♦️276『自然人間の歴史・世界篇』イギリスにおける労働者階級の状態(1845、エンゲルス)

2018-11-30 22:12:50 | Weblog

276『自然人間の歴史・世界篇』イギリスにおける労働者階級の状態(1845、エンゲルス)

 1845年には、ドイツ人のフリードリヒ・エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」を出版した。

 当時の彼は、プロイセンの父がマンチェスターで経営している綿織物工場の一つ、エルメン&エンゲルスで働いていた。すでに社会主義思想に至っていた彼は、何しろ若く、気鋭に満ちていた。そうして昼間に経営サイドで働く傍ら、夜には本を書いていた。

語学の天才ともいわれるその能力で当時のイギリス社会の底辺を見聞し、注意深く観察するのであった。それを、今日でいうところのルポルタージュ風にまとめていく。


(続く)

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♦️204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリスの毛織物工業の発達)

2018-11-30 21:00:29 | Weblog

204の2『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリスの毛織物工業の発達)

 イギリスの毛織物とのかかわりには、はじめは羊毛の輸出だけのものであったのだが、それが国内で毛織物を作って海外へ売り捌くまでになっていく。経済史学で一世を風靡した感のある大塚久雄は、こんな説明をしている。

 「十四世紀初期までのイギリスは、何よりもまず「羊毛」の輸出国であった。中性以来産業革命にいたるまで、イギリスはヨーロッパの、したがって世界の主要な羊毛生産地であった。ヨーロッパには羊毛の生産地としてこの他にスペインやポムメロンなどがあるが、イギリスが断然他を圧していたことは確認されねばならぬ。そのことは、イギリスが当時あの旺盛なフランデルンの毛織物工業に対してその原料の圧倒的部分を供給していたことによっても、了解されるであろう。(中略)

 さて、イギリスでは十四世紀の初頭から毛織物生産が本格的に展開し確立され始めた。そして、イギリスはしだいに羊毛輸出国から「毛織物」輸出国に転身し、十六世紀前半までには決定的にその相貌を変ずるにいたるのである。

 その事実を数字について見ると、エドワード三世の治世下(十四世紀中葉)には、前述のように年額約30000サックスに上った羊毛の輸出が、約1世紀半後にはその5分の1に、後さらに6分の1にまで減じていったのに反して、毛織物の輸出は、十四世紀中葉には5000ピーセズにすぎなかったものが、ヘンリー八世の治下(十六世紀前半)には年々の輸出額(kerseyおよびworstedを除く)がその約20倍にまで増加している。」(「西洋経済史」)

 このようなイギリスの初期資本主義の支柱たる毛織物工業の発達は、この国が次の産業革命期に入っていくための礎となっていく。その産地としては、およそ次のようであった。

(続く)

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□216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

2018-11-28 10:36:13 | Weblog

216『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

  片山潜(かたやません、本名は薮木菅太郎1859~1933)は、作州の久米南条郡羽根木(現在の岡山県久米郡久米南町羽根木)の藪木家に生まれた。家は、当時のこの辺りではやや貧しかったのだろうか。13歳で、初めてできた誕生寺の成立小学校に入学する。ところが、わずか4か月足らずでやめてしまう。

 以後は、家業を手伝う傍ら、副業として炭焼きに精を出す。それでできた炭を背負って約6キロメートル離れた大戸下まで運搬し、売っていたと、後の「自伝」に記している。その大戸下には、山田方谷のつくった知本学舎があった。教塲から洩れてくる生徒の声を聞いて、学問をしたいとの気持ちを抱く。

 やがて1877年(明治10年)には片山家の養子となり、いよいよ学問をしたいとの気持ちが高じていく。1880年(明治13年)、岡山師範学校(現在の岡山大学)に1年通学するのだが、これにも満足できない。そして22歳の青年は、上京する。それからは、実に多様な事柄について、首を突っ込んで、学んでいく。

 1884年(明治17年)には、さらに大志を抱いて、アメリカに行く。いったん思い立ったら、引かないのが彼の特色であった。かの地の大学では、大学予科で勉強しなければならず、苦労したそうだ。コックをして働いて、学費を稼ぐ。日曜日は、教会のミサに参加するといった生活。洗礼を受けて、キリスト教徒になる。

 1889年には、アイオワ大学、現在のグリンネル大学に入学を果たす。大学院に進み、修士論文は「ドイツ統一史」であった。1894年には、友人とイギリスに行き、社会勉強の中で、神学士の称号を得た。また、アメリカに戻って、エール大学の1年の在学を終え、日本の横浜港に着いたのが、1895年1月のことであった。

