♦️90の3の2『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849)

2018-05-04 10:11:32 | Weblog

90の3の2『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849)

 オーストリアでは、1848年3月13日に、首都のウィーンで民衆たちが蜂起する。これに恐れをなしたメッテルヒはイギリス亡命する。
 3月31日、オーストリアの支配下あったハンガリーでは、バチャーュを首班とするハンガリー独立内閣が成立する。ボヘミアでも4月チェク人が動き、ボヘミア自治のための憲法制定議会を開くことを要求し、これをウィーン政府に認めさせる。6月なると、プラハで歴史家のパラッキーを議長とする汎スラブ主義よる会議が開かれ、ドイツ人に対するスラヴ人の団結を唱えるのであった。 
 オーストリアの圧力の下にあったイタリアにおいても、自由主義的な動きが波及していく。3月中旬のミラノで暴動が起きると、全国広がる。オーストリアの守備隊を国外に追いやり、ヴェネツィア市は共和政を宣言する。この動きに乗じて、この年の始から自由主義憲法を発布して、自由主義運動の旗手を任じていたサルディア王カルロ・アルベルトは、オーストリア宣戦を布告し、これにはイタリア各地からかなりの援軍がかけつける。
 とはいえ、オーストリア国内の革命勢力が相互に連絡し、妥協点を見出そうとすることなく、反目し合っていた。その間に保守反動勢力は態勢を立直していく。1848年10月ウィーンで、軍隊による反革命が成功する。ハンガリーやボヘミアの革命運動が、政府軍に各個撃破される。
 概して、これらに参加した人びとは、ブルジョア的な自由主義から勤労者的な自由主義まで、広範な領域に散らばっていた。彼らが自分たちの希望を一歩実現するには、違った階層に俗する者同士が戦術的に統一し、目の前の一歩を踏み出さねばならない。
 総じて、敵と妥協しないためには、見方と大胆で必要な妥協をすることが必要であり、そのためには揺るぎない原則というものを持たねばならない。その際には、複雑に絡み合う利害、勢力関係などをその都度見極めながらも、順序だって進んでいくことでなければならなかった。これらの地方での革命の早々での失敗は、それらが完遂できなかった点で時期尚早であったという見方もできるのかもしれない。

(続く)

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♦️285『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの3月革命(1848~1849)

2018-05-04 10:10:13 | Weblog

285『自然と人間の歴史・世界篇』プロイセンの3月革命(1848~1849)

 フランスの二月革命の報道が伝わると、ドイツとオーストリアでも統一運動や自由主義運動が広がる。まさに、人の目があり、それらが重なり合うことによって、世の中や政治への大衆的な意思が形成されていく。具体的には、1948年3月13日、オーストリアのウィーンで市民や学生が暴動を起す。反動体制の宰相メッテルニヒはその収拾に失敗して、イギリスに亡命する。続いてハンガリーやボヘミアなどでも暴動が起り、3月18日にはベルリンにも飛び火してゆく。
 まずドイツでは、3月18日にベルリンで民衆が要求を掲げて街頭に出る。城門前で、市民と軍隊が衝突が起こる。過敏になった衛兵隊は、群集に向けて発砲する。当時のドイツは、統一国家ではなく、多くの中小国に分裂していた。
 そのことに、国民の多くはいらだちを覚えていた。決起した市民たち十分な準備があったとは言い難いが、バリケードを築いて抵抗する。そのかいあって、それまで政治体制の転換を求める市民たちは、プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム4世から言論・結社の自由などを認める勅令を引き出すの成功する。自由主義的な カンプハウゼン内閣が成立させる。
 1848年5月18日には、フランクフルト聖パウロ協会(フランクフルト・アム・マイン)で、ドイツ連邦に属する各国の代表が参加したドイツ最初の国民議会が開かれる。そこでは、悲願であるドイツの統一を協議する。ところが、この議会の主な構成メンバーであった知識階級は、議論に明け暮れる。プロシアを中心に統一しようとする小ドイツ主義派が台頭し、これに、オーストリアを盟主にしようとする大ドイツ主義派とが対立していた。また、共和制をとるか、君主国とするかの対立もあった。
 ようやく10月27日から28日にかけて、国民議会は基本法を決議する。翌1849年3月28日に告示された憲法に記された国家組織の基本は、「君主制派と共和制派間の、統一派と連邦派の妥協の産物であった」(「ドイツの歴史(現代史)」明石書店、世界の教科書シリーズ14)。
 このように、下からの力による「革命」というには、多くが欠けていたことが、その後のあっけない展開につながっていく。革命勢力が有効な手立てを講じないままに、時間が空費される。ドイツ内部では、特に労働者階級の台頭を恐れるブルジョアジーは、支配勢力に接近する。一方、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義派が優勢になる。彼らは、自由主義的な帝国憲法を採択し、プロシア王を世襲のドイツ皇帝に選出する。しかし王はこれに満足せず、帝冠を拒絶し、南ドイツの各王侯政府もこの種の憲法を制定するのに否定的的となる。
 そして迎えた1848年11月にはベルリンで、軍隊による反革命のクーデターが起こる。プロイセンの革命派の権力は反動勢力奪取されるのであった。1849年5月、ドイツ各地に自由主義的憲法承認を要求する暴動が起る。しかし、1か月足らずのうちに鎮圧されてしまう。

(続く)

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