♦️805『自然と人間の歴史・世界篇』南アフリカでのアパルトヘイトの廃止

2017-09-30 23:19:29 | Weblog

805『自然と人間の歴史・世界篇』南アフリカでのアパルトヘイトの廃止

 ここに「アパルトヘイト」とは、南アフリカ共和国で1948年から始まり、1990年代まで続いた人種差別政策のことである。そして、この言葉の意味としては、同国で使用されているオランダ系現地語である「アフリカーンス語」においては、「分離」または「隔離」というものであった。
 さて、1990年2月2日、デクラーク大統領がANC(アフリカ民族会議)の合法性を認める見解を発表する。2月11日には、政府がANC(アフリカ民族会議)名誉議長部にて監獄に幽閉されていたネルソン・マンデラを釈放する。
 7月4日、イギリスのマーガレット・サッチャー首相がネルソン・マンデラとダイニング街10番地の首相官邸で会談を行う。サッチャーは、その時のことをこう振り返っている。
 「私は会談のなかで四つの点を指摘した。第1に、私は彼に〃武装闘争〃を停止するよう強く求めた。かつてはどのような正当性があったにせよ、それは終わった。第2に南アフリカ政府は新憲法を制定するための制憲議会を選挙で選ぶことに反対していたが、私は同政府の主張を支持した。白人社会の信頼、法と秩序を維持するためには、政府、ANC、インカタ(ブテレジ首長によるズール族を中心とした民族文化開放運動)、そのほかの勢力がすぐに憲法に関して合意すべきだった。第3に、マンデラ氏が国有化を口にすることが外国からの投資など経済全般におよぼしかねない害を指摘した。最後に私は彼がブテレジ首長と個人的に会うべきだとも主張した。」(マーガレット・サッチャー著・石塚雅彦訳「サッチャー回顧録 下」日本経済新聞社、1993)
 1991年6月に、南アフリカ共和国がそれまでの国策としてのアパルトヘイトの終結を宣言する。これを境に、国民融和の地ならしとして、アパルトヘイト政策が撤廃されていく。この政策を支えていたのは、基本的に4つの法律であり、それぞれの内容と、その撤廃の年代は次のとおりである。まず人口登録法は、出生児の人種別の登録義務を定めていたが、1991年6月に撤廃される。集団居住地法は、国民に対し、人種別に居住地の地域等を定めていたが、1991年6月に撤廃された。施設分離法は、国民に対し、人種別に公共施設の使用を定め、具体的には人種によって学校や病院などの公共施設の利用制限を決めていたが、1990年10月に撤廃された。そして土地法は、白人以外の人種の土地所有を制限したものであったが、1991年6月に撤廃された。
 これらの改革を踏まえ、1994年には、初の全人種選挙が実施された。この選挙でアフリカ民族会議(ANC)が勝利し、政権を掌握し、ネルソン・マンデラが大統領に就任する。1997年には、これまでの政策の総仕上げとして、全人種の平等などを柱とする新憲法が施行された。

(続く)

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♦️106『自然と人間の歴史・世界篇』ササン朝ペルシア

2017-09-30 10:16:41 | Weblog

106『自然と人間の歴史・世界篇』ササン朝ペルシア

 紀元後の3世紀になると、パールス地方のペルセポリス付近に定住し、パルティア帝国に支配されていたペルシア人の貴族アルデシール1世が、パルティア帝国の王と対立し、224年に王を討つ。226年クテシフォンを陥れる。これにより、パルティア帝国は衰退かせ滅亡への道へと下り、パルティア帝国に取って替わる形で、アルデシール1世は初代のペルシア王となる。こうして古代イランの地にあらわれたこの王朝を、ササン朝ペルシア帝国(226~651)という。アケメネス朝ペルシア帝国以来のペルシア人の王国の誕生である。
 ここに「ササン」とは、アルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティア帝国と同じクテシフォンに置かれた。パルティア帝国が遊牧イラン人主体であった。これに対し、この帝国は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。さらにアケメネス朝時代からペルシア人の拠り所であり、アルデシール1世が祭司の家柄であるササン家出身であることから、この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置く。その一環としてか、230年にはゾロアスター教を国教にして、宗教面からも国家統一をはかる。
 こうして新しい王朝をひらいたアルデシール1世であるが、彼は、西方のローマ帝国(紀元前27~紀元後395)の皇帝セウェルス・アレクサンデルと長きにわたって戦ったものの、破れる。けれども、ローマ帝国に対して力で渡り合ったという意味では、面目を保ったのではないか。そのアルデシール1世没後、王位を継承した子のシャープール1世は、ペルシアの中央集権化に努めた。彼は、外征にも積極的であった。東方へ向けては、インドのクシャーナ朝(1~3世紀)を敗ってアフガニスタンに進出した。また、父の代から抗争を続ける西方のローマ帝国とも戦い、軍人皇帝ヴァレリアヌスと対決し、260年皇帝を7万余のローマ軍とともに捕虜とする、これを「エデッサの戦い」という。ペルセポリス近郊にあるナクシェ=ルスタムの岩壁に刻まれた戦勝記念碑には、ヴァレリアヌス帝が馬上のシャープール1世の前で跪いている姿が彫られている。その後も、389年アルメニア地方をローマと分割して統治するにいたる。そのアルメニアの帰属をめぐって、ローマ帝国とササン朝との抗争は続く。シャープール1世はアルメニアに進出してローマ軍を破り、東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫する。
 395年には、ローマ帝国は東西に分裂する。ササン朝にとっては東ローマ帝国(ビザンツ帝国、395~1453、ただしコンスタンティノープル遷都の年である330年を建国年とする場合もある)が新たな敵となる。ササン朝第15代バフラーム5世治世の425年、アフガニスタン北部に興っていたエフタルと激戦を交わされる。ササン朝は西のビザンツ帝国、東のエフタルと、2大強敵と戦う宿命に立たされた。
 ササン朝最大の君主・ホスロー1世(在位は531~579)の時代になると、6世紀に中央アジアに興ったエフタルに侵入され、一時衰えていた。そしてホスロー1世が出て国力を回復し、エフタルを撃退するとともにビザンツ帝国と互角に戦うにいたる。こうしてホスロー1世はササン朝の盛り返していくのであった。562年には、エジプト遠征を行い、翌563年にはトルコ系遊牧騎馬民族突厥(とっけつ、552~744)と同盟を結んでエフタルを挟撃してこれを滅ぼし、バクトリア地方を征服、570年には南アラビア(イエメン地方)遠征を行い、同地を占領した。ホスロー1世の最大の対決相手は、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世、在位527~565)だった。当時のビザンツ帝国は、周辺のゲルマン国家、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を征服)を下し、を次々と征服して国力を上げていた。
 ホスロー1世は、対外政策を有利に進めるばかりでなく、内政においても有能であった。国土を4行政区に分割して土地台帳をつくり、地租制度を入れて財政を強化した。バビロニアでは運河を建設し、古代メソポタミアからの灌漑農業を発展させ、国内の交通路も整備していく。宗教面では、シャープール1世の時にマニ教が保護されたことがあったのだが、ホスロー1世は国教としてのゾロアスター教(火を扱うことから「拝火教」ともいう)の整備に努め、聖典『アヴェスター』を編纂させる氏法では、マニ教は異端として禁止される。また、ササン朝の文化はシルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えていく。他の宗派に向けては、マズダク教の弾圧とキリスト教の寛大策がある。さらに431年、ホスロー1世はビザンツ帝国におけるエフェソスの公会議で、異端とされたキリスト教・ネストリウス派(キリストの神性と人性を分離して解釈する一派)を、反ローマ帝国の一環として受け入れる。
 また、過去の君主と比べても群を抜く文化の保護者であった。諸外国から学問・芸術品・特産物を取り入れていく。最も輝きをなしたのは工芸品であろうか。金・銀・青銅・ガラスなどを材料にして皿・瓶・香炉・陶器などが製作された。この工芸文化は、その後ペルシアに現れるイスラム世界でも影響を受け、西は地中海諸国を中心に、東はインド・中国(南北朝・隋唐時代)をへて、日本の飛鳥・奈良時代にも伝播するのである。奈良の正倉院(しょうそういん)には白瑠璃碗(しろるりわん)・漆胡瓶(しつこへい)、同じく奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)においても獅子狩文錦(ししかりもんきん)などがその代表である。他にも、「ササン朝美術」は、現在も異彩を放っている。語学ではこれまでのパフレヴィー語に加えギリシア語・サンスクリット語が研究されたという。全体に、アケメネス朝以来の伝統文化にインド、ギリシア、ローマといった東西の諸外国文化を融合させ、新しいペルシア文化を開花させた。
 ホスロー1世の治世後も、ビザンツ帝国と何度も戦う。有名なのは、ホスロー2世の治世になっての27年のニネヴェの戦いでは、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスの軍と激突する。そのホスロー2世の治世下でシリアやエジプトを攻略するなどしたことで、ササン朝の版図は最大となった。しかし、対外政策における軍費負担は、帝国の財政を逼迫させていく。諸侯の内部対立も激しくなっていった。ホスロー2世没後のササン朝ペルシア帝国の君主は、ほぼ1~2年の王位交代劇を繰り返していき、だんだんに国力が衰えていった。その間もボスボラル海峡を挟んで西の東ローマ帝国とも戦わねばならなかったこともある。そして、正面を向いては、新たなる敵・アラブのイスラム軍の来襲も始まる。
 そして迎えた7世紀、ササン朝最後の王ヤズデギルド3世(在位は532~651)のとき、しかし、長期にわたるビザンツ帝国との抗争は次第に国力を奪い、その間にアラビア半島に興ったイスラーム教勢力がササン朝領に侵攻を開始していた。642年、アラブの正統カリフのウマル1世(在位は634~644)のイスラム軍が、ササン朝における交通の要衝であったニハーヴァンド(ザクロス山脈北西方面)でペルシアと大戦争を繰り広げる。そして、ペルシアのヤズデギルド3世の軍はウマルの軍に完敗、ウマルはササン朝ペルシアの領域を占領する。ヤズデギルド3世はカラクーム砂漠南部のメルヴまで逃亡する。これを「このニハーヴァンドの戦い)」といい、これをもってササン朝ペルシアは滅亡した。これによってイラン人のイスラーム化が進み、西アジア史は一変していく。

