♦️290『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(リスト)

2018-05-03 23:22:06 | Weblog

290『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(リスト)

 フランツ・リスト(1811~1886)は、ハンガリーのライディングという村に生まれる。父は、貴族身分のエステルハージ侯爵の土地管理人を務めていた。その父の趣味は楽器を演奏することであったという。
 そんな父が、息子のリストが6歳の時、試しにピアノを教える。すると、リストが類稀な才能の持ち主であることがわかったという。8歳になる前のリストは、はやステージに立って演奏するのであった。そして迎えた1820年11月、リストがプレスブルクの演奏会に出場すると、貴族たちは大歓声でその労をねぎらい、年額600グルデンの奨学金を与える話になる。
 やがて、リストはウィーンに出ていく。ピアノの名手カルル・ツェルニーについて勉強する。1822年12月、腕に研きをかけたリストがウィーンで最初のピアノ演奏会を開くと、結果は大成功であった。12歳にして、檜舞台で拍手喝さいを浴びたのだ。さらに、リストの一家はバリへと移り、そこでもピアノの名手としての名声を得ていく。とはいえ、1827年に最大の後見役であった父が亡くなると、苦難の3年があったという。
 1830年7月になると、社会革命の砲声に促されるかのように、リストは音楽活動に邁進する。その後は、この分野で名だたる一人になっていく。当時のヨーロッパを股に掛け、ピアノ演奏会には聴衆がつめかけ、熱狂でムンムンの状況があったというから、驚きだ。この間、作曲も大いに手掛けるようになり、自身の音楽に幅をもたせていく。
 例えば、1847年にリストが発表したハンガリー狂詩曲は、テレキ伯爵に捧げられている。民族の雰囲気を真っ直ぐに伝える。巧みな鞭(むち)さばきで、かつての砂漠を駆け回る牧人たち。ハンリアン・ジプシーや農民たちの歌っていた歌が耳にあったのであろうか。幼い日をハンガリーの草原で過ごした思い出が、蘇っていたのであろうか。
 1849年には、ワイマールにいて、「慰め」を作曲する。1862~63年には、「三つの演奏会用練習曲」を作曲する。こちらは、「森のささやき」と「こびとの踊り」の二部から成っており、親しみやすい曲調だ。
 そんな彼には、義理堅い、人情に通じるところがあったらしい。例えば、1838年、故郷の国のブタペストのうち、低地のペストは大洪水に見舞われた。これを知ったリストは、多額の支援金を援助する。洪水の翌年に祖国を見舞ったリストは大歓迎をうけるのであった。
 他にもある。作曲や後進の指導などにも精出していく。音楽というものを、都会や貴族ばかりでなく、田舎や庶民にも普及させようと、色々と試みる。その中には、「交響詩」といって、曲想の説明を織り込んだ曲づくりを行う。これは、大衆を強く意識して音楽活動を行うものであり、現代音楽への流れをつくりだしていく先駆的な試みだといえよう。

(続く)

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♦️313『自然と人間の歴史・世界篇』歴史学の方法(マルクスの手紙)

2018-05-03 21:51:00 | Weblog

313『自然と人間の歴史・世界篇』歴史学の方法(マルクスの手紙)

 マルクスは、その手紙の中で、価値をめぐる法則がどのように理解されるかを、丁寧に説明している。
 「価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についも、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っていると言えます。
 どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。
 社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。
 歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。」(大月書店版「マルクス・エンゲルス全集」第32巻454~455ページ)
 この中で言われる、「それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ」ということでは、それらの労働配分をどのように行うのかが肝要となるだろう。そして、その全体を市場の動きを借りて行うのか、目的意識的に市場以外の要素を可能なかぎり取り込みながら行うのかが考えられる。
 マルクスは、資本主義の次に来る社会での労働配分のあり方については、特段のことは何も語らなかったし、まとまった文章としては残さなかったのではないか。あるいは、新たな社会の運営の一環としての労働配分のあり方について何か腹案を持っていたのかも知れないが、今となってはそのことを知るすべが見あたらないのだが。

(続く)

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♦️312『自然と人間の歴史・世界篇』歴史学の方法(マルクスの到達点)

2018-05-03 21:47:34 | Weblog

312『自然と人間の歴史・世界篇』歴史学の方法(マルクスの到達点)

