○110『岡山の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景

2017-04-17 17:52:04 | Weblog

110『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景


 今では、津山から私の生家に到るには、二つの交通機関を使う。その一つは、因美線のディーゼル機関車に乗って津山駅を出発し、東津山、高野と北東にたどり、そこからは森と加茂川渓谷を分け入り次の美作滝尾駅で降りる。ここは加茂川に沿って開けた農業と林業の山あいの村で僕の好きな風景がある。短いが鉄橋が架かっている。緑と水の醸し出す叙情的風景がそこには広がっている。そこから加茂川に沿って南東の方角へ下り、さらには加茂川を離れて東へ4キロメートルばかり歩いたところに私の生まれ育った家がある。
 もう一つの公共交通としては、津山駅から中国鉄道バスに乗っていく。乗るのは、行方、馬桑方面行き、自衛隊方面行き、そして日本原行きである。このバスに乗って同じく北東方面に進んでいく。高野まで鉄道で行って、そこからバスに乗り込むルートもある。バス旅は津山から川崎を通って東津山に出る。このあたりで吉井川とは別れ、私たちが乗り合いしたバスは、支流の一つである加茂川沿いの道をたどり始める。私たち勝北(しょうぼく)の者は、河辺で加茂川を渡り押入へと北上する。高野本郷(たかのほんごう)や高野山西(たかのやまにし)のあたりは「高野田圃」(たかのたんぼ)といって、昔から美作の有数な水田地帯なのである。
 ここの鎮守には、高野神社がある。創建年代は不詳ながら、地域の守護神として建てられたのだろう。ここの古くの祭神は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)のみであったのが、鎌倉時代に八幡神の応神天皇・神功皇后が加えられた。国家神道において格式というものが定められていて、平安時代前期の864年(貞観6年)に従五位に叙せられ、さらに875年(貞観17年)には正五位下に昇進している。これと同じ名前の神社が、津山の西、二宮にもあって、そちらの高野神社の二宮の格式に比べると、下位に分類される。こちらは高野本郷地区の郷社の扱いなので、近隣の豪族などからの土地寄進などは、封建社会の中で限られていたのではないか。
 参考までに、美作国十一社のうち首位の中山神社に次いで2番目、「二宮」としての高野神社については、祀っているのは、彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさうがやぶきあえずのみこと)と長い名前だ。その人物は、伝説上の神武天皇の父である、とされる。ところが、傍らの相殿に美作の国の「一宮」、中山神社主祭神の鏡作神(かがみつくりのかみ)祀っていることから、元々この二つの社は一体となって活動していたとの推測もなされてきた。
 かの『今昔物語』には、「美作国に中参(中山神社の古名、引用者)・高野と申す神在(おわし)ます。其神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞ在ましける」とあるからだ。猿や蛇を祀っているというのは、いかにも突飛なことだから、さしずめ間をとって「神の使い」か「神の召使い」といったところか。参考までに、この他に「天石門別神社」(英田郡宮地村)、佐波良神社、形部神社、いち栗神社、大佐佐神社、横見神社、久刀神社、菟上(とがみ)神社、長田神社(以上八社は当時の大庭郡、現在の真庭郡湯原町社という狭い処に寄り合いしている)があり、野村十左衛門英至(倉敷)作の『山陽道美作国図』(1816~19年刊行)余白にもそのことが記されている。
 今のJR高野駅を過ぎると野村(津山市)で、それから北東に進路をとって楢(なら)というところで加茂川を渡る。さらに数キロメートル行ったところにある上村の停留所で降りる。そこから北へ歩いて約2キロメートルのところに私の生家はある。西下の北端、天王山(てんのうざん、西下にあって標高は291メートル)という丘陵状の山懐に抱かれた傾斜の地に人々がへばりつくようにして住み始めたのは、少なくとも江戸初期にまで遡る。この地には、西粟倉村(英田郡)ほどのたおやかで、森閑たるたたづまいとはいえないまでも、ゆったりとした森と大小の棚田と溜池がある。狐尾池は1922年(大正11年)に構築された。当時のこのあたりは湿地帯であったのかもしれない。この一帯はいわゆる名所旧跡の類が見られる珍しい場所ではない。
