新◻️1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期から温暖期へ、15万年前~1万年前)

2021-01-30 21:31:18 | Weblog
1の2の1『岡山の今昔』先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期から温暖期へ、15万年前~1万年前)

 さても、地球上の氷河時代(氷河期)は、氷期(極に氷が存在することで、こう呼ばれる)と間氷期とに分かれる。両者は、近くでは10万年単位で入れ替わってきている。現在から数えて一番近い氷河期(最終間氷期)は、「エーム間氷期」と呼ばれる。13万年前頃~11万5000年前頃のことであった。

 北グリーンランドでの土壌調査によると、最終間氷期が始まったばかりの12万6000年前頃が最も温暖で、気温が現在よりも平均で約8℃±4℃高かったことが分かっている。
 そして、今から約7万年前の地球上は、最後の氷期(最終氷期=ヴュルム氷期)を迎える。その後、少し寒さが緩む時期があったものの、今から 約2万3000 年前には、日本列島でも年平均気温が今より約7度(摂氏)低くなったというのが、大方の見方のようだ。

 そのため、植生に大いなる変化が見られる。特に、関東から西に広く見られる照葉樹林は、本州南岸のごく狭い地域と沖縄に分布を狭めていく。 
 その後の今から約2万1000年前の「ヴュルム氷期」(前述)においては、地球の北半球は、現代から最も近い氷期(前述と同じ区分にて繰り返すが、一番最近のものなので、「最終氷期」と呼ぶ)のピーク(最盛期)にあった。

 この時期には、数十万立方キロメートルとも推測される大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったためだと推測される。地球上の海水量が減少した結果、海面変化が著しいところでは約120メートルも低下したところもあり(例えば、霞ヶ浦)、その影響で海岸線は現在よりも相当分沖合に移動していたことかわかっている。

 この海水準がもっとも低下した時代、アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成された。南半球の東南アジアにおいては、現在の浅い海が低い陸地になっていた。そして日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。また、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていたことがわかっている。
 それからであるが、この最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から、今から1万2800年頃から1万1500年前頃にかけて、北半球の高緯度地方のイングランドなどを中心に寒冷化の揺り戻しが起こった。これを「ヤンガードリアス期」と呼ぶ。その影響は、軽微ながら日本列島にも及んだと考えられている。

 それでは、このような時の流れの中での日本列島、その中の瀬戸内海は、どのようであったのだろうか。例えば、瀬戸内海に南に鋭く出っ張っている鷲羽山、その登山道に設けられている案内板の一つ「瀬戸内海のおいたち」には、「瀬戸内海は、一つの大きな地溝帯で、全体が大きなブロックに分かれています。そして、ブロック別にうきあがったり沈んだりしてその凹凸に海が入りこみ、いわゆる多島海になったり、ぜんぜん島のない灘になったりしています」と記してある。

 これに関連しては、より広く地質や水流の状況を勘案しての、さらに詳しい説明がなされている。推測するに、当時は、氷河期(現在に一番近いというという意味で「最終氷河期」という)の末期にあたり,世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり、瀬戸内一帯はかなりの広さが陸化していたのではないたろうか、そのところどころは広大な草原であって象などがその上を歩いていたのではないか、と考えられている。

 そこで、これらのおおよそが真実であったなら、当時は対岸の四国まで海を隔てて指呼の距離というどころか、浅瀬を歩いてわたれるほどであったのかもしれない。

 そういうことから、今の倉敷あたりは、つまるところ起伏と変化に富んだ、海岸沿いの陸地であった。この時代は、沼あり、川あり、小高い台地ありで、海生や陸生の生き物が住み着いていた。それだからして、古代の類人猿やホモ・サピエンスは、そうした台地や洞窟に住居を構え、あるいは自然の要害などに住み着いたりして、主にそれらを狩って食料としていたことが考えられるのである。

 それと前後しての日本列島の気候だが、現在では、世界の気候が一様ではなく、地域によって異なると考えられており、報道には、例えばこういう。
 「将来の気候変動を予測するため、過去の気候変動を手本にしようとする研究分野がある。その名は古気候学。湖底の泥や樹木の年輪、極地の氷などから採取した物質を分析すると、我々が知る現代の地球とは違う姿が見えてくる。
 海洋研究開発機構と立命館大学は3月、約1万2000年前の最後の氷河期の終わり頃に、欧州が温暖化してアジアが寒冷化したことを突き止めたと発表した。」(2017年4月23日付け日本経済新聞電子版)

  そして迎えた、今から約1万年前からは、この列島の気候は、温暖化に向かう。縄文時代になると、再び地球温暖化が進み出していく。少なくとも、今から6000年前位からは、温暖化による海水面の上昇がみられるようになっていく。日本列島周辺では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)と呼び慣わしている、その最盛期には,日本列島の津々浦々、海外線の至るところで、現在の平野部の奥深くまで海水が入り込んだ。

 現在の瀬戸内海周辺も、その例外ではなかった。倉敷市の市域の北半を中心とする付近には、瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており、その南の先の海の中に「児島」という島が浮かんでいた。当時の瀬戸内海は豊かな海あったつたことだろう。

 概しては、内海にして魚貝類の繁殖する海域であり、かつ温かかったことから、人々が住みやすい環境であったであろうことは想像に難くない。これらの相乗効果で、瀬戸内海の沿岸は西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となっていたのではないかと推測される。

 すべからく、それらのうちで例えてみれば、 牛窓(現在の瀬戸内市牛窓町)の沖合少しのところには、黄島(きじま)と黒島(くろしま)という島があって、縄文時代早期の遺跡が見つかっている。

 そこでは、ネットで配信されている「牛窓町の歴史と現在ー岡山県牛窓町」(地域研究第23集、1982?)を拝見してみよう。
 すると、なかなかに興味深い。なぜなら、そこには、かつてそこあそこに住み、あれやこれやで活動していた姿が、読み進めていくうちに、何かしら彷彿としてくるから不思議である。
 そのころの牛窓の辺りでは、極めて美しい景観が広がっていたのであろうか。さしずめ、同じ縄文時代、夏島(現在の横須賀市夏島)周辺の貝塚を含んだ貝塚遺跡、それに「金沢八景」の辺りでの景観も、かなりが似通っていたのではないだろうか。

 そんな中でも興味をそそられるのが、黄島遺跡の下層には淡水系のヤマトシジミが出土するのに、上層になるほとに海産のバイガイが多くなるという。もっとも、人々が生活していた痕跡としては、「当時まず黒島・黄島両貝塚の成立時は、黒島が先で、黄島が後になる。いいかえれば、当時まず黒島に人が住みつき、その後黄島へ移り、更に黒島へと移動があった。そして、その直後に両島が島になった」(同)と考えられている。

 ともあれ、これら両島の辺りで暮らす人々は、食糧を獲得するまてに、当該地域に止まらず児島山塊北斜面を分け入り、あるいは海上に食糧を見つけようと日々懸命な暮らしであったのかもしれない。いづれにせよ、「これが、縄文海進とよばれる海面上昇で、2万年前の地形は、今や岡山平野の下に埋もれている」(同)訳なのだと。

(続く)

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新234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

2021-01-27 19:17:09 | Weblog
234の2『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学1、俳句、和歌)

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であろう。その人生は、何かしらベールにまとわれているように感じられよう。

 死後に編纂されたか、「奥の細道」は、あまりに有名だ。その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。

 また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。


 小林一茶は(こばやしいっさ、1763~1828)は、信濃北部の農家の長男に生まれた。幼名を小林弥太郎という。3歳で生母を亡くし、その後父が迎えた継母とは折合いが悪かったらしい。それまで何かと守ってくれていた祖母を亡くすと、江戸へ奉公に出される。

 俳諧(はいかい)との馴れ初めは、25歳の頃だったのではないかという。その辺りの詳しいことはわかっていないようだ。39歳のときに、病に倒れた父の看病で故郷に戻るも、父はまもなく亡くなる。遺産相続問題で継母や異母兄弟との間で争いが起こり、和解まで12年を要する。

 52歳で初めて結婚し、生涯三度結婚して、子どもは5人。暮らし向きがそこそこになり、やや安定してきたのだろうか。

 生涯に詠んだ俳句は、2万句とも言われる。それらの大半は、生活の中から、自然な感じで産まれてきたのだろうか。それとも、あれこれ気張っての作品なのだろうか。「おらが春」や「一茶発句集」という俳句文集も出す。
 その作風としては、どんなであろうか。正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。例えば、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。

 そんな負けず嫌いの彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。


 与謝蕪村(よさぶそん、1716~1784)は、俳諧のみならず、画業でも有名だ。大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国(せっつのくに)東成郡(ごおり)毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町)の生まれ。

 生前自らの出身地について語ったものとして、「馬堤は毛馬塘也則(つつみなりすなわち)余が故園也(なり)」とあり、これは、1777年(安永6年)2月23日付け、伏見の柳女(りゅうじょ)と賀瑞(がずい)という門人の母子に宛てた手紙にあるという。