(続く)

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♦️105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

2017-09-30 10:13:37 | Weblog

105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

 アケメネス朝ペルシアを語るには、どのくらいまで遡るべきだろう。アッシリア帝国(?~紀元前612、首都はアッシュール、紀元前8世紀末からはニネヴェ)。アッシュール・バニパル王(在位は、紀元前669~626)のもとで最盛期を迎える。紀元前612年には、リディア王国(小アジア地方、インド・ヨーロッパ系)、メディア王国(イラン高原、インド・ヨーロッパ系)、カルデア王国(バビロン地方、セム系)、そしてエジプト王国(第26王朝)に分立するにいたる。
 これらのうち、メディア王国は、ペルシアとメソポタミアを治めていた。そんな中でも、イラン地方では、配下にあったインド・ヨーロッパ系のペルシア人(イラン人)が独立心にを強めていく。現在イラン南部に位置するパールス(パルサ。アラビア語では「ファールス」)がラテン語化し、「ペルシア」と呼ばれるようになったという。始祖アケメネス(生没年不明)のもとでおこったが、やがて、キュロス2世がペルシア人の王として振る舞うようになってからは、メディアからの解放運動が激化していく。紀元前550年には、メディア王国の最後の王を殺害し、メディアを滅ぼしたキュロス2世は、スサ(スーサ。イラン西南部)を都にアケメネス朝ペルシアを(紀元前550~同330)建国し、同国の初代君主となる
 キュロス2世は、紀元前546年にリディア王国、紀元前538年に新バビロニア王国を滅ぼし、領土を拡大していく。戦いに明け暮れるばかりではなく、新バビロニア王国を征服した後には、バビロン捕囚(紀元前586~同538)を受けていたユダヤ人をパレスチナに解放し、被征服民に対しても信仰の自由、祭祀・慣習許可など寛大な対応を行った。キュロス2世の没後、王位に就いた子カンビュセス2世は、紀元前525年にエジプトにも侵攻して第26王朝を滅ぼし、第27王朝をおこした。これによりアケメネス朝ペルシアは、古代オリエントのみならず、東はインド西部、西はエーゲ海、北は中央アジア、南はアフリカの地中海沿岸部その他まで、ほぼ全オリエント統一を達成し、それまでの歴史上アッシリア帝国に次ぐ第2の地理的領域をもった世界帝国となる。
 アケメネス朝ペルシアを全盛期に導いたのは、カンビュセス2世没後に即位した三代目のダレイオス1世(在位は紀元前522~同486)である。彼の功績は、イランのケルマンシャー東方にある楔形文字(ペルシア文字)の磨崖碑・ベヒストゥーン碑文に刻まれている。ダレイオス1世は、これ以外にも税制(サトラッピア単位に徴税額を決定)や新貨幣制度(金貨・銀貨鋳造)を行う。さらに、スサ南西(現在のイランの首都テヘランの南約650キロメートルのところ、ファールス州にある)に王都ペルセポリスを建設するにいたる。この都市の建設は、紀元前520年頃に始まり、それからほぼ60年後に完成したというから、驚きだ。かくも大規模な都市の正門とされるクセルクセスの門(通称「万国の門」)を入ると、人面右翼獣身像が居丈高な姿で迎えてくれる。貢ぎ物を持って訪れる属国の使者は、さらに進んで最大の宮殿アバダナ(謁見の間)に進んだのであろうか。ペルセポリスには、楔形文字で刻まれた碑文(ペルセポリス碑文)や階段のレリーフがちりばめられ、帝国の権威を演出する役割を担っていたと考えられる。
 その後、ダレイオス1世は、イオニアをめぐってギリシア・ポリスと戦闘を交えるものの(これをペルシア戦争という。紀元前500~同449)、勝利するにはいちらなかった。その後に子のクセルクセス1世がこれを受け継ぎ戦うが、これも敗退を重ねる。その後はゆるゆると衰退し、最後の王ダレイオス3世も東方遠征を行っていたマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356~同323)の軍と戦って敗死してしまう。紀元前330年、首都のペルセポリスはマケドニアのアレキサンダー大王の侵略による火災で炎上し、アケメネス朝ペルシアは建国220年目にして滅亡する。
 アケメネス朝滅亡後には、ペルシアはアレクサンドロス帝国による支配下に置かれた。アレクサンドロス大王没後、帝国は分立し、領土の大半を継承したセレウコス朝シリア(紀元前312~同63)の統治となる。その後、中央アジアからバクトリア(ギリシア系)、カスピ海東南地方(パルティア地方)からパルティア(イラン系)が独立した。その1つパルティア王国はイラン系遊牧民の一派パルニ族首長アルサケス(生没年不明)がティリダテス1世として、ヘカトンピュロスを首都にアルサケス朝パルティア(紀元前248?~226?、中国読みでは「安息」(あんそく)という)を創始したことに始まる。セレウコス朝を西へ追って、領土を拡げていったパルティア王国だが、ミトリダテス1世(在位は危険前171~同138)のとき王国として確立し、バビロニア侵入後の紀元前141年、ティグリス河畔にあったセレウコス朝のセレウキアを陥れる。また紀元前129年、同地近郊に新都クテシフォンを建設、セレウコス朝滅亡後はローマ帝国と戦いを交わしていく。

(続く)

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♦️449『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ(スエズ運河国有化)

2017-09-29 12:51:14 | Weblog

449『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ(スエズ運河国有化)