 一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
 大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
 フリードリヒ・エンゲルスとわたくしは、経済学的諸カテゴリーを批判したかれの天才的小論が(『独仏年誌』に)あらわれて以来、たえず手紙で思想の交換をつづけてきたが、かれは別の途をとおって(かれの『イギリスにおける労働者階級の状態』を参照)わたくしと同じ結論に到達していた。そして一八四五年の春、かれもまたブリュッセルに落着いたとき、われわれは、ドイツ哲学の観念論的見解に対立するわれわれの反対意見を共同でしあげること、実際にはわれわれ以前の哲学的意識を清算することを決心したのであった。
 この計画はヘーゲル以後の哲学の批判という形で遂行された。二冊の厚い八つ折版の原稿をヴェストファーレンの出版所に送り届けてからだいぶんあとで、われわれは、情勢がかわったので出版できかねるとの報せをうけとった。われわれはすでに自分にはっきりさせるというおもな目的をたっしていたので、それだけに気前よくその原稿をねずみどもがかじって批判するのにまかせたのであった。その当時、あれこれの面からわれわれの見解を公衆に示したばらばらの著作のうちで、わたしはここにエンゲルスとわたくしとの共著である『共産党宣言』と、わたくしが発表した『自由貿易論』とだけをあげるにとどめよう。
 われわれの見解の決定的な諸論点は、論争の形式でではあるが、一八四七年に出版され、プルードンにたいしてむけられたわたくしの著書『哲学の貧困』のなかで、はじめて科学的に示された。「賃労働」についてドイツ語で書かれた一論文「賃労働と資本」は、わたくしがこの問題についてブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講演をまとめたものであったが、その印刷は、二月革命と、その結果わたくしがベルギーからむりやりに退去させられたこととにより中断した。
 一八四八年と一八四九年の「新ライン新聞」の発行と、その後におこったさまざまの出来事とのために、わたくしの経済学の研究は中断させられ、ようやく一八五〇年になってロンドンでふたたびとりかかることができた。大英博物館に堆積されている経済学の歴史についての厖大(ぼうだい)な資料、ブルジョア社会の観察にとってロンドンがもつ有利な位置、最後に、カリフォルニアやオーストラリアの金の発見とともにブルジョア社会が到達したようにみえた新たな発展段階、これらのためにわたくしは、すっかりはじめからやりなおし、新しい資料によって批判的に仕事をしとげようという決心をかためた。このような研究のあるものは、しぜんと、一見まったく関係のないような諸学科に手をつけさせ、わたくしはその勉強に多かれ少かれ時間をついやさなければならなかった。
 だがとりわけ、わたくしの自由になる時間は、生計の資をえるというやむをえない必要のためにけずられた。一流の英米新聞である「ニューヨーク・トリビューン」への、これまで八年にもなるわたくしの寄稿は、本格的な新聞通信を、ただ余分な仕事としてやるわけだから、わたくしの研究をはなはだしく分裂させずにはおかなかった。けれどもイギリスや大陸での顕著な経済上の出来事についての論説が、わたくしの寄稿のかなり重要な部分を占めていたので、わたくしは本来の経済学の学問的領域外にある実際上の詳細にも精通しないわけにはいかないことになった。
 経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。
 「ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ。」(ダンテ『神曲』より)
一八五九年一月、ロンドンにて、カール・マルクス」(マルクス著、武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳『経済学批判』岩波文庫、1956に収録されている「序文」の前文を引用)
 これの前半部分に含まれる、「わたくしにとってあきらかになり、そしてひとたびこれをえてからはわたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる」との言い回しだが、これを自然科学と同じような一義的な意味でのものとして、先験的に成り立つ社会法則として受け取るのは、正しくないと考えられる。というのも、社会科学においては、通常自然科学のような実験を行うことができない。
 その代わりに、現実の世界を観察(いわゆる帰納法による)することで獲得した諸仮説を、再び現実に当てはめた場合に、当該の事象とその背景それらの関連性の説明がきちんとできるかどうかで、その説明の有効性がどうであるかを測るべきなのではないか。また、その際の前半部分において現実にはまったく対応関係を持たないような世界を想定して、例えば経済研究において全知全能の経済人から出発するなど、そこからいかに精緻な政策的帰結を導き出したとしても、その命題は現実的適応性ないし妥当性をもつということにはならないのではないか。
 したがって、もしここにマルクスの手で書かれている方法論を、いつでもどこでも成り立つものとして主張することがマルクス主義の立場だというのであれば、何よりも、マルクス自身が「わたしはマルクス主義者ではない」と述べていたのに思いいたる。