 私の家の辺りは西下の最北端にある。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、取り立てて風光明媚な場所ではない。子供の頃には国道53号線から帰る方向を仰ぎ見て、小学校の高学年ともなると、ときには「あんなとこまで帰るのか」と道中の長いのを恨んだこともあった。その人家のありよう、たたずまいは山間の僻地とまではいかないものの、それにかなり近い。でも、生まれて半世紀近く経ったいまも、私のたった一つの故郷であることに変わりはない。
 勝北の東部から奈義へと至るには、それからも国道53号線を通って横仙の山並みを左に仰ぎながら、東へ、東へと進んでいく。この道を辿って昔の人々がどのように往来していたかを伝えるものとしては、次の話が伝わっている。18世紀も末葉に近くなる頃、勝田郡真殿村(現在の勝田軍勝田町真殿)に三次郎という農民が暮らしていた。彼は4反ばかりの田んぼで稲を作っている、自作農といっても貧しい農民だった。同村に同じ農民の清助という者がいて、その娘の名を「くに」といった。その「くに」が16歳になった時、彼女は三次郎のもとに嫁入りする。嫁入り先には三次郎の父と母がいて、4人による新生活が始まる。それだけなら話はここで終わるのだが、三次郎は体が弱く、舅姑(しゅうとしゅうとめ)もまた病気がちであって、彼女にとっては新婚の頃から労働の汗のしたたる日々が続いた。
 そして迎えた1795年(寛政7年)、この地方は大洪水に見舞われ、この辺りの村々の田畑という田畑は水浸しになり、それからは不作の年が続いた。一家の困窮をなんとかしたい彼女は、老父母に、山の雑木を切って炭焼きを行い、それでできた炭を牛に背負わせて津山城府までの途中にある新野(にいの、現在の津山市勝北新野地区)に炭の中継ぎ問屋があるのを幸いに、そこまでの往復8里の道のりを日帰りで売りに行きたいと願い出たところ、舅はそれは男仕事であるので彼女で大丈夫かと心配したらしい。しかし、結局は許したものとみえ、彼女はその仕事で一家の生活を懸命に立て直していく。これが美談として伝えられ、彼は当時の藩から表彰されたことになっている(詳しくは、吉岡三平「吉備の女性」日本文教出版の岡山文庫1969年刊)。
 その沿線にて、二つ目の話を紹介しよう。1889年6月の市町村制施行でそれまで「勝北郡滝本村野」(現在は勝田郡奈義町滝本)と呼ばれてきた滝本村ほかの四か村が合併し「北吉野村」となっていた。その頃、この滝本からは「年の暮れが近づくと、村では津山の待ちへ米を売りに行く。荷車に二~三俵積み、そり代金が節季の支払いにあてられる、そんなある日、近所の小父さんに「今日はまちへ米を売りにいくけん、(津山で働いている)兄さんにあいたければつれていってやろうか」と声をかけられた。母のないマツ(後の芦田マツ)は快諾し、津山まで片道四里の道程を元気に歩いてついていったという。二ツ坂、油坂、福万寺の急坂を越え最後の楢坂を下ると、加茂川上流の船着場、川べりに灯ろうが立ち、土手の桜並木のたもとに茶屋があり、「いけやまん頭」ののぼりがはためいていた。この五厘饅頭は大きく、砂糖が多いのが評判で、蒸籠が甘い香りの除ヶが立ちのぼる」(永瀬清子・ひろたまさき監修、岡山女性史研究会「近代岡山の女たち」三省堂、1987年)とある。その通りであれば、はるばる滝本の村から津山まで一日をかけて往復したのなら、都合8里(32キロメートル)にもなり、小父さんの荷車を牛が引いていたとしても、その後について少女が全行程を歩き通すには相当の健脚でなければならなかったし、せめて返り道で楢坂にさしかかったときには、その美味しい饅頭を食べることができたのだろうか。
 さらにその先の河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ここに女医布上喜代免は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って医院を開業した。それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。ちなみに、1959年時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