 スエズ運河は1869年に営業を開始した。工事に当たったのは、フランスの技師レセップス他で、フランス資本が行うものであった。1875年に、これをイギリスが買収する。以来、スエズ運河会社がその利益をイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはごくわずかな利益だけが分け前として与えられる日々が続く。1876年、フランスとイギリスが共同でエジプト国の財政の管理を始める。その6年後の1882年には、イギリスがこのエジプト国を占領し、エジプト人を排除しての統治を始める。
 それからかなりの年月が経過していく。第二次世界大戦で、アフリカと中東を巡る情勢は大いに変わった。エジプトにおいては、1952年、ナセルによる軍事クーデターで王制が打倒され、エジプトは共和制に移行する。そして迎えた1955年に、スエズ運河国有化事件が起こる。
 国際経済学者の木下悦二氏は、この事件の背景ならびに契機をこう伝えている。
 「事の起こりは、中立主義を掲げたエジプトが1955年にチェコスロバキアとの間で結んだ武器購入契約である。スエズ運河の意義は低開発国の民族主義が冷戦体制を直接脅かすものとして現れたというにとどまらない。アメリカ、イギリス、フランスはこれを阻止しようと圧力をかけた。
 一つはイギリス、フランスによるエジプト綿花の買い付け量大幅削減であり、今一つはエジプトが経済発展の戦略目標としていたアスワン・ハイ・ダム建設資金の融資承認の一方的破棄であった。後者は世界銀行を中心にアメリカ、イギリスも加わって4億ドルの融資を与えていたものである。エジプトはこの破約に対抗して、スエズ運河の有償国有化を断行して運航料をダム建設資金に振り向ける決意をした。運河の利権国イギリスとフランスは技術者引き揚げ、エジプト資産の凍結をもって応え、なお阻止できないとみて、イスラエルのエジプト侵攻を口実に直接の軍事介入にふみ切った。」(木下悦二「現代資本主義の世界体制」岩波書店、1981)
 木下氏は、この事件のその後の展開について、こう説明される。
 「こうした動きに対し、ソ連および社会主義圏諸国が積極的支援に乗り出し、エジプト綿花の買い付け増量、ソ連のダム建設への資金的技術的援助供与に加えて、軍事介入には当時水爆開発で優位に立っていたソ連が強い警告を行った。さらにアジアやアラブの国々もエジプトの支援に廻った。こうして軍事介入にアメリカが同調しなかったこともあって、この事件はエジプトに有利に解決したのである。」(同)
 これにあるように、当初のエジプトとしては、武器輸入が出来ないかぎり、イギリスとフランスに対し、軍事的な勝利はおぼつかないところであったろう。また、その頃のイスラエルは、アカバ湾の出口であるチラン海峡をエジプト海軍に封鎖されインド洋への出口を失っていたことから、それへの反撃の機会を狙っており、戦争をより困難な方向に導くものであった。こうした状況下で、イギリスとフランスは逆提案という形で運河の国際管理案を持ち出しつつ、イスラエルをエジプトに侵攻させ、さらに両軍がスエズ地区に出兵して第2次中東戦争(スエズ戦争)に拡大させるのであった。
 軍事的な劣勢にあったエジプトのナセル大統領は、彼らに対抗するため、ソ連に接近するにいたる。その甲斐(かい)あってソ連などから戦車約300両、火砲その他約500両などを手に入れたのだという。これは、それまでの中東の軍事バランスを変えるほどの大量の兵器であった。しかし、これによってエジプトがかれらと互角に戦える訳ではなかった。その後の戦争のなりゆきは、イスラエル軍が奇襲によってシナイ半島を占領、エジプトはが後退したところで、国際世論はアメリカのアイゼンハワー大統領をふくめてイギリスとフランスを非難するにいたる。国際世論がエジプトに傾く中で、ついには英仏もスエズ運河の管理をエジプトに委ねることに合意せざるを得なかった。

(続く)

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♦️132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

2017-09-29 10:27:01 | Weblog

132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

 神聖ローマ帝国と呼ばれる国家(~1806)は、いつから始まったのか。一つは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などを撃退し、イタリア平定に成功したことで声望が高まると、彼はローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられる。その地理的領域は、現在のドイツを中心とした地域であったといえよう。今ひとつは、カール大帝の大フランク王国が、西ヨーロッパほぼ全体を支配するにいたった時からをいうもので、欧米ではこちらの説明の方が通常であるという。いずれにおいても、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは13世紀のことであるから、ここではひとまず、その「前史」ということにしておきたい。
 さて、オットーが冠を被るようになる前のことを振り返ってみよう。843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、フランク王国は東・西フランクと北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺される。そのことが尾を引いたため、東フランクの帝位が途絶える。それから919年には、彼の父のザクセン人のハインリヒ1世がオットー(ザクセン)朝をひらく。新国王は貴族層を抱え込むことで東フランク王国の分裂を食い止める。
 そしてハインリヒ1世は、あることを決意するにいたる。自分の後に長男オットーを即位させるに際しては、これからの王室は長子相続でいくことを表明する。その頃はまだ、ドイツ王がその皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。新国王は、盛んに外征を行う。そして、「ローマ帝国を担うドイツ人」という意味あいを込めての戴冠により、「ローマ帝国」皇帝と呼ばれるようになってからは、今度は東方辺境のエルベ川以東にまで進出していく。この頃のオーデル川の向こうには、既にポーランドが誕生していた。オットーは、宗教政策にも長けていた人物であり、現世における「加味の代理人」としてもふるまう。
 この「ローマ帝国」期の皇帝は、イタリア王と東フランク王を兼ねた君主であった。1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねる。ところが、こうして権力の強化に向かっていた帝国のことを、警戒していた勢力があった。1076年ローマ教皇グレゴリウスは、「ローマ帝国」の国王ハインリヒ4世を破門するにいたる。教皇は、帝国の統治範囲を、元のアルプス以北の土地、すなわち「ドイツ人の王国」に限定しようとしたのであった。その破門の翌年のカノッサ事件で、ハインリヒ4世は屈辱的な屈服をした。1122年にはヴォルムス協約が締結され、それの教皇側よ文書においては、国王による上位聖職者の叙任手続きについて、「ドイツ王国」と「帝国とその他の領域」との峻別が見られる。つまり、ここでの教皇側は、厳密な意味での「ローマ帝国」を認めているのではなくて、王権の範囲を「ドイツ王国」に限定しようとしたのであった。
 ところが、1157年には、その力関係に変化が起きる。フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、皇帝の地位を教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるという意味で「神聖帝国」の国号を使うにいたる。世俗権力がより大きくなってきたのである。この間のローマ帝国皇帝は、オットー1世以来のザクセン朝)(962~1024)からザリエル(フランケン)朝(1024~1125、一時ザクセン朝に戻る)へ、次にシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン)(1138~1254)へと王統が入れ替わっていく。さらに、そのシュタウフェン家の断絶後の諸侯による選挙で二人が同時に選ばれ、そのどちらも帝国内にいないという意味での、大空位時代(1254~1273)に突入する。その始まりの頃からは、皇帝と諸侯が自らを呼ぶときに「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire)が使われる。ただし、皇帝は、イタリアへの関心を強く持ちながらも、ドイツ地域においては有力諸侯がそれぞれ領邦を形成していたことから、皇帝の支配権はだんだんと十分に及ばなくなっていく。
 そして迎えた1273年、かかる「大空位」を解決することを目指して、諸侯は相談して、神聖ローマ帝国の帝位をハプスブルグ家のルードルフに与えることにし、彼が選挙でてい皇帝に選出される。その後も、諸侯による選挙で皇帝が選出されるが、有力家系が続いて選出されることが多かった。具体的には、ハプスブルク家、ナッサウ家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハ(バイエルン)家などがめまぐるしく交替し、同時に二人が選出されることによる二重選挙もあったりで、皇帝の座は安定しなかった。ようやくルクセンブルク朝(1346~1437)のカール4世が出て、1356年に金印勅書を定めることでドイツの有力な7選帝侯による選挙で選ばれると定める。その選帝侯には、裁判権や貨幣鋳造権など、自治権が広く与えられる。
 1438年、ルクセンブルク家の断絶を受けた選挙によってハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されると、以後ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の帝位をほぼ独占して世襲することで、帝位が維持されていく。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなっていく。この頃までには、皇帝のイタリア王権・ブルグント王権は失われるにいたっていた。さらにその後の神聖ローマ帝国だが、17世紀の中頃からは急速に力を失っていく。その皇帝位はハプスブルク家が継承して細々と続いていたのだが、ナポレオン戦争で敗れて1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろす。

(続く)

