◎28の4『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)

2018-03-31 09:36:41 | Weblog
◎28の4『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)

 ソクラテス(ソークラテース、紀元前469?~紀元前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学をこころざしてからは、公開の場で議論をよくした。
 そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していた。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
 紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされる。当時のアテネは対外戦争のためもあって寛容な世の中ではなかったらしい。民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。裁判では、弁論もできたのであろうが、慈悲を請うとかはしなかったらしい。あえて国法に従い、死の道を選んだため、刑死したといわれる。
 その彼の著作は現代に伝わっていないものの、弟子のプラトンとの対話編によってその思想のかなりを知ることができる。哲学者としての、その処世の最大の特徴は、「無知の知」ということで、物事の真実、真理の前に謙虚な探求心を貫いたことにある。
 プラトン(プラトーン、紀元前427~紀元前347)は、古代ギリシアの哲学者である。また、政治家ではないものの、政治向きの話をよくしたという。ソクラテスの弟子にして、 アリストテレスの師に当たる。
 壮年期からは、「イデア説」を研く。中でも、「哲人政治」を志す。その国家論の一節には、こうある。
 「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」(プラトン著、藤沢令夫訳「国家(上)」岩波文庫、601ー7)
 支配階級の中からの優れた者、保護者としての政治家による政治の実現を唱える。理想国家を打ち立てるための遊説もしていたのかもしれない。また、人材を育てるべく、アテネの北西郊外にアカデメイアと呼ばれる学園(紀元前387~後529)をつくる。その特徴は、今日の大学教育にも通じるものもあるが、かなり異なる面がある。
 その1として、ちゃんとした建物は持たず、またカリキュラムもない。その2として、公的援助に頼らない。公共体育場を、その場の一部としていたという。その3として、市民なら階層などでの制限はなかったらしい。女性も参加できたという。その4として、プラトンは校長で、これといった講義は受け持たなかった。まさに、組織者であったのだろう。講師としての研究員は原則として、ほぼ対等であったという。教育に対する熱情は、終生続く。
 この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。

(続く)

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69*◎28の3『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(タレスなど)

2018-03-30 10:45:19 | Weblog

69*◎28の3『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(タレスなど)

 タレス(タレース、紀元前624年頃~紀元前546年頃)は、 古代ギリシアの哲学者、科学者。イオニア地方で生まれたらしく、こにこ発祥したミレトス学派の始祖であるという。哲学的な言葉も色々あるものの、本質は科学者なのではないだろうか。
 功績としては、やはり幾何学でもさまざまな定理を発見したことだろう。例えば、こうある
 「一つの内角と、それをはさむ二つの辺の長さがそれぞれ等しい三角形はたがいに合同どある。」
 「一つの辺の長さと、その両はしにある内角とがそれぞれ等しい二つの三角形はたがいに合同である。」
 彼がこの定理を発見する前にも、エジプトの現場では、直線を引くのに、縄を使って引っ張り合い、測量をしていた。その延長であろうか、「たがいに直角に交わる直線を引くのに、その三つの辺の長さがそれぞれ三、四、五の割合の三角形をつくればよいといううまい方法を、経験的に知っていました」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)という位のレベルの高さであったとのこと。
 タレスは、このエジプト人たちの知識から出発したに違いあるまい。彼らが経験的に拾い集めた数学上の真理を、結び合わせ、なぜそうなるかを考え、誰もが納得できる定理として示した。その探求に、おのが精力を注いだのであろう。
 それからは、これを使って実際に役立てていく。例えば、それを使って、立ち位置を岸にとって、沖に見える船までの距離を測るとか、山越しに向こうに僅かに見える地点までの距離を割り出すとか。有名な話では、これらの定理を使って、ピラミッドの高さを測ってみせたともいわれる(一説には、影を使って相似の原理から測ったのではないか。しかも、棒の長さと影の長さがまったく同じになる時間を待つ方法ではなかったのではないか、という)。
 かわったところで有名なのは、古代ギリシアの都市ハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスの「ヒストリア(歴史)」という著書がある。その中に、紀元前6世紀に行われた戦争中に、もう少しいうと、紀元前585年5月28日に起きた皆既日食により、昼が夜に変わり、双方の兵士たちが戦いをやめたということであり、驚くことにそのことを予言した人物がいた。それがタレスであったということが記されているらしい。はたして、どんな理由からそう予言したのかは分からないが、少なくとも、天文学の研究も行っていたのではないか。

(続く)

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899◎222『自然と人間の歴史・世界篇』南部アフリカの現況

