◻️45の1の2『岡山の今昔』幕末の諸藩(岡山新田藩・鴨方藩、生坂藩、足守藩、庭瀬藩、岡田藩、勝山藩、浅尾藩そして新見藩)

2020-02-29 21:41:17 | Weblog
45の1の2『岡山の今昔』幕末の諸藩(岡山新田藩・鴨方藩、生坂藩、足守藩、庭瀬藩、岡田藩、勝山藩、浅尾藩そして新見藩)

 思い起こせば、1672年(寛文12年)、池田光政は家督を綱政に譲って隠居するが、妾腹(しょうふく)の二男・(池田政言(いけだまさこと)を備中岡山新田藩(現在の倉敷市と笠岡市との間、概ね浅口市)の2万千5石にて、それから三男の池田輝録(いけだてるとし)を備中生坂藩(いくさかはん)の1万5千石にて、それぞれを支藩扱いとする。
 まずは前者の備中岡山新田藩だが、幕末にいたり、藩主の池田政詮(いけだまさのり)が、本家の岡山藩を勤王の方向に持っていくのに働いたことにより、岡山藩の大勢と結びついて遂に宗家(そうけ)を嗣(つ)ぐことになる。そのため、後を継いだのが彼の息子の池田政保(いけだまさやす)であり、それまでの岡山新田藩を鴨方藩に改称し、同藩最後の藩主として明治維新を迎える。
 もう一つの生坂藩は、江戸時代を通して岡山藩の城下に居住していた藩のため、独立藩の態をなしていなかった。蔵米は岡山藩から支給の形をとり、財政運営も本藩のあづかるところであり、したがって政庁というものは必要とならない。そういうことから、幕末の激動期においては、生坂藩は宗藩にならい、新政府軍として会津などへ従軍していく。
 また、高松城の跡にほど近く本拠をおくのが、木下氏の足守藩(あしもりはん)であり、2万5千石である。こちらの藩は、幕末期に、当初は模様眺めであったが、鳥羽伏見の戦いで官軍が勝利すると、岡山藩に恭順を申し出る。踏ん切りがついての早速というか、最後の藩主となる木下利恭(きのしたとしもと)が京都に出向く。豊国神社の造営や北越戦争などに参加する。利恭の嗣子たる木下利玄(きのしたりげん)は、明治になつては、白樺派の歌人としてその名を馳せる。

 庭瀬藩(にわせはん)は、こちらは、岡山市街の西部に屋敷があった。石高は2万石であり、備中松山藩、板倉家の分家にあたる。そしての幕末期、最後の藩主となる板倉勝弘(いたくらかつひろ)は、福島藩からの養子だ。とはいうものの、備中松山藩とは異なる道を歩む。これまた、鳥羽伏見の戦い後、早期に岡山藩の勧告に従う。官軍に加わって、幕府方と戦う。その中でも、江戸では彰義隊(しようぎたい)に奪われ、しかも18名の藩士がそちらに加わるなどの混乱をきたしたという。

 さらに、岡田藩というのは、備中(びっちゅう)国(岡山県)下道(しもみち)郡岡田に陣屋を置く小藩だ。藩祖の伊東長実(ながざね)は、織田、豊臣氏に仕えた後の江戸時代の初期、大坂の陣の後には、備中国下道郡10か村(高7500石余)、美濃(みの)国(岐阜県)池田郡2か村、摂津国(大阪府)の豊島(てしま)郡1か村、河内(かわち)国(大阪府)の高安(たかやす)郡2か村、都合1万3000石余を与えられる。
 以来、以来10代にわたって在封して明治維新に至るまで、国替えなく過ごす。

 それから、勝山藩(かつやまはん)は、美作国勝山周辺を所領とする、2万3千石の譜代藩だ。江戸時代初期の大老土井利勝の甥にあたる、三浦正次を祖とする三浦家が治める。こちらの代々は、真島郡新庄村の鉄鉱山経営を奨励し、藩の貴重な財源とする。
 そして迎えた幕末にあっては、9代藩主三浦弘次は、佐幕派として第一次、第二次長州征伐に参加する。10代藩主三浦顕次勤皇派であったため、藩論を勤皇にまとめて佐幕派と距離を置いている。
 さらに、1867年(慶応3年)には、勝山藩へ岡山藩からの談合書が届き、朝命を遵守することの確認であり、いうなれば、それまで「佐幕」の立場にあった勝山藩を牽制するものであった。そこで藩論が固められ、用人の伊東多門が岡山へ向かう。かくして、勝山藩兵は津山進攻の2隊を派遣、美作香々美を目指すも、既に現地津山は城を岡山藩兵に囲まれ、同藩は帰順を誓約するに至っており、帰藩することができたという。
 
 もう一つ、西北部を領域とする新見藩は、1万8千石にして、美作にあった森家の流れをくむ関氏が居を構える。こちらの幕末期のあり方だが、最後の藩主である関長克(せきながかつ)の代、岡山藩に従う。そして、官軍に加わり、幕府方の備中松山藩を攻める。けれども、同藩との間には「攻守同盟」があったことから、これを苦にした隊長の丸川義三は、相手方の城、備中松山城を接収した後、官軍への申し開きのためであろうか、責任をとって自刃する。こうして生き延びた形の同藩は、江戸においては、小田原藩邸の接収と管理を命じられる。
 なお、ここに取り上げた、各藩の幕末期の動静についてより詳しくは、例えば、伊東他による「三百藩、戊辰戦争辞典、下」新人物往来社、2000がある。

(続く)

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◻️6『岡山の今昔』倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)

2020-02-27 22:42:54 | Weblog

6『岡山の今昔』倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)

 弥生時代の終了年代については、前方後円墳が日本列島の各地で築造されるようになってからと考えて差し支えないだろう。そしてこの列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。ただし、例えば畿内にある箸墓古墳など古墳時代初期の古墳については、3世紀中葉から後半等々に至るまで諸説紛々、説が割れている。被葬者が誰(卑弥呼か、その跡を継いだ台与(とよ)か、はたまた後続の男王)かが明らかでなく、そのゆえに築造年代が特定できない状態が続いている。
 このうち6世紀は、仏教伝来(528年とも552年とも)に始まる「飛鳥時代(あすかじだい)」の前期に区分けされ、奈良盆地の飛鳥を中心に「倭国」の都が建設され、整備されつつあった頃のことだ。ちなみに、特に645年(大化元年)の「大化の改新」から710年(和銅3年)の平城(奈良)京遷都までの飛鳥時代後期に華咲いたおおらかな文化のことを「白鳳文化(はくほうぶんか)」と呼ぶ。
 果たして、この時代における古墳の造営は、ここ「吉備国」(きびのくに)でも同様であったのだろうか。この地方国は、6世紀頃までかなりの勢威を誇ったと見える。大和政権との関係は、支配される地方政権として大和の統一政権に取り込まれるまでのある時期までは、もっと拮抗する間での政治的連合の相手方であったのだろうか。