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♦️128『自然と人間の歴史・世界篇』西ヨーロッパの形成(フランク王国の盛衰)

2017-09-28 21:38:55 | Weblog

128『自然と人間の歴史・世界篇』西ヨーロッパの形成(フランク王国の盛衰)

 フランク王国は、元はライン川の東岸周辺にいたゲルマン人の最有力の一派、フランク人が打ち建てた国とされる。いわゆる「ゲルマン人の大移動」の一つの流れで、だんだんに西方へ移動していく。476年に西ローマ帝国が滅亡してからは、その後を襲い、ライン川と右岸からガリア(現在のフランス)に侵入していく。当時のかれらは、大まかにサリ族とリブアリ族という支族にわかれていた。それぞれ『サリカ法典』、『リブアリ法典』というラテン語で書かれた部族の規則をもっていたという。
 481年、フランク人のサリ族のメロヴィング家のクローヴィスがフランク人の各部族を統一する。相次ぐ戦いで西ゴート人他の勢力を下しつつ、北フランスの大方を占領し、自ら王をなることでメロヴィング朝フランク王国(481~751)を建国する。
 5世紀末頃、クローヴィスが改宗してアタナシウス派に帰依するにいたる。これにより、ローマ・カトリック教会と結びつく端緒をつくる。彼の後継者たちも、このローマとの友好関係を深めていく中で、534年にはチューリンゲン王国やブルグント王国を攻めて滅ぼし、ガリア全域を手に入れる。フランク人たちは、ライン川中流域からマイン川流域へと進出し、この地域はその後に「フランケン」と呼ばれることになる。とはいえ、メロヴィング朝はゲルマン人の分割相続制を継承していた。そのことから混乱が繰り返され、6世紀半ばには東北部(アウストラジア)、中西部(ネウストリア)、南部(アクイタニア)、東部(ブルグンド)の4つに分かれる。国王も4人いて、互いに覇を競い合うということになる。
 それでも、7世紀初めのクロタール2世の時にいったん統一は回復されたが、その内実は、一致団結とはほど遠いものであったとか。そのうちに、クロタール2世を助けたピピン(大ピピン)のカロリング家が、宮宰として実権を振るうようになっていく。このカロリング家だが、王国東部の分国であるアウストラシアの宰職を代々継承していた。またこの頃から、ヨーロッパ南部へのイスラームの侵入が激しくなっていく。ここにして、メロヴィング朝は存亡の危機に立たされる。732年にカロリング家の宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦いでイスラム勢力の進出を食い止めると、カロリング家の名声がさらに高まっていく。
 そして迎えた751年、カール・マルテルの子ピピン(小ピピン)が他の内部勢力を抑え、既に名目的存在と化していたメロヴィング家を押し退け、新しい王位に就きピピン3世となることで、カロリング朝フランク王国(~987)を創始する。その見返りに北イタリアのランゴバルト王国のラヴェンナ地方を攻め取る、そして、この奪いとった土地であるラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進するにいたる。768年、その息子のカールが後を継ぐと、彼は774年に北イタリアに侵攻してランゴバルド王国を滅ぼし、800年にはローマのサンピエトロ寺院でローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられる、これを「カールの戴冠」と呼ぶ。このようにしてローマ教会の保護者としてキリスト教世界の中の宗教的権威の座をも獲得したことで、カール大帝のフランク王国は西ヨーロッパのほぼ全域を支配する王国へとのし上がっていく。
 現在のフランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・北イタリアを合わせた地域に加えて、東方ではハンガリーに侵入したアヴァール人を撃退したカール大帝であったが、イベリア半島ではイスラーム勢力と戦った。大帝は当時の上層階級の文化の守護にも熱心であり、アーヘンの宮廷にイギリスから神学者アルクィンを招くなどしたという。しかし、地中海はイスラム勢力によって抑えられたため地中海を掌握することでの遠隔地貿易は行うことができず、西ヨーロッパには農業生産を基盤とした封建社会が続くこととなった。
 やがてカール大帝の子や孫たちの時代になると、封建制度のもとにあったフランク王国の統一性の弱さが路程されていく。カール大帝の死後は分割相続というゲルマン社会の相続制度もあって、大フランク帝国の領土は分割へと向かっていく。843年のヴェルダン条約において、まず東フランク王国ができる。それから中部、そして西部のフランク帝国と分かれていく。これらのうち中部フランク王国は、やがてロートリンゲン(現代のフランスのロレーヌ)、ブルゴント(現在のフランスのブルゴーニュ)、そしてイタリアの三つに分割されていく。さらにその後の歴史の経過において、東フランク帝国はロートリンゲンを併合して今日のドイツにほぼ相当する地域の支配に進み、西フランク帝国は今日のフランスの母胎になっていく。それからも、カロリング家の王位を巡っては三国それぞれで世襲が続いていくのであったが、875年にはイタリア王国が、次いで911年には東フランク王国が、さらに987年には西フランク王国が断絶する。

(続く)

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♦️589『自然と人間の歴史・世界篇』フルシチョフ失脚とコスイギン経済改革

2017-09-28 10:12:21 | Weblog

589『自然と人間の歴史・世界篇』フルシチョフ失脚とコスイギン経済改革

 1964年10月、第一書記で首相のフルシチョフが失脚した。彼の党第1書記からの事実上の解任は、それについて書かれた色んな史料を当たると、およそつぎのような模様であったらしい。10月12日、休暇中の彼を出し抜いた形で、党中央委員会幹部会が開催され、二つの決定事項があった。一つは、農業問題に関する討議の必要などを話してフルシチョフをこの場に呼び出すこと、今ひとつは同時にモスクワに党共産党中央委員とその候補などを招集することだった。翌13日から14日にかけて、保養先からモスクワに呼び戻されたフルシチョフを入れて党中央委員会幹部会が開催される。そこで、バトルが始まる。その中で、ブレジネフなどはフルシチョフの下で行われてきた経済改革の遅れ、集団指導違反などを理由に批判を彼に集中する。
 最後にはブレジネフがフルシチョフの党第1書記職を解任する動議を出したときには、誰一人これに反対する委員はいない。そこで、フルシチョフをして「闘うつもりはない」と全ポストから勇退させることに成功し、その党内手続として予定どおり、この席でフルシチョフ辞任問題で緊急の中央委員会総会を招集することが決定される。続く14日、ソ連共産党中央委員会の場で、フルシチョフの辞任は満場一致で採択された。要するに、フルシチョフに受けて立つだけの余裕を与えなかったのではないか、そうであるなら、まさに仕組まれた辞任劇であった訳なのだ。
 1966年の第23回共産党大会において、ブレジネフはソ連共産党書記長の肩書きをもって登場する。それより先の1965年5月の戦勝記念日の基調報告で、彼は「国防委員会の長であった党書記長」のスターリンの業績を激賞したことは、フルシチョフ失脚の背後に誰がいたのかを内外に知らせた。
 明けて1965年からは、コスイギン首相が中心となって経済改革を進める。ただし、ブレジネフと保守派の目の光っているところでの、実践であったことに留意されたい。その際、理論的な後ろ盾となったのが企業経営への利潤指標の導入であった。企業による成功指標を利潤と関係させることを説いた経済学者リーベルマンらを登場させたのが1962年9月9日付け「プラウダ」における彼の論文「計画・利潤・報奨金」の紹介であった。この論文は、中央集権的計画化を緩和し、企業の自主的決定の権限を拡大し、「計画標準収益率指標」、すなわち利潤率を企業活動の評価基準とすることを勧告したものである。
 これを皮切りに、政府による、企業の独立採算・経済自主性を与える経済改革(新工業管理方式)が準備されていく。1965年9月の共産党中央委員会総会で、コスイギン首相が行った報告「工業管理の改良、工業生産の計画化の改善と経済的刺激の強化について」は、工業企業に対する新しい管理が必要となっていることをさらけ出した形だ。それからは、企業の法的地位、権限を明確にしたところの「社会主義国営生産企業規程」がつくられ、1966~1967年には新制度の下での企業の計画化、運営の方法を規程した国家計画委員会(ゴスプラン)の実施要領と、それに基づく「指示」「標準規程」の類いが定められた。また、1967年、工業のための新しい「技術生産財務計画」の構成が明らかにされるととともに、卸売物価の改訂がなされていく。
 こうした資源配分上の欠陥は、技術水準が低く、産業連関もさほど複雑でない時期にはさほどの問題とはならず、むしろ集中生産によるメリットの方が強調された時期もあり、国民経済にとって致命的なものにならずに容認されてきたのであるが、経済規模が膨れ上がり、産業連関も複雑になってきた1950年代末からは何らかの手だてを早急に実施しなければならなくなる。果たしてこれらに必要な技術はどのくらい発達していたかはよくわからない。この問題の処理に関して必要とされる一定の手順とは、まずモニタリング(計測)、アセスメント(評価)、コントロール(管理政策)となるのだが、それには、すべての原因と考えられる要因を検証しなければならない。
 この一連の改革は別名「コスイギン改革」と呼ばれているが、成果と挫折が相半ばしつつ続けられていき、1967年からはペースダウンしていく。そもそも、企業への自主性の付与、賃金、ボーナスなどの提案は、一方で経済における国家と政府の集権的統制、ひいては共産党支配を弱める行為でもあり、ブレジネフはこれに乗り気でなかったのではないか、とも言われる。第9次5か年計画では、国民所得の37%から40%増加、工業生産高の42%から46%増加、農業生産の20%から22%増加が見込まれていた。結果としては、期間中、工業生産高は43%、うち生産財46%、消費財は37%増加。これらのうち、農業生産目標については達成できなかった。要するに、期間中の国民経済活動効率指標の達成は、はかばかしいものではなかったらしい。社会的労働生産性の伸び率は3分の2に低下した。鳴り物入りの改革にも関わらず、コスト削減ははかどらなかったのだ。