2018-03-30 09:40:54 | Weblog

899*◎222『自然と人間の歴史・世界篇』南部アフリカの現況

 このあたりで、南部アフリカの経済状況(人口と名目GDPは世界銀行調べ、2016年)について、ごく大まかに紹介しておこう。GDPは、国内総生産の略で、1年間に生産(付加価値として)された財とサービスの合計をいう。
 モーリシャスの人口(2016年)は126万人、国内総生産(GDP、2016年)は122億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は9631ドル。
 マダガスカルの人口(2016年)は2489万人、国内総生産(GDP、2016年)は100億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は402ドル。
 コモロの人口(2016年)は80万人、国内総生産(GDP、2016年)は6億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は775ドル。
 モザンビークの人口(2016年)は2883万人、国内総生産(GDP、2016年)は110億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は382ドル。
 マラウィの人口(2016年)は1809万人、国内総生産(GDP、2016年)は54億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は300ドル。
 ナミビアの人口(2016年)は248万人、国内総生産(GDP、2016年)は248億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は4415ドル。
 アンゴラの人口(2016年)は2881万人、国内総生産(GDP、2016年)は953億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は3309ドル。
 南アフリカの人口(2016年)は5591万人、国内総生産(GDP、2016年)は2955億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は5285ドル。
 ボツワナの人口(2016年)は225万人、国内総生産(GDP、2016年)は156億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は6924ドル。
 レソトの人口(2016年)は220万人、国内総生産(GDP、2016年)は23億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は1040ドル。
 ザンビアの人口(2016年)は1659万人、国内総生産(GDP、2016年)は211億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は1270ドル。
 スワジランドの人口(2016年)は134万人、国内総生産(GDP、2016年、は37億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は2770ドル。
 ジンバブエの人口(2016年)は1615万人、国内総生産(GDP、2016年、は166億ドル、一人当たりのGDP(2016年)は1029ドル。
 参考までに、2016年の名目GDPの世界ランキングを掲げておく。これには、IMF、世界銀行、国連などによるものがそれぞれ用いられているが、以下ではIMFのものを紹介しよう。これによると、1位はアメリカで18,624.45(名目GDP、2016年、単位は10億USドル)。2位は中国で11,232.11。3位は日本で4,936.54。4位はドイツで3,479.23。5位はイギリスで2,629.19。6位はフランス2,466.47。7位はインド2,263.79。8位はイタリアで1,850.74。9位はブラジルで1,798.62。10位はカナダで1,529.76。(中略)27位はナイジェリアで405.44。(中略)40位は南アフリカで294.90。(元々の出典は、IMF - World Economic Outlook Databases(2017年10月版)、引用は「世界経済のネタ帳」(インターネット閲覧による)
 また、2016年の購買力平価(PPP)で換算した名目GDPの世界ランキングを掲げておく。こちらの指標では、物価水準がそれなりに考慮されていて、人々の生活実感にもより近いと考えられる。名目額は、いわば「見掛けの競争力」のようなものであり、そういうことから考えると、やがてこの購買力平価の方に引き寄せられていくものとみられよう。
 これには、IMF、世界銀行、国連などによるものがそれぞれ用いられているが、以下ではIMFのものを紹介しよう。これによると、1位は中国21,286.18(名目GDPのPPP評価、2016年、単位は10億USドル)。2位はアメリカで18,624.45。3位はインドで8,700.62。4位は日本で5,233.34。5位はドイツで3,996.60。6位はロシアで3,862.25。7位はブラジルで3,140.51。8位はインドネシアで3,031.30。9位はイギリスで2,784.83。10位はフランスで2,735.14。(中略)23位はナイジェリアで1,090.10。(中略)30位は南アフリカで739.23。(元々の出典は、IMF - World Economic Outlook Databases(2017年10月版)、引用は「世界経済のネタ帳」(インターネット閲覧による)

(続く)

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234*◎74の3『自然と人間の歴史・世界篇』ブルジョア革命の条件

2018-03-29 21:10:21 | Weblog

234*◎74の3『自然と人間の歴史・世界篇』ブルジョア革命の条件

 ブルジョア革命といわれるための条件とは何であろうか。
 それは一つには、後進国における資本主義経済の発展は、一国ないし一定地域のみの自生的発展としてとらえられない。他国、他地域との間に複合的な相互作用が展開する余地がある。
 二つは、革命には大まかに社会の上部構造からの視点と、下部構造からの視点とがある。前者が民主主義の実現であり、後者がブルジョア的生産構造の実現である。一般にブルジョア革命という場合には、この両方の側面があることを忘れてはならない。また、この二つは互いに関連しあいながら発展する傾向を持つものの、一律でくくられるものではない。 そして三つ目は、民主主義といい、ブルジョア的生産構造といい、これらには各々の領域で様々な発展段階があり、一律でくくられるものではない。前者では、変革が中途半端なところで停滞することがありうるし、後者では、上からのコース(商人から資本家へ)、下からのコース(手工業生産者自身が資本家へ)などの差異がありえる。