(続く)

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□103『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

2017-04-11 10:17:32 | Weblog

103『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

 さて、総社に、宝福寺という禅寺がある。創立年代は不明にして、天台宗の古刺であった。それを、鎌倉時代の1232年(貞永元年)に住職の鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立した。鈍庵和尚は備中真壁(現総社市真壁)の生まれ。依頼、この寺は臨済宗東福寺派の中本山で、西国布教の一拠点となっていく。
 ここは三重塔が有名で、国の重要文化財となっている。この塔だが、1376年(永和2年)に建立された。これが分かったのは戦後の解体修理で発見された銘文であり、それまでは寺に伝わる話で北条時頼が諸国巡遊した際の寄進だとされていたのが覆されのであった。1575年(天正3年)の備中兵乱によって宝福寺の大半の建物が焼失した。戦火のなか三重塔だけは無事に残った。室町時代の塔が残っているのは、珍しい。
 この寺で幼少期の一時を過ごしたのが、雪舟(1420?~1506?)である。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。
 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

(続く)

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□153『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ(饅頭)

2017-04-09 18:11:40 | Weblog

153『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ(饅頭)

  岡山の大手饅頭(おおてまんじゅう)の由来は、1837(天保8)年当時、岡山城大手門のそばにあった「伊部屋(いんべや)」の饅頭を、岡山藩主の池田斉敏が気に入ってこう名づけたと伝わる。包みを開けると、箱の中で寄り添うように幾つかもの饅頭が並んで、「やあやあ」とかで、こちらを見上げているようだ。
 焦げ茶のあんこに、小麦粉の白がまだらにかかっている。まだらの隙間からは、落ち着き払ったかのような色あいのあんこが覗いている。あんこはこしあんである。生地は備前米から甘酒を作り、日数をかけて丹念に仕上げてあるのだと言われる。あんの材料の小豆と砂糖にも、凝っているやに聞く。このあんを、甘酒を醸し、小麦粉と合わせて発酵させた薄い皮に包み、そして蒸し上げると出来上がりとなる。これで店頭に並ぶ訳だが、これを買い求める側の心境はいかばかりか。郷土出身の作家の次の名文句が広く知られる。
 「東京へ持って帰るお土産の大手饅頭を、箱入りと竹の皮包みと、私がときどき夢に見る程好きな事を知っているものだから、持ち重(おも)りがする位どっさり持ってきてくれた。饅頭に押し潰されそうだが、大手饅頭なら潰されてもいい。」(内田百聞「第二阿房」新潮社、2003)
 一口分つまむようにして口に運ぶと、甘酒のコクとこしあんの甘さがまろやかに広がるとのことだが、ギンギラギンの濃いめの甘さでないところに、この酒饅頭(さかまんじゅう)の真骨頂があるのではないか。

(続く)

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□72『岡山の今昔』出雲街道(姫路~津山)

2017-04-08 19:21:27 | Weblog

72『岡山の今昔』出雲街道(姫路~津山)