 それに続けては、「余、幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候」(同)というものであって、その限りでいうならば、まことに平和で明るい幼年時の回想である。時に蕪村62歳の回想であった。

 ともあれ、両親を早くになくし、少年の頃に江戸へ出る。ちなみに、蕪村の名は、のちに「かぶら」の産地としての天王寺村に住んでいた、そのことにちなんだ。42歳から京都に住み、また母の故郷の丹後与謝郡を援用して名字を谷口から与謝に改めたという。

 俳句の方は、どうであったのか。本人は、なかなかに、無骨、口数も少なめといったところであったろうか。27歳の時、師匠の巴人と死別すると、同門の結城俳人砂(いさ)岡雁とうを頼る。その後、北関東を転々とし、1751年秋には上洛(じょうらく)。その頃には、各地に弟子や援助者もできていたのではないか。

 生涯に作った俳句の全容については、例えば、こう言われる。

 「今日、蕪村の句として知られる総数は、約2千8百句。その中から、晩年に至り、蕪村自身精選して世に残そうと努めたものが、蕪村自筆句集である。」(尾形つとむ「蕪村俳句集」岩波文庫、1989) お馴染みの句としては、例えば、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などがあろう。 
 俳句仲間との会合ということでは、例えば、「連歌してもどる夜鳥羽(とば)の蛙哉」や、「床涼み笠着(かさぎ)連歌のもどり哉」が見られて、その場がなんとなく脳裏に浮かんでくるではないか。

 珍しいところでは、例えば、故郷にちなみ、「春風や堤長うして家遠し」(「春風馬堤曲」(1764)の中での一句、大阪の毛馬桜宮公園の近畿地建淀川事務所内に建つ顕彰碑に刻まれている)とあって、ちなみに、蕪村の生地は、淀川改修のため川の中に没しているという。

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 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
 万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
 歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。
 この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)」

(続く)

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♦️602の3『自然と人間の歴史・世界篇』半導体の発明(1947)とその発展

2021-01-27 10:14:15 | Weblog
602の3『自然と人間の歴史・世界篇』半導体の発明(1947)とその発展

 トランジスタ (Transistor)というのは、ゲルマニウムやシリコンなどの結晶を利用して作られる半導体素子をいう。

 こうした物質を、化学の勉強で馴染みの周期表にてらしてみると、数ある元素の中でも性質において境目のあたり、電気伝導性の良い金属などの導体と電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率をもつ物質に行き当たった訳だ。

 このような物質的基礎の上につくられる半導体素子なのだが、1947年に、米国ベル研究所で開発されたのが最初だ。これをウェーハと呼ばれるチップにして、微細加工にて、抵抗などと共に配置して増幅をはじめとする様々な機能を持たせたものが集積回路となる。


 その用途としては、真空管に代わる電子素子として様々な電子機器に組み込まれていく。同時に、軽量化をも視野に、それからは、超微細加工への道を突き進んでいく。
 それからほぼ70年の歩みを概観すると、この間、いかにこの分野で有為転変があるかが見えてくるだろう。

 では、今は一体どのような半導体集積回路(Integrated Circuit:IC)やチップがあるのだろうかというと、半導体メーカーが手掛けている半導体ICには、MPU(Micro-Processing Unit:マイクロプロセッサ)といってパソコンなどの頭脳部分、情報記憶などにメモリ(DRAMとNANDフラッシュ)がよく知られるものだろう。
 が、それ以外にも、GPU(Graphics Processing Unit)、DSP(Digital Signal Processor)、FPGA(Field-Programmable Gate Array)、通信モデムIC、アナログIC(ADC/DAC)、電源IC、レーザーやLED(Light Emitting Diode:発光ダイオード)、受光素子(Photodiode)やCMOSセンサ、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)など、様々な種類にわたり製品開発が行われてきている。



(続く)

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♠️第二部

 2020年からは、新型コロナウイルスとの闘いが急展開しているが、これと隣り合わせですすんでいる産業界の動きに、半導体不足がある。

 ちなみに、半導体素子の用途別ということでは、デジタル家電に欠かせないのが、「フラッシュメモリ」。一方、パソコンの主記憶装置として利用されるダイナミックメモリ(DRAM)は、電源を切るとデータが失われてしまうも。これにたいし、フラッシュメモリは電源を切ってもデータは残る。
 そのフラッシュメモリにつき、「NAND型」と「NOR型」の区別があり、パソコンやスマートフォンの補助記憶装置(内蔵ストレージ)にはNAND型、デジタルカメラやルータにはNOR型が適しているなど、用途に応じて使いわけられているという。


(続く)

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♦️203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

2021-01-26 20:53:41 | Weblog
203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

 絶対王政下では、国家が人民に課す税金を厳しく取り立てる必要があった。
 1681年、「朕(ちん)は国家なり」とも形容される権力を誇示したルイ14世の治世、フランスは、財務総監コルベールの施策により徴税機構の改革を行った。
 なにしろ当時の間接税の仕組みは複雑で、その種類は、塩税、煙草税、関税、パリへの入市税など多岐にわたっていた。これらの徴収業務を、国家に代わって行う請負人に委託するというのだ。


 そうはいっても、国家の名でもって仕事をするのであるから、それなりの信用、それに実力を備えている者の中から選んで委託契約をするのでなければならない。
 そればかりではない、その上に、請負人たる者、毎年、国家との契約に基づいて決められた税額をひとまず国庫に納めて、すなわち国民に肩代わりして前納することになっていた。

 したがって、このような容易ならざる仕事に就けるのは、才覚のみならず財力や人手をもった、いわば当時の特権階級の人間に事実上限られるのであった。
 
 それでは、このような制度の導入によって、何がどのように変わったのだろうか。国家の方は、このやり方だと、自分でこの難しい仕事を切り回す煩わしさから開放されるし、その見返りとして委託代金を支払えばよい。そういうことでは、予定していた税収をより効率的に確保できる道が開けたという。

 一方、請負人としては、定期的な収入が保証されよう。しかも、仕事の難しさは相当にあるにしても、徴収できないなどのリスクをクリアする限りにおいては、仕事の歯車は回っていく。また、国家の信用を担っているのだからと、世の中をうまく渡るのに体面も保てるし、徴税の多いほどに収入も増すという流れにて、経営も安定していったのではないだろうか。

 およそそういうことだからと、当初の請負人の数全土でわずか40人程度であったのが、その陣容で、一説には、「国家の総税収額の実に3分の1」を担っていたというから、もしそうであったとすれば、驚きだ。

 とはいえ、この商売、人口の約9割から、あれやこれやの税金を取り立てることで潤うということでは、国家の一機構に組み込まれている訳であり、一度国家が人民の矢面に立つような状況にいたると、「人民の血を吸う蛭(ひる)」と憎まれる存在となっていく。


(続く)


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(続く)


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♦️203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17~18世紀)

2021-01-26 20:53:41 | Weblog
203の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの徴税請負人(17か世紀)

 絶対王政下では、国家が人民に課す税金を厳しく取り立てる必要があった。
 1681年、「朕(ちん)は国家なり」とも形容される権力を誇示したルイ14世の治世、フランスは、財務総監コルベールの施策により徴税機構の改革を行った。
 なにしろ当時の間接税の仕組みは複雑で、その種類は、塩税、煙草税、関税、パリへの入市税など多岐にわたっていた。これらの徴収業務を、国家に代わって行う請負人に委託するというのだ。


 そうはいっても、国家の名でもって仕事をするのであるから、それなりの信用、それに実力を備えている者の中から選んで委託契約をするのでなければならない。
 そればかりではない、その上に、請負人たる者、毎年、国家との契約に基づいて決められた税額をひとまず国庫に納めて、すなわち国民に肩代わりして前納することになっていた。

 したがって、このような容易ならざる仕事に就けるのは、才覚のみならず財力や人手をもった、いわば当時の特権階級の人間に事実上限られるのであった。
 
 それでは、このような制度の導入によって、何がどのように変わったのだろうか。国家の方は、このやり方だと、自分でこの難しい仕事を切り回す煩わしさから開放されるし、その見返りとして委託代金を支払えばよい。そういうことでは、予定していた税収をより効率的に確保できる道が開けたという。

 一方、請負人としては、定期的な収入が保証されよう。しかも、仕事の難しさは相当にあるにしても、徴収できないなどのリスクをクリアする限りにおいては、仕事の歯車は回っていく。また、国家の信用を担っているのだからと、世の中をうまく渡るのに体面も保てるし、徴税の多いほどに収入も増すという流れにて、経営も安定していったのではないだろうか。

 およそそういうことだからと、当初の請負人の数全土でわずか40人程度であったのが、その陣容で、一説には、「国家の総税収額の実に3分の1」を担っていたというから、もしそうであったとすれば、驚きだ。