(続く)

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♦️99『自然と人間の歴史・世界篇』前漢から後漢、さらに三国の鼎立へ

2017-09-26 22:49:13 | Weblog

99『自然と人間の歴史・世界篇』前漢から後漢、さらに三国の鼎立へ

 紀元後の8年、前漢が滅んだ後には、新という帝国が建ったのだが、新皇帝の王莽(おうもう)の政治は時代の変化にそぐわず、その評判ははかばかしくなかった。そのため、社会にはなはだしい混乱に陥る。各地に群雄が割拠する中、新は漢王家の劉家一族更始帝によって滅ぼされる。ところが、その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興し、光武帝を名乗る。この王朝のことを後漢(東漢、25~220年)と呼ぶ。この光武帝の治世では、近隣の諸国や有力豪族らが朝貢し、当時の日本列島からも「奴国」(なこく)が詣でる。そして、「漢の倭の奴の国王」の意味の金印を授かっている。文字の発展についても、さらにあった。すなわち、前漢の時代の漢字は漢隷体であったものが、後漢になると楷書体となり、今日私たちが使っている漢字とほぼ変わらない体裁となっている。
 その後の後漢だが、2代明帝、3代章帝と名君が続いて国力を回復させる。班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出もするが、こちらははなばなしい戦果は挙げられない。それからは、皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政に関与するようになっていく。ために、国力は低下していく。そして迎えた184年、黄巾の乱が起こる。これによって全国が混乱し、漢の統治力は大きく減退し、さらに宰相の董卓(とうたく)の暴政と、その董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝が実権を失って名ばかりとなっていく。以後は、各地に群雄が割拠する時代になだれ込んでいく。
 そんな中で、群雄の一人、曹操の庇護のもと、漢王室は名目のみ存続する状態となっていた。さらに220年に後漢が滅んだ後には、三国が覇を争う時代となっていく。華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、これらの三国が覇を争い合う、三国鼎立の時代となっていく。やがて、220年に曹操が死ぬと、息子の曹丕(そうひ)が後を継ぎ、後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国するにいたり、ここに漢王朝は滅亡する。それからの三国の中では、いち早く蜀が魏にのみ込まれ、あとの魏と呉もそのうち魏の武将であった司馬氏によって責め立てられ、265年には西晋(~316年)による中国統一にとって代わられる。その後には東晋(317~420年)が現れてくる。

(続く)

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♦️98『自然と人間の歴史・世界篇』歴史家・司馬遷の見た古代中国世界

2017-09-26 22:48:05 | Weblog

98『自然と人間の歴史・世界篇』歴史家・司馬遷の見た古代中国社会

 司馬遷の『史記』の「列傳・太史公自序]」には、こうある。
 「維(こ)れ我が漢、五帝の末流を継ぎ、三代の業を接(つ)ぐ。周道廃れ、秦は古文を撥去(はっきょ)し、師書を焚滅(ふんめつ)す。故に明堂(めいどう)石室(せきしつ)、金匱(きんき)玉版(ぎょくばん)、図籍(とせき)散亂(さんらん)す。是に於いて漢興(おこ)り、蕭何(しょうか)は律令(りつれい)を次(つ)ぎ、韓信は軍法を申(の)べ、張蒼(ちょうそう)は章程(しょうてい)を為し、叔孫通(しゅくそんとう)は禮儀を定む。則ち文学彬彬(ひんぴん)として稍(ようや)く進み、詩書往々にして間出(かんしゅつ)す。曹参(そうしん)自ら蓋公(がいこう)を薦めて黄老を言ひ、而して賈生(かせい)、晁錯(ちょうそ)は申商(しんしょう)を明らかにし、公孫弘(こうそんこう)は儒を以て顕はる。百年の間、天下の遺文古事の畢(ことごと)く太史公に集まらざるは靡(な)し。
 太史公よって父子相続(あひつ)いで其の職を簒(つ)ぐ。曰く、ああ、余維(おも)ふに先人の嘗(かつ)て斯の事を掌(つかさど)りて、唐虞(とうぐ)に顕れ、周に至り、復た之を典(てん)す、故に司馬氏は世に天官を主(つかさ)どり、余に至る、欽(つつし)み念(おも)ふかな、欽み念ふかな、と。天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考し、三代を推略し、秦漢を録し、上は軒轅(けんえん)を記し、下は茲(ここ)に至り、十二本紀を著(あらは)し、既に之を科條(かじょう)す。時に並べ世を異(こと)にし、年差明らかならず、十表を作(な)す。
 禮楽は損益し、律暦(りつれき)は改易し、兵権・山川・鬼神、天人の際(きわ)、敝(へい)を承け変に通ず、八書を作す。二十八宿は北辰(ほくしん)を環(めぐ)り、三十輻(ふく)は一轂(こく)を共にし、運行窮(きわ)まり無く、補拂(ほひつ)股肱(ここう)の臣を焉(これ)に配し、忠信は道を行ひ、以て主上に奉ず、三十世家を作す。
義を扶(たす)け俶儻(てきとう)にして、己をして時に失はしめず、功名を天下に立つ、七十列伝を作す。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、太史公書と為す。序略、以て遺を拾ひ芸を補ひ、一家の言と成す。厥(そ)れ六経(りくけい)の異伝に協(かな)ひ、百家の雑語を整斉(せいせい)し、之を名山に蔵し、副を京師(けいし)に在し、後世の聖人君子を俟(ま)つ。
 第七十。太史公曰く、余、黄帝以来太初に至るまでを述歴して訖(いた)る、百三十篇。」
 これの中段以下に「天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考す」とあるのは、現代訳では「わたしは天下の散らばり、すてられてあった旧き伝聞をもれなくあつめ、王者のあと興ったところについては、始めをたずね終わりを見たし、衰える様までを観察した」となるであろう。ここに彼が述べているのは、何がいつどのようであったのかを述べるのは、それらのことをまとめて記す者自身が、主体的に進めていくことなのであった。この司馬遷の凛(りん)とした姿勢は、「黄老思想をうけながら、天官の意識から生まれた思想であり、『春秋』の意図をこえるものである」(藤田勝久「司馬遷とその時代」東京大学出版会、2001)ともされているところであり、当時の支配的な思想潮流であったであろう儒教(孔子が提唱)基づくものではなく、今日の私たちにも通じる、事実をありのままに論述しようとする姿勢にも通じるものであったろう。

(続く)