 さて、JRに戻って、岡山県に入ったところの「土居」(どい)、さらに「美作江見」(みまさかえみ)、「楢原」(ならはら)を過ぎて後、列車は林野駅へと滑り込む。この駅で降りて、タクシーを頼んで北の方角に向かっていくと、平賀元義が「あがた川 暁月に名のりつつ 川上とおく行く ほととぎす」と詠んだ英田阿(あがたがわ)が見えてくる。木村毅(つよし)によると、この河を「一里ものぼると山はようやく深く、嵐気をふくんで車窓にせまる。田舎の舗装もせぬでこぼこの道だが、一時間余りにして宮本村に達する」とある。
 近隣の名所は他にもあって、もう一度林野市街に戻り、再びタクシーを頼んで15分ほど行くと湯郷(ゆのごう)温泉がある。ここは、美作江見から勝間田への順路から少しばずれている。とはいえ、京阪神の温泉好きな人達の間では、豊かな自然の中でほっと一息つける湯処としてかなり知られている。湯郷温泉街の風景は、名湯・城崎温泉のたたずまいとやや似ているのではないか。ところが、こちらは城之崎のような海風も吹かないし立ち並ぶ旅館やホテルの範囲も小さい。山間の鄙(ひな)びた温泉場という呼び方が似つかわしい。いつの頃からか奥津温泉、湯原温泉と並んで「美作三湯」に数えられている。湯の郷は石楠花(しゃくなげ)の花が咲くことで知られている。また、女子サッカーを盛り上げてきたことでも知られる、スポーツに理解のある土地柄でもある。
 津山への入口ともいえる勝間田の地には、この時期に医業で多くの人材が輩出している。その中で、小林令助の働きがあり。彼の活躍は杉田玄白とも関係する。玄白といえば、語学に堪能な前野良沢と協働してして、ドイツ人の著書を翻訳しての『解体新書』を発行した人物だ。その玄白の門人として、親交があったのが小林令助であった。令助は、美作国勝南郡岡村(現在の勝田郡勝央町)に生まれる。それなりの富裕な家に生まれたおかげであろうか、江戸に遊学して、玄白のもとで外科を学んだ。また、京都では吉益南涯に内科を学んだ後、郷里に帰り、医院を開業した。令助の名は玄白の門人帳には見当たらない。それでも、玄白の日記の1790年(寛政2年)年2月17日条」に「送帰令助之作州」という詩が見える。同様の主旨の詩が、同年3月4日条にも「業成才子作州帰」という題で残る。これから、玄白が令助に相当に目をかけていたことが窺える。中でも、1805年(文化2年)年11月14日付け、玄白が73歳のときに令助に宛てた手紙が、津山洋楽資料館に残っており、紹介されている。こちらの手紙の体裁としては、前年に玄白は将軍にお目見えをしており、令助がそれに対して述べた祝賀への返礼である。ソッピルマート(塩化第二水銀、消毒用劇薬、当時は梅毒治療に用いられた)の製法などに関する問合わせへの回答、令助が仕官の斡旋を依頼したことに対しての回答などが記されている。後の彼は、但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩医に取り立てられた。
 ここで話を戻して、江戸期の出雲街道を姫路方面から西へとやってくる、歩いての旅に戻ろう。東からやってきた旅人が、蕩々たる流れに膨らんでいる吉井川に至る。今の旧兼田橋のたもとには、江戸期の石造りの道標が立っていて、「播州ひめぢ二十一里、信州善光寺百五十五里」と掘ってある。ここに善光寺とは、江戸期には伊勢神宮と並んで、一生に一度は行ってみたいと願う人々が多くいたらしい。その本尊は、「生身(しょうしん)の阿弥陀如来」(中国流にいうと「無量寿仏」)といって、552年(「欽明大王十三年」に百済の聖明王から送られたものだと伝承される。こちら旧兼田橋の道標にある「信州善光寺百五十五里」とあるのは、京からは中山道洗馬宿まで行き、そこから善光寺西街道に入って、松本の城下町を抜け、篠ノ井の追分で善光寺街道に合流し、その道を十八里余り進んで善光寺仁王門に至るルートであったのではないかと推測している。ついでにいうと、天才絵師の葛飾北斎は、83歳から89歳までの間に江戸から長野の小布施町までを4回も徒歩で往復したというから、驚きだ。江戸からは中山道を歩き、追分で北国街道に入る。さらに更埴(現在の千曲市)からは、谷街道を使って千曲川右岸(東側)を北上していく。その谷街道は、越後に通ずる通商の道でもあり、その沿道にある小布施が旅の目的地となっていたのだと伝わっているから、かれこれ200キロメートル以上を歩いてパトロンのいる小布施に出掛けていたことになるのだろう。
 吉井川を東から西に渡ってからは、城下町津山の古い町並みが残る。その途中の道筋には、森藩の時代からは江戸期を通じて、東の城下町があった。時代が明治に入ってからは、町屋の雰囲気が伸してきた。狭い街道の両脇には、下駄屋とか鍛冶屋とか、主として雑貨などの手工業品を作る小規模の町工場や商店などが所狭しと軒を連ね、庶民がごった返しで大変な賑わいをみせ。それは、昭和の初期まで続いた。具体的な道筋を西へ辿ると、兼田橋を過ぎて川崎に入ると、そこははやもう、うねうね、かくかくの道筋となっている。それから西へは東新町、西新町と来て、中之町(なかのちょう)に到達する。その中之町で北方一曲の大曲をしてからは、勝間田町(かつまたまち)、林田町(はいだちょう)、橋本町(はしもとまち)と西進していく。その橋本町にも大曲があって、ここで進路を南に一区切りしてから、津山大橋へと向かうのだ。