 とはいえ、この商売、人口の約9割から、あれやこれやの税金を取り立てることで潤うということでは、国家の一機構に組み込まれている訳であり、一度国家が人民の矢面に立つような状況にいたると、「人民の血を吸う蛭(ひる)」と憎まれる存在となっていく。


(続く)


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(続く)


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♦️159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

2021-01-26 10:24:11 | Weblog
159の2『自然と人間の歴史・世界篇』陽明学(王陽明、16世紀)

 王陽明(おうようめい、1472~1529)は、明代の儒学者にして、思想家だ。明の高級官僚、その中で学者の子として生まれる。幼い時から、科挙合格を目指して、その頃の「官学」であった朱子学を中心に学ぶ。
 そのうちに、形式的、権威的な朱子学になじめず、一時仁侠・兵法・詩文・道教・禅宗などに耽溺したという。なにしろ、才気活発であったようだ。
 28歳で進士に及第して官僚となる。エリートへの道を目指していたのかどうなのか、35歳の時、悪宦官を批判して、皇帝の怒りをかい、貴州省の山奥の竜場に左遷された。

 とにもかくにも仕方ない。骨の折れる、厄介な仕事は、そんなになかったのではないか。山懐の場所なので静謐ないしは閑静な環境にして、思索にはもってこいの環境ではなかったか。

 ここで、北宋の程の「万物一体の仁」の思想と南宋の陸九淵の「心即理」説とに影響を受けつつ、ひたすら勉強したようた。そして、儒学の一派としての陽明学を創始するのであった。

 その学風だが、心即埋・知行合一・致良知(良知というのほ、全ての人間の中に存在するもので、是非の判断する能カ)をいうらしい。これをらを束ねて、「竜場の一悟」と号す。

 まずは、「心即埋」というのは、なんだろう。王によると、「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」とされ、私見では、心を落ち着かせて物事、事象を観察するうちに、なにかしら見えてくる、ということなのであろうか。

 次なるは、「知是行的主意、行是知的功夫、知是行之始、行是知之成。」とあるのは、書き下し文で「知は是(これ)行の主意、行は是知の功夫(くふう)、知は是行の始はじめにして、行は是知の成るなり。」と読まれている。
 今日でいうところの現代哲学「プラグラティズム」の主旨と、なにかしら類似しているのではないだろうか。

 それに、致良知というのも、ことさらのことではないようだ。ある解説によると、心の奥底にたしかめて非である時は、孔子の言葉でも是とはしない、というものであるらしく、独自な境地をいうのだろう。

 その点、朱子学は、究極には、一部のエリートしかできないが、こちらの致良知の思想は異なろう、こちらは誰にでも実行できるとも。
 ちなみに、王の論説には、こうある。

 「「大學」古本乃孔門相伝舊本耳。朱子疑其有所脱誤而改正補緝之、在某則謂其本無脱誤、悉從其舊而已矣。失在於過信孔子則有之、 非故去朱子之分章而削其伝也。夫學貴得之心、求之於心而非也、雖其言之出於孔子、不敢以為是也、而況其未及孔子者乎?求之於心而是也、雖其言之出於庸常、不敢以為非也、而況其出於孔子者乎?
且舊本之傳數千載矣、今讀其文詞、則明白而可通、論其工夫、又易簡而可人、亦何所按據而斷其此段之必在於彼、彼段之必在於此、與此之如何而缺、彼之如何而補?而遂改正補緝之、無乃重於背朱而輕於叛孔已乎?」(「伝習録」中巻:答羅整菴少宰書)

~(書き下し文)~

 「大学」古本は乃ち孔門相伝の旧本のみ。朱子は其の脱誤する所有るを疑って之を改正し、補緝す。某に在っては則ち謂えらく其の本には脱誤無しと、悉く其の旧に従いし而已矣。失は孔子を過信するに在りとは則ち之れ有り、故に朱子の分章を去って其の伝を削るに非ざる也。
夫れ学は之を心に得るを貴ぶ、之を心に於いて求めて非なるや、其の言の孔子に出ずと雖も、敢て以って是となさざる也、而して況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
 之を心に於いて求めて是なるや、其の言の庸常に出づと雖も、敢て以て非と為さざるなり、而るを況んや其の未だ孔子に及ばざる者をや。
且つ、旧本は之を伝わること数千載なり、今、其の文詞を読むに、則ち明白にして通ずべし、其の工夫を論ずるは、又、易簡にして入るべし。
亦た何の按據する所か在りて其の此の段の必ずや彼に在り、彼の段の必ずや此に在ると此の如何にして欠け、彼の如何にして誤るかとを断じて、遂に之を改正・補緝せんや。
 乃ち朱に背くを重んじて、孔に叛するを軽ずること無からんや。(「伝習録」中巻:「羅整菴少宰に答える書」

 中央政界に復帰後は、主に軍事畑をあゆんていく。流賊の取り締まりや反乱の鎮圧にも携わり、兵部尚書ともなる。

 したがって、総じては、世の中に揉まれていくのをよしとしないのとは異なる、さりとて世の中を取り仕切る権威への迎合するのでもない、かくして陽明学はこれにより最底辺の人にまで広がっていく。

 参考までに、「おまけ」としての人物評という流れなのだろうか、日本の陽明学者で知られ、その大いなる学風の下におおくの弟子を輩出した佐藤一斎(1772~1859)は、(王本人との面識はもちろんないのだが)こう褒め称えている。

 「「楽は是れ心の本体なり」惟(た)だ聖人のみ之(こ)れを全うす。何を以てか之れを見る。其の色に徴(ちょう)し、四体に動く者、自然に能(よ)く申申(しんしん)如(じょ)たり、夭夭(ようよう)如たり。」(佐藤一斎「言志四録」)
 ちなみに、「楽は是れ心の本体なり」とは、王陽明の言葉だとされる。


(続く)

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◻️191『岡山の今昔』岡山人(19世紀、山田方谷、その経済思想)

2021-01-25 22:44:42 | Weblog
191『岡山の今昔』岡山人(19世紀、山田方谷、その経済思想)

 山田方谷(やまだほうこく、1805~1877)は、それ、儒学の中でも、中国の明代の頃、活躍した王陽明(おうようめい)が打ち立てた陽明学によるものと聞く。

 そればかりではない、なかなかの経済にも通じた理論家であることは、例えば、次のような寓話を用いての話からも、かなりが窺えよう。
 なお、この論文は、佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済政策論にして、「事の外に立ちて事の内に屈せず」のみならず、「義を明らかにして利を図らず」ともいう。

 「財の外に立つと、財の内に屈するとは、已に其説を聞くことを得たり。敢へて問ふ、貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る。其の患ひを免れんと欲すれば、財に非ざれば不可なり。然れどもなほ其の外に立ってその他を謀らずとは、またはなはだ迂ならずや。


 曰く、此れ古の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整へ政令を明らかにするものは義なり。饑寒死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整へ政令を明らかにするを知るのみ。

 饑寒死亡を免るると免れざるとは天なり。それサイ爾の滕を以て斉楚に介し、侵伐破滅の患ひ日に迫る。而るに孟子の此に教ふるには、彊て善をなすを以てするのみなり。侵伐破滅の患ひは饑寒死亡より甚だしきものあり。而るに孟子の教ふるところはかくの如くに過ぎず。

 則ち貧土弱国其の自ら守る所以のものは、また余法なくして、義利の分の果して明らかならざるべからざるなり。義利の分一たび明らかになれば、守るところのもの定まる。日月も明らかとなすに足らず、雷霆も威となすに足らず、山獄も重しとなすに足らず、河海も大なりとなすに足らず。天地を貫き古今にわたり、移易すべからず。また何ぞ饑寒死亡の患へるに足らんや。

 しかして区々たる財用をこれ言ふに足らんや。然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり。なほ此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行ふこと数十年にして、邦家の窮のますます救ふべからざる何ぞや。」(山田方谷「理財論」)


 これの初めの問いに、「貧土弱国は上乏しく下困しみ、いま綱紀を整へて政令を明らかにせんと欲するも、饑寒死亡先づ已に之に迫る」とあるのは、いかにも切羽詰まった話なのだが、方谷の返答としては、最終の部分で、「然りといへどもまた利は義の和なりと言はずや。未だ綱紀整ひ政令明らかにして饑寒死亡を免れざる者あらざるなり」とあるのは、いかにも捨てがたい。
 それというのも、ただ義を明らかにして、利を計らないことが、かえって、その利にいたる道を万人に指し示すのだといいたいのだろうか。いづれにしても、方谷本人は、かのフェニキア人の「汝の道を歩め、人をして語るに任せよ」との格言にも蔵されているのであろう、絶対の自信に裏打ちされての、気迫の決意表明だとも受け留められよう。