 因みに、古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀早早も含む)である。
 さて、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は前方後円墳といい、これは中国にも朝鮮(現在の韓国)にも原型の類例がほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのであって、独自の背景を以ていたのは異なるのではないか。

 中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。

 それはともあれ、これまでの我が国での発掘なりでは、最初の時期の前方後円墳と見なされているのは、奈良の纒向(まきむく)遺跡の中にある、箸墓古墳(はしはかこふん)などであるが、これには前史があると見られている。かかる原形は、吉備(現在の倉敷市)の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)にあるのではないか、というのだ。

 それというのも、まきむく型前方後円墳の特徴は、後円部に比べ前方部が短く、ほぼ2対1になっているとのこと。一方、楯築の場合は円丘部分の前後に突起がついていて、片方をはずすと、まきむく型と似通った形になろう。

 このような推測から、穿った考えによると、ヤマトの政権が樹立されるまでの「倭」という国は、吉備国をふくめての、いわば連合政権であったのではないかと。さらに空想を逞しくすると、北九州にあった勢力がヤマトへと勢力を伸ばしていくことや、かの連合政権としての邪馬台国がどこにあったか、という問いにも発展してくるあのではないか。

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。
 吉備地方の古墳についても、最も早い段階でのものから、比較的早いともの、さらに時が経ってのものがあろう。これらのうち、初期のものは、2世紀後半から3世紀前半、「楯築墳丘墓」(現在倉敷市)や、「県指定史跡宮山墳墓群」というのが、その時代の墳墓の体裁なのではないかといわれるが、築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。

 前者は、畿内の前方後円墳墓の先駆けと目されでいる。また後者は、「県指定史跡宮山墳墓群」として、1964年(昭和39年)に指定を受ける。およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて造立された墳墓が中心だ。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで構成される。東端に位置する墳丘墓の大きさは、直径が23メートル、高さが3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形とある。

 次にくるのが、、
前方後円墳の中では、初期に属していよう。具体的には、3世紀の後半から4世紀の前半位までの間の造営と目されるのが、さしあたっての大きなものでは、次の5つ位であろうか。 
 その1としては、浦間茶臼山古墳(うらまちゃうすやまこふん)といいい、全長が140メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市浦間の吉井川下流域。その2としては、綱浜茶臼山古墳(あみのはまちゃうすやまこふん)といいい、全長が90メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市赤坂南新町の旭川下流域。
 その3としては、中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)といいい、全長が120メートルの前方後円墳墓にして、その場所は岡山市吉備津尾上の笹ケ瀬川流域。 
 その4としては、美和山胴塚古墳(みわやまどうづかこふん)といいい、全長が80メートルの前方後円墳墓にして、その場所は津山市二宮の吉井川上流域。

 参考までに、こちらの美和山古墳群は、1977年に、指定面積約3万2千平方メートルの範囲て国指定史跡となっている。美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群だ。北から1号墳(胴塚)(前方後円墳、全長80m)、2号墳(円墳、蛇塚、直径34m)、3号墳(円墳、耳塚、直径37m)と、60年度の確認調査で発見された6号墳(円墳、直径16m)の4基の古墳で構成される。
  ここでの特徴としては、1、2及び3号墳とも、墳丘斜面を直径30センチ程の葺石で覆われる、そして円筒埴輪や器財型埴輪が並べられていたというものの、埋葬施設などはいずれも未発掘で分かっていない、つまり、国により発掘が禁止されているので、その中心部からの情報は当面期待できないという。ついては、これらは、当時この地域で勢力をもっていた豪族の墓なのか、それ以上の何かであるのか、それらにまつわることは、わからない構造となっている。

 その5としては、植月寺山古墳(うえつきてらやまこふん)といいい、全長が90メートルの前方後円墳墓にして、その場所は勝田郡勝央町植月東の滝川流域。


 これらのうち、特に、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それにしても、この弥生時代がどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。

 さらに、吉備の古墳が、後期の造立に入ってきた時期に移ろう。こちらも、河川との濃い関わりがあるのではないだろうか。それというのも、西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。
 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。


 一体、事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはなるまい。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となる。
 果たして、5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。

(続く)

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◻️192の3の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、牧野権六郎)

2020-02-27 19:22:14 | Weblog
192の3の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、牧野権六郎)

 牧野権六郎(まきのごんろくろう、1819~1869)は、幕末から明治維新にかけての武士だ。父は、岡山藩士の薄田長兵衛(すすきだちようべい)、母はサヨという。石高は、400石というから、中堅クラスであろうか。三男であり、14歳で同家格の岡山藩士牧野威武の養子となる、大目付、国事周旋方などを務める。その間に、尊王攘夷思想に傾斜していく。
 1849年(嘉永2年)から翌年にかけてには、家督を相続する。1855年(安政2年)からは、貝太鼓奉行江戸留守居役を務める。この役だが、藩軍の参謀長格にして、破格の出世というべきか。
 1862年(文久2年)には、岡山藩の支藩の鴨方藩主池田政詮(いけだまさあき)が、藩主の池田慶政(いけだよしまさ)の名代として京都に行くことになり、その政詮に従って上洛する。京都では、公武合体運動を進める。
 その翌年の慶政隠退に際しては、藩主池田慶政の養子に、尊王攘夷派の巨頭徳川斉昭の九男忠矩(後の茂政(もちまさ))を迎えるために、奔走する。そのかいあってか、茂政が、岡山藩主に迎えられる。その後の牧野だが、側御用取次として補佐する。1866年(慶応2年)には、国事周旋御用となる。
 その翌年には、家老の日置帯刀と、貝太鼓奉行の牧田が再度上洛する。そして、後藤象二郎、辻維岳などに続いて、岡山藩の目論見である、大政奉還の実現を図る。主には、「老中板倉伊賀守へ暴政改革七ケ条を進言して、幕府専制の廃止・朝意尊重・皇道の確立・皇国一体の強兵などを主張」(谷口澄夫「岡山藩」、児玉幸多、北島正元編「物語藩史」6、1965、人物往来社)する。
 