 町家や民家が支配的であった、城東の6ケ町の北側背後、丹後山南麓により近い高所は上之町(うえのちょう)といい、江戸期には武家屋敷が連なっていた。2015年10月に見学かたがた頂戴した津山市発行によるパンフレット『城東むかし町家ー旧梶村家住宅』
においては、武家屋敷の配置をこう回顧している。
 「東西に細長く延びており下級武士や足軽・中間の居留地である。中央のやや北側を東西に東下りの道がとおり、出雲街道と13本の小路でつながれている。この南北に延びる南下りの坂のある小路には西から西美濃屋小路、美須屋小路、国信小路、関貫小路、栴檀小路(せんだんこうじ)、長柄小路、松木小路、福田屋小路、藺田(いだこうじ)小路、札場小路、大隅小路、東美濃屋小路、瓦屋小路と言った通りの名がつけられている。この武家地は享保12年(1727年)からは松平氏の石高が5万石となったため大半が明屋敷となった。しかし、文政元年(1818年)10万石に復帰したことにより家臣数は再び増加し、明屋敷は少なくなった。」
 森藩による城普請に際しては、城を固めるための寺院や神社が数多く建立されており、それらの伽藍は往時を偲ばせる。寺院については、西へ向けて順番に妙浄寺、蓮光寺、千光寺、浄円寺、本蓮寺、大信寺が並ぶ。ここでは、その中から西新町に鎮座する大隅神社を紹介しよう。2015年10月19日に訪れた時の神社の装いは、あくまで小ぶりの伽藍で、かつ閑かな空間であった。その説明書きの看板には、こう書いてある。
 「御祭神。大己貴命(おおなむちのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)
 由緒:当社は、和銅年間以前より祀られており、この地の山澤、原野を開拓し國造りの化身と崇められた信仰無類の「豊手」という異人が出雲の國日隅宮(今の出雲大社)を勧請し、大隅宮と称したのが鎮座の起源と伝えられている。
 当社の縁起・古證文等は、天文年中尼子晴久乱の折、更に永禄年中凶徒の災によって紛失し、又宇喜田直家は当国を領したとき刀剣・甲冑・筒丸を奉納したと伝えられている。
 元は六百メートル東の地に祀られていたが、美作国守森忠政公が鶴山に築城し城下町が賑わってきた元和六年(一六二〇年)三月現在地に遷され、以来大橋以東の産土神として崇敬されている。
 当社は、鶴山城鬼門守護として代々国主の崇敬厚く、社領の寄進、社殿の造営・修理が行われた。現在の御本殿は、貞享三年(一六八〇年)に再建されたものである。
祭日。歳旦祭一月一日、節分祭二月節分日、夏越祭七月十八日、秋季大祭十月第三日曜日、月次祭毎月一日」
 この社の建立以来、この町の人々は、この社に集い、寄り添い、何を夢見てきたのだろうか。折しも、前日とこの日、秋季大祭が開かれていて、11台ものだんじりが狭い往来を行き来していた。だんじりは、津山城東の通り」を通る。神社を中心にして、西に向かっては宮川に架かる大橋のたもとまで、東に向かっては吉井川に架かる兼田橋までの、ゆうに3キロメートルはありそうだ。「練り歩くというよりは、淡々と、ゆっくり進むのだ。そのだんじりを引っ張る紅白の綱を手にしているのは、まさしく老若男女といって良い、普段はごく普通の生活をしている人々でないか。だんじりの屋台の上では、「ちびっこ」たちが陣取っている。台上の子供達と車を引く大人衆が「そーやれ」というかけ声を発するや、子供太鼓が「トントントン」とたたかれる。あとはその繰り返しでだんじりが進んでいく。歩き方は、概して緩い。時折、ゆっくりペースがだく足ペースに切り替わったりする。その時は、「ウァーッ」とかの歓声が上がる。夕方の5時ともなれば、陽はとっぷり暮れてきている。周囲は相当な暗さになり、商店街の人達などが通りに出ている。そこかしこに明かりが灯される。普段は街灯くらいなのだが、ろうそくのはいった灯ろう明かりがつく。そんな幻想的な風景が広がる中で、往来に並んでだんじり行列を見ている人達は、私もその一人であったが、普段とは違った安らぎの表情に染まっていた。
 さて、話を戻して津山城東地区を西に進んできた旅人は、この城東の、細いながらもめぬき通りを通って西へ西へと宮川に架かる大橋のたもとまでやって来る。すると、そこは江戸期の「東の大番所」があった処であって、南を臨むと宮川が吉井川に合流するところである。明治の何時頃までであったか。津山駅(現在の津山口駅)ができ列車が走るようになってからは、高瀬舟は鉄道にその座を明け渡すことになっていく。このあたりの物流の中心であった「高瀬舟」の船が、おそらくは船頭のかけ声とともに行き交っていたのが、徐々に後景へと退いていく。大橋のたもと、宮川の向こうには津山城の険しい城垣がもう目の前に迫ってきている。その威容に圧迫されるというか、昔からの旅人は、独特の風情を感じ景観を右手に拝みつつ、その橋を渡って津山の中心部へと歩を進めていったのであろう。

