165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)
江戸時代の享保年間には、西日本でも凶作による飢饉が相次いでいたという。そうした中で、大森代官として現地に赴任していた井戸平左衛門(いどへいざえもん、1672~1733)をまつった「井戸神社」(島根県太田市)内に建立されている顕彰碑(1872年設立)には、平左衛門の功績が刻銘され、その事績についての次の説明文が刻まれているとのこと。
「時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。」
ここに「甘藷」(かんしょ)というのはサツマイモのことで、当時薩摩藩領内で栽培されていたのを伝え聞いた平左衛門が幕府に頼み込んで、種芋(100斤=約90キログラム)を手に入れたという。これより前の1731年(享保16年)に、彼は60歳にして石見国大森の代官(第19代石見銀山領代官職)に就任していた。翌年には、備中国笠岡代官を兼務するのであった。
そして迎えた春以降において、西日本を襲ったのがウンカ発生などによる未曽有の稲など穀物の凶作に連なっていく。この時、代官の平左衛門がとったのは、様々な農民救済策であったが、その極めつけとされるのが、甘藷栽培の奨励・導入と、豊かな者から募った資金で米を買って配給し、また陣屋の蔵を開く、年貢の減免などでの緊急救済であったと伝わる。その効果がいかばかりであったかは、彼の支配地内での餓死者がいなかったことで広く地域の人々に伝わる。
ところが、翌1733年(享保18年)には、仕事先の備中笠岡の地で死んだという。これには、幕府の許可を得ないで蔵を開いたことで責任を取らされての自刃説と、病死の説とが拮抗しているようだが、確かなところは今日までわかっていないようなのだ。
その彼は武蔵野国の下級武士の家に生まれ、それから後に生家の事情によるのであろうか、井戸正和の養子に入る。1692年(元禄5年)には21歳で井戸家の家督を引き継ぎ、小普請組に属する。1697年(元禄10年)になると、表火番といって、江戸城内において火災の防御に当たる役職となる。その5年後には、一転、勘定役に昇進する。
以来、30年ほどはその職に在ったという。この間の1721年(享保6年)には、日ごろの勤勉をたたえられ黄金2枚を贈られたとのこと。と、ここまでは、「まずは、めでたし」ということであったのだろう。
その実直な仕事ぶりから、今度は60歳という、当時としては高齢にもかかわらず、石見代官に任命され、政務に励む毎日に没頭するのであった。まさに、第二の人生ともいうべき大仕事がここに始まった。
およそ彼の生涯はこのような次第にて、相当に異色の経歴であったのだが、特段の書き物などを残していない分、一人その赴任地での代官にとどまらず、それを起点に稀代の名代官として、方々の地にて額に汗して働く人々の方々に顕著な影響を及ぼしたことでは、日本歴代の「大人物」の列に悠々加えない訳にはゆかないであろう。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