 そして迎えた1867年(慶応3年)、将軍徳川慶喜が京都二条城にて上洛中の諸藩重臣に対し大政奉還の諮問を行うのだが、その際には、岡山藩を代表してこれに列席し、土佐藩の後藤象二郎らとともに大政奉還を進言する。
 その後、主君茂政(慶喜の弟)に隠居を勧める。藩論を勤王で統一するのに精力的に動く。その働きようは、「獅子奮迅」とも伝わる。長州征伐には、家老の伊木忠澄の下、藩を巻き込ませないために動く。
 明治新政府になると、参与・徴士として召し出される。しかし、病により辞職して岡山に戻る。藩参政となるものの、1868年(明治元年)、茂政が退き政詮(章政)が藩主になってほどなく、年来の体の無理が影響してのことであろうか、健康を回復させることなく、病没する。

(続く)

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◻️192の4の20『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、田淵まさ代)

2020-02-26 09:23:31 | Weblog

192の4の20『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、田淵まさ代)

 田淵まさ代(たぶちまさよ、1885~1976)は、日本の近代看護の黎明期に活躍した看護婦だ。
 久米北条郡戸脇村(現在の久米郡久米南町か)の、旧家に生まれる。父は郷三で村会議員、母は鶴代という。
 6歳で地元の秀実小学校(4年制)に入学する。1900年(明治33年)には、そこの高等科を卒業する。それからは、竹内文の始めた私立津山女学校に入り、色々と学ぶ。特に、英語を学んだのは後への糧となる。
 1904年(明治37年)には、日赤岡山支部に推され、委託学生として日本赤十字社本社の看護養成所に進む。というのも、この年、日露戦争が勃発し、「女ながらもお国のためにつくしたい」と志願したらしい。
 1921年(大正10年)には、英国ロンドンで開催された第2回国際公衆衛生看護講習会に参加する。その前年の1920年(大正9年)には、赤十字社連盟第一回総会で、各国は、その事業の1つに公衆衛生看護婦養成を入れると決議する。
 第1回は期日の切迫の為派遣は見送られていた。その反省もあったのだろうか、第2回講習会には、田淵が選ばれる。そうなったのには、女学校時代から英語力を養っていたのが大きい。
 帰国後の彼女は、講習会での学習とヨーロッパ各地の施設で見聞した看護事情を報告書にまとめる。なかでも英語教育の必要性に関する提言を行う。こちらは、内地留学制度導入の契機となる。その制度で何人もの国際的に活躍した看護婦が生まれていく。
 また、救護看護婦や社会看護婦の養成に従事する。1923年(大正12年)には、パリで事故に遭った北白川宮妃の看護に選ばれ、現地に派遣される。その期間は、約1年であったとか。またシベリア派遣救護班の婦長としても活躍する。

 1937年(昭和12年)には、ナイチンゲール記章が授与される。1937年(昭和14年)には、日赤の看護婦副監督になる。
 1945年(昭和20年)をもって、日赤本社病院(東京)を引退する。看護婦監督に就任して直ぐの依頼退職そにより、岡山へ帰る。

 それからは、末弟の孟を養子に迎え、津山の生まれた家の隣に自分の家を建て、落ち着く。
 1960年(昭和35年)に津山中央高等看護学院が開院すろと、1年あまりは学生寮の舎監を務める。それからは、余生を大方恙無く過ごしたという。

(続く)

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◻️211の9『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、渡辺元一と高橋慈本)

2020-02-25 21:02:59 | Weblog

211の9『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、渡辺元一と高橋慈本)


 渡辺元一(わたなべもとかず、1867~1924)は、医師にして、社会福祉事業に取り組む。笠岡の生まれ。1888年(明治19年)に、岡山県立医学校を卒業し、笠岡で開業する。1894年(明治27年)に、笠岡町議会が治療費を払えない町民の救済を決議し、施療院をつくると、渡辺は請われて診察と治療にあたる。
 40代には、小田郡医師会長の要職にありながら、笠岡市北川の、真言宗明王院副住職を務める高橋慈本(1879~1945)に、新たな救済事業の話をもちかけ、理解を得たようだ。
 1914年(大正3年)には、その企画により、施療院・悲眼院が開院する。走出薬師の大師堂を診察室、薬局に、そして離れ座敷を病室にし、無料での治療が始まる。
オーナー格の高橋慈本と渡辺元一院長が定めた院是には、こうある。
「一、治療は医術と信仰の併進を基調とする。二、不浄の寄付勧募はなさず、浄財の寄付金のみを受くる。三、患者よりは人格上の意味において任意の寄付金は受くるも、その他は徴収せず。四、関係者は病院によって生活せざること。」
 初めは眼科だけ、その後に内科(1920)、外科、産科と拡大、医師も患者も増えた。その産科にては、1924年からは助産婦が妊婦の自宅を巡回するのと合わせて、出産の介助も手掛ける。
 渡辺の日課は午前四時起床してから、写経を行う。それからは、夜に至るまで、ほぼ休みなく働く。時間があけば読書したという。
 米騒動や戦争、不況などで貧乏が大きな社会問題だった時代に「公共慈善ヲ以テ唯一ノ楽シミトスル」、日本流にいうと「赤髭先生」にして、穏やかな笑顔をもって事にあたったと伝わる。
 盟友の高橋ともどもに、その人生観はあくまでも温かく、行いは偉大だ。
 
 
(続く)

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○239『自然と人間の歴史・日本篇』種痘の伝来(1848~49)

2020-02-23 20:48:30 | Weblog
239『自然と人間の歴史・日本篇』種痘の伝来(1848~49)

 1820年(文政3年)には、中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳す。「遁花秘訣」は、わが国最初の牛痘書だ。
 
 ここに「牛痘」のそもそもとは、イギリスの医者ジェンナーが、乳搾りの主婦達の間に自然流行の天然痘が少ないことに着目し、開発する。乳牛の乳房の「おでき」・「かさぶた」の膿汁(うみじる)、すなわち、牛痘液を「痘苗」として利用するものだ。これを人に植え付けることで、免疫を獲得させる治療法のことであり、「牛痘法」という。
 これを載せての彼の論文の発表は、1796年であった。果たして、この手法は、ドイツでも試みられ、やがて、画期的な療法として認められていく、それからは、世界各地へ伝えられていく。ちなみに、英語の「vaccine(「ワクチン」)は、「牛痘液」に由来する「痘苗」を言い、ラテン語の「vacca」(牝牛)がその語源なのだという。
 アジアでは、1805年には、中国まで牛痘法の材料となる「痘苗」も到達しており、ルソン(フィリピン・ルソン島)経由でマカオ(中国南部・澳門)にまで届けられたという。