(続く)

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□72『岡山の今昔』高梁川源流域から新見へ

2017-04-07 22:17:09 | Weblog

72『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高梁川源流域から新見へ

 これに対しては、新見(にいみ)から南下するルートが使われてきた。このルートだと、新見から瀬戸内海の河岸の玉島まで高梁川の高瀬舟の舟運が使われていた。もしくは、この川に沿った、今では国道180号線の道筋になぞらえる古(いにしえ)からの陸路を使うか、この川筋にほぼ沿っているところをあらまし走っている鉄道・伯備線(米子と倉敷を結ぶ)の鉄路なりを見立てることができるのではないか。
 まずは北方から、三大河川のうち高梁川は一番西を流れる。この川の源流は、鳥取県境の明地峠(標高755メートル)に近い花見山(標高1188メートル)の東麓(現在の新見市)だと言われる。そこからは「いよいよ下るぞ」ということであろうか、南に進路をとる。しばらくは、現在の国道180号線に寄り添うようにして南下していた流れは、やがて「千水湖」という細長の湖に入っていく。そこを出てからは、また山間地を縫うようにして走り、新見市の馬塚から高尾付近で中国縦貫自動車道の下をかいくぐり、このあたりの中心である新見市街へと向かう。高梁川に沿っては、石灰岩質のカルスト台地(阿哲台)が広がっているとのことであり、河川の浸食により高梁川の流れは渓谷に富むものとなっている。植物分布の方も、日本ではこの地域特有のものが多い。
 このあたりの、国道180号線に沿って新見へと南下していく途中に、千屋(ちや)という地名がある。集落はぽつぽつとしかないようである。ふんだんにあるのは、自然、それも道に迫る山々なのではないかと想像できる。当然のことながら、耕すことのできる土地は少なく、しかも痩せている。この土地千屋は、上代の頃から質の良い砂鉄が採れたという。鉄を掘り出す鉄穴場(かんなば)が散らばっていた。燃料の木材は、そこら中にふんだんにあったことだろう。