 1911年12月には、東京市電従業員のストライキの応援にうごき、翌12年1月に検挙され、禁固5か月の刑の判決を受ける。出獄後の家族5人での生活は厳しいものであった、そこで一家は、1914年に日本より自由と考えられるアメリカに渡る、これが4度目の渡米であった。そのアメリカでも社会主義者への風当たりが増してくると、1921年7月、今度はソ連のモスクワに新天地を求めた。1922年7月15日の日本共産党の結成には、モスクワの地から賛成の意を送ったらしい。

 その後もモスクワにとどまり、ソ連側の論客に加わる。1940年には、アムステルダムで開催の第二インターナショナルの大会に出席し、日露戦争(1904~1905)への反対を世界に向けて訴えた。その後、ソ連の地で平和なうちに生涯を終えたとはいえ、その心は日本の地を振り返り、また振り返りの晩年であったのではないか。当代の中でも最も大いなる旅路を踏破した日本人として有名だ。

(続く)

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○185『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱(1637~1638)

2018-11-27 22:34:49 | Weblog

185『自然と人間の歴史・日本篇』島原の乱(1637~1638)

 島原の乱とは、農民らの一揆というよりは、その規模などにおいて、当時の日本における一個の「内乱」というべきだろう。その勃発の時は1637年12月11日(寛永14年10月24日)、島原の地有馬村の住民がまず蜂起した。10日遅れて、天草でも一揆が始まった。主な背景には、この地が作物の栽培には適さない上に、年来の不作、領主の悪政などがかさなったものとされる。

 この機に乗じたのが、天草大矢野に住んでいた、関が原の戦いで西軍に属し敗れた小西家の旧臣益田甚兵衛なるものが中心となり、浪人などを糾合していく。その子、四郎時貞(しろうときさだ)、その霊名はジェロニモと称する少年を頭に推戴し、敢然と藩政、ひいてはキリシタン弾圧を押し進める幕府に敵対の旗を立てた。そしてこの地の農民、漁民などに結束して戦うように宣伝し、武装を構える。

すなわち、出発の時から、早々農漁民一揆を宗教一揆の形に組み立てた。これで、「生き残れるかなあ」という暗澹たる気分に晒されていた自分たちの未来を一転、支配者に戦いを挑むことで自らの運命を切り開こうとしたものだ、といえよう。

  現地での苦戦に、幕府軍が組織され、12月5日に江戸を出発した。12月26日に着いて、九州の諸侯とともに戦いを進める。総勢12万4千人というから、おどろきだ。海からは、オランダからの大砲などを借りて攻めるが、効果は上がらず。外国に援助を頼るのはよくないという怨嗟も聞かれるため、途中で取りやめとなる。

 それからの幕府軍は、敵の兵糧の尽きるのを待つ作戦に切り替え、これが効果をあらわしていく。そして迎えた1638年3月11、12日の総攻撃で、さしもの堅固な守りも突破され、勝敗がつく。老幼男女を問わず、生き残った者は皆殺しにされたという。この戦いで、当時のカネで39万8千両が費やされたという。

 幕府は、これを機に、対キリシタンの政策を厳しく進めていくことになる、また、諸藩はそれに倣って以後、苛烈なキリシタン対策を強いられていく。

 

(続く)

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♦️343の2『自然と人間の歴史・世界篇』自動車の時代へ

2018-11-27 19:19:51 | Weblog

343の2『自然と人間の歴史・世界篇』自動車の時代へ

 かたや内燃機関の開発が進んでくると、それを搭載して自動車を柱にすことが現実化していく。1870年には、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクスが自動車の試作を行う。1879年には、ジョージ・B・セルデンがガソリンで走る自動車を試作し、1895年に特許を取得する。

 1888年、先のマルクスが、ドイツでマグネット型の低定電圧点火装置を初軽視、特許を取得した。

 そして迎えた1893年、アメリカのフォード自動車カンパニーがつくった自動車が初めて街頭に現れる。1897年には、ドイツ人のルードルフ・ディーゼルが、ディーゼル・エンジンの原理を発明する。

  1900年のアメリカの人口は7609万人を数え、製鋼生産高はイギリスの2倍に達す。1911年には、ヘンリー・フォードのフォード社が、自動車の大量生産体制をつくる。1914年、その意欲的経営者のフォードは、労働者の日給5ドルの最低賃金に引き上げる。その対象者は、22歳以上の月給制ではない労働者であった。また、一日の労働時間につき、8時間労働制を打ち出す。1926年には、週5日制を導入したという。

 そんなフォードだが、一気呵成というか、なかなかの奇抜な思想を抱いており、歯に衣を着せない言いぶり、書きぶりが目立つ人物なのであって、例えばこういう。

 「労働は万人の為すべき自然の業務である。はたらかなくともよいという組織は、未だかつて発明されたことはない。自然は労働を要求する。手と頭は怠けているように作られているのではない。労働はわが健康であり、わが自尊であり、わが救済である。」(「わが勤労哲学」)