(続く)

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379*◎116の4『自然と人間の歴史・世界篇』独占資本主義の時代

2018-03-28 21:48:15 | Weblog

379*◎116の4『自然と人間の歴史・世界篇』独占資本主義の時代

 独占資本が主導する経済においては、新機軸による労働生産性の上昇は、最低資本量の増大と表裏一体で進むことから、かれらによる市場の独占的支配が強まる。これによる参入障壁の形成は産業部門間の資本の自由な移動を制限し、新産業を除いては企業の新設率が低下するとともに、新産業への創業投資もそのままでは独占資本によるものが主流を占めるにいたる。そして生産力の拡大は、既存の大企業の手で彼らの思いのままに行われる傾向が強まるであろう。
 かれらには、相互の価格引下げ競争よりも、参入障壁の許容するかぎり独占価格を維持しようとの意思がはたらく。技術進歩による生産費の低減を製品価格に反映して相互に競争し、販売市場の拡大をはかるよりも、価格・コスト比率の変化を通じて売上げ組利潤を拡大しようとするだろう。そうなれば、既存企業による新投資は、それのもらたす生産能力の拡張分に見合うだけの需要増加の見通しが生まれないかぎり行われにくくなる。

(続く)

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711*◎182の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(~クーデターへ)

2018-03-28 21:30:22 | Weblog

711*◎182の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(~クーデターへ)

 1991年の1月から3月にかけては、「ソ連邦大統領とロシア最高会議議長の対立の絶頂期」と言われる対立が顕在化していた。具体的には、1991年1月に入ると、リトアニア及びラトビアへの軍事介入、マスコミへの検閲の一部復活やKGBの経済活動取締り権限の強化等の強権的措置が実施されるようになっていく。
 そして迎えた1991年1月、これに対してソ連はソ連軍をリトアニアの首都に進攻させ、多数の戦車を動員して放送局などを攻撃・占拠する。こうしたゴルバチョフ政権の保守化傾向に対し、3月には炭鉱ストライキが全土に拡大して同政権の退陣を要求する動きを見せる。
 これらを受けて、1991年3月12日、連邦の是非を問う国民投票がおこなわれる。
 「あなたは、いかなる民族の人間であろうと全面的に権利と自由が保証される刷新された、平等の主権共和国の連邦としてのソビエト社会主義共和国連邦の維持を必用と考えるか?」
 これに対する「賛成」の回答が「反対」を上回る。この国民投票の意義については、つぎのように言われている。
 「ぺレストロイカの社会主義的から次第に離反していったことと関連する矛盾に、1990年夏からは中央対共和国の矛盾が加わり、連邦の維持と廃止をかけたたたかいが火花を散らす。その頂点が1991年3月12日の国民投票であった。」(M・ゴルシコフ(ロシア独立社会民族問題研究所)著、佐藤利郎・村田優訳「エリツィンとゴルバチョフ-1500日の政治対決-」新評論、1993へのM・K・ゴルシコフとL・N・ドブロホトフの解説「政治闘争と諸民族のドラマ」)
 1991年6月12日には、野心家のエリツィンが、ソ連邦ロシア共和国の大統領選挙で同共和国の大統領に選出される。
 他方、こうした混乱状況に対して保守派は、ゴルバチョフ政権に圧力をかけて、全土に非常事態宣言を布告し、場合によってはより強力な政権の下で連邦制の「鉄の団結」の回復に乗り出そう、との姿勢を強める。
 保守派のこうした全面的な復権の動きを懸念したエリツィン議長等急進改革派は、ゴルバチョフ政権と協調する方向に転換する。同年1991年3月17日の連邦制維持の是非を問う全連邦レベルの国民投票には、ロシア共和国を始め9共和国が参加する。バルト3国等独立派の6共和国は不参加であった。
 この選挙で、投票者の76%(有権者の61%)が提案に賛成票を投じた。1991年4月23日にはこの9共和国代表と連邦大統領との間で共同声明(9+1合意)が発表され、連邦の緩やかな再編成を目指す話になる。この合意の下で,新連邦条約の草案が数回にわたって修正され、最終案が1991年8月20日に連邦とロシア、カザフ、ウズベクの各共和国との間で調印開始される運びとなっていた。

(続く)

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712*◎182の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(1991年8月19~24日、クーデターとその失敗)

2018-03-28 21:27:09 | Weblog

712*◎182の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(1991年8月19~24日、クーデターとその失敗)

