新94♦️♦️70『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)とアカデメイア
ソクラテス(ソークラテース、紀元前469?~紀元前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学をこころざしてからは、公開の場で議論をよくした。
そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していた。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされる。当時のアテネは対外戦争のためもあって寛容な世の中ではなかったらしい。民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。裁判では、弁論もできたのであろうが、慈悲を請うとかはしなかったらしい。あえて国法に従い、死の道を選んだため、刑死したといわれる。
その彼の著作は現代に伝わっていないものの、弟子のプラトンとの対話編によってその思想のかなりを知ることができる。哲学者としての、その処世の最大の特徴は、「無知の知」ということで、物事の真実、真理の前に謙虚な探求心を貫いたことにある。
プラトン(プラトーン、紀元前427~紀元前347)は、古代ギリシアの哲学者である。また、政治家ではないものの、政治向きの話をよくしたという。ソクラテスの弟子にして、 アリストテレスの師に当たる。
壮年期からは、「イデア説」を研く。中でも、「哲人政治」を志す。その国家論の一節には、こうある。
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」(プラトン著、藤沢令夫訳「国家(上)」岩波文庫、601ー7)
支配階級の中からの優れた者、保護者としての政治家による政治の実現を唱える。理想国家を打ち立てるための遊説もしていたのかもしれない。また、人材を育てるべく、アテネの北西郊外にアカデメイアと呼ばれる学園(紀元前387~後529)をつくる。その特徴は、今日の大学教育にも通じるものもあるが、かなり異なる面がある。
その1として、ちゃんとした建物は持たず、またカリキュラムもない。その2として、公的援助に頼らない。公共体育場を、その場の一部としていたという。その3として、市民なら階層などでの制限はなかったらしい。女性も参加できたという。その4として、プラトンは校長で、これといった講義は受け持たなかった。まさに、組織者であったのだろう。講師としての研究員は原則として、ほぼ対等であったという。教育に対する熱情は、終生続く。
この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。
また、アカデメイア(ギリシア語)とは、ギリシアの哲学者プラトンが紀元前385年ごろに開いた学園だ。アテネの北西郊外、半神アカデモスの神域にあったことから、この名がある。
プラトンは、ここで弟子たちと禁欲的な共同生活を営み、特に数学の研究を重んじ、叱咤激励したようだ。アカデメイアは、前347年のプラトン没後も、代々の学頭が後を継ぐ。紀元前3~前2世紀には、懐疑論が有力になっていく。
5世紀には、新プラトン主義哲学の中心となったものの、529年には、異教の学問と名指しされ、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世の命により閉鎖される。
そうなると、多くのギリシア人学者はササン朝に移り、ホスロー1世の保護を受ける。
(続く)
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