 「法律は建設的ないかなることをも行わない。(中略)立法が貧困を除去し、特権を廃止することをわれわれが当てにしている限りは、われわれは、貧困が広がり、特権が増大するのを黙って見ていようとするのである。」(「わが人生と仕事」)

 「この国における労働組合員のうちで唯一の強力なグループは、組合から報酬を得ているグループである。(中略)労働組合員がわれわれの従業員のために行うことができることは何もない。」(同)

 このような破天荒な思想の集合であるからして、人物像が誠にとらえにくいのだが、尾上一雄氏は、あえて次のようにまとめておられる。

 「彼は高賃金政策をとったのに、さきに述べたように、労働者の団結やその団体交渉に反対したのは、彼のボス的、「独裁者的」性格、さらに、【中略】独善的な、思いあがったキリスト教的企業哲学、即ち、1902年に、フィラデルフィア&レディング鉄道会社、ジョージ・F

・ベイアによって表明された有名な哲学ー「労働者の権利と利益は、労働運動扇動者ではなく、神が彼の限りなき叡智をもってこの国の財産所有権を与えたもうたキリスト教徒によって、保護され、尊重されるだろう」ーによるものと考えられる。」(尾上一雄「増補アメリカ経済史研究1」杉山書店、1969)

 

(続く)

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♦️256『自然と人間の歴史・世界篇』選挙権の拡大(イギリス)

2018-11-25 22:02:58 | Weblog

256『自然と人間の歴史・世界篇』選挙権の拡大(イギリス)

 イギリスにおいては、1832年、ホイッグ党内閣の下で選挙法改正案が成立し、新しい時代の幕開けとなる。これには、フランスの七月革命の影響があったとされる。これによって参政権を得たのは、主に新興の産業資本家や工場主、中堅以上の商人や銀行家などを含む中産階級であった。彼らは、従来の貴族や大地主らの単独支配に割って入り、政治の実権の一端を担うにいたる。

 1837年にはヴィクトリア女王(1819~1901)が即位し、イギリスの黄金時代が幕を開ける。その翌年の1838年には、工場労働者をはじめとする人々が、6か条にわたる人民憲章を公刊し、参政権獲得の闘争を起こす。その最高潮は、1848年4月10日のロンドン、ケニントンコモンで行われたチャーチスト運動の大集会(銀板写真あり)であったろう。

   その背景には、額に汗して働く者の粗末な住環境、低賃金と長時間の労働があった。さらに一説には、「低収入者の生活を圧迫する穀物法や、新救貧法に続いて、不作によるパンの値上がりで労働者の生活は一段と行き詰まった」(神山妙子編著「はじめて学ぶイギリス文学史」ミネルヴァ書房、1989)といわれる。

 いわゆる「空腹の50年代」を経ての1950年代にさしかかる頃には、イギリスはそれまでにない経済的繁栄の時期を迎えた。1851年には、ロンドンのハイド・パークで世界大博覧会が開かれた。おりしも、この国においては、鉄道網は全国へと張り巡らされ、ドーヴァ・カレー間の海底電線の設置、ドイツに学んでの鉄鋼製法の改良、農業面での機械化などが推進されていく。

 ちなみに、1951年の国勢調査時点での、アイルランドを含めたイギリスの総人口は2730万人であった(デボラ・ジャッフェ著、二木かおる訳「図説ヴィクトリア女王ー英国の近代化をなしとげた女王」原書房、2017)。

 そして迎えた1867年には、ダービー保守党内閣によって第二次の選挙法改正がおこなわれ、かなりの都市労働者に選挙権が与えられる。さらに1884年に至ると、今度は自由党内閣により成人男子のほとんどに選挙権を与えるという、第三次の選挙法改正が行われる。

さらに、1918年に自由党のロイド・ジョージ内閣の下、四次の選挙法改正が行われ、男子の普通選挙権と30歳以上の女性にも参政権が認められた。時の国王は、ジョージ5世。例えば、こう説かれる。

 「そしてこのような一連の選挙権の拡大を中心とする大衆民主主義への適応過程は、上院に対する下院の優位を規定した「新議会法」(1911)の成立、「国民代表法」(1918)による婦人参政権を含む成人男子に関する普通選挙制の承認でもって一応完成した。」(米田治・東畑隆介・宮崎洋「西洋史概説2」慶応義塾大学通信教育教材、1988)

 それからも、1928年には、ロイド・ジョージ内閣の下で第五次の改正により新たに21歳以上の女性に選挙権が与えられ、そのことにより選挙権を持つのは21歳以上の男女ということになる。

 

(続く)

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○○306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

2018-11-25 19:32:41 | Weblog

306の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、芥川龍之介)