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♦️97『自然と人間の歴史・世界篇』秦から前漢へ

2017-09-26 22:46:53 | Weblog

97『自然と人間の歴史・世界篇』秦から前漢へ

 主に項羽の軍の奮戦により秦が亡びると、それからは項羽と劉邦とが覇権争いをする。すったもんだの争いを経ての紀元前206年には、劉邦が項羽を下す。劉邦は前漢(西漢、(紀元前202~紀元後220))を立国し、初代皇帝・高祖となる。その高祖だが、その後はとりたてて大きな動きはみせなかった。対外政策では、匈奴(きょうど)2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう、在位紀元前209?~同174)に首都長安を一時占領され、対外和親策を余儀なくされた。彼は、戦略的妥協のできる人でもあったところが、生まれたばかりの国家に幸いした。その彼は、紀元前195年に没す。
 それからしばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握った。紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位したのが5代文帝であった。彼は温厚な性格で、無理な政治をおこなうことなく、民心の把握に努めた。6代景帝はも「文景の治」と呼ばれる政治を行い、漢の国力は大いに伸長する。それでも、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が次々反乱を起こす。これを「呉楚七国の乱」と呼ぶ。王権の失政ということではなかったので、この乱は約半年で鎮定される。すると、これによって諸侯の勢力は大きく削られていく。
 そして、いよいよ武帝(紀元前141~同87)の時代が到来する。その前から充実した国力を背景に、隣接地域に積極的な出兵を行うにいたる。まずは、北方の遊牧大勢力であった匈奴に向かう。匈奴勢力の漢の西域からの駆逐ひとまずに成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこした。ねらいとしては、当時匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていた大月氏(だいげつし、紀元前140?~紀元後1世紀頃)に対し、互いに力をあわせて匈奴を挟撃しようと約束を取り付けたい。
 その交渉のために、紀元前139年頃、武帝の命を受け、張騫(ちょうけん、?~紀元前114)が長安を旅立ち、西域に向かう。彼は侍従という低い身分だったのだが、才気活発であったらしい。百人あまりの従者と案内役の奴隷・甘父(かんぽ)を連れて河西回廊を進んでいたところ、漢とは敵対関係にある匈奴(きょうど)に捕らえられてしまう。というのも、大月氏は匈奴に対する戦意はなかったためこの計画が匈奴強度流れてしまい、とらわれの身となってしまう。それでも、約10余年を経て脱出し、目的の大月氏国(だいげっしこく)の地を踏むことが出来た。さらに、1年余同国に滞在後の紀元前126年(同129年とも)頃に漢に帰国したと伝わる。
 そして迎えた紀元前129年以降、将軍の衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)に匈奴の征討を命じる。わけても霍去病の軍は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したともいう。漢は、これにより匈奴を北方へ退かせることに成功する。武帝の侵略は、南方にも向けられる。南越(なんえつ。紀元前203~同111)を征服してベトナム中部まで領土を拡大していく。そこに南海郡をはじめとする9郡を設置する。紀元前108年になると、東方に転じて朝鮮の衛氏朝鮮(えいしちょうせん、紀元前190?~同108)を首都の王険城(現在の平壌)に滅ぼす。そして、楽浪(らくろう)、真番(しんばん)、臨屯(りんとん)及び玄菟(げんと)の朝鮮4郡を漢王朝の直轄領に組み込むのに成功する。
 こうして大軍団でもって周辺諸国を攻撃したことで、これら諸国を服属させて全盛期を迎える。また、とはいえ、張騫の大月氏派遣により、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされた。その後の張騫については、当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣された。その後の前漢の領土拡大であるが、紀元前121年頃、オルドス地方(現在の中国内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれているところ)では朔方郡(さくほう)が置かれた。河西地方(かせい。「黄河西方」を意味し、現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう))においては、敦煌(とんこう)、酒泉郡(しゅせん)、張腋郡(ちょうえき)、・武威郡(ぶい)の4郡が置かれる。このあたりはやがて、周囲の数多くのオアシス小都市をも巻き込んでの、古代シルクロードの重要な西のとっかかりの部分として重要な交易路となり、河西回廊(「甘粛回廊」とも)と呼ばれるようになっていく。
 こうして東アジアとその周辺にかつてない影響力を誇った漢帝国であったのだが、新たな戦いや支配地域での争いが次々と起こるようになっていく。それらへの対応で明け暮れるうちに漢の財政はしだいに圧迫され、国力は下り坂に向かっていく。10代目の宣帝の治世になると、国力は一時回復する。彼は、「中興の祖」とたたえられるのであったが、その後はつっかえ棒がなくなったかのように衰退が進み、8年、外戚の王莽(おうもう)を帝位を掠奪して「新」王朝を建国し、すでに地方においても支える諸侯のほとんどなくなっていた漢王朝はいったん滅びる。

(続く)

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♦️96『自然と人間の歴史・世界篇』秦による中国統一

2017-09-26 22:45:36 | Weblog

96『自然と人間の歴史・世界篇』秦による中国統一

 紀元前221年、秦の始皇帝が当時の中間地帯を統一した。その秦だが、初めは当時の中国の一番西にあった。紀元前771年、秦が初めて諸侯の列に加わる。紀元前714年、平陽(陝西(せんせい))に遷都する。紀元前627年には、晋(しん)の襄公の軍がが、秦の繆公(ぼくこう)の軍を破る。紀元前578年、晋が、斉、宋などの諸侯と秦を討とうと動く。紀元前408年には、魏(ぎ)が秦の河西地方をとる。紀元前364年には、韓、魏、趙を石門(陝西)で秦を大破するのであった。
 だが、秦はひるまない。その軍団は鍛え抜かれていく。他国と覇を競うには、東へと出ていくしかない。紀元前359年、商鞅(しょうおう)が中心となり、いわゆる「第一次変法」が実施に移される。秦が新しく生まれ変わることになっていく。紀元前350年、咸陽に遷都し、商鞅のいわゆる「第二次変法」が行われる。紀元前338年にかれを重く用いていた孝公が死ぬと、それまでの強権政治に嫌気がさしていた部下達が商鞅を失脚させ、彼は刑死する。紀元前333年、秦に対抗するため、遊説家の蘇秦(そしん)が合従(がっしょう)策を説いて回る。紀元前330年、秦が魏を攻撃し、戦いに敗れた魏は河西の地を秦に与えてしまう。
 紀元前328年、張儀が秦の宰相となり、秦に敵対する諸侯による合従策(がっしょうさく)を崩す動きをする。紀元前325年、秦が王号を採用することで、恵文王と号す。紀元前310年、張儀による連衡策が進み始める。紀元前259年、皇太子の政(後の始皇帝)が生まれる。紀元前256年、秦が周(東周)を滅ぼし、ここに周の王統が絶える。紀元前249年、呂不韋(りょふい)が秦の宰相となる。紀元前247年、政が秦王に即位する。秦王が、呂不韋を退け、代わりに李斯(りし)を重用する。呂不韋は、実は彼の父親であった。紀元前233年、戦略かとして功のあった韓非子(かんぴし)を捕らえ、自殺せしめる。紀元前230年には、秦が韓(かん)を滅ぼす。紀元前228年には趙(ちょう)を、紀元前225年には魏を、紀元前223年には楚(そ)を、紀元前222年には燕(えん)を滅ぼす。
 そして迎えた紀元前221年、秦は斉を滅ぼし、ついに中国統一を果たす。初めて皇帝号を用いることとし、郡県制を全国に施行するにいたる。統一国家としての秦は、度量衡の統一政策を行うとともに、漢字を隷書体(れいしょたい)へと進展させることを行う。度量衡や貨幣の統一にも進んでいく。前220年には、始皇帝が北巡を行う。前210年、東方への巡幸いを行い、古から天帝のおりるところとされていた泰山(たいざん)において、封禅(ほうぜん)の儀式を行う。紀元前213年、始皇帝の長男で将軍の蒙恬(もうてん)は匈奴を討つ。紀元前214年、李斯が丞相となる。万里の長城の建設を開始する。南越を攻撃し、広東、広西を支配するにいたる。紀元前213年、「焚書」(ふんしょ)を行う。続いての紀元前212年、今度は「坑儒」(こうじゅ)を行う。
 前210年に始皇帝が巡幸中に没すると、一体何があったのだろうか。丞相の李斯が宦官を含む勢力が二世皇帝を擁立する。遠征していた父思いの蒙恬は、偽りの命令を受け、自殺するのであった。紀元前209年、陳勝と呉広による挙兵があり、項羽(こうう)や劉邦(りゅうほう)らも挙兵する。紀元前208年、宦官の趙高(ちょうこう)が丞相となる。紀元前207年、今度は趙高が二世皇帝を殺し公子嬰をたてる。その公子嬰が趙高を殺すという具合に、政治の中枢が崩れていく。紀元前206年、秦の都が、楚の項羽によって占領されると、秦の宮殿はことごとく灰になる。公子嬰が劉邦に降り、秦が滅亡する。