 しかし、この新連邦条約の最終案は、軍事・安全保障上役の策定や財政運営などの面で、当初の草案に比べ共和国の権限が著しく強化されていると見られる。このことから、このままでは連邦の主要な権限のかなりの部分、特に保守派が有していた軍事やそれに関連する三軍複合体への行政権限、さらにその基礎にある主要国営企業に対する彼らの支配力が共和国に移されるか、弱体化して保守派としての権力基盤を失ってしまうとの危機感を覚えたのであろう。
 そして迎えた、この新連邦条約の調印の前日である1991年8月19日、保守派は、クーデターを決行するにいたる。1991年8月21日、健康状態悪化の理由ということにして、ゴルバチョフ大統領をその職からおろし、国家非常事態委員会が権力をモスクワに戒厳令を発令し掌握するのであった。これに対し、エリツィンらは同委員会が違法であると宣言、ソ連人民代議員大会の召集を要求する。
 3日後の8月24日、このクーデターは失敗する。エリツィン・ロシア大統領が、ソ連のあらゆる執行機関を自分の直轄下に置く大統領令を公布する。またこの日、エリツィン・ロシア大統領は、ソ連共産党と国家保安委員会(KGB)の公文書の差し押さえを命ずる大統領令を公布する。エリツィン大統領はまた、治安維持のため、ロシア共和国が連邦連邦政府の通信手段を管理すると言い放つ。さらに同じ8月24日、ロシア共和国がエストニア、ラトビアの独立を認める。
 同じ1991年8月24日、ゴルバチョフ最高会議議長がソ連邦共産党の解散を宣言する。また、ソ連共産党の資産を厳格な管理の下におく大統領令を公布する。
 その骨子は日本の各紙によれば、次のとおりであった。
「一、ソ連共産党の資産を各くレベルの議会の管理下に置くとともに、今後それをどう使用するかは、所有および社会的団体に関するソ連邦および共和国の法律を厳守して解決される。
 一、現行の法律に従い、各レベルの議会は活動を停止する党委員会の職員の就職と社会保護のための措置を講じる。法擁護機関その他の国家機関は、市民の権利のいかなる侵害もゆるしてはならない。」
 これを境に各共和国は相次いで独立宣言を行い、9月6日にバルト3国は独立を達成する。これにより保守派による改革の妨害という障害はなくなったものの、1922年以来のさしもの筋金入りの連邦制もまるごと一挙に崩壊してしまった。

(続く)

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713*◎182の2『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(クーデター後)

2018-03-28 21:22:33 | Weblog

713*◎182の2『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連社会主義の崩壊(クーデター後)

 このクーデターの「3日天下」での失敗後、政治情勢は一気に急転していく。大まかには、クーデターの反動で共産党・保守派は壊滅状態に陥っていく。すなわち、これを境に各共和国は相次いで独立宣言を行い、9月6日にバルト3国は独立を達成する。これにより保守派による改革の妨害という障害はなくなったものの、1922年以来のさしもの筋金入りの連邦制もまるごと一挙に崩壊していくのだ。
 それにしても、この政変はその実行グループの意図がどうであれ、なぜにあっけなく崩れることになったのだろうか。考えるに、クーデターを起こした人々には、政治的な誤算があった。一つは、ゴルバチョフやその政府に圧力をかければ自分たちに従うだろうとの見通しを持っていたのではないか、今ひとつは政治的、軍事的な面で用意周到さを欠いていたのではないか、旨の指摘がある(このあたりを伝える参考文献として、例えば、パーベル・パラチェンコ著・濱田徹訳「ソ連邦の崩壊ー旧ソ連政府主任通訳官の回顧」三一書房、1999)。
 いずれにしても、このクーデターの失敗は、それまでゴルバチョフ政権の下で続いていた改革の、玉石混合もろともでの瓦解を一挙に押し進めることになる。
 話を戻して、クーデター後のおよその動きの紹介にもどろう。1991年10月1日、13の主権国家の首脳がアルマータで会談、ラトビア以外は経済共同体条約に調印する。ヤブリンスキー案の実施を求める勢力が主導権を握る1990年7月のヒューストン・サミットで指示され作成されたIMF(国際通貨基金)の調査報告書はシャタリン案をベースとしている。
 ソ連邦に属した独立国家内で中央からの分離を志向する改革が進む。1991年9月、バルト3国の完全独立と新しい連邦の形成が模索され、連邦暫定内閣・国家経済対策委員会のヤブリンスキー副議長から「経済同盟」条約案が提案され、連邦の最高機関である国家評議会で採択される。
 しかしながら雪崩の如き社会主義国家体制の政治的後退はおさまらず、1991年12月、連邦解体はウクライナの連邦離脱表明で緊迫化しました。このとき、エリツィン・ロシア共和国大統領はゴルバチョフの主権国家連邦を引っ込めて、ロシア、ウクライナ及びベラルーシ3国、つまりスラブ民族による独立国家共同体の創設に切り替えて、3国の合意をとりつける。1991年末、ソ連、ロシア共和国とウクライナ共和国、ベラルーシ共和国のスラブ3国がソ連邦の解体を宣言する。
 経済面では、1991年の通年でみた統計の困難も浮き彫りになっていく。この年の1~12月の国民総生産の伸びは17%のマイナスを記録するのであった。生産国民所得の伸びは15%のマイナスでした。工業生産高は全体で7.8%のマイナス、内訳は生産財、消費財とも明らかではない。農業生産高については7%のマイナス。社会的労働生産性と投資は正確な記録が見当たらない。小売物価指数は86.0%の大幅な上昇、貿易量は38.5%の減少を記録する。(拙ブログ『ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み』)

