♦️596『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代の核兵器開発(中国)

2017-10-31 22:45:49 | Weblog

596『自然と人間の歴史・世界篇』1960年代の核兵器開発(中国)

 1964年10年16日、中国は東トルキスタンのロプノールの核実験場において、20キロトンの地表爆発型の実験を初めて行いました。それから1996年まで、この東トルキスタンのロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力22メガトン、広島原爆でいうと約1370発分の核爆発実験を行った、ともいわれています。こうした中国の核実験の実態は長い間、不明であるとされ、周辺の人々の被爆の実態があきらかにされだしたのは、やっと1990年代に入ってからです。
 中国ばかりではありません。核実験はそれを行う国の最高の軍事機密として、国民に極秘扱いとされてきました。ついては、周辺住民が被爆したといっても、彼らが被害者としてどう扱われてきたかについての具体的事柄については、いまなお厚いベールに閉ざされており、よほどのことがないかぎり、関係者はその重い口を開こうとしません。
 それでも、それらを探知した側の努力により、そこで真実がどんなであったか、最近いろいろと取り沙汰されるようになりました。その代表的な一つが、アメリカがこの核実験のあることを事前に探知していたという見方です。その確証は示されていませんが、どうやらそれを阻止しようと考えていたらしいのです。「オリバー・ストーンが語る、もうひとつのアメリカ史」という本の中に、次の一節があります。
 「1964年10月、世界情勢の二つの激変が矢継ぎ早に起こった。10月16日、フルシチョフ失脚のニュースに世界中があっと驚いた。彼の職務は二分され、レオニード・ブレジネフが党中央委員会第一書記に、アレクセイ・コスイギンが首相に昇格した。アメリカ政府にとって、このニュースは完全に寝耳に水だった。フルシチョフ追放の理由は、経済の停滞に加え、キューバへのミサイル配備という無謀な策とそれに続くミサイル撤去という失態など、外交政策の度重なる失敗だった。フルシチョフは、アメリカとの平和共存に執着しすぎたと批判された。また、中ソの関係回復の第一歩としてフルシチョフ排除を要求していた中国への譲歩という見方もある。
 モスクワから第一報が届いたまさにその日、中国がロブノール核実験場で核実験を行った。アメリカ政府はずいぶん前からこの核実験を予想していた。事実、ケネディは中国の核施設に共同で先制攻撃を仕掛けないかとソ連に数回打診し、ジョンソンも国防省から単独での攻撃を強く迫られていたのを聞き入れずに、共同攻撃をソ連に打診していたのである。核実験のわずか2週間前、ラスクは国民に注意を促した。だが、いくら注意を呼びかけようと、核爆発の威力が弱まるわけではない。専門家の予測では、爆発の規模は10から20キロトンと見られた。
 ジョンソンは、中国が「実戦で役立つ発射装置を備えた信頼性の高い武器を保有」できるようになるのは何年も先だろうと主張した。しかし、アメリカ政府関係者は、実験が成功したことで中国が威信を高め、東南アジアにおいていっそう強気の姿勢を取るようになることを恐れた。」(オリバー・ストーン&ピーター・カズニック著・熊谷玲美・小坂恵理・関根光宏・田沢恭子・桃井緑美子訳「オリバー・ストーンが語る、もうひとつのアメリカ史」早川書房、2013)
 ここから窺えるのは、核兵器使用の一切合切が、一握りの権力を持つ側に握られていることです。それは、核戦争になることの危険を孕んでいて、そうなればもはやとどまるところを知らない破壊の連鎖へと関係国を引きづり込んでいくことを、誰もが認めざるをえない。その場、その局面では、自分の、あるいは自分たちの運命が、偶然よるものか、それとも必然によるものか、いとも簡単に扱われてしまい、自分や自分たちの力ではどうにもできないものとして現れるのであり、政治的な絶望が人間の自由にとって代わる時であります。

(続く)

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♦️645の7自然と人間の歴史・世界篇』1970年のアメリカ多国籍企業の動態

2017-10-31 22:38:55 | Weblog

645の7自然と人間の歴史・世界篇』1970年のアメリカ多国籍企業の動態


 1970年のアメリカノ多国籍業の生態を見手おきましょう。
 「①アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ本国からの輸出額:295億ドル→過半数支配子会社向け輸出:130億ドル
②アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ本国からの輸出額:295億ドル→過半数支配子会社以外への輸出:165億ドル
③アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ以外の過半数支配子会社からの輸出額:433億ドル→アメリカ向け輸出額:102億ドル→親会社向け輸出→アメリカ本国の多国籍企業関連輸入額:163億ドルへと合流
④アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ以外の過半数支配子会社からの輸出額:433億ドル→アメリカ向け輸出額:102億ドル→親会社以外向け輸出額:21億ドル→アメリカ本国の多国籍企業関連輸入額:163億ドルへと合流
⑤アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ以外の過半数支配子会社からの輸出額:433億ドル→アメリカ以外への輸出:331億ドル→子会社向け輸出額:161億ドル
⑥アメリカ多国籍企業の全世界向け輸出額合計:728億ドル→アメリカ以外の過半数支配子会社からの輸出額:433億ドル→アメリカ以外への輸出:331億ドル→子会社以外向け輸出額:170億ドル
⑦子会社以外の外国企業からアメリカ親会社向け輸出額:61億ドル→アメリカ本国の多国籍企業関連輸入額:163億ドルへと合流」
(アメリカ多国籍企業関連輸出の構造(1970年)、
(出所・資料)U.S.Tariff Commission ,Implications of Multinational Firms for World Trade and Investment and for US Trade and Labor,Washington :U.S.Government Printing office,1973,p.272.
(引用)宮崎義一「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986年、宮崎氏の本では、これらの数字はわかりやすく図示されています。)

(続く)

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♦️189『自然と人間の歴史・世界篇』アダム・スミスの『諸国民の富』