 およそこのような背景の下、1823年(文政6年)には、オランダ人シーボルトが来日する。彼は、牛痘苗を持参し、日本人に接種するも、成功しない。1830年(天保元年)には、大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行う。
 1848年(嘉永元年)、オランダ商館医モーニケは、その長崎赴任の際、痘苗としての牛痘を持参するも、種痘は失敗する。同年には、佐賀藩主の鍋島直正が、同藩医師の楢林宗建に対し牛痘を持ち帰るよう命じる。
 1849年(嘉永2年)には、その楢林が、良好な痘痂(とうか、牛痘を宿したかさぶた)がモーニケのもとにバタヴィアからの輸入で届いたという情報を受ける。なお、船の長崎への到着日は、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)が有力視される(アン・ジャネッタ著、廣川和花、木曽明子訳「種痘伝来」岩波書店、2013、英文は2007」)。
 さっそく、自分の息子を伴って長崎の商館に赴く。そして、モーニケに彼への接種をしてもらう(こちらの日付けは、3日後の8月14日が有力視される、同著)。この接種が「善感」といって、その息子のみに発疹が現れ、接種に成功したことで持ち帰られ、佐賀藩内での普及に繋がっていく。
 それからは、京都・大坂などを中心にして、短期間のうちに各地に広まる。これには、蘭学医のネットワークがものをいう。同年には、緒方洪庵らが、大阪に除痘館を開設する。同年11月には、かかる牛痘が、佐賀藩より江戸にいる、藩医の伊東玄朴らのところに到着する。

(続く)

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◻️177の1『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

2020-02-22 22:16:44 | Weblog

177の1『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

 宇田川玄随(うだがわげんずい、1755~1797)は、津山藩医、宇田川道紀の長男に生まれる。その家というのは、元々武蔵野国の出身であった。
 大人となっては、代々の漢方医を継ぐ。宝暦年間(1751~1764)に津山藩医を務める。

 しかし、桂川甫周(かつらがわほしゅう)や前野良沢(まえのりようたく)に西洋医学を学ぶうち、蘭方医に転じる。
 そんな中でも、オランダ語の習得が必要であったからとて、いわゆる横文字との格闘が伝わる。


 1792年(寛政4年)に同藩内で、解剖を行う。また、「西説内科撰要(せいせつないかせんよう)」を著わし、西洋内科を初めて体系的に日本に紹介する。

 なお、本人は、その刊行途中での死なのであって、万感迫るものがあったのではなかろうか、養子の宇田川玄真が遺志を引き継ぐ。
 珍しいところでは、その顔、表情が文字としても伝わっていて、大槻玄沢は「・・・色白く一体小づくり也、笑たまう時癖あり口伝」と評定している、また一説によると、「東海夫人」との渾名があるほどだ。

 

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 宇田川玄随の養子に宇田川玄真(うだがわげんしん、1770~1834)がいる。そもそもは、伊勢の安岡家の生まれだ。その家は、「農家にて士族の家を継ぐこと能わず」(息子の宇田川準一の手記より)とある。

 やがて、江戸に出る。そして、蘭学を学ぶ。さぞかし、昼に夜にと、勉強に勤しんだのであろうか。


 その後、杉田玄白の養子となるも、後に離縁となり、さらに玄髄の養子にいたったのだという。先ほどの引用の続きには、因て稲村三伯の弟分として宇田川家へ入籍したり」(息子の宇田川準一の手記より)とある。

 親族や門人、それに官医の桂川甫周及び大槻玄沢らが合議して、これを認めたという。 


 そんな数奇な歩みの彼なのだが、学問の才に頭角を現していく。オランダ語などの語学に優れた。「遠西医範」(30巻)をものにし、またその要約本の「医範提要」(3巻、1805)、及びその付図としての「内象銅版画」を著わす。なお、「医範提要」は、解剖、生理及び病理学をわかり易くまとめたものだ。

 玄真の業績としてはそればかりでなく、時代の要請があったようなのだ。語学の才をかわれたのであろうか、幕府の命で天文方の高橋景保(たかはしかげやす、伊能忠敬の師匠)に協力し、「阿蘭陀書籍和解御用」を務める。その翻訳の力は、「蘭学中期の立役者」の名があるように、当世の中でも群を抜く程の評判であったと伝わる。

(続く)

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◻️192の4の19『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇田川準一)

2020-02-21 22:13:44 | Weblog

192の4の19『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇田川準一)

 宇田川準一(うだがわ じゅんいち、1848年~1913年)は、幕末・明治・大正時代の物理化学者だ。父は、幕末に活躍した洋学者宇田川興斎であって、準一は長男である。
 興斎が1863年(文久3年)に津山への引っ越しを命じられたことから、準一と津山に行って、暮らす。
 およそは、学業に励んで暮らす。坪井信良らに学ぶ。1873年(明治6年)には、東京師範学校の教師になる。その後には、群馬師範学校の教頭となる。1890年(明治23年)には、陸軍省の陸地測量部に勤める。その専門知識を買われてのことだと考えられる。

 教職のかたわら、訳書の執筆も多く手がける。代表的なのが「物理全志」(1876)だろう。これは、欧米の二人の著作の英語版を準一が基として翻訳、編集したものだという。その体裁としては、巻の1~10までの物理現象を割り振りしている。
 巻の1の「総論・物体・物性・力学の基礎事項」から巻9の「液体電池・電気器械・電磁現象」までは、今日の物理学の教義項目てもお馴染みのものだろう。そして巻の10には、「太陽系を主とした天文学」とあって、今日でいうところの天文学の入門を意図しているようだ。

(続く)

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◻️192の4の18『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、平沼淑郎と平沼騏一郎

2020-02-21 10:25:48 | Weblog
192の4の18『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、平沼淑郎と平沼騏一郎