 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892~1927)は、若くして達者な物語構成力を身につけていた。作家活動は東京大学の学生時代から既に始まっており、よくある文壇デュー前の下積み時代などはないと言って良い。最終作の「河童ーある阿呆の一生」までの作品はいずれも短編に属する。中学校の国語の教科書にも、よく出て来るものが、多い。    

 

その特徴は着眼点にあり、ぐいぐいと引っ張られる。双方から放たれた矢が寸分の狂い無くぶつかり合う、あるいは、地獄から脱出するための一本綱に数珠つなぎに人がぶら下がる様などは、現実にはあり得ないことだ。

それはそうなのだが、読者はそのことを心に刻むべくして刻む。言うなれば、彼の小説には、研ぎ澄まされたストーリーがあって、それが暫し読む者の脳裏を魅了するというか、要するに独占してしまう。そんな彼にして、「侏儒の言葉」という名の評論があり、文学とは少し離れたテーマについての、多くは断片的な文章の集まりとなっている。その「序」には、こうある。
 「「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」
 これらからすると、本人としては世間体を気にせず、自由な気持ちでペンを走らせてみたのかもしれない。気軽に論じてみたからご覧あれ、ということなのだろうか。それにしては、なかなかに本質を突くような社会批評が幾つもあり、その中から幾つか紹介しておこう。
 「日本人。我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命(さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?」
 「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
 「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?」
 「小児。軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
 「倭寇。倭寇(わこう)は我我日本人も優に列強に伍(ご)するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮(さつりく)、姦淫(かんいん)等においても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙人(スペインじん)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、和蘭人(オランダじん)、英吉利人(イギリスじん)等に劣らなかった。」
 これらのうち、一際風変わりな書きぶりで、日本人全体への提言らしきものが見えている気がするのが、日本の古代史をもじった、やや風変わりな「日本人」考なのである。ここに「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)とあるのは、伝説上の女神アマテラスの孫を天孫降臨の地に案内する役を務めた忠臣にして、これもアマテラス同様に実在の人物ではなく、「訓紀」(「日本書記」及び「古事記」)が想像でつくり出した人物神に他ならない。
『古事記』にはその風貌を記述した場面はなく、『日本書紀』神代下にそれが次の如く特異なものであったと記されている。
 「一神有り。天の八達之衢に居り。其の鼻の長さ七咫。背の長さ七尺余。七尋と言うべし。且つ、口・尻明耀。眼は八咫鏡の如くにして、てりかがやけること、赤酸醤に似れり。」(『日本書紀』神代下の第九段一書第一)
 これが(初出)発表されたのは1925年(大正14年)のことで、あの治安維持法の制定・施行と同じ年だ。川端俊英・同朋大学教授によれば、「「皇祖皇宗」ライの真理のごとく唱える教育勅語の「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝行ニ」を、歴史的事実を歪めるものとして茶化しているのである」(川端俊英「大正期の文学に現れた人間観(8)ー芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界」:岡山問題研究所「問題ー調査と研究」2000年12月、第149号)とのこと。
 今ひとつ、「軍人は小児に近いものである」と述べているのは、いかにも曖昧さに安住しない性癖のあった芥川らしい。こちらが(初出)発表されたのは1923年(大正12年)のことであった。これより前の1916年(大正5年)12月から2年4か月にわたり、芥川は横須賀海軍機関学校で幹部候補生に教鞭(英語)をとっていて、そこでの経験から来るのであろうか。そうであるなら、現場を何かしら観察した上での断定と見なせることに留意したい。そして、最後の「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」との問いかけは、今日においてもなお続けられている叙勲の浅ましさ、人間不平等の「臣民思想」に根ざしたものだということを、それぞれ白日の下に明らかにしているのではないだろうか。
 そんな稀代の才能に恵まれた龍之介なのだが、生きるために必要な意欲がだんだんに伴わなくなっていったようであり、自殺してしまう。どうやら、天は彼に大成する時間を与えなかったようだが、とりわけ思想家としての発展がみられなかったのは誠に惜しい。


(続く)

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○○306の1『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、石川啄木)

2018-11-25 19:31:28 | Weblog

3061『自然と人間の歴史・日本篇』明治から大正へ(文学、石川啄木)

 石川啄木(いしかわたくぼく、1886~1912、本名は石川一)は、短歌で人生のさまざまな場面を巧みに表現した。例えば、「働けど働けど吾が暮らし楽にならざりぢっと手を見る」は、労働者なら分かる心情を吐露した。また、「たわむれに母を背負いてそのあまり軽気(かろき)に泣きて三歩歩まず」からは、しみじみと情感が伝わってくる。さらに「ふるさとのなまりなつかし停車場の人混みの中にそを聞きに行く」とあるのには、今も故郷から出て来た者の心に懐かしく響いてくる。だれでもが容易くわかる言葉を使っている。だから、作者の心の動きがわかる。