 この業で財を成した太田家が栄えていたのだが。江戸時代も末にさしかかった1850年代、その太田辰五郎が千屋牛の改良繁殖に成功した。そもそもは、新見の竹の谷に出向いて、そこの難波千代平の飼育していた牛に目を付け、連れ帰ったのが、これが新たな生業となっていく。それからは、たゆまぬ努力が続き、千屋牛(ちやぎゅう)なるものが繁殖していった。彼は、そのことで名を馳せ、以来、昭和半ばまでこの地に牛市が立っていった。
 今では、神戸牛や松阪牛などのブランド牛に劣らない、脂たっぷりの牛なのかも知れないが、少なくとも井伏鱒二(いぶせますじ)が次の取材の一文をしたためた1970年代初めまでは、なかなかに勇猛な牛であったらしく、こう述べてある。
 「岡山県の千屋村は、県の西北端にあって「島根県」(?:引用者)との県境に接している。この村では毎年、七月と十一月に牛市が立つ。いわゆる竹の谷牛という優良種の系統のものを出す牛市だとされている。(中略)
 千屋では(その近隣の村も同様に)早春から十一月にかけて、牛を山に放しきりにして飼っている。牛が塩分を求めて家に帰って来ると、塩か味噌をなめさせてまた山へ追いやるが、たいていは飼主が山へ出かけて塩分を与えている。千屋の人たちは、牛の姿や顔を見て、あの牛はどこの家の牛だと見分けをつけている。飼主が「うちの牛を見なんだか」と聞くと、学校通いの子どもでも、どこそこで見たと答えている。(中略)
 龍五郎という人は竹の谷牛とい最優良種の牛を買い取って、貧乏な百姓には無償貸付で飼わせて産めよ殖やせよと努めていた。当時、竹の谷牛は世人の驚異の的になっていた種類の牛である。よそから来る博労たちは、この牛を見ると喉をごくりと鳴らしたそうだ。
 記録で見ると、これは天保元年、地方屈指の富豪であった竹の谷の難波という人が、偶然のことから飴色の見事な牝牛えを手に入れた。この牝から一疋の子牛が生まれ、これもまた優秀で、四歳で四尺二寸余りになった。次にまた牝が生まれ、次に牝の子牛が生まれた。これを四歳まで育てて種牛にして交配に苦心した。すなわち、初代と初代を掛け合わせ、それに生まれた子牛を交互に掛け合わせて二つの系統を得て、その二つの系統を交互に掛け合わせて近親繁殖体を固定化させた。これを竹の谷牛と名づけて、生まれた子牛を付近の家に飼わせて種類の散逸を防いでいた。「この交配の方法は、日本にはそれまでなかったものです」と技師の人が云った。(中略)
 千屋牛は放牧で育てるので、爪が猪のそれのように固く立って、毛は繊細で密生し、皮膚をつまむと弾力がある。眼は大きく、活力があって、温和な相とよく調和する。額が広く、ゆったりとして、眉目秀麗である。のっぺりとした感じの美貌でなくて、品位がある。顎と胸垂は幾分か大きく、胸は幅広くて広潤たる感じである。背線は、よく最近の書家や木彫家がここに目をつけているように平直である。腰はどっしりとして、やや腰骨が高めについている。だから、役牛として水田を鋤かせるとき、ぬかるみのなかで高く後脚をあげて歩くことができる。後脚の発育が良好である点は、特に他の種類の牛と異なっているところである。性格は温和であり、活発であり、繁殖力が強く、遺伝力も非常に強い。竹の谷牛は長命で連産性であって、二十三歳まで生きる能力がある。全身が白毛になって、失明するまで生きているのがある。」(「千屋の牛市」:「小説新潮」の「取材旅行」、1960年11月に所収、原文旧仮名遣い、現代仮名に改めてある)

(続く)

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