2017-10-31 07:50:45 | Weblog

189『自然と人間の歴史・世界篇』アダム・スミスの『諸国民の富』

 アダム・スミスの『国富論』の目次は、第1篇が「労働の生産力の改善の原因とその生産物が国民のさまざまな階級のあいだに自然に分配される秩序について」、第2篇が「資本の性質、蓄積、用途について」、第3篇が「国によって富裕になる進路が異なること」、第4篇が「経済学の諸体系について」、そして第5篇が「主権者または国家の収入について」となっている。
 まずは、分業による利益について、こう述べる。
 「(ピンの製造工場では)あるものは針金をひきのばし、つぎのものはそれをまっすぐにし、3人目がこれを切り、4人目がそれをとがらせ、5人目は頭部をつけるために針金の先端をとぐ。頭部をつくるのにも2つか3つの別々の作業が必要で、それを取りつけるのも特別の仕事である。このようにして,ピンづくりという仕事は約18の作業に分割されている。わたしはこの種の小さい仕事場をみたことがある。そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、したがって,そのうちの何人かは、2つか3つの別の作業をかねていた。かれらはたいへん貧しくて、機械類も不十分にしか用意されていなかった。それでもかれらは1日に4万8千本以上のピンをつくることができた。もしかれら全員が別々に働き、あるいは、この仕事のための訓練をうけていなかったならば、1人あたり1日に20本のピンをつくることもできなかったであろう。」(アダム・スミス著・大河内一男監訳『国富論Ⅰ』中公文庫、1978)
 「農村の日雇労働者が来ている毛織物の上衣は、見た目には粗末であっても、非常に多数の職人の結合労働の生産物なのである。この質素な生産物でさえ、それを完成するためには、牧羊者、羊毛の選別工、梳毛工または擦毛工、染色工、あら梳き工、紡績工、縮絨工、仕上げ工、その他多くの人たちがすべてその技術を結合しなければならない。そればかりか、これらの職人のうちのある者から、しばしばその国の非常に遠隔な地方に住んでいる他の職人たちのところへ原料を輸送するのに、いったいどれほど多くの商人と運送人が従事しなければならないか。」(同)
 その彼は、この社会で絶えず変動する商品価格に内在して、その引き付け役を担っている自然価格という概念を考えた。
 「それゆえ、自然価格というのは、いわば中心価格であって、そこに向けて全ての商品の価格がたえずひきつけられるものなのである。さまざまな偶然の事情が、ときにはこれらの商品価格を中心価格以上に高く釣り上げておくこともあるし、またときにはいくらかその下に押し下げることもあるだろうが、このような静止とと持続の中心におちつくのを妨げる障害がなんであろうとも、これらの価格はたえずその中心に向かって動くのである。」(同)
また、市場には自由をということで、新興ブルジョアの利益を擁護する。
 「独占者たちは、市場をいつも供給不足にしておくことによって、すなわち有効需要を十分に満たさないことによって、自分たちの商品を自然価格よりずっと高く売り、彼らの利得を、それが賃金であれ利潤であれ、その自然率以上に大きく引き上げようとするのである。
 同業組合の排他的な特権や徒弟条例、その他特定の職業において、競争を少数の者に制限し、そうでなければそこに参加できる者を締めだすようなすべての法律は、程度の差は撮るが、右と同じ傾向を持っている。それらは一種の拡大された独占であって、しばしば数世代にわたって、いくつかの職業の全部門をつうじて、特定の商品の市場価格を自然価格以上に維持し、それらに用いられる労働の賃金と資本の利潤との双方を、自然率よりいくらか高く維持するのである。」(同)
さらに、市場では参加者に公正・公平な行動が求められるという。
 「わが商人たちや製造業者たちは、高い賃金が価格を引き上げる点で悪効果をもたらし、そのために自分たちの財貨の売行きが国の内外で減っている、と不平を鳴らしているが、しかもかれらは、高い利潤の悪効果については、黙して語らないのである。かれらは、自分たちの利益の有害な効果については沈黙を守り、ただ、他人の利得についてだけ不平をいうのである。」(同)
 「富、名誉および昇進をめざす競争のなかで、個人は可能なかぎり懸命に走り、すべての競争相手より勝るために、すべての神経と筋力を精一杯使っても良いのである。だが、もう彼が競争相手の誰かを押したり、投げ倒したりしたら、観察者の寛恕(かんじょ)は完全に尽きるだろう。それはフェアプレイの侵犯であり、誰も認めることができないことである。」(アダム・スミス著・高哲男訳『道徳感情論』講談社学術文庫、2013) 

(続く)