 平沼淑郎 (ひらぬまよしろう、1864~1938)は、法学者にして教育家だ。津山藩士、平沼普(ひらぬますすむ)の長男にして、津山の生まれ。その時の家禄としては、50石扶持という。1871年(明治5年)には、東京に出る。幕藩時代の藩主松平康倫(まつだいらやすみち)が、徳川家達(とくがわいえさと)の後見役となって東京に出ることになる。
 すると、これを機会に、晋の一家は東京に移る。一家が落ち着いた浜町の藩邸内には、おりよくというか、宇田川興斎がいたことから、平沼家の淑郎とその弟の騏一郎(きいちろう)とは、彼の塾に入り、漢学を教えてもらう。そればかりか、これまた同郷出身の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)が「洋行帰り」となって、当地において三叉学舎(さんさがくしゃ)を開くと、この二人は早速入門する、学んだのは英語、漢学、算数などであった。

  こうした中の(明治17年)には、東京大学文学部政治学理財学科を卒業する。 西周(にしあまね)の塾にも学ぶ。同じ1884年(明治17年)には、丸山作楽の忠愛社に入り、「明治日報」記者となる。1886年(明治19年)教育界に転じ、二高教授、市立大阪高商校長などを務める。

 1904年(明治37年)には、早稲田大学へ移る。1911年(明治44年)には、商学部教授、1918年(大正7年)には、同大維持員理事学長、1923年(大正12年)には、商学部長などを務める。1931年(昭和5年)には、社会経済史学会の創立に参画する。
 学者としての人生には、本人も満足したのではなかろうか、著書には、「近世商業史」「近世寺院門前町の研究」がある。 
 それに絡めるに、幼少の頃を振り返っての「鶴峯漫談」には、こうある。いわく、「祖母は常に「偉い人になれよ」ということを口癖にいった。この祖母をして、かくの如く奨励激励の精神を抱かせたのは、藩中の風潮と先輩の偉績とが与って力あったと申してよかろうと思う。(中略)箕作氏や宇田川氏の感化で、大抵の人はエービーシーくらいは口しょうしていた。私もその数にもれなかった。」


 次の、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう、1867~1952)は、政治家だ。津山藩士の平沼晋の子にして、兄は淑郎。1888年(明治22年)に、東京帝国大学法科大学を卒業する。大逆事件のとき検事を務める。
この事件ては、一審のみで多くの死刑を出す、郷土の森近運平も処刑される。彼も時の施政者側の歯車にて、情け容赦はなかったようだ。のち検事総長、それに大審院長を務める。そしての1923年(大正12年)の第2次山本権兵衛内閣の時には、法相を務める。同じ1923年(大正12年)に勃発の虎ノ門事件に衝撃をうけたという。
 1924年(大正13年)からは、国家主義団体国本社(こくほんしゃ)の結成に加わる。その後の立身出世にも怠りなく、1925年(大正14年)には、枢密院副議長となる。そしては、政治家としても、頭角を現していく。台湾銀行の救済に動く。海軍軍縮問題では、政府を追及するのに加わる。
 この頃、自分も軍国主義の流れに乗ろうということであろうか、1936年(昭和11年)になると、国本社会長を辞任して枢密院議長となる。1939年(昭和14年)には、第一次近衛内閣の総辞職に伴い、内閣総理大臣となり、組閣するも、独ソ不可侵条約の締結を機に総辞職する。その後も政界引退とはならなかったようで、第2・3次近衛文麿内閣の国務相を務める。
 日本の敗戦では、戦犯とされ、そのことを経て、生涯を閉じるのであった。
 その代表的な言葉に、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」(独ソ不可侵条約締結に際して)があるというのだが、さしもの秀才も、この頃には今がよく見えなくなってきていたのではなかろうか。

(続く)

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54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

2020-02-18 22:50:45 | Weblog

54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

 ほぼ同時期の岡山、とりわけ美作ではどうであったのか。こちらの農民を主体とする一揆の主な原因は、徴兵や土地の地券作成から学校や公共施設の建設など、農民を中心に度重なるさまざまな負担(税や賦役など)が課せられたことにある。

 因みに、ここに「血税」というのは、兵役の義務との関わりでそう呼ばれるに至る。1872年(明治5年)、太政官告諭の「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり」によるという。

 この血税一揆は、1873年(明治6年)5月25日、西西条郡貞永村(にしにしじょうぐんてえじむら、現在の苫田郡鏡野町)から起った。

 この一揆は、農民たちの明治政府への日頃の不満に火がついた格好で、2、3日のうちに美作全域に広がっていった。津山市街地においては、禄を失った旧津山藩士104人も、かれらの要求を携えて一揆に参加した。この「美作血税一揆」の参加者の数は、全体で2万人を超えていた。
 その地理的な拡がりを物語るのものに、1975年(昭和50年)に郷土の史家(井汲清と安藤靖雄)によって「明治6年北条県血税一揆略図」がある。これによると、まさしく燎原の火の如く広がった一揆だったことが読み取れる。
 この一揆の目標は、北条県当局に突き出された形であったが、その多くは県庁の権限では及ばないものが多かった。主な要求項目としては、10項目があった。
 「一、五ヶ年間、年貢米を免除すること。
一、断髪令を廃止して従前通りとすること。
一、屠牛を止めさすこと。
一、田畑へ桑、草木の植付を止めさすこと。
一、地券作成の費用は政府でもつこと。
一、耕地絵図面の費用も右に同じ。
一、徴兵制度を廃止すること。
一、「」は従前通りとすること。
一、課税金も従前通りにもどすこと。」
 とりわけ西部の一揆勢は、5月27日には津山市の西寺町の愛染寺に到達したし、東部の一揆勢は30日、川辺から兼田橋(旧)を渡った。そこから出雲街道沿いを、津山城下の西の玄関口として城西(じょうさい)地区のうねうね、かくかくした狭い通りを見据えつつ、津山市街に入ろうとしていた。明治政府の方からは、大阪鎮台から政府軍が出兵して、大砲や鉄砲で一揆を鎮圧しようとした。双方の武力の差は歴然としており、明けて6月2日には、さしもの激しい一揆も武力で鎮圧された。
 この事件で処罰された者の数は、美作ではそれまでにない大規模なものだった。死刑に書せられた者15人、牢につながれた者28人、むちたたきにされた者553人、罰金刑になった者は2万6千余人に及ぶ。なお、士族の参加者については、記録にありながら、その責任は問われなかった。
 これらのうち罰金については、つぎのように説明されている。
 「罰金は参加者全員に、一人あたり2円25銭でした。この金額は米一石のねだんです。当時の百姓の日当(賃金)が米一升の時代でしたから、百日分の日当は農民にとってそれはそれは大変な大金でした。 金策に困りはて、田畑を抵当に入れて高利貸から借金する者など、貧しい農民のくらしをさらに苦しめました。集めた罰金は6万5千円、いまのお金にすれば十数億円という莫大なものでした。」(美作の歴史を知る会編「おかいこさまと自由民権」みまさかの歴史絵物語(9)、1993年3月刊)
 この北條県一帯の一揆には、勝北郡(しょうぼくぐん)からもかなりの人数が参加していた。而(しか)して、彼らは、新野東、新野西、山形、広戸からの一揆勢の大方は妙原(みょうばら)・津川原(つがわはら)方面へと進出した。一方、勝北郡への一揆勢の進出としては、梶並川周辺(勝田郡勝田町、勝田郡勝央町及び英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡間町)からのものと、吉野川周辺(英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡作東町及び英田郡大原町(現在は美作市))からのものと、大まかに二つの流れがあった。
 ここで梶並川とは、吉井川水系に属する吉野川の支流である。その源流は、鳥取県境の勝田郡勝田町右手峠(標高633メートル)辺りで、そこから南に30.8キロメートルを下って、英田郡美作町林野付近で吉野川に合流している。それでも、年を重ねるうち、新野西下の世帯数と村人は増加した。
 「東作誌」によると、江戸末期には「村高のうち新田191石余、毛付高444石(1石は0.18キロリットル)余、家数47・人数199、山林27か所で2町の運上金1匁(もんめ、現在1匁は3.75グラム)余、井堰は広戸川筋3、田柄川筋7、溜池3」であった。それが、1889年(明治24年)になると、「戸数63、人口は男168・女148」になった(角川書店『全国地名辞典』)。