そんな彼だが、私生活では唐突さやだらしのない面が多々あった。16歳のときには突如、それまで友人の金田一京助と同学だった盛岡尋常中学校をやめ、東京に出た。得意の翻訳家何かで稼ぎながら文学をやろうとしたのかも知れない。しかし、食い詰めて、安下宿の一室で病に倒れてしまい、故郷の渋民村から父親が駆け付けたのだが、宿代を支払った残りの相当額のカネを、宿の女中にあげてしまったそうだ。18歳の時には、今度は文芸誌「明星(みょうじょう)」を主宰する与謝野鉄幹の目にとまっていたのを頼りに2度目の上京をはたすも、再び困窮生活に陥る。東京帝国大学に通っていた京助がやむなく助けてやったという。

それでも、22歳の時、啄木は東京本郷の下宿屋を訪ね、無二の親友と頼む京助と再会し、ここに部屋を借りた。そこで多くの傑作をものにしていく間にも、京助の援助は不可欠のものであったらしい。もっとも、本人は、最初は借りたカネを返す意思をもっていたようで、京助から見ると「稀にみる才能ゆえ、中とか助けてやりたい」ということであったのだろう。

 やがて、東京朝日新聞の校正係に採用された啄木は、本郷弓町に宿を借り、それまで分かれて暮らしていた妻子と母を呼び寄せた。これで何とか落ち着いてよさそうなものだが、年来の不摂生もあってか持病の肺結核が悪化する。駆け付けた京助に、「たのむ」という言葉を残し、26歳の若さで旅立った。

そんな破天荒な文学人生であったのだが、めずらしいところでは、『時代閉塞の現状』なる社会評論を、発表している。
 「蓋(けだ)し、我々明治の靑年が、全く其父兄の手によって造り出された明治新社會の完成の爲に有用な人物となるべく敎育されて来た間に、別に靑年自體の權利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戰爭の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であつた。既に自然主義運動の先蹤として一部の間に認められている如く、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義が即ちその第一声であった。(中略)
 樗牛の個人主義の破滅の原因は、彼の思想それ自身の中にあった事は言うまでもない。即ち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信が極めて多量に含まれていたと共に、一切の「既成」と青年との間の関係に対する理解が遙かに局限的(日露戰爭以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であった如く)であった。(中略)
 この失敗は何を我々に語っているか。一切の「既成」を其儘にして置いて、その中に、自力を以て我々が我々の天地を新に建設するといふ事は全く不可能だといふ事である。
 かくて我々は期せずして第二の経験ー宗敎的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興が自ら其跳梁に堪へられなくなったのだと批評された。然しそれは正鵠を得ていない。何故なればそのところにはただ方法と目的の場所との差違が有るのみである。自力によって既成の中に自己を主張しようとしたのが、他力によって既成の外に同じ事を成さんとしたまでである。(中略)
 かくて我々の今後の方針は、以上三次の經驗によって略(ほゞ)限定されているのである。即ち我々の理想は最早(もはや)「善」や「美」に対する空想である譯はない。一切の空想を峻拒して、そこに残る唯一つの眞實ー「必要」!これ實に我々が未來に向って求むべき一切である。我々は今最も嚴密に、大膽に、自由に「今日」を硏究して、其處に我々自身にとっての「明日」の必要を發見しなければならぬ。必要は最も確實なる理想である。
 更に、既に我々が我々の理想を發見した時において、それを如何にして如何なる處に求むべきか。「既成」の内(うち)にか、外にか。「既成」を其儘にしてか、しないでか。或は又自力によってか、他力によってか。それはもう言うまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。從って過去に於ける失敗を再びする筈はないのである。
 文学ー彼(か)の自然主義運動の前半、彼等の「真実の発見と承認とが、「批評」としての刺戟を有(も)っていた時期が過ぎて以來、漸くただの記述、ただの説話に傾いて来ている文学も、斯くてまたその眠れる精神が目を覚して来るのではあるまいか。何故なれば、我々全靑年の心が「明日」を占領した時、其時、「今日」の一切が初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に沒頭していては時代を批評する事が出來ない。私の文學に求める所は批評である。(完)」
 これにあるのは、個人主義になるとか、宗教に傾倒することでは、時代への批評の精神を養うことができない。それができるのは、文学者として社会変革に積極的にかかわっていくことなのだと。

 

(続く)

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♦️216『自然と人間の歴史・世界篇』ホッブズ

2018-11-23 21:52:19 | Weblog

216『自然と人間の歴史・世界篇』ホッブズ

 イギリスのトマス・ホッブズ(1588~1679)は、社会契約説の先駆をなした。そもそもの話、人間の自然状態を互いに平等だと見た。神を前提してそうみなすというのではなく、直観というのであろうか、人は生まれながらにして能力に優劣なく、したがって互いに平等であるとしたのが、最初の特徴だ。