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♦️188『自然と人間の歴史・世界篇』重農主義

2017-10-31 07:48:16 | Weblog

188『自然と人間の歴史・世界篇』重農主義

 重農主義(じゅうのうしゅぎ、)というのは、当時の主要産業であった農業に依拠することで、重商主義に傾いた経済を立て直そうとした。まずもって、土地所有者の安全と自由が保障されなければならないとした上で、1760年代からのフランスで、「土地単一課税」の主張、「穀物取引の自由」や「土地囲い込みの自由」の推進などが取り組まれていく原動力の思想となっていく。
その提唱者であるフランソワ・ケネー(1694~1774)は、自身の考えを「フィジオクラシー(自然の統治)」と呼んだ。その彼は、「自由放任」(レツセ・フェール)を説いたのではない。彼の主著の『経済表』には、こうある。
 「主権者および国民は、土地こそ富の唯一の源泉であり、富を増加するのは農業であることを決して忘れるべきではない。なぜなら富の増加は人口の増加を保証するからである。人間と富が農業を繁栄させ、交易を拡張し、工業を活気づけ、そして富の増加を永続させる。」(ケネー著・平田清明・井上泰夫訳『経済表』岩波文庫、2013)
 つまり、彼は社会というものは、生産階級=農業、不生産階級=商工業、地主階級=地主、主権者の3階級で成り立っていると考えた。これらのうち農業が主要産業、農民が主要階級にほかならないと。
 「租税は、人間の賃金や諸財に課されないで、土地が生む純生産物に対して直接課税されること。もし、賃金や諸財に課されるならば、租税は徴税費を増加させ、商業を害し、国民の富の一部を年々破壊するであろう。」(同)
 「租税が破壊的なものではないこと。すなわち、国民の収入の総額に不釣り合いなものでないこと。租税の増加は国民の収入の増加に依拠すること。租税は土地の生む純生産物に対して直接課されること。そして生産物(農業以外の生産物)のうえに課されないこと。もし生産物に課されるならば、租税は徴税費を増加させ、商業を害するであろう。租税はまた、土地を耕作するフェルミエの前払から徴収されないこと。なぜなら王国において、
農地の前払は、国民の租税と収入の生産にとって大切に保存されるべき恒常的なものとみなされなければならないからである。さもなければ、租税は化して詐取(さしゅ)となり、衰退を起こして国家をただちに死滅させることになる。」(同)
 これにおいては、農業しか純生産物を生み出さない。純生産物は最終的には地主階級の収入となるのであるから、地主階級のみが納税者になりうる。当時の地主階級が特権にまかせて様々な課税逃れをしていたことに着目すると、国家による「土地単一課税」はかれらの特権を制限し、本来の農業生産に向かわせるための主張であった。
 彼は、また貿易政策のところで、こういう。
 「交易の完全な自由が維持されること。なぜなら、最も安全かつ最も厳格であり、国民と国家にとって最も利益をもたらすような国内交易と外国貿易の政策は、競争の自由が完全であることに存するからである。」(同)
 ここでは、穀物の自由な輸出を可能にさせ、穀物価格を「良価」まで引き上げる、そのことで農業を振興し、人びとの生活を豊かにし、国力を高めることを提唱している。なお、良価というのは、「商業上の自由競争と農業の経営資本の所有が絶対安全とがつねにある場合に、商業諸国民間に成立している価格」(同)で売買が行われている状態をいう。
 彼はまた、国を富ます立場から財政のあり方に言及し、赤字財政を批判している。
 「国家は借り入れを避けること。借り入れ金は財政上のラント(金利・定期的な支払いを指す)を形成し、とどまるところを知らない借金を国家に負担させる」(同)
 ここにあるのは、ただ単純に財政を削減すべきだというのではなくて、国の富を増大させるのに役立つ支出ならば、ある程度の借金は差し支えないと考えていた。
 「政府は節約に専念するよりも、王国の繁栄に必要な事業に専念すること。なぜなら、多大な支出も富の増加のためであれば、過度でなくなりうるからである。だが、浪費と単なる支出とは混同すべきではない。というのも、浪費は、国民や主権者の富をすべて貪りかねないからである。」(同)
 ケネーは、こうした自分の経済政策の根拠を、彼自身が作成した再生産表式の中に埋め込むことで、空理空論ではないことを明らかにしようとした。この表なのだが、年々歳々同一規模の経済が繰り返されていく単純再生産を扱っておりながら、こんな下りも用意されている。
 「いま仮に、地主が自分たちの土地を改良し、自分たちの収入を増加させるために、不生産階級よりも生産階級に対して、より多くを支出するならば、生産階級の労働に用いられる支出のこの増加分は、この階級の前払いの追加と見なされねばならないであろう。」 (同)
 これを踏まえると、ケネーは、地主の製造品と農産物への支出割合を変化させることで、拡大再生産へと拡張できる仕組みを採り入れているのであって、農業だけをキーワードとしていることでの不十分さは抱えているものの、人類の社会発展のメルクマールであるところの物質的再生産のメカニズムを歴史上初めて明らかにしてみせた。
 こうしたケネーたちの提案は、重農主義者で財務総監であったチュルゴーによって実行に移されていく。けれども、1776年の穀物の取引自由化は、運悪く不作で穀価価格が暴騰したことで、フランスの南部では暴動が発生し、改革はうまくいかない。そのまま、うまくいかないままに、やがて市民革命の時代へとつながっていく。
 
(続く)

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○23『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

2017-10-29 19:29:30 | Weblog

23『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

 縄文期の東日本の遺跡の多くでは、複雑な紋様の入った、独特の風貌の縄文式土器が沢山見つかっている。その中には、新潟県篠山遺跡(十日町)出土の深鉢形土器や国分寺出土の俵形甕(かめ)、それに亀ヶ岡式土器に代表されるような芸術的作品に近いものもある。それらは写実的なというよりも、情念の赴くままに隆起をつくったり(隆起紋)、穴やくぼみをこしらえたりで、まさに空想の所産と見え、どちらかといえば「爬虫類の脳」より前頭葉のなせる技であるとでもいっておきたい。
 とりわけ新潟の信濃川中流域(新潟県十日町市、津南町や長岡市などの信濃川沿い)出土のものは、なかなかに独特であるとされる。この遺跡からは、これを含む928点が出土しているそうで、中には煮炊きに使った材料の「おこげ」が付着しているものもあるとのこと。人々は火を使っていた。かれらは、土器に食材を水とともに放り込んで煮炊きすることにより、アクやエグさや苦み、さらには毒抜きをして食べることをしていたのであろうか。
 そんな縄文式土器の中での代表格が、十日町市篠山遺跡から出土したという深鉢型土器にして火焔型土器(国宝にして「縄文雪炎」の愛称で知られる、十日町市博物館所蔵)であって、約5000年前の縄文時代中期(紀元前3500~紀元前2500)の作陶と推定される。この縄文雪炎だが、高さは46.5センチ、最大径は43.8センチとなっていて、縄文人たちが日常生活に食事用として用いていたと理解してよろしいのか、どうなのだろうか。その写真を観ると、「縄文」の命名であるのに、「縄の目の跡はあまり強く残っていない。縄を押しつけてできた文様ですら、一部消した様子さえうかがえる」(雑誌『ノジュール』2017年9月号、JTBパブリッシング)とのこと。
 全体の造形としては、筒状の下の部分は平凡に感じられる。その上に、あれやこれやの、一種名状しがたい形をした上部が載っているのが、特徴的だ。まずは、突起が宙を目指すかのようにそそり立つ。四方にせり出した鶏頭冠(けいとうかん)状把起や、複雑に波打った縁に鋸状の突起がせり出している。それらの突起は規則正しい並び方はしてなく、得体の知れない何やらがうねりながら、それぞれが自己主張しているかの様。2番目の特徴は、縁取りがあることだ。それは、飾りたてられており、この縁に口をつけて中のものを飲み干すのには、苦労が伴うことだろう。この土器などは、さながら「俺はここんいるんだぞ」と何かを訴えているのであろうか。
 この列島には他にも多種な縄文土器が伝わっており、これらの写真をじっと眺めていると、縄文時代とは、私たちが普通に考えているような貧しく、厳しい日常かぎりであったのではなく、人々が感覚で感じる時間は比較的緩やかに流れていたことが覗える。生物学者の福岡伸一氏も、縄文時代の人々は、案外、ロマンに綾取られた豊かな精神世界に生きていたのではないかと推測しておられる。
 「しかし、時間がとうとうと流れていた縄文期にはー縄文時代は1万数千年も続いたー今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々ともつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのです。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があったのです。
 狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の我々ほど長時間、労働に身を捧げていたわけでもありません。縄文の民の実労働時間を正確に知ることはできませんが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2~3時間ほどの労働によって、集団は社会生活を営んでいるそうです。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていたのでしょうか。鼻を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは子どもと遊んだりして楽しく暮らしていたのではないでしょうか。」(福岡伸一「生命の逆襲」河出書房新社、2013より)
 とはいえ、当時の人々の暮らし向きは、現代とは様変わりの原始的生活に近いものであったろうし、寿命も一般には、精々30台くらいものでしかなかったのではないかと考えられる。この時期の日本列島人なるものは、本格的な農耕は行わないものの、単なる採取や狩猟の経済に留まらず、某かの食料栽培や家畜の飼育を行いつつ、それらにまつわり縄文式土器を多用するという、世界にほとんど類例のない「縄文文化」を築いていった。そのユニークさを評価しつつも、大局的に見た縄文人の生活の自由さとは、あくまでこの時代の限られた時空の中での一コマとして考えられるべきだと思う。