(続く)

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♦️129『自然と人間の歴史・世界篇』中国の隋と唐

2017-09-25 23:37:22 | Weblog

129『自然と人間の歴史・世界篇』中国の隋と唐

 581年、北朝・北周の外戚である楊堅が建国したのが、隋(ずい、中国読みでスイ)である。589年には、南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。これにより、後漢の滅亡以来、約350年続いた魏晋南北朝の分裂時代を終わらせる。彼が即位して文帝となると、統治には、律令制を採用する。北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などを継承してのことである。二代目の煬帝(ようだい)になると、土木工事に民衆を駆り出す。副都の洛陽の建設など土木工事に農民を徴発し、その生活を困窮させた。運河の開削には、多額の資金を要した。そのことで、できたばかりの国家財政は逼迫していく。
 煬帝はまた、外征にも精を出す。遠征先は、朝鮮半島を本拠とする高句麗(こうくり)であった。朝鮮半島では三国時代が次第に統合に向かい、それらの中では高句麗が強大になりつつあった。その遠征は、612年に始まり、3度に及んだ高句麗遠征を行ったが、その遠征中に内乱が勃発して中止となる。一方、北方では、隋からの圧迫で、モンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民が築いた国家の突厥(とっけつ、552~744)が東西に分裂し、東突厥は唐の支配下に入る(その後のことだが、682年、再び自立して第二帝国を築く。それからウイグルに滅ぼされるまで持ちこたえた。東突厥は独自の突厥文字を有したことで知られる。この時代、ヨーロッパではフランク王国などのゲルマン民族の諸国の形成の時代であり、西アジアのアラビア半島にムハンマドが登場し、イスラーム教が創始されていた。
 あれやこれやの強行に対する不満から民衆の反乱が起き、それの鎮圧に時間を費やしているうちに、隋の屋台骨は大きく揺らいでくる。617年に武将であった李淵(りえん)が挙兵すると、長安に向かう。首都が反乱軍の手に落ちるのが濃厚になり、すでに諸侯に人望のなくなっていた煬帝はいち早く首都を落ち延び、自らが造らせた大運河で結ばれた南方の揚州(江都)に逃れる。しかし、その地で部下に殺され、隋は滅亡する。その後の混乱を収拾したのが、李淵の勢力であった。11月には長安を占領する。618年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲された形をとり皇帝・高祖となり、唐(とう、中国読みはタン、618~907))を建国し、諸侯に号令するにいたる。翌年5月に15歳の前皇帝の恭帝を殺害したことで、隋は完全に滅亡する。
 その唐だが、当面は国内固めに時間を費やすことになっていく。内紛も抱える。高祖の後は彼の二男の李世民(りせいみん、698~649)が継ぐ。反乱軍は、事実上、かれが率いていた。建国の最大の功労者であった。競争者となっていた長男と弟を「玄武門の変」で倒し、高祖は仕方なく李世民を後継者にし、自らは引退を決め込む。新皇帝となった李世民こと太宗だが、頭脳明晰な上に類い稀な政治能力を持つ専制君主であったらしい。優秀な部下を身分を越えて抜擢するなど、「貞観の治」を主導する。その唐は、7世紀には最盛期を迎える。その地理的領域は、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや東南アジア、さらに北東アジア諸国をうかがうまでになっていた。そればかりではない。この頃までに、唐は、朝鮮半島や渤海、それに日本などに、政制や文化などの実に広い分野で多大な影響を与えている。
 太宗が志半ばで死ぬと息子が後を継いで高宗となる。その彼は凡庸であって、その死後の690年には高宗の妻が唐王朝は廃し、自分は武則天と号し、武周王朝を建てる。つまり、女帝になったのだ。705年には、老齢になっていた武則天が失脚して唐王朝が復活するにいたる。その唐も、8世紀になると、色々と混乱や停滞が見えてくる。712年、李隆基が即位し、玄宗となる。彼の治世の前半は開元の治と謳われ、唐は絶頂期を迎える。しかし、前には下り坂がみえ始めていた。中央アジアにまで進出していたのだが、751年にアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。玄宗は、長い治世の後半には政治への意欲を失うにいたる。宰相の李林甫ついで楊貴妃妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、節度使の安禄山と対立し、755年、憤慨した安禄山(あんろくざん)は反乱を起こす。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。安禄山は、北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていたことから、挙兵でたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ、自らは大燕皇帝と称するにいたる。
都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡する。その途中で、反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は殺さる。力を落とした玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位する。その後は、諸侯やウイグル族の援軍を得て、863年に乱を平定する。この9年に及んだ内乱を「安史の乱」という。唐の国威はこの時大きく傷付いており、それからも前世が行われることなく、国勢はますます傾いていく。
 9世紀も半ばになると、官吏を巻き込んでの権力闘争や内乱が相次ぐようになる。874年には、黄巣による乱が起きる。これを「黄巣の乱」といい、全国に波及していく。黄巣は長安を陥落させると斉(せい)を建てるも、政務を執行できず、略奪を繰り返した挙句に長安から退出する。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から名をもらい、朱全忠と名乗る。この頃、唐の地理的領域は、首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小していた。藩鎮からの税収も多くが滞って、もはや財政的に困難となりつつあった。河南地方の藩師(長官)に封じられた朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移し、王室の権威を巧みに自身の勢力拡大に利用していく。
 そして迎えた907年、朱全忠は弱気になっていた哀帝より禅譲を受け、新王朝の後梁(こうりょう、中国読みはホウリャン、907~923)をひらき、これで唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎなかった。各地には節度使から自立した諸国が群雄割拠していた。後梁は、これらを制圧する力を持っていない。中国を再統一する勢力がいないことになり、いわゆる「五代十国」時代(907~979)に入っていく。それまで東アジア文明をリードしていた力は失なわれ、周辺の朝鮮、契丹(きったん)や日本など、開放的な要素を兼ね備えていた唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は、以後、独自の発展を模索していくことになっていく。

(続く)

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♦️275『自然人間の歴史・世界篇』19世紀末ロシアの農村の状況