 2番目の特徴としては、彼は平等から不信が生じるのだという。この判断にあっては、人種や民族の違いは、まだ導入されていない。まともな理由の示されないまま不信を持ち出すのは、たぶん、現に自分の生きている世の中を観て、不信が渦巻く欲得の世界だと感じていたのではないだろうか。その過程では、競争が芽生えたり、不安があったり、そのほかにも様々厄介な問題が惹起されていくとみる。

 ここでいう彼の主著とされるのは「リヴァイアサン」といって、別名はかの「旧約聖書」に出てくる海の怪物レヴィアサンだというから、さぞかしカオス(混迷とか混沌)の雰囲気を出したかったのだろう。

 そんな独特の設定であるからして、そのまま放っておいたら、戦争に陥ってしまうだろうと、ホッブズは考え、こういう。

 「以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち《戦争》とは、闘い、つまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。」

“”Hereby it is manifest that during the time men live without a common power to keep them all in awe, they are in that condition which is called war; and such a war as is of every man against every man. For war consisteth not in battle only, or the act of fighting, but in a tract of time, wherein the will to contend by battle is sufficiently known.“”

 

 すなわち、「諸政治国家の外には、各人の各人に対する戦争がつねに存在する」となっている。ここから引き出される結論の最有力は、人々は国家との社会契約に入って、かかる争奪から抜け出さなければならず、この文脈では独裁国家さえもが許容範囲に入っていくものと考えられる。

(続く)

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○258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

2018-11-23 19:10:34 | Weblog

258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城(戊辰戦争前編、1868)

 1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。

 その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。

 明けて1868(慶応4)年1月3日、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。新政府軍の5千に対し、幕府軍は15千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。

 あくる1月4日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。1月5日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見の状態に陥っていた。1月5日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。

   そんな中で1月6日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、徳川慶喜は城内に立てこもって戦うと諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾に控あった幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。

 その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。

 「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。小栗策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)

 ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。これに不服の彰義隊が上野に立てこもり新政府軍に抵抗するも、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

 

 さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。

 「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
 多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」

 

 

(続く)

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♦️244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

2018-11-23 09:17:46 | Weblog

244の2『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ロック)

 ジョン・ロック(1632~1704)は、イギリスの哲学者、政治学者であって、近代の立憲思想に大いなる影響を与えた。
 「すでに示したように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分のプロパティ、つまり生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るためだけでなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さからいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。」(ジョン・ロック著・加藤節(かとうたかし)訳『統治二論』岩波書店、2010)
 なお、原文は以下の通り。
 “Man being born, as has been proved, with a title to perfect freedom, and an uncontrouled enjoyment of all the rights and privileges of the law of nature, equally with any other man, or number of men in the world, hath by nature a power, not only to preserve his property, that is, his life, liberty and estate, against the injuries and attempts of other men; but to judge of, and punish the breaches of that law in others, as he is persuaded the offence deserves, even with death itself, in crimes where the heinousness of the fact, in his opinion, requires it.”
 「政治権力を正しく理解し、またその起源を尋ねるためには、われわれは、すべての人間が天然自然にはどういう状態に置かれているのかを考察しなければならない。そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。
 それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。」(鵜飼信成訳『市民政府論』岩波文庫、1968、「10」)
 こうした彼の立論の背景には、神の下で自由に暮らしていた仮想の自由なる生活があったろう。続いて、その後の社会の変化につきこう述べる。

 「彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が、自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。

それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。」(同、「33」)
 「契約によって依然として共有地のままになっているものがあるが、そこで人が共有のものの一部をとり、それを自然の与えた状態から取去ると、そこに所有権が生まれる。」(同、「34」)
 「人が自分の自然の自由を棄て市民的社会の覊絆のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである。(中略)もし幾人かの人々が一つの協同体あるいは政府を作るのに同意したとすれば、これによって彼らは直ちに一体をなして一箇の政治体を結成するのであり、そこでは多数を占めた者が決議をきめ、他の者を拘束する権利をもつのである。」(同、「100」)
 「人々が国家として結合し、政府のもとに服する大きなまた主たる目的は、その所有の維持にある。このためには、自然状態にあっては、多くのことが欠けているのである。」
(同、「128」)
 「立法者が、人民の所有を奪いとり、破壊しようとする場合、あるいは恣意的な権力のもとに、彼らを奴隷におとし入れようとする場合には、立法者は、人民に対して戦争状態に身をおくことになり、人民は、かくて、これ以上服従する義務を免れ、神が人間を一切の実力暴力に対して身を守るため与えられたあの共通のかくれ場所にのがれてよいことになる。であるから、もし立法府が、社会のこの基本的原則を守るならば、そうして野心なり、恐怖なり、愚鈍なり、もしくは腐敗によって、人民の生命、自由および財産に対する絶対権力を、自分の手に握ろうとし、または誰かほかの者の手に与えようとするならば、この信任違反によって、彼らは、人民が、それと全く正反対の目的のために彼らの手中に与えた権力を没収され、それは人民の手に戻るようになる。人民は、その本来の自由を回復し、(自分たちの適当と思う)新しい立法府を設置することによって、彼らが社会を作った目的である自分自身の安全と保障の備えをするのである。」(同、「222」)
 こうした流れでは、各人は、各人の本来的に持つ自然権力、それは神から付与されたものなのだが、それをひとまず自分から切り離して社会、ひいては政府に委ね、自然権は憲法に規範に保障された基本的人権となるとはいえ、同時にそのことは、自然権力が変じて、警察、裁判所、刑務所、ひいては軍隊などの暴力装置ともなりうる。