(続く)

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○○547『自然と人間の歴史・日本篇』対消費税引上げ論議に寄せて

2017-10-28 21:37:58 | Weblog

○547『自然と人間の歴史・日本篇』対消費税引上げ論議に寄せて

 いま2019年4月からの、消費税の8%から10%への引き上げ論議が盛んである。一見革新系とみられる学者にも、「消費税引上げやむなし」もしくは「積極引上げ」の声が少なからずみられるのは、驚きだ。
 ここでは、政府が均衡予算を組む場合、政府支出が民間所得を削って行われるときは、政府支出を増やすことで民間支出に負の影響を及ぼし、社会の有効需要は増えないのではないか、との意見を取り上げたい。
 1960年代、財政学者の林栄夫(はやしよしお)は、こう述べている。
 「伝統的理論は、均衡予算を所得水準や物価水準に対して中立的であると考えてきたが、こり考え方の背後には、課税は同額の有効需要を削減し、この税収入と同額が政府支出して有効需要化される、という観念がひそめられている。ところがケインズ財政論によれば、このような伝統的見解は明らかに利子率の変動を媒介として貯蓄と投資の均等を説く完全雇用前提の理論の上に立つものである。しかし有効需要の原理からすれば、租税はその一部を有効需要化されない貯蓄部分から賄われ、政府支出として有効需要化されると考えられる。あるいは、財貨サービスにたいする政府支出はそれ自身有効需要したがって国民所得の一部となるが、租税はそうではない、と説かれる。したがって租税でまかなわれる政府支出の場合でも、有効需要の純増加が生じ、その結果として乗数的所得創出効果を生じると言える。
 それは例えば、つぎのように証明される。財政がバランシングファクターとして機能する場合、政府支出増加(△G)の乗数的所得創出効果は、    
 【1/(1-a)】×△G:(4) 
によって示される。aは限界消費性向である。
 これにたいし租税収入増加の効果は、次のように考えられる。一般的にいうと、租税収入の増加(△T)はそれと同額の有効需要を削減することはない。第1次的に削減される有効需要は、もしその税の増徴なかりせば消費にあてられるはずの所得部分に相当する。すなわちa・△Tである。したがって租税収入の増加の乗数効果を示す一般の形は、
 ー【a/(1-a)】×△T:(5) 
である。したがって均衡予算は、政府支出の増加が同額の税収増加によってまかなわれる場合の予算としてとらえることができ、均衡予算の乗数効果は、(4)式と(5)式から、
 【1/(1-a)】×△Gー【a/(1-a)】×△T:(6) 
としてとらえられ、仮定により△T=△Gであるから
 【1-a/(1-a)】×△G=△G:(7) 
となる。すなわち均衡予算の場合には、政府支出増加額と同額の乗数効果、還元すれば政府支出1単位当たり1の所得創出効果があるということになるのである。」(林栄夫(はやしよしお)「財政論」筑摩書房、1968)
 まず、ここで(4)式の【1/(1-a)】×△Gはどのようにして導かれるのでしょうか。
 ここでは閉鎖経済(外国との関係を捨象)を想定し、貯蓄が国民所得に平均貯蓄性向(s)を乗じたものだといたしましょう。そうなると、
S=sY=I
Y=(1/s)I
 (参考)Y=【1/(1-a)】×I(一般の教科書では、むしろこちらの表現) 
 つまり新投資が決まると、需給が均衡に向かうように働き、Y=(1/s)Iが先ず決まります。そして、生産技術がいま短期分析で一定の場合でいうと、その生産技術に体化した雇用量が決まると考えるのです。
 ところで、この式のなかのsは、平均消費性向をaとすると(1-a)と置き換えられます。
Y=(1/s)I=(1/1-a)I
 そこでいま新投資需要Iが政府によって投入されると、その需要を満たすためにY=Iだけの産出高が生まれる。そうなると、aIだけの消費需要が派生し、それを満たすように同額の派生所得が生まれます。aIの所得からはaの2乗×Iだけの派生需要、そしてそれを満たすための新たな産出高が見込まれます。結局、Iだけの投資需要の追加は、
I+aI+aの2乗I+・・・・だけの需要と所得を生み出す理屈になります。
一般に、初項がa、公比がr(rの絶対値<1)の無限等比級数の合計Aは
A=a + ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +...+ ar^n-1 + ar^n + ..:①
ここで①式の左辺と右辺に r をかけます.
rA=ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +....+ ar^n + ar^n+1 + ...:②
その上で、①の両辺から②の両辺を差し引きます。②の方が最初の項aが多いだけなので次のように整理できます。
  A - rA = a: ③
 従って、次のとおりになります。
  A =a/1 - r:④
 これから、初項が1、公比がa(aの絶対値<1)の無限等比級数の合計Sは次の通りになります。
 S=1+a+a二乗+・・・・・+aのn-1乗=(1/1-a):⑤
 投資の持つ乗数効果の数学的説明には、つぎのようなアプローチもあります。
 Y=C+I+G: ⑥
ここでYとはGDP(国内総生産)、Cとは民間消費、Iとは民間投資、Gとは政府投資といたしましょう。
C=α+βY: ⑦
ここでCというのは一国の消費関数、α(アルファ)は基本消費、β(ベータ)は限界消費性向と呼ばれるもので、たとえていうとGDPが1万円増えれば消費支出はβ万円増えることになります。
0<β<1のことを限界消費性向といいます。
この2つの式からCを消去すると
Y=α+βY+I+G
この式を変形すると
Y-βY=α+I+G
(1-β)Y=α+I+G
したがって、Y=α/(1-β)+{【1/(1-β)】(I+G)}:⑧
この式で第2項に目を向けましょう。そこで1/(1-β)のことを乗数(m)といいます。この式で投資Iが10兆円増えるとGDPは10兆円×m万円だけ増えることになるでしょう。
 そこでいま、民間可処分所得が税金によって10兆円減ったといたしましょう。そのとき国民の貯蓄率(国民所得のうち貯蓄にまわす割合)が20%とすると、人々の消費需要は10兆円まるごとは減らず、10兆円×0.8=8兆円だけが減ることになるでしょう。
 したがって、その国の限界消費性向が0.8(80%)であるなら、政府が増税による収入増10兆円を財政支出に投じれば、それと同額である10兆円分の総需要の増加が見込まれることになり(上記の(7)式)、その場合には10兆円から8兆円を差し引いた2兆円分の総需要の増加が見込まれることになるでしょう。
 以上のことは、ケインスが(一般人の消費ではなく)投資こそが社会全体の所得向上の主要な手段であると考えていたことと一致しています。