 その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 そんな引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。
 できたばかのり明治新政府の要人として出仕するよう誘いを請けたとも伝わる方谷なのだが、固辞したらしい。すでに隠居の身の上にて、いまさら宮勤めは勘弁してくれというのであったのかもしれない。この点、今更ながら、断らなければより有名な身の上になったのではないかとの評にも出くわす。けれども、彼の名声の真骨頂は政治事に臨んでの勇断実行のほかにもあったはずで、それは上から目線で人に相対しなかったことにあるのではないか。
 新政府に出たら出たで、「富国強兵」が国是となる中、財政を担当する者には、終わりなき修羅場に違いあるまい。旧と新が激しく混ざり合う、混濁の世での対応には、気力と体力の消耗を強いられよう。必ずや出くわしたであろう、有象無象の政敵などに足元を狙われることもありうる。のみならず、晩年の方谷にとって、表舞台にて功なり名誉をほしいままにすることが人生の最終目的ではないことを、何かしら読み取ってのことだったのではないか。

 (続く)

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♦️随時改訂939『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ大統領選挙(その結果、2021.1.13時点)

2021-01-25 19:40:38 | Weblog
随時改訂939『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ大統領選挙(その結果、2021.1.13時点)

『州による選挙結果確定前』
 
 2020年アメリカ大統領選挙において、日本時間でいうと11月8日午前早くに、バイデン候補が過半数270人をクリアする選挙人の数を取るという意味で「当選確実」の形で出たという、アメリカの主要メディアが伝えた。
 また、今回は、郵便投票が極めて多かったという。そのため、終盤の開票作業が遅れていた。全体の確定には、もう少し時間がかかるとしていた。(注1)
 
(注1)として、今回注目の郵送投票、それに軍人や在外有権者の投票受け付けについては、こうある。

○アリゾナ州は、選挙人11名にして、郵送での投票は11月3日必着とする。
○ベンシルバニア州は、選挙人20名にして、郵送分は11月6日まで受け付ける。ただし、軍人や在外有権者は10日まで受け付ける。
○ジョージア州は、選挙人16名にして、郵送での投票は11月6日まで受け付ける。
○ノースカロライナ州は、選挙人15名にして、郵送での投票は11月12日まで受け付ける。
○ネバダ州は、選挙人6名にして、郵送での投票は11月3日必着とする。
 
 
 驚くべきは、まだメディアによる「当選確実」が出る前の時点でトランプ氏が「率直に言って、私は選挙に勝った」と述べたことだ。これでは、「自作自演」と批判されても仕方あるまい。
 これに対し、バイデン氏は「勝利を確信している」とはいえ、「開票が終わるまで辛抱強く待とう」と述べ、勝利宣言を行わなかったのは、候補者として当然なことだ。

 当選確実となった民主党のバイデン氏は、副大統領候補のハリス氏とともに、日本時間10時過ぎから演説を行ったという。その中でバイデン氏は、国民に融和を促すとともに、国民みんなの大統領になると明言し、賛同を求めた。

 なお、選挙の相手方のトランプ大統領は、これを認めず、今後は法廷闘争で挽回するという。どうやら、彼は、始めから、自分が一般投票で旗色が悪ければどうするかを決めていた節があるように見受けられる。
 
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 ちなみに、合衆国憲法修正第12条には、次の記述がある。

 「大統領として最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が大統領となる。過半数に達した者がいないときは、下院は直ちに無記名投票により、大統領としての得票者一覧表の中の3 名を超えない上位得票者の中から、大統領を選出しなければならない。
 但し、この方法により大統領を選出する場合には、投票は州を単位として行い、各州の議員団は1票を投じるものとする。この目的のための定足数は、全州の3分の2の州から1名または2名以上の議員が出席することを要し、大統領は全州の過半数をもって選出されるものとする。」
 
 また、合衆国憲法第二章第1条第3項は、次のように規定している。
 「各々の州は、その立法部が定める方法により、その州から連邦議会に選出することのできる上院議員および下院議員の総数と同数の選挙人を任命する。(後略)」

  加えて、1887年に制定された「選挙人算定法」には、その運用について、次の「セーフハーバー(承認領域)条項」が設けられている。
 「選挙人集会の少なくとも6日前までに、開票作業等の懸案が解決し、当選者を決定できるならば、その州議会の決定は当該州の勝者決定の最終決定とみなす」
 
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 そこで少し込み入ってくる話の方をいうと、仮に激戦州の結果が1月6日の時点でも決着せず、両者の候補者とも選挙人が過半数の270人に届かなかったとする。この場合、憲法修正12条の規定で、連邦議会の下院が直ちに「決選投票」を行うことになる。
 この場合の下院におけるこの決選投票では「各州で1票」ずつを投じ、52州の過半数の26票を争うことになっている。

 
 今後の予定としては、今回の2020大統領選挙の場合、12月8日が各州においての選挙結果確定の期限、12月14日には選挙人による投票が行われる。ちなみに、選挙法は、選挙人投票日を「12月の第2水曜日の後の最初の月曜日」と定められている。
 そして、明けての2021年1月6日には連邦議会、すなわち上下両院合同会議で投票結果を集計し、次期大統領が最終確定する。さらに、1月20日が新大統領就任式となっている。
 
 要するに、アメリカの大統領選挙の仕組みは、投票が済んでからも、誠にややこしい。2つの州を除き、有権者による一般投票で1票でも多く得票した候補者が、州ごとに割りふられた選挙人のすべてを獲得し、その選挙人による投票で、正式な勝者が決まる仕組みになっている。
 面倒なことには、各州で開票作業が行れた後、各州が選挙結果を認定して初めてその州でどちらの候補者が勝利したかが認定される。今回は、州による認定の締切りは12月8日なので、それまでに今勝敗が認定されることになる。認定されると、その後はそれを覆すことが困難になる。
 そういう流れから、トランプ陣営は激戦州での認定を遅延させる作戦に出ていると見られている。選挙結果が不当との訴訟を起こして12月8日までに認定ができない事態となれば、州議会が選挙結果を左右することのできる場合が出てくるからだ。
 
 
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『州による選挙結果確定後』
 
○バイデン候補は、51.1%、80,117,578(11/28の当該サイトで閲覧)
○トランプ候補は、47.2%、73,923,495(11/28の当該サイトで閲覧)
 
 11月半ばには、主要メディアが、選挙結果が確定されたとの報道を行った。それによると、双方が獲得した選挙人の数は、バイデン氏が306人、トランプ氏が232人となり、相当の開きがある。
 ちなみに、総得票数は高い投票率に支えられる形でともに7千万人を超え、その意味でも歴史的な選挙となった。
 
 しかしながら、この時点で、トランプ陣営はなお敗北を認めず、全米で数十件もの訴訟を次から次へと立ち上げるのをやめていない。

 例えば、ペンシルバニア州では、共和党員2人と民主党員2人の委員からなる同州選挙管理委員会は11月23日に会合し、共和党の1人が棄権、残る1人が選挙結果を認めたことから、州として認定が成立した。
 それからは、同委員会の判断は同州の州務長官と州知事による承認が必要であって、敗れた側は、ここで最後の抵抗を試みることもなくはないという、「そうなると、選挙で示された民意はどうなるのか」ということにもなりかねないものの、建国当時からの妥協の産物としての仕組みが現在も生き続けている訳なのだ。
 
 また、同州での訴訟のその後については、CNNニュースが伝えるところによると、トランプ米大統領の選挙陣営がペンシルベニア州の選挙結果に異議を申し立てた訴訟に関連し、連邦第3巡回区控訴裁(ペンシバニア州の連邦高裁)は11月27日、訴訟の復活を求めた陣営の請求を「根拠がない」として退けた。
 同州の選挙結果を巡っては、同州の連邦地裁が先週末、トランプ陣営の訴えを棄却している。これを受け、同陣営は第3巡回区控訴裁に訴訟内容の修正を申し立てていた。
 同裁判所の判事の弁として、「トランプ陣営は投票用紙に不正があったり、違法な有権者によって投票がなされたりしたとの主張を展開できていない」「ある事象を差別と呼んだからといって、実際に差別になるわけではない。第2修正訴状もこうした重大な瑕疵(かし)を抱えており、修正を認めることに利益がない」と伝わる。
 第3巡回区控訴裁の判事はまた、ペンシルベニア州による投票結果の認定の無効化を求めたトランプ大統領の申し立ても退けたという。同州としては、11月24日、選挙結果を認定し、バイデン次期大統領が同州に割り当てられた選挙人20人を獲得したことを正式に認めている。
 
 さらに、CNNニュースによると、11月28日夜の同州最高裁は、米大統領選をめぐって同州選出の共和党議員らが郵便投票の無効などを主張した訴えを退ける判断を下したという。共和党のマイク・ケリー下院議員らはペンシルベニア州の郵便投票を無効と主張し、結果認定の差し止めを求めていたものに対してであり、州最高裁の判事7人は全員一致でこれを退けた(却下した)という。
 大まかには、判事5人の多数意見として、ケリー氏らが郵便投票の手続き確定から1年、投票日からも数週間が経過した時になって訴えを起こしたのはあまりにも遅すぎると指摘した上、同氏らがこの線を残して訴状を書き直して再度訴えることもできないとの判断を示したという。
 