 かかる「血税一揆(騒動)」に関して、当時の記録「美作騒擾記」の記述には、こうある。

 「群衆は、これ(捕らえた民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。

 それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。
    猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕へて、背に藁束(わらたば)を縛し、これに火を放ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり。」(「美作騒擾記)

 また、より身近に身をおいて、かかる騒動を垣間見ていた片山潜は、現在の久米郡久米南町にも一揆勢が及んでいたことを、次のように紹介している。

 「この暴動について記憶に残っていることを書いてみよう。家の真向かいにある高札場に農民の一群が現れたのは朝まだはやくであった。手に斧か鍬、竹槍をもち、ひじょうに不穏なようすであった。「ほかのものはどこだ?」と彼らはさけんだ。「みなもう弓削(ゆげ)に行った。」と曾祖父が大声でこたえた。農民たちはまたたくまに高札場を打ちこわし、武器をふり回し、どなりながら、私の家のそばを走っていった。明け方、すべての健康な男は村から姿を消した。子供と老人だけがのこった。近くの家でも一揆のものたちの食糧をつくっていた。しばらくすると、南の山の上が赤くなった。巨大な焔(はのお)が空にたちのぼった。ときどき、群衆の叫びがきこえた。「金持の鏡の家を焼いているのだ。」と村ではいっていた。(中略)
 一揆の要求は、新法令の撤廃、兵役義務の廃止、新暦の廃止、学校の閉鎖などであった。暴動に大きな役割を演じたのは、その年の凶作であった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 
 かくて、この一揆の参加者の総数は数万人と言われ、焼いた家は277戸、破壊した家は155戸、殺したのは20人という有り様であって、前代未聞の規模であった。

 元々、この一揆の性格については、なかなかにして捉えることが難しい、と言われてきた。それというのも、当時の農民たちは様々な抑圧の中におかれていた。ところが、その農民一揆のそもそもの旗印である要求項目の中には、驚いたことに、様々な抑圧からの解放ばかりでなく、封建制の残滓への執着、わけても民への敵愾心(てきがいしん)が見え隠れしているではないか。
 やがて一揆が広がるにつれて、明治政府による人民への差別と分断への反撃というよりは、被差別に対する集中攻撃など、立ち上がった民衆のエネルギーの一部が旧体制の温存志向となって噴出していったことにある。美作に生まれ、その生涯を解放に捧げた岡映(おかあきら)は、そんな一揆の傾向を次のようにまとめている。
 「(前略)だから、この一揆が起きたときに、やはり「エタが来る、エタが押し寄せて来る。先手を打とう。」というようなことはあり得ただろう。最初の和田村の襲撃などはそこからきていて、あとはもう、彼等自身がとどめようがなくなったくらい暴れ回った、といってもさしつかえないんじゃないか、ということを思うのであります。
 しかし、いずれにしても幕府のとった分断政策というものがこうして悲劇を残すに至ったということは、残念ながら、私ども美作の解放運動史、あるいは農民一揆史を考える場合、これを避けてとおるわけにはいかないんじゃないか、否、むしろそれにまともにぶつかるなかで、差別という思想がどこから出ているのかということを考えてみる必要がある。」(岡映「美作血税一揆から何を学ぶか」:美作問題研究会「美作血税一揆〈資料・研究〉上」1975より引用)

 かくも激しい騒動であったのだが、近隣の地域もほぼ同じ問題を抱えていたのであろうか、有名なところでは、1873年6月19日から23日にかけて伯耆国(ほうきのくに)会見(あいみ)郡の一揆においては、終身刑1人を含む約1万2000人が処罰される。
 また、同月27日から7月6日にかけて名東(みょうどう)県(讃岐国(さぬきのくに)、現在の香川県)、豊田(とよた)内の、三野(みの)、多度(たど)、那珂(なか)、阿野(あの)、鵜足(うたり)、香川7郡において農民による一揆が起き、死刑7人を含む約2万人が処罰されたと伝わる。

(続く)

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◻️176の8『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川興斎 )

2020-02-17 22:23:28 | Weblog

176の8『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川興斎 )