(続く)

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714*◎182の3『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の国民投票(1991年3月)

2018-03-28 21:16:45 | Weblog

714*◎182の3『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の国民投票(1991年3月)

 1991年の1月から3月にかけては、「ソ連邦大統領とロシア最高会議議長の対立の絶頂期」と言われる対立が顕在化する。
 これを受けて、1991年3月12日、連邦の是非を問う国民投票がおこなわれる。
「あなたは、いかなる民族の人間であろうと全面的に権利と自由が保証される刷新された、平等の主権共和国の連邦としてのソビエト社会主義共和国連邦の維持を必用と考えるか?」
 1991年3月17日連邦維持の賛否を問う国民投票の結果では、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じる。ここでバルト三国の様に独立志向が強い共和国では、投票をボイコットする。これに対する「賛成」の回答が「反対」を上回る。
 この国民投票の意義について、M・ゴルシコフはつぎのように言っている。
 「ぺレストロイカの社会主義的から次第に離反していったことと関連する矛盾に、1990年夏からは中央対共和国の矛盾が加わり、連邦の維持と廃止をかけたたたかいが火花を散らす。その頂点が1991年3月12日の国民投票であった。」(M・ゴルシコフ(ロシア独立社会民族問題研究所)著、佐藤利郎・村田優訳「エリツィンとゴルバチョフ-1500日の政治対決-」新評論、1993へのM・K・ゴルシコフとL・N・ドブロホトフの解説「政治闘争と諸民族のドラマ」)
 この国民投票結果を受けて、新連邦条約に基づき、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と、連邦の再編が行われる予定であった。ところが、1991年8月、それらによりソ連崩壊に結びつくことを危惧した「保守派」のクーデター未遂事件(3日間で崩壊)によってその予定が崩壊してしまう。

(続く)

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715*◎182の4『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連から15の共和国へ