 
 それに、憲法修正第12条にある、「過半数に達した者がいないときは、下院は直ちに無記名投票により、大統領としての得票者一覧表の中の3 名を超えない上位得票者の中から、大統領を選出しなければならない」との規定との関連も、取り沙汰されている。
 しかも、そのような仮定の下では、人口が多い州も少ない州も同じレベルで扱われる建前となっている。そこで「もしそこで選挙人が決められなかったら、下院で投票」というのでは、なんのために選挙を行ったのか、わからなくなってしまうのではないか。この場合は、時代錯誤も甚だしいのと考えられよう。
 ちなみに、人口が最小なのは、ワイオミング州で578,759人、最大なのはカリフォルニア州の39,512,223人とされ(202011.8に当該サイトにアクセス)となっている。
 
 
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『連邦議会での選挙結果確定(2021年1月6日)』 
 
 そして迎えた、年が改まっての1月6日には、連邦議会において、ルール(注)に則り、同選挙結果を確定する手続きが進行していた。
 
(注)
 
 憲法修正第12条にはこうある。
 
「上院議長は、上院議員および下院議員の前で、すべての認証書を開封したの後、投票を数える。大統領として最多数の投票を得た者の票数が選挙人総数の過半数に達しているときは、その者が大統領となる。」
 ちなみに、この開票結果を認めない権限は、上院議長に付与されていない。 それというのは、一部の州政府が選挙人団の投票結果を連邦政府に送付しなかった事態が起きたことがあり、それを受けて制定された1887年の選挙人団法は、選挙人の投票結果を検討する権限を連邦議会に与えている。
 
 
 その途中、群衆が大挙して議事堂に乱入した。トランプ大統領の「議事堂に向かおう。そして、勇敢な議員たちを励まそう」との呼び掛けに応じた同大統領の支持者が踏み込み、一時的とはいえ、議場その他を占拠するに至る。
 前代未聞の出来事に違いない、議員らは避難し、難をまぬがれたが、議事は中断、再開されたのは、警察や州兵が群衆を排除してからである。
 議員らは、もはやほとんどが憲法の側に立ち、それが定める手続きを進めることとし、バイデン氏を次期大統領に選出した。
 この事件による一連の混乱により、5人の死者(暴動参加者および警察の双方で)が出たほか、逮捕者も多数に上る見込み。
 
(ここで参考情報として)
 
○1月6日午後4時過ぎの演説で、バイデン次期大統領は、「この国の民主主義が前例のない攻撃を受けている」という。
○バイデン氏は、また、「これは異議申し立てではない。混沌で、ほとんど反乱だ。直ちに終わらせなくてはならない」「議事堂への攻撃は抗議ではない、反逆だ」「本当にショックを受けて、悲しんでいる」「トランプ大統領に呼びかける。直ちにテレビの全国放送に出て、憲法を守るという自分の誓いを果たし、この占拠を終わらせるよう強く要求してもらいたい」などの主張を行う。
 トランプ大統領も同じ頃、ホワイトハウスで録画した演説動画をメディアに載せる。いわく、自分が勝った選挙をこれまで通り「盗まれた」としながらも、自分の支持者に向けては「もう家に帰って。平和が必要だ。法と秩序が必要だ。選挙は奪われたが、もう家に帰って」などとなだめる言葉も伝わる。

 なお、この米議会占拠をめぐる主な動きを時系列でみると、おおむね次の通り(いずれも現地時間)。

 ○1月6日、大統領選挙結果確定のための上下両院議会(上下両院合同会議)を開催。
○正午過ぎ、トランプ大統領が、負けを認めず、議事堂へ行くよう参集した支持者に演説を行う。自身は、ホワイトハウスに戻る。
○午後2時頃、支持者らの一部が暴徒化し、警備を破って議事堂に乱入。議事は中断、一部議員らは避難。
○午後2時半頃、ワシントンで午後6時以降の外出禁止令が出される。
○午後2時38分、トランプ大統領が、ツイッターで彼らに対して「平和的に」と伝える。乱入をテレビで知っても直ちに動こうとしなかったのが、周囲に沈静化へ向けての行動を促されたという。
○午後3時頃、支持者1000人以上が議事堂の包囲を続けていた模様。
○午後4時40分、トランプ大統領が、支持者に「家へ帰ろう」とビデオメッセージを投稿。
○午後5時50分、警察らが、暴徒を議事堂から追い出す、乱入から約4時間が経過。
○午後11時10分、混乱に際して4人が死亡と警察が発表。後、死亡者は5人と伝わる。
○1月7日午前3時40分頃、上下両院議会(上下両院合同会議)において、大統領選挙でのバイデン氏の勝利を確認。
 
 1月7日夜になってのトランプ大統領は、投稿凍結が解除されたツイッターに載せた2分半の動画に載せた、その中での弁には、こうあるという。
○1月20日でのバイデン政権への移行については、「円滑で整然とした政権移行」を行う。
○「議会は選挙結果を確認した。新政権は1月20日に発足する。私の焦点は、円滑で整然とした政権移行を確実に行うことにある。今は癒やしと和解の時だ。」
○6日のトランプ大統領支持者による連邦議会議事堂への乱入事件
については、「私はほかのすべての米国人と同様に、暴力、無法、大混乱に強く憤った。」
○乱入事件を起こした支持者たちに対しては、「あなたたちは我々の国を代表していない。法律を破った者たちへ、あなたたちは代償を支払うことになるだろう。」
○「素晴らしい私の支持者たちが失望していることは分かっている。だが、われわれの旅が始まったばかりであることも知ってほしい。」
 
 トランプ氏としては、民主党などから。この事件を煽ったのはトランプ大統領だとして大統領罷免を定めた憲法修正25条第4項(注)の適用を求める声も出ていることから、急遽大統領権力の平和的移行に態度をあ改めたものと見られる。
 
 (注)なお、前記に紹介した憲法修正25条4節の規定は、次の邦訳引用の通り。

 「副大統領および行政各部の長官の過半数または連邦議会が法律で定める他の機関の長の過半数が、上院の臨時議長および下院議長に対し、大統領がその職務上の権限と義務を遂行することができないという文書による申し立てを送付する時には、副大統領は直ちに大統領代理として、大統領職の権限と義務を遂行するものとする。
 その後、大統領が上院の臨時議長および下院議長に対し、不能が存在しないという文書による申し立てを送付する時には、大統領はその職務上の権限と義務を再び遂行する。ただし副大統領および行政各部の長官の過半数、または連邦議会が法律で定める他の機関の長の過半数が、上院の臨時議長および下院議長に対し、大統領がその職務上の権限と義務の遂行ができないという文書による申し立てを4日以内に送付する時は、この限りでない。
 この場合、連邦議会は、開会中でない時には、48時間以内にその目的のために会議を招集し、問題を決定する。もし、連邦議会が後者の文書による申し立てを受理してから21日以内に、または議会が開会中でない時は会議招集の要求があってから21日以内に、両議院の3分の2の投票により、大統領がその職務上の権限と義務を遂行することができないと決定する場合は、副大統領が大統領代理としてその職務を継続する。その反対の場合には、大統領はその職務上の権限と義務を再び行うものとする。」(インターネット配信のサイト「ウィキペディア」から引用)
 
 

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『連邦議会での選挙結果確定(2021年1月6日)からの展開』前大統領弾劾裁判へ
 

 2021年1月13日のアメリカ下院は、トランプ大統領の支持者らが連邦議会議事堂を一時占拠した事件をトランプ氏が扇動したとして弾劾訴追する決議案を、それは野党・民主党が11日に提出していたのを、賛成232、反対197で賛成可決した。
 党派別では、下院で多数派の民主党は全議員が賛成し、下院共和党ナンバー3のリズ・チェイニー議員ら10人の共和党議員も賛成した。
退任を1週間後に控えるトランプ氏が、6日に起きた事件からわずか1週間後に弾劾訴追される、しかも、米大統領に対する弾劾訴追は史上4度目で、任期中に2度にわたって弾劾訴追された大統領はトランプ氏が初めてとなるという異例の事態となった。なお、トランプ氏が2019年に弾劾訴追されたときは、共和党議員の賛成はなかった。


(続く)
 
 
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♦️259の4『自然と人間の歴史・日本篇』幕末・維新の群像(大村益次郎、河合継之助、高橋景保など)

2021-01-23 22:30:18 | Weblog
259の4『自然と人間の歴史・日本篇』幕末・維新の群像(大村益次郎、河合継之助、高橋景保など)

 くりかえすが、德川慶喜(とくがわよしのふ)は、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。
 そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。
  幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
 
 そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、均衡が破れ、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六、おおむらますじろう、1824~1869)を呼ぶ。