(続く)

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♦️311『自然と人間の歴史・世界篇』経済学の方法(マルクスの模索)

2018-05-03 21:45:47 | Weblog

311『自然と人間の歴史・世界篇』経済学の方法(マルクスの模索)

 マルクスが40代そこそこの時に発表した本の「序文」に、こんな文章がある。
 「わたくしはブルジョア経済の体制をつぎの順序で考察する。すなわち、資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場。はじめの三項目では、わたくしは近代ブルジョア社会がわかれている三大階級の経済的生活諸条件を研究する。あとの三項目の連関は一見してあきらかである。資本をとりあつかう第一巻の第一部は、つぎの諸章からなる。(一)商品、(二)貨幣または単純流通、(三)資本一般。そのはじめの二章が本書の内容をなしている。すべての材料は独立論文のかたちでわたくしの手もとにあるが、それらは、出版するためにではなく、自分自身にはっきりさせるために、それぞれかなりの期間をおいて書きおろされたものである、そしてそれらを右の計画にしたがってまとまったものにしあげられるかどうかは、外部の諸事情によるであろう。
 ざっと書きおえた一般的序説を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみると、これから証明していこうとする結論を先廻りして述べるようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。これに反して、ここでわたくし自身の経済学研究の経過について二三のことを簡単に述べておくことは、おそらく当をえたことではなかろうかと思う。
 「わたくしの専攻学科は法律学であった。だがわたくしは、哲学と歴史とを研究するかたわら、副次的な学科としてそれをおさめたにすぎなかった。一八四二年から四三年のあいだに、「ライン新聞」の主筆として、わたくしは、いわゆる物質的な利害関係に口をださないわけにはいかなくなって、はじめて困惑を感じた。森林盗伐と土地所有の分割についてのライン州議会の討議、当時のライン州知事フォン・シャーペル氏がモーゼル農民の状態について「ライン新聞」にたいしておこした公の論争、最後に、自由貿易と保護関税とに関する議論、これらのものがわたくしの経済問題にたずさわる最初の動機となった。 他方では、当時は「さらに進もう」というさかんな意志が専門的知識よりいく倍も重きをなしていた時期であって、フランスの社会主義や共産主義の淡い哲学色をおびた反響が「ライン新聞」のなかでもきかれるようになっていた。わたくしはこの未熟な思想にたいして反対を表明した。だが同時にまた「アルゲマイネ・アウクスブルク新聞」とのある論争で、わたくしのこれまでの研究では、フランスのこれらの思潮の内容そのものについてなんらかの判断をくだす力のないことを率直にみとめた。
 そこでわたくしは、紙面の調子をやわらげれば「ライン新聞」にくだされた死刑の宣告をとりけしてもらえるものと信じていた同紙の経営者たちの幻想をむしろ進んでとらえて、公の舞台から書斎にしりぞいたのであった。
 わたくしをなやませた疑問を解決するために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であった。この仕事の序説は、一八四四年にパリで発行された『独仏年誌』にあらわれた。わたくしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって「ブルジョア社会」という名のもとに総括しているが、そういう諸関係にねざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学にもとめなければならない、ということであった。
 この経済学の研究をわたくしはパリではじめたが、ギゾー氏の追放命令によってブリュッセルにうつったので、そこでさらに研究をつづけた。わたくしにとってあきらかになり、そしてひとたびこれをえてからはわたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
 このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。

(続く)

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♦️366『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(コペンハーゲン解釈)

2018-05-03 21:20:24 | Weblog

366『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(コペンハーゲン解釈)