(続く)

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♦️890『自然と人間の歴史・世界篇』アラブの大義とは(4国とカタール)

2017-10-26 22:52:10 | Weblog

890『自然と人間の歴史・世界篇』アラブの大義とは(4国とカタール)

 2017年6月、中東のカタールに対し、アラブの保守派の国から、関係修復の条件として、「恫喝」ともいうべき、過激な要求が課せられていることが明らかになった。なんと、カタールと同じイスラム教宗派スンニ派であるサウジアラビアやエジプトなどアラブの有力4カ国が、小国カタールに対し、かつてない程に厳しい要求を突きつけている、というのだ。
これをすっぱ抜いた英国のガーデイアン紙によれば、それには次の13項目が含まれるという。
“The 13 demands in full
1.Curb diplomatic ties with Iran and close its diplomatic missions there. Expel members of Iran’s Revolutionary Guards and cut off any joint military cooperation with Iran. Only trade and commerce with Iran that complies with US and international sanctions will be permitted.

2.Sever all ties to “terrorist organisations”, specifically the Muslim Brotherhood, Islamic State, al-Qaida and Lebanon’s Hezbollah. Formally declare those entities as terrorist groups.

3.Shut down al-Jazeera and its affiliate stations.

4.Shut down news outlets that Qatar funds, directly and indirectly, including Arabi21, Rassd, Al-Araby Al-Jadeed and Middle East Eye.

5.Immediately terminate the Turkish military presence in Qatar and end any joint military cooperation with Turkey inside Qatar.

6.Stop all means of funding for individuals, groups or organisations that have been designated as terrorists by Saudi Arabia, the UAE, Egypt, Bahrain, the US and other countries.

7.Hand over “terrorist figures” and wanted individuals from Saudi Arabia, the UAE, Egypt and Bahrain to their countries of origin. Freeze their assets, and provide any desired information about their residency, movements and finances.

8.End interference in sovereign countries’ internal affairs. Stop granting citizenship to wanted nationals from Saudi Arabia, the UAE, Egypt and Bahrain. Revoke Qatari citizenship for existing nationals where such citizenship violates those countries’ laws.

9.Stop all contacts with the political opposition in Saudi Arabia, the UAE, Egypt and Bahrain. Hand over all files detailing Qatar’s prior contacts with and support for those opposition groups.

10.Pay reparations and compensation for loss of life and other, financial losses caused by Qatar’s policies in recent years. The sum will be determined in coordination with Qatar.

11.Consent to monthly audits for the first year after agreeing to the demands, then once per quarter during the second year. For the following 10 years, Qatar would be monitored annually for compliance.

12.Align itself with the other Gulf and Arab countries militarily, politically, socially and economically, as well as on economic matters, in line with an agreement reached with Saudi Arabia in 2014.”
 これに並べ立てられているのは、もう対等な相手へのものではない。色濃く窺えるのは、アラブの団結というよりは、特定の思想をもつ者たちが抱く「アラブの利益におまえも加われ、さもないと大変なことになるぞ」との脅し、恫喝(どうかつ)ではないか。ざっとみると、世界相手の大きな外交はアメリカ(具体的にはトランプ政権)に追随、アラブ固有領域では自分たちアラブ保守派の利益の重視、それから彼らに敵対する国とは離れることなどを要求している。極めつけの一つは、アラブに展開する言論メディア(アルジャジーラなど)に対して、自分たちの仲間に入って、一歩進んだ厳しい取締まり姿勢をとるように言うあたり、言論の自由を封じてでも、なんとしてでも、自分たちの利益を守りたいらしい。

(続く)

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(続く)

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♦️531『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(スウェーデン)

2017-10-26 09:56:33 | Weblog

531『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(スウェーデン)