 その大村は、元はといえば町医の家に生まれる。やがて、妻の実家の村田家を継ぐ。18歳の時、防府(ほうふ、現在の山口県防府市)のシーボルトの弟子にして蘭法医の梅田幽斎(1809~?)の門下生となり、ここで医学と蘭学を学ぶ。
1846年(弘化3年)になると、大坂の緒方洪庵(1810~1863)に蘭学を学ぶ。洪庵の適塾では塾頭までなる。

 1853年(嘉永6年)には、長州藩とも親和的な付き合いのある宇和島藩に出仕し、蘭学の教授を担う、一説には、軍政改革に参画していたようだ。その後講武所教授として幕府に出仕するも、1860年(万延元年)には、萩藩の雇士となる。

 第2次長州征討には石州口軍事参謀として活躍し、休戦後は藩の軍制改革を担う。1869年(明治2年)には、その有能さを認められ、兵部大輔として兵制の近代化に着手していた。

 要は、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、江戸へと向かう新政府軍になくてはならない存在視された。その人物が、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。

 かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
 その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。

 かくて、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。 

 そんな「ばく進」中のように外からは見えていたであろう大村は、1869年(明治2年)、京都本屋町で凶徒の襲撃にあい、負傷し、大阪に送られる、大阪仮病院で足を切断するも、敗血症を併発し、力尽きた。
 その大村は、死にのぞんて適塾にいた頃を思い出してのことだろう、恩師の緒方洪庵のそばに葬ってほしいと遺言したという。その気持ちをくんでか、彼の切断した足は洪庵の墓(現在の大阪市北区東寺町の竜海禅寺)のそばに埋められ、その場所には現在、「大村兵部卿埋腿骨之地」と刻んだ石碑がたっているという。


(続く)

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♦️299の4『自然と人間の歴史・世界篇』伝染病との闘い(破傷風、ジフテリアなど)

2021-01-23 21:02:49 | Weblog
299の4『自然と人間の歴史・世界篇』伝染病との闘い(破傷風、ジフテリアなど)

 19世紀も残りの約10年にさしかかっていた頃、この方面での世界最先端の研究で知られるドイツのコッホ研究所では、破傷風菌の共生培養説が取り上げられていた。
 その場で研究に携わっていた北里柴三郎は、「コッホの4原則」にこだわり、「もし共生培養説により破傷風菌を決められるのなら、純粋培養で微生物を分離できなくても病原菌を特定できることになり、コッホの4原則は誤りだということになる」とし、話を聞いていたコッホ所長も「そう考えるなら、そのことを実験で証明したらどうか」と北里に指示したという。
 そこでのコッホの4原則とは、「 ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること」「 その微生物を分離できること」「 分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること」「その病巣部から、同じ微生物が分離されるこ」をいうとのこと。
 北里は、破傷風患者のウミを、水素ガスの中で培養するという方法で、ネズミへ接種して得た材料を用い、ペトリ皿で培養を試みてしてみた。しかし寒天平板上には雑菌のみが増殖したようであった。

 そこで今度は、寒天が固まる前に材料を入れて混合し、試験管高層培地(試験管を垂直に立てて入れた培地)として培養した。すると試験管の口に近い部分に雑菌が見られるとともに、試験管の底の方には破傷風菌とおぼしきものが沈殿しているのが認められたという、北里は後者に着目した。
 
 そこでさらに工夫が必要と考えての北里は、その試験管を加熱して寒天を溶かし、再び培養を試みる。すると試験管の口に近い部分に増殖していた雑菌は消え、破傷風菌らしき細菌のみが熱に負けない強い芽胞で生き残る形で試験管の底の方に増殖していたという。

 こうして1889年に破傷風菌はなんとか発見された訳だが、今度はこれの毒素の中和抗体をつくらないといけないと、研究を続ける。そして迎えた1890年、北里らは、破傷風菌を殺した培養液を注射したネズミの血液中に、破傷風の毒素の働きに抗い、無毒化しうる「抗毒素」がつくられていることを発見する。

 なお、この毒素は、後に「テタノスプスミン」と呼ばれる、もう少し詳しくは、例えば、「中原英臣(なかはらひでおみ)・佐川峻(さがわたかし)「脳ー最後の秘境への案内」株式会社グラフ社、1997を推奨したい。
 
 そこで、かかる抗毒素を含んだ血清(毒素を無毒、弱毒化したもの)を少量ずつ人に注射すると、破傷風を治すのに成功した。体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になったということで、「血清療法」と呼ばれる。

 また、こうしてできた血清療法は、破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用できることがわかり、北里は、同じ研究室にいて、ともにジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文「動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について」を発表する。

 この一連の功績により、北里は、一躍国際的な研究者としての名声を博すことになる。はたして、その破傷風の血清療法では、ベーリングが北里の研究を知り、すぐさまというか、北里に先んじてジフテリアの毒素を使って、北里とほぼ同様の実験を行い、ジフテリアの治療法を見つけた、その業績が評価され、1901年に第一回のノーベル医学賞がベーリング一人に与えられたのだが、北里はそのことを不満に思うような人ではなかったようだ。

(続く)


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♦️66の3『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの自然観(デモクリトス、アリストテレスなど)

2021-01-22 16:46:08 | Weblog
66の3『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの自然観(デモクリトス、アリストテレスなど)

 古代ギリシアにおいては、自然に出来上がりについての議論が、あれこれと、たたかわされていたらしい。
 その中でも際立つ自然哲学者がいて、その名をデモクリトス(紀元前470年頃~?)という。彼は、トラキア地方(現在のバルカン半島南東部)のアブデラの生まれ。市民の家の出身であったのではないだろうか、自然哲学者で原子論を創始したレウキッポスを師として原子論を学ぶ。彼はまた、「スペルマタ」を説いたアナクサゴラスの弟子でもあったと伝わる。

 その人生については、大方謎に包まれているようだ。それでも、一説には、財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養された時期があったものの、やがてその著作の公開朗読や弁論などにより収入を得るに至った、ともいう。また彼は、その博識のために民衆からは「知恵(ソフィア)」と呼ばれ、「知恵ある者(ソフィスト)」の先鞭をつけられた一人でもあったようだ。

 彼が関わった最も有名な話としては、自然が何によって構成されるかを巡る議論ではないだろうか。デモクリトスは、こう述べている。

 「魂は、それを構成する原子から成り立つが、それら原子は小さく球形をなし、きわめて動きやすく、魂を構成する原子群塊は他のすべての原子群塊よりもはるかに動きやすい。」(広川洋一「ソクラテス以前の哲学者」講談社学術文庫、1997)

 これにあるように、物質だけでなく、魂すらも原子から構成されているというのか、かれの物質観だ。その上で、すべての原子は、等質で、世界の多様性は、原子の形態と配列と位置から生まれる。これは原子と空虚の二元論、あるいは空虚を無視すれば原子一元論といってもよい。
 とはいえ、アトム(古代ギリシア語ていうatom)とは、これ以上分割できないものを意味する。しかし、デモクリトスが生きた頃の古代ギリシア前半期の物質観は、原子論は、自然の観察というよりは、直感と想像力によるもので、いわば、大方は意識の中でつくられたのであろう。


 これにつき、自然の四元素を説くアリストテレスは、こう紹介している。

 「レウキッポスとその仲間のデモクリトスとは、「充実体」(アトム)と「空虚」とがすべての構成要素であると主張し、前者を「有るもの」(存在)だといい、後者を「有らぬもの」(非存在)だといった。
 すなわちこれらのうちの充実し凝固しているもの「固体すなわち原子」は有るものであり、空虚で希薄なものは有らぬものだとしている(だから彼は「有らぬものは有るものに劣らず有る」ともいっている、というのは空虚の有るは物体(充実体)の有るに劣らず、との意てある)、そしてこれらをすべての事物の質料としての原因できあるとしている。」(アリストテレス「形而上学」)

 また、タレスは、万物の根源(アルケー)は水であるとした。そのうちに、アルケーは空気である、火である、土であるとの単独説がそれぞれ別に唱えられるのだが。
 その後には、エンペドクレスが、アルケーというのは、火・空気(風)と水それに土の四から成るとの、いわゆる四元素説を唱える。

 さらに、アリストテレスは、この説を継承した上で、かかる四種のリゾーマタ(物質)は「湿・乾」、「熱・冷」の四つの性質うち、いずれか一つずつの組み合わせにより、「地・水・空気・火」のどの元素になるか決まるという(「形而上学」)。
 具体的には、湿と熱 から 空気が、湿と冷 から 水が、乾と熱 から 火が、乾と冷 から地がつくられるとした。
 そして、この自然四元素説が、それからヨーロッパの中世を経て、近世に至るまでの社会において、抗い難い権威をもって重きをなし続けていく。

 そのアリストテレス(紀元前384~322)だが、トラキア地方のスタゲイロスの生まれ。
 紀元前367年には、アテナイに行き、プラトンの設立したアカデメイアに入門し、プラトンが死ぬまでの約20年間、アカデメイアに学ぶ。
 プラトン亡き後には、アテナイを去る。それからかなり経っての紀元前347年には、マケドニア王フィリッポス2世に招聘され、アレクサンドロス3世の家庭教師を務める。
 紀元前335年にアテナイに戻る。「リュケイオン」という学園を設立したと伝わる。
 紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、反マケドニア気運が盛り上がり国家不敬罪で訴えられアテナイを去り、母の故郷エウボイア島へ行き、そこで没.