2017-09-23 09:41:41 | Weblog

275『自然人間の歴史・世界篇』19世紀末ロシアの農村の状況

 まずは、農民に対するレーニンの訴え『貧農に訴える』の中の、19世紀末のロシアの農村社会を述べたところに、こんな説明がある。
 「地主から始めよう。地主の力は、何よりもまず、彼らの私有になっている土地の大きさで判断できる。ヨーロッパ部ロシアの土地の総面積、つまり、農地の分与地と地主の所有地の全体は、約2億4000万デシャチーナ(1デシャチーナ=約1.1ヘクタール)であった。このうち、農民の手に、つまり、1000万戸以上の農家の手に、1億3100万デシャチーナの分与地がある。これに対して地主の手に、1億900万デシャチーナの土地がある。こうして、平均しても、農民のほうは一戸あたり13デシャチーナとなる。だが、すぐわかるように、土地は配分の不平等は、まだそれどころの話ではない。
 地主がもっている1億900万デシャチーナのうち、700万デシャチーナは皇族の所有地である。つまり、ツァーリ一族の私有財産だ。ツァーリとその一族は、ロシア第一の地主、最大の地主なのだ。このたった一つの家族が、50万戸の農家よりも多くの土地をもっている。さらに、協会と修道院が、約600万デシャチーナの土地をもっている。我が国の坊主たちは、農民には無欲と節倹を説教しながら、自分では法にそむいてまで莫大な土地をかき集めたものだ。
 つぎに、約200万デシャチーナが市や町の所有地、また、それと同面積の土地がいろいろ商工業の会社の所有地となっている。残りの9200万デシャチーナが(正確な数字は9160万5845デシャチーナだが、かんたんにするため概数を使う)、50万たらず(48万1358)の個人地主の所有地である。この50万の半分はまったくの小地主であり、いずれも10デシャチーナ以下の所有地全部をまとめても、100万デシャチーナにはならない。ところが、1万6000の大地主は、それぞれ1000デシャチーナ以上の土地をもっており、全部では6500万デシャチーナをもっている。どんなに広大な土地が巨大地主の手に集められているかは、1000にもたりない者(924)がそれぞれ1万デシャチーナ以上をもち、全部で2700万デシャチーナをもっているということからも、明らかだ。1000の巨大地主が、農家200万戸分のと同じだけの土地をもっているのだ。
 わずか数千の金持ちがこんなに広大な土地をもってるかぎり、何千万という人民が貧乏し、飢えなければならず、また、いつでも貧乏し、飢えるだろうということははっきりしている。」(レーニン著・江口朴郎責任編集「貧農に訴えるー社会民主主義者は何を志しているかを農民に説明する」、1966、中央公論社、71~72ページ、原版は1903年に刊行されている。)

(続く)

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♦️274『自然人間の歴史・世界篇』ロシアの産業の発展(~ロシア革命)

2017-09-23 09:34:21 | Weblog

274『自然人間の歴史・世界篇』ロシアの産業の発展(~ロシア革命)

 ロシアにおける資本主義の発展は、どのようにして行われたのであろうか、それはまたいかにして可能となったのであろうか。その前の時代、ロシアは封建的な生産関係が主流の社会であった。ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、その後の政治家であり、経済学の学究でもあ。レーニンといえば20世紀最大の革命家、それに「こわもて」ばかりが強調されるが、それは彼の全てではない。彼がまだ政治の表舞台に出ていなかった頃の著作の数々は、資本主義前夜のロシアの経済状況を比類なき正確さで述べられていて、現在において第一級の史料となっている。その彼が、ロシアの19世紀末時点での穀物輸出について述べたくだりに、こうある。
 「19世紀末の統計で、ロシアは年間平均4億5000万ブード(1ブード=約16.4キログラム)の穀物を、いわゆる「飢餓輸出」していた。うち2億2000万ブー度は、ウクライナから東南部辺境へかけて栽培された小麦、買い手は主とイギリス。世界小麦輸出市場は、アメリカ合衆国とロシアが制覇。ロシアでは、輸出総額中五割が穀物輸出によって占められ、この穀物輸出代金と外国債で機械輸入などの代金がまかなわれた。この点でも、ロシアの農業と農民が、ロシア資本主義発展のためにいかに大きな支えにされていたかがわかる。後進資本主義国の特徴である。」(江口朴郎の訳注より:江口朴郎責任編集「世界の名著・レーニン「貧農に訴える」、「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」、「資本主義の最高段階としての帝国主義」、「マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」」、「国家と革命」中央公論社、1966」に所収。同書の巻末には、レーニンの年譜が簡潔な形で掲載されています。)


(続く)

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♦️574『自然と人間の歴史・世界篇』スターリン時代のソ連経済から(1950年)

2017-09-22 22:17:55 | Weblog

574『自然と人間の歴史・世界篇』スターリン時代のソ連経済から(1950年)

 スターリン時代のソ連の計画経済では、生産物の一切が中央国営市場を通じて、公定価格で販売されていました。価格が改訂されないと、需給の均衡点への収束が起こらず、供給過剰(需要過少)のときは、資本移動がスムーズにいかないものです。また、供給が不足していても、価格が変化しないので供給意欲がそがれてしまいます。
 これらは非効率は国民にとって耐え難いたえがたいものだったでしょうか。生産物を隠匿して値上がりを待ち受けたり、ヤミ市場に横流しして利益を貪ったりする者は重罰に処せられたので、こうした不正は少なかったのではないでしょうか。この非効率と、インフレや失業からくる非効率を天秤にかければ、どちらが重かったのでしょうか。初めから、価格の硬直性による非効率により国民経済が被る不利益は耐え難いものであったと決めつけるのは、公正・公平ではありません。それと、当時はまだ生産物の差別化が進んでいない、少品種大量生産の下では消費者の嗜好によってそれほど売れ残るということはありませんでした。広大な国で資源も豊富であるため、社会主義共同体の中以外では、国際経済関係との調整をさほどに考えなくてもよかったのです。 
 1950年代までのソ連の財政・歳入においては、取引税の全歳入に占める割合が約半分もあった、との報告もある位、そのウエイトは高いものでした。1965年度予算では、ややウエイトが下がって、歳入総額の39%を占めている、と伝えられます(日本銀行「ソ連経済改革の背景と問題点」、岡稔・竹浪祥一郞・山内一男「社会主義経済論」筑摩書房、1968)。
 「ソ連邦国家財政の収入と支出(10億ルーブル、当年価格)より抜粋
1950年
①収入総額:42.3(100%)
うち取引税:23.6(56%)
うち利潤控除:4.0(10%)
うち各種租税:3.6(8%)
その他:11.1(26%)
②支出総額:41.3(100%)
国民経済費:15.8(38%)
社会文化費:11.7(28%)
国防費:8.3(20%)
その他:5.5(14%)
(出所:ブルイシェフスキー「ソ連邦国未完所得の分配」1960年、「ソ連邦国民経済統計集」1965年版。引用:(岡稔・竹浪祥一郞・山内一男「社会主義経済論」筑摩書房、1968)
 同国の体制では、社会の剰余生産物は大まかに企業利潤として企業に残される部分と、国家に上納される「取引税」部分とに分けられ、後者が国庫に入ることで基本的には次期の国家歳出に充てられてるシステムになっていました。
 いま生産財について適用される「工場(=企業)卸売価格」を例にとると、
 W=C+V+M:(総体の価値構成)
w=c+v+m:(個別の価値構成)
うちc+v部分は総原価に転化、m部分が(企業利潤+取引税+卸売割増+商業割増)
ここで、卸売割増は(卸売経費+卸売利潤)、商業割増は(卸売経費+卸売利潤)から成ります。
「工場(=企業)卸売価格」=総原価(:減価償却を含む物的支出)+賃金)+企業利潤:① 
一方の(卸売割増+商業割増)を省略すると、
w=c+v+m:(個別の価値構成)が転化しての「小売価格」=総原価(:減価償却を含む物的支出)+賃金)+企業利潤+取引税:②
個別価格の要素としての②から、同じく個別価格の要素としての①を差し引いた残りの額がプラスなら、その部分が取引税部分、逆にマイナスなら国家からの価格差補給金の支払いとなる理屈、とされていたようです。
(注)流通における生産的労働部分は捨象する。
 実際には、生産財の卸売価格(一般消費者向けのものには、小売り価格も設定されていた)が低く設定され、消費財の価格が割高であった中では、消費財部門からの税徴収が多くなります。とはいえ、消費財価格が高騰するようではいけませんから、その原料となる農産物の調達価格を低位に抑制する政策がとられてきたことがあります。
 1965年からの経済改革以前のソ連でとられていた「価格政策」とは、このように価格体系を国家・計画当局が人為的に操作することが当たり前のようになっていたことが、数多く指摘されているところです(例えば、野々村一雄編「社会主義経済論講義」青林書院、1975などを参照のこと)。また、「利潤控除」という項目がありますが、これは原価引き下げの成否にかかわるものであり、原価引き下げの政策課題が未達成の場合は、あまり当てができなくなってしまいます。国家蓄積の財源確保のためには、利潤控除より取引税の方がはるかに確実でした。とはいえ、取引税による国家資金の調達に頼る度合いが増せば、その分価格政策を財政政策に従属させることになり、価格が果たすべき機能、特に社会的労働計算、ひいては資源の効率的配分を弱める働きがあったことは否めません。

(続く)

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