2018-03-28 21:12:16 | Weblog

715*◎182の4『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連から15の共和国へ

 1991年8月の「保守派」のクーデター未遂事件(3日間で崩壊)に直面し、その後のソ連は大変革の時代へと移って行く。まずは、ソ連邦議会は、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立を承認する。これより先1990年3月、バルト3国であるリトアニアとエストニアが、同年5月にはラトビアがソ連邦からの独立を宣言していた。バルト3国が実際に独立したのは、1991年8月のことである。
 それでは、これらのバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く12ヶ国の動向はどうなっていったのか。結論からいうと、同年1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシが「ベロベージ合意」にいたる。彼らは、ソ連邦から独立してCIS(Commonwealth of Independent States: 独立国家共同体)を創設するという。
 具体的には、こういうことであった。1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、この3国の首脳が秘密裏に会合する。この会議に集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。
 彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について相談するのを名目に、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 この会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことを決める。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した。第二に、CIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアは、彼らの密議の外に置かれる。 ソ連邦の憲法では違法であっても、「もはや従う必要はなくなった」と見くびったのであろうか。こうなると、ゴルバチョフらソ連首脳にとっては、自分たちのあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。ソ連という連邦国家の基礎部分が瓦解していく訳であるから、唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かうのであった。
 残る旧ソ連諸国9カ国も、1993年までには独立してCISに加入したことでCISは合わせて12か国となり、15の共和国から成り立っていたソビエト連邦はここに完全に解体する。これにかわってCISが拡大する。この加盟国は、最大の領土と人口をもつロシア以外に、EUに接する3カ国(ウクライナ、ベラルーシ,モルドバ)に加え、中央アジアの5カ国(カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス)、それにコーカサス地方の3カ国(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)となる。
 そして迎えた1991年8月24日夜、ゴルバチョフ・ソ連大統領は、大統領声明を発表する。それには、こうある。
 「一、ソ連共産党中央政治局、書記局は、クーデターに反対する行動をとらなかった。中央委員会はクーデターを批判し反対する断固たる態度をとらず、憲法的合法性の蹂躙に反対するたたかいに党員を立ち上がらせなかった。陰謀家の間には党指導部のメンバーが含まれ、一連の党委員会やマスメディアは、国家犯罪人の行動を支持した。これによって幾百万の党員はどっちつかずの状態に立たされた。
一、だが、多くの党員は陰謀家との協力を拒否し、クーデターを非難して、それに反対するたたかいに加わった。だれもすべての党員を無差別に非難する道徳的権利はない。そして、大統領として私は、市民を根拠のない非難から守ることを自分の義務と考えている。
 一、このような状況においてソ連共産党中央委員会は解散という困難ではあるが誠意ある決定を採択しなけれじならない。
一、共和国共産党および地方党組織の将来は、自分自身で決定することになる。
一、私は、ソ連共産党中央委員会書記長の職務をこれ以上務めることを不可能と考え、関係する権限を返上する。
一、憲法的合法性を維持している民主主義的傾向の党員たちが、社会刷新の方針に沿って新しい基盤に立ち、党の結成に立ち上がることを確信する。その党は、すべての進歩的勢力とともに、働く人々のため、根本的な民主的改革に積極的に参加することができる党である。」
 1991年12月25日、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領が中央テレビを通じ辞任の演説をおこなう。その一節には、こうある。
 「独立国家共同体の結成に伴う事態から、わたしは自らのソ連大統領職の活動を停止する。私はこの決定を原則的考えから下す。」
 「原因はすでに明らかであった。社会は指令・官僚制度の圧迫で窒息しそうだ。イデオロギーに奉仕し恐ろしい軍拡競争の重荷を背負う運命にあった社会、これは限界にあった。」
 これと同じ1991年12月25日、ソ連邦が崩壊し、ロシア連邦共和国が設立される。初代の大統領には、ポリス・エリツィンが就任する。ロシア連邦の21共和国の構成は次のとおり。その名は、アドゥイゲ、アルタイ、イングーシ、ウドムルト、カバルダバルカル、カラチャイチェルケス、カルムイク、カレリア、北オセチア、コミ、サハ、ダゲスタン、タタルスタン、チェチェン、チュバシ、トゥバ、ハカシア、バシコルトスタン、ブリヤート、マリエル、モルドビアである。これらのうちタタルスタンとは、ロシア連邦西部にある共和国であり、住民の約半分がタタール人(モンゴル系)だ。中国でいう「韃靼(きったん)」の呼称はここから来ている。のちモンゴル民族全体の呼称となる。タタール人の大部分はイスラム教徒なのだが、一部にはギリシア正教の信者もいるるとのこと。

(続く)

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8*◎3の3『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系惑星(水星など)

2018-03-28 10:06:57 | Weblog

8*◎3の3『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系惑星(水星など)

 金星は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星である。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。地球から見ると、金星は明け方と夕方にのみ観測でき、太陽、月についで明るく見える。明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」と言い分けられるところだ。
 ここに天文単位(AU)というものさしがあって、より内側の水星が0.39、直ぐ外側の地球が1AU、そのまた外側の火星が1.52AUなのに対し、金星のそれは0.72AUとなっている。これらの配置加減は、「ケブラーの第3法則」に従う。また、この惑星は、「地球型惑星」とか「地球の姉妹惑星」と表現される。これは、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似ているためだ。金星の半径は地球の0.95倍、質量は0.82倍だと推定されており、まさに地球と同じ岩石惑星なのだ。
 それなのに、金星には地球のような生物環境は存在していないと言われている。その要因としては、やはり温度と水、それに生物が呼吸に必要とする酸素などであろうか。
 金星には非常に厚い大気があり、そのほとんどが二酸化炭素であるとのこと。そのため某かの二酸化炭素による温室効果がはたらくであろう。また、金星の表面の温度は昼も夜も摂氏460度と、太陽により近い水星よりも高いというから驚きだ。
 大気中には硫酸の粒でできた雲が広がっているともいわれる。その厚さは、何キロメートルもあるらしい。その雲にさえぎられて太陽からの光が直接地表に届くことはない。雲から硫酸の雨が降っても、地表があまりにも高温なため、地表に達する前に蒸発してしまうと考えられている。おまけに、金星の大気の上層では、秒速100メートルもの風が吹いている。
 この生命起源の観点からは、現在までの、太陽系の条件をあてはめた計算により、軌道半径0.6~0.8AUの間に、地球型惑星の初期進化の明暗を分ける境界があるのではないかと推計されている。ただし、「(現在の知識に不確定要素があり、位置は細かくしぼれていない。惑星のサイズはあまり影響しない)」(「地球と金星の明暗を分けたものとは?」:雑誌「ニュートン」2013年8月号)との注釈が付けられている。