 現在のスウェーデンにおいては、ノルマン人がキリスト教を受け入れて10世紀頃までに最初の建国の機運が高まる。8~10世紀はまた、ヴァイキング全盛時代であった。そのヴァイキングとは、「不在者」が語源ともいわれ、いわば当時の海賊にほかならない(発行者は白井勝也「地球紀行、世界遺産の旅」小学館、1999)。
 バルト海のほぼ中央に浮かぶゴットランド島は、現在のスウェーデン南東部にあるが、この島の北西部にある都市のヴィスビュー(ヴィスビーとも)は、その時期にノルマン人によって港が建設され、やがてドイツ人が住み着いて、主にロシアとの貿易の中継基地としての役割を演じるようになる。それからは、かれら入植のドイツ人と現地島民との間に平和協定結ばれ、概ね共存の地域社会が築かれていく。12世紀には、港湾都市ヴィスビューとして、当時北ヨーロッパの商取引に大きな影響をおよぼし始めていたハンザ同盟の一員となる。
 それからは、ハンザ同盟都市の一つとして繁栄をほしいままにしていく。港にはヨーロッパ各国からの農産物や工芸品などの物資が集められ、販売地へと運ばれる。ロシアや北欧の特産品もこの地に集められ、ヨーロッパ各地へと運ばれていく。そのことを物語るかのように、総数が200にも及ぶとも言われる、13世紀半ばの最盛期までに建てられた倉庫や貿易施設を抱え、世界遺産に認定されている。その後の1288年には城壁が原因で島民と「いざこざ」が起きたり、1298年には同じく、ハンザ都市としてともに大きな力を持っていた仲間の、ドイツのリューベックがハンザ同盟の代表者であることを宣言するにいたる。それで、ヴィスビューの特権の幾らかが奪われたり、縮減されたのだという。
 1360年には、デンマークの襲撃をうけるのだが、なんとかこれを撃退する、しかし、その頃から、町はだんだんと衰退に向かっていくのであった。それでも、今となっては、リューベックが16世紀に同盟内の内紛で町が破壊されたのに比べ、ヴィスビュー旧市街の方は構造物の自然脱落などを除いてほぼ残っている。そのことが幸いしたのか、1995年には世界遺産に認定された。
 さて、話を戻しての1100年代、王国として統一が始まる。野心の溢れる北欧諸国の新興国として、12世紀には東方に進出、フィン人の居住地フィンランド地方を併合する。14世紀にはカルマル同盟に属し、デンマーク・ノルウェーと「同君連合」に入り、デンマークの支配を受ける。16世紀にバーサ朝が成立して独立、プロテスタント国となり、フィンランドを領有する。17世紀に、三十年戦争に介入してウェストファリア条約でバルト海全域の支配する大国の地位を得る。しかし、18世紀には東方に成長したロシアと北方戦争を戦い、敗れて領土を失う。
 13世紀には、首都としてのストックホルムが建設される。しかし、14世紀には黒死病の流行が北欧三国にも及ぶ。そのために生産力が減少し、王権をめぐっての争いに貴族の対立も加わり、国内に騒擾(そうじょう)が続く。1397年に形成されたカルマル同盟に加わり、実質的なデンマークの支配を受けることになった。15世紀に入り、次第にカルマル同盟からの分離独立を要求するようになる。しかし、宗主国であるデンマークの軍隊によって名実ともに独立国家になろうとの動きは抑えられる。
 1523年のグスタフ・バーサの反乱により、スウェーデンは独立を達成する。同年、彼は国王に推戴され、バーサ王朝が成立する。そのもとで17世紀の国王グスタフ・アドルフの時代には、1618年にドイツで三十年戦争が始まる。同国王は、新教側の救援を決意し、1630年に介入しドイツに侵攻する。ありていにいうと、ドイツ30年戦争に介入したのであった。ドイツ各地で奮戦するも、国王は1632年のリュッツェンの戦いで戦死してしまう。しかし、スウェーデン軍はひるまなかった。1648年には、ウェストファリア条約が結ばれる。この中で、スウェーデンはポンメルンなど北ドイツに新たな領土認められる。要するに、この条約で大国の地位を確保した訳だ。
 18世紀初頭、東の方ではロシアのロマノフ朝が台頭してくる。野心に燃えるロシア皇帝ピョートル1世がバルト海方面に進出してくると、スウェーデンのカール12世はこれを防ごうと戦争となる、これを「北方戦争」という。カール12世の軍はロシアに侵攻して戦うのだが敗れる。これに勝利したロシアが「バルト海の覇者」として東ヨーロッパの大国として有力となっていく。1771年即位したスウェーデンのグスタフ3世は王権強化で国の再起を図るも、1792年に部下に銃撃されたのがもとで、志半ばで死ぬ。
 18世紀末に始まったナポレオン戦争ではイギリスと結び大陸封鎖令に従わなかったので、フランスに従ったロシアとの間で戦争となり、大敗してフィンランドを失う。1810年、バーサ王朝のカール13世に継嗣がないため、議会はナポレオンの将軍ベルナドッテを皇太子として迎えることに決定した。
 ところが、ベルナドッテ王となってからはナポレオンと対立していく。1813年の諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)にスウェーデンは参加し、ナポレオン軍を破る。ナポレオン戦争後の1814年には、デンマークとキール平和条約を締結して、同国からノルウェーを獲得する。これにノルウェーは反発して独立を宣言するも、スウェーデンは軍隊を送ってこれを鎮圧し、一定の自治を認めた上でスウェーデン王を国王とする「同君連合」に組み入れ、影響力を確保する。
 1818年にはベルナドッテが国王(カール14世)としてベルナドッテ朝(現在のスウェーデン王室)を開くこととなった。スウェーデンでは身分制議会が続いていたが、1866年に二院制の議会制をとることとなり、近代化に進み始めた。ダイナマイトを発明し、実業者としても幅広く成功し、大金をものにし、後にこれを反省する中からノーベル賞を創始するノーベルが活躍したのも、この時代である。
 第一次世界大戦では、スウェーデンは中立を守ることができた。戦争参加国に対して、スウェーデンは彼らの主戦場であるところの北方にあるがゆえに、激戦に巻き込まれるのを、なんとか避けることができた形か。戦後のナチスドイツの台頭に対しては、積極的な軍備増強による防衛にあたる。1940年には厳正な武装中立を声明して、火の粉が国内に及んでくるのを食い止めようとする。それからの第二次世界大戦中はドイツ、イギリス双方から協力要請の圧力がかかったが、あくまでどちらの陣営にも与しなかった。
 1945年に第二次世界大戦が終わった後も、基本的に中立政策を維持していく。1946年には、国連に加盟を果たす。その一方で、アメリカ主導のNATO(北大西洋安全保障条約)には加盟しない。そこへもってアメリカによる、ヨーロッパへのマーシャル・プランによる代領の資金散布が始まると、戦争に晒されていなかったスウェーデンには特需がももたらされる。国内産業は大いに発展していく。その中立的なのを買われて国連事務総長に就任していたスウェーデン人のハマーショルドは、後のコンゴ動乱で任務遂行中に遭難するのだが。戦前から戦中、戦後を通じて議会制民主主義が守られたスウェーデンにおいては、社会民主主義を掲げる社会民主党がほぼ一貫して政権を担当していく。

(続く)

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♦️232『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争から独立へ)

2017-10-25 10:10:13 | Weblog

232『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争から独立へ)