 物理学の歴史を紐解けば、その一つとしての量子力学の発展にまつわる、世に「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるものがある。その中心人物のニールス・ボーアは、こう述べている。
 「こうした困難を克服できるように、量子論の諸概念をもっと正確に定式化しようと追求することによって、以下の仮説(量子仮説)の提唱へと導かれることになった。
 (1)原子系は、状態のある特定の集まりすなわち「定常状態」をもち、その状態には一般にはとびとびの値をとるエネルギーのある系列が対応し、かつその状態固有の安定性を有している。この安定性は、原子のエネルギーのいかなる変化も、ある定常状態から他の定常状態への「遷移」によるものでなければならないということに表されている。
 (2)原子による輻射の放出と吸収の可能性は、その原子のエネルギー変化の可能性によって、次のように条件づけられている。すなわち、そのさい輻射の振動数(ν(ニュー))は、始状態と終状態のエネルギー差とhν=E1-E2という形式的関係によって結びつけられている。」(山本義隆「訳者序文」:山本義隆編訳「ニールス・ボーア論文集2、量子力学の誕生」岩波文庫、1999)
 彼はまた、学問上の恩義を忘れない人であって、こうもいう。
 「よく知られているように、プランクが、彼の根本的な発見へと導かれた熱輻射の問題についての巧妙な扱いの中で指針としたのは、ボルツマンによって最初に解明された熱力学の諸法則と多自由度の力学系が示す統計的規則性のあいだの密接な関係であった。
 プランクが、その仕事のなかでは、主として本質的に統計的な性格の考察にのみかかわり、(作用)量子の存在がどの程度、力学と電気力学の基礎からの離反を意味しているのかについて、断定的な結論を下すのをきわめて慎重に避けていたのにひきかえ、量子論に対するアインシュタインの独創的で偉大な貢献(1905)は、ほかでもない、光電効果のような物理現象がどのような直接的に個々の量子効果にもとづきうるのかを、確認したことにある。
 相対性理論の展開によって物理学の新しい基礎を据えたのと同じこの年に、アインシュタインは、最大の冒険的精神を発揮して、古典物理学全体の枠組みに収まりきらない原子性というまったく新しい特徴を探りあてたのである。」(山本義隆「訳者序文」:山本義隆編訳「ニールス・ボーア論文集1、因果性と相補性」岩波文庫、1999)
 もう一つ、ボーアは新たな物理学をつくる上での心構え、もしくは心づもりといったものであろうか。仕事を進めるの当たっては、多様な世界観をもつことの重要性、自らの論部の随所で表明している。例えば、こうある。
 「一般に私たちは、一個同一の対象を説明するために、単なる一通りの記述には収まらない多様な観点を必要とするという事実を受け入れる用意がなければならない。」(ボーア論文「作用量子と自然の記述」:「ナトゥールヴィッセンシャフテン」誌に所収のもの。出所は岩波文庫版「ボーア論文集」の中の「作用量子と自然の記述」、375ページ)

(続く)

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♦️270『自然人間の歴史・世界篇』ドイツの産業の発展

2018-05-03 21:00:22 | Weblog

270『自然人間の歴史・世界篇』ドイツの産業の発展

 プロイセンを中心にドイツの産業は、概して遅咲きであった。イギリスなど先進的な工業国がすでに達成した技術水準と生産内容・規模の段階の後塵を拝すのを余儀なくされる。彼らによる成果を、積極的に取り入れることで、追いかけていく。
 それにもかかわらず、ドイツの産業発展においては、独自のものが認められる。その一つが、株式会社という制度の導入であった。この動きが台頭してくるのは、1834年のプロイセンによる関税同盟の創設の頃であったろうか。1834年の鉄道事業法や1843年のプロイセン株式会社法が、この流れに加わる。とはいえ、それの政府による認可に当たっては、プロイセン政府を支配する最大勢力としてのユンカー(地主層)との利害調整が求められる。
 実際には、株式会社の一般化はしばしば「認可のための闘争」を経ながら進むのであるが、大量に勃興しつつあった資本家にとっては、自分たちの未来のためには避けて通れない道であったことだろう。
 ドイツにおけるその動きが劃期(かっき)をなすのは、一説には1870年6月の第一株式会社法においてであろうが、ドイツ経済史家の大野英二は、それよりもっと前からの動きの連なりをいう。
 「とはいえ、株式会社形成は、さしあたっては鉄道業・道路建設業・船舶業・保険業から、徐々に繊維工業・鉱山業・鉄鋼業などへ波及して、株式会社形態による資本の集中が大きくたちあらわれ、産業革命の展開のための有力な「こうかん」となりつつあったこともまた、みまごうべくもなく明白な事実である。とりわけ、最初の「創立熱狂の時代」といわれる1852~57年には6表にその一端が示されているように、多数の株式会社形成がみとめられる。」(大野英二「ドイツ資本主義論」、未来社、1962)
 そればかりではなく、次の大きな山がやってくるのであって、こうある。
 「(中略)まさしく「泡沫会社乱立時代」の名にふさわしい1871~73年には、一挙に多数の株式会社が形成され、その多くは、1873年を起点とする「大不況」のさなかに崩れ去り、併合という暴力的方法による資本の集中が急速に進展し、ここに独占形態による集中が大きく前景にあらわれてくる。」(同)
 世に言うところの「疾風怒濤の時代」とは、このことをいうのであろうか。
 