(続く)

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39*◎18の5『自然と人間の歴史・世界篇』石器時代

2018-03-28 09:03:15 | Weblog

39*◎18の5『自然と人間の歴史・世界篇』石器時代

 初期の人類社会の発展を語ろうとするとき、その各々のときに、どのような石器が使われたかを調べ、そのことで社会の構成をおしはかることが行われてきた。石器というのは、道具であって、ただの石を使うなら現在のアフリカの森に生息するチンパンジーでもでも、くるみを割るなりで用いている。人類が日常生活において使うということでは、それなりの工夫がなされていなければならない。たえ例えば、こんな報告が成されている。
 「現代人の直接の祖先は約10万年前にアフリカ大陸に出現したとされる。だが、現代人がもっているような複雑な思考回路がいつごろにできたのか不明だった。
 南アフリカ、ケープタウン大学のブラウン博士らは、南アフリカの旧石器時代の遺跡(約7万1000年前)から出土した「細石器」を分析した。細石器は長さ5センチメートル未満の石器で、約4万年前にアフリカやユーラシアでよく使われていた。分析の結果、発見された細石器は、過熱処理という高度な技術で、もとになる岩からはがされていたことがわかった。博士らによると、現代のアフリカの民族での事例から類推して、当時の細石器は矢の先端に装着するやじりとして使われた可能性が高いという。」(「複雑な思考回路の証拠ー南アフリカで7万年前に、精巧な狩猟具がつくられていたようだ、natute、2012年11月22日号」:雑誌「ニュートン」2013年3月号)

(続く)

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322*◎94の6『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスらの国際労働者協会の活動

2018-03-27 19:06:35 | Weblog

322*◎94の6『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスらの国際労働者協会の活動

 歴史というものは、やはり国際的なつながりから来るものの動向に期待が集まるのだろう。さて、マルクスが属していた国際労働者教会の掲げたスローガンは、「万国の労働者団結せよ」であった。しかして、この協会が行っていた活動の一端が窺える文書が残っている。その中から「アメリカ合衆国大統領、エブラハム・リンカーンへ」と題される書簡を選ぶと、これは1865年11月22日から29日の間に書記を務めていた彼らよって執筆され、その後の手続きを経て、大西洋を隔てたリンカーン宛てに送られたのだと伝わる。
 「拝啓
 私たちは、あなたが大多数で再選されたことについて、アメリカ人民にお祝いを述べます。奴隷所有者の権力に対する抵抗ということが、あなたの最初の選挙の控えめのスローガンであったとすると、奴隷制に死を、があなたの再選の勝利に輝く標語です。
 アメリカの巨大な闘争の当初から、ヨーロッパの労働者たちは、彼らの階級の運命が星条旗に託されていることを、本能的に感じていました。あの凄惨をきわめた大叙事詩のはじまりとなった諸准州をめぐる闘争は、広漠たる処女地を、移住民の労働と結ばせるか、それとも奴隷監督の足下にけがさせるか、を決定すべきものではなかったでしょうか?
 30万の奴隷所有者の寡頭支配が、世界の歴史上にはじめて、武装反乱の旗印に奴隷制ということばを書くことをあえてしたとき、(中略)、『奴隷制こそ有益な制度であり』、それどころか、『労働と資本の関係』という大問題の唯一の解決策であると主張し、そして人間を所有する権利を『新しい建物の礎石』と厚顔にも宣言したとき、そのときただちにヨーロッパの労働者階級は、南部連合派の卿紳にたいする上流階級の狂熱的な支持によって不吉な警告をうけるよりもなお早く、奴隷所有者の反乱が、労働に対する所有の全般的な神聖十字軍への早鐘をうつならすものであり、労働する人々にとっては、未来に対する彼らの希望のほかに、彼らが過去にかちえたものまでが、大西洋の彼岸でのこの巨大な闘争において危うくされているのだということを理解しました。
 だからこそ彼らはいたるところで、綿業恐慌が彼らにおわせた困苦を辛抱づよく耐えしのび、彼らの目上の人々がしっこく迫った奴隷制支持の干渉にたいして熱狂的に反対し、またヨーロッパの大部分の地域からこのよき事業のために彼らの応分の血税を払ったのであります。
 北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をけがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっているあいだはー殻らは真の労働の自由を獲得できなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。しかし、進歩に対するこの障害は、内戦の血の海によって押し流されてしまいました。
 ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級〔ブルジョアジー〕の権力を伸長する新しい時代を開いたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸長する新しい時代をひらくであろうと確信しています。かれらは労働者階級の誠実な息子、エーブラハム・リンカーンが、鎖につながれた種族を救出し、社会的世界をみちびいていく運命をになったことこそ、来るべき時代の予兆であると考えています。
 国際労働者協会中央評議会を代表して署名、略。
 ドイツ担当通信書記カール・マルクス、略。」(「マルクス・エンゲルス全集」第16巻、大月書店)
 この一文は、同11月12日に二人の評議会員ディックとハウエルの提案にもとづいて採択された。その後、同11月29日に中央評議会で採択され、ロンドン駐在のアメリカ公使アダムズを介してリンカン大統領に送られたという。1865年1月28日、リンカンの名前で返書が中央評議会へとどき、1月31日の評議会会議で読みあげられ、1865年2月6日の『タイムズ』に掲載されたという。1864年マルクスが1865年2月付のヴィルヘルム・リープクネヒトあての手紙にしち従えば、リンカーンの返書には心がこもっていたらしい。
 もとより、当時の国際労働者協会は小さな組織であったのだろうが、後段にて「アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸長する新しい時代をひらくであろう」との下りには、かれらがリンカーンに如何に期待していたかを物語る。