それゆえ、それら政治というものが本来の自然権から逸脱していく傾向を持つ時には、各人はその政府の暴走を止め、あるいはよりよい政府に改める権利を持つことを主張している。


(続く)

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♦️244の1『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ルソー)

2018-11-23 09:16:36 | Weblog

244の1『自然と人間の歴史・世界篇』近代立憲思想の系譜(ルソー)

 おりしも、政治的な大衆運動に参加する人々の脳裏には、後に近代の立憲思想と呼ばれるものが芽生えつつあった。これを先導し、あるいは力づけたものとしては、知識階級からの働きかけがあったろう。

 啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~78)は、こう説き起こしている。

 「私は、不平等の起源と進歩、政治的社会(国家)の設立と弊害とを、それらの物が、もっぱら理性の光によって、そして、統治権に対して神権の裁可を与える神聖なる教義とは無関係に、人間の自然から演繹されうるかぎりにおいて、説明するようにつとめてきた。

 その説明の帰結として、不平等は自然状態においてほとんど無であるから、不平等は、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり、そして最後に所有権と法律との制定によって安定・正統なものとなる」(ジャン・ジャック・ルソー著・本田喜代治、平岡昇訳『人間不平等起源論』岩波文庫、1933、第二部)

 これにある「統治権に対して神権の裁可を与える神聖なる教義とは無関係に、人間の自然から演繹されうるかぎりにおいて、説明するようにつとめてきた」とは、社会をか神という絶対的存在抜きに見る先駆となった。

 この考えが、台頭しつつあった市民、中でもブルジョアジーに受け入れられていったことは、想像に難くない。続いて、国家の運営につき、こう述べている。
 「国家がよく組織されるほど、市民の心の中では、公共の仕事が私的な仕事よりも重んぜられる。私的な仕事ははるかに少なくなるとさえいえる。なぜなら、共通の幸福の総和が、各個人の幸福のより大きな部分を提供することになるので、個人が個別的な配慮に求めねばならぬものはより少なくなるからである。

 うまく運営されている都市国家では、各人は集会にかけつけるが、悪い政府の下では、集会にでかけるために一足でも動かすことを誰も好まない。なぜなら、そこで行われることに、誰も関心をもたないし、そこでは一般意志が支配しないことが、予見されるし、また最後に、家の仕事に忙殺(ぼうさつ)されるからである。」(ジャン・ジャック・ルソー著・桑原武夫、前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954、第3編第15章)

 

 (続く)

 

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□93『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

2018-11-22 21:01:04 | Weblog

93『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。

 1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。

たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
 この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。

なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。

(続く)

 

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♦️201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)

2018-11-22 19:33:27 | Weblog

201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)


 ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、17世紀のオランダを代表する、独特の画風をものにしていた。その短い人生で精力的な画業があり、確認されているだけで35点の絵が現在につながる。
 1647年頃には、画家になろうと修行を始める。故郷オランダのデルフトを出て誰かに師事することもあったのかもしれない。1653年末、親方画家として聖ルカ組合に加入をはたす。この年の春に結婚していたことから、生活の安定をも求めたのだろう。初めは、宗教などをテーマに「物語画家」を目指したものの、25歳頃には、次に繋いでいくため、より需要の見込める「風俗画家」への転身を図る。
 やがて一閃のような心境の変化があったのかもしれない。画業が本格化するのは、1650年代後半からであった。「眠る女」(1656~57)や「窓辺で手紙を読む女」(1658~59)、それに「士官と笑う女」(同)や「牛乳を注ぐ女」(1658~1660頃)といった作品群では、光がじんわり射し込む室内での、庶民らの仕草とか、語らいとかが描かれる。特に、「牛乳を注ぐ女」では、壺に注がれる牛乳のしたたりに見入ってしまう。
 これらにあるのは、作家の目の前で繰り広げられる、庶民の日常の姿だ。迫真というのではないものの、窓から差し込む光をじっくり眺めているうち、なぜだか、自分もその中に吸い込まれてゆく。「ポワンティエ(点綴法)」という技法を用いて、白色系統の明るい色の小さい点で光を描いている分、自然な光の繊細さを醸し出しているという。
 1660年には、「デルフト眺望」を発表する。南側のスヒー港から眺めた姿であり、陽がまだ明け切らない、しばしの朝の風景をとらえたものだろうか。著名な画家となってからの彼は、ちょっとした外出はあったものの、終生この町を離れることはなかったようだ。
 1663年以後は、「手紙を書く女と召使」や「ギターを弾く女」などをものにしていく。優しいタッチにして、慎ましやか、当時の人びとの精神生活の一端が窺えるのである。調度品や登場人物の衣服など、それらへの光の当たり具合などからは、超人的かとも思われる、細部への拘りが窺える。
 1668年には「天文学者」を、翌1669年には「地理学者」を描いた。この二つは「寓意画」と呼ばれるものであって、当時の新鋭オランダの意気込みを感じさせる。1670~72年には、聖ルカ組合の理事に選ばれており、その画業で地方の名士に叙せられていたのかもしれない。
 まだ43歳の若さで死んだのには、貧窮によるものがあったのだろうか。21歳の時結婚した妻との間に15人の子供がいたという。その死の4か月後に、妻カタリーナが自己破産を申請し、デルフト市が認可している。一説には、夫の死後、妻は借金返済のため、彼の絵を売却してしばらく生活を切り回していた記録が残っている、というのだが。これだと、画家の晩年はすでに蓄えの乏しい生活であったのではないか、とも推察される。その頃、絵画に対する需要が急に冷え込んだともされるものの、それにいたる原因まではよくわからない。
 参考までに、小林賴子氏は「力をつけてきた周囲の列強諸国が祖国の脅威となるや、フェルメールの周囲にも波風が立ち始める」(小林賴子「フェルメール、生涯と作品、改訂版」東京美術、2007)とされる。

(続く)

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□146『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線(下津井~終点)

2018-11-22 10:48:37 | Weblog

146『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸大橋線沿線(下津井~終点)

 さて、鉄路の方は、いよいよ瀬戸大橋に乗り出していく。念のため、この瀬戸大橋という通称による名称だが、本州の鷲羽山から塩飽(しわく)諸島の島々を経由して四国の番の州にいたる。それらの総延長は、つごう海峡部橋の部分が9.368キロメートルで、高架部分も入れる、橋梁部・高架部を合せると13.1キロメートルにもなる。鉄道道路塀用橋では世界最長だというから、驚きだ。これだけのところにつごう六つの橋が架かっている。

   そこで、まずは下津井(瀬戸)大橋に取りかかる。橋の形(建築用語)だが、下津井(瀬戸)大橋の方は吊り橋(写真で橋の根元を見ると、「桁下31メートル」の表示がある)、櫃石島までの長さは1400メートル、塔長高は149メートル。櫃石島までの長さは1400メートル、塔長高は149メートル。その先にある岩黒島までの長さは790メートル、塔長高は152メートルの櫃石島橋が「トラス斜張橋」だ。それに羽佐島までが790メートル、塔長高は161メートルの橋・岩黒島橋が続く。これも「トラス斜張橋」だ

   さらに、羽佐島から与島へと進んでいく。ここに架かるハコ型をしたのが「トラス橋」だと説明される。それからは三つ子島へと伸びて、長さは1538メートル、塔長高は184メートルの橋・北備讃瀬戸大橋が続く。こちらは「トラス吊橋」だという。さらにそこから先へは、番の州(香川県坂出市)までのところに架かる南備讃瀬戸大橋が続くのであって、こちらは1648メートル、塔長高は194メートルという威風堂々たるものだ。これも「トラス吊橋」だという。(『日本の名景ー自分さがしのベスト50』河出書房新社、2007、雑誌「ノジュール」からの作成)。
 このあたりの瀬戸内は、晴れの日が多い。瀬戸内のまぶしい太陽の光が車内を満たし、眼下には紺碧の海の絶景。好天に恵まれると、橋を渡って四国へ向かう中、「おおっ」と眺望が開ける地点が幾箇所もあるとのこと。ただし、その気になって見ていないと絶景ポイントは直ぐ通り過ぎてしまうようだ。

   この最後の橋である南備讃瀬戸大橋に差しかかる。眼下には、香川県側の工業地帯が広がる。このあたりは、かつて塩田として栄えた。四国の地に入ってからは、宇多津(うたづ、香川県綾歌郡宇多津町)へ向かう線路と分かれて大きく左へカーブし、予讃線(よさんせん)を東へ向かってしばらく行くと坂出駅着く。そこから飯野山(通称は「讃岐富士」)などを眺めながら、讃岐平野ならではの風景の中を一路東へ。やがて、車窓右からくる高徳線と合流して、列車は四国の玄関口・高松駅へと行き着く。

(続く)

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