(続く)

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○○234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、浮世絵)

2018-05-03 08:38:48 | Weblog

234『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(浮世絵)

 浮世絵とは、何であろうか。第一の特色は、合作だということだろう。絵師がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、工程を重ねることで、初めて作品が出来上がる。
 その分業の始めから終わりまでは、商売人がいて、全体を取り仕切っていたという。それまでの絵の楽しみは、概して一般庶民にまでは届いていなかった。上流社会や当座の暮らしに困らない有閑階層の一部に収まっていた。それは、奈良時代からの日本文化の、いわば「限界」であり続けていた。
 それが、絵が版画に仕立てられることで、平たくいえばその商品としての量産が可能になる訳である。効果はそればかりではなく、そうなることで版画の一枚当たりの価格が下落するであろう。生活にあまり余裕のない庶民にも買うことのできる価格となるなら、需要がそれだけ高まり、庶民一般の欲求が高まる。
 江戸には、保栄堂(ほえいどう)や江崎屋、丸清それに蔦屋(つたや)といった「版元」がならび立ち、互いに作家、職人らを束ねて競い合う。そんな商売人の中で、忘れてはならぬのは、蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~97)の功績であろう。彼は、江戸吉原に生まれた。7歳の頃、商家の蔦屋に養子に出される。長じては、初め吉原大門外の五十間道に店を開き,地本問屋(じほんどいや)の鱗形屋(うろこがたや)から毎年発行している吉原のガイドブック(『吉原細見』(よしわらさいけん)の小売りを営んでいた。
 そのすがら、太田南畝、恋川春町、山東京伝らの作家や、北尾重政、勝川春章、喜多川歌麿らの浮世絵師たちと見知っていく。1774年(安永3年) 、初めて版元として浮世絵(北尾重政画の「一目千本花すまひ」を出版する。1783年には、日本橋通油(とおりあぶら)町に店を構える。
 時代は江戸中期になっていた。その時期は、時の老中の田沼意次の牽制にあやかってか、「田沼時代」と呼ばれる。それからは、喜多川歌麿や東洲斎写楽らを売り出すなど、ヒット作を飛ばしていった。浮世絵版画だけでなく、黄表紙や洒落本、狂歌絵本なども手掛けていく。間口の広い、出版業の走りだといえよう。須原屋市兵衛と並ぶ代表的な出版業者という意味を込めて、「蔦重」と通称される。
 ところが、田沼老中が失脚すると、松平定信が老中筆頭となり、倹約を奨励し出す。江戸市中の風俗の抑圧へと動く。1791(寛政3)年、作家の山東京伝がつかまる。世相を風刺することで風俗を乱していると咎められたのだ。山東、は手鎖の刑50日、重三郎は「身代」(財産)の半分を没収される。特段のことはやっていないのに、厳しい刑であった。
 それでも、重三郎の反骨精神は没するまで続いたといわれる。1796年(寛政8年)には、美人画に、「富本豊ひな」や「難波屋おきた」などの実名をすり込むことが禁止される。1799年(寛政12年)には、歌麿に関係深いところで、奉行所による錦絵の検閲強化で「美人大首絵」までが禁止されてしまう。最大級の被害者である歌麿は、その作品を半身像にしたり、三人像にしたりで、なんとか法の網をかいくぐっていくのであった。
 歌麿以降の浮世絵は、鳥井清長、東洲斎写楽(複数人かも)、葛飾北斎、宇田川豊国、安藤広重らに引き継がれ、後には世界の美術へ影響を及ぼすことにもなってゆくのだが。

(続く)

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