(続く)

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(235*165の1)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(歌舞伎など)

2018-03-26 23:39:00 | Weblog

(235*165の1)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(歌舞伎など)

 歌舞伎とは、そもそも野外で演じ手が踊ったりしながら、演じるものであった。室町時代に、演劇である狂言は、男性により演じられた。その中からか、歌舞伎というジャンルが形づくられていく。独特の仕草で、物語を演じるようになっていく。風紀を取り締まる側からの禁止の触れもあったらしいが、それをくぐり抜けて発展していく。やがては、「阿国歌舞伎」が有名だ。一座を構成して、各地を渡り歩く。京都の河原とか、主に野外において、大衆を前にして演じられる。
 「歌舞伎」の「かぶき」というのは、元々は「はみでてている」とか「常軌を逸している」との意味があり、また「かぶく」とは、世の中に乗り遅れた者のことをいったらしい。例えば、阿国一座が得意としたのは、例えば男装した役者が茶屋の女と戯れるといったところであったろうか。そんなことから、一説には「遊女歌舞伎」ともいわれていたところだ。ところがこの歌舞伎、1629年(寛永6年)頃から、女性が舞台に立ち、大衆の眼に姿を晒すのを禁じる触れが、幕府により出される。そこで、今度は「若衆歌舞伎」(わかしゅかぶき)といって、前髪をかざしての美少年たちによる芸能が出てくるなど、表向きは男性が舞台をつとめることになっていく。
 その歌舞伎が大衆演劇として確立されるのは、江戸時代の元禄年間(1688~1704)のことである。江戸時代も社会が安定してくると、人々は楽しみを求めるようになってくる。そういうことで、歌舞伎は、江戸と上方(京都と大坂)で根付き始める。江戸では、初代市川團十郎が、豪快な立ち回りで人気を博す。上方では、坂田藤十郎がやわらかな色事を魅力たっぷりに演じる。それぞれ、幟(のぼり)を立て、芝居小屋変じて劇場はここぞとばかりに興業に打って出る。
 一度幕が上がると、歌舞伎役者の付ける衣裳はど派手で、言い回しもよく声が通る案配にて、観客はあるいは固唾を呑んで黙って見守り、またある場面では、「やんや」の喝さいを送る。演じ手と観客が一体となる訳だ。
 このうち色事歌舞伎に関与したのが、近松門左衛門(1653~1724)である。彼は、1703(元禄16年)に初めての世話浄瑠璃(せわじょうるり)「曾根崎心中」を書いて大評判をとる。その後、人形浄瑠璃竹本座の専属作者に就任する。
 寛文~延宝年間(1661~1681)ともなると、江戸と大坂をはじめ歌舞伎の興行権が確立される。劇場街が形成される。江戸では堺町、葺野町(ふきやちょう)、木挽町(こびきちょう)が、大坂では道頓堀(どうとんぼり)が、さらに京都では四条河原(しじょうがわら)と大和大路(やまとおおじ)といったところ。
 この歌舞伎の宣伝に大きな役割を果たした者に、浮世絵であろう。役者絵といって、にぎにぎしい顔立ちを強調して描かれた。人気の出ている役者絵には、買い求める人ごとが押し寄せたとも言われる。裕福な観客は、劇場の中でも上席を占め、興業中は朝の開演から晩の終幕まで、酒肴(しゅこう)とともに過ごすことが広まった。

(続く)

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(234の2*165の2)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学など1)

2018-03-26 23:00:08 | Weblog

(234の2*165の2)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(文学など1)

 松尾芭蕉(まつおばしょう)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であって、その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。
 小林一茶は(こばやしいっさ)、正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。そのあまたの句中から一つ、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。その彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。
 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。
 万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。
 歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)」

(続く)

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