 1775年4月18日、「レキシントンの戦い」と呼ばれる軍事衝突があった。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、陸軍が組織される。最高司令官には、ジョージ・ワシントン(1732~99)が任命された。1776年1月、強い啓蒙思想を持った文筆家トマス・ペイン(1737~1809)はパンフ「コモン=センス(「常識」)」を発表し、アメリカの世論を独立の方向に向け、王政ではなく、共和国を作ろうと民衆に呼びかけた。1776年7月4日、大陸会議が開かれ、トマス・ジェファソン(1743~1826)は、本国からの独立に関する内容を起草し、「独立宣言」として発表した。イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632~1704)による、全ての人は同等につくられているとの「自然権」の理念に裏打ちされた社会契約説の大いなる影響があった。極めつけは、暴政に対する革命権の正当性の主張であって、この後のフランス革命による「人権宣言」(1789)とともに、近代民主政治の基本原理となる。
 すでに1776年に、独立勢力は、ベンジャミン・フランクリン(1706~90、後にアメリカ合衆国憲法起草委員)をフランスに駐仏大使として派遣しており、フランス政府(ルイ16世)から金銭・物資の援助を受けていた。1778年の独立勢力は、フランスと同盟を結ぶ。フランスはこれの独立を正式に承認し、イギリスに宣戦するに至った。翌年には、スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦し、翌1780年にはオランダもイギリスに宣戦することになった。1781年、ヴァージニア州東岸の町ヨークタウンで、植民地軍とフランス軍はイギリス軍を包囲し、これを降伏させた。このヨークタウンの戦いで、独立戦争は終息に向かう。1783年のパリ条約で北米植民地13州と本国との間で平和条約が締結され、その第1条で「独立の承認」がなされた。
 「英国国王陛下はアメリカ連合諸邦、すなわち、ニューハンプシャー、マサチューセッツ湾、ロードアイランドおよびプロヴィデンス・プランテーション、コネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアが自由にして独立な主権国家であり、そのようなものとして扱い、自身もその世継ぎも継承者も、同諸邦およびそのいかなる部分についても、施政、財産、領土上の権利に対するいっさいの権利主張を放棄することを認める。」
 ここに植民地の独立が承認され、ミシシッピ川以東のルイジアナをこれに割譲した。そして、ここにアメリカ合衆国が誕生し、初代の大統領には独立軍の指揮に功労のあったジョージ・ワシントンが就任した。
 参考までに、このアメリカ建国に参集した13州の表記の意味するところについては、作家の三浦朱門氏の説明に耳を傾けたい。
 「17世紀になると、フランスのルイ14世はパリを嫌って、郊外にベルサイユ宮殿を造り、貴族の生活を維持するために側近の従者をつれて移住してしまう。
 王の存在が権威を示すものになる。彼の言葉といわれる「朕(ちん)は国家なり」は、現在からすると誤訳とはいえないまでも、当時は国家という意識はなかった。彼の言葉の「国家」はフランス語では「エタ」と言うのだが、英語でいえば「ステイト」である。
 これは「状態」が本来の意味で、「現在の体制」「支配」とも解釈できる。18世紀の末に独立したアメリカ13州のうち10州は「ステイト」と称した。これは植民地とはいいながら、もはや英国が支配する地域ではなく、この土地として自立的な体制を作っている、といった宣言でもある。
 他の三つの州は「コモンウェルス」と称した。これは共有財産という意味である。つまりここは英国の所有ではなく、この土地を開拓して都市と農地と牧場を開いた人々の共有、という宣言でもある。共和国を英語で「リパプリック」と言うが、これはラテン語の「レス・プブリカ」が訛(なま)ったので、「レス」は物、「プブリカ」は公共の、という意味だから、「コモンウェルス」というのは、このラテン語の直訳である。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011、50~51ページ)
 こうした強烈な自由への志向性があったからこそ、このアメリカ独立戦争が戦われ、その影響がやがてフランス革命となって、人類史が人民の、人民による、人民のための政治へとその歩を進めていけたのだと考えられよう。
 
(続く)

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♦️231『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争前夜)

2017-10-25 10:07:53 | Weblog

231『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの独立(独立戦争前夜)

 1765年、ヴァージニア植民地議会で「代表なくして課税なし」(No taxation without representation)が僅差で決議された。パトリック・ヘンリ(1736~99)が提唱した。ヴァージニアに課税する権限を持っているのはヴァージニア植民地議会だけである事、など7項目があった。1865年、イギリスはガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めた。しかし、これに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となった。1770年、ボストン(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)で本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺された。1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、自国の東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除した(これを茶法(Tea Act)という)。これは、同社に茶の独占販売権を与えることに繋がる。
 そして迎えた1773年12月16日、インディアンに変装した市民がボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃した。茶の積み荷342箱を海中に投げ込んだ。これがボストン=ティーパーティー(ボストン茶会事件)として現代に語り継がれるものだ。イギリス政府は、報復としてボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの条例による抑圧で臨んだ。これで本国と植民地との争いは、いよいよ抜き差しならぬものとなった。1774年9月、かつてウィリアム・ペンが建設したフィラデルフィアに植民地の代表が結集し、第1回大陸会議を開く。イギリスに対して通商を断絶することを宣言した。
 1775年3月には、パトリック・ヘンリが武装蜂起を呼びかける「自由か死か」演説を行った。以下はその演説の一部である。
 「みなさん、事態を酌量してみても無駄です。みなさんは平和、平和と叫ぶかもしれません。しかし平和えはけっしてありません。戦争はもう実際にはじまっています。北方から吹きまくるきたるべき強風は、いまやわたくしたちの身に高鳴る武器のひびきをもたらすでありましょう。わたしたちの同胞はすでに戦場にあります。(中略)みなさんは何をしたいと思っておられるのでしょうか。鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど、生命は高価であり平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、(中略)わたくしに自由を与えてください。そうでなければわたくしに死を与えて下さい。」(今津晃『アメリカ独立革命』至誠堂)

(続く)

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♦️203『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの絶対王制

2017-10-25 09:50:44 | Weblog

203『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの絶対王制

 中世から近代へのヨーロッパの歴史を顧みるに、「フランスの絶対王制」と呼ばれるものがある。その国名の表記の由来については、作家の三浦朱門氏に説明願おう。
 「17世紀になると、フランスのルイ14世はパリを嫌って、郊外にベルサイユ宮殿を造り、貴族の生活を維持するために側近の従者をつれて移住してしまう。
 王の存在が権威を示すものになる。彼の言葉といわれる「朕(ちん)は国家なり」は、現在からすると誤訳とはいえないまでも、当時は国家という意識はなかった。彼の言葉の「国家」はフランス語では「エタ」と言うのだが、英語でいえば「ステイト」である。
 これは「状態」が本来の意味で、「現在の体制」「支配」とも解釈できる。18世紀の末に独立したアメリカ13州のうち10州は「ステイト」と称した。これは植民地とはいいながら、もはや英国が支配する地域ではなく、この土地として自立的な体制を作っている、といった宣言でもある。
 他の三つの州は「コモンウェルス」と称した。これは共有財産という意味である。つまりここは英国の所有ではなく、この土地を開拓して都市と農地と牧場を開いた人々の共有、という宣言でもある。共和国を英語で「リパプリック」と言うが、これはラテン語の「レス・プブリカ」が訛(なま)ったので、「レス」は物、「プブリカ」は公共の、という意味だから、「コモンウェルス」というのは、このラテン語の直訳である。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011)
 こうした強烈な自由への志向性があったからこそ、アメリカ独立戦争が戦われ、その影響がフランス革命となって、人類史が人民の、人民による、人民のための政治へとその歩を進めていけたのでしょう。