(続く)

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♠️第二部

 デモクリトスが原子の存在を予見してからの、やがて原子の発見へ至るごく大まかなプロセスとしては、こうある、
 1789年には、フランスのラヴォアジエが、「可燃性気体」と酸素とが化合して水が生成し、またこの水にしても、赤熱した鉄に水滴をたらしてその水を酸素と水素に分解し、かつ、両者の質量の和が元の重さに等しいことを定量実験で実証した。そのことで、水は酸素と水素の化合物であること、したがって水は元素ではないことが明らかとなる。
 1800年には、イギリスの化学者ドルトンが、 原子論を化学の分野に適用する。19世紀末には、イギリスのクルックスが、 陰極線管を発明して、電子の各種現象を説明する。
 1897年には、イギリスのJ.トムソンが、 陰極線管の実験を通じ、電子の存在を確認する。
 1909年には、イギリスのラザフォードが、原子核の存在を確認する。
 1913年には、デンマークの物理学者ニールス・ボーアらが、原子の惑星仮説を提起する。ちなみに、彼の水素原子核模型でいうと、真ん中に原子核兵があり、電子はその周りを決められた半径1922年、ボーアはまた、原子核の形について説明を試みる。
 1923年には、フランスのルイ・ド・ブロイは、電子の波動性を提案する。
 1926年には、オーストラリアのシュレーディンガーが、原子の電子軌道を数学的に解明してみせた。
 1927年には、ドイツのハイゼンベルクが、自身の提起した「不確定性原理」を通じた電子軌道の安定性をいう。いうなれば、例えば、電子が、半径1オングストローム程度の球の中の、どの部分に頻繁に存在し、どのあたりには少なく漂っているかは、判明しているというのだ。
 1965年には、アメリカのファインマンが、量子エレクトロニクス力学を提唱する。1990年には、アメリカのコンビューター会社のIBMが、  原子を見ることができる顕微鏡を制作し、原子を粒子単位で撮影することに初めて成功する。

(続く)


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♦️340の5『自然と人間の歴史・世界篇』真空管の発明(フレミング、1904)

2021-01-21 21:02:31 | Weblog
340の5『自然と人間の歴史・世界篇』真空管の発明(フレミング、1904)

 それは、偶然のことだった。イギリスの物理学者ジョン・フレミングは、電波を使った通信に関わっており、エジソンが発見したかかるエジソン効果が整流作用に活用できるのではないかと考えた。

 具体的には、ラジオ受信機に必要な検波機能を考えた場合、高周波電流から音声情報を取り出して電気信号に整流する技術が不可欠であったからだ。
 そのフレミングは、こちらの方面に関心の薄いエジソンから実験球をもらい受け、研究に没頭、1904年に整流器として機能する二極真空管を発明するのに成功する。

 ここに二極真空管のフィラメント部分に電流を流すとしよう。そこからは、加熱され熱電子が放出される。具体的には、フィラメント(cathode:カソード、陰極)からプレーと、Plate(anode:アコード、陽極)側に正電圧を加えると、放出した熱電子は陽極に向かって飛び出す。

 その結果として、フィラメントからプレートへ向けて電子が流れ、プレート側からフィラメント側へ電流が流れよう。また今度は、フィラメントとプレートの電圧のかけ方を逆にして、プレートに負の電圧をかけてみよう。すると、プレート側に熱電子は飛んだりはせず、電流はプレートからフィラメントへのみ流れる、整流作用が働く。

 要するに、ここでの真空管の最大の持ち味というのは、カソードは加熱されているのにプレートは加熱されていないということから、プレートとカソードに逆向きに電池をつないでも、プレートから電子がほとんど飛び出さない、したがって、整流作用をもつ点である。
 
 いいかえると、1904年(明治37年)、フレミングが、エジソンの電球を基に発明した真空管は、二極真空管と呼ばれるものであった。この真空管の中では、加熱時に飛び出す電子がマイナスの負荷を帯びているため、プレートがプラスのときしか電気が流れない。
 それというのも、その仕組みとしては、プレートを電池のマイナスにつないだときには、マイナスの電子はマイナスのプレートに反発してしまい、プレート側に移動できないからなのだ。
 そういうことだから、通常の豆電球は、電池のプラスとマイナスを逆につないでも点灯するが、真空管はプレートがプラスの時だけ通電することになっている。そのため交流の電気や電波のように、電圧がプラスとマイナスの間を上下する波を真空管につなぐと、プラスの波だけ通し、かくて、真空管は電気の一方通行を行い、これを真空管の整流機能という。
 
 およそこのような働きのフレミングの二極管、さらに三極管は、それまでの鉱石検波器に取って代わっていく。


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♠️第二部
 さらに時代が下る中では、三極管ないし多極管となっていく。それとともに、時代は新たな素子を求めて、開発が行われていく、そしての第二次世界大戦後、真空管の一連の発明からかれこれ約50年後になると、新たな素子としての半導体の出現へとつながっていく。


(続く)

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♦️360の1の11『自然と人間の歴史・世界篇』テレビの発明と発展(1911~1940)

2021-01-21 09:24:08 | Weblog
360の1の11『自然と人間の歴史・世界篇』テレビの発明と発展(1911~1940)

 1897年には、ドイツの物理学者カール・ブラウン(1850~1918)が、ブラウン管(後の真空管の一種)を発明する。その実体は、彼によって考案物理実験用の陰極線管(CRT)である。いうなれば、陰極線(真空放電において陰極から放出される高速の電子の流れ)の方向を制御して観察する装置であって、後の時代にこれを受像機として応用したのがブラウン管テレビである。

 1911年には、ロシアで世界初となる、テレビによる送受信実験が成功する。しかし、実用化ということたではなく、この時点では映像の信号を増幅させるための真空管の技術が発達していなかった。

 1929年には、英国放送協会(BBC)がテレビ放送を始める。

 1925年、イギリスの発明家ジョン・ベアード(1888~1946)によって、初めてのテレビ有線で行われる。彼のテレビは、モーターで円盤を機械的に回すものであって、これを機械式テレビという。

 1926年、高柳健次郎(当時、浜松高等工業専門学校の教師、後に静岡大学名誉博士)が、初めてテレビを実用レベルで電送と受像を成功させる。とはいえ、そのできばえとしては、人の手や顔がどうにかテレビで見える程度であったという。

 1927年には、アメリカのベル研究所が、ワシントンとニューヨークとの間の長距離有線伝送実験を公開する。

 1928年には、ベアードが、ロンドンとニューヨークの間の大西洋横断送信を行う。同年、ベアードは、この年世界最初のカラーテレビ実験にも成功する。具体的には、アメリカのWGY局の実験放送として、このテレビジョン放送が、行われる。

 1929年には、英国放送協会(BBC)がテレビ放送を始める。ベアードの期待とは裏腹に、アメリカで考案された、電子式テレビを使うとの決定なのであった。

 1930年には、早稲田大学の山本忠興と原田政太郎とが、テレビ装置を組み立てる。

 1933年には、アメリカの無線会社の技師ツウォリキンが、アイコノスコープを発明する。
 その動作原理としては、送信側として使う真空管(内部を高度に真空化してある中空の管球)の中には、セシウムを塗った雲母板とコンデンサを配置する。そして、この雲母板にレンズを通して画像を投影する。
 それからは、光量に応じて雲母板に設置したコンデンサに電荷が蓄積され、この蓄積された電荷に電子ビームを放射すると、光量に応じた電流が流れて画像信号に変換するという仕組みだという。
 この蓄積型撮像管としてのアイコノスコープが発明されたことにより、初めて屋外の景色の撮像も可能となった。

 

 1935年には、ドイツがテレビ本放送を開始し、1936年ベルリンオリンピック大会をテレビ中継する。

 1940年には、アメリカでカラーテレビ実験放送を開始する。それからはなおさら、アメリカが開発の先鞭をつけた、走査円盤のかわりに真空管を使った電子式テレビが主流となっていく。


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♠️第二部(技術革新は次の時代へ)

 そして迎えた1948年6月30日には、真空管にとって替わる新たな電気素子が発明された。アメリカ・AT&Tベル研究所のウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンが発明した半導体の一種類としての素子を使ったトランジスタが初めて公開されたのだ。
 このトランジスタは、半導体を用いて電気信号を増幅・検波・整流・発振などをさせる役割を担う、いわばそれまでの真空管とほほ同じ働きをしながら小型・軽量・長寿命で消費電力が小さいなどの点で、それまでの真空管より優れていることから、以後急速に普及していく。