 宇田川興斎 (うだがわこうさい、1821~1887)は、蘭方医だ。美濃大垣(現在の岐阜県大垣市)の医者、飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の3男として生まれる。幼い頃から、坪井信道や宇田川榕庵(うだがわようあん)の塾に学ぶ。榕庵に気に入られ、1843年(天保14年)には、彼の養子になる。
 やがての1846年(弘化3年)、養父の榕庵が亡くなると、津山藩医をつぐ。それに加えてか、幕府の天文台和解御用に任命される。
 そしての1863年(文久3年)には、津山への引っ越しを命じられる。一家を挙げての転居にて、城北通りに住まいを与えられる。現在、その場所に、津山市が案内の看板を設けているところだ。
 津山藩医の箕作阮甫(みつくりげんぼ)や箕作秋坪(みつくりしゅうへい)らと共に、ペリー来航時やロシアと日露和親条約を結ぶときの交渉、それに文書翻訳などにあたる。
 1872年(明治5年)には、幕末から住んでいた津山より一家で東京に移る。聞けば、蛎殻町3丁目にあった旧藩主松平家の邸内に、ひとまず落ち着いた模様。
 語学の大家にして、訳書に「地震預防説」(1856、地震予防法)、「万宝新書」(1860、実用技術の百科辞典)などがあるほか、オランダで出版された「シカットカメル」といって、アムステルダムで出版されたフェルガーニの英語での文法書を訳出した「英吉利文典」も著す。

 仕事以外にも、漢文の大家である。また、書を能くしたり、和歌にも秀で、謡曲、囲碁にも楽しんだと言われ、当世での文化人としても名高い。

(続く)

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◻️188の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、難波経直)

2020-02-16 22:33:00 | Weblog
188の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、難波経直)

 難波経直(なんばつねなお、1818~1884)は、漢方医にして、蘭法医でもある。備前の金川(現在の岡山市金川)の生まれ。父は、医家、難波包節であり、幼い時から医学に親しんだのは、想像にたがうまい。
 折しも、ゆるゆると幕末へと向かう世相に臨み、やがては、自らを医学へと律する心構えが備わっていったのではないか、内科については吉益北州に学ぶ。また、産科は賀川蘭斎に、外科は元祖が華岡青州の外科塾にと、ここまでは父親の包節とほぼ同じながら、漢学にも諸家に学んだというから、英才教育の類いであろうか。
 したがって、かれが医者となって帰郷した1846年(弘化2年)、それから家業に勤しむようになっての難波医院は、当時の各科の全般に渡り診察、治療を行う習わしであったのだろうが、それだけに多忙な毎日を送っていたのではあるまいか。見通しの効かないことには、やはり伝染病や緊急の外科手術への対応であったろうか。
 例えば、父、抱節が大坂の緒方洪庵から牛痘苗を譲り受け、備前地方に種痘を広めた、経直も、その仕事に従事したのであろう。
 二つめには、外科手術に用いる麻酔についての、当時に日本最先端の知識と技術を兼ね備えていたと評される。類い稀な精密さで記されているのは、様々な成分のものを調合し、用いて手術を行うこと。

 しかして、これを服用すると、「やや速いものは半時(一時間)もすぎないで麻倒し、最も速い者は、飲みほすとすぐに手痺を覚え、言語が思うようにならない」(中山沃「備前蘭学の開祖児玉順蔵と漢蘭折衷医難波包節」日本医史学雑誌第38巻第1号、1992に所収)という。
 したがって、「そしてこの薬を服用して一時(今の二時後)手術をすべきである」(同)旨の説明をしている、そうすることにより、「此の薬を服用し麻倒せざる者千百人中或いは一、二有り、其の人皆強忍し、能く其の痛苦に耐ふ」(こちらは原文書き下し文での引用)ということになっている。


(続く)

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◻️188の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、児玉順蔵)

2020-02-16 10:11:53 | Weblog

188の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、児玉順蔵)

 児玉順蔵(こだまじゅんぞう、1805~1861)は、医師だ。備前岡山の生まれにして、岡山藩家老伊木氏の侍医、児玉泰順が父親だ。幼い頃から、医学に興味を抱いたようだ。
 17歳の時、家人にも話なくして、脱藩する。シーボルトに学ぼうと、長崎に行く。頼み込んだのがうまくいき、彼の主宰する鳴滝塾に入る。在学中、託された旅費を使い込んで出奔もあったようだが、詫びがうまかったのだろうか、許してもらう。これには、シーボルトに、彼が俊英で将来を期待されたことが、効いたのではないか。
 一応の修行が済んでは、脱藩も許されたことから、岡山に帰って開業する。やがて、岡山藩家老の侍医となる。
 晩年は大坂に行く。その辺りの事情については、例えば、こう語られる。
 「順蔵は備前藩の陪臣であり、藩当局は彼の蘭学の才能を活用しなかったため悶々の日々を蘭書の翻訳、少数の門弟に蘭学を教えることで過ごし、自らを慰めていたのであろう。嘉永5年(1852)12月(51歳)には長病のため御番方を免ぜられ、御医者末席に格下げされた。その上、藩士夏井嘉吉にとついでいた一人娘ヒサは精神病のため離縁となり、一女センを伴って順蔵のもとに帰っていた。このような事が重なり、蘭書翻訳に専念するためのほか、娘の治療のため、主家伊木家を辞し、大坂に転居することを決意したものであろう。」(中山沃「備前蘭学の開祖児玉順蔵と漢蘭折衷医難波包節」日本医史学雑誌第38巻第1号、1992に所収)

 その大坂では、緒方洪庵(おがたこうあん)と親交をもつ。励ましを受け、面目を新たに、相変わらずの貧乏の中でも、著述に取り組んだと聞く。訳書に「玉海擥要(らんよう)」「公氏病学淵源(えんげん)」、「公氏病学各論」などがある。「玉海擥要」(刊行は第1巻と第2巻)については、洪庵の序文にして、最大級の賛辞が寄せられている。

(続く)

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◻️211の26『岡山の今昔』岡山人(19世紀、生田安宅)

2020-02-15 21:39:53 | Weblog

211の26『岡山の今昔』岡山人(19世紀、生田安宅)

 生田安宅(いくたあたか、1840~1902)は、黎明期の岡山の医学全体を代表する一人だ。岡山藩のお抱え医師の家の生まれ。京都時習堂にて蘭学を、岡山で難波経直(包節の子)から産科を学ぶ。1868年(明治元年)に、藩に出仕し、藩主の池田章政に従い東京に出向いたおり、東京医学校でイギリス医学に触れたらしい。その後、岡山で、開業する。
 1870年(明治3年)年の春には、岡山藩医学館が岡山市門田(現在の東山公園あたりか)に開設された。これは、藩主時代の池田章政(この時藩知事)の構想が実ったものだともいう。明治政府の方針の下、外国人教師を迎え、岡山で初めて近代医学としての西洋医学教育が始まる。