(続く)

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♦️37の3『自然と人間の歴史・世界篇』原始共産制

2017-10-25 09:31:50 | Weblog

37の3『自然と人間の歴史・世界篇』原始共産制

 一説によると、長い人類の歴史のうち、「原始共産制」と名付けられる時期があった。原始共産制から奴隷制、それから封建制を経て資本制社会、さらに共産制社会(その低次示のものが社会主義社会といわれる)へと続くというのだ。旧石器時代とか新石器時代などという時代区分がまだ当てはまらない、そんな古(いにしえの)かつ未確認の人類世代が生きた時代のことなのであろうか。
 ここでは、仮にそんな時代のアフリカ大陸を想像をたくましくして覗いてみたい。その一部は、人類の発祥地といわれている。そのため、今日でも時々新たな人類史の発見があるようで、例えば2012年春、次のような火の使用の始まりについての記事「100万年前に火を使用=原人が洞窟内で料理か―南ア」時事通信 4月3日配信(電子版)より引用」
 「南アフリカ北部にある洞窟で、人類が約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べたとみられる跡が見つかった。カナダ・トロント大などの国際研究チームが2日までに灰や骨などを詳細に分析した成果で、米科学アカデミー紀要電子版に発表する。自然発火の山火事などの灰が風や雨水に運ばれて洞窟に流入したのではなく、人類が火を使ったことが確実な証拠としては最古という。
 この洞窟はカラハリ砂漠の南端に近い場所にある。この人類は原人のホモ・エレクトスとみられ、石器も一緒に見つかった。歯や骨格の化石を詳細に分析した最近の研究では、ホモ・エレクトスが出現した約190万年前には火を使って料理していた可能性があるという。」
 この記事を伝える英文記事の出所を探訪すると、次のとおりだ。
 “Microstratigraphic evidence of in situ fire in the Acheulean strata of Wonderwerk Cave, Northern Cape province, South Africa
Abstract
The ability to control fire was a crucial turning point in human evolution, but the question when hominins first developed this ability still remains. Here we show that micromorphological and Fourier transform infrared microspectroscopy (mFTIR) analyses of intact sediments at the site of Wonderwerk Cave, Northern Cape province, South Africa, provide unambiguous evidence—in the form of burned bone and ashed plant remains—that burning took place in the cave during the early Acheulean occupation, approximately 1.0 Ma. To the best of our knowledge, this is the earliest secure evidence for burning in an archaeological context.”
(:http://www.pnas.org/content/early/2012/03/27/1117620109.abstract(この記事を伝える英文記事の出所))

(続く)

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♦️560『自然と人間の歴史・世界篇』イラク

2017-10-23 20:14:26 | Weblog

560『自然と人間の歴史・世界篇』イラク

 1939年9月、ドイツとの国交を断絶しました。1941年4月、ラシード・アリー・アル・キーラーニー(ガイラーニー)のクーデターにより、ドイツとの国交を回復しようとしました。1945年5月、イギリス軍のイラク通過を阻もうとしたことから、イギリスとヨルダンの連合軍が介入したことで、ガイラーニー政権が倒されました。1943年1月、その後に成立したヌーリーッサイード政権により、ドイツに対し宣戦を布告しました。
 そして、第二次世界大戦をくぐり抜けます。1958年、革命派が軍事クーデターを起こして、共和国政府を樹立しました。この時、満を持してか、アブドロ将軍は石油産業の国有化を宣言しました。
 これに対して、アメリカは直ちに反応し、直接イラクに攻め込むことはなかったものの、レバノンに5000人の海兵隊を派遣しました。石油利権でアメリカに負けてはならじ、とするイギリスも、ヨルダンに空挺部隊を派遣して圧力をかけました、これらの圧力により、生まれたばかりの共和国政権は石油の国有化の企てを放棄せざるをえませんでした。

(続く)

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♦️559『自然と人間の歴史・世界篇』イラン

2017-10-23 20:13:16 | Weblog

559『自然と人間の歴史・世界篇』イラン

 1908年、ペルシャ(現在のイラン)において、イギリスの手により、石油が発見されました。イギリスはここに国策会社をつくり、この石油の利権を全て手に入れようとしました。この会社は、やがてBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)として世界の石油市場を牛耳る七大石油メジヤーの一角に食い込むことになります。
 その後の1951年、イランのイギリス系石油メジヤーの基地アバダンにおいて、自国の本来の権益に目覚めた石油労働者たちがメジャーの国外追放を叫んでデモを起こし、それは暴動となって全国に波及する勢いでした。この事件をてことして、民族主義者であったモサデク首相は、石油産業の国有化を内外に宣言しました。
 ところが、イギリスはその後の対処に用意周到の体制で臨み、ほどなくペルシア湾を封鎖したことにより、シラン政府の石油の販路をふさぐ作戦にでました。その上、当時国外に亡命し脱出していたパーレビ国王を呼び戻す工作を行い、国王派を支援してクーデターを起こさせ、敗れたモザイク首相は死刑に処せられました。

(続く)

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♦️558『自然と人間の歴史・世界篇』サウジアラビア

2017-10-23 20:12:04 | Weblog

558『自然と人間の歴史・世界篇』サウジアラビア

 1902年、アブドゥルアズィーズ国王(サウジアラビア王国の初代の国王)が王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドでナジュド及びハッサ王国を建国しました。1927年5月20日、ジッダ条約によりイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナシュド王国が成立しました。1932年、主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が建国されました。初代国王のイブン・サウードの名前の由来については、三浦朱門氏によりこう説明される。
 「イブン・サウード(初代サウジアラビア国王。アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ファイサル・アール・サウード)という人がいるが、イブンはビンと同じ意味の方言で、息子という意味で、サウード家の支配するアラビア国ということになる。」(三浦朱門「老年の流儀」海竜社、2011)
 1934年、サウジ・イエメン戦争でイドリシ朝アスィール首長国を併合しました。

(続く)

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