墓群」として、1964年(昭和39年)に指定を受ける。およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて造立された墳墓が中心だ。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで構成される。東端に位置する墳丘墓の大きさは、直径が23メートル、高さが3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形とある。
次にくるのが、、前方後円墳の中では、初期に属していよう。具体的には、3世紀の後半から4世紀の前半位までの間の造営と目されるのが、さしあたっての大きなものでは、次の5つ位であろうか。
その1としては、浦間茶臼山古墳(うらまちゃうすやまこふん)といいい、全長が140メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市浦間の吉井川下流域。その2としては、綱浜茶臼山古墳(あみのはまちゃうすやまこふん)といいい、全長が90メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市赤坂南新町の旭川下流域。
その3としては、中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)といいい、全長が120メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市吉備津尾上の笹ケ瀬川流域。
その4としては、美和山胴塚古墳(みわやまどうづかこふん)といいい、全長が80メートルの前方後円墳墓にして、その場所は津山市二宮の吉井川上流域。
参考までに、こちらの美和山古墳群は、1977年に、指定面積約3万2千平方メートルの範囲て国指定史跡となっている。美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群だ。北から1号墳(胴塚)(前方後円墳、全長80m)、2号墳(円墳、蛇塚、直径34m)、3号墳(円墳、耳塚、直径37m)と、60年度の確認調査で発見された6号墳(円墳、直径16m)の4基の古墳で構成される。
ここでの特徴としては、1、2及び3号墳とも、墳丘斜面を直径30センチ程の葺石で覆われる、そして円筒埴輪や器財型埴輪が並べられていたというものの、埋葬施設などはいずれも未発掘で分かっていない、つまり、国により発掘が禁止されているので、その中心部からの情報は当面期待できないという。ついては、これらは、当時この地域で勢力をもっていた豪族の墓なのか、それ以上の何かであるのか、それらにまつわることは、わからない構造となっている。
その5としては、植月寺山古墳(うえつきてらやまこふん)といいい、全長が90メートルの前方後円墳墓にして、その場所は勝田郡勝央町植月東の滝川流域。
これらのうち、特に、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
それにしても、この弥生時代がどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。
さらに、吉備の古墳が、後期の造立に入ってきた時期に移ろう。こちらも、河川との濃い関わりがあるのではないだろうか。それというのも、西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。
すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。
一体、事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはなるまい。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となる。
果たして、5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。
6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。
(続く)
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