 それから、テレビの原理も発展を遂げていく。まずは、ブラウン管テレビから紹介しよう。このブラウン管は、真空中を走る電子の流れである電子ビーム(電子緑、陰極線ともいう)が、ケイ光体に衝突するとき発光する現象を利用し、電気信号を画像に変換する装置をいう。
 用途としては、テレビジョンの受像管が有名だ。細い電子ビームを作る電子銃、その飛ぶ方向を上下左右ヘ振る偏向器、それに偏向された電子ビームの衝突により発光するケイ光面(画面)の、3部分から構成されている。
 その動作としては、適当な電気信号を偏向器に入れて、電子ビームを左右、上下に振る、それに応じて発光点が移動し、線画を描くことにしている。これを足査というのだが、かかるケイ光面全面を発光点が高速で動くことにより、人の目の残像効果が働いて、ケイ光面全体が一様に光るように見える。
 

(続く)

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♦️279の8『自然と人間の歴史・世界篇』カメラの発明(1824~1871)

2021-01-19 20:54:04 | Weblog
279の8『自然と人間の歴史・世界篇』カメラの発明(1824~1871)

 印刷のみならず、新たな記録方法の実用化の目処が立ったのは、1824年のことだった。フランスの化学者ニセフオール・ニエプス(1765~1833)は、テレビン油にアスファルトを溶かし、それを銅板に薄く塗り、次に、それを「ガメラオブスキュラ」と呼ばれる、暗い部屋の壁に小さな穴が開いた装置に取り付けてみた。
 その状態で長時間露出したところ、光があたったところは固くなり、像が記録できるのを発見した。
 しかし当時は鮮明な画像は撮影できず、また露光時間に6~8時間を要したという。
 ニエプスは、その後、画家のフランス人ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1800~1877)と語らい、ともに研究を重ねていく。そしての1839年には、「銀塩写真法」を発明する。
 これは、銀板にヨウ化銀の薄い膜につくったものを感光材料に用いるものであり、同時に、銀板を食塩水で浸して安定させることで、現像及び定着の基礎も築くのに成功する。
 
 このカメラ技術は、さっそく実用化され、同年にフランスのジルー社から世界初のカメラ「ジルー・ダゲレオ・タイプ・カメラ」として発売された。かかるダゲール型のカメラにいたると、木箱に凸レンズ、反射鏡、すりガラスを使って銀板に風景を定着したと言えよう。
 
 その翌年の1840年には、イギリスのウィリアム・タルボット(1800~1877)が、紙を支持体にした感光紙を用いる方法を発明する、これには、「カロタイプ写真法」(「(紙)ネガ・(紙)ポジ法」)という名前が付く。
 これだと、1枚だけではなく焼き増しができ、また、紙ネガから陽画(陰画を感光紙に焼き付けた、明暗が実物どおりに反映される写真)に焼き付ける方法であることから、露光時間は2~3分と大幅短縮されたという。

 それからも、開発・改良の競争は、続いたようだ。1851年には、イギリス人の科学者フレディック・アーチャーは、ガラス板に「コロジオン」という塗料を塗布しての感光膜を使った「湿板写真法」を発明した。ころやり方によると、露光時間は10秒以下にまで短縮されたという。
 さらに、1871年には、イギリス医師リチャード・マドックス」が、「乾板」に着目し、これに、写真乳剤を塗布して乾燥させたガラス板を使用する方法を発明した。これだと、撮影者は感光膜を作ることなくして、生産された製品で撮影が出来るとの理屈だ。
 
 
 なお、いまでは高度化して、スマートホンにも内蔵されているカメラなのだが、その原型を市民レベルで知ることは大事てあり、例えば、「手作りカメラで写真を撮ろう」という見出しで、身近な材料を使ってカメラを自作するコーナー(有馬朗人・佐藤次郎編著「科学はやっぱりおもしろいー夏休み中学生科学実験教室」丸善、2004)もあることを紹介しておきたい。
 

(続く)


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♦️320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(覚え書き)

2021-01-19 09:39:42 | Weblog

320『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義社会、共産主義社会とは何か(覚え書き)

 はじめに、社会主義(ソーシャリズム)というのと、共産主義というのとでは、かなりの違いがあるということだ。
 前者では、「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」というのであって、資本主義でのような資本家による労働の搾取はなくなっているのが前提だとされる。
 それでも、労働能力には差がみられるのであって、その大小なりは、さしあたり市場で評価されたものなのだろう。とはいえ、その揺らぎなり、偏りは絶えず起こっていると考えられよう。したがって、その分を何らかの方法で補うことがなされるべきだと考える。
 その際、参考になりそうなのが、社会的共通資本の役割であって、こちらはできるだけ市場機構以外を通じての人々への給付を、できるだけ無差別、無料で行えるようにしたい。

 それから、後者の共産主義(コミュニズム)というのは、一応「コミュニティ」とか「コミュニケーション」などの系列に属する言葉なので、言葉そのものの印象の差はさほどではないだろうと考えている。

 しかして、こちらになると、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(注)になるという。

 とはいえ、それが社会を表現する意味合いとなると、ますますもってわかり辛いのではないだろうか。
 それというのも、資本主義社会では、私有財産制度をとっていて、各人はその能力に応じて働き、各々の資本の評価によって受け取る建前となっている訳だ。

 これをわかりやすくいうと、例えば、こうある。
「天は自ら助くる者を助く」というのは、中村正直が「西国立志編」(1871)でそう訳してから、日本にも定着したらしい。

 こういう言い回しの元は、ラテン語以来の古いことわざ(「fortes fortuna adjuvat」)なのだともいう。
 それが後代へと語り継がれていくうちに、格言にまで昇華したものか、はたまた世の中に流されていくうちに、今日見るような意味合いになったものだろうか。
 やがての17世紀、イングランドの政治家アルジャーノン・シドニーの著作「Discourses Concerning Government」の中に「God helps those who help themselves」という一文があるとのこと(「google books」で閲覧できるとのこと)。
 やや遅れての有名どころでは、18世紀のアメリカの技術者であり政治家、その他様々な才能で知られるベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」において、「God helps them that help themselves」なる思いを、誰に伝えたかったのだろうか。
 では、その意味としては、どうなのだろうか。これには諸説あるも、人に頼らず自分の力で生きていきなさい、というのが馴染みの解釈ではないだろうか。これだと、人生どうなるかはあなた自身の責任だ、ともなりかねない。



 そこで、ここでの本題に入ろう。こちらの堅固な意味での初めての提唱者は、これまたカール・マルクスであって、彼は19世紀に生きた人物だ。そのマルクスが社会主義の高度な段階としての共産主義社会について述べているのは、数か所に限られよう。その中から、幾つか紹介することにしよう。まずは、労働者の政党の綱領文書について、こう語っている。

 「共産主義社会のもっと高度な段階において、すなわち、ひとりひとりが分業のもとに奴隷のごとく組み込まれることがなくなり、したがって精神労働と肉体労働の対立もまた消失したのちに、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなくそれ自体の生命欲求となったのちに、さらにはひとりひとりの全面的な発展とともに彼らの生産力もまた成長を遂げ、協同組合の持つ富のすべての泉から水が満々と溢れるようになったのちにーそのときはじめて、ブルジョワ的な権利の狭隘な地平が看完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう記すことができるだろう。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(「ドイツ労働者党綱領評注」:カール・マルクス著、辰巳伸知ほか訳「マルクス・コレクションⅥ、フランスの内乱/ゴータ綱領批判/時局論(上)」、1993)

 

(注)「Jeder nach seinen Fa(aはウムラウト付き)higkeiten ,jedem nachseinen Bedu(uはウムラウト付き)rfnissen !」(この原文の出所は、KARL MARX「KRITIK  DES GOTHAER  PROGRAMMS」DIETZ  VERLAG社、ベルリン、1965、25ページ)

 

 二つ目の文章を紹介すると、彼の主著「資本論」には、こうある。

 「自由の国は、実際、窮迫と外的合目的性とによって規定された労働が、なくなるところで初めて始まる。したがって、それは、事柄の性質上、本来の物質的生産の領域の彼方にある。
 未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し、また再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。
 文明人が発展するほど、この自然的必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される。この領域における自由は、ただ次のことにのみ存しうる。
 すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この自然との彼らの物質代謝によって盲目的な力によるように支配されるのをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、また彼らの人間性にもっともふさわしく、もっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
 しかし、これは依然としてなお必然性の国である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が、といっても必然性の国をその基礎として、そのうえにのみ開花しうる自由の国が、始まる。労働日の短縮は根本条件である。」(カール・マルクス著、向坂逸郎訳「資本論」第三巻、岩波文庫、1967)(なお、この原文の出所は、KARL MARX「DAS KAPITAL ーKritik der  politischen  O(ウムラウト付き)konomie」Dritter  Band、DIETZ  VERLAG社、ベルリン、1980、828ページ)

(続く)

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