 約六十人の若い藩医と藩医の子弟たちが入学する。かれらは、寄宿生活をしながら、解剖、薬剤、病理、内科、外科、眼科、産科など十一学科の講義を受けたというから、すごい。生田はこの時、「二等教頭」となっていた。忘れてならないのは、この施設が、内科に外科の治療に加え、「入院も受け、往診を行い、診察代金を稼いで懸命に病院を維持」(「岡山藩医学館・岡山医科大学~知られざる先駆者たち」、「いちょう並木」第50号に所収)していたことだ。
 1872年(明治5年)には、医学所とその名前が変わる。そして迎えた1873年(明治6年)11月には、岡山県病院が成り、1875年(明治8年)、生田はそれの初代院長となる。続いての1880年(明治13年)には、かかる医学の学舎は、岡山県医学校に編入され、さらに1922年(大正11年)には岡山医科大学へと、おおいなる医学の夢を繋いでいく、そんな黎明期の岡山医学の中心に生田はいた。

(続く)

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♦️72の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣は欲望とともに、その初期の形態

2020-02-14 20:09:20 | Weblog

72の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』貨幣は欲望とともに、その初期の形態

 貨幣とは何であろうかという場合、経済学がまず出てきて、あれこれと世話をやく。そのさしあたっての無難な説明とは、同じ古代ギリシャの「万能天才」、アリストテレス(BC384~BC322)に、こんな言葉がある。
 「貨幣は、人と人との違いを越えて共同関係を可能にする。交易されるものを比較して、その差を量として測ることもできる。」(アリストテレス「二コマノス倫理学」)
 「貨幣による財獲得から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能なかぎり最大化しようとするからだ。」(アリストテレス「政治学」)
 くわえるに、貨幣がフルに使われるようになるのは、世界にそれなりに経済活動が広がってからだというのだ。それでは、次いでの問いとして、その発生、つまり起源はいつのことであったのだろうか。

 こちらについては、考古学の領域なのだろうか。現時点での通説によると、貨幣のうち硬貨(コイン)の始まりは、前述のアリストテレスと同じく、紀元前7世紀のギリシャが覇権を唱えていた頃、小アジアのリュディアという国に遡るのだという(小野塚知二「資本主義、際限なき欲望の解放が人類の感性を曇らせた」、雑誌「エコノミスト」2018年8月21日号に所収)。

 ここにリュディアというのは、紀元前612年にアッシリア帝国滅亡した後の4国分立時代に、その一つとして小アジア(現在のトルコ西部)にあって繁栄を築く。この王国は、イオニア地方に隣接していた。そのことで、ギリシャとの交易があったようだ。国王・クロイソスの時代には、莫大な富を得ていたとされ、当時の通貨体制は金を本位とし、金と銀との合金としての硬貨が流通していた、そのおかげで交易による財を成していたのではないか。

 またギリシャについては、紀元前6世紀頃の銀貨を皮切りに、国家が市民の役務提供に対して支払うのがあり、それがさまざまな取引へ広がっていく。やがて、貿易上の決済にも、貨幣が用いられていく。
 それというのも、時の指導者ペリクレスの「また我々のポリスは大国であるが、ゆえに、全地上から万物が輸入されており、我々にとっては他国の産物よりも自国に生じた作物を収穫して味わうこ方が身近だということは全然なくなっている」(トゥキディデス「歴史」2・38)との言葉にあるように、特に、都市国家アテネは強く貿易に依存していた。
 こうした海上貿易の発展、そしてデロス同盟の貢租納入などに用いられる、代表的なアテナイの銀貨の一つには、片面に女神アテナ、反対側に、アテナイを象徴するフクロウとアテナイの最初の三文字が刻印されてある(紀元前5~2世紀)。
 その一方では、両替や預金・預託といった銀行業が起こり、商取引の拡大に寄与していたのが窺える。
 いわく、「すべての銀行家が行っていることですが、だれかある人が現金を預けてそれをほかの者に支払うよう指示したときには、まずはじめに預金者の名前とその金額を記入し、つぎに「何某に支払うべし」と書き加えます。支払われるべき人物の顔を知っている場合には、それだけを行って、自分たちが支払うべき人物の名前を記入しますが、もし知らない場合には、預金を受け取るべき人物を指し示して紹介するであろう人の名を書き添えます。」(「デモステネスレ第52番・4」、高畠純夫・齋藤貴弘・竹内一博「図説古代ギリシアの暮らし」河出書房新社、2018での邦訳より引用)

  また、その後の古代ローマの時代、彼らはギリシャの貨幣の伝統を引き継ぐ。次いで、その帝政の幕を開いた初代皇帝アウグストゥスが定めた貨幣改革では、金・銀・銅の三通貨間には、1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨 という、金・銀・銅の三通貨の関連性が持たされる。

 その基本となるのは、銀貨なり金貨であったという。紀元前211年以降のデナリウス(デナリ)銀貨=10アスであったものが、その後この銀貨は徐々に重量が減らされるようになり、紀元前141年頃にデナリウス銀貨=16アスの単位に改められる。紀元前141年以降はというと、デナリウス銀貨=16アスと、引き続き貨幣の価値低下が進む。

 紀元前83年のスッラ(スラ)による改革では、アウレウス金貨が初めて発行される。さらに、ユリウス・カエサルは、ガリア戦争(紀元前58-51年)でガリア人から奪った金で盛んにアウレウス金貨の発行を行う。
 アウグストゥスが帝政を開く紀元前1世紀には、ほぼストップしていた青銅貨の発行が再開される。例えば、ネロ帝下(在位は紀元54-68年)て流通していた青銅貨幣のデザインは、かなり凝っていた。

 写真入りの解説によると、「ローマの近くのテヴェレ川河口に建設されたオスティア港の開通を記念した」(クリス・スカー著、吉村忠典監訳、矢羽野薫訳「ローマ帝国ー地図で読む世界史」河出書房新社、1995)もので、「波止場に囲まれた港を展望しており、多数の船が停泊している。正面で横たわっているのはテヴェレ川の河神」(同)ということで、大変興味深い。

 これらに伴ってか、例えば、アウレアス青銅貨は銅だけでつくられ、共和政期に銀でつくられていたセステルティウスは真鍮でつくられるようになる。この帝政期・初期のアウレウス金貨=25デナリウスとなる。このように、つごう400年以上に渡り、デナリウス銀貨を主要としたコイン制度は保たれるのだが、その硬貨に含まれる銀の含有量は時代と共に下落している。

(続く)

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